第7話 裏切りのカタストロフ
遠野歩は、明け方のほの暗いベッドの中で輾転としていた。起きる時間にはまだ早いが、頭が冴えて眠れそうにない。ゆっくりと寝返りを打ち、部屋の天井を見上げた。数十年にわたり寮生が暮らしてきた部屋の壁には、黒っぽい染みが点々と浮かんでいる。学園に戻ってきたことを実感し、歩はため息をついた。
あっという間に、一年が過ぎようとしている。
親元を離れて寮生活を初め、緊張の連続だった。神経質な性質で、一人の時間が少ないことで少々窮屈な思いもしたが、友人と適度な距離を保てば、案外楽しめるようになった。自分の性格上、このまま真面目に勉強を続け、そのうち受験をして、卒業するのだろう。そんな未来を、疑ったことはなかった。アクシデントなんて、想定していなかった。
すべては、あの日の出来事のせいだ。もう二月以上も前のことなのに、まだ胸の中で燻っている。
あんな結果になるとわかっていたら、絶対に告白なんてしなかった。クリスマスの浮かれた空気に流され、淡い期待を抱いていた自分が、馬鹿みたいだ。
わかっていたはずなのに。自分が地味で暗くて、色恋沙汰に向かないことくらい。
――あれ、鳴神さんは?
モミの木の下に現れた彼は、そう言った。おそらく那奈姫は、ただあの場所に来るようにと伝えたのだろう。それを勝手に勘違いしたのは、彼だ。
思っていた通りの、優しい人だったと思う。呼び出した相手が歩だとわかっても、あからさまに落胆は見せなかった。でも、理解するには十分だった。勘違いしたのは、彼の中に願望があったからだ。気づいた途端、自分の身体がすっと冷えていって、凍りついてしまう前に慌ててその場を逃げ出した。
今となっては、那奈姫が憎らしい。彼女が余計なことをしなければ、傷つくこともなかった。
那奈姫には、彼は他に好きな人がいるようだとだけ伝えた。それが誰かまで教えなかったのは、言えば殊更惨めになると思ったから。たとえ教えても、彼女には意中の相手がいる。自分を振った相手を那奈姫が振るなんて、これ以上情けないことがあるだろうか。
結局、自分が駄目なのは、こういう陰湿な部分があるためだろう。未だに、那奈姫に会えば自尊心が悲鳴を上げる。何でもない顔をするのが、ひどく苦痛で、疲弊している。那奈姫は変わらず無邪気に、歩に笑顔を向けているのに。
――本当に、そうだろうか。
腹の底では、那奈姫は歩を嘲っているかもしれない。歩のことを、引き立て役くらいにしか思っていないかもしれない。
「違う。那奈ちゃんはそんな子じゃ……」
しかし歩は、封印しようとしていた一つの記憶を不意に思い出してしまった。やはりあれは、見間違いではなかったのかもしれない。
歩はモミの木から逃げ帰る途中、那奈姫の姿を見た。それだけでなく、誰かと笑っている声まで聞こえた。てっきりショックのあまり幻覚を見たのだと思っていたが、現実だとしたら……。
「那奈ちゃんは私を、からかっていたの?」
早春の冷気のためではない寒気に、歩は自らの身体を抱きしめ、震えた。
鳴神早瀬学園長は、執務室で淡々と仕事をこなしていた。窓から見える空は、夜と見紛うほどの濃い灰色だ。強風が窓に雨粒を叩きつけ、窓ガラスをがたがたと揺らす。稲光が瞬いたと思えば、ほんの数秒後に轟音が鳴った。近いところに、落雷があったようだ。
「ひどい天気だな……」
冬と春が行きつ戻りつを繰り返すこの時期は、こんな天気が多い。学園に雷が落ちて、停電にならなければ良いが。そう、この間のパーティーのように。
あれはしかし、理事長の機転で助けられた。冷血な女性だと思っていたが、別の一面もあったのかもしれない。父親ではなく、母親似の。
書類の小さな文字を追い続けて、すっかり目が疲れてしまった。早瀬は眉間をほぐしながら、小休憩を入れることにする。ふと思いついて、普段はほとんど開けない中段の引き出しに手をかけた。
引き出しの中には、白い封筒が入っていた。封はされていない。早瀬はその中身を取り出し、デスクライトの下に晒した。
数枚の写真だ。十年以上前に撮られたもので、色褪せて赤味がかっていた。それでも早瀬の記憶を呼び覚ますには、十分だった。一番上の写真には、一組の若い男女の姿がある。
女性は、写真の中で控えめに笑っていた。隣に立って不遜な笑みを浮かべているのは、彼女の夫だ。
女性の名は
やはり、美しい。古ぼけた写真の中ですら、美貌は健在だった。二十歳は確実に超えているはずだが、少女のように瑞々しい頬と唇だ。
夕華を初めて目にした時の衝撃は、今でも生々しく鮮明だ。あの時ほど、血に支配された一族の運命を呪ったことはない。なぜ彼女が夕族なのか、なぜ自分が夕族でないのか、とロミオとジュリエットの登場人物さながらに絶望もした。もう数年若ければ、あるいは妻との見合いの前であれば、早瀬は別の選択をしていたかもしれない。
それにしても、娘の夕妃は彼女と瓜二つだ。普段は不敵な笑みを浮かべているが、時折見せる無防備な表情は、夕華そのものだった。口元のほくろが、表情に不思議な哀愁を漂わせて――。
そこまで考えて、早瀬は首を傾げた。夕華と夕妃は、同じ位置にほくろがあった。しかしいくら親子でも、ほくろまで同じということが有り得るだろうか。夕妃は似ているというより、まるで夕華そのもの――。
雷鳴が轟き、早瀬はびくりと肩を震わせた。
「まさか、そんなはずは……」
ノックの音が聞こえ、早瀬は我に返った。慌てて、写真を封筒にしまう。引き出しに入れる前に、ドアが開かれてしまった。
「ああ、紗矢君か……」
思わず呟くと、紗矢は不思議そうに早瀬を見返した。
「先ほどご連絡しましたよね? お忙しかったですか?」
「いや、大丈夫だよ。それで、私の耳に入れたいこととは?」
紗矢は小脇に抱えていた雑誌を、早瀬に向けた。付箋のついたページには、おどろおどろしい字体で「日光怪奇現象ファイル」なる見出しが踊っている。週刊誌の、怪談特集といったところか。
「時期外れじゃないかい? この手の記事は、夏頃に出るものと思っていたがね」
「そんな冗談を言える内容ではありません」
紗矢はきっぱりと言った。自分でなければ、ふざけるなと一喝されていただろう。
早瀬は口を噤み、記事に目を落とした。どうやら、日光で立て続けに起きた事件を怪奇現象だと書き立てているらしい。この学園の女子生徒が水族館で亡くなった一件と、人気の奇術師姉妹が亡くなった件。どちらも殺人だと見られるが、状況から犯人は人間とは考えられず……といった具合だ。
「このE学園というのは、うちのことか」
記事には女子生徒がこの学園の生徒だったことや、奇術師の菅原姉妹がこの学園で公演後に亡くなったことまで書かれていた。ただのオカルト記事と甘く見ていたが、なかなか核心をついている。彼女たちが死を遂げたのは、まさしくこの学園に関わったからだ。正確には、この学園の理事長、神々夕妃の目に触れてしまったから。
「これなんて、我々も情報を収集中の、未解決の案件なんですよ」
紗矢がページの端の囲み記事を指差した。老眼鏡の位置を調節し、どれどれと内容を確認する。
「マスクで顔を覆った女性に歳を尋ねられ、答えると誘拐されてしまう……。はて、こんな事件はあったかな」
「誘拐事件まで起きているとの情報はありませんが、そんな風貌の女が刃物で切りつけてきたという話は聞いています。鬼や悪魔の存在が確認され次第、動くつもりです」
「ああ、警察から注意するように言われた、あれか」
早瀬は数日前に入った連絡を思い出した。女子生徒が被害に遭っているため、学園の生徒にも夜道を歩かないよう、担任から注意を促してもらったのだ。
「この記事のように事実を捻じ曲げているものがほとんどですし、さすがにこんな記事を鵜呑みにする人間は少ないと思いますが、妙な注目が集まるといろいろと厄介です。我々がせっかく築き上げた居場所が、奪われてしまうかもしれません」
養護教諭の広瀬によれば、学園内でも、先日の停電を引き起こしたのは学園で自殺した女生徒の霊らしい、などという噂が流れているという。そんな事実はないのだが、まことしやかに広まってしまうのが怖いところだ。外部の介入はもちろんだが、内部からの崩壊もまた注意しなければならない。
「そろそろ、手を打たねばならないということか」
紗矢は深く頷いた。
「騒ぎの元凶が理事長であることは明白です。彼女をどうにかしなければ、事態は悪化するばかりでしょう」
「どうにか、とは?」
意地の悪い質問だと思いながら、早瀬は口にした。唇を噛みしめ、紗矢が答える。
「まずは交渉を試みますが、彼女が“狩り”をやめることはないと思います。脅しに屈する相手ではありませんし、少々手荒ですが、隙をついて意識を奪い、幽閉することになるかと思います」
「……あくまで、殺しはしないということだね」
「我々は、夕族とは違います。どんな理由があっても、他者の命を奪うことは罪です」
了承を示すために早瀬が頷くと、紗矢はほっとしたように息をついた。
「策は、あるのかい?」
「ええ、『協力者』がいます。彼から情報を受け取り、理事長の動きを把握するつもりです」
協力者の存在については、早瀬も知っていた。彼と連動し、夕妃を追い詰める計画だと聞いている。
「危険なことをさせてすまない。現状では、君以上の戦力がないんだ。私がもう少し若いか、あるいは那月がもっと経験を積んでいれば助けになったのだろうが」
紗矢は硬い表情で首を振った。
「構いません。私は那月たちに道を残せれば、それで十分です」
早瀬は内心、忸怩たる思いだった。まるで討死を覚悟で戦に向かう侍だ。そこまで思い詰める必要はないと言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。相手は残虐な“魔王”だ。こちらに彼女を殺す意思がなくとも、彼女は何をするかわからない。
「……そうか。よろしく頼むよ。くれぐれも、気をつけなさい」
紗矢は一礼すると、余計なことは喋らず、部屋を出て行った。
「彼女は、君の娘の命までは狙わないそうだ。私よりずっと、優しいね」
早瀬は写真をもう一度手にして、尊大さを滲ませて笑う男に声をかけた。
早瀬の仕掛けた罠にかかって彼は死んだ。それによって夕族の力は衰退し、早瀬の率いる眞族は多くの権益を得た。しかし同時に、失ったものも多かった。妻と、密かに憧れていた夕華。犠牲を払って、早瀬はすっかり臆病になったと自覚している。そのせいか、彼との勝負に勝った気がしない。あの時からずっと、じりじり追い詰められているようだ。もしかすると、勝負はまだ続いており、反撃はこれからなのかもしれない。
「君が、何かしたのかい?」
早瀬は男の横に並ぶ夕華に目を移したが、彼女は不敵に微笑むばかりだった。
廊下に人けのないことを確かめると、紗矢は携帯電話を手にした。番号を発信すると、相手はすぐに出た。
「……ええ、近いうちに決行するわ。細かい計画を立てましょう」
緊張があちらにも伝わったらしく、彼は堅い声で応じた。
夕妃を捕らえるには、彼の協力が不可欠だ。監獄を用意できる人間は、彼しかいない。彼もまた夕妃の退場を望んでいると知った時は驚いたものだが、理由を聞けば得心がいった。人にはそれぞれ、表からは見えない事情があるものだ。善と悪は曖昧で、正解だと確信できる答えもない。
ぼんやりと通話を終えた携帯電話を見ていた紗矢は、すぐ近くに足音が聞こえるまで、人の気配に気づかなかった。無意識に携帯を手で包み隠すようにして、素早く振り返る。
「もしかして、彼氏ですか?」
にやにやとこちらを見ていたのは、那月だった。どうやら、内容を聞かれたわけではないらしい。紗矢はひとまず安堵し、取り繕うように笑みを浮かべた。
「そんなことあるわけないでしょ。業務連絡よ」
楽しげな表情を崩さない那月は、まだ疑っているようだ。しかし、誤解してくれるのならその方が好都合である。紗矢は重ねて否定はせず、話題を変えた。
「あんたは何してるの? 外はすごい嵐だから、帰る時は気をつけなさいよ」
「雨風が弱まるまで、少し時間を潰してから帰ります。九鬼先生もお気をつけて」
那月は笑みを崩さないまま立ち去った。
「……お気をつけて、ですって?」
話す前から、那月は機嫌が妙に良いように見えた。紗矢は首を傾げ、その後ろ姿を見送った。
口の端に笑みを湛えながら、那月は足早に図書館に向かっていた。つい先ほど、閃いたことがあった。それが実現可能かは、本を調べればわかるだろう。図書館は校舎と離れており、この天気の中外を歩かなければならないが、那月は一刻も早く答えが知りたかった。
廊下から外に通じるドアを、押し開ける。雨が顔に吹きつけてきた。傘は持っていたが、この風では役に立たない。傘を差さずに飛び出した。土の剥き出しになった凹凸のある地面を、雨水が川のように流れていく。それを飛び散らせながら、那月は森のように茂った常緑樹の小道に逃げ込んだ。
一旦木の下に入ってしまえば、雨はほとんど落ちてこない。頭上でざわざわと枝が揺れていたが、屋内に入ったように雨音が遠くなる。ぬかるむ道を抜け、木々の途切れた箇所は再び走って、図書館というより薔薇園のようなその場所に到着した。
軽く制服の水滴をはたいてから、那月は中に入った。司書の閖根が、雨の中の来訪者を驚いたように見たが、那月は無言で会釈し、質問を拒絶した。
ここ最近は、図書館に足を運ぶ機会があまりなかった。しかし、匂いも人がいないのも、以前と同じだ。唯一の違いは、棚の上に置かれていた、熱帯魚が泳いでいた水槽がなくなっていることくらい。
目的の本を探すのに少し手間取ったが、最終的には数冊、参考になりそうなものが見つかった。那月は本を抱えて近くのテーブルにつくと、早速ページを手繰っていった。
「……やはり、そうか」
満足のいく答えを見つけ、那月は笑みを深めた。
彼が探していた情報は、PPVのⅠ型またはⅡ型の保菌者の感染についてである。つまり、眞族や夕族のように、片方の型を所有している場合、もう一方の型に対して免疫を持つのか、ということだ。
答えは、ノー。Ⅰ型の免疫を有していても、Ⅱ型に感染する確率は一般人と変わらない。
この事実を利用すれば、夕族の人間を、ウイルスの感染、発症を経て葬り去ることができるのではないか。一旦発症させてしまえば、目論見は達成したも同然だ。彼らはかつての仲間を、自らの手で切り裂くだろう。
――ようやく、那奈姫を奴から切り離す方法が見つかった。
那月の頭は、興奮で脳が脈動しているかのようだった。眞族は殺生を可能な限り禁じているが、これは直接手を下すわけではない。それに、大事な妹のため、仕方のないことだ。夜叉と契約した那奈姫が万が一にも夕族の側につけば、勢力図が塗り替えられる。早めに芽を摘み取らなければならない。
紗矢などは重度のシスコンと一笑に付すだろうが、那月は本気でそう考えていた。妹は一途だ。相手が教師だろうと、敵対する一族だろうと、そんなことは何の意味も持たない。彼女が探す道は諦める方法ではなく、障害を乗り越える方法なのだ。いざとなれば大胆なことをやってのける妹を、那月は実は畏怖していた。
御巫が嫌いであることは確かだが、死を望むほどではない。しかし、この状況では、犠牲になってもらうほかない。那月は分厚い本を閉じ、書棚に戻していった。次の段階――どのようにして彼を感染させるか――を思案しなければならない。
荷物を取り、出入り口に足を向けた那月は、ドアの開く音に目を上げた。
「那奈姫……」
前髪に滴をつけた那奈姫が、驚いた表情でこちらを見ていた。少々大げさだ。
「あら、今日は妹さんまで。珍しいわね」
閖根がにこにこと、二人を交互に見る。
「試験前だし、勉強しようと思って」
聞かれてもいないのに、那奈姫はどちらにともなく言った。
「そうか。俺は一旦生徒会室に行くから、そうだな、五時半に迎えに来るよ」
一人で帰ると突っぱねられるかと思ったが、那奈姫は頷いた。閖根が、仲がいいのね、などと言っている。
那月は雨風の暴れる外へ、再び踏み出した。
まさか、兄がいるとは思わなかった。
那奈姫は未だ早鐘を打っている胸を押さえ、机に荷物を置いた。
那月にはああ言ったが、試験勉強のために訪れたわけではなかった。那奈姫は閖根の視線がこちらに向いていないことを確認し、書棚に向かう。普段書店にも図書館にも縁のない那奈姫は、何度か往復してようやく、目的の本が置いてある棚を見つけた。
目が本の背表紙を辿っていく間も、心配事が体の中を蝕んでいるような嫌な感覚があった。
一つは、歩のことだ。
クリスマスパーティーの後から、距離を置かれている気がする。無視されるわけではないが、なんとなくよそよそしいのだ。やはり、告白が失敗に終わったせいだろうか。自分が出過ぎたことをしたから、歩を傷つけてしまった。きっとそのことで、怒っているのだ。
でも一方で、腑に落ちない部分もあった。那奈姫だって未来がわかる力などないのだから、告白が絶対に成功するとは思っていなかった。彼に好きな人がいたのなら、それは誰が悪いということではなく、仕方のないことだ。恨まれるのは、少し違う気がする。
歩を責める方向に考えが向かっていそうになって、慌てて打ち消した。不安だからといって、人を責めてはいけない。きっと歩も、悲しみから立ち直ろうと、もがいているのだ。
そしてもう一つの心配事。そのために、那奈姫は図書室を訪れていた。
最近、夢の中にいるように現実感がなく、心許ない時がある。気づけば学校へ続く道に立っていて、家からの記憶がない時も。
寝ぼけているのとも違うし、寝起きは元々良い方だ。何か、病気だろうか。
そこまで考えて、那奈姫は気づいた。その症状が、幾度も耳にしたものであることに。
もしかすると自分は、PPVに感染しているのではないか。記憶障害は、その初期症状だ。その時点ではまだ自我が保たれているが、徐々に理性の皮を剥いでいった、生身の欲望が顔を出すようになる。欲望がむき出しになった瞬間から、元の自己とウイルスに侵された自己が入れ替わり、ウイルスが主導権を握る。高度な精神活動を含めて人間とするならば、その人間はその時点でウイルスに“殺された”ともいえる。
自分が失われ、自分でなくなっていく恐怖。那奈姫は想像し、一人震えた。
感染の心当たりは、一つだけ、思い当たる。あの時はそんなことに思い至らなかったが、軽率な行動だった。
しかし本当に、“あれ”で感染することはあるのか。自分の杞憂ではないか。
葛藤の末、那奈姫は自分で調べてみることにした。家族や紗矢には恐ろしくて聞けないし、保健室の広瀬先生を前にしたら、ついすべてを話してしまいそうだ。そして一族に広まれば、千尋を追い詰めることになる。それだけは、嫌だった。
一冊の本を手に取り、その場で開く。ぱらぱらとめくるが、探している情報が載っていそうなところに差し掛かると、つい目を逸らしてしまう。何度か挑戦してみたが駄目で、那奈姫は諦めて本を閉じた。とりあえずこの本を借りて、覚悟ができたら読もうと決める。
でも、それで自分の不安が的中していたら?
