第5話 パゴファジアと乾杯を
グラスの中で、氷がからりと崩れた。琥珀色の液体は既に薄く、口に含んでも広がるのは芳香ばかりだが、男は構わずに氷を噛み砕き、飲み下した。アルコールはもう、必要がなかった。なぜならば、男は、アルコールによって得られる酩酊よりもずっと甘美な感覚を、これから味わうつもりだったからだ。
店内には邪魔にならない程度の音量で、ジャズが流れている。ドラムが軽快にリズムを刻み、アルトサックスが自由にその上を駆ける。人差し指で同じリズムを叩きながら、男はカウンターの端に座る女性を注視していた。
このバーに入って、最も男の目を引いた一人客が、彼女だった。いかにも頭の切れそうな、美人だ。歳はおそらく、三十代前半。先ほど少し話したが、とある官庁に勤めている、と彼女は答えた。控えめではあるものの、ただの公務員ではなく官僚だと匂わせるところに、自尊心の高さがうかがえる。男はその瞬間、今夜の標的を彼女に決めた。
さあ、もうすぐだ。うっとうしいナンパではないことを示すため、男は数分で彼女の隣を離れ、テーブル席に着いていた。ただしその間も、彼女を視界に入れたまま。
物思いに耽っていたらしい彼女は、ようやく、グラスを手に取った。カクテルがブラッディ・マリーなのは少々出来過ぎだと、男は低く喉を鳴らした。血のように赤い液体が、彼女の唇に触れ、口の中に入っていく。小さく喉が動いた時、男は拳を握りしめていた。
彼女は前かがみになったかと思うと、胸のあたりを押さえて立ち上がった。背の高いスツールのシートが、くるくると回転している。彼女の口が酸素を求めるようにぱくぱくと動いた。異変に気づいたバーテンが、素早く近づく。しかし彼が声をかける前に、彼女はがくりと膝をつき床に転がった。周囲の客がざわめき、店全体へと波及していく。
フロアにいたウェイターが大丈夫ですか、と呼びかけるのを背中に聞きながら、彼は勘定を済ませ、店を出た。
深夜の風が思ったより冷たく感じられなかったのは、興奮のためだろうか。
男はゆっくりと歩きながら、気分を落ち着かせるため、“彼女”を思い出した。
――ああ、あの女が死ねばいいのに。
赤い唇で、彼女はうっとりと呟いた。しかし彼女は同じ唇で、こうも言った。
――人殺し!
その通り、自分は人殺しだ。しかし、男にはわからなかった。なぜ彼女は、彼を非難し、毒を呷ったのだろう。
わからない。唯一はっきりしているのは、それ以来、毒を飲んで苦しむ女性を見ることが、彼にとって快感に変わったという事実だった。
学園祭を終え、続いてのイベントは中間試験である。生徒は山を当てようと教師の腹を探り、教師は試験問題を死守すべく口を固く閉ざす。そんな駆け引きをする時間があるのなら勉強すべきなのだが、水面下の戦争は今回も繰り広げられているようだ。
紗矢も他の教師と同様、生徒の探りをのらりくらりと躱し、一方で着々と試験の準備を進めていた。試験問題を作成し、間違いや曖昧な表現がないかチェックし、点数配分を決める。ようやく終わりが見えてきたが、余裕はなく、端的に表現すれば、苛々していた。しかもそれを助長する存在がすぐ近くにいるとあっては、気が休まる暇もない。
「九鬼先生、コーヒーです」
苛立ちの元凶は、大きなマグカップを手にやって来た。紗矢は顎を動かし、ぞんざいに机の一角を示す。なみなみと注がれたコーヒーの香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「白井先生もどうぞ」
もう片方の手で持っていたのは、自分用ではなく学年主任の白井のために淹れたものだったらしい。紗矢とは正反対に、白井はにこにこと受け取り、礼を述べた。
「嬉しいなあ、御巫先生が淹れてくれたコーヒーは、美味しいんだよね」
「そうですかあ? 同じコーヒーメーカーで、味なんて変わらない気がしますけど」
コーヒーに早速口をつけ、紗矢が言う。正直なところ、コーヒーの匂いも味も、そこまで好きではない。眠気覚ましになるという点で、気に入っているだけだ。
「女性の九鬼先生が、淹れてくれてもいいと思うけどねえ」
「白井先生、それセクハラですよ」
小心者の白井は大げさに、そんなあ、などと嘆いている。小心者ではあるが仕事の速い彼は、御巫と雑談をしながら悠々とコーヒーを飲んでいた。既に、試験の準備を終えてしまったのだろう。御巫もクラス担任としての業務がない分、早々に終わったようだ。苛々の原因が、二人に増える。
紗矢は机に置いたプリントの束を掴むと、御巫の鼻先に突き出した。
「これ、八十部ずつコピー取っといて。どうせ暇なんでしょ」
「あ、九鬼先生、それはパワハラってやつだよ」
ひと睨みすると、白井はおお怖いとおおげさに体を震わせた。
しかし、元はといえば、悪いのは御巫だ。先日の、菅原亜紀の件。こちらの手中にあった感染者を内緒で攫うなど、言語道断である。一応の謝罪はあったものの、怒りはそう容易く収まらない。だが、今回はこちらにも落ち度があった。亜衣が初めから幻影だったなど、考えもしなかった。あのまま、騙され続けていた可能性もある。故に、せいぜい御巫を小間使いにして溜飲を下げる程度の意趣返ししかできないのだ。
ただ問題は、当の御巫が相変わらず飄々とした無表情なので、まったくやり返した気にならないことだ。むしろ苛々が募る気がする。
紗矢は結局、別の方法でストレスを発散することに決めた。机の端に載せていた紙の箱を取り、蓋を開ける。好物の、草灯屋のカツサンドだ。開けた途端、ソースの何ともいえない香りが広がり、やはりこれに勝るものはないと確信する。
「九鬼先生、まさかそれも御巫先生に買いに行かせたんじゃ……」
疑いの眼差しを向けてくる白井に、紗矢は怒りの形相で否定する。
「これは今朝、自分で買ったんです! 私を何だと思ってるんですか」
「女番長……?」
「あんたには聞いてない!」
御巫の言葉に頷きかけた白井が、再び、怖いなあとぼやいた。紗矢は無視して、カツサンドにかぶりつく。口中に広がった味に、頬を緩めた。時間が経っても衣はさくさくとした食感が残り、甘めのソースが程よく絡みついている。赤身の肉はあっさりとしているが、噛めば噛むほど味が出てくる。これを作った人間は天才だ。二人とのくだらないやりとりを相殺できるくらいには、紗矢は満足した。
「でも、二箱はさすがに食べ過ぎじゃないですか?」
机には、もう一箱、同じサイズの箱が置かれていた。それに目を留め、御巫が言う。
「違うわよ、これは人にあげるぶん!」
