第6話 聖夜のスパーク

 夢の中にいるのではないか。那奈姫は視界いっぱいに広がる光景を前に、そう思った。羽衣なようなものを纏った奇妙な形の生物が浮遊し、左から右へと横切っていく。蝙蝠に似たグロテスクともいえる姿は、普段ならば嫌悪するだろうが、今は天の遣いのように見えた。

 あれは、悪魔だ。黒板を引っ掻くような耳障りな音は、鳴き声。

 那奈姫はその五感で、悪魔を知覚していた。

 ついに、自分も皆と同じ場所に立てた。身体に未知の力が宿っているのを感じる。もう、足手まといではない。その事実に、那奈姫の胸は震えた。そう、自分はこの時を、ずっと夢見ていた。

 興奮に火照った頬を、冬の気配を帯び始めた風が冷やす。ベンチとブランコだけの簡素な公園。山の中腹にぽっかりと作られたここは、眼下に市街地を臨むことができ、始まったばかりの夜に、ぽつぽつと家の明かりが灯り始めている。

 じっとしていられず、ふらふらと外に出てしまったが、そろそろ帰らなくては。兄や紗矢が、心配するだろう。

 けれどこれからは、そんな心配も無用だ。もう、醜いものや残酷なものから守ってもらう必要はない。

 しかし、ただ異才に目覚めただけでは意味がない。鬼と契約を結ばなければ、戦う力を手に入れることもできない。力が、欲しい。切実に、那奈姫は願った。

 ふいに、生臭さが鼻をついた。血の臭いがする。それになんだか、生ぬるい風が吹いている。

 不思議に思い、那奈姫は背後を振り返った。

「あなたは……誰?」

 那奈姫は尋ねた。しかし“それ”は、口を引き結んだまま、ただ佇んでいる。

 黄昏時の薄闇の中、爛々と光る目は数えれば五つもあり、腕は六本。それぞれの手に、槍など何やら古風で日本的な武器を持っている。着流した着物の間から覗く筋肉は鎧のように身体を包み、いかにも戦うことに長けた風貌だ。

 その鬼が夜叉と呼ばれることを、那奈姫は知らなかった。それが、見た目通りに強い力を持ち、数々の書物に警告を交えて記録されていることも。しかし自分が何をすべきか、那奈姫は本能的にわかっていた。校章の入ったピンバッジを外し、その針で親指を刺す。血が玉のように浮き出て、指を伝っていく。

 那奈姫は夜叉にその手をかざし、腕を伸ばした。

「さあ、私に力をちょうだい」

 物言わぬ夜叉は那奈姫を包むように、六本の腕を広げた。


 叡祥学園には、一つの伝説がある。学園の七不思議のように、どこの学校にでもありそうな、ありふれた話だ。

 ――中庭のモミの木の下で聖夜に告白すると、必ず恋が実る。

 おそらく昔の女子学生たちが考えついたであろう他愛のない“伝説”は、しかし今でもしっかりと、根付いていた。

 そのモミの木から少し離れたベンチで、那奈姫と歩は昼食をとっていた。ベンチは花壇に沿っていくつか並んでいて、他の生徒の姿もちらほらとある。二人はよくここで昼休みをのんびりと過ごすが、中でもお気に入りは、モミの木を正面から見られるこのベンチだった。

 那奈姫は突然にひょこりと立ち上がり、木の下に入った。針葉樹の分厚い葉を幾重にも茂らせているモミの木の下には、木漏れ日も届かない。夏場はひんやりと涼しく、冬はしんと冷え込む。空気の冷たさが気になる季節になったが、すっぽりと包み込んでくれるこの木の下にいると、いつでも落ち着いた。

「あ、歩ちゃん、見てみて」

 那奈姫はベンチに座ったままの歩を手招きした。笑顔の彼女につられて歩も微笑み、那奈姫のところに向かう。

「ぬいぐるみが吊るされてるよ。こっちはクマで……これはネコかな」

 疑問形なのは、風雨に晒されたぬいぐるみが原型を失いつつあるからだ。願掛けのために吊るしたのだろうが、おそらく願い事をした生徒はもうこの学園を卒業しているだろう。

「うわあ、那奈ちゃん、こっちのは人形じゃない? グロテスク……」

 那奈姫は無邪気に楽しんでいたが、お化けの類が苦手な歩は、恐る恐るといった様子で眺めていた。

「しぶとい願い事って、もう呪いみたいなものだよね」

 どうやら歩には、このぬいぐるみたちが、未練や執着のなれの果てのように見えているらしい。

「歩ちゃんってば、また暗いこと言ってるー」

 那奈姫は笑い飛ばしながら、ベンチに戻った。太陽に温められたベンチの表面が、少し冷えた肌に心地よい。

「……歩ちゃん、どうかした?」

 歩は木の下で俯いていた。元々口数の多い方ではないが、こんな風に黙り込んでしまうのは珍しい。

「那奈ちゃん、私ってやっぱり暗い?」

 那奈姫は慌てて歩に駆け寄った。

「違う、違うよ! 冗談だよ。歩ちゃんは大人しいけど、全然暗くない!」

 取り繕おうとして手足をパタパタと動かす那奈姫が面白かったのか、歩は吹き出した。「ごめんね、ちょっと那奈ちゃんがうらやましいなあと思っただけ。いつも元気だから。やっぱり付き合って楽しい相手って、那奈ちゃんみたいな子だよね」

自分の不用意な一言が歩を傷つけてしまったと狼狽していた那奈姫は、しかし、歩の落ち込みに別の要素が含まれていることを、敏感に感じ取った。

「……もしかして、好きな人ができたの?」

 歩は小さく顎を縦に動かした。途端に元気を取り戻した那奈姫は、弾むような声で聞く。

「何年? クラスは? 私も知ってる?」

「そんなに一気に聞かれても、答えられないよ」

 苦笑しながらも、歩はぼそぼそと意中の相手の名前とクラスを明かした。那奈姫は見かけたことがある程度だが、歩と同じ図書委員で、同学年の生徒だった。

「じゃあさ、告白しちゃいなよ!」

 那奈姫がさらりと言い放ち、今度は歩が狼狽した。

「そんなの無理だってば! まずは交換日記から……」

「今の時代に交換日記って」

 普通なら携帯でメールだろう。さすがの那奈姫もツッコミを入れた。

 しかし那奈姫としては、歩の恋の成就のために、何か手を貸したかった。首を捻り、何気なくモミの木を見上げた那奈姫は、そこに答えがあったことに気づいた。

「歩ちゃん、クリスマスパーティーだよ!」

「え?」

 目をぱちぱちさせている歩に、那奈姫はまくし立てた。

「だから、クリスマスパーティーの日に、ここに呼び出すの! それで告白。めでたしめでたし!」

 学園では毎年、クリスマスパーティーが開催されていた。ホールに生徒たちが集まり、食事をしながら談笑する。吹奏楽部や合唱部など有志が、ステージでクリスマスソングを演奏する催しもある。冬休みの前夜祭ともいえる、生徒たちが毎年楽しみにしているイベントだった。