その時こそ、どうすればよいのかわからない。いっそ、今、誰かに相談すべきではないか。
誰か、と考えつつ、頭に浮かんだのはたった一人だった。
那奈姫は柱にかかった時計を確認した。気づけば、あと十分ほどで那月が迎えに来る時刻だ。那奈姫は抱えた本を借り出すと、鞄を掴んで図書館を飛び出した。
雨はまだ衰えておらず、容赦なく那奈姫の身体に叩きつけた。ぬかるむ地面を無理に急ごうとして滑り、片手をつく。小さく上げた悲鳴は雨音にかき消され、跳ねた泥水が、靴下やスカートにまで飛び散った。
早く、早く。何の理由もないのに、今でなければチャンスがない気がしていた。
廊下の端のドアは施錠されていたので、昇降口に回る。上靴に履き替えるのさえ面倒で、雨水を滴らせながら靴下裸足のまま走った。階段を駆け上がり、第二化学準備室の前に到着した時には、那奈姫は肩で息をしていた。
ドアに手をかける。がたがたと鳴るだけで、動かなかった。部屋の中は暗く、人の気配もない。
那奈姫はその場でへたり込みそうになった身体を、何とか奮い立たせた。千尋はほぼ毎日、理事長と共に十八時に帰る。まだ、校内のどこかにいるはずだ。
「先生、どこ……?」
まるで迷子になったかのように、那奈姫は辺りを見回し、ふらふらと歩を進めた。雨の中走ってきた疲労が襲ってきて、窓に寄り掛かる。時折風が強く吹いて、窓にびしゃりと水滴が叩きつけられた。風に煽られた雨で、外の様子は霞んでいる。
那奈姫は何気なく、正門の方に目をやった。黒塗りの車が一台、入ってきた。ぐるりと回って、玄関に横付けする。誰かの迎えだろうかと見ていると、人影が車に近づいていくのが見えた。那奈姫は身体をぶつけるほどの勢いで窓ガラスに貼りつき、叫んだ。
「いた!」
庇の真下まで、雨が降り込んでいた。千尋は雨粒から顔を庇いながら、折り入って話したいこととはなんだろうか、と考えていた。
千尋に、千尋だけにそう告げたのは、運転手の桜沢だ。いつもより少し早く向かうので、その時に、と。
やはり、辞職を願い出るのだろうか。これまでも、仕事を辞めたい者たちはまず千尋に相談してきた。彼らの懸念は一つ。夕妃の怒りを買わずに辞めるにはどうすべきか。
実際のところ、運転手や屋敷の使用人が一人や二人辞めても、夕妃は歯牙にもかけない。極端な言い方をすれば、彼らを個人として認識していないのだ。代わりの人間が入り、仕事を問題なく引き継いでいれば、おそらく気づきもしないだろう。運転手の交代はさすがに気づくにしても、夕妃の機嫌を損ねるには小事すぎる。
ぼんやりと考えを巡らせているうちに、雨の中、門を抜けた車が向かってきた。大雨にもかかわらず、桜沢の運転は流麗で、車は千尋の目の前でピタリと止まった。
目顔で促され、千尋は後部座席に入ってドアを閉めた。普段通りミラー越しに桜沢の顔を見て、千尋は違和感を覚えた。首を巡らせて斜め前の実物に目をやったが、違和感はそのままだ。おどおどとした目の動き、困惑気味に下がった眉など、彼の表情を構成する馴染み深い要素が、今は消え去っていた。
「ご面倒をおかけしてすみません。夕妃様には、怪しまれませんでしたか?」
桜沢の唇が弧を描き、気遣うような視線を千尋に向けた。違和感は警戒感へと変わり、千尋は注意深く頷いた。
「大丈夫だと思います。黒魔術の本を熟読されていましたから」
「ああ、それは何とも夕妃様らしいですね」
夕妃が読んでいたのは、魂と肉体の結びつきについて書かれていた項だった。そう言えば以前、動物の骨を集めて蘇生を試みようとしていたこともあった。あれは結局、成功したのだろうか。
「それで、お話というのは?」
千尋が問うと、桜沢は鏡越しに視線を合わせた。親しげな笑みが浮かんでいる。
「千尋さんは、実は我々の同志ではないかと思っているんです」
言わんとすることがわからず、千尋は次の言葉を待った。
「――夕妃様は、千尋さんのご両親を手にかけたそうですね」
一族の中枢に近い人間ならば知っているが、そう広く知られていることでもない。なぜ桜沢が、と千尋は彼の顔を窺った。
「それなのに、あなたは夕妃様の傍におられる。憎むべき人間の傍にいるのは、ご両親の仇を討つためではないですか?」
無言の千尋に、桜沢は続けた。
「我々は、夕妃様がこのまま当主を続ければ、一族の未来が危ういと考えています。彼女には当主の座を降りていただきたい。どんな形でも。それはつまり、あなたの目的と一致するのではないか、と思います。こちらとしても、千尋さんが協力してくだされば、非常に心強い」
手を組み、夕妃を葬り去ろうという誘いだ。その手が、こんなに近くにまで伸びていた。
「……その計画の発起人は、誰ですか?」
「洸史様です」
やはり。夕妃に挑戦状を叩きつけるだけの気力をまだ保っているのは、彼くらいのものだ。
「つまり桜沢さんは、スパイとしてうちの運転手になられたわけですね」
桜沢は目を細め、くすりと笑った。気弱そうに振る舞っていたのも、演技だったようだ。運転と同様、本来の彼は冷静沈着なのだろう。
「よろしければ、一度じっくりお話がしたいと洸史様はおっしゃられています。もちろん、成功すれば千尋さんにも大きな見返りを用意するそうです。悪い話ではありませんよね?」
身体を捻り、桜沢はじかに千尋の目を覗き込むようにして言った。悪魔の囁きとはこういうものだろうか、と千尋は考える。絶妙のタイミングで現れ、わかりきった望みを叶えてやると誘う。断られることなど、端から想定していない。
「もし協力していただけるなら、三日後、土曜日の深夜に、お迎えに上がります」
深夜であれば、夕妃に気づかれずに抜け出せると桜沢は言った。既に承諾を得たかのような口調だ。
……いや、あるいは罠、ということも有り得る。夕妃と分断し、一人ずつ、確実に片付けるつもりなのかもしれない。
いずれにしても、洸史らしい奸計だと千尋は思った。できるだけ多くの人間を取り込み、外堀を隙間なく埋めてから仕掛ける。慎重さとは裏を返せば臆病さだ。自分が屠った屍で作った丘の上に、たった一人で立つ夕妃とは、対照的である。
「では、くれぐれも夕妃様にはご内密に――おや」
窓の外を見やり、桜沢が声を上げた。玄関から姿を現したのは、夕妃ではなく那奈姫だった。息を切らせ、こちらを見ていた。制服はびしょ濡れだ。ただならぬ様子に、千尋は車を出た。
「鳴神さん、どうしたの?」
髪がぺたりと張りついた頬は、抜けるほど白い。唇も青く、早く温まらなければ風邪を引いてしまいそうだ。
せんせい、と那奈姫は吐息と共に発した。大きな目が、訴えかけるように千尋を捉えている。片方の腕に分厚い本を重たげに抱え、那奈姫は唇を震わせていた。
千尋が一歩近づくと、那奈姫は意を決したように、息を吸った。
「先生、私ね……私、もしかしたら――」
「那奈姫! こんなところにいたのか」
背後からの声に、那奈姫はびくりと肩を揺らした。慌てた様子で鞄に本をしまい込もうとして、落としてしまう。千尋がそれを拾って手渡すと、顔を俯け、小さく礼を言った。
言いかけた言葉の続きを千尋は聞こうとしたが、那月が彼女を引き離す方が早かった。那月は冷めた一瞥を千尋に向けると、殊更優しい声を出し、那奈姫の肩に手を置いた。
「探したじゃないか。図書館にいると思ったのに」
「……うん、ごめんなさい」
那奈姫はもう、千尋を見ようとはしなかった。その目が深い闇を抱え込んでいるように見え、千尋はほとんど無意識に、那奈姫に手を伸ばしかけた。
乾いた音と少し遅れて感じた痺れ。千尋の手を、那月が虫でも払うようにはたいた。
「それでは、失礼します」
那月は笑顔で追及を封じ、那奈姫を自分の側に引き寄せた。
「……ああ、気をつけて、鳴神君、鳴神さん」
那月が傘を開き、那奈姫を招き入れた。二人は一つの傘で、雨の中遠ざかっていく。那月に引っ張られ歩く那奈姫は、人形のように生気がなく、千尋は不安に駆られた。自分は何か大切な機会を逃したのではないかと思った。
「あら千尋、もうここに来ていたのね」
時計を確認すると、既に普段の迎えの時刻だった。千尋は鳴神兄妹のことを一旦頭から追い出し、夕妃に向き直る。彼女は嵐の影響を全く受けておらず、せいぜい服の裾を風にひらひらと舞わせている程度だった。奇しくも、那奈姫と同様、片手に本を抱えている。理事長室で熟読していた、黒魔術の本だろう。
夕妃は何かに対して小さく声を上げ、千尋に近づいてきた。桜沢とあのような会話を交わした手前、思わず身構えた彼の手を、夕妃はそっと包む。
「血が、出ているわ」
確かに、人差し指の先から血が流れていた。痺れが残っていると思ったが、切れているとは気づかなかった。那月に手を払われた時、彼の爪でも当たったのだろう。
夕妃は清潔そうな白いハンカチを鞄から取り出し、傷口に当てた。深い傷ではなく、拭えばすぐに、血の跡は消えた。
「あのお坊ちゃんにやられたの?」
「いえ、やられたというほどでは」
偶然だと答えようとした千尋は、改めて傷口に目をやって、首を傾げた。爪が当たった程度で、こんなにすっぱりと皮膚が切れるものだろうか。
「千尋?」
「いえ、何でもありません。帰りましょう」
腑に落ちない表情を見せたものの、夕妃は車に乗り込んだ。シートに沈み込むとすぐに、本を読み始めた。余程、興味を引かれることが書いてあるらしい。
雨は徐々に、弱まっているようだ。千尋は窓の外を眺め思う。沈黙の落ちた車内に、濡れたアスファルトとタイヤの擦れる音が聞こえた。
胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。柊一からだ。夕妃をちらりと見てから、千尋は電話に出た。
「感染者らしき女が現れた。これから、来られるか?」
彼の告げた場所は、華厳の滝にほど近い、土産物屋が並ぶ通りだった。大雨に加え、日光駅に向かう最終のバスは出ているため観光客は少ないが、周辺のホテルの宿泊客や店の店員たちがおり、騒然としていると言う。
「私、今日はパス。あなただけで行ってちょうだい」
千尋の様子から察したらしい夕妃は、本から顔を上げることなく言った。別段、おかしなことではない。夕妃は気まぐれだ。外に出て動くより、本を読みたい気分なのだろう。千尋は途中でタクシーに乗り換え、現場へと向かうことにした。
山道を上っていくと、車道を徒歩で下る人たちを目にした。恐怖に染まった表情から、タクシーの運転手は熊でも出たのだろうかと呟いた。それにおざなりの返事をして、千尋は山道を見上げた。手のひらほどの小さな悪魔や鬼たちが、ざわめいて茂みから見え隠れしている。契約により人という餌を手に入れれば、悪魔や鬼も力を増す。大きな力を発する者が現れた影響を受け、彼らも落ち着かないのだろう。
いや、よく見れば、彼らはこちらを窺っている。どうやら、警戒されているのは自分のようだと、千尋は気づいた。何せ、自分には名の通った悪魔が二体も憑いている。
「お客さん、上で何か事件があったようなんですが、どうしますか? どうも無線じゃ要領を得ないんですが、化け物が暴れてる、とか」
引き返したいと書いてある顔には申し訳ないが、千尋はそのまま進むよう頼んだ。
「行けるところまで、お願いします」
その化け物を退治に行くのだ。同じ化け物を飼う自分が。
もちろんそんな言葉は口に出さず、千尋は窓の外を流れていく風景をぼんやりと眺めていた。
サイレンをけたたましく鳴らして、救急車が柊一の目の前を走り去った。道路脇には警察車両が停車し、周辺は物々しい空気に包まれていたが、盾を構えた機動隊員も、慌てて駆けつけた巡査も、すべきことを見つけられずにいた。感染者が現れ、怪我人が出たとの一報があったものの、到着した時には既に、感染者の姿はなかった。
こうなってしまえば、もう“別の目”に頼るほかない。タクシーから降りてこちらに来る千尋の姿を見つけた柊一は、彼に駆け寄った。
「この辺りには、何もいないみたいだけど」
三百六十度を見渡した後で、千尋はそう言った。どうやら、せっかく展開した包囲網も無駄になってしまったようだ。柊一は落胆し、その芳しくない情報の伝達を同僚に頼んだ。
「悪いな、せっかく来てもらったのに」
「いや、それは構わないけど。誰か、感染者の顔を見た人は?」
見たと言っても良いのかどうか。柊一は首を傾げた。
「目撃者はいるんだが……犯人は、マントを被っていたらしい」
疑問符を浮かべている千尋に、柊一は補足した。
「その感染者っていうのは、占い師なんだよ」
柊一が千尋を案内した先は、表通りから脇に入った、細い路地だった。建物と建物の境界線を引くためだけに作ったかのような、何もない隙間だ。
街灯さえもないその路地で、ぽっかり浮かび上がる灯り。光源は、小さなテーブルの上に載ったランプだ。近づくと、テーブル上に紙や鉛筆などが乱雑に置かれているのも見える。柊一に用途がわかるのは、タロットカードくらいだ。
「占い師というより、魔術師かな」
残された物を見て、千尋が言う。彼は円の中の方形に数字が並んだ紙を示し、柊一に説明した。
「例えばこれは、魔方陣。縦、横、斜めの数字の合計が同じになるように書かれる。俺たちは算数の授業やパズルとして解いたと思うけど、中世では、魔術の手続きや護符を作る際に書いたって記録がある。ちなみに、合計の数字や行数によって対応する惑星や悪魔が定められてる」
唐突に魔術の手続きや護符などと言われても、柊一にはピンとこない。
「えーと、つまり……その占い師の女は、何をしたかったんだ?」
さあ、と千尋は軽い調子で答えた。
「中世では、こういうもので強い悪魔を呼べるとか、自分の力を高められるとか信じられていたみたいだけど、今は効果がないことがわかってるし……」
何やら幾何学的な紋様が描かれた紙をなぞりながら、千尋は言った。
「占い師だったとしたら、彼女なりの方法論で、何かルールを設定したのかもしれない」
柊一は、事件の概要を千尋に話した。被害者は、校外学習に訪れていた中学二年生の女子生徒だった。自由行動の時間に友人数人と占い師の姿を見つけ、興味本位で近づいたという。占い師は一通りの占いを終え、被害者だけに伝えたいことがあると言って路地のさらに奥に連れて行った。その後悲鳴が聞こえて友人たちが駆けつけると、怪我をした女子生徒が倒れていた。
「犯人の方は逃げた後だった。話を聞いていると、最近頻発している――ああ、これは車に戻って話そう」
感染者はどこかに雲隠れしてしまい、今日は千尋に頼める仕事はなさそうだ。柊一は表通りの方に踵を返した。雨はほとんどやみ、時折ぽつりぽつりと屋根や雨どいを伝って滴が垂れてくる程度だ。しかし風はまだ吹き荒れており、細い路地から出た途端、突風が駆け抜けていった。やけに冷たい風に、また冬に逆戻りかと顔をしかめる。東京育ちの柊一は、寒さがあまり得意ではない。
「少し前にこんな記事が出たんだが、読んだか?」
千尋を家まで送る車の中で、柊一は週刊誌の記事を見せた。日光で起きた事件を、オカルト要素を取り入れて誇張したものだ。事実からまったくの作り話まで様々だが、その中に、今回の事件に関わっていそうな記述を発見した。
「被害者の友人たちは、犯人から歳を聞かれたと言っている。マスクではないが、マントで顔を覆っていた。同一人物っぽくないか?」
「なんだか、口裂け女みたいだね。あれは、綺麗かって聞かれて、否定すると刃物で殺されるとか、そんな話だったけど」
ハンドルを握っていた同僚が、ああ、と懐かしそうに声を上げた。柊一も記憶にある。
「そういえば、小学生くらいの頃、そんな都市伝説があったよな」
「歳を聞いてくる口裂け女……これがホントのトシ伝説……」
運転席で同僚が吹き出し、きまり悪そうに咳払いをした。柊一は何とか持ちこたえて、話を真面目な方向に戻す。
「それから、どうして彼女一人が切りつけられたのかという問いに対して、彼女だけが十三歳だったから、という答えが返ってきた。犯人は何らかの理由で、十三歳の人間を狙っているかもしれない」
「悪魔の一ダース……」
