終章

 異才の一族たちに降りかかった凄絶な一夜から、幾日かが過ぎた。

 柊一は明け方の眩しい日に目を細め、欠伸をした。

 結局、感染者だと警戒して声をかけた占い師もどきの女は、PPVに感染していなかった。もちろん、鬼や悪魔も絡んでいない。連続切り裂き魔を捕まえ、手柄を立てたところまでは良かった。

 問題は、その後に一報の入った、叡祥学園の事件である。死傷者多数。数日経った今も、事件の全容は掴めていない。誰が誰を殺したのかも、その目的も。単なる眞族と夕族の抗争と乱暴に片づけることもできたが、彼らの近くにいた柊一は、そんな結末で納得できるはずもない。情報を求めて駆けずり回っていたせいで、満足に睡眠もとっていなかった。

 だから、電話でその話を聞いた時、柊一は自分が夢の中にいるか、幻聴を聞いているのではないかと疑った。ともかく、タクシーを拾って現場に急ぐ。

――神々夕妃の家が、凍って倒壊した。

 電話の向こうの捜査員は、そう言った。この目で見たにも拘らず、自信がなさそうな口ぶりで。

 堅牢な塀と広大な庭をもつ神々家の屋敷には、既に人だかりができていた。野次馬をかき分けて、柊一は門に近づく。そこから覗き込むだけで、異常を認識するには十分だった。美しいが尊大だった二階建ての家屋が、数本の柱を残してなくなっている。周囲には、壁の残骸らしきものが散らばっていた。

「住人の話だと、明け方に突然轟音が聞こえて、ぼろぼろと崩れていったそうです。中に人はいなかったようで、今のところ怪我人の報告もありません。信じられないことですが、瓦礫は驚くほど低温で、素手で触れると痛いほどだったと……」

 困惑を隠さず、駆けつけた捜査員は説明した。その間も、春にしては冷たすぎる空気が、こちらに流れてくる。もう十分だと、柊一は遮った。凍りついたと聞いた時点で、誰がやったのかなど自明だ。

 千尋は、消えるつもりだ。当初の目的通り夕妃を殺し、邪魔だった人間を殺し、痕跡を消して。柊一は疲労の溜まった足を引きずるようにして、夕妃の家を離れた。

 野次馬の姿はあったが、世間の大半の人間はまだ眠っている。よく晴れた、爽やかな朝だった。

 当てもなく歩き、小川にかかった古ぼけた橋を渡る。この辺りから、緑と土の匂いが濃くなっていく。並んでいた家が点在する程度になり、やがてうっそうと茂る山と寺社が現れる。特に信仰する宗教のない柊一にとっても空気が神聖に感じられ、ささくれ立つ気持ちがわずかに宥められた気がした。

 どこかで、猫が鳴いていた。低い割に妙に通りの良い声で、柊一は思わず首を巡らせて猫の姿を探した。

――いた。神社に続く階段の途中だ。小さな鳥居から数段下に座り、鳴き続けている。

 格別美しいわけでも、可愛らしいわけでもない。ふてぶてしく、あまり人の受けは良くなさそうだ。しかし不思議と、柊一はその猫が無視できずにいた。視線を逸らさず、柊一をじっと見ているからだろうか。

 猫は意味ありげにもう一鳴きすると、身を翻して階段を上っていった。ついて来いと言っているかのように。柊一は酔狂だと自嘲しながらも、石段を上る。風を受けた木々がざわめき、時折、木漏れ日が柊一をまだらに照らした。

 鳥居をくぐり、砂利を敷き詰めた境内に立つ。木々に囲まれた境内は薄暗く、湿っていた。黒猫はと見れば、賽銭箱の前で居住まいを正し、柊一を見上げていた。せっかくだからお参りでもと足を踏み出した柊一は、自分のものではない靴音を聞いた。背後からだ。まさかと思いながら振り返れば、この数日間捜し続けたその人物が、立っていた。

「千尋、お前……」

 続く言葉が見つからなかった。さて、彼に会って自分は何を言うつもりだっただろうか。結局、口をついて出たのは、どうでもいい内容だった。

「お前、家どうするんだよ。住むとこないじゃねえか」

「いい機会だから、引っ越そうと思って」

「だからって、引っ越しと同時に家解体するやつがどこにいるんだよ」

 ここに、と答えた千尋は、柊一の生真面目なツッコミが面白かったのか、微かに口元を綻ばせた。笑った、のだろうか。そうだとすれば、彼の両親が死んでから初めてのことだ。

 千尋の雰囲気が変わったことに、柊一は気づいた。憑き物が落ちたような顔をしている。

「たぶんお前が知らない情報だ。朗報と、凶報がある。どっちを先に聞きたい?」

柊一は千尋の状態を探るため、あえて揺さぶるような質問を投げた。

「正直なところ、今は何も聞きたくない」

 疲れたように、千尋は顔を俯けた。疲弊しているのは、演技ではなさそうだ。しかし、伝えないわけにもいかない。

「まず朗報だ。九鬼紗矢が、一命を取り留めた」

 あからさまにほっとした表情を浮かべておいて、千尋は自分には関係のないことだと言った。

「シュウにとっては、朗報だろうけどね」

「……どういう意味だ?」

 心臓がどくりと跳ねた。千尋はコートの懐に手をやり、ポケットから二つの物を取り出した。

「これ、返す」

「おい、拳銃はいいとして、いや良くはないが――どうして俺の携帯をお前が持ってるんだよ!」

 動揺する柊一を尻目に、千尋は淡々と説明する。拳銃は紗矢が倒れていた近くにあったので、拾って修復したこと。携帯電話は、感染者疑いの占い師騒ぎの時、柊一のポケットから掠め取ったこと。

