第4話 幻影のジェミニ(後)

 学園祭に向け学園の中は慌ただしくなり、教員たちの間にも、お祭り気分が漂っていた。それでも、さすがに校舎の奥深くに位置する理事長室までは、漂ってこない。黒く艶やかな木製のテーブルや本棚が、壁のように陰鬱に、変化を拒んでいる。廊下の足音も窓の外で吹いているはずの秋風も、何もかもが遠い。

 夕妃は立ち上がり、読み終えた戯曲集を本棚に戻した。柱に掛けられた振り子時計を見上げ、そろそろだと窓辺に寄る。

 見下ろすと、黄や橙に染まった葉が地面を華やかに埋め尽くしていた。対照的に、部屋と同じ高さの枝は葉を落として木肌をさらしており、物寂しさを感じさせる。

 その向こうには、ひっそりと裏門が開いていた。正門側から見れば理事長室は奥まった場所にあるが、実は裏門はそこを通る人の顔を判別できるほどに近い。かつては秘密裏に行われる会合のため使われたなどという噂もあるが、せいぜいが愛人との密会に使ったくらいだろうと、夕妃は踏んでいた。現に、前理事長であった父も――。

ほどなくして、裏門から一台のバンが入ってきた。黒塗りで、窓にはスモークが貼られている。車はすぐ近くの駐車スペースに止まり、運転席から男が降り立った。あれがマネージャーの杉田だろう。そして後部座席のドアがスライドし、華奢な美少女の姿が見えた。彼女が車から出ると、続いてもう一人、同じ顔の少女が出てくる。背格好だけでなく、デニムにスタジアムジャンパーという服装も、色以外は同じだ。ただ一つを除いては。

二人の少女を見て、夕妃は予想通りの光景に口の端を釣り上げた。興奮が、ぞくりと背筋を駆ける。

夕妃は携帯電話を取り、千尋にかけた。彼は今、那月たち学園祭の実行委員と共に、菅原姉妹を待っているはずだ。二回目のコール音の後、返事がある。

「ええ、知っているわ。裏門から見えたもの。あなたたち、きっとびっくりするわよ」

 くすくすと笑い声を立てながら、夕妃は謎めいたことだけを一方的に言い、電話を切った。

 

 夕妃からの電話を受けた千尋は、首を傾げ、携帯電話をポケットにしまった。退屈を紛らわせるためにかけてきたのかと思いきや、一応の意味はあったらしい。彼女は菅原姉妹を見て何かに気づいたようだが、さて、どんなことだろうか。これまでの経験から、面倒事の始まる予兆であることは、理解している。夕妃が上機嫌であればあるほど、要注意だ。

 裏門近くの体育館前には、学園祭実行委員会の面々が勢ぞろいしていた。彼らの表情から察するに、儀礼的な出迎えというより、皆、菅原亜紀・亜衣の姉妹を一目見たくてその場にいるようだ。

 背の高い実行委員の一人が、裏門の方を見て声を上げた。他の実行委員たちも、一斉にそちらを見る。どうやら、姉妹とマネージャーの杉田が、到着したようだ。わっと歓声を上げ、実行委員たちが拍手する。何気なくそちらに視線をやった千尋は、瞬時に夕妃の言葉の意味を理解した。

 近づいてくる姉妹の背後に、鬼が従っていた。見た目は、着物姿の女だ。

 「鬼」は眞族の編纂した資料に基づいて分類されているため、有名なものを除けば、千尋たち夕族は知らない。夕族に対抗するためにあえて、情報を公開していないのだ。

 那月の反応はと彼に目をやれば、薄く口を開けたまま、固まっていた。

「鳴神会長……?」

 姉妹を前にして動く気配のない那月に、横にいた実行委員が怪訝そうに声をかける。はっと我に返ったらしい那月は、にこやかに一歩進み出た。

「ようこそ、叡祥学園へ。お二人にお会いできて、本当に光栄です」

「お招きありがとうございます。姉の亜紀です。力を合わせて、最高のショーにしましょう」

 那月が差し出した手を握った亜紀は、にっこりと笑った。妹の亜衣はその斜め後ろで、やはり笑顔で会釈する。鬼の出現もありややぎこちない那月に対し、亜紀の態度は物慣れていて、堂々としたものだった。何度も舞台をこなしているからだろう。

「では、さっそくですがステージの方を――」

 ほんの一瞬、那月の視線が千尋に向いた。訴えかけるようにも見えたのは、対処に戸惑っているからだろう。この場でいきなり鬼や感染者がと騒ぎ出すわけにもいかないが、かといって、放置もできない。幸い、那月以外の実行委員には鬼が見えていないようだから、少々の猶予はあるだろうか。

 千尋が考えを巡らせているうちに、菅原姉妹と杉田は、ステージを設置する体育館の中に消えた。

「ホントに出たわね」

 腕組みをし、お馴染みの仁王立ちで、紗矢が立っていた。

「九鬼先生、耳が早いですね。どこから連絡を?」

「あんたのところの魔王様よ。ご丁寧に、私に直接電話をかけてきたわ」

 吐き捨てるように言うと、紗矢は肩をすくめて続けた。

「情報は公平に共有すべきだと思うわ、ですって。それってこの前の水族館の一件での、私たちに対するあてつけかしらん?」

「あまり深読みすると、ストレスで胃に穴が開きますよ」

「そうなる前に、あんたの心臓に風穴を開けてやるわ」

 身の危険を感じた千尋はその場を離れようとしたが、紗矢が素早く回り込み、退路を断った。

「ともかく、何か対策を取らないとまずいわ。明日は、学園の外からも人が来る」

「イベント自体を中止するのが一番でしょうけど」

 千尋はそう言って、体育館の入り口を見やった。あの密閉空間で鬼の力が観客を襲えば、大惨事になる可能性がある。

「でも、暴力的な兆候は見えないし……。那月のがんばりも、無駄にしたくないのよね」

 夕妃が聞けば鼻で笑うに違いない希望的観測だが、那月のためを思っての判断だろう。

「そういえば、東京から帰って、那月のヤツえらく落ち込んでたんだけど、あんた何か知ってる?」

「感染者を間近で見て、動揺したんじゃないですか」

 紗矢は腕を組み、厳めしい顔で首を捻った。

「確かに、感染者と接触した回数は少ないから、そういうこともあるかもしれないけど……。聞いても、その時の状況を話してくれないのよね」

 どうやら、那月は紗矢に詳しい報告をしていないようだ。プライドの高い彼にしてみれば、感染者とはいえ女子高生に後れを取ったことも、敵であるはずの千尋に助けられたことも、隠しておきたい失態なのだろう。

「あの『鬼』は、どんな力を持っているんですか?」

「『橋姫』という名で、幻影を見せる鬼よ。宇治の橋姫とも呼ばれている。嫉妬が高じて生まれた鬼だと言われているわ。その名の通り橋が関係している鬼だから、あの姉妹も橋にまつわる因縁が、何かあるのかもしれないわね」

 鬼の一部には、今回のように、その成り立ちからある種の“縄張り”を有しているものもいる。悪魔と異なり、長くこの地に住みつくからこその性質だ。

「幻影……マジシャンにはうってつけですね。まさかマジックまで鬼に頼っているんじゃ……」

 それは今のところどうでもいいと、紗矢は切り捨てた。重要なのは、いかに無事に、ショーを終えるかだ。

「それに、今は感染者を拘束できないわ。姉妹はぴったりくっついていて、『橋姫』はその背後にいた。――どちらが感染者か、わからない」

「しばらく、様子を見るしかないですね」

「ええ、理事長にも余計な手出しをしないよう、言っておいてちょうだい」

 紗矢は携帯電話を手にし、早くも誰かに状況を伝えている。彼女の言う通り、すぐに夕妃に釘を刺さなければ、学園祭だろうと彼女は感染者を屠ろうとするだろう。

 しかし夕妃は既に、鬼の存在に気づいている。どうも、予め知っていた節さえある。つまり、そう予見させる情報がどこかにあったということだ。夕妃の暴走を止めるためにも、千尋もその情報を掴んでおく必要があった。

「鬼と契約ができるのは、日光の中だけのはず。かつ、橋が関わっている……」

 手掛かりはある。理事長室へと急ぐ傍ら、千尋もまた、携帯電話で馴染みの顔を呼び出した。


 学園祭は、晴天に恵まれた。突如生じた暗雲に右往左往することになった教職員達にしてみれば、悪態をつきたくなるほどの皮肉である。ただでさえ、浮かれている生徒たちの面倒を見なければならないのに、そこに鬼まで現れてしまったのだ。警備の計画を大幅に見直し、特に体育館内とその周囲は、戦闘に秀でた者たちを配置することになった。鬼使い千方の再来と言われる紗矢も、その中に含まれている。トランシーバーで連絡を取り合いながら、普段の二割増しの鋭い面持ちで、体育館の入り口前に立っていた。

「仁王像の真似ですか?」

「まあね、私が吽形像だから後から阿形像役がもう一人……ってんなわけあるか!」

 紗矢は千尋の手から綿あめを奪い取り、叫んだ。ちなみに仁王像は寺院の入り口に守護神として立つ像のことで、口を開けた阿形像と口を結んだ吽形像の二体を一対としていることが多い。

「さすが九鬼先生、切り返しが知的です」

 綿あめの存在で、紗矢の鋭さはやや緩和された。これならば、先ほど怖がって入場をためらっていた小学生の集団も、今度は入っていけるだろう、と千尋は内心満足する。

「何しに来たのよ。あんたの役目は、いつも通り理事長のお守でしょ?」

「買い出しですよ。それから、ここの様子を偵察して来いと」

 千尋は両手に持った袋を掲げた。焼きそばやフランクフルトなど、屋台らしいメニューが詰め込まれている。傍を通ると女子生徒がサービスなどと言って無料でくれるので、厳密にいえば買い出しではないが、同じ物なのだから夕妃も文句はないはずだ。