とは言いつつ、ペロリと一箱平らげてしまい、あと少し欲しい気分ではあった。美味なのは確かだが、やはり満腹になるまで食べるには、五個入りで千円は少々高い。
「どうでもいいけど、あんた眼鏡どうしたの?」
「割られました」
誰に、とは聞かなくてもわかる。それは災難だ、と紗矢はにやにやしたが、同時に、女子生徒が騒いでいると広瀬から聞いたことを思い出し、複雑な気分になった。
「早く買い直した方がいいわね。眼鏡がないせいで、やる気のなさが透けて見えるわよ」
「なんと、それは大変です」
ちっとも大変そうには聞こえないが、ややぼんやりしているようには見える。弁解するように、御巫は言った。
「最近、夕妃様が夜遅くまで寝かせてくださらないので、睡眠不足なんです」
「え、あんたたちって、やっぱりそういう……」
「今追っている感染者が、夜な夜な繁華街に出没しているんですが、毎回あと一歩のところで逃してしまっていて」
「ああ、なんだ、そう、感染者ね……」
あらぬ想像をしていた紗矢は、彼女にしては小さい声で呟いた。一人赤面する紗矢には気づかないのか、白井と御巫は二人だけで会話を続けている。
「御巫先生も九鬼先生も、危険な仕事を進んでやって、えらいよねえ。私には、とてもとても」
「どちらかというと、感染者より夕妃様を相手にする方が、危険で疲れますね。気づくといろんなものを破壊しておられるので」
「破壊する」を尊敬語にするなと突っ込みたいところだが、白井はなるほど、と興味深そうに頷いている。彼も眞族の一員だが、その任務は監視が主なので、戦うことに及び腰だ。感染者の取り締まりだけでなく、一族同士の対立からも距離を置こうとしている。まだ六十にようやく手が届くかという年齢のはずだが、雰囲気は既に一線を退いた好々爺である。
しばらくして、白井は別の教員に呼ばれ席を立った。御巫も、紗矢がコピーを頼んだ用紙を持って立ち上がる。何を思ったか、彼は一旦コピー機に向かいかけてから、くるりと方向を転換して紗矢のところにやって来た。耳元で、囁くように言う。
「ちなみに、僕と夕妃様はそういう関係ではありませんから」
羞恥と怒りで再び顔を赤くした紗矢は、職員室に響く声で叫んだ。
「いいから早くコピー取ってこい、非常勤!」
日の陰った廊下を、さらに闇の深まる方へ、千尋は歩いていた。理事長室の近辺は、今日もしんとしている。このところ、黒夜叉と那奈姫が呼ぶあの黒猫と、夕妃以外の姿を見た記憶がない。
次の角を左に折れれば、理事長室はすぐだ。
左へと足を向けた時、千尋は何者かの息づかいを感じた。次いで、同じ方向から、風を切る音。反射的に、手にしていたノートを盾にする。トン、と小気味よい音が、廊下に響いた。
ノートを見れば、小ぶりのナイフが表紙を破って突き刺さっている。千尋はナイフの飛んできた方に、声をかけた。
「危ないでしょう、心臓に穴が開くところでしたよ」
「ちょっとしたテストよ。そう……まあ、反射神経は問題なさそうね」
理事長室の手前、会議室の入り口に身を潜めていたらしい夕妃は、一人で何事か呟いていた。
「何のテストですか?」
千尋は無残な姿になってしまったノートの表紙からナイフを抜き取り、尋ねた。
「次の、“狩り”のためよ」
「何か、新たな情報が?」
今回追っている感染者は、非常に特殊だった。リゾートホテルやレストラン、バーなどに出没しては、人を殺して姿を消す。その死因は全て毒物によるものだが、どうやら悪魔や鬼の力を借りているわけではないようだ。酒に毒物を混ぜ、それを被害者に飲ませている。酒を飲む場所で客が体調を崩すことはそう珍しくないため、通報が遅れ、情報がこちらに入った時には既に、感染者は立ち去ってしまっていた。
一度、偶然居合わせた夕族の人間が姿を捉え、攻撃を仕掛けたらしいが、放った衝撃波は全く当たった気配がなく、動揺している間に逃げられてしまったという。人間にできる芸当ではないため、感染者であることは確信できたが、一体どんな能力があるのかは不明だ。
現在も調査を進めている者がいるはずだが、何か進展があったのだろうか。そう期待して先ほどの質問を発した千尋だったが、夕妃はそんなものはないと首を振った。
「相手の力がわからないから、思わぬ攻撃に反応できなきゃいけないでしょう? それで、不意を突いてみたわけ」
「まあ我々は、特殊な力は使えても身体はあくまで人間ですからね」
致命傷を受ければ、普通の人間と同じように死ぬことになる。たとえ銃と段違いの威力の力を持っていたとしても、銃弾に反応できなければ避けられない。過去にも、強力な悪魔と契約しながら、不意打ちによって暗殺された者がいた。相手の力を見極めるまでは油断をするなと、夕妃は言いたいのだろう。
「あなたがそのノートみたいに、私の盾になってくれると安心だわ」
いや、少々意図が違ったか。千尋は呆れて嘆息し、にっこり笑う夕妃にナイフを返した。命を奪うつもりの相手を、命を捨てて守るわけがない。彼女は一体、何を考えて自分に命を預けるような真似をしているのだろうか。
夕妃は白々と光るナイフの刃を唇に当て、不敵に笑った。
「今夜こそ、仕留めるわよ」
夕妃の言葉に呼応したかのように、その日、例の感染者をついに見つけたと連絡が入った。学園から帰路に着こうとしていた夕妃と千尋はそのまま、現場に直行した。
場所は、市内の有名リゾートホテルだった。先日警察から注意喚起をした甲斐があってか、優秀な従業員が、怪しげな人物に気づいたらしい。ホテル内のバーに足止めしている、と切迫した口調で通報してきた。
「幸い、ホテルは塀に囲まれていて、逃亡が難しい。ただ、ホテルにはもちろん他にも客が大勢いる。あまり騒ぎを大きくしないよう、頼みますよ」
柊一はホテルのエントランスに到着した夕妃と千尋を迎え、そう言った。夕妃はその言葉を聞き流しながら、柊一と共にやって来た支配人をちらりと見た。さすがは全国区の人気を誇る高級ホテルの支配人だ。緊張した面持ちではあるが、物腰は落ち着いている。夕妃を見た人間は、その容姿の幼さと肩書の差に戸惑いを見せることが多いが、彼は夕妃に向かって深々と一礼した。夕妃はその態度に満足し、柊一はともかく、この支配人のために、今回は物を壊すのを少々我慢しようかと思った。
「私からも、よろしくお願いいたします」
余計なことを言わない点も、好ましい。夕妃は支配人に頷き、微笑んだ。
「それで、その人物は今もバーに?」
千尋が尋ねると、柊一と支配人は揃って頷いた。