「めでたしって……そんなに簡単にはいかないよう」

「大丈夫だって。私が彼を、ここに呼び出してあげるから!」

 何が大丈夫なのかも判然としないが、那奈姫は自信たっぷりに請け負った。煮え切らなかった歩も、少し感化されたようだ。

「でも、クリスマスパーティーかあ。それはちょっといいかも」

「そうだよ! かわいいドレス着たら、イチコロだって!」


「――っていうことになったの」

 ミルクコーヒーの湯気をふうと吹き、那奈姫は話を締めくくった。

 意見を求めるように目を向けられた千尋は、渋々口を開く。

「それでどうして、鳴神さんまでドレスを新調する必要があるのかわからない。あと、イチコロは現代の女子高生が使うには古いと思う」

「先生、大事なことが抜けてる! ドレスは先生と一緒に買いに行くの」

「そうだっけ?」

 とぼけてみたが、那奈姫の中では既に決定事項らしく、無視されてしまった。

「いつ行く?」

 強引に話を進めるところは、師匠の紗矢譲りだろうか。

「今週の土曜なら、空いてるけど」

 気づけば、千尋はそう口にしていた。満足げににっこりとした那奈姫は、どんなドレスを買おうか、早くも思いを馳せているらしい。

 さて、夕妃にはなんと切り出そうか。対応を間違えれば、彼女の烈火の如き怒りで屋敷ごと消し炭になるかもしれない。


 那奈姫の計画したデートを全力で阻止するであろうもう一人の人物は、幸か不幸か、まだその話を耳にしていなかった。生徒会の仕事にはクリスマスパーティーの運営も含まれており、会長である那月は仕事に追われていた。一つの仕事を片付ければ、生徒会役員が別の仕事を持ってやって来る。文字通り、仕事が那月を追いかけてくるのだ。

そんな彼がようやく一息つけると生徒会室に戻った頃、扉を叩く音が聞こえた。嫌な予感を覚える。異才の副産物か、那月のこの手の予感は、よく当たった。

果たして今回も、予感は的中した。現れた顔を目にして、那月は確信する。御巫がやって来て、良い話がもたらされたことは一度もない。

「僕は忙しいので、手短にお願いします」

 お決まりの台詞を、那月は口にした。彼は聞き入れる気がないだろうが、つい口をついて出てくる。

 最近、那奈姫の様子に変わったところはないか。御巫は突然そんなことを言い出した。

「なんですか、唐突に。それに、那奈姫のことなら毎日電話してる先生の方が詳しいんじゃないですか?」

 刺々しく答えながら、那月はここ数日の那奈姫を思い出していた。朝食を美味しそうに食べている那奈姫、小テストの結果が悪く落ち込んでいる那奈姫、部活の練習試合を終えて面を外し、息をつく那奈姫……。どんな表情も非常に愛らしい。

気づくと、御巫が無言でこちらを見ていた。冷たい視線が突き刺さる。どうやら知らず口元が緩んでいたようだ。那月は咳払いをしてから、口を開く。

「べ、別にいつも通りだと思いますけど。相変わらず毎日楽しそうですよ」

 うらやましいくらいだと、那月は思う。試験の失敗も試合の負けも、落ち込みはするが、回復は早い。那月はまだ、東京での一件を引きずっているというのに。それはむしろ良い傾向なので、心配するようなことはないはずだ。

「そう、それならいいんだ」

 御巫は頷くと、踵を返した。用はそれだけだったのか。構えていた分、那月は少々拍子抜けした。そのまま立ち去るかと思いきや、彼はたった今思い出した、というように声を上げた。

「大したことじゃないけど――」

「じゃあいいですよ」

「いや、今度の土曜日、鳴神さんと出かける予定だから、一応言っておこうと思って」

「……え、ええ?」

 那月がその言葉の意味を理解した時には、既に生徒会室のドアは閉まっていた。駆け寄ってドアを開けるが、御巫の姿はない。

「大したことだ! 大問題だ!」

 廊下に、むなしく叫び声が響いた。


 夕妃の住む神々家の屋敷には、四季折々に花の咲く中庭がある。ぽっかりと正方形に切り取られた中庭には鳥が果実を啄みにやって来たり、昆虫が花粉を求めて訪れたりする。時には悪魔や鬼たちが、木陰や葉陰で体を休めていることもある。この風光明媚な中庭を存分に見られるよう、食堂の中庭に面した壁は、ガラス張りになっていた。日当たりが良ければ、食堂は冬にも暖房がいらないほど暖かい。

 しかし今や、ガラスは無残にも砕け、人一人が通れる大きさの穴が空いていた。少し離れた場所で、女性の給仕が腰を抜かしている。

 これは思った以上に、宥めるのが大変そうだ。傍からは落ち着き払って食後のコーヒーを口にしているようにしか見えないが、千尋はどうしたものかと途方に暮れていた。

 和やかな雰囲気の中始まった朝食は、千尋が今日の予定を夕妃に告げた時、一変した。鳴神と名が出た時点で夕妃の眉はピクリと動き、買い物という単語の後に吊り上がり、その目的が彼女のドレスであると知ってガラスを砕いた。最初は空気にひびが入った故の心象風景かと思ったが、使用人たちが怯えているから、現実のようだ。

「教師が教え子と二人で出かけたなんて知られたら、どうなるかしら?」

「脅しですか? 教師を辞めて良いなら、むしろありがたいですが」

 那奈姫は嘆いてくれるだろうが、千尋にとって不都合はない。

「ほんの数時間ですよ。夕食の前には帰ります」

「あなたの帰りなんてどうでもいいわ。それではまるで、私が嫉妬しているみたいじゃない」

 夕妃は立ち上がって千尋を見下ろし、早口で言った。あえてゆっくりと、千尋は尋ねる。

「違うんですか?」

「当然よ!」

「そうですか、それは少し残念です」

「……え?」

「冗談です」

 黒い翼が姿を現すと共に、ガラスの割れる音が立て続けに響いた。割れた照明の破片が、ぱらぱらと食卓に降り注ぐ。豪奢なシャンデリアが、オペラ座の怪人よろしく自分に迫って来るのを目にした千尋は、雪嵐の鬼神の力を借りてそれを庭に弾き飛ばした。

「このくらいで勘弁してあげるわ。補修はあなた持ちね」

 理不尽極まりない案だが、千尋はため息をついただけで反論しなかった。これ以上目的も原因もはっきりしない喧嘩を続けるのは、無意味である。

 それにしても、派手に壊したものだ。庭の花壇をなぎ倒して転がるシャンデリアを見ながら、夕妃の後始末を任された時の柊一は、このような気分だろうか、と千尋は考えた。


バスを降りた那奈姫が、手を振りながら駆けてきた。千尋はその姿に、跳ね回る小型犬を思い浮かべる。

「髪がなかなか決まらなくて、遅くなっちゃった」

 友人にヘアアイロンを借りたと言う那奈姫の髪は、千尋の目には、普段とそう変わらないように見えた。

「……前髪?」

 当てずっぽうだったが、那奈姫の顔がぱっと明るくなった。正解だったらしい。

「いこ! せんせい!」

ばらばらに日光を出発した二人は、宇都宮市のショッピングモールで落ち合った。日光から約一時間半。一人でバスに乗った彼女にとってはそれなりに長旅のはずだが、疲れた様子は微塵もない。