「残念ながら、まだ動きはないわよ。体育館の中は、吹奏楽部が演奏中。二人は舞台裏で準備しているわ」

「どちらに鬼が憑いているかは?」

 紗矢は黙って首を振り、綿あめを引きちぎってむしゃむしゃと口を動かした。肉食獣が頭を振って肉を食いちぎる動作に似ている。

 ひとまず、現状は安全が維持されている。確認できたのはそれだけだが、千尋は理事長室に戻ることにした。食べ物が冷めたら、それはそれで文句が降ってくる。

 人けのない体育館の裏を回れば、理事長室のある校舎はすぐだ。舗装の行き届いていない地面はやや歩きづらいが、最短距離を選んで歩く。そのまま校舎の通用口に入ろうとしたところで、千尋は人影を見かけた。スーツ姿の男性が、きょろきょろとしながらこちらに向かってくる。すぐに、杉田だとわかった。何か、探しものだろうか。千尋は方向転換し、杉田に声をかけた。

「ああどうも、御巫先生。楽しんでいらっしゃいますね」

 千尋の持つ袋に目をやり、杉田は言った。無意識にか胸ポケットに手をやる彼を見て、千尋は気づく。

「もしかして、喫煙所をお探しですか?」

 実は、と杉田は気恥ずかしそうに頭をかいた。

「でも、さすがに高校にそんなものはないですよね。我慢します」

「車の中では、駄目なんですか?」

「ええ、二人とも煙草の匂いを嫌がるので、吸わないようにしています。どうも、彼女たちの父親がいつも煙草と酒の匂いをさせていたらしくて、いい思い出がないようなんです」

 千尋は曖昧に頷き、菅原姉妹の家庭環境を想像した。その父親に、暴力を振るわれていた、などということもあったのだろうか。

「バス停の傍に、喫煙所がありますよ。五分ぐらいかかりますが、案内しましょうか」

「いや、大丈夫です、ありがとうございます。さっきは無性に吸いたくなったんですが、収まりました」

 ところで、と杉田はにやりと口元にしわを寄せ、千尋を見た。

「先生、生徒に人気あるでしょう。特に、女子。わかるんですよ、僕も昔、大勢の高校生を相手にしていましたからね」

「マネージャーをされる前の話ですか?」

「そうです。僕、塾講師だったんです。化学を教えていました」

 自分も理科の教師だと千尋が言うと、杉田は嬉しそうに歯を見せた。

「いやーそうでしたか。どうりで、初対面の時から親近感が湧いたわけだ」

「はあ……」

 印象の差に戸惑う千尋に構わず、杉田は喋り続ける。

「実はね、マジシャンになるのは、僕の夢だったんです。でも、華がない、個性がないと言われていました。挫折しかかっていた頃、亜紀と亜衣の姉妹に出会いました。最初は、二人とも僕の教え子だったんですよ。授業の中でマジックのことを話した時に、興味を持ってくれて。彼女たちと話しているうちに、僕はひらめいたんです。若く、華やかな双子の姉妹が、僕が考えたマジックを見せる。これは面白いんじゃないか、と」

「それが、見事に当たったわけですね」

「そう! 大当たりでした。姉妹は正式に芸能事務所に所属し、僕も塾講師なんてやめて、専業のマネージャーになりました」

「では、あの有名な脱出マジックも、杉田さんが考えられたんですか?」

「数年前、テレビに出ていたころのものは、そうです。でも今日やるマジックは、彼女たちが考え出したものです。元々才能があったんでしょう、僕の考えたものよりずっと、素晴らしいですよ。――今回のマジックは、僕はトリックも知りません」

 杉田は淋しげに、遠くを見ていた。千尋自身は喫煙者ではないが、煙草を吸いたくなる瞬間を、垣間見たような気がする。

「昔は、父親のように僕を慕ってくれていたんですけどね。手がかからなくなるのは喜ぶべきことですが、勝手ながら淋しいような気もしています」

「急に、よそよそしくなってしまったんですか?」

「いや、そういうわけでも……。ただ、半年ほど前に療養中だった母親が亡くなって、二人が以前にも増して一緒にいることが増えたんです。僕が疎外感を感じているだけかもしれません」

「お母様が……。それは、ショックだったでしょうね」

「ええ、それでも気丈に振る舞って、仕事も断らずにこなしていました。本当に、熱心ですよ。この前も、新しく炎からの脱出トリックを考えていて――」

 なぜか、そこで杉田の言葉が途切れた。怪訝そうな千尋の視線を受け、彼は苦笑する。

「すみません、ちょっと、その時にトラブルがあったことを思い出して」

「トラブル、ですか?」

 杉田はそこで、辺りをうかがう仕草をした。近くに誰もいないのはわかりそうなものだが、確認せずにはいられなかったのかもしれない。声を落とし、彼は口を開いた。

「事務所の練習室で、新しいマジックを試していた時のことなんです。悲鳴が聞こえて、僕や事務所の人間が駆けつけました。どうやら、ダミーの人形が燃えてしまったみたいで。幸い、二人は火傷もなかったんですがね」

その話に、千尋はどこか引っかかるものを感じた。杉田も、そうだったのかもしれない。

「いや、二人の仲が険悪になったわけではないですよ。むしろ、いつもぴったりくっつくようになって……ええ、仲は本当にいいんです」

 継いだ言葉にも、歯切れの悪さが残っていた。

「じゃあ、僕はこれで。なんだか先生は話しやすくて、色々喋ってしまったな。あ、今の話は……」

「秘密にしておきます」

 芸能界の人間の匂いはするものの、結局、杉田という男は人が良いのだろう。千尋の一言を信用し、あっさりと頷いた。

杉田が体育館の舞台裏に入っていくのを見送り、千尋は理事長室に足を向けた。遅いと、夕妃が憤慨していることだろう。

叱責を覚悟して、千尋は分厚いドアをノックした。しかし、応答がない。もう一度ノックし、ドアに耳を近づけてみるが、入れとも入るなとも言われなかった。

不審に思いながら、ドアを開ける。刃物の類が飛んでくるかと身構えたがそんなこともなく、部屋はもぬけの空――いや、猫が一匹。

「キミとはよく会うね」

 耳の後ろ辺りを撫でると、黒夜叉は目を細め、女性的な仕草で身体をくねらせた。

 猫を部屋に招き入れたのは夕妃だろうが、肝心の部屋の主はいない。買い出しや偵察は、逃げ出すための口実だったのだろうか。

 千尋は部屋の真ん中で、しばし思案した。大きく開いた窓から、心地よい風が入ってくる。黒夜叉が退屈そうにあくびをし、窓から木を伝って出て行った。

「……まあ、いいか」

 本気で逃げ出したとしたら夕妃は捜しても捕まらないだろうし、必要であれば電話がかかってくるはずだ。あっさりと結論を出し、戸締りだけ済ませてから、千尋は自らの城である第二化学準備室に向かった。

 お化け屋敷や喫茶店で賑わう階を抜け、勧誘をやり過ごしながら、ようやく階段に辿りつく。生徒たちは、いつもとは違う晴れやかな顔をしていた。家族と歩いている生徒も多い。寮に入っていると、会う機会が限られるからだろう、親も子供も、よく喋り、よく笑っている。

「先生! 見つけた!」

 階段の踊場で、千尋はその声を背中に聞いた。「い」の音に力の入った、独特の発音。「先生」は近くに何人もいるはずだが、そんな風に呼ぶのは彼女だけだ。

 強い声に引き戻されるようにして、千尋は振り返った。那奈姫が息を切らせ、立っていた。千尋の目の前まで来て、ぐいと右手を突き出す。その手には、紙に包まれたクレープが握られていた。強く握られすぎたのか、真ん中あたりで折れかかっている。

「先生のために作ったの! あげる!」

 健康的な白い歯が、眩しい。その目に微かな緊張の色が見えた。千尋はくたりとしたクレープを、とどめをさしてしまわないよう、慎重に受け取る。

「ありがとう」

 その一言だけで、那奈姫はぱっと顔を輝かせた。

「どうかな、いろいろトッピングして、スペシャルにしてみたんだ」

「うん、独創性があっていいと思う」

 それをほめ言葉と認識したらしい那奈姫は、もう一度にこっと爽やかな笑みを浮かべると、現れた時と同じくらい唐突に、去っていった。人混みの中を器用にすり抜けるその途中、入れ違いにこちらに歩いてくる女性と、目配せをしあって。

 彼女――養護教諭の広瀬は、千尋の斜め前に立ち、彼を見上げた。

「これは、広瀬先生の差し金ですか?」

 広瀬は芝居がかった仕草で、肩をすくめる。

「あら、差し金だなんて人聞きの悪い。私は、恋する可愛い生徒を応援したくて、アドバイスしただけですよ」

「どうせなら、中身についても指南していただきたかったですね」

 千尋の言葉を受け、広瀬はクレープを覗き込んだ。

「あらあ、これは中々……」

 ホイップクリームの上に、どこから手に入れたのか、たこ焼きやソーセージが乗っている。バナナにかかっているのは、果たしてチョコレートかウスターソースか。危険信号を発するかのように、中央には真っ赤な苺が鎮座していた。