「この階の、奥です」
ガラス張りの向こうに庭園が見える造りになっている店だという。宿泊客以外でも利用でき、感染者と思われる人物も、ホテルの外から来たようだと、支配人が補足した。
間口の狭い店で、中は薄暗い。人の顔が、入口からでは判然としなかった。洒落たいい雰囲気のバーだが、従業員の身のこなしが緊張のためかぎこちなく、浮き足立った妙な空気が流れている。
夕妃は店の中に一歩踏み込み、ざっと客を見渡した。十人程度だろうか。
「あの、カウンターにいる男ね」
教えられるまでもなく、夕妃はすぐに異質な人物を見つけた。何が、と上手く説明することは難しい。ただ違和感を覚えるのだ。二つのコンピュータが、それぞれ指令を出して一つのものを動かしているような、ちぐはぐさが。夕妃はそのズレのようなものを目にすると、嫌悪感を覚える。彼に気づいた従業員も、その違和感を感じ取ったのかもしれない。
「接触しますか? それとも――」
問答無用で攻撃するか。千尋が夕妃に問いかけたが、答える暇はなかった。先に、感染者らしき男がこちらに気づいたのだ。カウンターの上に数枚の札を置き、席を立つ。動作はスマートだが、必要以上に素早かった。引き留めようとするバーテンダーを振り切るような動作をし、踵を返す。
しかし彼は、入口の方へは戻らなかった。奥の、庭園の側に歩いていく。見れば、ガラス張りの壁の一部に、ドアがある。明らかに、彼はそちらを目指していた。
「そろそろ、鬼ごっこは終わりよ」
夕妃は男に向かって、手をかざした。まずは小手調べ。夕妃の背後に現れたアポルオンが、その翼を広げ、風を巻き起こした。
これまで対峙した感染者の多くは、その悪魔のおぞましい姿を目にして、恐怖や憎しみの表情を浮かべていた。
彼は、そのどちらの感情も見せなかった。口の端を上げ――笑った。楽しくて仕方がないというように。
何かが、おかしい。夕妃は自分の直感が正しかったことを、すぐに知った。
男に襲いかかったはずの風が、消えてしまったのだ。
男の傍らには、見たことのない姿の悪魔が佇んでいた。――いや、書物の中で、絵を見た記憶はある。ヒトのように二本の足と腕を持っているが、黒のマントで全身を包み込んでおり、顔も覆われている。腰までのびた銀色の髪が特徴的だ。
「あれは、魔除けの鬼神、ミズクンですね」
横に立つ千尋が言う。イレギュラー中のイレギュラーだ。悪魔や鬼の持つあらゆる魔力を無効化するとなると、当然、夕妃の力がどれだけ強力でも意味がない。
「悪魔のくせに、魔除け? そんなヤツどうやって……」
柊一が呆然と呟く間にも、悪魔を従えた男はドアを目指している。
「待ちなさい!」
ようやく異変に気づいた客たちが、ざわめく。夕妃は構わず、駆け出していた。
男はドアを開け、庭園に出た。自分が有利であることを確信してか、悠々と足を運んでいる。その態度とこれまで散々振り回された怒りで、夕妃の元々細い堪忍袋の緒は、ぷつりと切れた。
ドアから外に飛び出し、今度は手加減なしの衝撃波を見舞う。ライトアップされた美しい芝生は抉られ、照明には無数のヒビが入る。しかしその中心にいる男は、こちらを向いて涼しい顔をしていた。
真正面から見れば、なかなか整った顔立ちだということがわかる。彫りが深く、外国人のようだ。人間的な感情がそぎ落とされている今は、石膏の彫像を思わせる。歳は、千尋と同じくらいだろうか。平均的な感染者と比較すれば、やや上だ。
「あなたはなぜ、人を殺すの?」
男はどこかタガの外れた笑みを浮かべていた。口の中から、ガリ、と硬い音がする。含んでいた氷を噛み砕いたのだ。舌で氷を転がしながら、彼は答えた。
「おそらく、僕の考えていることは、あなたには理解できない」
「それは、なぜ?」
「あなたが、女性だから。僕が女性を理解できないように、あなたが僕という男を理解することもできない。そうでしょう?」
「あなた、恋人にフラれたの? それで、若い女性ばかり狙って殺しているのね。そんなつまらない理由で関係のない人間を殺すなんて、本当に迷惑だわ」
夕妃は嘲笑した。しかし男は全く激昂する様子を見せなかった。楽しそうに、喉の奥で笑っている。
「その手には乗りませんよ。怒りで冷静さを失ったところに、襲い掛かるつもりでしょう」
こちらの目論見は見抜かれている。夕妃は唇を噛んだ。
「じゃあ、僕はそろそろ帰りますね。今日はバーテンダーに引き留められて、飲み過ぎてしまったので」
「……バカにしないで頂戴」
夕妃はアポルオンを呼び出し、意識を集中させた。男と悪魔だけでなく、周囲の庭園ごと破壊しつくすつもりで、立て続けに雷を降らせる。地面が砕け、生垣からは炎が上がる。吹き荒れる風が、土や小石、芝生を巻き上げ、男へ向かう。
あらゆるものが地面に叩きつけられ、地震のような揺れと轟音が響いた。
それでも、手ごたえは感じられなかった。悲鳴の一つも聞こえない。だが何もしなければ、今夜も男はするりと夕妃の手を逃れてしまう。夕族の当主がたった一人の感染者に後れを取るなど、あってはならない。夕妃は意地になり、再度攻撃を仕掛けようとした。
「夕妃様!」
不意に千尋の声が近くで聞こえた。これまで聞いたことのない焦った様子の声音に、夕妃は驚いて動きを止める。振り返る前に、伸びてきた手が肩を抱きこむようにして、夕妃の体を後ろに引いた。
その直後、夕妃の眼前を何か大きなものが落下していき、地面に転がった。夕妃の体ほどもある照明装置だ。覆いのガラス部分や電球はぼろぼろに割れ、支柱との繋ぎ目はぽきりと折れていた。重量は軽く百キログラムを超えるに違いない。あれが直撃していたら、命はなかっただろう。
感染者は、どこだ。夕妃は男が立っていた辺りに目を向けた。人影はない。逃がしてしまったのだ。夕妃の中に、ふつふつと怒りがわき上がった。早く追わなくては。
「夕妃様、今日はやめましょう。対策を練って、後日――」
「退けというの? 最強の悪魔を従える、この私が!」
屈辱に、夕妃の声は上擦った。夕妃は千尋を振り返り、さらに言い募ろうとしたが、彼の手を目にして口を噤んだ。
千尋の手首から血が流れ、白いシャツを紅く染めている。夕妃の視線に気づいた千尋は、傷を見下ろして他人事のように言った。
「たぶん、あの照明が砕けた時にガラスの破片が飛んできたんでしょう」
夕妃を引き戻した時だ。彼が夕妃を庇うように手を伸ばさなければ、それは夕妃に刺さっていたはずだ。
鮮やかな紅を目にして、夕妃の頭は急速に冷えた。感染者を逃がしたことより、怒りに囚われて我を忘れていたことを、恥ずかしく思った。