「お店はもうチェックしてあるんだ」

 那奈姫は呪文にしか聞こえない難解なブランドの名をすらすら口にし、千尋に雑誌の特集を見せた。

「これ、広瀬先生から借りたの」

千尋はその広瀬から受けたアドバイスを、頭の中で確認する。曰く、どちらの服がいいかなどの二択を迫られても、決して自分の意見を主張してはならない。彼女の心はどちらかに既に傾いている場合が多く、それを読み取って後押しすることが、賢い方法である。

校長の鳴神からは、値段に関して注文を受けていた。高校生という身の丈に合った、高価すぎない物に誘導するように。しかし、娘にめっぽう甘い鳴神は、多少足が出ても怒ることはないだろう。注意すべきはむしろ露出度の方である、というのが広瀬の指摘である。

「鳴神さん、それちょっと、見せてくれる?」

 那奈姫から雑誌を受け取った千尋は、裏表紙に不自然な印があるのを発見した。千尋と那月が東京に出た時と同様、監視をしようという腹積もりだろう。

「二度同じ手は通用しないですよ」

 千尋は印を爪で引っ掻き、その効力を消滅させた。


歩き出した千尋と那奈姫から離れること約百メートル。広大な駐車場に停められた一台の車の中には、紗矢と那月の姿があった。二人は無言で頷き合うと、車を出た。

「那奈姫が行く店は、大体見当がついています」

 事前にフロアマップを入手していた那月は、いくつかの店を紗矢に指し示した。

「シスコンもそこまで行くと、清々しいわね」

 紗矢は呆れたが、追跡自体は楽しんでいた。まるで映画に出てくる探偵のようではないか。

「このくらい距離を開ければ大丈夫ですね。行きましょう」

 何が大丈夫なものか、と紗矢は思う。

「人として終わっている気がするわ」

「え、なんですか?」

 那月が振り返った。心の声が漏れていたらしい。

 しかし、見れば那月も目が活き活きしている。彼も非日常を楽しんでいるようだと微笑ましく思ったが、現実は違った。

「うまく写真に撮れれば、奴を辞めさせることができるかもしれません」

「……私はどこで、教育を間違ってしまったのかしら」

 悪代官のような笑みを浮かべる那月を見て、紗矢は深々と息を吐いた。


 紗矢と那月の二人から、さらに離れること百メートル。自家用車の後部座席に座る夕妃の目は、千尋と那奈姫、そして紗矢と那月の姿をしっかりと捉えていた。

「わざわざ店の中まで追いかけて行くなんて、ご苦労さまね」

 わざわざ宇都宮まで行くのも同じだろうと運転手の桜沢は思ったが、口には出さなかった。

「では、ここで千尋さんたちがお帰りになるまで待ちますか?」

「いいえ、もう帰りましょう」

「は? 帰るんですか?」

 むっとした表情を返されて、桜沢は慌てて口を噤んだ。

「九鬼先生と鳴神のお坊っちゃんがいるなら、私が見張るまでもないわ」

 それから、悩ましげなため息を一つ。

「……私、何をしてるのかしら」

 それはこちらが聞きたい。桜沢は心の声が読まれぬよう、運転に集中するふりで前方を見やった。


 買い物を終えた那奈姫と千尋は、バスに乗り日光市内に戻ってきた。弾むようにステップを下りる那奈姫を先に通し、落ち着いた足取りで千尋も後に続く。

 那奈姫の手にはしっかりと、パーティードレスの詰まった紙袋が握られていた。合う靴がないという話になり、急きょ靴まで買うことになった――そして予算はオーバーした――が、気に入った物が見つかった那奈姫は上機嫌だ。ターンをするようにくるりと振り返った彼女は、意味もなく千尋を見てえへへと笑った。

「パーティー楽しみだなあ。歩ちゃんはどんなのにしたんだろ」

 そこで那奈姫は、何かを思い出したようだった。大股で千尋に一歩近づき、あのね、と内緒話のトーンで言って見上げる。

「私、クリスマス前に大役を任されてしまったのです」

「大役?」

「そう。でも、ここじゃ誰が聞いてるかわからないから、ちょっと言えないな―……」

 言いながら、ちらりとどこかに視線を送っている。どうやら、その先はカフェのようだ。

「どこかで休憩しますか?」

 那奈姫は無言で、にっこりと笑う。年齢を問わず、女性の計算高さというのは恐ろしいものだと、千尋は知った。


「あ、カフェに入っていきましたよ!」

 双眼鏡まで持参し覗き込んでいた那月が、助手席で声を上げた。紗矢はもはや突っ込みを入れるのも億劫になり、運転に専念していた。慣れない尾行に、少々気疲れしたというのもある。

「御巫の奴も、那奈姫には甘いわね……」

 呟きつつ、自分も那月に甘くなっていることを少し反省する。日光まで戻ってきたのだからもう尾行など必要ないと思うが、結局、那月の催促のままに駐車している自分がいる。

「向かいのカフェから、監視しましょう」

 まだやる気の衰える気配のない那月は、さっさと道路一本を挟んで向かいに建っている、カフェというより喫茶店と呼ぶのが相応しい店に歩いていく。古ぼけたソフトクリームの置物は黒ずみ、玄関マットも汚れて「いらっしゃいませ」の一部しか読み取れなかった。そのどこか時代を超越した佇まいに臆するでもなく、那月はドアに手をかける。ベル代わりに吊り下がっていた風鈴がたてる音に重なって、紗矢の背後から、不吉な声が聞こえた。

「あら偶然。あなたたち、こんなところで何をしているの?」

「……その言葉、そのままお返しします、理事長」

 この場にいるのが不自然なのは、夕妃も同じである。駐車場には彼女の車が停まっており、その目的も紗矢たちと同じように見えた。

「理事長も、気になってらっしゃるわけですね」

 幼い行動に紗矢は頬が緩むのを感じたが、夕妃は決して首を縦に振ろうとしなかった。素知らぬ顔で偶然を主張する。しかし彼女の意識は、完全にあちらのカフェに向いていた。

 御巫の方は、そんな関係ではないと否定したが、これはやはり……。女の勘で、紗矢はそう確信した。


「先生、どうかしたの?」

 尋ねられて、千尋はなんでもないと答えた。メールを送信し終えた携帯電話を、胸ポケットに戻す。

 その態度を気にとめた様子もなく、那奈姫はクリームソーダをかき回していた。炭酸の弾ける音が愉快らしく、緑と白のコントラストを崩して遊んでいる。

「でね、歩ちゃんに協力しようと思って。うまくいくかなあ」

「さあ……それは当人たちの問題だからね」

 ひどい答えだが、那奈姫はうんうんと頷いている。あまり耳に入っていないのかもしれない。

「でも歩ちゃんって優しいし頭もいいし、目立つタイプじゃないけど可愛いんだよ」

 そうだね、と相槌を打つ。授業以外での会話はないが、千尋も、彼女には好印象を抱いていた。大人しいが、芯は強そうだ。成績は文系のトップクラスで、古典を教える紗矢も、彼女を可愛がっていた。古典といえば、歩の雰囲気はどこか古風で、大和撫子という形容がしっくりくる。