 言葉を失っていた広瀬は、不意に笑顔になり、無邪気な声で言った。

「何て言いましたっけ、つぎはぎだらけのお化け……ああ、フランケンシュタイン! あれみたいですね」

 所々焦げ目や切れ目の入った生地と、混沌としたトッピングたち。似ている気もするが、辛らつな意見である。

「それより、鳴神さんの応援なんてして、九鬼先生に怒られないんですか?」

 広瀬は黙って、窓の方に寄った。窓からは、模擬店の間を行き交う生徒たちの姿が見える。窓ガラスに手を当てて大盛況の店を見下ろしながら、広瀬は言う。

「そりゃ、私たちの境遇にしても、教師と生徒という点でも、問題ありなのは承知していますよ。でも、恋愛は自由じゃなきゃ。人生で一番楽しいことを棒に振るなんて、もったいないわ!」

「……という、建て前ですね」

「せっかくごまかそうとしているのに、本音まで聞きたいんですか?」

 窓に映る広瀬の顔から、普段の自然な笑みが消えた。千尋は周囲の空気が数度下がったような錯覚を覚える。広瀬はゆっくりと振り返り、千尋に向き直った。

「高校生の恋愛感情なんて、一過性の熱病みたいなものです。放っておいても、卒業と同時に冷めるでしょう。でも、それを頭ごなしに押さえつけてしまったら、今は何も起こらなくても、後々暴発するかもしれません。特に那奈姫さんは、意志が強くて行動力もある。私たちの目が届くうちに発散させておかなければ、大問題に発展する恐れがあります」

 “大問題”が何を示すのか、わかっているだろうと、広瀬の目が威嚇する。種を明かす代わりに、彼女は千尋を牽制しているのだ。間違っても、那奈姫には手を出すなと。

 千尋は彼にしては大げさにため息をつき、落胆を示した。

「心外ですね、僕がそんな愚かなことをすると思いますか?」

「いいえ、個人的には、私は御巫先生を信用しています。でも、あなたは夕族の人間だから。あなたの血は、我々にとって猛毒です」

「そうだとしても、一応肩書は教師です。この間、東京に行った時も、鳴神君の保護者のつもりで同行しましたよ」

「ああ、確かに。先生はちゃんと、那月くんの危ないところを助けてあげていましたものね」

「ええ、間一髪でした」

 その通りだというように、広瀬は深く頷いた。少しの沈黙の後、千尋は口を開く。

「――その話、誰からお聞きになったんですか?」

 しまったという顔で、広瀬は息を飲む。しかし唇を舐め、湿らせた彼女は、落ち着き払った顔に戻って応じた。

「さあ、九鬼先生だったかしら」

「それはないですね。昨日の時点で、九鬼先生は知りませんでした」

 二人は向かい合い、睨み合った。すぐ近くを、楽しげなさざめきが過ぎていく。廊下の片隅で起きている攻防には、誰も目を留めない。

「今日の朝聞いたというのは、さすがに厳しいわね」

 広瀬は苦笑し、張り詰めた空気を消した。

「気づいてらしたんですか? 私が、“視て”いたこと」

確信はなかったが、と千尋は応じた。

「あのガイドブック、少々丈夫過ぎた気がしました。お借りしたすぐ後、九鬼先生がコーヒーを数滴こぼしてしまったんですが、まったく染み込まなかったんです」

「なるほど、『初めから疑っていました』というやつですね。探偵役がよく口にする台詞です。残念だなあ」

 広瀬は笑いながらも、悔しさを滲ませた。背後の空間が、わずかに揺らぐ。彼女の契約した鬼の姿が、その着物の端だけ覗き、すぐに消えた。隠密のような姿をしていたようだ。おそらく、情報を収集する力を与える鬼なのだろう。

「別に、ただの勘です。それはそうと、広瀬先生にお渡ししたお土産ですが、あれには……」

 広瀬ははっと息を飲み、口元に手を当てた。

「何も仕掛けていないので、ご安心ください」

 一転、怒りを満面に浮かべた広瀬は、可愛らしく口を尖らせた。

「もう! ひどいじゃないですか!」

「……すみません」

 元を質せば非があるのは明らかに広瀬なのだが、勢いに圧され、千尋は謝っていた。

 普段の調子に戻った広瀬は、千尋の持つクレープに再び目をやり、ところで、と口を開いた。

「健康を管理する立場から、それを口にすることはおすすめできませんね。……ですから」

 広瀬はからかい混じりの口調で続ける。

「体を張ってまで那奈姫さんの熱意に応えるか、先生の誠意が試されているわけです」

 大げさな。千尋は今にもかくりと折れそうなクレープを見下ろした。自分がこれに試されていると思うと、いっそ愉快である。

「あ、いっけない、そろそろマジックショーを見に行かなくちゃ」

 事情を知っているにも関わらず、邪気のない笑顔で、広瀬は言う。今は校内の見回り中のようだが、体育館付近の職員たちと比べると、暢気なものである。

 どうも、彼女は苦手だ。軽い足取りで遠ざかる背中を見ながら、千尋は思った。


ようやく、第二化学準備室のある階に到着した。ずいぶんと長い道のりだったように感じる。袋の中のものは、あらかた冷めてしまっただろう。

 廊下に目をやり、千尋は人影に気づいた。近づいていくと、彼は軽く片手を上げる。敬礼――ではなく挨拶だろう。

「連絡してくれれば良かったのに」

 柊一は千尋の両手をふさぐ食べ物を見ながら言う。

「これからしようと思ってたんだよ。どの道、その状態じゃ電話にも出られなそうだけどな」

 もっともだ。千尋も自らの荷物に目を落とし、納得する。左手の袋を一旦柊一に預け、準備室の鍵を開けた。

「あの姉妹のこと、何かわかった?」

 もらった焼きそばやフランクフルトをテーブルに並べつつ、千尋が尋ねる。少し迷った末、クレープは皿を出してそこに置いた。上に載っていたたこ焼きが飛び出て、ころりと皿を転がった。

「ああ、どぎつい事件に絡んでたぞ。発症は、十中八九その時のトラウマが原因だろう」

 どうやら、重い話になりそうだ。千尋は濃いめに入れたコーヒーを、柊一と自分のカップに注ぐ。甘党の柊一の前には、シュガーポットを置いた。

 淡い茶色のコーヒーシュガーが、カラカラとスプーンを滑り、コーヒーに落ちていく。千尋はそれを何とはなしに眺めながら、夕妃の態度はその事件を知っていたためではないか、と考えていた。感染者の起こす事件を担当してきた柊一にどぎついと形容させるほどなのだから、それなりに凄惨な事件に違いない。夕妃が好みそうだ。

 コーヒーを一口啜った柊一は、手帳を開いた。確認するように指でなぞり、千尋を見る。

「今から七年前だ。菅原すがわら幹夫みきお当時四十歳が、自宅近くで殺害された」

「菅原……」

 柊一は頷く。

「亜紀、亜衣姉妹の父親だ。二人はその時、十歳だった」

「殺された時の、状況は?」

「時刻は朝方五時。酔っぱらって家に帰る途中、橋の欄干とガードレールの隙間から川に落ちて、溺死した」

「溺死? どうして、事故じゃなくて殺人だと?」

 柊一は自分の左脇腹辺りを指差し、言った。

「刺し傷があったんだよ。直接的な死因にはならなかったが、おそらくそれが理由で転落したんだ。包丁で一突き、だな」

 橋というキーワードが出てきた。つまり亜紀か亜衣のどちらかが、父親を殺したということだろうか。しかし柊一は、曖昧に答えた。

「捜査記録に、被害者の家族であること以外、姉妹については書かれていない。犯人の目撃証言が出てるんだ。中肉中背、上下黒のスウェット姿で、帽子をかぶった男。まあ想像できるだろうが、その程度じゃ怪しい人間すら見つかってない」

「朝五時なんて、証言があっても数人じゃないの?」

 その黒づくめの人物が犯人だとは、限らない。普通なら、被害者の周囲の人間を疑うのではないだろうか。

「それが……ここが面倒なんだが、早起きのじいさんばあさんやら早朝出勤のサラリーマン、新聞配達員まで、みんなそいつを見たって言ってるらしいんだよ。証言の内容も、ほぼ一致してる」

「――菅原幹夫は、そういう人間だったってこと?」

 記録を読む限りでは、と柊一は頷いた。

「アル中の酒乱。勤めも揉め事を起こしてしょっちゅう辞めてる。特に、家族への暴力がひどかったそうだ」

 大体の背景は、読めてきた。菅原一家を知る人たちは、双子の姉妹とその母親のためを思って、そう証言したのだろう。その思いは、警察の担当者まで動かしてしまった。

しかし、もしその時、真実が明かされていたら。姉妹のどちらかが、感染者となることもなかったのではないか。罪は隠せても、消えはしない。心の中に闇が堆積し、溢れ出す。そうなればもう、止める術はない。

 手帳を閉じた柊一は、ため息と共に、付け加えた。

「そういや、何の脈絡もなく、捜査資料に書いてあったな。菅原家の包丁は、新品だったって」

 さすがに警察官として、良心が咎めたということだろうか。

「シュウは、もしその事件に関わっていたら、どうしてた?」

 柊一は即答した。

「徹底的に真実を暴く。警察官ができることはそれだけだし、それ以外のことをやるなんて傲慢だ。感情に流されて事実を捻じ曲げれば、絶対にどこかで歪みが生じる」

 言い切った後で、知らず熱くなっていたことに照れたのか、柊一は窓の方に顔を向けた。

「たとえば俺が、犯人だったとしても?」

 はっと目を見開き、柊一がこちらを向く。心の奥まで見通すような鋭い視線が、千尋の目を射抜く。

「お前……何を考えてる?」

「まだ、何も」

 事情を知る柊一は、尚も射抜くような視線を千尋に向けていた。


 体育館の様子を見に行くという柊一と共に、第二化学準備室を出た千尋は、夕妃の姿を探していた。そろそろ、マジックショーが始まる。興味を示していた夕妃は必ず、菅原亜紀と亜衣の姿を見ようとするはずだ。問題は、どこから見るつもりなのか、である。大人しく、後方から眺めているわけがない。多少強引にでも、間近で見られる場所を確保するだろう。やはり、舞台袖や一般客に解放していない二階のギャラリーの可能性が高いか。