「大丈夫か?」
走り寄る柊一を千尋が身振りで押しとどめた。
「近づかない方がいい」
傷を見せて言う千尋に、柊一は渋々といった様子で、立ち止まった。彼の血には、夕妃と同様、ウイルスが存在している。健常者が異才の血に触れれば、当然、感染のリスクが生じる。もし触れた側にも傷があれば傷口から感染する上、経口感染の可能性も無いわけではないからだ。柊一はポケットを探り、畳まれたハンカチを千尋に投げる。
「ありがとう」
千尋の声が、微かに震えた気がした。おそらくは柊一の優しさに、心を動かされて。
無表情ではあっても、彼は無感情ではないはずだ。その証拠に彼は、夕妃への憎しみをはっきりと口にしている。しかし夕妃の傍にいるためには憎悪を押し殺さなければならず、その結果、彼は他の感情に伴う表情をも消してしまったのではないだろうか。一時的に仮面を被るより、その方が楽だから。高校からの知り合いである柊一は、その仮面を剥ぐことのできる、唯一の存在かもしれない。夕妃は彼に、軽い嫉妬を覚えた。
「私が、やるわ」
夕妃はハンカチを千尋の手首に巻きつけ、その端を結んだ。止血のためにと力を入れて縛ると、傷に触れたのか千尋がわずかに顔を歪めた。自分が剥がせる仮面は精々この程度、と夕妃は人知れず失望した。
「別に、気にすることはないですよ」
大人しく腕を預けていた千尋は、夕妃を見下ろして言った。
「ノートに穴が開いたのと同じことです。僕は一応人間なので、切れれば血くらい出ますが」
先ほどの声を聞いてしまったせいか、その言葉は夕妃の中でやけに冷たく響いた。
那奈姫は教科書を抱え、階段を駆け上がっていた。ぱたぱたと軽い足音が反響する。西日の射す階段に影ができ、彼女に合わせて楽しげに弾んでいた。
階段を上りきった那奈姫は、笑みを深めて廊下を進む。無意識のうちに、歌を口ずさみながら。
今日から部活動は試験前の休みに入った。同級生たちは寮の自室や塾で勉強すると言っていたが、那奈姫はまだその手前で、どこから手をつければいいかわからない状態である。普通の生徒なら絶望的な気持ちになるものだが、那奈姫はこれを好機と捉えた。すなわち、千尋に勉強を教わる――という口実で彼と二人きりになる――ことができる。那奈姫はその思いつきに胸を躍らせ、化学の教科書はもちろん、数学や生物の教科書も抱えてやって来た。化学以外の教科を教えられるかは知らないが、紗矢はよく、千尋を“小賢しい”と言う。賢いという字が入っているのだからきっと頭が良いという意味だろうと、那奈姫は思っていた。
第二化学準備室の前に立った那奈姫は、いつものように勢いよくドアを開けようと、手をかけた。
しかし、妙な音が聞こえたような気がして、動きを止める。
カリカリ、と木を引っ掻くような音がしていた。那奈姫のすぐ近くだが、下の方から聞こえる。首を傾げつつ、那奈姫はそっとドアを開けた。
「わっ!」
ドアのわずかな隙間から、黒い塊が飛び出てきた。思わず後退して避ける。黒い塊はそのまま転がるようにして廊下を駆けていった。その見覚えのある後ろ姿を目にして、那奈姫は早鐘を打つ胸を押さえながら呟いた。
「もう、黒夜叉ってば脅かさないでよ」
気を取り直し、那奈姫はドアを開けて部屋を覗き込む。
「……せんせい?」
いないのだろうか。声を張り上げようとして、那奈姫は慌てて口を塞いだ。そろりと部屋に入り、ソファに近づく。
「寝てる……」
めったにないこと、いや、初めてだ。ソファに身体を預け、彼は眠っていた。本を手にしたままだから、読書中に眠くなってしまったのだろう。
「ふふっ」
那奈姫は小さく笑い、ソファの向かいに椅子を持ってきて腰掛けた。こんな機会はなかなかない。彼が目を覚ますまで、じっくり観察することにした。
綺麗に生え揃った睫毛と、すっと通った鼻筋。肌は那奈姫が羨むほどに白い。整った顔立ちを改めて見て、那奈姫はじんわりと絶望に似た感情が染み渡っていくのを感じていた。彼に似合いの人間は、自分ではなく夕妃だ。彼女の方がずっと美しく、そして、千尋と似た空気を持っている。
「だからって、諦めようとか考えてないけどね」
那奈姫はそう呟いて、立ち上がった。正面から眺めているだけでは飽きたらず、そっと、投げ出された足の横に座り込む。見上げれば微かな呼吸が聞こえ、那奈姫は目を閉じて耳を澄ませた。
ゆったりとした時間が流れていた。飴色の夕日の中、たゆたうように。何だか、満ち足りた気分だ。
でも、やっぱり起きて相手をしてほしい。そろそろ起きてくれないものか、と那奈姫は千尋を見る。
「……包帯?」
先ほどは気づかなかったが、千尋の手首に、白い包帯が半ばほどけた状態で巻かれていた。ほどけているのは、部屋の中にいた黒夜叉が、じゃれついていたからかもしれない。
そういえば、一人の感染者に手を焼いている、と数日前に言われた気がする。おかげで、電話をかけても繋がらないことが多かった。メールは律儀に返ってきていたが、それも負担になっていたかもしれない。那奈姫は少し反省した。呆れた素振りをされることは仕方ないとしても、本気で迷惑をかけるのは嫌だった。
「あ……」
一筋の紅が、手首を伝っていく。ほどけた包帯の隙間を縫うように。濃密さを増した斜陽に、白く手が浮かび上がる。
このままでは、指先からソファへと滴が落ちて、汚れてしまう。那奈姫は掌で、一滴を受け止めた。
ぞくりと、身体が疼いた。血を見て興奮するなんて、吸血鬼みたいだ。唾を飲み込む。彼の顔を窺うが、まだ目を覚ます気配はない。
那奈姫は誘惑に抗わず、掌の紅に口づけた。
騒がしい警察署内で、その部屋は閑散としていた。ざっと見てデスクは四つ。つまり常時対策室に所属している人間は、それだけということなのだろう。
最も整理整頓されているのは、今千尋の目の前にいる友人のデスクだ。彼によるものか、部屋全体もこざっぱりとしている。カップは棚に整然と並び、コーヒー用の砂糖とミルクが、きちんと容器に収まっている。ゴミ箱も、燃えるごみとプラスチックごみに加えて資源ごみ用まで用意されている。その中にはつい昨日目にした草灯屋の紙箱も交じっていた。
「――聞いてるのか?」
前を見れば、柊一がしかめ面でこちらを睨んでいる。千尋がぼんやりと部屋を眺めていた間、何か喋っていたらしい。
「草灯屋のカツサンドは美味しいよね」
千尋がとぼけると、虚を突かれたらしい柊一は、静止画のように固まった。それから千尋の目線を追い、ようやく箱の存在に気づいて長いため息をつく。