「やっぱり、シンプルに彼をモミの木に呼び出して……」

「まあ、常識の範囲内ならいいんじゃないかな」

 千尋は店の外にちらりと目をやり、言った。


「あ、席を立ちましたよ!」

 食い入るように向かいの店を見ていた那月が、声を上げた。日が傾き、こちらの店の客は既に那月たちしかいない。そもそも、この寂れた店内には元からほとんど客はいなかったが。

「じゃあ、こっちも行きましょうか」

 紗矢は夕妃にも声をかけたつもりだったが、彼女は既に店の入り口に立っており、外に出ようとしていた。伝票を手に大股でレジに向かいながら、夕妃の分は御巫から徴収しようと決める。

「遅いじゃない。早く追いかけないと、見失ってしまうわよ」

 どの口でそれを、と紗矢は血が上るのを感じたが、ぐっとこらえた。御巫と同様、文句は聞き流されるだけで、余計にこちらのストレスが溜まるのは学習済みである。

「那月、店の前に車を回すからちょっと待って――」

「何をしているんですか?」

 突如横から現れた影に、紗矢は危うく声を上げそうになった。意外そうに、夕妃が言う。

「あら、柊一さんじゃない。偶然ね」

 柊一は渋い顔で、紗矢たち三人を見回した。

「残念ながら、偶然ではありません。善良な市民から、どうも後をつけられているようだから注意してほしいと通報がありましてね。駆けつけたわけです」

「言いがかりだわ。ちひ……その人、被害妄想癖があるんじゃないかしら。ねえ、九鬼先生?」

「え? はあ、そうですね」

 正直、紗矢はそろそろどうでも良くなっていた。

「いい大人が、そこまで詮索してどうするんです。あなたが心配するようなことは何も――」

 柊一の説教は、甲高い悲鳴によって遮られた。それから、爆発音にも似た、重い物がぶつかり合う音。その場にいた全員が、一斉に音のした方向に目を走らせた。タンクローリーと観光バスが、それぞれおかしな方を向いて止まっている。バスからは、煙が立ち上っていた。悲鳴に聞こえたのは、ブレーキを必死にかけたタイヤの音だったと気づく。

「こんなところで、事故……?」

 呆然と呟く那月を置いて、紗矢は駆け出した。ただの交通事故とは、何かが違う。その直感に従って、紗矢は事故現場へと急いだ。


「こんなところで、事故……?」

 奇しくも兄と同じ台詞を、那奈姫は口にしていた。事故の瞬間を那奈姫は目撃していた。バス前面のガラスは割れ、穴が空いている。運転手の姿は見えないが、無事だろうか。

「でも、変だよ。どっちも、普通に走ってたのに、突然……」

 ぶつかる気配は、直前まで全くなかった。それが、まるで巨大な手が車の向きを力技で変えたように、不自然な動きをした。

「どこかに、感染者が?」

 千尋の言葉に、那奈姫ははっと顔を上げた。そう、あれはきっと悪魔や鬼の力だ。だとすれば、あの近くに感染者がいて、その人物は、また誰かに危害を加えようとするかもしれない。

「早く、止めなきゃ!」

「鳴神さん、待って――」

 後方から千尋の声が聞こえていたが、那奈姫は止まらなかった。ざわめく人ごみとクラクションの間を走り抜けていく。

 二台の車が鼻先を向ける中心にたどり着いた那奈姫は、そこに人影を見つけた。事故の被害者でも、野次馬でもない。なぜならその人物は、楽しそうに、にやにやと口を歪めていたから。

 感染者だ。那奈姫も目にしたことのある高校の制服を着た男だった。那奈姫に気づき、狂気を宿した寄り眼気味の笑顔が、こちらを向く。思わず、後退しそうになった。飛び散ったガラスの破片が、足元でざらざらと鳴る。

「鳴神さん、下がって!」

 焦りの滲む声が、那奈姫を不思議と冷静にさせた。千尋が焦っているのは、自分が力を持たないと思われているからだ。しかし、今はもう違う。感染者の背後に異形の悪魔が見えても、那奈姫は動揺しなかった。

「大丈夫だよ、先生」

 那奈姫は意識を集中させる。傍らに、頼もしい気配を感じた。先日公園で出会った時の姿のまま、それが現れる。

「夜叉……」

 那奈姫は立ち尽くす千尋を振り返り、艶然と微笑んだ。


 マイクの前に立つ父――学園長が、グラスを掲げた。

「メリークリスマス!」

 生徒たちが口々に唱和し、シャンメリーの注がれたグラスがぶつかり合う。束の間静寂が保たれていたパーティー会場――といっても学園内の講堂だが――は、その合図で再びにぎやかさを取り戻した。

 普段はお堅い学園長も、今日だけはサンタクロースの衣装を着ている。それが妙に似合っており、早速、一緒に写真を撮ろうと彼を囲む集団ができつつある。

 まんざらでもなさそうな父から視線を移し、那月は会場の端に足を向ける。その一角には衝立が立てられ、こちらから中の様子は見えない。

「どうだ? 順調か?」

 顔を出した那月を、そこにいた生徒会役員全員が一斉に見た。何事かと思えば、役員の一人が泣きそうな顔で言った。

「飾りのリボンが足りてないことに気づいて……」

 彼らが今進めているのは、パーティーのクライマックスで使う、キャンドルの準備だ。生徒たちにキャンドルを配り、点火後に会場の電灯を消して祈る。キャンドルの炎には妖精がいるという言い伝えに基づくイベントである。願いを込めて吹き消せば、願いをキャンドルに封じ込め、叶えてくれるらしい。この幻想的なイベントを、特に女子生徒たちは楽しみにしている。那月としては、完璧に成功させたかった。

 キャンドルは持ち手のついた燭台に刺し、持ち手の少し上にリボンを巻きつけて飾った物を配る予定だった。燭台やキャンドルと一緒に必要な個数を用意したと思っていたら、実際はどこかで数え間違いがあったらしい。

 青い顔で説明する役員を怒ることもなく、那月は少し思案してから口を開いた。

「確か、卒業生の胸に付けるコサージュに、リボンが付いていたはずだ。あれを使おう」

 コサージュの方は使うまでに間があるので、後で発注し直しても良い。

「あれは倉庫に置いてあったはずです」

 那月は頷き、倉庫に向かうべく踵を返す。

 どうやら、ゆっくりパーティーを楽しむのは難しそうだ。しかし自分にはその方が性に合っていると、那月は思っていた。

 駆け出した視界の端に、那月は那奈姫の姿を捉えた。鬼と契約を果たし――しかも数々の記録に残る夜叉である――最近の彼女は本当に楽しそうに笑っている。その顔が以前とは違うと気づいた那月は、あのいけ好かない教師が言ったように、那奈姫が実は悩んでいたのだと知った。