 どちらにせよ、入口は体育館の裏側だ。千尋は人で溢れている正面玄関を過ぎ、裏に回った。開け放たれた窓や扉から、音楽が聞こえてくる。テンポの良い曲に乗って、チアリーディング部の生徒たちが演技をしていた。時折、観客席の生徒が友人の名を呼ぶ。はつらつとした掛け声が響き、割れんばかりの拍手と歓声が会場を飲み込んだ。どうやら、演技は終わったようだ。次はいよいよ、菅原姉妹の出番である。

「千尋、こっちよ」

 突然耳にした声に、千尋は思わず足を止めた。自分の耳が確かなら、声は上から降ってきたように感じられたが、しかし。半信半疑のまま見上げると、ひらひらと風に吹かれている黒衣の裾が目に入った。

「何を、しているんですか?」

 純粋な疑問と非常識な行動への非難の意味を込め、千尋は尋ねた。非難は意に介さず、夕妃は得意げに答える。

「特等席を見つけたの。ここからなら、よく見えるわ」

 夕妃が腰かけているのは、アーチ型屋根の中腹に設けられた、明り取りの窓の横だった。確かにあの窓からなら、真横からステージの様子を見ることができる。コンサート会場でいうところの“見切れ席”だが、舞台からの距離は近い。

「ほら、早く。始まってしまうわ」

 夕妃は千尋をそう言って急かした。しかたなく、千尋は地面を蹴り、屋根の上へと飛翔する。幸い、周囲はマジックショーを心待ちにしている者たちばかりで、気づかれることはなかった。

 冷気と共に、千尋は夕妃の横に降り立つ。窓の向こうは、今は暗闇に沈んでいた。観客席の、おぼろげな輪郭の影だけが、うごめいている。緊張と興奮が、ガラスを隔てても伝わってくる。

 お馴染みの、「オリーブの首飾り」が流れ出し、悲鳴のような歓声が沸いた。白光が明滅し、拍手が巻き起こる。そして、暗転していた舞台が浮かび上がった。

 スポットライトの中に、姉妹が立っている。亜紀は右手、亜衣は左手を上げ、シンメトリーになるようにポーズをとっていた。まるで合わせ鏡のように揃っている。その後ろには、物憂げな女の鬼。観客には見えていないはずだが、大勢の目に触れている状況に、緊張が走る。

「夕妃様は、どうして姉妹のどちらかが感染者であることに気づいたんです?」

 夕妃は窓から目を離さずに、答えた。

「私、凄惨な事件の記事をスクラップするのが趣味なの」

「それは、大層いいご趣味ですね」

 嫌味を無視し、夕妃は言う。

「彼女たちの父親が死んだ事件、私も当時調べてみたけれど、あれはどう考えても家族が犯人だったわ。怪しいのは、母親だと思った。でも事件の日、彼女はひどい風邪で寝込んでいたの。どうせ決行するなら、体調が良い日にするはずでしょう? ただでさえ、体格差と力の差があるのだから。そうなれば、子供がやったと見るのが当然よね」

「包丁の傷が致命傷になるほどではなかった理由も、非力さで説明がつくわけですね」

 おそらく包丁だけでは、菅原幹夫を殺すことはできなかっただろう。しかし偶然にも、そこに川があり、彼はわずかな隙間から落ちた。幼い少女は目的を達したが、同時に、深い闇を抱え込むことになった。

「本当に、偶然かしら」

 夕妃は不吉に呟く。

「私には、その『橋姫』が、引き込んだように思えるわ。激しい憎しみに惹かれて、鬼は少女の望みを叶えたのよ。やがて彼女を餌にするために」

 ピンクや緑のライトが舞台を駆け回り、姉妹はマジックの準備を進めていく。舞台装置や演出は演劇部や有志が担当しているが、なかなか気が利いている。

 導入部は、姉妹が交互に、軽めのマジックを立て続けに見せていった。ハンカチをかぶせたグラスからカラフルな玉が溢れ、赤いバラは一振りすれば瞬時に白く変わる。

「あれは、どういうトリックなのかしら?」

「おそらく、玉は吸水により体積が増し、こぼれたのだと思います。赤いバラの脱色には、二酸化硫黄を使ったのではないでしょうか」

「ねえ千尋、私は何も、本当に知りたいと思って言ったわけじゃないわ。種明かしなんて、野暮だと思わないの?」

「ええ、そうでしょうね」

 あえての言葉だと気づいた夕妃は、飄々と頷いた千尋を横目で睨んだ。夕妃を見つけるまでに振り回されたことへの、ちょっとした意趣返しである。

「ところで夕妃様、一つ重要なことに気づきました」

「なあに?」

 のんびりとした口調で、夕妃が尋ねる。

「この距離で、衣装も同じでは、どちらが亜紀でどちらが亜衣か、わかりません」

「じゃあ、ここで一生懸命鬼がどちらに憑いているか見ていても、意味がないわけね。何か、ないの? 見分け方は」

「至近距離であれば、わかります。姉の亜紀には、口元に小さな黒子があります。亜衣は右目だけ二重です。二人は普段からほぼ一緒に過ごしているようですから、比較はしやすいと思います」

 二人の会話の間も、ショーは滞りなく進んでいた。熱気が、窓ガラス越しに伝わってくる。

「あ、脱出トリックが始まるようですよ」

 あっという間に、ショーは終盤にさしかかっていた。音楽がテンポアップし、期待に観客が沸き返る。

 一度舞台袖に戻った姉妹は、衣装を変えて再度登場した。拍手が鳴り、やがて音楽に合わせた手拍子になる。同じ衣装に身を包んだ二人は、舞台の奥に置いていた、電話ボックス大の箱を前に押す。姉妹の片方が扉を開け、中を見せた。

 ここからでは、角度の問題で中は見えない。しかし正面から見ても、何も見えないはずだ。ここまでは、那奈姫が千尋に見せた動画と同じ展開である。

「……一緒に、過ごしている?」

 夕妃は先ほどの会話を反芻し、そこが引っかかったらしい。千尋はマネージャーの杉田からの情報を補足した。マジックの練習で小火を出して以降、特に二人が寄り添うようになったという話だ。母の死も関係しているかもしれない、と加えておく。

 ややあって、夕妃が口を開いた。

「ねえ、千尋。鬼は普通、契約者がその能力を使っている時しか、姿を現さないものよね」

「ええ、ですから、今彼女たちがやっているマジックは……」

 いや、おかしい。初めの簡単なマジックに、幻術は必要ない。

 それなら、何のために力を使っていたのか。

 千尋は舞台上に目を向けた。

 鎖でぐるぐると巻かれているのは、亜紀か亜衣か。動画と同じならば、亜紀だったはずなので、暫定的に亜紀とする。その亜紀が、箱の中に入る。扉を閉め、小窓から顔を出す。その間、亜衣は箱の横に立ったまま。

 舞台上に招かれた学生が、箱の中に人がいることを確認し、指示に従って小窓を閉めた。ここは、新たに加えた演出だろう。

 箱の外に残った亜衣が、箱をくるりと回す。仕掛けがないことを示し、何やら魔法をかけるような仕草で手を振り上げる。観客を見渡した彼女は、ゆっくりと箱に近づき、一気に扉を開けた。

 亜紀の姿は、消えていた。観客はどよめき、次いで拍手が沸き起こった。その反応に頷き、彼女は右手を観客席の一角に向けた。スポットライトが、追うように移動する。その中心に立っていたのは――。

「あのトリックは?」

「……わかりません。というより――」

「トリックなんてない、というのが正解かしら」

 満足げに笑んで観客たちに応える少女を目に、夕妃は低く呟いた。

「もう少し、詳しく調べる必要がありそうね」


 ショーは大成功を納め、幕を閉じた。危惧していたようなことも起こらず、教師たちはひとまず安堵していた。

 ショーの後、ひっそりとではあるが、菅原姉妹を招いて懇親会を開く運びになっていた。参加者は、学園長を含む数名の教師と、那月たち学園祭実行委員の一部のみである。会場も、普段から人の寄りつかない離れの図書館が指名された。

「司書の閖根先生が、めったにない晴れ舞台だと喜んでおられました。ようやく、丹精込めた薔薇園が日の目を見ることになりますね」

「薔薇は私も好きだわ。毒々しい血のような赤い色も、触れたら怪我をしそうなほど鋭い棘も」

歌うように、夕妃は言う。彼女は上機嫌だが、千尋には一抹の不安があった。

「いきなり夕妃様が現れて、場が凍りつくかもしれませんよ」

那月などは、露骨に渋い顔をするだろう。他の生徒たちも、なぜ理事長が来るのか、戸惑うはずだ。学園長の鳴神がうまく取り繕うだろうが、違和感は残る。

「あら、何を言っているの。凍らせるのが得意なのはあなたの方でしょう」

夕妃は全く取り合わない。しかたなく、千尋はその背中を追った。

 枯葉が埋め尽くす小道を抜けると、いつもなら、薔薇のアーチを中心に、見事な花壇が目に入る。しかし今はその前に人影があり、薔薇はその間からしか見えなかった。人数の多さに、千尋は違和感を覚える。第一、懇親会は図書館の中で行われているはずだ。