今度は何だと、柊一は胡乱な目つきで千尋を見た。彼は意に介する様子もなく、口を開く。
「一ダースといえば十二だけど、悪魔の一ダースは十三だとされてるんだ」
「十三って数字は、不吉なイメージがあるよな」
「実は根拠のない話だけどね。キリスト教の聖書に書いてあるわけでもないし。十三日の金曜日に出没する殺人鬼とか、処刑台の階段の数とか、そのあたりからじゃないかな。でも、十二は時間の表記やダースという単位に使われている数だから、その基準からはみ出した十三は、意に沿わない、調和の取れていない数として不吉だといえるかもしれない」
教師をしているだけあって、千尋の講釈は淀みがない。だから、と彼は自分の見解を口にした。
「犯人も、十三という数字に思い入れを持っている可能性は高いと思う。十三歳の少女を生贄にすると願いが成就する、とか」
「俺たち普通の人間には、まったく理解できないけどな」
「それが、サイコパスってことだよ」
常識やモラルを超え、欲望のままに行動する感染者たち。法則性が見えるだけまだましだが、こちらができることは、精々中学校に注意を促す程度だ。無力感を抱え、柊一は深く息を吐いた。
「歩ちゃん、待って!」
教室を出た廊下で、那奈姫はやっと歩を捕まえた。避けられているという疑念はもう確信に変わっている。
立ち止まった歩が、こちらを振り返る。向かい合って、那奈姫は恐怖から立ち竦みそうになった。歩がなぜ自分を避けているのか、知りたいけれど、知りたくない。決定的な拒絶を突きつけられるのは怖い。でも、ここで逃げてしまえば、関係を修復することができないかもしれない。きっと、自分にはもう多くの時間は残されていない。どこからか響く警鐘を、那奈姫は聞いていた。
「なに? 那奈ちゃん」
「ええと……」
言うべきことを考えていたはずだが、すっぽりと抜けてしまったようだった。
「別に、那奈ちゃんのこと嫌いになったとかじゃないよ」
先回りするように言われ、那奈姫は余計に言葉に詰まった。それでも、去ろうとする歩に追いすがる。
「私、歩ちゃんが怒るようなことしちゃったんでしょ? 私鈍感だから、気づかなかったんだよね。本当にごめんなさい」
涙が溜まって、俯く歩の姿が滲む。でも、泣いてはいけない。それは卑怯だと、那奈姫は思った。
「……違うよ」
ぽつりと、俯いたまま歩は言った。
「私たち、最初から気が合うわけじゃなかったんだよ。だから、もう無理するの、やめようよ」
「私は、無理なんてしてないよ。歩ちゃんは何が嫌だったの? 私、直すから――」
「だから、そういうところだってば!」
突然声を荒げた歩に、那奈姫はびくりと肩を揺らした。
「どうして那奈ちゃんはそんなにイイコなの? ずるいよ……。一緒にいると、自分が汚くて嫌になる……!」
何を言われているのか、那奈姫は理解できていなかった。ただ、もう友達をやめたいと彼女が全力で叫んでいるのはわかった。また親友に戻る、という希望が絶たれたことを、那奈姫は知った。
その瞬間、つなぎ止められていた糸が、ふっつり切れたような感覚を覚えた。堤防が決壊し、轟音を伴って溢れ出ていく。
「どうして? どうして伝わらないの?」
誠意を込めて気持ちを伝えれば、歩もわかってくれると、信じていたのに。こんなのはおかしい。――こんなのは、裏切りだ。
那奈姫が近づくと、歩は怯えた表情を浮かべた。後ずさる彼女の手首を掴む。振りほどこうとしたので、力を込めた。歩の顔が歪む。
「痛い。離して」
違う。そんな言葉が聞きたいわけじゃない。いっそ、その口を塞いでしまおうか。手首を掴んでいない方の手を、細い首に伸ばす。指先が触れようとする直前、近づいてくる足音を聞いて那奈姫は我に返った。
「私、何を……」
歩が叫んでいた場面からの記憶がない。掴んだ覚えのない歩の手首を、指を引き剥がすようにして離した。
歩の顔を直視できず、何より自分のことが恐ろしくなって、那奈姫は逃げ出した。
朝六時、夕妃はいつものように、悪魔たちのさざめきの中で目を覚ました。カーテンの隙間から白光が漏れ、引き開ければ穏やかな青空が広がった。夕妃は窓を開け、春の到来を告げる風を入れた。ひんやりと、しかし肌を刺すほどは鋭くない冷たさが、頬を撫でる。
今日は学園の修了式だ。特に仕事があるわけでもないが、一応は出席して座っていなければならない。
身支度を整えて、自室を出る。
「夕妃様!」
こちらへ走ってくる使用人を目にして、夕妃は小さく首を傾げた。手に持っているのは電話の子機だ。こんな朝早くからかけてくる相手は思い当たらない。あるとすれば……。
「なあに、どなたか亡くなったの?」
冗談のつもりだったのだが、使用人は血の気の引いた顔で、何度も頷いた。
「実は、洸史様がご自宅で……」
「伯父様が?」
「あちらも動転しているようで、要領を得ませんが……どうやら、洸史様の他にお三方が一緒に亡くなられたようです」
使用人は三人の名もきちんとメモに取っており、読み上げたが、夕妃の記憶にはなかった。全員夕族の人間だというから、洸史の取り巻きだろう。
「悪魔を従えた大人が四人いっぺんに死ぬなんて、ただ事ではないわね。何が起きたの?」
それが、と困惑した様子で使用人は答えた。
「まだ検死が終わっていないので、死因はわからないそうですが……朝、使用人が縁側に面した裏庭で倒れている洸史様たちを見つけまして、今のところは警察も、酔った上の事故ではないかと」
「そんな馬鹿なことって……」
全員が全員、酔っぱらって寝入ってしまうことなどあるだろうか。事件性がないとは考えづらい。
直接、伯父の家に向かう必要がありそうだ。修了式は欠席ということにして――などと考えていたら、子機がけたたましい音で鳴り出した。使用人が驚いて受話器を取り落としそうになる。夕妃は受話器を奪い、電話に出た。
「理事長ですか? 朝早くにすみません。お聞きしたいことが――」
「あら紗矢さん、ごきげんよう。悪いけど、今日の修了式はお休みさせていただくわ。どうも伯父が不審死したみたいで――」
「那奈姫が朝になっても帰らないんです。だから居場所を知らないかって……え、伯父様が不審死?」
「那奈姫さんが帰っていない?」
自分勝手に伝えたいことだけを喋っていた二人は、交換した情報を聞いて絶句した。紗矢が焦るのもわかる。都会ならともかく、この日光で一晩帰らずに過ごせる快適な場所はほぼない。
「私は何も聞いていないけれど、千尋なら見当がつくかもしれないわね。聞いてみるわ」
「ええ、お願いします。御巫の携帯には何度もかけたんですが、電源が切られているみたいで」
電源が切られていると聞いて、夕妃は微かな違和感を覚えた。千尋は常時、携帯電話の電源を入れているはずだ。柊一からの連絡が来ることも多いし、当の那奈姫が、夜にかけてくるからだ。
「千尋は、部屋かしら?」
夕妃はまだ彼の姿を見ていなかった。おそらく、と使用人が頷いたので、電話を繋いだまま千尋の部屋に向かうことにする。
普段ならば彼はもう食卓の席に着いている時間だと思い、夕妃はまた違和感を覚えた。いつもと違う。何かが、おかしい。夕妃は無意識に早足になり、廊下を左に折れた。
千尋の自室に繋がる廊下には、爽やかな朝日が射している。いつもと変わらない風景だ。
それなのに、夕妃は胸騒ぎを覚えた。あまりに、ひっそりとしている。
千尋の部屋のドアをノックすると、きちんと閉じられていなかったドアはゆっくりと開いた。
部屋の中に踏み込む。微かな音に振り向けば、窓が開いており、揺れるカーテンが衣擦れの音を立てていた。
机の上には、携帯電話と白いハンカチ。携帯は千尋の物で、ハンカチは彼が怪我をした時夕妃が貸した物だ。ハンカチは洗濯され、綺麗にアイロンを当ててあった。
「千尋……?」
夕妃は不安に駆られて、彼の名を呼んでいた。千尋はもう、ここに戻るつもりはないのではないか。氷で背筋を撫でられたように、唐突な予感が駆け抜けた。
「理事長、どうかされました?」
受話器の向こうにも、夕妃の不安が伝播したのだろうか、紗矢が何度か呼びかけてきたが、最早夕妃の耳には入っていなかった。
他に、なくなっているものは? 大切にしている物が消えていたら、彼の意志がより明確にわかる。
夕妃は部屋を見渡したが、すぐに落胆の息をついた。千尋が何を大切にしていたのかなんて、知らないのだ。家族の写真や形見を持っていたのかも、どんな趣味があったのかさえも。ベッドサイドの小さな本棚に翻訳物のミステリが並んでいることだって、今初めて知った。せめてキャッシュカードや通帳くらいは探してみようかと考えたが、むなしくなってやめた。
「――どうして?」
問いに答える声はなく、夕妃の呟きは悪魔たちの鳴き声に混じって空虚に響いた。
出勤時刻になっても千尋は戻らず、夕妃は一人、桜沢の運転する車に揺られていた。伯父のことは気にかかったが、千尋と那奈姫が行方不明となれば、状況を知るためにまず学園に向かう他なかった。それに伯父は既に死んでいるが、彼らは生きてどこかにいるのだ。優先させるべきは生きている人間だろう。
使用人たちはついに千尋が夕妃に愛想を尽かしたか、とひそひそと話していた。常ならば、耳に入り次第、ガラスの数枚や花瓶の一つや二つ割ってみせるのだが、夕妃自身動揺が激しく、それどころではなかった。
夕妃同様、桜沢も気が動転しているらしく、運転がいつもより雑だ。いつもはカーブの多い山道でも滑らかに進んでいくのだが、初心者の運転のようにがたがたと左右に振られる。文句を言う気力もなく、夕妃は黙ってシートにもたれていた。
那奈姫と千尋が失踪し、伯父は不自然な死を遂げた。これらの事件に、関連はあるのだろうか。仮説を立ててみようと試みたが、ばらばらのピースは繋がることなく、夕妃の頭上を飛び回るだけだった。
夕妃が学園に到着し、理事長室には学園長の早瀬、紗矢、那月が集合した。情報を共有するためだったが、お互い、直接千尋や那奈姫の居場所に繋がる情報は持っていなかった。
しかし、考えたことは示し合わせたように同じだった。千尋と那奈姫は一緒にいるのではないか、と。
もしそれが本当ならば、大問題である。
「でも、御巫は教師としての分別はあったと思いますよ」
紗矢の擁護はありがたかったが、それも柊一が千尋の通話記録を持って来るまでだった。
「名義は鳴神早瀬さんになっていますが……」
「那奈姫の番号です」
呻くように、早瀬が答えた。通話時間は、午後十一時三十分から十二時過ぎまで。何事かを企てるには十分すぎる時間だ。
しかし、なぜ千尋が那奈姫を連れ出す必要がある? その理由を説明できる者は、いなかった。
息の詰まる沈黙を破ったのは、柊一にかかってきた電話の呼び出し音だった。彼は部屋の隅で電話に出て、小さく相槌を打っている。途中、ちらりと夕妃を窺うように見た。
「那奈姫さんの件ではなく、神々洸史さん他三名についてです」
柊一はそう前置きし、彼らの死因が判明したと話した。
「体温の低下のため――所謂、凍死だそうです」
「凍死……」
「外傷もありませんし、警察としては、酔った末に寝てしまったことによる事故ということで処理を進めています」
「そうね、“普通”に考えれば、それが妥当だわ」
夕妃は殊更に普通という言葉を強調し、異才の者たちを見回した。
「それって――」
声を上げた紗矢は、気づいたのだろう。千尋は悪魔の力を借りて雪嵐を起こすことができる。人間を氷漬けにすることぐらい簡単だ。
「ちょっと、待ってください! まさか千尋が洸史さんたちを殺して逃走しているなんて考えているんじゃ……」
慌てて柊一が口を挟む。さすがに有り得ないと、眞族の三人の目も言っている。
夕妃は深く息をつくと、おもむろに口を開いた。
「千尋が、感染しているとしたら、どうかしら?」
夕妃以外の全員が、息を飲んだ。……いや、一人だけ反応の異なる者がいる。先ほどから、青い顔で唇を震わせるばかりで、発言が一切ない。
「残念だったわね、思い通りに事が運ばなくて」
夕妃は無言を貫いていた彼――那月にそう声をかけた。那月は追い詰められた小動物さながら、怯えた表情で肩を揺らした。
「どういうことです、理事長」
「千尋の感染は、そこにいる那月さんが仕組んだということよ。数週間前、彼は千尋に切り傷をつけた。たぶん、カッターの刃か何かで。その刃には、あなたの血がついていたんじゃないかしら?」
夕妃の射抜くような視線と、紗矢たちの疑惑の目を受けて、那月は却って落ち着いたようだ。薄笑いすら浮かべて、肯定した。
「その通りですよ。まさかこんなに簡単に、感染してくれるとは思いませんでしたけど」
夕妃は身の内に燃えるような怒りを感じ、感情の赴くまま、沸き起こったそれを那月に叩きつけようとした。
しかし夕妃が動く前に、乾いた音が部屋に響いた。
「あんたは……なんてことを!」
紗矢が、那月の頬を打ったのだ。怒りと呆れのあまり、言葉が出てこないらしい彼女は、目を潤ませ、那月を睨みつけていた。
「申し訳ありません! 私の教育が至らなかったんです」
紗矢は早瀬に、深く頭を下げた。早瀬の方も、呆然として言葉がない。ああ、と掠れた返事が聞こえた。
「紗矢さん、責任を感じることはないですよ。僕は那奈姫を巻き込んでしまったことを後悔しているわけであって、御巫先生を排除できたことは満足しているんです。そもそも、彼が感染して那奈姫を連れ出したのなら、やはり我々にとって危険だったと――」
那月さん、と夕妃は饒舌な彼に静かに声をかけた。
「それ以上余計なことを言うと、その口を引き裂くわよ」
那月ばかりでなく、紗矢や早瀬までもが口を噤んだ。紗矢の憐れむような目に、夕妃は苛立ちを覚える。千尋を失って悲しんでいると思っているのだろうが、そんな単純な話ではない。この衝撃は、彼らにわかるはずもない。
「ともかく、現時点でわかる千尋が訪れた場所は、伯父の家だわ。そこで話を聞きましょう。――柊一さん、大丈夫?」
「……え、ええ。わかりました。話を通しておきます」
どうやら、柊一もかなりのショックを受けている様子だ。無理もない、彼にとって、千尋は単なる仕事仲間ではなく友人なのだ。すぐに受け入れろというのは酷だろう。
「それにしても、血は争えないものですわね、学園長」
夕妃は意味ありげに、早瀬に目をやった。彼の片方の眉が、ピクリと動く。早瀬が言葉を発する前に、今度は那月を見て、夕妃は口を開く。
「那月さんはご存じないでしょうけれど、あなたのしたことは、昔お父様がしたことの二番煎じよ。あなたより、もっと酷い方法だった。そのせいで、私の父は死んだの。……ねえ、どうやったのか、知りたい?」
「神々理事長!」
動揺する早瀬が愉快で、夕妃はくつくつと笑った。
「まだ、修了式まで少し時間があるわ。学園長と二人だけでお話ししたいから、悪いけれど皆さん席を外してくださる?」
場の支配者となった夕妃は、有無を言わさぬ口調で告げた。
「なぜ、あなたがあのことを知っている?」
紗矢たちが退出し、ドアが閉まった瞬間、早瀬は夕妃に詰め寄った。これまで、親子ほども年の違う夕妃を脅威に感じたことはなかったが、今は何よりも恐ろしい存在に見えていた。彼女は一体、何者なのだ。早瀬の混乱を見透かしたかのように、夕妃は言った。
「簡単よ。あの時、私はあの場にいたの。だから、この目ですべて見ているわ」
「それは有り得ない。あの場にいれば、命はなかったはずだ。暴走した悪魔が、あの場の人間を全員殺してしまったのだから」
「そう……あなたはそう考えていたのね。私はどこかに預けられて育ち、忽然と現れて、夕族の当主の座についた、と」
早瀬は慎重に頷いた。夕妃には様々な噂が囁かれている。いずれも、残虐さを強調する逸話だ。その最たるものが、父を殺して当主の座を奪ったという話だろう。しかしそれは事実ではないと早瀬は考えていた。彼女の父親を死に追いやったものの正体を、早瀬は知っていたからだ。
「私は君の両親から、君は病弱で、学校に通うこともままならず療養していると聞いていた。どこかの病院にいたのではないのか?」