 先日買いに行った新しいドレスは、那奈姫によく似合っている。海のように深いネイビーの生地を、白と淡いブルーのレースが縁取り、いつもより大人びて見えた。ちらちらと彼女に視線を向けている男子が多いのは、那月の思い過ごしではないだろう。

 ふと目を引いたのは、隣に立つ那奈姫の親友、遠野歩だ。彼女も華やかなドレスを身につけていたが、表情は晴れやかではない。那奈姫と一緒に、他の友人たちと笑い合っているが、固い笑顔に見えた。

 なぜだろう。小さな引っ掛かりを覚えたが、疑問はすぐに、目の前の仕事に塗り潰されてしまった。


 那月たち生徒会のメンバーが、会場を出て行くのが見えた。何かアクシデントだろうか。しかし不安を感じたのも束の間、那奈姫はすぐに、兄がいるならば大丈夫だと思い直した。

 今、那奈姫の思考を占めているのは、歩のことである。約束した通り、あのモミの木の下に、歩の好きな相手を呼び出した。来るように伝えただけだから、現れるかはわからない。ちゃんと来てくれるだろうか、それとも、と先ほどから堂々巡りに陥っていた。

 友達と談笑してはいるが、歩も心ここにあらずという表情で、時間を気にしている。彼を呼び出した時刻は、午後六時。パーティーのフィナーレであるキャンドルの点火は七時なので、良い結果が出れば、二人でロマンチックな時間が過ごせるはずである。

 会場の時計が五時五十分を指しているのを見て、那奈姫は歩に目配せした。歩が頷くのを確認して、那奈姫は一緒にテーブルを囲んでいた友人たちに言う。

「私ちょっとトイレ行ってくる! 歩ちゃん、ついてきて」

「えー、もうすぐ第九の合唱始まるよ」

 クラシックの好きな学園長の趣味で、第九をみんなで歌うというイベントも用意されていた。口を開いた友達は合唱部に所属しており、楽しみにしているようだった。

「それまでには戻るって!」

 申し訳なさそうにしている歩の手を掴み、那奈姫はテーブルから離れた。人垣を器用にかき分け、ぐいぐいと歩を引っ張る。ようやく会場を抜け出て、那奈姫は息をついた。

「那奈ちゃんてば、ちょっと強引すぎない?」

 まだ繋いだままの手を見て、歩がくすりと笑った。歩の手はしっとりと汗に濡れていて、やはり緊張しているのだろうか、と那奈姫は心配になった。

「私は大丈夫だよ、那奈ちゃん」

 不安を読み取られたのか反対に励まされてしまい、那奈姫はごめんと口にしていた。

「なんで謝るの? 私は那奈ちゃんにすごく感謝してるんだから。私だけだったら、告白しようとか絶対考えなかった。チャンスをくれて、ありがとう」

 正面から言われてしまうと照れくさく、那奈姫は思わず目を伏せた。

「……じゃあ、行ってくるね」

「うん、がんばって!」

 余計な言葉は、必要ない。繋いだ手をぶんぶんと振り、笑い合う。それだけで親友にはエールが伝わっていることが、那奈姫にはわかっていた。けれどその手が離れていくとき、那奈姫は何故か、不吉な予感に襲われた。もう、こうして歩と話すことがないような。

「まさか、ね……」

 背筋を伸ばして歩く後ろ姿を見ながら、那奈姫は歩の温もりの消えかけた右手を、そっと握った。

 歩の姿が見えなくなり、何気なく窓の外に目をやった那奈姫は、突如横切った影に悲鳴を上げた。

「ゆ、ゆうれい?」

 しかしすぐに、違う存在だと気づく。自分には、鬼や悪魔が見えるようになったのだ。おそらくその類だろう。幽霊は怖いが、自分と契約した夜叉と同種だと思えば、恐怖は感じない。

 窓に寄って、外を覗いてみる。茂みを見てみたが、動くものは目に入らなかった。見間違いだったのだろうか。首を捻りつつ月を見上げた那奈姫は、再び声を上げた。

「いっぱいいる! 何あれ、鬼の行列?」

 月明かりを背景に、黒っぽい、様々な形の影が移動している。那奈姫は宇宙人と自転車の出てくる有名なSF映画のワンシーンを思い出したが、そう暢気な話ではないかもしれない。

「早く教えなきゃ!」

 那奈姫は誰もいない通路で一人ばたばたし、慌てて携帯電話を取り出した。


「なんだか、騒がしいわね」

 パーティー会場の一角で、夕妃はグラスを片手に呟いた。彼女が指摘したのは生徒たちではなく、職員たちの動きである。千尋も、気になっていた。こちらに何の情報も回ってこないとすれば、眞族の誰かが感染者を発見した、というところだろうか。

「九鬼先生にでも聞いてみましょうか?」

「――あら、その必要はなさそうよ」

 夕妃の視線の先に、その紗矢がいた。こちらに向かってくる。しかつめらしい顔つきはいつものことだが、困惑も見て取れた。そこまで切羽詰まった様子はない。

「九鬼先生は、教師の鑑ね」

「は?」

 脈絡が皆無の言葉に、紗矢は首を捻る。

「だって、『馬子にも衣装』を自分の身体で表現しているのでしょう?」

 ぶちり、と何かが切れる音がした。紗矢の血管――ではなく、ネックレスを引きちぎった音のようだ。

「九鬼先生、落ち着いてください。外面に関しては褒め言葉です」

「内面に関しては?」

「それは自分の胸に手を当てて……」

 本能的な危険を感じて、千尋は首を動かして飛来物を避けた。風圧の過ぎ去った軌道の先を辿ると、壁には銀のフォークが刺さっている。

「ひどいこと言うのね、千尋」

「お互い様ですよ、夕妃様」

 未だハンターのような目でフォークを構えている紗矢を刺激せぬよう、千尋はゆっくりと問いかけた。

「先ほどから慌ただしいですが、何かあったんですか?」

盛大に舌打ちすると、紗矢はフォークをテーブルに戻した。目だけは鋭いまま、口を開く。

「百鬼夜行よ」

「ああ、あの鬼が徘徊する……」

鬼たちが深夜に集団で行進すること、もしくはその集団が百鬼夜行と呼ばれている。宇治拾遺物語や今昔物語集など、有名どころにも記述があった。一般に知られていない情報としては、その鬼たちは単体ではあまり力のないこと、また彼らは人と契約しておらず、自由に動き回れることがわかっている。

「聖夜に鬼の行列――ロマンチックね」

 髪を振り乱しぼろを纏って騒ぐ鬼の集団の、どこがロマンチックなものか。おそらくは千尋と同じようなことを千尋より柄の悪い言葉で考えている紗矢は、いらいらした様子で、テーブルを指でコツコツ叩いている。テーブルクロスにはそろそろ穴が空きそうだ。