「昨日の差し入れだ。まあ、味がいいのは認めるけどな」
それでも律儀に返事をするのが彼らしい。
「高いのが難点だよな。一個二百五十円は、しがない公務員にとっては高級品だ」
主婦のようなことを言う。思い返してみると、柊一は高校生の頃から購買のパンについて同じような計算をしていた。数学は苦手だと公言していたが、一袋いくらだから一個あたり何円、という計算は無意味に早かった。
「じゃあ、今度は差し入れに持ってくるよ」
本当か、と柊一は顔を輝かせた。それくらいお安い御用というものだ。ただでさえ、彼にはしなくてもいいはずの苦労をさせてしまっている。主に、夕妃が原因で。
「では、感染者対策会議を始めますか」
「俺はもう始めてるつもりだったんだけどな」
資料の束をペン先で叩きながら、柊一は言う。資料とは、今回の感染者に関するものだ。感染者の名前が判明し、その素性も明らかになってきた。
「
「確かに平均すれば高い方だけど、例がないわけじゃない。現れる場所と時間帯から考えても、そのぐらいが妥当だろうね」
「でも、かなり気取った雰囲気の店が多かっただろ。成人してても学生が気軽に行くような場所だとも思えないが」
同年輩の柊一は、社会人になった今でも、一人では入りづらいと言った。
「バーという場所が鍵になっているか、付き合いのあった人間がそういう場所に出入りしていたか……」
それだ、と柊一はペン先で千尋を指した。資料を素早くめくり、千尋に示す。
「ヤツは数ヶ月前まで、そこそこ有名なモデルと付き合っていたらしい。名前は
偏見のようにも感じられるが、学生に比べれば関係が近そうな職業ではある。
「それで、その元恋人の能見さんは、今どうしてるの?」
「入院中だ」
「まさか、高本に――」
柊一は首を傾げた。
「毒物を呷った自殺未遂ってことになってるが……。こうなってくると、高本に飲まされた可能性もあるな。彼女は命に別状はなかったが、精神が不安定でまともに話のできる状態じゃないらしい」
「毒を……」
どうやら、高本が毒殺にこだわる理由は、そこにありそうだ。これまでの被害者が全員希恵と同様若い女性であることも、その推測を裏づけている。
「本当に自殺を図ったとして、その理由は?」
「親や友人は、知り合いの――いわばライバル関係にあったモデルが死んでから、様子がおかしくなったと言っている」
一拍置いてから、柊一は重々しく告げた。
「殺されたんだ。犯人はまだ、捕まっていない」
柊一が口にした被害者の名前から、千尋は数か月前に都内で起きたその事件を思い出した。帰宅途中の深夜、首を絞められて殺されたのだ。
「つまり、能見さんはその殺人事件に関係していて、そのせいで精神に異常をきたしたかもしれない、と」
関係しているという表現を直接的な言葉に換えれば、能見希恵はライバルを殺した犯人であるか、犯人を知っているかのどちらかである、ということだ。
「いや、能見希恵に犯行は無理だ。その日は仕事で地方に行っていたらしい」
「じゃあ、高本は?」
「ちょうど、東京に出かけてる。希恵がいないにもかかわらず」
千尋と柊一は、無言で目を見交わした。高本が希恵のためにライバルを殺した。ストーリーとしては、それらしい。
「そして、能見希恵は恋人が自分のために殺人を犯したことを知り、ショックを受けて自殺を図る……」
「しかし、高本はなぜ毒物による殺人を始めたんだ? 自殺を図るまでに恋人を追いつめてしまったからか?」
柊一が疑わしげに首を捻りながら言い、千尋も同調した。
「わからないな。彼女が死んでしまったのならまだしも、生きてるし。それに、彼は自分を責めるタイプではないような気がする」
希恵がモデルという職業に就いてから交際を始めたこと、学生にしては高級な服装、若く美人な女性への執着。千尋の目には、高本は自己顕示欲の強い、ナルシストとして映っていた。人から尊敬を集めたいと欲し、中身より肩書にこだわる。裏を返せば、蔑まれることが許せない、プライドの高い人間だといえる。そしてそういう人間は、往々にして自分を過大評価しているものだ。周囲からの評価が自分の期待しているものでない場合――。
「世界が、彼を裏切る……」
「え?」
聞き返した柊一に、千尋は何でもないと首を振った。
千尋はこれまで出会った感染者たちを思い返していた。彼らはよく、裏切りという言葉を使った。自分の望みが叶わないと知った時、人は絶望する。ひたすら打ちひしがれる者もいれば、それを憎しみに変える者もいる。自分を裏切った人や世界に、復讐するのだ。目的を達するために邪魔な理性や常識を削ぎ落し、最後には自我すら手放す。
発症のトリガーとは、裏切りを認識することではないか。今のところ、それが千尋の中の答えだ。
「まあ彼の人格については、とりあえず置いておこう。問題は、どうやって仕留めるか、ということだ。あの魔王様でも歯が立たないとなると、厄介だぞ」
柊一の言うことはもっともだ。感染者の事情を考慮する段階は、とうに過ぎている。野放しになっている殺人鬼を、一刻も早く止めることが先決なのだ。必要以上に感染者の闇を探ろうとするのは、紗矢たち眞族の人間に毒されているからかもしれない。千尋は頭を切り替え、高本の攻略法を考えてみることにした。
「過去の記述によれば、魔除けの悪魔は契約者の周囲から、完全に魔を払う――つまり、他の悪魔による干渉を完璧に消すことができる。夕妃様や俺の場合、攻撃に対して反応し、防御しなければならないけれど、彼にはそれが必要ない。いわば、常に周囲にバリアを張っている状態になる」
「攻撃力はないが、防御は石のように固い、と。隙をつこうにも、隙が存在しないってことだろ?」
千尋が頷くと、柊一は力なくうなだれた。しかしそこまで悲観することはないと、千尋は口を開く。
「魔除けは悪魔や鬼の力を無効化するだけで、物理的な攻撃を防ぐことはできない。いっそ警察が狙撃でもすれば……」
「腕のいい狙撃手に頼むか? しかし他所の人間はそもそも感染者の存在に懐疑的だからな、協力が得られるかどうか……」
驚いたことに、警察組織の中枢にいる人間の多くは、PPVの存在は認めていても、悪魔だの鬼だのといったモノに関しては、科学的に立証できないからと信じないらしい。捜査員を増やして逮捕に行けと言われるのがオチだと、柊一は話した。
「よし、ここは俺が拳銃で――」
「無理でしょう、シュウはノーコンだから」
「……わかってるよ、ちょっと言ってみただけじゃねえか」
柊一は不貞腐れた様子でぶつぶつと言っている。しかし拳銃の命中率が著しく低いのは事実で、どこに弾が飛ぶかわからないため、彼の射撃練習の際は射撃場から人が消えるという話だ。
ただ、仮に柊一の腕が良かったとしても、彼には頼むつもりがなかった。この大雑把そうに見えて繊細な友人は、たとえ殺した相手が感染者でも、トラウマを抱えることになるだろう。ショッキングな場面を目にすることが多いのは仕方がないが、せめて彼自身が傷つかないように守ろうと、千尋は考えていた。
感染者や周辺の情報は得られたことは収穫だったが、それをどう生かすかは夕妃も交えて話し合うべきだろう。ともかく、と千尋はまとめた。
「どんなに状況が不利でも、夕妃様が諦めることは有り得ない」
むしろ、彼女は状況をどう覆すかに情熱を燃やし、楽しもうとするだろう。
「生身の人間が相手なら、方法はあると思う。えげつないかもしれないけど」
「いいさ、えげつない手段だろうと、これ以上の犠牲者が出なければ」
「大丈夫、あの人は、そういうことにかけては専門家だから」
魔女の拷問史をはじめとする残虐な読書の成果が、ここで発揮されるかもしれない。
だから、千尋は高本にそこまでの恐れは抱いていなかった。気になるのは、どちらかといえば夕妃の方だ。本人は否定しているが、最近どうも様子がおかしいように見える。身体の調子でも悪いのか、それすらも演技で千尋に揺さぶりをかけているのか。
もし前者ならば、これは好機だ。しかし、慎重に見極めなければならない。その次はもうないのだから。
今度の失敗は、即自らの死を意味する。夕妃は二度も見逃しはしないだろう。
彼女を庇って負った手首の傷が、何かを訴えるように疼いた。
今のところ、主な登場人物は三人だ。感染者の高本、彼の恋人だった希恵、そして彼女のライバルであったファッションモデル。ライバルは殺され、希恵は自殺を図り、高本は閫を超えて発症した。彼らにどんな関係があったのか。機械的に試験の採点をしながら、千尋は考えていた。
「御巫、コーヒー」
背後から高圧的な声が聞こえ、千尋はペンを持つ手を止めた。振り返ると、紗矢がカップをこちらに突き出している。
それを受け取ってから、千尋は彼女に意見を聞くことを思いついた。
「九鬼先生、ちょっと感染者絡みでお聞きしたいのですが」
「あなたたちの案件について私が答える義務はないわね。それよりコーヒー」
「僕の話を聞くと約束してください。さもなくばこのカップは返しません」
「あんたは小学生か!」
紗矢はバカだのガキだのと罵倒したが、少しは話の中身が気になっているらしい。千尋がアドバイスを求めることなど、これまでなかったからだろう。加えてカフェインの誘惑が、しぶしぶ紗矢を頷かせた。
「それで、このワタクシに何の意見を求めてらっしゃるわけ?」
ようやく淹れられたコーヒーを啜りつつ、紗矢は尋ねた。使われていなかった応接室に移ったため、二人以外には誰もいない。
「主に、女性の心理について」
それを聞いた紗矢は、俄然興味を持ったようだった。ソファに預けていた体を、前かがみにする。
千尋は高本と希恵の関係を軸に、事件について説明した。黙って耳を傾けていた紗矢は、コーヒーを一口飲んでから、きっぱりと言った。
「あんたたちの考えてる通り、殺人事件の犯人は、その高本って感染者ね」
そして、と紗矢はさらに断言した。
「それを唆したのが彼女」
千尋は納得できず、反論した。
「その真偽はともかく、唆しておいていざ事が起きたらショックを受けるというのは、身勝手じゃないですか? それよりは、高本が思い込みで行動したと考えた方が自然じゃ……」
紗矢は小馬鹿にするように鼻で笑った。
「そこが女の心理の複雑さよ」
なぜか得意げである。そして紗矢は、自らの専門である古典を例にとり、説明を始めた。
「万葉集に記された歌を元にした、『
――あの鴛鴦を射ることができた方と、添い遂げましょう
そう言ったかは定かではないが、千尋の頭の中では、夕妃がその残酷な命令と共に微笑む姿が浮かんでいた。
「二人の男が放った矢は、二本とも見事に鴛鴦を射とおしたわ」
「二本とも? では、彼女はどちらの男を選んだんですか?」
「どちらも、選ばなかった。悩んだ末、入水してしまったの」
予想していなかった結末に、千尋は言葉を失った。そして今の話に含まれる、紗矢の言わんとすることに思いを巡らせる。鍵となるのは、ヒロインである美少女。
「その少女が死を選んだ理由は、選択できずに追い詰められたことではなく、一羽の鳥を無慙に殺した自分を呪ったからだと、九鬼先生は考えているんですか?」
わからない、と紗矢は素直に首を振った。
「でも、能の舞台を実際に見ていて思ったの。彼女は確かに、鴛鴦を射るように言った。そこには、二人の男に迫られて無邪気に舞い上がる微笑ましい少女がいたわ。そして幼い思いつきで、鳥を射るように言った。舞台の上で、彼女は笑いながら命じたように見えた。けれど、実際に鳥が矢に貫かれ、水が血に染まる様を見て、我に返った。自分は恐ろしいことをしてしまったと、彼女は深く後悔し、恥じた。その瞬間に、彼女は子供から大人の女性になって、苦しみを背負ったんじゃないかしら」
あくまでも自分の解釈だと、紗矢は断った。やや照れた様子なのは、図らずも、自分の価値観を語ってしまったからだろうか。
「自分のために鳥を射るように言い、本当に射られた鳥を見て、苦悩する……」
それは菟名日処女の内面に触れた見方だ。では、外から、男たちから見ればどうか。
「……理不尽ですね。命じられたままにやり遂げたのに、菟名日は自分たちに応えるどころか、勝手に死を選んでしまった」
紗矢は教師の顔で頷いた。
「そういうこと。袖にされた男から見れば、結局は裏切りよね」
今回の事件と「求塚」は、女性の心情の動きが似ているのではないか。紗矢はそう言いたいのだ。
菟名日にあたるのは、もちろん希恵だ。彼女に焦がれる男が高本。鴛鴦は、彼女のライバル。少々物語と異なるのは、希恵がその鴛鴦に特別な感情を向けていたこと。
――あの女さえいなければ、私はもっと輝けるのに。
「唆すような言葉を本気に取った高本は愚かだけど、その必死さにはちょっと同情するわ」
「高本は、どんな手を使っても希恵さんに好かれたかった。だから、これは自分の愛情を証明するチャンスだと考えてしまった……」
「彼女も、高本を試すようなことをあえて言ったのかも。そこにはほんの少し、本当の願望が含まれていた」
