第6話 夜明けに向かって ③

「オーケーです。収録は完了しました。お疲れ様」


 チープ・トリックの「マイティウィング」がフェイドアウトしてゆく。リアンゼルは訝しげに防音ガラスの向こうへ眼を向けた。

 頷いて扉を指さされている。彼女は怒らせていた肩を落とすと耳からヘッドフォンを外した。

 どこか虚脱したような表情で録音ブースから出るとヴィヴィアンが肩に抱きついてきた。


「上手よ。やっぱり凄いじゃない。ね、リアン、元気を出して……」

「ありがとう。大丈夫よ。私、大丈夫だから」


 言葉とは裏腹に、青いサファイアのような瞳はどこかくすんで見える。今はプロダクションの後ろ盾もなくなったマネージャーは辛そうな顔で俯いた。

 スタジオの調整室から顔を出した若いスタッフは、そんな二人を気にした様子もなく「お疲れ様でした。こちらはこのまま編集に入りますので、レコーディング曲のデータと収録CDを明日お引渡しします」と声を掛けた。

 ロンドン郊外のワトフォードにある小さなビル。

 そこは、演奏機材を揃えた防音室や子ども向けの音楽教室、小さなホール等、音楽関連の設備を備えた多目的ビルだった。

 年季の入ったビルは壁面に蔦が絡まり独特の風格を感じさせたが、子供を連れた母親の一団や市民コンサートを聴きに来た老夫婦、パンクファッションのロックバンドなど様々な人々が出入りしているので、音楽を愛好する者が集まるインフォーマルな場所となっていた。