「確かに私は病弱で、医者からも大人になるのは難しいと言われていたわ。でも、今は見ての通り健康よ。さて、どうしてかしら」
夕妃は組んだ手の上に顎を乗せ、小首を傾げた。あどけない表情だが、成人であることは間違いない。二十代後半くらいだろうか。
そこで早瀬は、一つおかしな点があることに気づいた。夕妃の両親は、早瀬と同年配で、子供の年齢も、話では那月より二歳ほど年上だった。つまり、順調に成長しても、まだ大学生くらいのはず。しかし、目の前にいる女性はどう見ても――。
「計算が合わない。そうよね?」
「じゃあ、君は……いや、そんな馬鹿なことが……」
「一般人から見たらバカみたいな力を振り回している私たちが、怪異を否定するの? 常識を取り払って考えたら、すぐにわかるでしょう。だって、あなたはこの姿が好きだったのだから」
早瀬は見上げてくるその目を、口元のほくろを、見つめた。無意識に、呟いていた。
「夕華さん……」
夕妃は満足げに目を細めた。
「あなたに、教えてあげるわ。夕族の人間ですら、知らないことよ。この身体は、神々夕華のものだった。でも、彼女の魂はもうないわ。何故かは、あなたの方が詳しいわよね?」
催眠術にでもかかったように、導かれるまま早瀬は答えていた。
「私の妻が、君の父親を感染させようとしたからだ。それを知った彼女は怒り狂い、アポルオンを呼び寄せた。しかし最強の悪魔は契約と共に力を得て、彼女の魂を瞬く間に食い尽くしてしまった。彼女は憐れにも悪魔の操り人形となって、君の父や私の妻を――」
「あなたは誤魔化すのが上手ね。もっと直接的に言えばいいのに。あなたは自分の妻を使って父を誘惑し、性行為によって感染させようとした。この理事長室で密会していたのよね。そして母が旅行に出かけると聞いて、神々家の自宅で事に及ぼうとしたけれど……」
「ああ、その通りだ。私は妻と面識のない君の父親を騙し、感染させて葬り去ろうとした。妻に命じたわけではないが、子供たちの未来のため、命を懸けたのだ」
彼女がそれを口にした時、早瀬は止めることもできた。しかし結局は、一族のためと割り切って送り出した。それほどまでに、夕妃の父親は恐ろしい存在だった。唯我独尊、気性が荒く、戦えば滅法強い。当時から学園長だった早瀬は、虎の尾を踏まぬよう神経を使い、彼の理不尽な要求や叱責にもなんとか耐えていた。しかし妻には、そろそろ限界が来ていることがわかってしまったのだろう。
「別に、あなたたち一族の事情なんてどうでもいいの。ついでに言ってしまえば、父も自業自得だと思っているわ。私が許せないのは、その方法よ。母がアポルオンを呼ぶほどに強い憎悪を抱いたのは、父を感染させようとしたからじゃない。女としての嫉妬よ。その屈辱がなければ、母はアポルオンと契約して二人を殺そうだなんて考えなかった」
早瀬は脳裏に、般若の面を思い浮かべていた。般若の面は、元は人間であった役が、鬼女となった時に用いられる。妬み、苦しみ、怒りをたたえている。夕華はまさに、それらの感情によって般若になってしまったのだ。
「そして母の魂は消えてしまったけれど、その器を、私が頂いたの。まだまだ若い身体だし、何より健康だもの、気に入っているわ」
「そんなことが、可能なのか?」
「今ここに私が存在している事実が、答えでしょう。だから残念ね、あなたが横恋慕していた夕華はもういないの。見かけは同じでも、私は母のように穏やかでも優しくもない。それってもどかしくて気が狂いそうよね」
「私に、真実を告げたのは……」
「そうよ、あなたが苦しむと思ったから。この先ずっと、過去の罪と喪失感を目の前に突きつけられ続けるのは、どんな気分?」
夕妃は夕華と同じ顔で、彼女が絶対に浮かべたことのない表情で笑った。笑顔のはずなのに、恐怖が迫ってくる。これが、復讐なのだろうか。ぼんやりと、早瀬は考えていた。
彼らを殺したのは、自分だ。あんなことが起こるとは思わなかった、などという言い訳は通らない。過去の罪は、いずれ償わなければならないだろうと覚悟していた。
しかし、今早瀬にとって最も重要なことは、己自身よりも大切な娘が無事に戻ることだ。
「あの時のことは、本当に申し訳なかった。すべての非は私にある。ただ今は、那奈姫を協力して捜してほしい。あの子には、何の罪もないんだ」
早瀬は夕妃に向かって、深く頭を下げた。
「……つまらないわ」
夕妃は窓の外に目をやり、ぽつりとこぼした。
「あなたをいじめたら、どんなに愉快だろうって思っていたの。だって、私はずっとあなたを恨んでいたのだもの。でも、もうどうでもいい気分だわ」
空を見上げ呟く姿は、飛び方を忘れ途方に暮れる鳥のようだ。おそらく、彼女の片翼を担っていたのは、あの青年だったのだろう。息子も残酷な真似をしたものだと、早瀬は思った。
「千尋は、どこにいるのかしら。何のために、伯父様を殺したのかしら」
答えを求めているようには聞こえなかったが、早瀬は彼にとって自明の答えを口にした。
「何のためかといえば、それは君のためだろう。君と伯父上は、不仲だったと聞いているが」
「千尋が、私のために? そんなこと、有り得ないわ」
寂しげに、夕妃は言った。憂いを帯びた表情は少し、夕華に似ていた。
「伯父様の家で、那奈姫さんのことも聞いてみるわ。あくまでも、千尋のついでに、だけれど」
「ありがとう。それで構わない。私も、一族を動員して情報を集めるよ」
人騒がせな娘だと早瀬が冗談めかして言うと、夕妃は少しだけ笑った。
神々洸史の家は、大邸宅ではあるが奇妙な姿をしていた。
切り立った崖の上という立地は素晴らしく、遠目に見れば映画の一場面にも堪える趣のある洋館だ。しかし敷地内に入り裏庭に回ると、少々怪しくなってくる。
枯山水と石灯籠が配された純和風の様式だが、そもそも石灯籠が砂利の中にぽつねんと佇んでいることがおかしい。庭に面して縁側も作られているが、上階は洋風の造りなので、どうにもちぐはぐだ。
同行した柊一や紗矢は、物珍しさからあちこちを興味深そうに見ているが、夕妃は嫌悪感しか抱かなかった。
伯父はすべてを手に入れたい人間だったのだと、今になって夕妃は気づいた。金と空間の許す限りの贅沢を、彼は目指したのだ。
それは物に限らない。権力も、名誉も、人も。最強の悪魔を従え、当主に君臨する自分はさぞ邪魔だっただろうと、夕妃は思った。だからといって、譲ってやれば良かったなどとは考えないが。この家や珍妙なファッションと同じだ。彼は欲しい物を手に入れても、それを活かすだけの器を持っていない。自らの許容量を理解できない者に、同情は抱けなかった。
突然現れた夕妃を見て、年老いた使用人はひどく狼狽した。一切を切り盛りしているらしく、先に来ていた警察官とのやり取りを中断させ、こけつまろびつ夕妃を迎えた。
この広い邸宅ならば他にも使用人がいそうなものだが、それについて問うと、老爺は一層恐縮して、皆逃げてしまったと答えた。
玄関に膝をついた使用人は、ようやく夕妃と目を合わせたが、その途端に縮み上がり、床に頭をこすりつけて、何かを呟き出した。くぐもっていてよく聞き取れないが、どうやら許しを乞われているようだ。何卒、命だけは、と繰り返している。
「あなたの命なんかに興味はないわ。私は千尋がここに来たのか、聞きたいだけよ」
老爺はぽかんと口を開け、夕妃を見上げた。
「はあ、では夕妃様のご意志ではなかったのですか。私はてっきり、夕妃様が千尋さんに命じられて、先手を打ったのかと……」
なるほど、だんだん話が読めてきた。洸史は夕妃を誅するために、会合を開いていたのだろう。そこに、千尋が加わっていたのだ。洸史は彼を仲間に引き込んだつもりだったが、実際は――というところか。夕妃が千尋の両親を殺したという話は、洸史も知っている。千尋と接触しても、不思議ではない。
「あの、一緒に、女の子は見ませんでしたか? 高校生です」
痺れを切らした紗矢が割り込んだ。期待を込めた視線に、しかし、使用人は首を振ってきっぱりと否定した。
「お酒やなんかをお持ちした時には、女性の姿はありませんでしたねえ。話の中身から考えても、部外者は入れなかったと思います」
深夜なので人の行き来などないに等しかったが、他の使用人を含め、一応の人払いはしていたという。それも、洸史の指示だった。
「それで、千尋はいつまでここにいたの?」
「私も一時頃には自室に戻って休んでいたので、はっきりとは。ただ、明け方五時くらいに、車が出て行く音を聞いた気がします」
床に座り込んで小さくなっている使用人は、夕妃への疑念を拭いきれぬ様子で尋ねた。
「では、夕妃様は洸史様に近い者を粛清されるおつもりはないのですね」
「さあ、どうかしらね」
夕妃が意地悪く迷う素振りをしてみせると、使用人は面白いように慌てた。
「どうか、お助けを……! 私はあんな最期は御免です」
老爺は体を震わせ、自らの両掌を見つめた。
「あの感触は忘れられません。洸史様の髪は凍りついて針のようで……あまりに驚いて頬に触れたら、皮膚がはがれて私の手に……」
乾いた目を見開いた老爺は、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように喘いだ。
「結局、大したことはわからなかったわね」
千尋の行方はわからず、那奈姫に至っては足取りが全く掴めていない。明らかに気落ちしている紗矢は、見ていて気の毒だった。淡々と仕事をこなしている、柊一も。
「千尋がここから移動したのは確かですから、明け方に時間を絞って調べましょう。車なら見つけやすいと思いますよ」
「そうね、タクシーも呼ばないと来ないでしょうし、そんな時間なら他に車も……」
「どうしました?」
突然立ち止まった夕妃を、柊一が振り返る。
「千尋はどうして車を使ったのかしら。移動するのに車をわざわざ呼ぶ必要はないわ」
悪魔の力を借りれば、飛翔も自在にできる。人目につかない時間帯ならば、尚更そちらを選択するはずだ。行方をくらます意味でも、車は邪魔だろう。では、なぜ千尋はそんな危険を冒したのか。答えは簡単だ。
「千尋はうちの車を使ったんだわ。そして私が異常に気づくのを遅らせるため、車を屋敷に戻す必要があった」
「しかし、それなら初めから神々家の車を使わなければ良かったのでは?」
確かに、家の車でここに来なければ、車を戻す必要も、夕妃に気取られる恐れもない。
「そのあたりは、彼に聞いてみればいいわ」
柊一と紗矢に、夕妃はカーポートの方向を示した。車の鍵は桜沢が持っている。千尋でも、彼の断りなく車を借りることはできない。しかし、千尋と何らかのやりとりがあったはずの桜沢が、それを夕妃に伝えなかったのはなぜだろうか。そこは引っかかるが――。
「あの、今、声が聞こえませんでしたか。悲鳴のような……」
紗矢が言い、柊一も同意するように頷いた。物思いに耽っていた夕妃には聞こえなかったが、嫌な予感がした。三人は同時に駆け出し、建物を回った先のカーポートを目指した。
角を折れた途端、頬を、冷風が撫でていった。……ああ、彼だ。夕妃は確信し、目に入った光景に、乾きが満たされていくような感覚を覚えた。
「御巫!」
叫んだのは紗矢だった。柊一は呆然と立ち尽くしており、紗矢も声を発したのは無意識だったようで、目を見開いたまま動けずにいる。
夕妃の乗ってきた車は、無残な姿に変わっていた。フロントガラスには蜘蛛の巣のようなひびが入り、上から圧縮したように運転席の真上辺りが潰れている。ボンネットの下から煙が立ち上り、金属が焦げた臭いがした。逃げる手段を封じられた桜沢は、それでも必死に逃げようとしたのだろう、助手席のドアが開け放たれていた。そしてその前の地面に、力尽きたように倒れていた。
うつ伏せになった桜沢は、目を見開いたまま事切れていた。穴の開いたジャケットの背中が、湿って黒ずんでいる。
千尋の手にある、血の滴る特殊警棒を見れば、何が起こったのか考えるまでもなかった。口封じ、という言葉が夕妃の頭を過る。
千尋はまるでこちらが見えていないかのように、鋭く尖った金属の先端を持っていた布で拭った。白い布が、血の色に染まる。
窺うように紗矢が自分を見ているのには気づいていたが、夕妃はそれを無視した。涙ながらに説得して応じるような関係でもない。かける言葉を、夕妃は持ち合わせていなかった。
意を決したように、紗矢は千尋を正面から見据えた。
「那奈姫はどこ? あんたと一緒にいるの?」
千尋は顔を半ば伏せ、緩く頭を振った。知らないという意味に取れたが、それが真実かまでは読み取れなかった。
「……そう。それなら、もう話すことはないわ」
静かに言い放った次の瞬間、紗矢は地面を蹴り、一本の矢のように千尋目がけて飛びかかっていた。駆け抜けた風が、夕妃の髪を揺らす。夕妃は止めるでも加勢するでもなく、その場で成り行きを見守っていた。
紗矢と共に飛翔した風鬼が、突風に姿を変えて千尋に体当たりを仕掛ける。千尋はそれを躱したが、背後の車のボディは殴られたようにへこみ、周辺の窓ガラスが砕け散った。間髪入れず、水鬼の操る水柱が、獰猛な獣のように左右から千尋目掛けて突進した。飛沫をあげ、地面を削り、一旦は彼の体を掠めたように見えたそれは、急激な冷却によって凍りつき、自由を失った。軽く払われた腕で氷は砕け散り、水鬼が悲鳴を上げて林の中に吹き飛ぶ。
「まだまだ!」
紗矢は叫び、懐から取り出した木刀を振りかざして切りかかった。千尋がそれを警棒で受け止め、鈍い音が辺りに響く。切り結ぶうち、鋭い太刀筋で紗矢が斬撃のスピードを加速させていく。
刃を翻し、警棒を弾き返した紗矢が、とどめとばかりに木刀を上段に振りかぶる。
その時、夕妃は千尋の背後に、蜃気楼のような空間の揺らぎを目にした。立ち昇る、鬼の気配。隠形鬼だ。隠れて虎視眈々と機会を窺い、獲物が近づいた途端、姿を現して鋭い爪で切り裂く。
陽動を務めた紗矢は、勝利を確信して口の端に笑みを浮かべた。衣を切り裂く、引き攣れた音。
しかし続いて聞こえたのは、鬼の上げた断末魔の声だった。
「……え?」
表情を凍りつかせた紗矢は、深々と胸を貫かれた隠形鬼を目にして言葉を失った。鬼を突き立てた刃は、地面から垂直に伸びている。
「金属の鬼神……」
夕妃は呟いた。土には多くの金属元素が含まれている。千尋はおそらくそれを操作し、硬度の高い金属を作り上げたのだ。
「そんな……」
鬼は朽ちて灰になり、瞬く間に風の中に消えていった。紗矢の顔に、初めて怯えの色が覗いた。視線は自然と、足元へと向かう。土の上にいる限り、千尋は今のような攻撃をいつでも仕掛けることができる。常に、いつ爆発するかしれぬ地雷の上に立つようなものだ。怯んだ隙を見逃さず、千尋が紗矢の木刀を弾き飛ばした。
手段を失った紗矢の顔が、絶望に歪む。
「――動くな」
柊一が、千尋に銃を突きつけていた。ひしゃげた車の陰に潜んでいたのだろう。存外に冷静な行動に、夕妃は内心感嘆していた。
しかし、銃口はここから見ても、小刻みに震えていた。それでも、柊一は痛ましいくらいの虚勢を張った。
「いくらノーコンでも、この距離じゃ外さないぞ」
無理やりに浮かべた笑みは、泣いているようにも見えた。
千尋は相変わらずの無表情で、銃口に視線を向けた。そして、引き金を引けずにいる柊一を嘲るように、本当に微かに、口の端を上げた。
息を飲んだ柊一の手首を、千尋は上から掴んだ。そのまま手をゆっくりと滑らせ、銃に触れる。
「千尋……?」
僅かに残った希望に縋るようにして、柊一が口を開く。だが次の瞬間、期待は崩れ去った。千尋が銃を押し下げると、構えたままの銃と共に柊一の身体が前に傾く。近づいた鳩尾を、千尋は膝で思い切り蹴り上げた。声もなく、柊一が膝をつく。
戦意を失った二人を見下ろし、それから、千尋は視線を夕妃に向けた。
目が合う。夕妃の心臓が、どくりと脈打った。歓喜のためか悲しみのためか、夕妃自身にもわからなかった。
自分たちにとって、言葉は重要ではないと、夕妃は悟った。言葉を発することはいつも、本心を覆い隠すことだった。言葉を重ねるほど、本心は一層深い水底へ沈んでいく。