そして鴛鴦の命が断たれて初めて、無邪気だった少女は自らの残酷さに気づいた。
ため息交じりに、紗矢は言った。
「残酷さを受け入れればよかったのよ。ライバルの死を喜べるなら、壊れずにいられた。でも希恵さんって人は、人並みに罪悪感をもったわけね。それで、高本を責めた」
しかし、閫を超えた高本に、そんな感情論は理解不能だった、ということだ。混乱した彼は殺戮を繰り返すようになった。希恵に似た、若く美しい女性を標的にし、彼女たちから答えを得るために。
彼の求める答えなど、どこにもないのに。
紗矢の言うことが、すべて正しいとは限らない。だがその“裏切り”は、高本を狂わせるには十分なように思えた。発症に値するだけの衝撃がある。
「ありがとうございました。非常に、参考になりました」
不本意そうに紗矢は頷き、カップを持って立ち上がる。千尋は部屋を出て行こうとする紗矢を呼び止め、問いかけた。
「九鬼先生は、誰かの死を望んだことがありますか?」
「そんなこと聞いてどうするつもり?」
紗矢は不快さを隠そうともせず、千尋を見据えて言った。
「私は、誰の死も望まないわ。相手が感染者でも“敵”でも、殺すしかないという決断は、ただの思考停止。敗北に等しいと思っている」
だから私は、あなたたちとは違う。紗矢は勇ましく、宣戦布告を千尋に叩きつけた。
「……そう、九鬼先生がそんなことを。面白いわね、彼女」
執務机に頬杖をついている夕妃は、唇を上げて微笑した。机には便箋が置かれ、右手に万年筆が握られている。正面に立つ千尋は、便箋に書かれた文章を確認しながら、紗矢の見解を夕妃に伝えた。おおむね、自分も同じ見方だと夕妃は言う。
「身勝手なものだけど、そういう女性に振り回されたい男性は、昔からいたのね」
「僕には理解できないですね。これ以上振り回されるのは、遠慮したいですが」
「あら、あなたを振り回すなんて罪深い女性ね。きっと絶世の美女に違いないわ」
くすくすと笑う夕妃の手から便箋を取った千尋は、それを封筒に入れ、丁寧に糊付けして封をした。高本に宛てた手紙だ。裏には、差出人の名が書かれている。能見希恵。もちろん偽物だが、それが高本を呼び出すのに最も確実だと判断した。彼の発症は希恵に起因し、彼は今も希恵の影に囚われて行動している。
「うまくいくでしょうか」
「ええ、あなたが失敗さえしなければ。準備は整うのでしょうね?」
「明後日には。それにしても、よくこんな方法を思いつきましたね」
「ふふ、もっと手放しで誉めてもよろしくてよ」
「えげつない上に綱渡りのように危険で、胸の悪くなる方法ですね」
「私は誉めて、と注文をつけたのだけど」
夕妃は上目づかいで千尋を睨んだが、それでも機嫌は上々だった。この方法なら、高本をようやく仕留めることができる。これで最後だ。夕妃は高本と対峙する瞬間を思い、笑みを深めた。
夕妃が指定した場所は、最後に高本の出没したホテルのバーだった。
先日の騒ぎで休業中だったが、支配人に直接交渉し、許可を得ることができた。聞けば支配人には殺された女性たちと同じ年頃の娘がいるらしく、早く高本を捕まえてほしいとのことだった。前回から協力的だった理由も、そこにあったのだろう。
千尋と夕妃は、バーの中にいた。夕妃は椅子の一つに腰掛け、千尋はその傍らに立っている。店内にいるのは、二人だけだ。外には支配人がおり、高本が到着し次第、ドアを開けて彼を招じ入れる段取りになっている。
千尋は腕時計に目を落とした。約束の九時まで、あと五分。さて、彼は来るだろうか。
来ない可能性も、十分に考えられた。差出人が希恵という時点で、怪しまれるのは当然である。本物の彼女はまだ病院におり、外に出られる状態ではない。どう考えても、罠だ。
しかし、罠に見えるからこそ、高本は興味を持つはずだ。プライドの高い彼は、挑まれれば対抗意識を燃やす。誰が罠を仕掛けたのかについても、指定した場所から、勘づいているだろう。それでも敢えて、彼は姿を見せる。相手を打ち負かすことで、自らの優秀さを証明するために。
秒針が九時ちょうどを告げ、数秒が過ぎたころ、ドアがゆっくりと開いた。静まり返った店内に、ドアが絨毯を滑る、微かな音が響く。
入口に、長い影を引き連れた長身痩躯の男が立っていた。その背後に、ドアを支えている支配人の姿がある。千尋が頷きかけると、彼は深々と頭を下げ、ドアを閉じた。
夕妃が立ち上がり、高本に向かいの席を示した。
「ごきげんよう。嘘をついてごめんなさいね。希恵さんの名前を使わせてもらったわ」
「そんなことだろうと思っていました。やはり、あなただったんですね」
高本は落ち着き払った声で答えた。口元には笑みを浮かべているが、物腰に隙はない。その背後には、先日目にした悪魔の姿が見えた。こちらを威嚇するように、構えている。
「そんなに警戒しないでちょうだい。この前のことで、あなたに攻撃しても意味のないことは、よくわかったわ。今日は、ちょっとした取引を持ちかけに来たの」
「取引、ですか?」
未だ悪魔を従えたまま、高本は怪訝な顔で尋ねた。
「そう、取引。あなたをこれ以上追いかけても、勝ち目はない。それなら、あなたが殺人を止めてくれるように、交渉するしかないわ」
「つまり、敗北を認めるんですね?」
にやつきを押さえきれない様子で、高本が問う。夕妃は唇を噛み、俯いたまま答えた。
「……ええ」
「わかりました。それで、取引とは?」
「あなたが話を聞いてくれるのなら、急ぐ必要はないわ。まずは乾杯しましょう」
テーブルには二つのグラスとウイスキー、氷の入ったステンレス製のアイスペールが置かれていた。ためらいを見せる高本に、夕妃はすかさず言う。
「あら、怖いの? お酒には毒なんて入っていないわ」
一瞬むっとした表情を見せた高本は、乱暴に椅子を引き、座った。
夕妃に促され、千尋はグラスに氷を落とし、酒を注いだ。琥珀色の液体から、甘い芳香がふわりと立ち上る。その香りで、本来のバーとしての姿を店が取り戻したように感じられた。グラスを夕妃と高本の前に置き、千尋は一歩テーブルから離れる。
夕妃は細い指でグラスを掴み、掲げた。高本が慣れた手つきで倣い、二つのグラスはかちりと音を立てた。
酒に口をつける夕妃を、高本はじっと注視していた。やはり、毒を疑っているのだろう。彼はこれまで、そうやって人を殺してきたのだ。自分が同じ目に逢わぬよう、警戒している。
夕妃は一口、ウイスキーを飲み下した。それを目にしても、高本はまだ警戒を解かなかった。千尋にグラスを向けて言う。