「それで、何か対策を講じる必要があるんですか?」

「大ありよ。このままじゃ鬼たちの行列がパーティー会場を突き抜けるわ」

 契約者に従っているわけではないため、鬼たちに人を襲う意図はないだろう。しかし気ままに暴れられても、影響は及ぶ。鬼が見えない者でも、突風や放電などの現象は知覚できるのだ。ガラスが割れたり料理が飛んだりすれば、大騒ぎになるのは確実である。

「だから、行列を散らすなり方向転換させるなりしなきゃいけないってわけ」

それで、と続けようとした紗矢を、おそらくはわざと遮って夕妃が言った。

「面白そうね、蹴散らしに行きましょう」

 千尋が紗矢の顔を窺うと、彼女は諦めたように息をついた。

「止めても無駄でしょうから、何も申し上げません。ただし――」

有無を言わせぬ口調で、紗矢は続けた。

「私と那月、那奈姫も同行します」


暖房で火照った頬に、冬の風が心地よい。なびく髪を片手で抑え、夕妃は夜空を見上げた。

 空はすっきりと晴れ、星の一粒一粒がくっきりと判別できる。都会と違い光源の少ない学園からの夜空は、そのまま怜悧な星が降ってくるのではないかと恐怖を抱くほどの迫力に満ちている。星座に興味のない彼女が唯一覚えているオリオン座が、頭上にあった。

息を吐けば白く空へ立ち上り、星へと変わりそうだ。

 そんな星空の端に、黄色味がかった月が浮かんでいた。そして近づいてくる、夥しい数の影。

「あれ、ですね」

傍らに立つ千尋が、同じ場所を見上げていた。彼の吐く息も、白い。

「夕妃様、百鬼夜行の中に、何か駕籠のようなものが見えませんか?」

「かご?」

 夕妃はとっさにバスケットのような形を思い浮かべたが、すぐに、かつて貴族が移動の折に使っていた乗り物のことだと気づく。目を凝らせば、確かにそのようなシルエットが見えていた。前後に二匹ずつ担ぐ鬼がいる。中に何者かがいるのか、それとも何かを積んでいるのだろうか。ここからでは遠すぎて判別できないが、どちらにせよ簾がかかっていて、中は窺うことができなかった。

「そんな細かいことはどうでもいいの。早く取りかかるわよ!」

「しかし、何か作戦を考えた方が良いのでは?」

 那月の主張は尤もだ。闇雲に行列を乱しても、鬼が会場に入り込んでしまえば意味がない。那月の背後にいた那奈姫が、威勢良くはいと手を挙げた。

「私と先生がペアを組んで――」

「却下!」

 見事に千尋以外の三人の声がハモった。

「行列を挟み撃ちにするのはどうでしょう。二方向から攻撃すれば、鬼たちを逃がすこともないと思います」

 出来の良い生徒の答えに、紗矢は満足げに頷いた。

「じゃあ、私たちが東側、御巫と理事長が西側からということで。行くわよ、那月、那奈姫!」

 地を蹴り宙に舞い上がった紗矢に、那月が続いた。少し遅れて、那奈姫が口を尖らせながらついて行く。

「私たちも行きましょう」

 夕妃は息を深く吸い、精神を集中させた。悪魔と接続された感覚を確認し、翼をと念じる。瞬く間に黒々とした翼が、夕妃を上空へと押し上げた。一度羽ばたくごとに、百鬼夜行がぐんぐんと近づいてくる。加速を続け、紗矢たちを抜き去った。

最強の悪魔の登場に動揺する鬼たちを目にして、夕妃は笑みを浮かべた。相手としては少々物足りないが、これだけの数がいれば楽しめるだろう。

風になびく髪をかき上げ、夕妃は前方に手をかざした。深い闇色が、掌に凝縮されていく。パチパチと火花を散らすように弾けるそれを、夕妃は正面の鬼たちに放った。

 黒い球体が爆発し、隊列が崩れる。逃げ遅れた数体の鬼が、甲高い悲鳴を残して消滅した。

 夕妃を恐れて反対方向に転換した鬼たちの前には、紗矢が三匹の鬼を従えて待ち構えていた。

「逃がさないわよ」

 大量の水と共に水鬼が鬼たちの行く手を阻む。そこへ風鬼が暴風を繰り出し、風に巻かれた鬼たちが塵となって消えていく。包囲網から抜け出ようとする鬼には、身を潜めていた隠形鬼が気配を消して近づき、襲いかかった。瞬く間に、数十体の鬼が姿を消した。三体の鬼を自在に操る様は、眞族最強の名に恥じない働きだ。

しかし感心して眺めていたのも束の間、行列を突き抜けた暴風と洪水は、こちらにまで迫ってきた。お互い向き合っているのだから、当然である。

「あーら、ごめんなさい」

百鬼夜行の向こうにしたり顔の紗矢が見えた。どうやら、ずいぶんと興が乗っているようだ。夕妃は苛立ちを覚えた。

「初めから、鬼退治にかこつけて私たちを狙うつもりだったのかしら」

「九鬼先生は、そこまで思慮深くはありませんよ。ただの偶然でしょう」

 さり気なく失礼な言葉を口にしながら、千尋が雪嵐を操って紗矢の攻撃をせき止める。そこここで水が凍りつき、砕け散っていく。空間がひび割れて脱皮していくようで、愉快だ。

 不意に熱風を感じた夕妃は、素早く衝撃波で薙ぎ払った。青々と揺らめく高温の炎は、一旦は消えたかと思ったが、散らばって夕妃を囲んでいる。火鬼を従える那月の仕業だ。

「さすがは九鬼先生の一番弟子ね。でも、私を焼こうなんて百年早くてよ」

アポルオンが咆哮し、空気がびりびりと鳴動した。突風が炎を打ちのめし、次々と消えていく。風というより、重さを伴う打撃だ。とっさに防御するように身体を丸めたが、腹に衝撃を受け、那月はたまらず下がった。それでも挑戦的に睨む那月を目にして、夕妃は自然と酷薄な笑みを浮かべる。

いつの間にか百鬼夜行を挟んでの鍔迫り合いが始まっていた。巻き込まれた鬼たちが消滅していくので一応の目的は達成しているが、それで良しという話でもない。

「あーもう! なんでケンカになるの?」

呆れて那奈姫が叫ぶが、攻撃の応酬は止まらない。

「那奈姫、あんたも手伝いなさい。ええい、にっくき悪魔――もとい鬼め!」

笑顔と棒読みの叫びと共に放たれた水流が、鬼の行列を突き抜けこちらに迫る。夕妃と千尋は、左右に分かれてそれを避けた。

「大変。九鬼先生がおかしくなってしまったわ。日頃のストレスかしら」

「色々あるんでしょう。パーティーの料理が足りなくて空腹だったり、彼氏がいなくて淋しかったり……」

「うるさいわ! 余計なお世話!」

最早、紗矢は直接千尋に向かって水を浴びせようとしている。器用に迫る水を凍らせながら、千尋は危なげなく回避する。

那奈姫はと見れば、夕妃たちの近くに呆れ顔で漂っていた。傍らの夜叉もまた、低俗な争いには興味がないというように、むっつりと目を閉じている。

「せっかく強い鬼と契約したのだから、あなたも遊べばいいのに」

「私は、できるだけ誰も傷つけたくないから」

「……ふうん」

 誰も、とは、あの有象無象の羽虫のごとき鬼たちも指すのだろうか。笑う気すら起こらない綺麗事だ。

 ならば、戦わざるを得ない状況にしてしまおうか。どす黒い感情の赴くまま、夕妃は那奈姫に矛先を向けようとした。上げかけた腕はしかし、手首を掴まれて動きを妨げられた。肩越しに、低い声が夕妃の耳を打つ。

「おやめください。相手は子供ですよ」

「すぐに大人になるわ。そうしたら、この子は私たちの脅威になる」

小声ながらも強い口調で睨み返した夕妃は、存外に真剣な千尋の目に怯んだ。

「本当に、それが理由ですか?」

 息が詰まり、夕妃は千尋の手を振り払った。

「何を疑うことがあるの? 眞族は夕族の敵。私は当然のことを言ったまでよ」

 夜叉を従える那奈姫が現れたことにより、保たれていた力の均衡は崩れつつある。それを危惧することは、決して不自然ではないはずだ。断じて、千尋が那奈姫を庇ったように見えたからではない。断じて。

千尋は夕妃から視線を外し、那奈姫の方に向き直る。ちくりと、胸が痛んだ。

「ところで鳴神君は、生徒会の仕事は大丈夫なの?」

「えっとね、トラブルがあったけど解決したみたい。今頃、みんなにキャンドルが配られてるんじゃないかな。それにお兄ちゃん、こういうの大好きだから」

 好戦的だということだろう。今もぎらついた目で、こちらを見ている。紗矢譲りかもしれない。それとも、穏やかに見えて実は残虐なあの男の本性が、息子に表れているのか。

「ああ、そういえばそんなイベントも――」

「歩ちゃん、どうしてるかな――」

 夕妃には、二人のやりとりが、ただの教師と生徒の会話を超えているように見えた。二人にしか通じない符丁、共有される秘密。ああ、駄目だ。見ていられない。やはりこの場で彼女を――。

「ちょっと! あれを見て!」

 紗矢の良く通る声が響いた。既に粗方崩れた行列の一部を指差している。その指先が示しているのは、千尋が先ほどから気にしていた、籠だ。簾がはためき、骨ばった手が覗いていた。長く伸びた爪が、月明かりを浴びて光る。あの風格は、おそらく名の知れた鬼。

 籠から滑り落ちた衣の色は、上品な銀と深緑だ。衣擦れの音が涼やかに聞こえそうな、質の良い絹の布地。そろりと、その身体が夕妃たちの前に現れ出た。

「あれは……菅原道真公」

 菅原道真といえば、不遇の最期を遂げ、鬼籍に入ってから次々と己を陥れた人間を葬ったとされる、人から姿を変えた鬼だ。十四世紀中ごろに成立した「太平記」には、政治的に対立していた左大臣時平の急逝をはじめ、道真の死後九十年間もの長い間、縁者に不幸が続いたのも、道真の恨みと憤りによるものだという記述がある。その力は主に雷電で、落雷により引き起こされた火事で多くの焼死者が出たようだ。復讐を果たし恨みは消えたものの、業を背負ったまま、鬼として現世にとどまっている。

 その道真公は、騒々しさが気に障ったのか、こちらを籠の中から睥睨している。雷撃が来るならば、注意が必要だ。林に囲まれた学園内での火事は、大惨事に繋がるかもしれない。

 しかし夕妃としては、それより気になることがあった。

「頭が高いわ。鬼の分際で、この私を見下ろすなんて!」

 鬼に感情があるかは謎だが、人間を下等な存在と認識しているような態度だ。さすがは貴族出身の鬼といったところか。

臨戦態勢の夕妃を、またもや千尋が止めた。

「そろそろ、動き出しそうですよ」

 千尋は那奈姫と夜叉を注視している。夕妃は低く呟いた。

「どれほどの力か、お手並み拝見ね」

 先ほどまで眠るように閉じていた夜叉の目がかっと見開き、道真公を一睨みする。手にした槍と剣の刃が擦れる音が、静けさの満ちていた空に響いた。

 那奈姫が深く息を吐き、気を落ち着けている。夜叉と同じように閉じていた目がゆっくりと開かれた時、夕妃は鮮烈な衝撃を感じた。甘えることしか知らない子供から、彼女は既に成長を始めている。劣等感に覆い隠されていた力が、夜叉を従えてようやく目覚めたのだ。

那奈姫はまっすぐに道真公を見上げた。腕を上げ、指先を彼に突きつける。その動きに呼応し、夜叉が一本の槍を掲げた。次の瞬間、目にも止まらぬ速さで舞い上がり、道真公に迫る。槍の切っ先が届くかのように見えたが、強烈な閃光が放たれ、夜叉が一旦退いた。

道真公の周囲には雷電が張り巡らされている。放電のパチパチと弾ける音が、夕妃の耳にも聞こえた。触れれば高圧の電流に体の自由を奪われ、焼け焦げることになる。

しかし夜叉は怯む気配がなかった。再び突進する。右側の一本の腕を振り上げると、道真公の頭上に槍を投擲した。

避雷針の役目を果たした槍は雷電を引きつけ、目に痛いほどの光が明滅した。同時に、盾を失った道真には隙が生じる。夜叉はそこを逃さず、剣を道真の身体に向けた。

悲鳴のように、衣の裂ける音がする。寸でのところで刃を避けた道真は、たまらず退却に転じた。襲いくる夜叉の剣たちをひらりひらりと躱しながら、下へ――。

「あ、そっちはダメ! 歩ちゃんが……!」

「おい那奈姫、深追いするな!」

裏庭に逃げていく鬼を追い下降していく那奈姫を、那月と紗矢が追う。夕妃と千尋は、その場に残される形になった。

「こちらはもう、放っておいても大丈夫そうですね」

 散り散りになった鬼たちを見やり、千尋が言う。長を失った行列は、烏合の衆そのものだ。主のいない籠の簾がはためき、空虚な闇が覗いている。

これ以上ここにとどまっていても、意味がない。早々にパーティーに戻ることにしようと、夕妃は中空でくるりとホールの側に身を翻した。

「――夕妃様」

 背後から、呼び止められる。残党でも見つかったのかと振り返れば、千尋がジャケットの内ポケットから何かを取り出すところだった。

 アクセサリーが入っているような、真四角の小箱。夕妃の胸は期待に高鳴ったが、意識的にそれを静めた。まさか、そんなはずはない。

しかし、そのまさかだった。小箱を差し出し、千尋は言う。

「戻ったら、いつ時間が取れるかわからないので」

 夕妃は促されるままそれを受け取り、ふたを開けた。中には、淡いピンク色の薔薇のモチーフ。月明かりに照らされた独特の光沢は、珊瑚だろうか。シンプルで地味ながらも、可愛らしい。掌の上でころりと転がせば、花弁の一枚一枚が美しく際立って輝いた。

「これを、私に?」

「鳴神さんが、家族にクリスマスプレゼントを買っていたので……」

 千尋には珍しい言い訳がましい言葉は、おそらく照れ隠しだ。慣れない空気に、夕妃は戸惑う。素直に喜びを口にすることを、千尋はどう思うだろうか。逡巡の末、夕妃は沈黙を破った。

「こんなことをしても、待遇は変わらないわよ」

「それは残念です。時給が五十円ほど上がればと思っていたんですが」

 寒さを気にするふりをして、夕妃は両頬を押さえた。きっと、赤くなっている。

 どうやら、今回ばかりはあのお子様に感謝をすべきかもしれない。

「千尋、あ――」

 ありがとう、と続けようとした夕妃は、突然、身の内で何かが暴れ出す感覚を覚えた。まるで心臓がもう一つ生じたかのように、どくどくと激しく脈打っている。

「夕妃様、どうされました?」

 焦りを含んだ声に応える余裕もなく、夕妃はただ暴れ出すおぞましい何かを抑えつけようと必死になっていた。そう、それはとてもおぞましいものだ。しかしずっと、夕妃と共にあるもの。

 どうにかやり過ごせそうだと息をつき、夕妃は顔を上げた。急に頭を動かしたためか、平衡感覚を失って視界が揺れる。バランスを崩し落下しそうになった夕妃だったが、強い力に引き寄せられ、暖かいものに包まれた。視界いっぱいの黒と顔に触れる布地の感触、自分とは異なる匂いに、夕妃は先ほどよりさらに頬を赤らめた。体の中で今度は、心臓が暴れ出す。

「大丈夫ですか? どこかで休んで――」

 千尋の声が降ってきたが、夕妃は半分も聞いていなかった。このまま彼に縋ってしまえば、楽になれるかもしれない。だが、それによって失われるものがあることを、夕妃は自覚していた。それでも構わない、今なら――。

 夕妃が拙い動作で千尋のジャケットを手繰り寄せようとしたその時、眩しい光が二人を照らした。思わず目を閉じた夕妃は、地響きのようなどおんという轟音を聞いた。

「雷……ですね」

 道真公の放った雷撃だろう。おかげで葛藤もほんのりと甘い気持ちも、どこかへ行ってしまった。

 夕妃は耳にこびりつく残響を、頭を振って振り払う。やはり、お子様はお子様だったようだ。詰めが甘い。

「いっそ感電すれば、避雷針代わりの役には立つわ」

 悪態をつく夕妃の傍らで、千尋がパーティー会場を指差す。

「雷が落ちたのは、あちらのようです。おそらく、停電していますね」

 確かに、先ほどは窓から漏れていた灯りが、消えている。周囲の電灯だけが、ぽつぽつ光っているのみだ。外の電灯は別電源なので、会場の電気系統だけがやられてしまったのだろう。

 二人は地面に降り立ち、窓の側から会場となっているホールに駆け寄った。

窓の向こうは完全な闇だ。ホールの中には壁際にいくつか緑の非常灯がついているはずだが、中の様子を確認するには光が弱い。窓も締め切られているため、こちらに声が届くこともないが、何やら慌ただしい空気は伝わってきた。ちょっとしたパニックが起きているだろうことは、想像に難くない。

「まったく、情けないわね」

 低く呟いた夕妃は、自分の肩の高さほどある窓枠に飛び乗った。躊躇なく右手を振り上げ、窓ガラスに叩きつける。分厚いガラスはくぐもった音を立てて割れ、月明かりに照らされた破片が、飛び散って煌めいた。

 その瞬間、喧騒が窓から飛び出した。ただでさえ恐怖の中にいるのに、ガラスの割れた音でさらに騒ぎが大きくなっている。涙混じりの声やすすり泣きまで聞こえる始末だ。

夕妃はドレスのポケットに手を入れ、中に入っていた物を取り出した。

「夕妃様、どうしてそれを……」

「可愛らしかったから、一つ拝借したのよ」

 夕妃は得意げに、小さなキャンドルを掲げた。那奈姫が千尋に話していた、生徒たちに配られるキャンドルがこれである。

 夕妃がキャンドルの上に手をかざすと、小さな炎が、ゆらりと灯る。

 大きく息を吸った夕妃は、騒々しい暗闇に向かって一喝した。

「静かになさい!」

 ホールに夕妃の声が響き渡った。ざわめきが、一瞬にして静まる。人を無条件に従わせる力を持つ声だった。

 そして煌々と燃えるキャンドルを手に、窓から生徒たちを見下ろした。ゆっくりと見渡していけば、怯えた表情をしていた一人の男子生徒が、夕妃の持つ光の正体に気づき、自らのキャンドルを取った。

 夕妃はゆったりと微笑み、窓枠から会場へと飛び降りた。炎は少々の風にはびくともせず、力強く燃えている。それは夕妃の異才としての力によるものだったが、生徒たちには何か神聖な現象に見えたようだ。いつの間にか彼らは夕妃を囲み、一様にうっとりと炎を見つめ、手にしたキャンドルを夕妃に差し出した。

 キャンドル一つ一つに、夕妃は火を灯していく。融けていく蝋が、甘く香った。外の冷気でかじかんだ手を、炎が優しく温める。

「さあ、この火を周りの子たちにあげて」

 頷いた生徒たちは、思い思いの相手に、キャンドルの炎を分け与えていった。ゆらめく灯火が、さざ波のようにうねりながら、少しずつ広がっていく。派手に装飾されたイルミネーションよりずっと、美しい。夕妃はうっとりとその光景に見入った。

 まだ暗いステージの方からは、透き通った歌声が聞こえてきた。ホワイト・クリスマス。夕妃の好みの選曲だ。どこか物悲しいメロディと祈るような切ない歌詞が好きだった。クリスマスを家族と一緒に過ごした時の感覚が、鮮やかに蘇る。ごく小さい頃、まだ家族が家族として機能していた頃のこと。

 幼い夕妃はもちろんケーキやプレゼントに喜び、パーティーを楽しんでいたが、同時に、何故か寂しさを感じていた。あの気持ちはやはり、この曲のためではないか。クリスマスは嫌いではないが、どれだけにぎやかであっても、しんしんと雪のような切なさが降り積もっていくような気がする。

「クリスマスは、どうしてか寂しさを感じる瞬間があります」

 自分の思考をなぞるかのような言葉に、夕妃は思わず振り返った。夕妃が手にしたキャンドルが揺れ、さらに窓から入り込む風が当たって、炎は今にも消えそうだ。千尋はそんな夕妃を訝しげに見ながら、炎を風から守るように手をかざした。

「でも、その寂しい雰囲気も、僕はわりと気に入っていますけれど」

「……そうね、私も悪くないと思うわ」

 千尋の掌の中で、炎は再び力を取り戻し、煌々と燃えていた。

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