夕妃は目を閉じ、意識を集中する。背後に、圧し掛かるような存在を感じた。重たげに翼を開く音が聞こえる。
濃密な闇の気配を背負い、夕妃は目を開いた。千尋の背後にも、雪嵐の鬼神の姿が現れる。吹雪で視界を奪われては厄介だ。過たず彼に攻撃を当てるには、先手を打つしかない。
戦略を立て、夕妃は一切の感情を消すように努めた。少々狂いは生じたが、これは予想された結末なのだ。親を殺された少年が、その仇に刃を突きつける。少年は仇を打つために自らの人生を犠牲にし、ようやくこの瞬間に辿り着いた。しかし彼は今、どこまで自らの意識を保っているのだろう。完全に、ウイルスの乗り物と化してしまったのだろうか。
見極めるまでは、大人しく殺されてやるわけにはいかない。夕妃は悪魔の翼で羽ばたくと、限界まで圧縮した力を千尋に向けて解き放った。それは黒い竜のようにうねり、放電し、衝撃波を撒き散らして突き進む。刈り揃えられていた芝生は土ごと削れて舞い上がり、小石が弾けて雹のように降り注いだ。空気がびりびりと振動し、夕妃の頬も痺れを感じる。
千尋はおそらく、左右どちらかに身を躱す。そこを追撃し、追い詰めていけば、いずれ隙が生じるはずだ。だがその作戦が成功したとして最終的にどうするかは、決めかねていた。あるいは意図的に、考えないようにしていた。
さあ、どちらに避ける? ほんの数秒に過ぎない時間が、数倍にも感じられた。
そして反撃は突然に始まった。
予想に反し千尋は一歩も動かず、前方に手を翳した。彼の前の地面が、隆起する。ただの土塊だったものが鈍く光る堅牢な要塞となって立ちはだかり、夕妃の攻撃を弾き返した。
要塞はさらに鋭い刃に姿を変え、海面に背びれだけを見せて迫るサメさながらに地面を滑って向かってきた。夕妃は高度を上げ、刃から逃れる。
だが逃れたと思ったのも束の間、思いがけない攻撃に動揺していた夕妃は、突風を受けてよろめいた。縋る物も身を隠す物もない空中では、身体が風の衝撃を直接受けてしまう。冷気と共に雪が舞い、痺れて肌の感覚が消えていく。夕妃はたまらず腕で顔を庇った。
風がごうと唸りを上げ、勢いを増した。その場にとどまることがやっとの夕妃は、近づいてくる気配に戦慄した。
吹雪が飛礫のように体のあちこちに当たり、とても目を開けていられなかった。これで自分の人生は――結局誰の人生だったのかもわからないが――終わるのだろうか。夕妃は突き立てられる刃を思う。
目を閉じたままであっても、千尋がすぐ傍にいることはわかった。気づけば夕妃は、口づけを待つように、彼に殺されることを待っていた。抵抗するつもりなど、初めからなかったのだ。胸の奥深くに眠っていた願いを、夕妃はようやく認めた。
不意に、風が弱まった。目を開けた夕妃は、頬に触れた冷たい指と、離れていく残像を目にした。
横の運転席から声がかかった気がして、夕妃は伏せていた顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
おそらくは二度目の言葉を、柊一は口にした。ハンドルを握っているため目線は前方だが、夕妃を気にしている様子が窺えた。
「あなたに心配されるなんて、私も耄碌したわね」
自嘲を込めて呟けば、柊一はほっとしたように顔を綻ばせた。自分もショックを受けているだろうに夕妃を気づかえるのは、根っからの優しい人間だからだろう。
車内には今、二人しかいない。神々家の車と運転手は使い物にならなくなってしまったため、夕妃は警察の所有する車両に乗っていた。その安堵感からか、夕妃はぽつりと本音を呟いていた。
「千尋はどうして、私を殺さなかったのかしら」
訝しげな視線を投げられると思ったが、柊一は落ち着き払った声で言った。
「殺したいほど、あなたを恨んでいたはずなのに?」
「……知っていたのね」
ため息混じりに言えば、高校からの付き合いだから、と言い訳するような答えがあったが、そうではないと、夕妃は思った。千尋は柊一を信頼していた。出会ってからの時間の長さではなく、彼の人間性を敏感に感じ取ったからだろう。暗い秘密を抱えて生きる異才の一族は、人付き合いに神経質な分、本質を見抜く目に長けている者も多い。
「千尋が感染したと知った時、真っ先に私を殺しに来ると思っていたの。でも、私のことなんて全く興味がないみたいだった」
「まるで、そうならなくて残念だったとでも言いたげな口ぶりですね」
「……こんなことになって、それ以外に何を望めというの? もう、普通に話すことも、軽口を叩くこともできないのよ」
感情が溢れそうになり、夕妃は唇を噛んだ。なぜ、あんなどっちつかずの関係を冗長に続けていたのだろう。しかも自分は、その状態をぬるま湯のように心地よく感じていた。今から考えれば、とんだ茶番だ。
「千尋は私ではなく、那奈姫さんを選んだのよ」
認めたくない事実だが、それならば、絶好の機会に夕妃の前を素通りした説明がつく。
「では、洸史さんや桜沢さんたちを襲った理由は? あなたが無関係であるはずはないでしょう」
「……わからないわ」
負けを認めるような気分で、夕妃は答えた。
「もう、何もわからない。何を信じれば良いのか」
同意を示す代わりに、柊一は淋しげに目を細めた。
夕妃は日の傾き始めた学園に戻ってきた。修了式を終えた校内に、生徒の姿はとうになく、彼らは既に寮を出て自宅に向かっている頃だろう。那奈姫の件はひとまず生徒たちには伏せられたため、教師たちの混乱を知る者はいないはずだ。もし那奈姫に連絡を取ろうとすれば応答がないことを不審に思うかもしれないが、担任の紗矢から単なる風邪と聞けば、それ以上は追及しない。
そうやって、この学園は過去にも事件を秘密裏に葬ってきた。反目し合う夕族と眞族ではあるが、不都合な真実を外に漏らさぬよう、この時ばかりは一続きの壁になる。感染者討伐による死者は不運な事故の被害者に書き換えられ、やがて忘れられていく。しかし千尋と那奈姫のことがどう決着するのか、未だ先が見えなかった。千尋が那奈姫を連れ去ったのならば、一続きの鉄壁にも亀裂が入るかもしれない。
夕妃はいつものように理事長室に向かい、椅子に深々と身を沈めた。軽く体を揺らせば、スプリングが軋む音が鳴る。椅子が悪くなると、千尋は度々夕妃を嗜めた。
机の端には、積み上げた本がそのままになっていた。ようやく一通り目を通し、欲しい情報を掴みかけたのだが、それを使う機会はもう来ないようだ。いっそ本を燃やしてしまおうかと思ったが、そんな気力も最早なかった。思考すること自体が、面倒だった。
やけに響くノックが聞こえてきたのは、夕妃が机に伏せてまどろんでいた頃だった。紗矢のようにせっかちでもなく、早瀬のように重い音でもない。夕妃は軽く頭を振ると、凛とした声で応じた。
「理事長、少々よろしいでしょうか」
「――広瀬先生。珍しいわね」
彼女がここを訪れたことは、これまでなかったはずだ。今になって何のために。夕妃は素直に驚きを見せながら、訪問の真意を探ろうと彼女を観察した。前代未聞の事件が起きているというのに、広瀬はどこか、この状況を面白がっているような表情をしている。
「御巫先生のことは何と言ったらいいか……良い先生だったのに、本当に残念ですわ」
「あら、眞族の方々は、てっきり千尋を非難していると思っていたわ。感染して人を殺した挙句、大事な当主の娘を連れ去った極悪人だって」
「ええ、中にはそう言う者もいますよ。でも私は、違うと思います」
夕妃が問うような視線を向けると、広瀬の顏ははっきりと、優越感の滲む笑みを刻んだ。
「那奈姫さんのことで、親友の遠野歩さんからちょっと気になることを聞いたんです」
ほんの数日前のことだと、広瀬は言った。遠野歩が、怪我をして保健室を訪れたという。
「手首に、血が滲んでいて、鬱血もしていました。誰かに掴まれて、爪が食い込んだみたいに。いじめじゃないかと思って、私、かなりしつこく誰にやられたのかと問い詰めました。そうしたら……那奈姫さんだって言うんです」
「あの子が、友達に、暴力を?」
夕妃には信じられなかった。鬼ですら傷つけたくないとのたまう彼女が、そんなことをするだろうか。
「私もおかしいと思いましたが、遠野さんは嘘をつける子じゃありません。いつもの那奈姫さんじゃなくなったみたいだったと、彼女は言いました。それで私、思ったんです」
「……那奈姫さんも、感染している? じゃあ、突然異才に目覚めたのも……」
広瀬は頷き、笑みを深めた。授業中のような口調で出題する。
「御巫先生と、那奈姫さん。二人がほぼ同時に発症しました。これは、偶然でしょうか?」
「あなたは、自分が何を言っているかわかっているの?」
美しく整った広瀬の顔が、醜悪に見えた。悪魔のようだと、夕妃は思った。ステレオタイプな悪魔は、こんな風に囁き、絶望を連れてくるに違いない。
「もちろんですわ。養護教諭ですから、主な感染経路だって理解していますよ。つまりあの二人は関係を持ち、互いのウイルスに――」
「黙りなさい!」
叫ぶと同時に、夕妃は無意識に衝撃波を放っていた。壁が砕け、剥き出しになった鉄骨が見えている。その下で、広瀬は大きく目を見開き、へたり込んでいた。しゃがまなければ、確実に頭が潰れていただろう。ショックからか、広瀬の目は夕妃の方を見ているが、焦点が合っていない。夕妃がゆっくりと椅子から立ち上がると、這うようにして部屋から逃げていった。
この上、那奈姫も感染している? 夕妃は今度こそ、全て投げ出したい気分になった。しかも広瀬は、千尋と那奈姫の関係を疑うような発言までした。
千尋の感染は、那月の行動が原因だと考えていたが、実はそうではなかったのだろうか。
夕妃は理事長室を出て、学園内を彷徨っていた。どこかに千尋が隠れているのではないかと、望みの薄い期待をしながら。
校舎を出て、靴や服が汚れるのも構わず、細い小道を進んだ。それが図書館に繋がる道だと気づいたのは、草むらの向こうに、西日を受けて輝く薔薇の庭園を目にしてからだった。
赤い花弁は嫌が応でも血を連想させた。特に日を浴びているものは乾ききらない血が滴っているようにも見える。夕妃は誘われるように身をかがめ、艶やかな花弁に指先を這わせた。
背後で、土を踏みしめる音がした。夕妃は弾かれたように振り返る。
驚いたような顔で立ち尽くしているのは、司書の閖根だった。
「夕妃様……お召し物が汚れますよ」
他に言うことがあるだろうに、どこかピントのずれた指摘は、千尋に少し似ていた。ぼんやりと見上げていると、閖根はふっと真面目な表情を崩し、柔らかく微笑んだ。
「まるで、迷子になってしまった子供のようなお顔をされていますね」
不貞腐れて、夕妃は目線を逸らした。
「仕方ないじゃない、私は子供よ。一人じゃ何もできないもの」
口を尖らせて言う夕妃を見て、閖根はまだ笑みを絶やさずにいる。
「私はどうやら、思い違いをしていたみたいです」
あなたと千尋さんのことを、と閖根は続けた。
「夕妃様は……千尋さんのことがお好きなんですね」
夕妃は不思議と、抵抗なく頷いていた。
「千尋は私を恨んでいたけれど、私が彼を嫌う理由なんてないわ。彼のご両親にも、本当に感謝しているの」
夕妃は図書館の出入り口に通じる階段に腰掛け、閖根を見上げた。
「私の話、聞いてくださる?」
「ええ、もちろん」
閖根は夕妃の隣に腰掛け、頷いた。閖根の持つ、包み込むような雰囲気に背中を押され、夕妃は口を開いた。
「すべての発端は、私の父が浮気をしたことよ。相手はあろうことか、眞族の当主、現学園長の妻。まあ、その情報は知らなかったようだけど……ともかく、父はそのせいで母の怒りを買った。怒りというより、嫉妬かしら。きっと、気が狂うほどの憎悪だったと思うわ。そして母は、最強の悪魔と謳われるアポルオンを呼び寄せた。母はその悪魔と契約し、鳴神早瀬の妻もろとも、殺したわ。でも、事はそこで終わらなかった。母はアポルオンを制御しきれず、自我を喰われてしまったの」
尋常でない物音が気になり、病弱だった夕妃はベッドを抜け出した。そして、二つの死体と、血を浴びて立つかつて母だったものを目にした。久方ぶりに暴れまわる身体を得た悪魔は、夕妃に気づき、その矛先を向けた。
「私は恐怖におののいたわ。いつ死んだって構わないと思っていたはずなのに、死にたくないと震えた」
しかし、少女に為すすべはない。その時、見知らぬ者の声がした。
――間に合わなかったか。
悔恨に満ちた声は、千尋の父親のものだった。
――いいえ、この子だけでも、助けられるわ。
そう言って夕妃に優しい眼差しを向けたのは、千尋の母親だった。
彼らは、夕妃の母から相談を受けて、東京から日光に帰省していた。母の危うさに、気づいていたのだろう。
「でも、あの悪魔は強すぎた。大人二人がかりでも、とてもかなわなかったの。それほど、母の憎悪が深かったのかもしれない」
夕妃はずっと、母を呼び続けていた。呼びかければ、母が帰ってくると信じて。しかしそんな奇跡は、起こらなかった。
「あの時、何が起こったのか、よく覚えてないの。ただ、千尋のお母様が、私にこう言ったのは覚えているわ」
――これが正しい方法かはわからない。でも、あなたを助けるにはこれしか……。
「気づくと、私は部屋に一人で立ち、自分の死体を見下ろしていたわ。服には夥しい返り血が付いていた。……そう、私は母の中にいたの」
千尋の母親は、夕妃の魂を母の夕華に移したのだ。そして夕妃は自らの力で、悪魔を従えることに成功した。そうして、実父を殺して当主の座を手に入れたという、真実とかけ離れた逸話が生まれた。
「そんな、ことが……」
普段落ち着き払っている閖根も、さすがに言葉を失っていた。
「ごめんなさい。こんな話、今さら話しても気分が悪いだけね」
立ち上がろうとした夕妃を、閖根のほっそりとした腕が引き留めた。
「いいえ、千尋さんの両親のこと、聞けて良かったわ。彼らは、私の大切な友人でしたから。それから、あなたのことも。――どうして、本当のことを明かさないのですか? あなたは何一つ、悪いことをしていないのに」
なぜ、残酷な人間を演じ続けるのか。一族をまとめるためだというそれらしい嘘は、閖根には通用しないだろう。夕妃は再び口を開いた。
「すべてが終わった後、私はしばらく、呆然としていた。人の気配がして、ようやく我に返った。開け放たれた扉の向こうに、千尋が立っていたの」
初めて見た彼は、一目で学生だとわかる詰襟姿だった。穢れを知らない目が、驚きに見開かれていた。夕妃はその一場面ずつを瞼の裏に描き出し、うっとりと呟いた。
「千尋を見た時、私は彼を手に入れたいという衝動に駆られたわ。どんな手を使っても、たとえ向けられるのが愛情でなくても、構わないと思うくらいに」
――あなたのご両親を殺したのは、私よ。
夕妃はそれ以降幾度も浮かべるようになった冷たい微笑で、千尋に告げた。驚きは憎悪に変わり、穢れのなかった目は殺意に濁った。
「それだけのために、あなたは……」
閖根は溢れる感情を抑え込もうとするかのように、口元を手で覆った。我ながら馬鹿げたことをしたものだと、今なら思う。
「初めは、それで十分だと思った。彼が殺意を向けるのは私だけ。私は死ぬまで、彼の特別な存在であり続ける」
それが最近になって、少しずつ違和感を覚え始めた。求めていたものは、本当にこれだったのか、という声が、夕妃の内で聞こえ出した。
「感染者を散々見てきたくせに、私は何もわかっていなかったわ。人間の欲望というのは、限りのないものだった。私は、“普通の愛情”を望むようになってしまったの。でも、その感情が芽生えたことで、私は理解した。私があの悪魔を制御できたのは、愛情を知らない、空っぽの人間だったから。私は喰われるだけの人間らしい魂を持っていなかったのよ」
夕妃はゆっくりと立ち上がり、揺れる瞳で自分を見上げる閖根に、寂しげに笑いかけた。