「ごめん、確信が欲しかったから」

「確信……じゃあ、気づいていたっていうのか? 俺と彼女が、繋がっていたことを」

 いつの時点だ? 柊一は記憶を辿ったが、まったく思い当たる節がなかった。

「前に俺が警察署でシュウと対策を話し合った時、草灯屋のカツサンドの箱があった。あれを差し入れたのって、九鬼先生でしょう? ちょうどあの日、九鬼先生が差し入れ用に買ったって言っていたから」

「確かに、一度そんなことがあったな。でも、あそこのカツサンドは人気だから、偶然ってこともあるだろ」

 自分と紗矢の関係を疑うには、少々強引に思える。

「シュウはあれを、一個二百五十円だと言っていたけれど、本当は一個二百円なんだ。なぜ、そんな計算になったのか。そう考えて、気づいた。五個入りで千円のカツサンドが、四個の状態で渡されたんじゃないかって」

「ああ、そうだ。四個だった。俺は一箱が千円ちょうどっていう値段は覚えていたから、それを四で割って――あ、あいつ!」

 気づいた柊一に、千尋は頷きかける。

「そう、九鬼先生は自分用に買った分だけじゃ足りなくて、差し入れの箱から一個、食べたんだろうね」

「……そんなことからばれるとはな」

 食い意地の張った紗矢への呆れももちろんあるが、そんな細かいところから真実に辿り着く千尋には脱帽だ。しかし、と少々意地の悪い気持ちで柊一は聞いた。

「お前の読み通り、俺の携帯には九鬼紗矢の連絡先が入っていた。でも、プライベートで付き合いがあった可能性もあるだろう?」

 いわゆる恋人同士だった場合だ。

「それはない」

「なぜ?」

「九鬼先生は、シュウの好みからかけ離れているから。高校の時から一貫して、シュウは大人しくてか弱い感じの……」

「わかったわかった、もういい!」

「それに、偽名で連絡先を入れる必要もない。しかも“遠藤”って、紗矢だからえんどうって……」

「だから、俺が悪かったよ! お前実は、怒ってるだろう」

 別に、と千尋は顔を背けたが、不満げではあった。仕切り直すために、柊一は真面目な顔を作って尋ねる。

「俺に怒って、あんなことしたのか? その、拳銃に細工をしたり、あの占い師をけしかけたり」

 千尋はそこに答えが落ちているかのように、足元の砂利を見ながら答えた。

「シュウが信じられなくなる前に、遠ざけたかったんだと思う。シュウと九鬼先生――眞族との繋がりを確信しても、事実をシュウに突きつけられるのが、怖かった。それに、夕妃様を殺させるわけにはいかなかった」

 柊一はようやく、自分と紗矢が裏で手を組んでいたことを知って、千尋がショックを受けたのだと気づいた。考えてみれば当然だ。親友だと思っていた人間に裏切られれば、誰だって傷つく。

「……騙していて、悪かったよ。でも、俺は神々夕妃をお前から引き離すことが、お前のためになると思ってたんだ。それは、思い違いだったんだな。お前にとっても、彼女にとっても」

 千尋は俯いたまま、気にすることはないというように首を振った。

「元はといえば、巻き込んだ俺のせいだ。今までずっと、俺の知り合いだという理由だけでこんな仕事をさせて……シュウも、もう異才から離れた方がいい」

「それが、そうもいかないんだ」

千尋が怪訝そうに、柊一を見た。

「凶報がまだだったな。鳴神那奈姫が、逃亡した」

 驚きに目を見張る千尋に、柊一は微かな優越感を覚える。

「眞族の施設で拘束、監視はしていたが、忽然と消えたそうだ。あるいは誰かが手引きしたのかもしれない」

柊一は続けて問いかけた。これが一番聞きたかったことだ。

「彼女のことはともかく、これから、どうするつもりだ?」

 千尋は拍子抜けしたような表情で、首を傾げた。

「俺を、捕まえるつもりじゃないの? 殺人容疑で」

 まさか、と柊一は薄く笑った。

「証拠もないのに逮捕なんてできないさ。悪魔の力を借りて人を殺したって? そんなもの、立証しようがない」

 言葉に嘘はなかった。しかし、彼を見逃すための口実にしていることも、柊一は自覚していた。以前、警察官が事実を捻じ曲げるなど言語道断と言い切った自分が、情けない。

「しばらくは、どこか静かなところでひっそりと暮らすよ。――二人で」

 千尋は穏やかな顔でそう言った。愛おしげに目を向けた先に、あの黒猫。

「……千尋?」

 正気か危ぶむ柊一に、千尋は口の端を吊り上げて笑う。夕妃に似た笑い方に、どきりとした。

「ねえシュウ、自分の考えていることが、本当に自分の意思だって、どうやって確信できる? 自分が正常だという確証は、どこにある? 人は簡単に、狂気に飲み込まれる。ウイルスとは無関係に」

 身の内から生じた寒さに、柊一は身を震わせた。

 黒猫が、寄り添うように千尋の足元に立った。

「千尋、教えてくれ。あの日、何が起きた? 発端は、どこにあったんだ?」

 突如吹きつけた冷風に、柊一は腕で顔を庇う。

 目を開ける頃には、彼らの姿は消えていた。

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ダークサイド・ゴシック 小松雅 @K-Miyabi

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