「ああ、ちょうど連絡しようと思ってたのよ」

 千尋の姿を目に止め、紗矢が走り寄ってきた。その様子から、どうやら何か問題が起こったらしいことがわかる。

「何かあったんですか?」

 事件の気配はするものの、正体は掴めず、千尋は尋ねた。紗矢もまた、事態を把握しきれていない表情で答える。

「裏門の前で、交通事故らしいわ。菅原姉妹のマネージャーの杉田さんが、トラックにはねられて亡くなったの」

「亡くなった?」

 あの、如才ない、人の良さそうな男が? つい数時間前に会話を交わした千尋は、すぐには理解できずに問い返した。

「救急車は呼んだけど、もう亡くなっているのは確かだったから、空のまま帰ったわ。今は警察が来てる。といっても、元から警備に入っていた人たちだけど」

 おそらく、柊一たちがそのまま現場に向かったのだろう。

「学園祭は、どうするんですか?」

 千尋の発した疑問に、別の声が答えた。

「このまま事故のことは伏せて、続けようと思う。事故は学園の外で起こったものだし、今無理に中止にすれば、混乱をきたしてしまうだろうからね。――いかがかな?」

 学園長の鳴神早瀬が、紗矢の後ろに立っていた。最後の一言は、夕妃に向けられたものだ。夕妃は早瀬に目を合わさず、無感情な声で答える。

「ええ、それでよいと存じますわ。事故の対応は、お任せしても?」

「もちろん、引き受けます。理事長のお手を煩わせるようなことは、ございませんよ」

「そう。それなら、お願いします」

 夕妃は早口で言うと、くるりと踵を返した。早足で、図書館の横手に回る。どちらへ、と千尋が尋ねても、無言だった。

歩調を緩めず、夕妃は図書館の裏を回り、茂みのわずかな隙間に足を踏み入れた。目を凝らせば、獣道のように細く、草の疎らな通路が隠れている。服が枝葉に擦れるのにも構わず、夕妃は進んでいく。

 ようやく千尋も、夕妃がどこに向かおうとしているのか理解した。事故があったという、裏門だ。歩きにくさを無視するならば、このルートが最短なのだ。しかし靴の泥汚れ一つに文句を言う夕妃がこんな道を行くなど、明らかに常と違う行動である。千尋には、まるで早瀬から一刻も早く離れようとしているように見えた。夕妃と彼は過去に何かあったらしいことは聞いているが、千尋も詳しくは知らない。ただ、夕妃があんな態度を取る人間が、彼だけだということは確かだ。

裏門から入ってすぐの壁際に、一台のバンが寄せてあった。窓にスモークの張られた、練馬ナンバーの車だ。菅原姉妹と杉田が乗ってきたものだろう。夕妃はその前も通過し、裏門に到着してようやく、足を止めた。

門の前の道は、一時的に封鎖しているようだ。手前の交差点に人が立ち、身振りで通りがかった車に迂回するよう促していた。路肩に、有名な運送会社のロゴが描かれたトラックが一台、止まっている。会社の制服を着た運転手が、途方に暮れた様子でドアに寄り掛かっていた。

運転手の他に、スーツ姿の男性が二人、話し込んでいた。そのうちの一人は、柊一だ。彼は突如現れた夕妃に気づき、驚いた様子で向き直った。

「どうされたんです、ご当主。この事故に関しては、先ほど鳴神学園長から警察に――」

「その名前は聞きたくないわ。汚らわしい」

 ぴしゃりと放たれた言葉に、柊一は目を見張る。答えを求めるように自分を見た彼に、千尋はそっと首を振り、唇の動きだけで謝罪した。

ここから見た限りでは、トラックの方に目立った傷はないようだ。しかし道路にはかなり広範囲に血痕が飛び散っており、衝撃の強さを物語っていた。そしてスーツ姿の男が、アスファルトの上で力なく仰臥していた。上半身にはスーツの上着が掛けられ、顔は伺えない。柊一は上着を羽織っておらず、血で汚れるのを承知で、杉田に上着を掛けてやったのだとわかった。彼らしい配慮だと、千尋は思う。

「あの姉妹のマネージャーだったんだろ? 話はしたのか?」

 亡骸に目を落として尋ねた柊一に、千尋は頷く。目を閉じて黙とうを捧げた千尋は、ややあって口を開いた。

「どうして、この場所で事故なんて……」

 山の中ではあるが、見通しは悪くない。道はまっすぐで、門の前に立てば、左右どちらも車の姿は百メートルほど向こうから視界に入る。あれだけ大きなトラックに気づかないことなど、有り得ない。

「喫煙所からの帰りに、はねられたらしい。まるで車なんて目に入っていないみたいに、飛び出したそうだ」

「それは、運転手の話?」

 もしそうならば、鵜呑みにはできない。千尋はぼんやりと空を見上げている男を見やった。事故を起こしたショックから、呆けているようだ。罪をなすりつける頭が働く状態では、ないように見えるが。

「運転手もだが、菅原姉妹と、ここの生徒も一人、偶然居合わせて、そう言ってる」

「二人も、事故の瞬間にここにいた……」

 柊一は肯き、彼女たちがここに来た理由を説明した。

 車内に置いた荷物が必要になった姉妹が、車のキーを借りるため、杉田のところに向かおうとした。彼が煙草を吸いに外に出たことは知っていたが、喫煙所の場所がわからなかったため、学園祭実行委員の生徒が案内に立った。

 裏門に到着すると、ちょうど杉田が喫煙所から戻って来て、道の反対側を歩いていた。姉妹が手を振ると、彼も気づいて手を上げたという。そして小走りで道を渡ろうとして、トラックにはねられた。

 姉妹に気づいたのなら、ぼんやりしていたわけではない。では、なぜ杉田は見通しの良い道ではねられたのか。

「……怪しいわね」

 それまで黙って死体を見分し、上着をめくり上げたりしていた夕妃が、口を開いた。

「つまり、彼は事故で死んだのではなく、殺されたのだと?」

「幻術を使えるのならば、在る物を無いように見せることもできるわ」

 夕妃の言葉に、先ほどのマジックショーの光景が蘇った。鮮やかなスポットライトの下、あったはずのものが消え、なかったはずのものが姿を現す。何が本当だったのだろう、と千尋は考えていた。

「人が死んでいるのだから、すぐに感染者を拘束すべきだわ」

 確かに、二人を学園内に置いておくのは危険だ。人を殺すという一線を踏み越えれば、残虐さがさらにエスカレートしていくだろう。

「でも、二人は今、実質眞族の側が預かっています。そこから連れ出すのは、難しいのでは?」

「……いや、できるかもしれない」

 横で話を聞いていた柊一が、呟いた。千尋と夕妃の視線が、彼に集中する。

「交通事故に限れば、当然警察が主導権を握れる。事故の様子を詳しく聞きたいとか理由をつければ、二人を連れ出すことは可能だろう」

 夕妃は心底驚いたというように、声を上げた。

「あなた、ただの連絡係じゃなかったのね!」

 しばらく言葉を失っていた柊一は、一つため息をついた後で答えた。

「そりゃ、俺だって人間ですからね。考えていますよ、いろいろと」

 柊一にしては珍しく、含みを持った言い方だったが、不審に思ったのは千尋だけのようだった。夕妃はこれから始まる捕り物に夢中らしく、杉田の亡骸の周りをふわふわと廻っている。一応の確認のため、千尋は彼女に尋ねた。

「よろしいんですか? 前回に引き続き、また感染者を横取りすることになりますよ」

 夕妃はワンピースの裾をひらりと揺らし、くすくすと笑った。

「彼らの目の前で獲物を掻っ攫うのが、楽しいんじゃない。どれだけ怒り狂うかしら。想像しただけでゾクゾクするわ」

 無言で柊一と目を見交わした千尋は、今後紗矢から降りかかる罵倒と暴力を予見したが、今は目の前の事案に専念することに決めた。慎重に事を運ばなければ、幻術によって、姿をくらまされてしまうかもしれない。人と契約を交わした鬼は、日光の結界を出ることができる。結界の外に出すことは、できれば避けたいところだ。茨城の埠頭にまで逃げたライダーを追跡するのは、なかなか骨だった。

「じゃあ、俺は姉妹に話をつけてくる。警察車両で署に連れて行くから、お前も彼女と来てくれ」

「わかった。気をつけて」

 駆けていく柊一を見送り、千尋も運転手の桜沢に連絡を取った。事態が動いた場合にと近くに待機してもらっていたが、それが功を奏したようだ。裏門には数分で到着するという。

「夕妃様、すぐに車が来ますよ」

 飽かず死体を眺めていた夕妃は、その声に顔を上げた。

「寒いから、コートを取ってくるわ」

 確かに、夕妃はワンピースに薄いカーディガンを羽織っているだけで、肌寒そうだ。コートは、他の荷物と一緒に理事長室に置いてあるのだろう。

 二人は見張り役の寡黙な警官と魂の抜けかけた運転手を残し、裏門から学園内に戻った。先を行く夕妃は、さくさくと落ち葉の混じった土を踏みしめて歩く。千尋はその背中に揺れる黒髪を眺めながら、学園長について夕妃が吐き捨てた言葉を思い返していた。

 汚らわしい、と彼女は言った。

 単に毛嫌いしているにしては、表現が過剰だ。加えて、先ほどの能面のような表情での受け答え。余程のことがあったに違いないが、しかし、汚らわしいと蔑むような行為とは、どんなものだろう。すぐに頭に浮かぶのは男女間の揉め事だが、夕妃の両親と早瀬の妻は既に鬼籍に入っている。調べようにも、関係者が少なすぎる。