「私は千尋への感情を認めてしまった。もう、アポルオンを制御することはできないわ。直に、感染者と同じように身体を支配されるでしょう。この事実に気づいた時、私は思った。最期は、千尋の手にかかりたいって。でも、それも叶わないわね。彼は私のことなんて何とも思っていないようだから」
憎しみですら繋ぎ止めておけないなら、最早自分にできることはない。自分の存在などその程度だったのだろうと、夕妃は自嘲した。
「案外、広瀬先生が言ったことは正しかったのかもしれないわ。彼は私なんて面倒な人間より、那奈姫さんを選んだのよ。私は一体、何のために生きてきたのかしら……」
犠牲を払ってまでこの世に残してもらったのに、これでは恩を仇で返すようなものだ。いっそ泣きたい気分だったが、涙を流したことのない彼女は、泣き方もわからなかった。
「……まだ、諦めるのは早いのではないかしら?」
黙って夕妃の独白を聞いていた閖根は、夕妃が思わずはっとするような、毅然とした声で言った。
「千尋さんが感染しているかだって、まだわかっていません。たとえ感染していたとしても、あなたへの思いが全く消えることはないでしょう。千尋さんは前に言っていました。裏切るかどうかだけが、その人を判断する基準ではないって。それはつまり、裏切られる不安を抱えていても、好きで居続けることはできるということではないかしら」
夕妃の頭を、かつて自分が発した言葉が過った。箱崎春海に夕妃はこう言ったのだ。
――信じられないから、人を好きになれないの? 裏切られようと憎まれようと、好きならそれでいいじゃない。
答えは初めから、自分の中にあったのだ。そして千尋も、同じ思いだった。夕妃は憑き物が落ちたように、すっきりとしていた。
「ありがとう、閖根先生。私、最後の瞬間まで、千尋を好きで居続けるわ」
彼に憎まれていたとしても、何の価値もない存在に成り下がっていたとしても。ただ、自分の思いを貫く。それだけだ。
「ええ、それでこそ夕族最強の当主の姿です」
閖根は晴れやかな笑みで、夕妃を称えた。
「そう、当主は無様な姿を見せられないわ。千尋だってきっと、強い私を望んでいるはず」
心に炎が灯ったかのようだ。夕妃は決意を確かなものにしようと、胸の前に拳を当てた。
「私も、祈っています。あなたと千尋さんに、救いが訪れることを」
「嬉しいわ。……でも、もし私が母のように暴れたら、その時は逃げてちょうだいね」
閖根に見送られ、夕妃は図書館を後にした。おそらくもう二度と、あの見事な薔薇園を見ることはないだろうと思いながら。
紗矢はホテルの正面玄関から、ロビーを見渡した。外から見えない位置に、見慣れたスーツ姿を見つけた。
「ごめんなさい、待った?」
まるで恋人にかける言葉だと思ったが、それを面白がる余裕は紗矢にも待ち合わせ相手の男――柊一にもなかった。
「いや、そうでもない。悪かったな、俺が携帯をなくさなけりゃ……」
「起きたことはもういいわ。警察は、何か掴んだ?」
柊一は無言で首を振った。
「どちらの行方もわからない。まさか、俺たちが動く前にこんなことになるとはな」
「ホントに。ここまでの苦労が水の泡だわ」
紗矢が協力者として手を組んだのは、柊一だった。夕族の近くにありながら、監視されることのない立場。警察の情報も回してもらえるとなれば、これ以上ない協力者だった。手を組んでから、一年ほど経つだろうか。彼は御巫の友人であり、当初は二重スパイではと訝ったが、事情を聞いて紗矢も納得した。神々夕妃への復讐に囚われた御巫を解放すること。それが、柊一の目的だった。夕妃を御巫から引き離すため、彼も実行役を探していた。
「そっちはどうだ?」
「めぼしい情報はないわね」
まずは、と仕切り直すように紗矢は言った。
「御巫をどうにかしないとね。無差別に攻撃を始めたら、大惨事になるわ」
正直、あそこまで歯が立たないとは思わなかった。夕妃にばかり気を取られていたが、戦闘のセンスは化け物じみている。むしろ、彼の方が厄介かもしれない。
「なんとかして、那奈姫のことを聞き出したいと思っているんだけど……」
「お前も、千尋が那奈姫を連れ出したと思っているのか?」
打ちひしがれた様子の柊一に、紗矢は慌てて首を振った。
「確かに眞族内ではそういう意見もあるけど、神々洸史の家で聞いた話を考えると、違うと思うわ。あいつ、単独で動いている気がする。那奈姫のことを聞きたいのは、感染には関係なくて……御巫はたぶん、私たちの知らない那奈姫の顔を、知っていると思うから」
二人は、昨晩電話もしている。具体的な場所は聞かされていなくても、御巫には予想がつくかもしれない。
「やっぱり、次に現れるとしたら理事長のところかしら」
しかし、運よく遭遇したとしても、先程のように戦闘になれば話どころではない。策を練る必要があると考え込む紗矢の前に、柊一は紙袋を一つ、置いた。見慣れた草灯屋の袋。しかしその中身は、何やらいびつな形の紙包みだ。
柊一は周囲を見て、こちらに注意が向いていないことを確認すると、低い声で告げた。
「俺の拳銃が入っている」
「はあ? どうしてそんな――」
大声は我慢できたが、思わず声が裏返る。柊一は、有無を言わさず袋を押しつけた。
「使い方は一応、前に教えただろ。いや、使わなくてもいいんだ、一瞬の隙を作るための道具だと思えばいい」
確かに、異才といえども、銃を向けられれば怯む。でも、と煮え切らない紗矢に、柊一は言った。
「頼む。どうにか千尋を止めてやってくれ」
「……わかったわ」
紗矢は結局、銃を受け取った。
柊一が望んでいるのは、はったりとしての使い方ではないだろう。御巫を止めるなら、撃たなければならない。たとえそれで死んだとしても構わない、というよりも死が御巫にとって救いになると、柊一の目は言っていた。
ホテルを出て、紙袋を重さを感じながら紗矢は呟いた。
「あんたも、殺してまで止めてほしいって思ってる?」
やけに頼もしく見える、紗矢の背中を見送って五分ほど経った頃、柊一は立ち上がった。女性でしかも小柄ではあるが、自分よりよほど勇敢だと柊一は思った。自分に特殊な能力があったとしても、あそこまで果敢に立ち向かえるだろうか。
銃を渡したのは、もちろん彼女の助けとなればと考えてのことだが、それだけではない。千尋に相対する度胸はないが、どこかに繋がりを残しておきたいという、女々しい考えからだ。射撃の得手不得手に関係なく、自分に千尋は撃てない。彼に銃を向けた時、そう悟った。あの冷たい笑みを思い出すだけで、蹴られた場所がずきりと痛む。
時刻は、昼から夕方へさしかかっていた。今日は一日がやけに長い。色んなことが起こりすぎて整理がつかないが、一方で、これはまだ序の口だと感じていた。黄泉への入り口、あるいは、地獄の門前。千尋なら、何と表現するだろう。
一旦署に戻ろうと、柊一はタクシーを目で探した。授業が終わった中高生たちとすれ違い、道の端に立つ。
その時、柊一の耳に滑り込んできた声があった。
――あなた、歳はいくつ?
振り返ると、歩道に小さなテーブルを置き、マントを被った者の姿があった。一見して占い師とわかる格好と、小道具。彼女は往来の中学生に、声をかけていた。十三に執着する占い師……捕まえそこなった、感染者だ。
足を踏み出しかけて、何気なく懐に手をやった柊一は、今銃を持っていないことを思い出した。真っ先に連絡していた千尋も夕妃も、呼び出せる状況ではない。
そもそも、この時間、この場所に感染者が現れたのは、偶然だろうか。まるで柊一を待っていたかのような登場だ。あの占い師をこの場に呼び出すのは、そう難しくない。十三歳の子供を求めている彼女に、ここが絶好の場所だと囁いてやればいい。
千尋は、その情報を知っていた。
これは、自分を排除しようという千尋の意思を示しているのだろうか。自分も、彼には目障りな人間でしかないということか。
もし本当だとしたら、それはショックだ。けれど、だからといって、今すべきことが変化することはない。感染者が現れたら、警察官として市民を守る。
柊一は警察手帳を握り締め、足を踏み出した。
生徒会室の中で、鳴神那月は頭を抱えていた。浮かぶのは、那奈姫のことばかりだ。彼女を何とかして見つけ出さなければならないと、頭を回転させる。けれど、焦るばかりで案は浮かばなかった。
どうして、こうなってしまったのだろう。悔しいが、理事長の指摘した通りだった。首尾良く那奈姫から御巫を引き離せたはずなのに、その那奈姫が巻き込まれるとは思わなかった。父は一族を指揮し妹を捜しているが、未だ手がかりはない。
まさか、もう奴の手にかかって……。最悪の想像を那月は慌てて振り払った。
机に伏して、那月は目を閉じた。那奈姫が帰っていないと知ってから、一睡もしていない。夕方にもなると、さすがに緊張より疲労感が勝った。那月はうつらうつらと現実と夢の狭間をさ迷った。
ドアの開く音を聞いた気がして、那月は目を開けた。ほんの少し、意識を手放していたようだ。木の床が軋む音も聞こえた。誰だろう。那月はゆっくりと体を起こし、ドアの方に顔を向けた。
「那奈姫……!」
追い求めるあまり、幻覚を見ているのかと思った。しかし彼女は確かに、部屋の入り口に立っていた。電灯を受けて影が落ち、踏み替えた足がまた床を軋ませる。
「捜したんだぞ。いや、今もみんな捜してる。どこにいたんだ?」
那奈姫は視線を床に落としたまま、ぼそぼそと答えた。
「……第二化学準備室の中」
盲点を突かれた思いだった。那奈姫は昨日から学校を出ていなかったのだ。外をどれだけ捜しても見つからないはずだ。
「どうして、そんなことしたんだ。俺たちが心配するってわかってただろう?」
那奈姫は答えなかった。片足をぶらぶらさせ、フローリングの継ぎ目をなぞっている。那月は会長の席を立ち、那奈姫に近づいた。
「あいつと、御巫と会ったのか?」
御巫、と聞いて那奈姫の睫毛が震えた。彼女の関心を引いてやまない存在に、那月は苛立ちを覚える。同時に、こちらの忠告も聞かず御巫に近づく妹にも。紗矢をはじめ、一族総出で動いているというのに、反省の態度がまるでない。
「とにかく、あいつとはもう会うな」
「……どうして?」
今度は反応があった。那月は彼女がショックを受けることを危惧し、感染のことについては避けて答えた。
「眞族と夕族は、そういう宿命なんだよ。血が混じれば、互いに感染する。近づいちゃいけないんだ」
「でも、だからって仲良くしちゃいけないわけじゃないでしょ? 力を合わせれば、感染者の人たちも、周りにいる人たちも、もっとたくさん助けられるかもしれないよ」
「そんなのは幻想だ。こちらが下手に出れば、奴らは勢力を伸ばそうとする。お前は父さんがどれだけ苦労して、夕族と対等な立場を保っているか知らないんだ」
「確かに知らないけど……ずっとこのままいがみ合ってても、何も変わらないよ」
こんなに食い下がってくる那奈姫は、初めてだった。いつもはもっと、聞き分けが良かったのに。
「どうしちゃったんだよ、御巫に何か言われたのか?」
那奈姫は落ち着いた様子で、首を振った。那月にはやけに、大人びて映った。
「先生は関係ないよ。ただ、私の考えていることをちゃんと知ってほしいと思っただけ」
東京のホテルで、御巫が話したことが脳裏に浮かんだ。那奈姫は那奈姫なりに、一族の未来を考えている。それは、そうなのかもしれないが、しかし。
「俺はやっぱり、賛成できない。夕族と手を組む未来なんて、有り得ない。感染者を殺すことでしか止められない彼らは、排除すべきだ」
「だから、……たの?」
呟いた言葉が聞き取れず、一歩近づいた那月を、那奈姫は正面から見据えた。能面のような表情に、目だけが爛々と光っている。那月は得体の知れない化け物を見たような、背筋が凍る感覚を抱いた。無意識に足を引いていたが、那奈姫に手首を掴まれ、それは叶わなかった。
「お兄ちゃんは、私が馬鹿でぼんやりしてるって思ってるんでしょ? でもね、ちゃんと見てたんだよ。お兄ちゃんが、こうするとこ」
那奈姫は近くのペン立てに入っていたカッターを手に取り、カチカチと刃を出した。その先を、那月の指に向ける。掴まれた手首を振りほどこうとしたが、信じられないほど強い握力がそれを阻む。
「ま、待てよ那奈姫。何考えて――」
「初めはね、単に先生に怪我させようとしてるんだって思ったの。でも、違うよね。あれ、お兄ちゃんの血がついてたんでしょ? 先生を感染させるために」
「御巫がそう言ったのか? それは俺に罪を被せようとして――」
「だから、先生は関係ないってば。全部、私が自分の頭で考えたんだよ」
那奈姫はカッターを手にしたまま、にっこりと笑った。
「お兄ちゃんは、先生にひどいことしたんだよね。それで、私どうすればいいか、自分でちゃんと考えたんだ」
笑顔が、徐々に恐ろしい鬼の形相に変貌していくのを、那月は呆然と見ていた。傍らに姿を現した夜叉が、死神の鎌のように、手にした剣を振り上げる。
「お兄ちゃんなんて、死んじゃえばいいんだ」
どこかで、甲高い悲鳴が聞こえた。図書館から理事長室へと戻る途中、夕妃はそれを聞いた。学園には、ほとんど人は残っていないはずだ。皆、外で那奈姫を捜している。
それに、今の声。那奈姫に似ていなかったか。夕妃は悲鳴がしたと思われる方に走った。廊下を戻り、階段の前へ。おそらく声は上から――。
バタバタと騒々しい足音が聞こえた。階段を駆け上がるのがもどかしく、夕妃は床を蹴って飛び上がった。ひと蹴りで踊場へ。そして上階へ。
降り立った途端、人影が横から現れ、夕妃とぶつかった。
「那奈姫さん!」
階段を転がるように降りていく背中に叫ぶ。しかし彼女は聞こえていないのか、そのまま駆けて行ってしまった。
怯えた青い顔。頬には涙が伝っていたように見えた。しかし、最も目を引いたのは、制服に飛び散った赤だった。まるで、正面から返り血を浴びたような。
那奈姫を追いかけるべきか、返り血の理由を突き止めるべきか。迷った末、夕妃は後者を選んだ。
廊下には、血の臭いが漂っていた。歩を進めれば、徐々に臭いは強くなっていく。見えない標を辿った先にあったのは、半開きの生徒会室のドアだった。夕妃は足音を忍ばせ、隙間から部屋を覗く。
床に投げ出された手。その指先が見えた。夕妃は目を見開き、部屋に踏み込んだ。途端に、濃密な血の臭いと、そこかしこに散った鮮やかな赤が広がる。
「那月さん、どうして……」
うつ伏せの状態で、那月が倒れていた。床にはじわじわと、赤い染みが広がっていく。血の気を失った手が微かに動き、口からは呻きが聞こえていた。
まだ、息がある。夕妃は那月に近づいた。
「今、救急車を呼ぶわ。少し辛抱なさい」
声をかけると、那月は顔を動かし、夕妃を見上げた。皮肉気な笑みが浮かぶ。敵のくせに助けるのかと言いたいのだろう。夕妃は構わず、携帯電話をポケットから出した。
しかし発信する前に、電話が突然発火した。炎には、鬼の気配。火鬼の姿だ。
腹のあたりを押さえ、身を起こす那月を、夕妃は信じられない思いで見ていた。那月は苦しげに、顔を歪めている。傷口を押さえる手は、瞬く間に血に染まる。けれどその目だけは、ギラギラと光を放っていた。
「僕のことが、憎いでしょう? あいつが感染したのは、僕のせいだ。変な情けをかけずに、殺せばいいじゃないですか」
「那月さん、今はそんな意地を張っている場合じゃ――」
訴えかけてくる瞳に、夕妃は言葉を失った。彼は、捨て鉢になっているわけでも、混乱をきたしているわけでもない。悲壮な覚悟を湛えた目で、那月は声を振り絞った。
「僕は、那奈姫に殺されるわけには……那奈姫を、人殺しにするわけにはいかないんだ」
「……あなたも、不器用な人ね」
夕妃はほんの一時、憐れむように那月を見たが、その背に黒い翼を広げる頃には、冷徹な魔王の眼差しに変わっていた。
一向に繋がる気配のない電話に、紗矢は小さく舌打ちした。夕妃に首尾を聞こうと先ほどから何度かかけているのだが、電源が切られているようだ。
結局、学園に戻ってきてしまった。御巫や那奈姫が現れるならやはりここではないか、と勘が告げていた。