 リアンゼルとヴィヴィアンはそんなビルの一室にあるレコーディングスタジオへ、その日ブリテッシュ・アルティメット・シンガーで歌う曲の収録に訪れていたのだった。


「去年のあなたとは違うもの。リアン、自信を持って。きっと優勝出来るわ」

「ええ。でもそれだけじゃ駄目なの」

「リアン」

「あのブタ野郎とウジ虫エメル……アイツらを地獄に落としてやらなきゃいけないの、絶対に」

「……」


 休憩室のソファに座り込んだリアンゼルは、愛用のソリッドギターを引き寄せて手すさびにチューニングを始めた。

 調整した音は正確だが、夢遊病のような手つきは覚束なげだった。表情も半ば夢でも見ているように眼の焦点がどことなく合っていない。

 だが、見ているのは決して楽しい夢ではないのだ。彼女は陰惨な夢で疲れているように見えた。

 それでもリアンゼルは憎むことをやめようとはしない。

 時折何かを思い出したように手を止める。そして激しい憎悪に顔を歪めては「殺してやる……殺してやる……」とつぶやくのだった。

 彼女の傍らに寄り添うヴィヴィアンは、そのたびに唇を震わせた。

 だが、何度も何か言葉を掛けようとしては躊躇い、結局は何も言えないまま俯くばかり。もうずっとリアンゼルを諫めることも慰めることも出来ないままでいる。

 心を痛めるマネージャーもまた、疲れ切っていた。

 と、そんな二人の目の前に二つの紙コップが差し出された。


 紙コップの紅茶に似つかわしくない、気品ある芳香が漂ってくる。それは、とっておきのお茶を飲む時にだけ嗅いだ覚えがあった。

 黙って紙コップを差し出した男を見返したヴィヴィアンは弱々しく微笑んで、香りの正体を答えた。


「フォートナム・アンド・メイソン」

「ご名答。もっともイギリス王室御用達のお茶にふさわしいティーカップはあいにくここになかったものでね」


 笑いながら気障に片目をつぶった男の手から、ヴィヴィアンは片方の紙コップを受け取った。

 もう片方の紙コップを差し出しながら男は笑いを含んだ声でリアンゼルに言った。


「憎しみに燃えてる」


 リアンゼルは、ゆっくりと顔を上げて男を見た。

 髪に白髪が混じった五〇代ほどの年齢らしい男。面識はなかった。

 笑顔だが、その灰色の瞳には明らかに軽薄さと異なる何かが見て取れる。

 音楽を気軽な趣味にしているようには見えなかった。何か厳しい信念を持って音楽に携わっている男だと、彼女の直感が告げていた。


「ええ。おかげで暖かいわよ」

「まだ寒いからね。でも無理に暖を取らなくても、もう冬は終わる。今度君が歌う舞台は早春に開かれるはずだ」


 リアンゼルの皮肉に暗示めいた言葉を返して、男は対面のソファにどさりと身を投げた。


「その頃には暖かくなっているといいわね」

「君の歌次第だろう。黒歌鳥(ツグミ)は美声で春を呼ぶというからな」

「お上手ね、ありがとう」


 少しだけ頬を緩ませてリアンゼルは微笑んだ。

 だが、警戒している彼女の瞳は決して笑っていない。


「あなた、ここのスタッフとかアマチュアミュージシャンじゃないでしょ」


 リアンゼルの詮索を受けても男の含み笑いは消えなかった。


「マネージャー共々推理が冴えてるね。隣のスタジオで依頼された曲の収録をしていたよ。さっき終わったばかりさ、ホームズ君」


 すると、この男の正体は作曲家かディレクターなのだ。

 興味なさげに脇を向いたリアンゼルの瞳の奥が一瞬、鋭い光を放った。


「お疲れ様、モリアーティ教授(※シャーロックホームズの小説に登場する好敵手の犯罪王)。私の憎しみとやらに共感してくれたら今度何か曲を作ってちょうだい。人を呪い殺せる歌を作ってくれたらお礼は弾むわ」

「リアン」


 リアンゼルの言葉にヴィヴィアンが慌てて割って入ったが、男は面白そうに笑った。


「僕は作曲にはいささか自信があるが、あいにく呪術には腕に覚えがないものでね。傷心の歌姫に同情出来ないこともないが、残念だがご要望にはお応えできないな」


 思わせぶりな口振りに、リアンゼルは首を傾げた。

 傷心の歌姫などと呼ぶからには自分について何か知っているのだろうか。それとも興味があるだけで当て推量に話しかけてきたのだろうか。

 黙ったままのリアンゼルと彼女を見つめる男の間をとりなすように、ヴィヴィアンが男へ話しかけた。


「美味しいお茶をありがとう。私たち、今日はレコーディングに来たんです。もうすぐブリテッシュ・アルティメット・シンガーが開催されるから、オーディション用の曲を……」

「ええ、さっき発声テストの歌を聴かせてもらいましたよ」


 疲れた様子のヴィヴィアンを労わるように優しく微笑みかけると、男はこっそり一人ごちた。


「いい声をしている。なるほど、あの雷親父が黙って見守ってなどいられない訳だ」


 リアンゼルの訝しげな視線など気にも留めず、男はヴィヴィアンへ気さくに話しかけた。


「オーディションの受付はもう始まったようですね。早くも沢山の娘が応募してきたと、事前審査をしている友人から聞きました」

「そうなんですか」

「冷やかしも多いが、今年は誰かが優勝する気がします。まだそんな娘は応募していないようだが」

「これから応募してくるのでしょうね」


 オーディションの事前審査くらいなら間違いなく通るだろう。

 だが、その先を憎悪に染まった今のこの歌姫は勝ち抜けてゆけるのだろうか……

 待ち受けるオーディションの見通しを思い、ヴィヴィアンの顔は曇ってゆく。

 その顔を見て男は何か言いかけ、口をつぐんだ。

 そして、しばらく考え込むと何か思いついたらしく、話題を変えた。

 いかにも、何気なさそうな口調で。


「そういえば、今日の仕事とは別にオーディション用の楽曲を頼まれていましたが、昨日ようやく納品しましたよ」

「それもブリテッシュ・アルティメット・シンガーに向けた依頼でしたの?」

「ええ。歌い手の経歴が面白かったな。ハーフの少女で、何でも売られた喧嘩を買ったのがそもそも歌手を目指す切っ掛けだったらしいが」


 おや、どこかで聞いたことのある話だとヴィヴィアンは思った。

 だが、どこでだったろう……と思い出す前に、男の言葉で気が付かされた。


「自称プロデューサーの日本人がついていましたが、ずいぶん変わった男でした」

「日本人?」


 間違いない、あの男だ!

 ヴィヴィアンはハッとして振り向いた。

 リアンゼルは興味なさげにさっきからそっぽを向いている。男とヴィヴィアンから、その表情は伺い知れなかった。

 男は知らぬ気に続ける。


「有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした」


 ヴィヴィアンは「まさか……そんな人だったんですか」と、目を丸くした。


「だが驚いたことに素人と思いきや、玄人はだしの熱血漢でした。驚かされましたよ」

「……」

「ガルシアへの書簡を託せる男(※己の叡智と努力だけで仕事を成し遂げる男という意味)というのはいるものですね。なるほど、いい眼をした歌姫が育つ訳だ。どんな歌を聴かせてくれるのか、今から楽しみです」

「期待されているんですね」

「ええ。情熱なしに人の心を震わせる歌などあり得ない。嘆かわしいことに今のイギリスは、プロの癖にそんなことも知らない歌手や作曲家が多くなってしまったが」


 ヴィヴィアンは思い返した。

 クリスマスを間近に控えたあの日、雨の中泥だらけで失意に打ちひしがれていた男。みすぼらしい身なりで、話しかけた自分をうろんげに見つめていた。

 だが、やはりただの男ではなかった。

 あの歌姫を育て上げた強靭な意思で立ち直り、イギリス最大のオーディションへ挑戦してきたのだ。

 申込書を手渡した自分の思惑どおりに……

 そう思った彼女は、男の次の言葉に更に驚かされることになった。


「先月、呼び出した私に自分の全財産を差し出して、子飼いの歌姫にふさわしい歌を作ってくれと言ってきました。生まれて初めてでしたよ、そんな依頼を受けたのは」


 ヴィヴィアンは息を呑んだ。何という鉄の心臓を持った男か!

 思惑通りどころか、全てを賭けるほどの自信と情熱を持って彼は挑んできたのだ。


「凄いですね……」


 つぶやくのがやっとだった。

 そんな彼に比べて自分はどうだろう。愛する歌姫を正しく導くことすら出来ずにいる。

「私なんて……」と、思わずうなだれたヴィヴィアンの声は震えていた。男は慰め顔で口を開く。

 だが、彼が何か言う前に、リアンゼルが彼女の肩に手をまわしてそっと抱き寄せた。

 柔らかい吐息を漏らすと、耳元に唇を寄せる。


「大丈夫よ、ヴィヴィ。あなたは負けてなんかいない」

「リアン」

「あなたはずっと私を支えてくれた。プロダクションに捨てられたこんな私を信じてくれた」

「……」

「私が絶対負けさせない……心配しないでいいの。大丈夫」


 ささやくと、リアンゼルはヴィヴィアンの頬にそっと唇をつけた。

 天使のように優しく慰さめる様子は、憎悪に顔を歪めていたさっきとは別人のようだった。

 そのまま彼女はふらりと立ち上がった。


「外の空気を吸ってくるわ」


 そう言うと、リアンゼルは男へ「私がいない間にヴィヴィに手を出したらこうよ」と親指で首を掻き切る仕草をして見せた。

 男はわざとらしく怯えた声を上げてのけぞってみせた。ヴィヴィアンは「リアンったら!」と、目を白黒させている。


「リアン、切り裂きジャックみたいな真似をしないでちょうだい」

「神に誓って君の愛するマネージャーへ不埒な真似などしないよ」


 泣き笑いのマネージャーと苦笑いの男を見て、リアンゼルはクスッと笑った。


「だったら、さっきのモリアーティ教授の汚名は謹んで撤回させていただくわ」


 思わず顔を見合わせた男とヴィヴィアンは声を合わせて笑った。


「じゃあ、行ってくるわね」


 お茶目にウィンクしたリアンゼルが扉の向こうへ姿を消すと、男はつぶやいた。


「不思議な娘だ。怨讐と童心、憎悪と慈愛が混淆した歌姫か」

「リアンゼルのこと、ご存じなんですか?」


 ヴィヴィアンはおずおず尋ねた。テーブルに置いたコップは空になっている。

 男は婉曲的に答えた。


「あの男に作曲を依頼された席で言いました。今までの経緯を全て教えろと。彼は話してくれましたよ、何もかも。一年前の発端、公園でハーフのクラスメイトをいじめていた、自称天才歌手のこともね」


 穏やかな声だった。そこに非難するような響きはなかった。

 それでも、ヴィヴィアンは声を詰まらせ、軋るような声で告白した。


「生意気な敵を潰してやるんだとリアンが努力を始めた時は、そんな動機でも嬉しかった。自惚れてばかりで何もしていなかったあの娘が見違えるほど変わってゆくのが、自分のことのように嬉しかった」


 膝の上に置かれた手は、きつく握りしめられている。


「子供じみた意地や憎悪なんて本物の歌手へ近づけば自然と消えてしまう、そう思ってた。なのに……なのに……」


 自分が話す言葉に気が付いて、ヴィヴィアンは怯えたように男の目を見た。

 男は分かっているというように小さくうなずいて、無言で促している。


「こんなに歪んだ怒りで染まってしまうくらいなら、早くデビューさせてあげればよかった。あの娘は、今ではライバルを殺したいほどの憎しみを糧にして歌っている。私、どうしたら……」

「どうもしなくていい」


 僅かな間をおいた返答は、拍子抜けしそうなくらい、こともなげだった。


「彼女は自ら答えを見つけ出すだろう。あの瞳は闇に染まりきってなどいない。夜明けが来るように、やがて心に光が差して闇は消え去る」


 まるで予言でも告げるように男は言う。


「あなたはただ、傍にいてあげればいい。余計と分かっていてお節介を焼く人もいることだし」

「え?」


 男は脇に置いた革のカバンから、小さな事典ほどの大きさをした包みをテーブルに乗せた。


「これは?」

「さっきまでそこで作っていた、あの娘の為の曲ですよ。ヴィヴィアン・ラーズリーの好敵手がピクシー・スコットへ作曲を依頼した、という話を聞きつけたとある男が依頼主です」


 依頼主を尋ねるヴィヴィアンの視線に、その男……ピクシー・スコットは「名前は絶対明かすな、と言われました」と苦笑した。


「リアンゼル・コールフィールドの熱心なファンだそうですよ。ライバルに負けない素晴らしい曲を作ってプレゼントしてくれ、と」


 無名のリアンにファンなんているはずが……そう言いかけたヴィヴィアンは、思わず叫び出しそうになった口を両手で覆った。

 一人だけ、思い当たる人物がいたのだ。


「エメル・カバシの為に依頼された仕事を私がブログなんかで書いたものだから、居ても立ってもいられなかったらしい。聞いてもいないのに、これは自分のポケットマネーのすべてだ、と顔を真っ赤にして何度も言い訳していました」


 泣きそうになった顔を背けたヴィヴィアンへ、スコットは優しく語りかけた。


「あなたはこう言ったそうですね。“あの娘はもっと大きく成長する、立派な歌姫へ変身する”と」


 肩を震わせたまま、ヴィヴィアンはうなずいた。


「きっと信じているようになりますよ。今の憎悪が瘡蓋のように剥がれ落ちて歌いだす時が来るはずです」

「……」

「この歌がそうなればいいんだが。カバーアレンジの許諾や権利料の交渉で時間を喰ったが、今日に間に合ってよかった。オーディションの舞台で歌わせてあげて下さい」

「ありがとうございます……ありがとう、メイナード……」


 スコットは、泣いているヴィヴィアンを励まそうと彼女の肩に手を伸ばしたが、寸前で慌てて引っこめた。


「おっと失礼。あなたに下手に触ったらあの娘が歌姫どころか殺人鬼に変身してしまうんだった。あぶないあぶない……」



**  **  **  **  **  **



「へぷしゅっ」


 可愛らしいくしゃみをしたリアンゼルは「あら、風邪でもひいたかしら」と、つぶやいた。

 ビルの隣にある小さなスペースは猫の額ほどだった。公園と呼ぶのが憚られるくらいのささやかな広さしかない。

 造園されて間もないらしく、ペンキ塗りたての小さなベンチがひとつあるきりだった。その傍に、幼児の背丈ほどのモミの木が一本植えられている。

 彼女はコートの襟を立ててベンチの傍に佇み、小さなモミの枝が冬の風に身を震わせる侘しい様をしばらく見つめていた。

 だが、冷たい風に身を晒しても虚無にとらわれた気持ちは一向に晴れない。

 自分のプライドが粉微塵に砕け散ったあの日から、ずっとだった。


 ……だが、憎悪を杖にして歌い続けてきた自分が、今さら憎しみ以外の何にすがる?


 リアンゼルは黙って首を振ると踵を返し、ビルの中へと戻った。

 もう日も暮れかかっているので、エントランスの人影はまばらになっていた。彼女はそこから離れた一角にあるレコーディング用のスタジオへと歩いてゆく。細長い廊下に沿って部屋が四つ並んでいて、その一番端の部屋を借りているのだ。

 リアンゼルは、ふと、その隣のスタジオを借りた誰かが無人のまま放置していることに気が付いた。部屋の灯りが付きっぱなしなのだ。

 目をやると、ドアのプレートに利用者の名前がマジックペンで手書きされている。


「ピクシー・スコット?」


 聞き覚えがある名前だった。ディファイアント・プロダクションでAクラスの歌手にのみ依頼が許された作曲家。

 クビになるまでの間、リアンゼルには作曲を依頼する資格がなかった。無論、会う機会も。

 口惜しさと羨望からリアンゼルはその名前を憶えていた。

 さっき自分たちに紅茶を振る舞い、思わせぶりに話しかけてきた男の顔をリアンゼルは思い浮かべた。


(憎しみに燃えてる)


 憎悪を友に必死に歌い続けてきた彼女の行き着く先を知っているような、静かな微笑み。

 それが、ずっと彼女の心の中に引っかかっていた。

 もしかすると彼自身が同じような憎しみに囚われたことがあるのかも知れない。そうやって歌う先に今の自分を見い出したとでもいうような……では、あの男がピクシー・スコットだったのか。

 彼はどんな曲を作っていたのだろう。

 リアンゼルは分厚い防音ガラスの向こうへ視線を向け、ドアにそっと手を掛けた。

 鍵はかかっていなかった。

 そのまま中に入るとミキシングコンソールの卓上に音響の設定らしいパターンを書き殴ったメモが散らばっているのが目に付いた。

 スコットがここで自分の為に作曲していたことを、リアンゼルは知る由もなかった。

 周囲を見回すが、手掛かりらしいものは結局見当たらない。

 脇に電源が入ったままのノートパソコンが置いてあった。スクリーンセーバーも設定されていない画面はデスクトップ剥き出し。その画面をリアンゼルは覗き込んだ。何気なく。

 そう、彼女は何気なく覗いただけだった。

 だが、そのときリアンゼルは、そこで偶然見つけた「あるもの」に眼を惹き付けられた。

 たくさん置かれたフォルダ。そのひとつに、こんなフォルダ名が付けられていたのだ。


 “エメル・カバシ、ヤスキ・ハルモト依頼分”


 スコットはエメルとデブオタに作曲を依頼された、と先ほど話していた。今更驚くようなことではない。

 彼女の注意を惹いたのは、因縁深いあのデブオタの名前を初めて見たからだった。

 そして、リアンゼルはすぐにスコットが話していたことを思い出した。


『有名なプロデューサーの名を騙っていたが、本当は音楽の仕事に携わったことなどない男でした』


 偽りの名前であることを思い出した、そのときだった。

 ふいに、まるで悪魔がささやきかけたとしか思えないような企みが、リアンゼルの心の中に浮かんだのである。


 ――もし、本物のハルモトヤスキへ奴が名前を偽っていることを密告し公にさせれば、歌で戦うことなく二人を潰すことが出来る――


 リアンゼルは、思わず怖気をふるった。


「な、何をバカなことを……!」


 思わず、吐き捨てるようにつぶやくと、その言葉を誰かに聞かれたような気がして慌てて周囲を見回した。

 人の気配はない。

 もし、いたとしても防音壁で仕切られた部屋の中のつぶやきなど聞かれるはずなどなかった。

 なのに何か目に見えないものに聞かれた気がしてリアンゼルは恐ろしくなり、スタジオから飛び出した。

 エリザベス女王陛下の御名にかけて正々堂々と歌で勝ち、歌手になると宣誓したはずの自分が、そんなこと出来るものか。すべてのイギリス人が敬愛する御方の名を汚すような卑劣な真似を!

 そう思って、ようやく乱れた息を整えると隣のレコーディングスタジオへ戻っていった。

 だが、笑顔のヴィヴィアンに迎えられても、彼女の心に憑りついた悪魔の誘惑は離れようとしなかった。


「リアン、どうかしたの? 顔色が良くないわ」

「何でもない。外がね、ちょっと寒かったの」


 自分の心の内を見透かされそうな気がして、リアンゼルはヴィヴィアンとスコットの顔をまともに見ることが出来なかった。

 だが、部屋を離れる前からずっとソッポを向いていた彼女を二人とも別段不審に思わなかった。


「そう。じゃあ、そろそろお暇して早めに帰りましょう」

「え、ええ……」


 そしてその晩。

 自宅の部屋で、リアンゼルは何度も躊躇しながら愛用のスマホを取り出した。

「ハルモトヤスキ」をキーワードに検索を掛ける。

 恐ろしいことを始めた自覚に手は震えている。なのに、目は画面から離れようとしない。

「ハルモトヤスキ」は、日本では有名な音楽プロデューサーだった。百万近い検索件数がヒットし、リアンゼルを驚かせた。

 検索順位のトップは事務所のコーポレートサイトだった。アクセスすると綺麗なガラス張りのビルと本人の上半身像が表示されたトップページが目に飛び込んできた。

 春本ヤスキ。

 太い黒ブチ眼鏡をしたやや太り気味の男だった。五〇代半ばらしい風貌だが冷ややかな視線は、超一流のプロデューサーというより冷徹な事業家を思わせた。

 そして、デブオタとはまったくの別人だった。

 ホームページの言語を日本語から英語に切り替えると彼の自己紹介を読むことが出来た。

 仕事のオファーや相談を受け付けるメールフォームの下には電話番号が記載されている。

 その電話番号を見たとき、悪魔がささやいた。


 “ほら、これよ。あなたが探しているものは……”


 彼女の心臓がビクンと跳ね上がり、そのまま鼓動を早鐘のように打ち始めた。

 リアンゼルは自分が自分でない誰かに操られている気がした。


 私、今何をしようとしているの……


 だが、震える手で何度も番号を押し間違いながら……彼女はとうとう電話を掛けてしまった。


『……! ……!』


 秘書らしい女性の声が日本語で応答する。言葉の意味は皆目分からない。リアンゼルは日本語を知らないのだ。彼女は英語で話しかけた。


「I...I am British Reanzul Caulfield. Can you speak English? (私は……イギリス人のリアンゼル・コールフィールドといいます。あなたは英語を話すことが出来ますか?)」


 英語が通じなかったら話など出来ないのだ。そのまま電話を切ろう……そう思っていたのに、女性はすぐに流暢な英語で『Yes. I can speak English. What kind of business did you call by?(はい、話せます。どういったご用件ですか?)』と応じた。


「用件は……まもなくイギリスで開催されるブリテッシュ・アルティメット・シンガーのオーディションについてです」

『はい。それで?』

「ある人物がいるのです。春本ヤスキという名前を騙って、オーディションに歌手を出場させようとしているプロデューサーが……日本人が……それで、その、私は……」


 熱に浮かされているようだった。自分が何を言おうとしているのか自分でも分からない。

 電話の向こうはしばらく沈黙すると、いきなり男性の声が女性に取って代わった。


『ハロー、ミズ・コールフィールド。聞こえますか? 私はヤスキ・ハルモトです』


 外国人とも頻繁に話す機会が多いのだろう。撥音の分かりやすい英語で春本ヤスキ本人が話し掛けてきた。


「イエス、聞こえます……」

『お電話ありがとう。今、あなたが話してくれたことは私にとって非常に重大です』

「はい」

『何故なら私の名前を偽ってビジネスをすることは不正行為で、詐欺によって収入を得ているなら、それは明らかな犯罪だからです」


 犯罪という言葉を聞いて、それまで逆上せていたようなリアンゼルは、今度は凍り付いた。


「イギリスでも日本でもそれは同じです。だからあなたの告発は非常に重大なのです』

「……」


 密告しようとしている話と男の話す内容に、リアンゼルはあきらかな違和感を感じた。

 詐欺、という言葉に彼女が思い浮かべたのは、デブオタのみすぼらしい身なりだった。

 今にも擦り切れそうな服やテープを巻いて補修した靴、汚れきったペラペラのジャケット……詐欺によって収入を得ているなら、そんな身なりなどしているはずがないのに。

 エメルを虐める自分を虐め返し、コケにした男。

 天才であるはずの自分をあざ笑った許せない男。

 だけど……


(あの男は詐欺など働いていない)


 それだけは間違いなかった。リアンゼルは、何か目の前に掛かっていたベールが取れたような気がした。


『ミズ・コールフィールド、詳しい話を聞かせていただけませんか?』

『……』

『ミズ・コールフィールド』


 詰め寄る声の厳しさが、浅ましい行為へ足を踏み出しかけたリアンゼルを正気に返らせ、踏み留まらせた。


「ノー、ごめんなさい! わた……私の勘違いでした!」


 叫ぶように言うとリアンゼルは電話を切った。

 紛れもなくいま、自分は人を売ろうとしていた。気がついたリアンゼルはガタガタを震えだした。


 ――何故、躊躇ったの? 殺したいと、それほど憎んでいる相手だったのでしょうに? どんな卑劣な手段でも使ってでも……


 あの悪魔のささやきがまた聞こえたような気がした。


「嫌よ! 私、卑怯者になんてなりたくない。なるものですか!」


 我知らずリアンゼルは叫び返した。

 僅かな間をおいてリダイヤルで電話が掛かってきた。聞きなれたはずの着信音なのに、怯えてきったリアンゼルは思わず飛び上がった。

 掛かってきた番号はさっき自分が掛けた電話番号である。日本から春本ヤスキが電話してきたのだ。

 蒼白な顔のまま、リアンゼルは慌ててスマホの電源を切った。


「違うの。憎いけど、殺したいけど、私は……私は……」


 正々堂々と歌いたいの、歌の力で勝ちたいの。

 つぶやくと、リアンゼルはそのまま崩れるように膝をつき、両手で顔を覆った。

 怯え、惑う中で憎しみが薄れ、消えていきそうな気がする。

 だけど、そうしたら自分は何にすがって歌えばいいのだろう。


 夜明け前の闇の中で、彼女の不安に答えてくれる声はまだどこからも聞こえてこなかった……

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