 夕妃が突然足を止め、物思いに沈んでいた千尋は危うく彼女と衝突しそうになった。夕妃は無言で、視線を停められたバンに向けている。杉田と菅原姉妹が乗ってきたものだ。

 微かに、人の気配がする。夕妃はそれに気づき、足を止めたのだろう。

 かさり、と車体と葉の擦れる音が聞こえ、千尋は身構えた。夕妃の横に立ち、音の正体を注意深く探る。

「そこにいるのは、だあれ?」

 夕妃はかくれんぼをしている時のような声で、尋ねた。がさり。また、音が鳴る。

 やがて、車の影から顔を出したのは、菅原亜紀と亜衣、そして背後に控える「橋姫」だった。姉妹は揃って不安そうな表情を浮かべ、こちらを見ていた。それでいて、何かを訴えるような目をしている。

「あなたたちのショー、素晴らしかったわ。特に最後の脱出マジックは見事だったわね」

 夕妃は穏やかな声音で語りかけながら、二人に一歩、二歩と近づいた。

「もしかして、何か、困っていることがあるのかしら? 私は理事長だから、手助けできるかもしれないわ」

 落ち着いた口調で笑顔を浮かべていれば、夕妃には妙な貫禄があり、理事長らしく見えた。普段はともかく、今は理事長であることを疑われはしないだろう。姉妹も、警戒しているようには見えない。

「実は――」

 姉妹の片方――片二重なので、妹の亜衣だ――が一旦口を開き、すぐに噤んでしまった。姉妹は顔を見合わせ、頷き合う。今度は、姉の亜紀が言った。

「私たち、どうしても行きたいところがあるんです。杉田さんが亡くなって、本当は東京にすぐ戻らなければいけないんですけど……」

「どこに行きたいの?」

 姉妹は全く同じ角度で顔を上げ、声を揃えて答えた。

「――母の、お墓です」

 夕妃は目を見開き、わずかな沈黙の後、頷いた。口元に、笑みを浮かべて。

「わかったわ。内緒で、連れて行ってあげる」

「夕妃様、さすがにそれは」

 柊一は今ごろ、姉妹を探しているだろう。せっかくの計画が、早々に崩れてしまう。

「さあ、急がないと、見つかってしまうわ」

 聞く耳を持たない夕妃は、油断なく辺りを見回した。間の良いことに、桜沢の運転する車が、裏門から入ってきた。

 夕妃は運転席のドアの前に立つと、身振りで桜沢に外に出るよう命じた。訝しげな表情をしつつも、彼が車を降りる。更に、夕妃は命じた。

「桜沢、あなたはもういいわ。千尋が代わりに運転するから」

 桜沢の口があんぐりと開き、助けを求めるように千尋を見た。しかしここまで事が進んでは、千尋も従う以外の選択肢はない。

「すみません、桜沢さん。なるべく早く、戻りますので」

「いや、車のことはいいのですが。しかし、ここで置いて行かれてしまっては……」

 夕妃は車の後ろに回り、トランクのあたりを掌で強く叩いた。

「それとも、死体のようにこの中に入る方がいいかしら?」

 にっこりと脅されてしまえば、桜沢にも選択肢はない。がっくりと肩を落とし、ここで待ちます、と答えた。


 姉妹と一匹の鬼を乗せた車は、カーブの続く道を快調に飛ばしていた。千尋はバックミラーで、後部座席に収まる亜紀と亜衣の姿を窺う。残念ながら、鏡越しでもどちらが感染者となって鬼を従えているのか、示す物は見つからなかった。「橋姫」は後部座席の中央に、しとやかに座っている。

 思い返すと、マネージャーの杉田は会場に鏡や録画用の機材を持ち込まないよう、念を押していた。おそらく、姉妹がそのように言ったのだろう。つまり、ある範囲を越えれば、力が行き届かず、例えば鏡や録画した映像に、幻影ではなく現実が映ってしまうということではないか。一つの仮説が立った今、その隙を見つけることが、鍵となっていた。

「まさかこんな形で、ドライブができるなんて思わなかったわ」

 助手席に収まっている夕妃は、鼻歌でも歌い出しそうな調子で言う。暢気なものである。ひとたび幻術に呑まれれば、対向車と衝突し、杉田と同じ運命を辿ることもあり得るというのに。感染者は基本的に、自らの生命を危険に晒すような真似はしないはずだが、それでも、油断は禁物だ。いざという時に反応できるよう、千尋は注意深くハンドルを操作していた。

 姉妹の言うままに、国道を走り、霧降高原道路に入る。薄絹のような霧が立ち込める向こうに、紅葉の赤や黄が透けていた。景観の美しさで、ドライブに人気のスポットだ。その途中には、華厳の滝や裏見滝と共に日光三名瀑と称される、霧降の滝がある。かの葛飾北斎も、「諸国滝巡り」の一枚としてこの滝を描いている。

しかし、このあたりに霊園などあっただろうか。千尋には覚えがなかったが、車に搭載されたナビには、確かに霧降高原霊園の文字があった。霧降の滝を越えた先のようだ。

「いつ来ても、素敵な景色ね。まるで天国に足を踏み入れたみたい」

 夕妃の言葉に、固い表情で窓の外を眺めていた亜紀と亜衣も、笑みを見せた。

「母も、このあたりの景色が大好きでした。昔――父が生きていたころは、車でよく連れてきてもらっていたんです」

「そう、素敵なお父様ね」

 屈託のない表情で、夕妃は言う。おそらく過敏な反応を期待しての答えだったが、亜紀も亜衣も、曖昧に頷いただけだった。

「もうすぐ、看板が見えるはずです」

 亜紀の言ったとおり、ほどなくして霊園の看板が見えてきた。この先二百メートルの文字と、左折を示す矢印。心なしか、そちらの方は霧が深くなっているように感じられる。ウインカーとサーチライトが霧に反射し、ぼんやりとした影を浮かび上がらせた。

 一本道を上っていくと、砂利の敷かれた駐車場に着いた。百台は停められそうな広さがある。数台の車が点在していたが、人の姿はなかった。外に出ると、学園よりも確実に数度低い空気が、ひやりと肌に触れた。

「こっちです」

 亜紀が、慣れた様子で歩いていく。その後ろに亜衣がぴたりとつき、千尋と夕妃は少し離れて彼女たちを追った。

 全体としてはこぢんまりとした墓地だが、上に長く伸びていた。姉妹の母の墓も上方にあるらしく、二人は淡々と上っていく。下りてきた雲がかかっているため、見上げてもどこまで続いているのかわからない。

「夕妃様、大丈夫ですか?」

 ワンピースの裾を持ち上げながら、数段先を上る夕妃は、呼吸の合間に答えた。

「いざとなったら、飛んでいくことにするわ」

 なるほど、その手があったか。彼女を背負って上る必要はなさそうだと、千尋は安堵した。

「この先です」

 気づけば、階段の頂上に辿りついていた。墓地はここで途切れており、その先は急勾配の山の斜面だ。

 姉妹は息を乱すこともなく、しっかりとした足取りで進む。左右に墓石が並び、そのいくつかには、まだ新しそうな花が供えられている。つるりとした墓石と、傷のない舗道。看板も真新しいものだったことから、比較的最近、建てられた霊園なのだろう。自由な時代らしく、球体などユニークな形の墓石も見受けられた。

 姉妹が足を止めたのは、ごく一般的な形と大きさの、墓石の前だった。菅原亜美と、名前が刻まれている。

「お父様と一緒のお墓ではないのね」

 夕妃の呟きに、亜紀は弾かれたように顔を上げ、亜衣は不安そうに姉を窺った。

「……ここに霊園ができたと知って、母だけ移したんです。この景色を見たら、喜んでくれるんじゃないかって思って」

 亜紀は墓と同じ方向を振り返った。つられて、千尋もそちらに目を転じる。下りの斜面にずらりと敷き詰められた墓石たち。その向こうに、霧のベールをかぶってなお、目に沁みる鮮やかな色を湛えた紅葉が広がっていた。

「でも、ここに連れてきてくれていたのは、お父様だったんでしょう? 一緒でもよかったんじゃないかしら」

「……母と父は、最後の方は仲が悪かったんです。だから、別々の方が――」

「あら、そういうのって、外から見ただけじゃわからないものよ」

 畳みかけるように言う夕妃を、亜紀は鋭い目で見据えた。橋姫が、ゆらりと立ち上がる。何か仕掛けてくるか。千尋は身構えたが、亜紀の腕を亜衣が宥めるように触れ、亜紀も開きかけた口を噤んだ。つまらなそうに、夕妃が息をつく。

 亜紀と亜衣は墓の正面に立ち、手を合わせた。目を閉じ、一分ほども顔を俯けていた。母に、何かを語りかけているのだろうか。それとも、自我は既に食われてしまっているか。墓石の前での祈りが、死んだ者に届くか、千尋にはわからない。それでも、わずかにでも、自我が残っていればいいと、千尋は思った。

 振り返った姉妹は、深々と頭を下げた。

「……ありがとうございました。これで思い残すことなく東京に帰れそうです」

「お役に立てて良かったわ」

 夕妃は笑顔で頷いたが、ただ、と続けた。

「帰る前に、寄りたいところがあるの」


 その場所にも、霧が立ち込めていた。絶景と呼ぶには、いささか見通しが悪い。しかし

山々が折り重なるようにして並び、底の見えぬ深い深い谷から霧が湧き出る様は神秘的で、趣があった。

 霧降高原道路のほぼ中間に位置する、六方沢。長さ二百九十メートルに及ぶ六方沢橋がかかっている、こちらも景勝地として人気のスポットだ。橋からの標高は千四百メートルを超え、この霧がなければ、栗山ダムや筑波山を望むこともできる。高くそびえる山と、鋭く切れ込む谷。橋の上に立てば、渡る風と共に壮大な自然に飲み込まれそうになる。

 橋の手前にある駐車場に車を停め、四人は橋の上まで歩いてきた。先ほどとは反対に、夕妃と千尋に、亜紀と亜衣がついてくる格好だ。

「理事長先生は、この橋からの景色が好きなんですか?」

 亜紀が尋ねた。亜衣はおっかなびっくりといった様子で、亜紀の後ろから橋の下をのぞいている。

「ええ、そんなところよ」

 夕妃は欄干に近づき、谷を見下ろした。隣に、亜紀と亜衣が並ぶ。数歩離れた場所で、千尋がこちらを注視していた。

霧はいよいよ深くなり、すぐそばの道路を走る車すら、白く溶け込んで見えなくなった。エンジンとタイヤの擦れる音が、時折近づき、すぐに遠ざかる。

「そういえば、この場所、自殺の名所でもあるんですって。ご存じ?」

「……いえ、初めて聞きました」

 亜紀は戸惑いを顔に浮かべ、亜衣は怯えたように首をすくめた。

 六方沢橋は、谷底から一三十四メートルの高さがある。ビルでいえば三十階を優に超える高さだ。飛び込めば、まず助からない。

「ねえ、あなたは、死にたいと思ったことはある?」

 夕妃は二人の姉妹を交互に見ながら、そう問いかけた。千尋が咎めるような視線を送ってきたが、無視して二人の答えを待つ。しかし、彼女たちは訝しげに夕妃を見るだけで、答えなかった。夕妃は再び、口を開く。

「私は昔、毎日死にたいと思っていたわ。身体が弱くて、学校にも満足に通えなかったから、友達もいないし、楽しいことなんて何もなかった。お医者様は、私が二十歳まで生きられないかもしれないと言っていたわ。でも、そのこと自体は特に悲しくなかった。どうせ延々つまらない日々を過ごさなければならないのなら、一日でも早く終わってほしいと思っていたわ。幸い、今は丈夫になって、そんな願望も消えたけれど」

むしろ今は、自ら命を捨てる人間の思考は理解できなかった。しかし、かつて毎日死と隣り合わせだった夕妃は、この場所が心に傷を負った者を引き込む魔力を湛えていることを、感じ取っていた。

「私は……そんなこと、考えたこともありません。つらくても、自分が死のうとは、思いませんでした」

 口を開いたのは、妹の亜衣だった。彼女の目には過去が映っている。おそらく、父に虐げられていた日々が。夕妃は、ゆっくりと、固く閉じた扉を開けていくような感覚を覚えていた。しかしあいにくと、夕妃は扉が開ききるまで待てるほど、我慢強くない。早々に、止めの矢を放った。

「つらくても、死のうとは思わなかった。だから、殺したのよね。自分を苦しめている元凶を、除くために」

 亜紀と亜衣は、同時にはっと顔を上げた。

「つらくても、逃げずに戦ったことは、立派だったと思うわ。でも、ちょっと方法が悪かったんじゃないかしら。父親が死んで、心配事は消えたはずなのに、あなたたちは幸せになれなかった。お母様が早く亡くなったのだって――」

「じゃあ、どうすればよかったっていうのよ!」

 亜衣が身を震わせて叫んだ。穏やかだった橋姫が突如牙を剥き、般若のような恐ろしい表情に変わる。

「あいつは、死んで当然の人間だったのよ。あのままじゃ、私たち三人とも、あいつに殺されていた。だから、ああするしかなかったの。悪魔は、退治しなきゃいけなかった」

「悪魔、ね」

 夕妃は意識を集中させ、アポルオンを現出させた。姉妹は怯んだように、後ずさる。

「悪魔は、殺して死ぬほど可愛らしいものじゃないわよ。一旦憑りついたら、死ぬまで離れてくれない。あなたも、憑りつかれてしまったのね。その証拠に、あなたは父親以外にもう二人、殺している」

 夕妃はさらに一歩、姉妹に詰め寄った。欄干に背中が当たり、亜衣は背後を振り返る。逃げ場がないことを悟った彼女は、それで開き直ったようだった。挑むような目つきで、夕妃を見据える。そう、この目が見たかったのだ。ぞくぞくする高揚で、夕妃の唇が弧を描く。

「一人は、今日、トラックにはねられたマネージャーさん。もう一人は――」

 夕妃はすっと腕を上げ、亜衣の隣を指さした。

「あなたの、片割れ」

 亜衣は裂けんばかりに口の端を上げ、酷薄そうな笑みを浮かべた。否定も肯定もしない。ただ無言で笑っているだけなのに、背筋が凍るほどに、恐ろしい表情だった。

「マジックの練習中、小火が出たと聞いたわ。後には、焼け焦げた人形が残った。でも本当は、それは人形じゃなかったのよ。そしてあなたは、幻術で姉妹が二人そろっているように、周囲を欺いていた」

 それならば、橋姫の姿が常時現れていたことにも、説明がつく。亜紀が存在しているように見せかけるため、ずっと鬼の力を使っていたからだ。

 夕妃の言葉に呼応するように、霧の中で、亜紀の姿が掻き消えた。橋姫の姿も。亜衣ひとりだけが、夕妃の前に立っている。

「どうして、二人を殺したの?」

 髪の毛をいじりながら、つまらなそうに、亜衣は言った。

「杉田は、父親面して鬱陶しかったから。亜紀がいないのも気づかれそうだったし、そろそろ頃合かと思って。亜紀は……裏切ったから」

 やはり、“裏切り”だ。春海もそのようなことを言っていたのを、夕妃は思い出した。信じていたものに裏切られ、彼ら、彼女らにとっての世界が崩壊する。そして「閫」を超えた感染者たちは、自我を手放してただウイルスに動かされる人形へと成り果てるのだ。

「亜紀さんは、あなたに何をしたの?」

「お父さんを殺したこと、警察に言いなさいって言ったの。ちゃんと罪を償いなさいって。どうして? 私は罪なんて犯してないのに。お母さんも亜紀もできないから、私が殺してあげたんじゃない。どうして今になって、そんなこと言うの?」

 それはおそらく、母親が死んだからだと、夕妃は思った。母が生きているうちは、悲しませるようなことはしたくなかった。しかしいずれ罪は償うべきだと、亜紀は考えていたのだ。だがその声が届く前に、亜衣は感染し、鬼と契約してしまっていた。

「でも、なんだかどうでもよくなっちゃった。もう、家族もみんないないし、杉田さんもいないし。私、生きてても意味ないよね」

「え……?」

 亜衣はひらりと欄干の上に立ち、憑き物の落ちたような顔で、夕妃に向き直った。

「じゃあね、理事長先生。ばいばい」

「ちょっと、待ちなさい――!」

 夕妃は身を乗り出し、手を伸ばした。亜衣のパーカーの裾を掴んだように思えたが、指をすり抜けていった。霧の底に、亜衣が沈んでいく。瞬く間に、音もなく、彼女は消えてしまった。

「どういうこと? 感染者が、自殺だなんて……」

 PPVは、自らの生存のため、宿主を生かそうとする。骨が折れても、手足が失われても、生命の維持を優先する。貪欲に、生物の本能に従うのだ。

 しかし、亜衣は飛び下りた。死しか待ち受けていない場所へ。

「ウイルスの指令を、人の意思が超越したというの?」

 夕妃は呆然と、谷底を見下ろした。

「――違います」

 低く呟かれた声に、夕妃は振り返った。

「夕妃様、これを見てください」

 千尋が見せたのは、携帯電話で撮影したらしい、動画だった。霧の中、無人の六方沢橋の欄干と、その向こうの景色が映っている。

「これが、何?」

 霧が流れる以外に変化のない動画を見せられた意図がわからず、夕妃は苛立ちを露わにして尋ねた。

「飛び下りる前後の亜衣さんを、撮ったものです」

 夕妃はもう一度、画面を見た。最初から最後まで、亜衣は映っていない。カメラは亜衣に、向けられていたはずなのに。

「……やってくれるじゃない、あの子」

 夕妃はばさりと髪を払い、霧に沈む彼方に目をやった。

 亜衣の姿は、幻術だったのだ。掻き消えたように見えた亜紀が本物で、霧に乗じて逃げたのだろう。

「どうして、気づいたの?」

「初めの挨拶で、亜紀は鳴神君と握手をしていました。幻術が使えるにしても、敏感な指先の感覚まで騙すのは、難しい。普通なら避けて、“本物”が握手するはずです」

「なるほど、あなたはずっと、亜紀が感染者だと目星をつけていたわけね」

 ならば、なぜ教えずに暢気に動画など撮っていたのか。夕妃が睨むと、千尋は悪びれる様子もなく言った。

「確信がなかったものですから。あと、幻術がどう録画されるのか、見てみたかったので。すごいですね、本当に何も映っていないですよ」

 無表情ながら楽しそうにしている千尋に、夕妃は嘆息した。

「あなたがのんびりしているせいで、逃がしてしまったじゃない」

 冷たい声で非難しても、彼には焦りのかけらも見えない。そもそも、彼の焦りや苛立ちを見せられた記憶がないから、とりたてて今言うことでもないが。

「人間の足では、そう遠くには行けないはずです」

 千尋は手を前方にかざした。肌を刺す冷気が生じ、霧の中で渦を巻く。ごう、と風が鳴った。霧が一瞬にして薙ぎ払われ、視界が開ける。

 橋を渡りきったあたりに、小さく人影が見えた。しかし、俊敏そうに躍動する人影は木立の中に消え、すぐに見えなくなってしまった。

「逃がさないわ」

 地を這うような声を発すると同時に、夕妃は強く地面を蹴った。悪魔の羽が風を掴み、身体が宙に浮かぶ。前方を見据え、夕妃は背中の羽に意識を集中させた。大きく、羽ばたく。投げ捨てるように後方に空気を押しやり、加速していく。風が、頬にぴりりと痛みを残し、過ぎていった。

 瞬く間に、夕妃は人影の消えた木立の上にたどり着いた。降り立って、辺りを見渡す。亜紀の姿はなかったが、落ち葉を踏みしめる忙しない音が聞こえていた。

 遠目にはこんもりとした茂みのように見えていた木立は、存外に密度が高く、中は薄暗い。これだけ生い茂っていては、飛んで移動するのは無理だ。素早く判断すると、夕妃は躊躇なく森の中へ足を踏み入れた。舗装された道などなく、ふかふかとした腐葉土に足を取られそうになる。それでも夕妃を突き動かしていたのは、亜紀への憤りだった。

 彼女は鬼の力を借り、夕妃を騙した。最強の悪魔を従わせる夕妃にとって、この上ない屈辱である。それも、幻術などという、直接攻撃もできない低級の力で。格の違いを見せてやらねばならない。半ば冷静さを失った状態で、夕妃は木立を谷底に向かって下っていった。

 時折立ち止まり、注意深く周囲を探るが、近づいている気配はなかった。亜紀の姿は、依然として見えない。このままでは、際限なく鬼ごっこが続き、やがて逃げられてしまうだろう。相手はこちらの視覚や聴覚を操ることができるのだ。

 どうしたものか。さすがに疲れを感じ始めた夕妃は、歩みを止めた。目を閉じ、耳を澄ます。葉が風に揺れる音、鳥の鳴き声、小さく車の走行音が聞こえる。

 それらの音に混じって、さわさわと、耳をくすぐるような音がしていた。水音のようだ。さらに下っていった方向から、聞こえてくる。夕妃はそちらに足を向けた。

 傾斜が急になり、細い木に掴まりながら、下りていく。水音は徐々に大きくなり、ざあざあと雨音のように激しくなっていった。斜面の途中に、せり出した平坦な地面が見える。ようやく平らな場所に辿りつき、一息ついた夕妃は、目の前で視界を塞いでいる常緑樹の枝を引いた。突然の眩しい光に、思わず目を細める。

「これは……」

 眩しいのは、太陽の光だけではなかった。滝を流れ落ちる水が反射し、きらきらと瞬いている。湿り気を帯び、ひんやりした空気が、こちらにまで流れてくる。跳ね飛ぶ水滴すら見えそうなほどの近さだ。

 決して大きくないが、美しい滝だと、夕妃は思った。華厳の滝のように、迫力あるものも素晴らしいが、自然の中でひっそり佇むような滝も、深窓の令嬢のような気品を湛えている。切り立った崖の上で、夕妃はしばしその滝に見惚れていた。

不意に、笑い声を聞いたような気がして、夕妃は崖を背に振り返った。山に潜む鬼や悪魔が、ざわめいている。異変に敏感な彼らは、何かにかき乱され、落ち着きを失っていた。

 声も姿もない。だが、近くにいる。夕妃は確信した。

 眼前の空気が、微かに震えた。夕妃の両肩が、熱――人の体温――を感じ取った。そして、鈍い衝撃。夕妃を谷底へ突き落とそうと、押し出す力。

 夕妃の身体は大きく傾き、そのまま落下していくかに見えた。

 しかし、夕妃は口元に笑みを刻んでいた。

「つかまえた……!」

黒々とした翼が、羽を散らせて一気に広がった。飢えた悪魔が、獲物を前にして咆哮する。

 目に見えない手首を、夕妃は掴んでいた。見えずとも、存在しているのであれば、そこには必ず質量と体積がある。指先が、確かにそれを知覚していた。

 指に力を込めれば、夕妃が掴んでいた場所から、徐々に隠れていたものが浮かび上がってくる。手首、掌、二の腕……そして、醜く歯噛みする、亜紀の顏。

「かかったわね。隙を見せれば、あなたは必ず私を殺しに来ると思っていたの。そうでしょう? あなたは何もかも、自分の思い通りにならなければ気のすまない性格だもの。暴力的な父親を殺し、忠告した妹を殺し、真実に気づきかけていたマネージャーを殺した。自分に都合の悪いことは全部、起きる前に潰してしまうのよね。ただ臆病なだけじゃない」

 感染者にこうして声をかけることは、意味のないことかもしれない。しかし、夕妃は言わずにいられなかった。彼女の臆病さも傲慢さも、見ていていらいらする。まるで、自分を見ているようで。

「うるさい、黙れ、うるさい……」

 亜紀は何度も、壊れたテープのようにそう繰り返した。夕妃に掴まれた左手首が、どくどくと脈打ち、腕が震え出す。抑え込もうと、夕妃は力を込めた。

 亜紀の左腕に気を取られていた夕妃は、彼女の右手が動いた時、ほんの一瞬、反応が遅れた。

「あんただって、隙だらけよ!」

 右手に握られたナイフが、夕妃に向かって振り下ろされる。とっさに身体を引いて逃れようとしたが、今や捕まったのは夕妃の方で、亜紀の左手が痛いほどの力で夕妃の腕を締め付けていた。

「あんたなんか、死ねばいい!」

 純粋な悪意が、夕妃を射抜く。空いた手で衝撃波を放とうとしていた彼女は、亜紀の顔に別の顔が重なって見え、突然、動きを止めた。いつか、彼がこうして夕妃に刃を向ける日が、来る。絶望に満ちた予感が駆け抜け、夕妃は石になってしまった。

 滝からの細かな水滴を受けて光る刃が、夕妃の胸へと吸い込まれようとしている。彼女はただぼんやりと、その光景を眺めていた。

 衣を裂き、肉を穿つ鈍い音が響く。

 しかしそれは、夕妃の身体から発せられたものではなかった。立ち尽くす夕妃の前で、一筋の血が、亜紀の口元から顎へと伝い、音もなく地面に落ちた。ゆらりと傾いた亜紀の身体が、横向きにくずおれる。目を見開いたまま、彼女は動かなくなった。

「千尋……いつから、いたの?」

 夢の中のように霞のかかった頭で、夕妃は尋ねた。

「たった今ですよ。夕妃様が先に行ってしまわれたので、見つけるのに苦労しました」

 苦労の見えない涼しげな顔で、千尋は言う。彼の握っている特殊警棒は、その先端から血を滴らせていた。警棒とは異なり、先が鋭く尖っているのは、彼が金属の鬼神の力により変形させたためだろう。一突きで、致命傷を与えられるように。

「どこか、お加減でも悪いのですか?」

 覇気のない夕妃を見て、千尋は首を傾げている。確かに、今の自分はどこかおかしい。感染者と対峙している最中に、別のことに気を取られるなど、これまではなかった。

「大丈夫よ。そんなことより、珍しいじゃない、あなたが止めを刺すなんて」

 それは、いつでも夕妃の仕事だった。もちろん夕妃が嬉々として望んだからだが、千尋も、できる限り避けていたように思う。まさか、自分の窮地に仕方なく――。

「予行練習ですよ。たまには動かないと、本番でやり損ってしまうかもしれませんから」

 ある意味では予想通りの答えに、夕妃はふっと息を漏らした。期待を裏切られたはずなのに、関係が変わっていないことに安堵している。この空気が、心地よいとさえ思えた自分は、どこかネジが緩んでいるのかもしれない。

 夕妃は跪き、亜紀の目をそっと閉じた。

「可哀そうね、この子。ただ恐怖から逃れたくて父親を殺して、結局家族みんなに先に死なれて……」

 包丁を手にした責任は、もちろん彼女自身にある。しかし、PPVがその悲劇を加速させてしまったのだと、夕妃は思った。

 無反応の千尋を、屈んだまま見上げる。彼は何故か、空を見上げていた。木々の間から、切り取られたように小さく覗いている。一片の雲もない青い空を背に、千尋は夕妃を見下ろして言った。

「いえ、夕妃様の様子があまりにもおかしいので、雪でも降って来るのではないかと……」

「あなたは本当に、失礼ね」

 夕妃は立ち上がると、胸ポケットに入っていた千尋の眼鏡を真ん中からぽきりと折った。

「……予備、ないんですけど」

「知らないわ、そんなこと」

第一、伊達眼鏡に予備だなんて、聞いたことがない。夕妃はくすくすと笑ったが、何の前触れもなく頭に千尋の手が伸びてきて、思わず身を竦めた。手は夕妃の髪に触れ、すぐに離れていく。

「雪かと思ったら、タンポポの綿毛でした」

 季節外れの綿毛が、千尋の指先をそっと飛び立つ。夕妃は無意識に千尋の触れた辺りを手で押さえながら、綿毛の行く先を目で追っていた。白い綿毛は深い森の中に溶け、すぐに見えなくなった。

「それより夕妃様、先ほど話されていたことですが……」

「何のこと?」

「昔の……いえ、何でもありません」

 行きましょう、と千尋は踵を返した。

 昔のこと。夕妃と、今はもうこの世にいない者たちだけが、知っている真実。いつかそれを話す時が来るのか、話す前に彼が復讐を遂げるか。

「真実を知っても、あなたは私を殺そうとするかしら」

 最も恐れているのは、彼が自分を許してしまうことだ。

 いっそすべてを洗いざらい話してしまいたい衝動を、夕妃は固く目を閉じ、押し殺していた。

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