上着のポケットに入った拳銃が、重い。上から押さえるようにしながら、紗矢は特に当てもなく歩いていた。自然と、足は職員室に向いている。
職員室の前で、コーヒーの香りが鼻を掠めた気がした。ドアに鍵がかかっているから、中に人はいない。気のせいだろう。コーヒーといえば、御巫が淹れたコーヒーをもう飲むことはないのだと思うと、不思議な気分だった。寂しい、かもしれない。少しだけ。
そういえば、那月は何をしているだろう。溺愛する妹が行方不明になり、気が気でないはずだ。紗矢は歩きながら、那月に電話をかけた。コール音が鳴り続けている。電源は入っているようだが、応答はなかった。
「もう、どうして二人とも出ないのよ」
悪態をつきながら、電話を切る。那月の場合は、疲れて寝てしまったのかもしれないが。
それなら、生徒会室だろうか。あそこには寝心地の良いソファーがある。思いついて、紗矢はそちらに足を向けた。あわよくば、自分も休みたかった。那奈姫を案じて一睡もせず、今日は朝から動き続けだ。
生徒会室まで、あとは廊下をまっすぐに進むだけ、というところで、紗矢は足を止めた。
――血の臭い。それも、まだ新しい。嫌な生臭さが鼻をつく。
紗矢は素早く周囲に神経を張り巡らせた。近くには、人の気配も鬼や悪魔の気配もない。
胸騒ぎがして、紗矢は生徒会室に走った。電話の応答がなかったことで、不安がさらに増す。心なしか、血の臭いが強くなった。中途半端に開いた生徒会室のドアを、紗矢は勢いよく開け放った。
「那月!」
初めに目に入ったのは、黒づくめの後ろ姿だった。考えるまでもなく、夕妃だとわかる。
屈み込んでいた夕妃は、素早くこちらを振り返った。夕妃の口が開き、何かを言いかけたが、先に不吉な色が目に飛び込んできた。鮮やかな赤。血の色。
制服を真っ赤に染めて、那月が仰向けに横たわっていた。目は閉じられ、顔は蝋のように白い。命の灯が既に消えてしまったことを、紗矢は悟った。
「ひどい……何も、殺さなくたって……」
「違うわ、紗矢さん。話を聞いて。私は……」
夕妃が何か言っていたが、紗矢は聞いていなかった。湧き上がった怒りが、周囲の音を消した。視界にあるのは、夕妃の姿だけ。二体の鬼を呼び出し、紗矢は那月の仇を睨んだ。
紗矢が臨戦態勢に入ったことに気づいた夕妃も、傍らにアポルオンを従えた。大きく羽ばたいた黒い翼から瘴気が漂い、水鬼と風鬼は怯んだが、紗矢は自らの気力で鬼たちを制した。
恐怖は感じなかった。ただただ、目の前の夕妃が、憎かった。御巫も、こんな気持ちだったのだろうか。今なら、わかるような気がした。復讐はむなしい、何も生まないという忠告は、論点がずれている。そこには激しい怒りだけがあり、人は抗う術なく突き動かされる。後先を考える余裕などない。
紗矢は闇雲に、生み出した風の渦を叩きつけた。巧みにかわす夕妃に向け、何度も。生徒会室の机や椅子には、刀で斬りつけられたかのような傷がついた。
切り裂く風の合間を縫って、水鬼が夕妃に肉迫する。頭上から降り注ぐ激流を、夕妃はアポルオンの翼で身体を覆って防いだ。開いた翼の中から、衝撃波が放たれる。紗矢も風鬼の風で応戦するが、勢いは相手の方が勝り、後退せざるを得ない。
やはり、強い。紗矢は唇を噛みしめた。
それにしても、夕妃はなぜ積極的に仕掛けてこないのだろう。自分など、歯牙にもかけない存在だということだろうか。紗矢はさらに怒りを燃やし、純粋に殺意を覚えた。
「紗矢さん、やめましょう。こんなことをしても意味なんて――」
「うるさい! お前になくても、私にはある!」
一喝した紗矢は、水鬼の力で再び水を出現させた。湿度が飽和した室内は、霧に包まれたように白く煙る。やがて雲が現れ、鋭い雨滴が雨のように降り注いだ。夕妃は先ほどと同じように、アポルオンの翼に隠れる。紗矢の読み通りの行動だ。
木刀を構え、風鬼の力を借りて跳躍する。瞬く間に夕妃の正面に迫った紗矢は、翼の盾を一閃して薙ぎ払った。黒い羽が舞い上がり、その向こうに夕妃の姿が見えた。何か言いたげな表情。無言の訴えを無視して、紗矢は木刀を振りかぶった。
標的は夕妃ではない。アポルオンに向かって、木刀を投げる。武器を投げ捨てた紗矢を、夕妃は意外そうに見た。
紗矢は迷わず、上着のポケットから拳銃を取り出し、銃口を夕妃に向けた。安全装置を解除し、弾の装填を確認する。引き金に指をかける。驚きに見開かれた夕妃の目。
紗矢は自分でも意味の分からない言葉を叫びながら、震える手で引き金を引いた。
那奈姫は走っていた。いつの間にか涙がこぼれていたらしく、視界が滲んでいる。頬にも、冷たい感触があった。どこをどう走ったのか記憶になかったが、気づくと第二化学準備室の前に立っていた。ドアを開け、ふらふらと入る。
御巫がいることを期待したが、姿はなかった。
昨晩、那奈姫は電話で訴えた。自分が自分でなくなりそうで、学校から家に帰ることすら怖い。家族や友人を、傷つけてしまうかもしれない。
守衛の見回りをかいくぐって学園内に潜んでいた那奈姫に、彼は準備室の鍵をくれた。そして、明日には必ず戻ると言って、いなくなった。
もう、日が暮れる。床にぺたりと座り込み、ソファにもたれて、那奈姫は思った。御巫は最初から、帰ってくるつもりがなかったのかもしれない。当然だ。発症した感染者なんて、誰も関わりたくはない。直に居所が父たちに伝わって……いや、自我が消失するのが先か。
どの道もう、手遅れだ。兄を殺してしまった。
口うるさく、鬱陶しいと思ったこともあった。けれど、そんなものは家族なら普通のことだ。言葉にしたことはなくても、本当は大好きだった。それを伝える手段が永遠に失われてしまった。そう思うと、哀しくてたまらなかった。それに、悔しかった。ウイルスなんて目に見えないほど小さなものに操られてしまう自分が憎い。
涙がとめどなく流れて、ソファを濡らした。ひどく体が重かった。でも、眠ってしまったら二度と自分に戻れないかもしれない。那奈姫は目必死に開けていたが、抗いきれず、やがて眠りの中に沈んでいった。
爆発のような轟音が響いた。部屋に残響がこだまし、高い音の耳鳴りがしている。
夕妃は閉じた目を、ゆっくりと開いた。
自分の身体を見下ろしてみるが、傷はない。そして目の前に、紗矢が倒れていた。
彼女の腕から胸にかけてが、焼け焦げたように黒ずみ、血に染まっていた。
何が起こったのだろう。紗矢は拳銃の引き金を、夕妃に向けて引いたはずだ。あの音は、発射された時の音。夕妃は呆然と、投げ出された拳銃を手に取った。原形をとどめていないそれは、内側から爆発したかのように膨れている。
何気なく銃口を覗いて、夕妃ははっと息を飲んだ。本来空いているはずの銃口が、モデルガンのように塞がれている。これでは、暴発して当然だ。しかし紗矢はそれを知らず、撃ってしまった。つまり、元は本物の、使える銃だったということ。誰かが、銃口を塞いだのだ。
「千尋……?」
どんな意図があったのかはわからない。ただ、千尋の面影を感じた。言いようのない温かく切ない気持ちがこみ上げ、夕妃の胸を締め付けた。
幸せな夢を見た後のような余韻に浸っていた夕妃だったが、ぞわりと、虫が這うような嫌な視線を感じた。背後を振り返れば、アポルオンがこちらを見ていた。
わかっている。残酷さを持ち合わせなくなった器は、用済みだ。そしてこの悪魔が何を望んでいるかも、わかっているつもりだ。
那奈姫と夜叉。アポルオンはあれらを喰わせろと、夕妃を急かしている。
「心配しなくても大丈夫よ。私は、私に課せられた運命を全うするわ。どんな結末であっても」
夕妃は倒れた紗矢を見下ろした。鬼の気配を感じるのは、まだ息があるからだ。助かるだろうか。
「ごめんなさいね、しばらく、人は呼べないの」
夕妃は小さく呟くと、戦いの影響で歪んだドアを押し開け、生徒会室を出た。
夕妃は那奈姫の残した血の臭いと、夜叉の気配を追った。
仮に気配が残っていなかったとしても、行き先はわかっている。追い詰められた彼女が逃げ込む場所は一つしかない。
夕妃はゆっくりと階段を上り、廊下を歩いた。夕暮れの金色がそこここに射し、とろりと気怠い空気が満ちている。
第二化学準備室のドアは、わずかに開いていた。辺りは静寂に包まれていて、規則的な呼吸の音だけが聞こえてくる。
夕妃は極力音を立てぬようドアを開け、自分の体を滑り込ませた。
ソファの座面に突っ伏して、那奈姫が眠っていた。ローテーブルとソファの隙間で小さくなっている姿は、幼い子供のようだ。ソファと頬には涙の跡が残っている。泣き疲れて、眠ってしまったのだろうか。
その姿を見て、夕妃は広瀬の“推理”が全く的外れであることを知った。もし那奈姫が本当に千尋を手に入れたのなら、こんな風に一人で泣いているはずがない。
彼女も、自分と同じだ。そう思うと、これまで抱いていた嫉妬が嘘のように消えていった。アポルオンが抗議するように夕妃の中で疼いたが、無理やりに抑え込む。
夕妃は那奈姫の顔の横に、腰かけた。微かな振動を感じてか、那奈姫が口を動かした。
「お母さん……」
夕妃は思わず目を見開き、呟いた。
「私、あなたの母親がいっとう嫌いなのだけど……」
今は、少しだけ、那奈姫の母の気持ちがわかる気がした。倫理的に間違っていることは確かで、擁護するつもりはない。しかし、あの頃は夕族と眞族の対立が激しく、眞族は劣勢だったと聞く。それは当主であった夕妃の父親が、感染者だけでなく、目障りだと感じた眞族の人間まで容赦なく屠ったからだ。そんな事件が起きれば、危機感を抱くのは当然だ。そして那奈姫たちの母親は、自分が非難されることも覚悟で、鬼の所業ともいえる行動をとったのではないか。
「きっと、あなたたちを守るために必死だったのね……」
夕妃は那奈姫の艶やかな茶色の髪に手を伸ばし、優しく指で梳いた。
「……でも私は、お母さんに生きていてほしかった」
「あら、起きていたの」
那奈姫は目を開け、ゆっくりと顔を起こした。注意深く観察したが、感染者特有の焦点のずれた視線ではなかった。一旦発症し、攻撃的になれば元に戻らないケースが多いが、彼女の場合はまだ自我を保っているようだ。
「ねえ、理事長先生。お願いがあるの」
強い意志を宿した目で、那奈姫は言った。
「私を――殺して。私はもう、生きてちゃいけないの。私は……」
「あなたのお兄さんを殺したのは、私よ」
遮って、きっぱりと夕妃は言った。
「彼は一族のために私に挑んだ。彼は傷を負っていたけれど、私は手加減しなかったわ。それは、失礼なことだと思ったから。あなたのお兄さんは本当に勇敢だった」
「……ありがとう、理事長先生」
すべてを理解した顔で、那奈姫は笑った。なんて聡い子供だろう。だからこそ、危ういのだ。千尋も、放っておけなかったはずだ。
「でも、でもね。私が生きていたら、これからもっとたくさんの人を傷つける。それだけは嫌なの。死ぬのは怖いけど、人を殺しちゃうのはもっと嫌。理事長先生にその嫌なことを頼むのは、悪いなあって思うけど」
「私は何とも思わないわ。もう、何人も殺したもの。私のこと、聞いているでしょう?」
冷酷だ、悪魔だと、散々言われてきた。むしろ自分以外に適任はいないだろう。
「ううん、きっと理事長先生だって苦しかったはずだよ。感染者と最期まで話して、ちゃんと人として扱ってたって、先生が言ってた」
「……千尋が、そんなことを?」
「うん、もしかしたらそれが理事長先生にとっての慈悲なのかもしれないって。でもこれは本人には秘密……あっ、言っちゃった!」
不覚にも、夕妃は泣きそうになった。那奈姫の慌てた表情に笑ったふりをして、目尻の涙を拭う。
「あなたのお願い、叶えてあげたいけれど、まだ少し早いのではないかしら」
閖根の口調に似せて、夕妃は言った。那奈姫はきょとんとした顔でこちらを見ている。
「あなたはどうしてここにいるの? 本当は、会いたい人がいるのでしょう?」
「でも、先生、もう帰って来ないかもしれない」
「私は信じるわ。だからここで待つ。あなたが諦めても、私は諦めないわ」
対抗意識が芽生えたのか、那奈姫がむっとした表情になった。
「じゃあ、私も信じる! 私も待つ!」
「……そう。それなら、二人で待ちましょう」
抜け駆けはなしだ。夕妃と那奈姫は頷き合った。
空はまだ太陽の余韻を残して橙色に染まっているが、空気はだんだんと冷たくなってきた。エアコンは集中管理されているため電源は入れられず、小さな電熱ヒーター一つで暖をとるしかない。
「あなた、夕べもここにいたのよね。一晩よく耐えられたわね」
寒さの苦手な夕妃は腕をさすりながら感心したように那奈姫を見た。
「だって、不安でそれどころじゃなかったし……あ、コーヒーがあるよ!」
那奈姫は弾んだ声で、コーヒーメーカーを指差した。しかし彼女は使い方を知っているわけではないらしい。夕妃に至ってはそもそもコーヒーを自分で淹れたことがない。
見様見真似で、二人でやってみることにした。豆は既に挽かれて瓶に入っているが、問題は分量である。さて、二人分はスプーン何杯だろうか。
「うーん、いつもどのくらい入れてたかなあ」
那奈姫は記憶をたどっているだけだが、千尋と二人きりで過ごした現実を突きつけられ、夕妃は面白くなかった。
「もっと入れた方がいいんじゃないかしら」
夕妃はばさばさと豆を移した。フィルターには焦げ茶色の山がこんもりできている。
「そんなに入れると、胃に穴が空きますよ」
「それならいつも通りあなたがやれば――」
夕妃は息を震わせ、振り向いた。
「千尋……」
いつもの無表情で、無感情な声で、彼ははいと答えた。
「先生のバカ! 遅いよー!」
那奈姫が千尋のシャツの裾を掴み、もう一方の手でポカポカと殴る。夕妃も同じことを言いたかったが、そこまで素直にはなれない。千尋はミルクコーヒーをお詫びに作るとなだめている。
「もー、そんなんじゃごまかされないんだから!」
そう文句を言いつつも、那奈姫は素直にソファに座った。いろいろと問いただしたいことはあったが、夕妃もその隣に座る。
しばらくすると、コーヒーの香ばしさが部屋に広がった。改めて見渡すと、この部屋はコーヒーメーカー以外にも冷蔵庫や電子レンジが置いてあり、水道も通っている。学校の中にしては妙に生活感があった。あまり訪れたことはなかったが、千尋の本当の私室は、こちらのような気がした。
どうぞ、と置かれたカップの中身は、どうやら全てミルクコーヒーのようだった。湯気と共にふわりとミルクの甘さが香る。
砂糖のたっぷり入ったそれは、舌と絡み合うようにして口の中に広がり、喉から胸をじんわり温めた。嘘のように、寒さが消えていく。隣の那奈姫が、安心したように息をついた。
「最後に、飲めて良かった」
その言葉をきっかけに、那奈姫は背筋を伸ばし、封筒を一つテーブルの上に載せた。
「それは?」
手紙だと、那奈姫は答えた。
「歩ちゃんに書いたの。結局、歩ちゃんがどうして怒ってるのか、ずっと考えてたけどわからなかった。でももう、聞く時間はないから。私は、私の気持ちを書いたんだ」
那奈姫の声には途中から涙が混じり、気づけば夕妃は彼女の頭を撫でていた。少しでも、この悲惨な運命が和らぐようにと願って。
那奈姫はカップを両手で包み、ごくりと一口飲んだ。
「私の記憶、どうなっちゃうのかな。きっと、この瞬間の記憶も、消えちゃうよね。でも、こうして三人でここにいたことは、最後まで覚えてると思うんだ。こんな幸せな時間、忘れられっこないよ」
「それはどうかな。元素表もすぐに忘れるのに」
「覚えたってば! えーと、水素、ヘリウム、リチウム、ベリ、ベル……あれ?」
「大丈夫よ、私もさっぱりわからないわ」
意表を突かれたように、千尋が夕妃を見た。那奈姫が勝ち誇ったように笑う。
「ちゃんと覚えてることもあるんだよ。そこの窓枠のとこに座って、お母さんがいないこととか、お兄ちゃんが優秀すぎることとか、先生に聞いてもらったでしょ。このソファでは……勉強も教えてもらったよね。テストの点が上がったから、それも先生に見せに来て、あとは……」