「一応、毒見をしていただけませんか。万が一、ということもあるのでね」
「……構いませんよ」
千尋はためらいなくグラスを手に取り、その中身を口に含んだ。熟成を感じさせる華やかな香り。仄かな木香を残し、液体が喉を滑り降りていった。胸のあたりが熱を発しているが、それはもちろん毒などではなく、度数の高いアルコールのためだ。
「よろしいですか?」
高本は頷き、ようやく酒に口をつけた。途端に、口元が綻ぶ。
「ああ、これは美味しいですね」
「ええ、そうでしょう。支配人に、値は張るけれど味は最高だとおすすめされて、これにしたのよ」
にこやかに言った夕妃は、唇を舐め、湿らせた。一つ、息を吸う。いよいよ本題に入るのだろう。
「私たちには、あなたが欲している答えの用意があるわ。それを渡す代わりに、あなたは無差別殺人をやめる。そういう取引よ」
「僕の欲している答えとは?」
「能見希恵が、自殺を図った理由」
高本は甲高い声を上げて笑った。
「申し訳ないが、もう彼女のことなんてどうでもいいんです。彼女のような異常な人間を理解することなんてできないし、意味もない」
しかし千尋は、高本の喉が、ひきつったように動いたのを見逃さなかった。どうやら、当たりのようだ。彼はそれを求めている。渇望している、といってもいいかもしれない。夕妃は獲物を追い詰めるため、殊更にゆっくりと言葉を発した。
「それは嘘ね。あなたは、自分の理解が及ばないことが、悔しくてたまらないのよ。自慢の恋人だったのに、あなたには理解のできないことを言う、期待外れの存在になってしまったから」
「そう、彼女は僕の期待を裏切った。それは事実ですよ。ですから、もう興味はないと言っているんです」
「それも嘘」
夕妃は歌うように言い、反論した。
「興味がないなら、どうして希恵さんに似た若くて綺麗な女性ばかり狙ったの? あなたは憎かったんでしょう、あなたを裏切った彼女が。でも、彼女は病院にいて、近づくことができない。だから――」
別の人間を、身代りにした。何度も何度も希恵を殺し、憎しみを昇華させてきた。しかし心の奥底では、答えを探していたのだ。
高本は苛立ちを隠さず、グラスを乱暴に揺らした。琥珀色の液体が撹拌され、溶けかけた氷がからからと鳴る。床を踏み鳴らす音が聞こえるのは、貧乏ゆすりを始めたからだ。
「僕はただ、彼女の喜ぶ顔が見たかっただけなんだ。最近は、どんな高価な物を贈っても、素直に受け取ってくれなくなった。だから、あの女が死ねばいいと希恵が言った時、これしかないと思った。僕にできる最高のプレゼントだ。希恵を愛していなければ、殺人なんてできない。そうだろう?」
「きっと彼女も、あなたの相手をするのに疲れていたのよ。それで、つい過激な言葉が口をついた。もちろん、ライバルだった同業者の死を、本当に望んでなんていなかった。その言葉をいいように解釈したのは、あなたの責任。プレゼントだって、彼女の趣味よりブランドを優先させたのでしょう? 望まないものを与えて感謝を強要するなんて、愚かな勘違い男だわ」
一息に言い切り、夕妃は高本の反応を窺った。
「以上が、私の希恵さんの行動に対する見解よ。どう、納得できたかしら?」
高本は大げさに肩をすくめ、首を振った。
「まったく、理解できないな。悪いが、取引の話はなかったことにしてくれ」
高本は酒を流し込み、氷を口に含んだ。がりがりと、苛立ちを象徴するように噛み砕く音が鳴る。
「……そう、残念だわ。じゃあ、最後に教えてあげる。あなたが欲しいのは真実ではなく、あなたが望む答えよ。でもそんなもの、どこにもないの。ただ一つ、そこを除いては」
夕妃はすっと腕を上げ、高本の頭を指差した。
「あなたの頭の中にだけ、あなたの望む、あなたを裏切らない世界がある」
夕妃の言葉を鼻で笑った高本は立ち上がろうと腰を浮かしたが、突然喉のあたりに手をやり、口を魚のようにぱくぱくと動かした。極限にまで見開いた目が、夕妃を捕らえる。膝をつき、喉をかきむしる高本に、夕妃はゆっくりと近づく。高本の腕が彼女を捕らえようと伸びるが、その手は既に力を失っていた。空を切った手が、床に落ちる。数秒後、高本の身体は、人形のように固まってごろりと転がった。
「だから、あなたは自分の妄想と心中すればいいわ」
何も見ていない瞳を見下ろし、夕妃は呟いた。
「……お見事でした」
千尋は夕妃の傍らに立ち、声をかけた。静けさの中、溶けた氷がからりと崩れる音が聞こえた。
「なかなか氷を口に含んでくれないから、失敗するかと思ったわ」
高本の癖を知ったのは、前回このバーを訪れた時だった。氷が溶ける前に、塊をがりがりと噛み砕く。以前に彼が現れたバーでも、数名の店員が、氷を噛み砕く音を記憶していた。その癖を利用し、氷の中心部に毒を仕込んだのだ。シアン化カリウム――通称、青酸カリ。致死量の数十倍の量を高本は飲み込み、当然の結末として死に至った。
しかし、危険な賭けではあった。高本の目を欺くため、グラスも酒も、そして氷も、二人で同じものを使った。つまり、毒入りの氷は、夕妃のグラスにも入っていたのだ。もちろん、氷が溶けない限り青酸カリが酒に溶け出すこともないが、わかっていても口をつけるには勇気がいる。この計画には、夕妃の度胸が絶対不可欠だった。夕妃はためらいなくウイスキーを飲み、見事、高本を欺いたのだ。
千尋は夕妃の胆力に感心すると同時に、畏怖を覚えていた。彼女は窮地に立たされるほどに、闘争心を煽られ、凶暴な牙を剥く。生半可な方法では、その心臓を貫くことはできないだろう。目的を達するには、綿密な計画と準備が――。
「行きましょう、千尋。支配人さんに、終わったと教えて差し上げないと」
夕妃は優雅にワンピースの裾を翻し、バーの出入り口へと向かった。
その無防備な背中を見て、千尋は気づく。なぜ自分は、先ほど夕妃に毒を盛らなかったのか。氷とは別に何らかの細工をすれば、彼女に毒を飲ませることくらいできたはずなのに。
――考えてはいけない。
千尋は自分に言い聞かせた。答えを求め、考えすぎれば、高本のように泥沼へとはまってしまう。能面を被っているのは、機械的に速やかに、彼女を葬るため。万が一にも、ためらわないように。
忘れるな。千尋は目を閉じ、血に濡れた部屋とそこに横たわる者たちの姿を思い浮かべた。夥しい血の生臭さまで呼び起こし、千尋は足を踏み出した。
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