とめどなく続く思い出を聞いていると、夕妃の胸は痛んで悲鳴を上げた。那奈姫は最後に、記憶を刻み付けようとしているのだ。この部屋に、夕妃と千尋に、そして彼女自身に。
「大丈夫だよ、記憶が消えたって、ここで起きた事がなかったことになるわけじゃない」
涙を流して頷く那奈姫の横で、夕妃もまた千尋の言葉を噛みしめていた。
何も心配することはない。このエアポケットのように生まれた奇跡のような時間は、この先何があっても、それぞれの胸に蘇る。温かさと切なさを伴って、何度でも。
「お父さんにも、ちゃんとありがとうって言いたかったな。それから、紗矢姉にも。あと、広瀬先生とか……」
喋り続けていた那奈姫は、段々と力が抜けていくように、声が途切れがちになった。目が眠そうに瞬きを繰り返し、やがて寝入ってしまった。穏やかな顔で、夕妃の肩にもたれ、目を閉じている。喋り疲れたにしては、少々唐突に過ぎる気がした。
「中に、何か混ぜたの?」
「睡眠導入剤を少々」
眠らせて、その後は? 彼女を本当に殺せるだろうかと、夕妃は自問した。彼女の中の悪魔は、夜叉ごと葬れと言っている。しかし――。
「できないですね、我々には。散々感染者を殺しておいて、勝手だとは思いますが」
「いいのよ、それが人間というものだわ」
千尋も同じ思いだと知って、夕妃は安堵した。
「それにしても、随分暴れてくれたじゃない。あなたが何を考えているのか、さっぱりわからないわ」
千尋は何も答えず、懐から白い封筒を取り出した。那奈姫のように手紙でも書いたのかと思ったが、そうではないようだ。表書きには、都内の病院の名が記されていた。
「検査の結果を、受け取りに行ったんです」
「検査……! PPVの?」
千尋は頷いた。先を促す勇気はなく、夕妃は彼の言葉を待った。
「鳴神さんは、Ⅰ型とⅡ型の両方に感染していました」
やはり、と夕妃は思った。那奈姫に見られた凶暴性の獲得、短期間の記憶の欠如……いずれも感染者特有の症状だ。
「あなたは?」
千尋は黙って検査結果の書かれた紙を夕妃の前に広げた。緊張のせいで、欲しい情報が見つけられない。夕妃は答えを求めて、千尋を見上げた。
「Ⅰ型の陽性反応……どうやら、Ⅱ型には感染していないようです」
全身から力が抜けて、夕妃は深く息をついた。祈りが通じた。夕妃はこれまでの人生で初めて、神に感謝した。
「紛らわしいことばかりするから、あなたまで感染してしまったかと思った。柊一さんなんてかわいそうに、ものすごく落ち込んでいたわ」
彼は鳩尾に蹴りまで入れられたのだ。常々苦労人だとは思っていたが、親友に騙されるなんて本当に不憫だ。
「夕妃様は?」
「……え?」
夕妃は驚いて顔を上げた。
自分で尋ねたにもかかわらず、千尋は話を打ち切るように立ち上がった。
「外で、話しませんか?」
ああ、その時が迫っている。ミルクのように甘く温かい時間は終わりを告げる。
夕妃は最後に那奈姫の頭をそっと撫でると、ソファから腰を上げた。
山の稜線から、夕日の残した最後の光が消え去ろうとしていた。あとはひたすらに、闇が深まるばかり。おそらく再び光が射すころには、自分はもういないだろうと、夕妃は思った。
見上げた空には、気の早い星たちが瞬いていた。悪魔は星に住まうという。かつて星は目に見えない第五の元素から作られ、悪魔もこの第五元素から作られた体をもつと信じられていた。共通する物から成るため、そのような説が生まれたのかもしれない。魔術のイメージとして五芒星形が一般に広まっているのも、同じ理由だろう。
ぼんやりと考えている間にも、空は星の数を増やしていく。無数の星に住まう無数の悪魔が、夕妃たちを見下ろしているような気がした。そして、憎み合え、殺し合えと囁いている。
「綺麗ですね」
千尋の声に振り向けば、彼は空ではなく眼下を見ていた。夕妃もそれに倣う。
遠く、山の連なりの間に、街の灯りがきらめいていた。小さな一粒一粒の光は、星に似ている。しかしそこに悪魔の唆す声はなく、ただ暖かかった。自分は空ばかり見ていたのかもしれないと、夕妃は思った。ただ上に立つことだけを目指し、周りを見る余裕もなかった。大切なものは、ずっと傍らにあったはずなのに、何も見ていなかった。
「伯父様には悪いけれど、私、今とてもすっきりした気分だわ」
二つの勢力の争いは、一族の結束を阻んでいた。これまでは夕妃が力ずくで抑えてきたが、自分が消えた後、必ず争いが起こるだろうと思っていた。洸史に従わない新勢力が生じ、洸史の一派は恐らく千尋を取り込もうと――。
夕妃はなぜこんなにも、自分の亡き後に心を砕いていたのか、ようやく気づいた。千尋がいたからだ。彼が争いに巻き込まれることを、防ぎたかった。
しかし今、完全とはいえないまでも、その危険はなくなった。洸史が消え、夕妃も消えるならば、しばらくは争うどころではないだろう。
そう、あとは自分が消えるだけだ。彼に、見送られて。
だがその前に、聞いておきたいことがあった。
「どうして、伯父様たちを殺したの?」
洸史は、夕妃を葬り去ろうとしていた。千尋は彼らの設けた会合に出席していたようだが、共謀して夕妃を誅するならともかく、殺してしまったのはなぜか。
「洸史様たちは、あなたを殺す計画を立てていました」
「それは知っているわ。あなたにとっては、渡りに船でしょう? 彼らを利用すれば、危険を冒すこともない」
「それは違います。彼らと手を組んでも、意味がありません」
「仇は自分の手で打ちたいということ?」
夕妃は嘲るように笑ったが、強い視線を感じて千尋を見やり、笑みを消した。
「もう、やめませんか?」
夕妃は努めて、平坦な口調で答えた。
「何の話? 私はあなたのご両親を殺した。あなたは仇を討つために、私の側近になった。舞台はクライマックスよ。あなたのすべきことは、一つでしょう」
「真実は、僕の考えていたものとは、違うのではないですか?」
「閖根先生に聞いたの?」
「……やはり、違うのですね」
夕妃は己の失態に気づき、言葉を失った。
「いいえ、もし、考えていた通りだとしても……」
千尋はそっと、首を振った。
その表情を見て、夕妃は肝心のところで、自分の計画が破綻したのだと知った。
「私たち、長く一緒にいすぎたみたいね」
彼が洸史を殺したのも、単に夕妃を守ろうとしてのことだったのだ。夕妃の胸は、純粋な嬉しさと、ひどい回り道をした徒労による虚しさでないまぜになった。
意を決して、夕妃はワンピースのポケットから便箋を取り出し、千尋に手渡した。
「本当はここであなたに見せるつもりはなかったのだけど」
手紙を読み進めていく千尋の目が、驚きに見開かれていく。
「夕妃様、これは……。なぜこんな嘘を?」
「あなたにしてあげられることが、それしかないからよ」
それは手紙ではなく遺書というべきものだった。洸史たちを殺した犯人が、夕妃であると告白していた。
「私はもう、冷徹な魔王になれない。時間がないの」
人の情を持っていては、アポルオンを操ることはできない。自我を喰われてしまう。そう説明すると、千尋はこみ上げてきた感情を隠すように、顔を伏せた。
「僕のせいですか? あなたを、許してしまったから」
「違うわ。あなたを想う気持ちは、出会った時からずっと私の内にあった。たとえあなたが私を憎んでいても、変わらなかった」
夕妃は目の奥が熱くなるのを感じていた。
「でも、私は後悔していないわ。自分の気持ちに嘘をつかないことが、こんなにも清々しいとは思わなかった」
だから、悲しまないでほしい。その手紙を、受け取ってほしい。
夕妃の瞳から涙が溢れ、眦から頬、顎へと伝って落ちた。泣いた記憶などなかった。悪魔を身体に抱えてからは。
「あなたの枷は、これで全部外れる。一族のことなんて、気にする必要はないわ。私が自由にしてあげる。あなたはどこへだって行けるし、何だってできるわ」
千尋はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
「……どうして、こんな結果になってしまったのでしょうね」
千尋はそう言って、寂しそうに笑った。気負いを下ろしたような表情は、初めて見るものだった。それだけで、自分のしたことに意味があったと、夕妃は思えた。
「さあ、幕を下ろしましょう。あの日の誓い通り、あなたは私を殺すの。そうしなければ私は暴走し、無差別に殺戮を始めるわ。私が悪魔そのものになる前に、早く――」
「もう、虚勢を張る必要はないんです。あなたは魔王になれないのではなく、なる必要がなくなった。どんな本音を言ったって、構わないんです」
温かい腕に引き寄せられ、夕妃は千尋の胸に頬を寄せた。目を閉じ、その温もりを身体に刻み付けようとした。幸せそのもののような、温かさを。
「……お願い、私を殺して。私は、愛する人に殺されたい。それが、今、私の一番の幸せなの」
夕妃は千尋のシャツを縋るように掴み、言った。胸の奥、鍵をかけて仕舞っていた本当の願いが、千尋の耳にようやく届く。
「ねえ、私は今も、不幸かしら?」
千尋は軽く目を見張り、不思議そうに言った。
「その話、まだ根に持っていたんですか?」
学園の廊下で交わした、他愛ない会話だ。夕妃がそこまで心に留めているとは思っていなかったのだろう。だがそれでも、千尋は覚えていてくれた。
「夕妃様は、片思いの方が良いとおっしゃいませんでしたか?」
「あんなの、強がりに決まっているわ。両思いの方が良いに決まっているじゃない」
膨れる夕妃を、千尋は柔らかな眼差しで見ていた。彼の口元がふと緩み、笑みを形作る。屈託のない微笑をずっと眺めていたいと思った夕妃だったが、それは叶わなかった。視界が彼の掌に遮られ、ほんのひと時、唇に柔らかな熱を感じた。
「千尋……」
続く言葉はわかっているとでも言うように、千尋は夕妃の唇にそっと人差し指で触れた。
「夕妃様は、“幸せ”ですよ」
思いは確かに、伝わった。散々屈折して、遠回りをしてきたけれど、奇跡のように。
「ありがとう、千尋」
満ち足りた気持で目を閉じた夕妃は、胸に衝撃を感じた。痛みはなかった。全身から力が抜け、視界が霞んでいく。もう一度だけと目を開けた時、白む景色の中で、千尋が泣きそうに口を引き結んでいるのが見えた気がした。
――最後まで我儘で、ごめんなさい……。
もっとずっと、傍にいたかった。どんな姿でも、構わないから。言葉にできなかった想いと共に、夕妃は深い深い眠りへと落ちていった。
夕妃を貫いた刃を、千尋はゆっくりと引き抜いた。溢れ出た鮮血が、夕妃の服や千尋の手を赤く濡らす。刃先から滴る血は、屋上の床に染み込んだ。
温もりの残る身体。夕妃はまるで眠るように穏やかに、目を閉じている。
その頭上に、黒ずくめの悪魔が現れた。アポルオンは最後の挨拶のつもりか、豊かに羽を蓄えた翼をばさりと広げ、飛び立っていった。それが虚空の彼方に消えるまで、千尋はずっと眺めていた。
枷は外れたと、夕妃は言った。しかしおそらく自分は、一生彼女の存在に囚われたままだろうと、千尋は思った。それでも構わないような気がしていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう、魂の抜け落ちた体は、熱を失い始めていた。
階段を駆け上がる複数の足音を耳にして、千尋は亡骸をようやく離し、横たえた。
振り返ると、息を切らせた早瀬が立っている。喘ぐように、彼は言った。
「一体、何が……全部君がやったのか」
全部とはどこまでを指すのか、千尋にはわからなかった。だが、那奈姫の感染に端を発して起きた“全て”は、自分の責任であるともいえる。思案しながら、千尋は自分が血に濡れた凶器をまだ手にしていることに気づいた。それを目にして、早瀬たちが猛獣を見るように自分を見ていることも。
早瀬たち――眞族の、教師たちだ。もちろん全員、千尋と面識がある。だからといって、平和的な会話は望めそうにないが。
「那奈姫は、無事なのか?」
「第二化学準備室にいます。ただし――」
皆まで聞かず、教師たちは一斉に、屋上を出て行った。あるいは、千尋から離れる口実が欲しかったのかもしれない。一人残ったのは意外にも、早瀬だった。
「ただし、なんだね」
早瀬は警戒を緩めず、千尋に尋ねた。千尋は検査結果の書かれた封筒を再び取り出し、早瀬に告げる。
「彼女は、PPVのⅠ型にも感染しています」
検査結果に目を通した早瀬は、一見落ち着いた様子だった。何事かを小さく呟く。その言葉が問いかけに聞こえ、千尋は彼に近づいた。
「君が、やったのか」
先ほどと同じ問いだったが、確信に満ちた口調だった。否定に口を開きかけた千尋の襟元を、年齢に見合わぬ俊敏さと力で掴む。
「なぜ、子供たちを狙った! あの時の報いだとしても、これはあまりにひどい。同じ仕打ちを……」
彼の言葉の大半は、千尋にとって不明だった。しかしどうやら、早瀬は正気を失っている。しわの目立つ指は、ぶるぶると震えていた。それでも力だけは強く、千尋は屋上の手すりに押し付けられていた。元来立ち入り禁止の屋上は、安全対策が十分ではない。手すりを越えれば、地面に真っ逆さまに落ちることになる。
千尋の間近にある早瀬の目は充血していた。娘を心配し、一睡もしていなかったのだろう。
「那月、那奈姫、――」
三番目に呟かれたのはおそらく、彼の妻、那奈姫たちの母親の名。
彼が憤りや後悔を自分にぶつけ、少しでも気が晴れるのならば、それで構わないと千尋は思った。
夕妃は解放してやると言ったが、この先どう生きていくべきか、千尋には見当もつかなかった。両親が死んだ日から復讐がすべてであり、いつしかそれは夕妃への慕情に変わったが、どちらにしても、夕妃がいなくなれば意味がない。生きていく意味を失ったように、千尋は感じていた。
早瀬と千尋の体重を受け、手すりが軋んだ。早瀬の手は両手で千尋の首を締め上げるように掴んでいる。千尋の意識は朦朧とし、視界が霞んできた。
もしこのまま、ここから落ちていったら。
追いかければ、天に上る途中の、夕妃の背中を見つけることができるかもしれない。それとも彼女は好んで、地獄に向かうだろうか。共に過ごした、悪魔たちの姿を探して。
もう一度、彼女に会えるなら。甘美な空想に、身を任せようとした刹那。
視界の端を、黒い影が過ぎった。それは千尋の手を掠め、跳躍する。柔らかく温かな毛並みの感触。獣だ。
鋭く息を吐いて威嚇しながら、早瀬の顔に覆い被さる。早瀬の腕の力が緩み、千尋は膝をついて咳き込んだ。
「黒夜叉……」
いつでも気怠そうにしていた黒猫は、獰猛でありながら、踊るように軽快に、早瀬を翻弄していた。地面に降り立つと、鋭く一声鳴く。
突風が、屋上を吹き抜けた。地面を蹴った黒夜叉は、風と共に早瀬の胸元に体当たりを仕掛ける。
早瀬の上半身が、外側に傾いた。風に煽られた体は簡単に、手すりを越える。
「学園長!」
伸ばした千尋の手は、早瀬の腕をしっかりと掴んだ。しかし宙吊りになった早瀬の体は、千尋だけで引き上げるには重すぎた。手を離さずにいるだけで精一杯だ。
手すりを変形させ、那月の時のように巻き取れば。千尋は悪魔を呼び出そうとしたが、早瀬はもういいというように首を振った。千尋を見上げ、正気に戻った目で、疲れ果てたのだと告げていた。
手の甲に鋭い痛みが走り、千尋は思わず握力を緩めてしまった。何とか掴み直したが、痛みでうまく力が入らない。手の甲からは、血が流れていた。
「すまない。君のせいではないよ、全ては私のせいだ。だから、君は生きなさい」
千尋の手を振り払った早瀬は、底の見えぬ闇の中に消えていった。下の方で微かに、音が聞こえた。残ったのは、手の甲の痛みだけ。落ちていく早瀬の右手に、万年筆が見えた。あれで、千尋の手を刺したのだろう。
「生きなさい、か。最期に難しいことをおっしゃいますね、学園長」
手すりから見下ろした闇に向かって、千尋は呟いた。振り返ると、黒夜叉の姿は既に消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます