第3話 幻影のジェミニ(前)

少女は待っていた。橋のたもとに、そっと身を潜めて。川から土手を駆け上がる風は、凍てつくほどに冷たい。白っぽく枯れかかった雑草が、かさかさと耳元で音を立てる。少女の目には、それが最近増えた母の白髪のように映った。

 このままでは、お母さんはあっという間におばあさんになって死んでしまう。想像し、寒さとは違う理由で少女は震えた。手袋を着けていても冷気が忍び込み、指先の感覚は薄れていたが、手に持ったそれを離さぬよう、固く握りしめた。

 どこの家庭にでもある、出刃包丁。しかし彼女にとってそれは、未来へ希望をつなぐ唯一のよすがだった。これであの男を退治すれば、全てがうまくいく。母が殴られることも、妹が怯えて泣くこともなくなる。

新聞配達のバイクが目の前の道を通る。少女は息を殺してやり過ごした。

アスファルトを進む足音が聞こえ、少女は顔を上げる。さっと緊張が走った。蛍光塗料の塗られた時計の文字盤を、確認する。五時十分。行きつけの居酒屋が閉まるのが午前五時。店から追い出され、ここを通るのは、ちょうど今頃だ。

少女の全身の血管が、どくどくと脈打った。ふと、場違いな先生の言葉が浮かんだ。――人に刃物を向けてはいけません。あれは確か、図工の時間だ。彫刻刀を使って、版画を描いていた時。

 刃物を向けるだけでなく、それで人を刺す自分は、先生の言いつけを守らない悪い子なのだろうか。少女はしかし、すぐに思い直した。あの男は、人ではない。悪魔だ。

 最近、そんな病気があると聞いた。突然悪魔が憑りついたみたいに、ひどいことをするようになるらしい。きっとあの男もそうに違いない。だからこれは、いいことなのだ。自分は悪魔を、退治するだけ。

 白み始めた橋の向こうから、男はゆっくり歩いてくる。千鳥足で、低く唸り声を上げながら。

少女は確信した。あの醜い姿は、やはり人ではなく悪魔だ。悪魔は橋を渡り、近づいてくる。包丁の柄を握りしめ、少女は暗がりから飛び出した。


 細く開いた窓から、弾けるような笑い声が聞こえた。

 夏は完全に過ぎ去り、秋が深まる。ここ第二化学準備室からも、鮮やかな紅や黄に染まった葉を見下ろすことができる。

 そして秋といえば、学園の大イベント、学園祭がある。たった今聞こえた声も、紅葉の下、立看板やポスターを描く生徒たちのものだ。千尋が窓から覗くと、数人の女生徒が、ジャージをペンキで汚しながら、模擬店の看板を描いているところだった。

「鳴神さんは、手伝わなくていいの?」

 千尋はソファでくつろぐ那奈姫を振り返った。彼女は生返事をしつつ、携帯電話を操作している。ややあって、那奈姫は弾んだ声で、見つけたと叫んだ。

「これこれ、先生、見て!」

 那奈姫はスマートフォンの画面を見せ、千尋を呼ぶ。那奈姫の隣に座り、千尋は画面に目をやった。

「何の動画?」

 有名な動画投稿サイトの動画だ。少女と呼べるくらいの若い女性二人が映っている。

「今度学園祭に来る、菅原姉妹のショーだよ。これは二年くらい前の」

 マジシャンとして有名な姉妹を学園祭に呼び、パフォーマンスをしてもらうことになったという話は、千尋も聞いていた。菅原すがわら亜紀あき亜衣あいという双子の姉妹で、現役高校生だ。一時はテレビに頻繁に出演し、アイドルのように追っかけまでいたらしい。二年前ならば二人はまだ中学生のはずだが、笑顔を浮かべる二人は大人びていて、やや画質の悪い映像でも美人であることがわかる。動画を再生させながら、那奈姫は解説した。

「最近はテレビに全然出なくなっちゃったから、見られるのって貴重なんだよ! チケットも、すぐ完売しちゃうし。一番有名なのは、この脱出マジックでね、お姉さんの亜紀ちゃんが鎖でぐるぐる巻きにされて、箱の中に入って……」

 見ればわかるが、那奈姫が楽しそうなので、千尋は何も言わず画面を見ることにする。

 動画の中で進行中のマジックでは、亜紀の入った箱も鎖で巻かれ、錠前がかけられた。その周囲に、背景と同じ深紅の幕が張られる。残った妹の亜衣は、箱をゆっくりと一周した。彼女が箱の後ろ側に隠れると、箱の上部にある小窓が開き、中の亜紀が顔を出す。手をひらひらと振り、既に拘束を解いたことをアピールした。観客がどよめく。亜衣が気配を察し、箱の表側を見ようとすると、亜紀はタイミングよく小窓を閉じて隠れる。コミカルな動きに、笑いが起こった。

 やがて幕は完全に箱を覆い、亜衣は姉を見張るように箱の周囲を再び回る。

「そうそう、それで幕を上げて箱の中を見るんだけど……ほら、亜紀ちゃんはいないの! しかも、登場するのが――」

 カメラが観客席に振り向けられ、その最後列に、亜紀が観客に交じり座っていた。衣装ではなく、普段着のような服装に着替えている。近くにいた観客が、悲鳴のような声を上げて立ち上がった。盛大な拍手。亜紀もステージに戻り、二人でぺこりとお辞儀する。再び、拍手が響く。動画はそこで、終わっていた。

 いろいろとトリックを仕込む余地があるようには見えるが、ショーとして見応えがあり、完成度が高いと千尋は感じた。那奈姫は感想を求め、千尋を見上げる。

 先ほど考えたようなことを言うと、那奈姫は少しつまらなそうに口を尖らせた。

「もっと驚いてくれるかと思ったのに。私なんて何度見てもトリックわかんないし……じゃあさ、先生は何かマジックできるの?」

 どうしてそんな方向に話が進むのだろう。那奈姫の思考回路は時折配線を飛び越えて、まったく別のところに繋がるようだ。

「マジックではないけど、そうだな、例えば……」

 千尋は立ち上がり、事務机の引き出しを開けた。その中に目的の物を見つけ、取り出す。

「ここに、鍵と錠があります」

 掌に載る大きさの、どこにでもあるものだ。千尋は那奈姫に二つを渡し、きちんと鍵が回り、錠が外れることを確認してもらう。それから錠だけを那奈姫から受け取り、ほんの数秒ほど、掌で包み込んだ。

「はい。鍵が開くか、試してみて」

 言われた通り、那奈姫は鍵を鍵穴に差し込もうとする。しかし鍵は最後まで入らなかった。

「あれえ? さっきはちゃんと入ったのに」

 鍵の先端がつかえて、まったく入る気配がない。不思議に思い、那奈姫は鍵穴を覗き込んだ。あっ、と声を上げる。

「そう、鍵穴がふさがってるから入るわけがない」

「これ、マジックじゃないよね……」

 さすがに那奈姫も気づき、脱力してさっきより重く感じる錠前を、千尋に返した。

「どちらかと言うと、魔法? 種も仕掛けもないから」

 金属の鬼神、ロサビスの力だ。千尋が契約する、もう一体の悪魔である。金属の変形はもちろん、金属原子やイオンのレベルでも操ることができる。

「悪魔の力だから、魔法でもいいけどさ。でも、その力って何かの役に立つの?」

「重要なのは役に立つかじゃなくて、ロマンだよ。物理法則を捻じ曲げる快感が――」

 那奈姫は理解不能というように首を振った。悪魔や鬼と契約するということは、少なからず危険を伴う。耐性を持つ異才の一族であっても、油断すると、心ごと喰われて身体を乗っ取られてしまうのだ。それを二体も自分の身に“飼う”ことは、鬼や悪魔を知覚できない那奈姫にとっても、酔狂に思えたのだろう。

「それより先生、さっきの話だけど」

「さっき? ああ、準備を手伝うかどうかっていう……」

「それは私がクレープを売る模擬店で売り子をやるから今は仕事がないだけ。そうじゃなくて」

 那奈姫は一息で説明すると、頬をぷっくりと膨らませた。さて、他に何を話しただろうか、と千尋は会話を思い返すが、どうにもピンとこない。痺れを切らしたように、那奈姫が口を開いた。

「その、“鳴神さん”って呼び方、どうにかならないの?」

「鳴神さんは鳴神さんでしょう」

「私には那奈姫っていう可愛らしい名前があるんです! しかもさ、二年に兄がいるから、紛らわしいじゃない。私が鳴神さんだったら、お兄ちゃんは――」

「鳴神君。何の問題もないね」

「ああ! お姉ちゃんが欲しかった!」

 那月が聞けば泣きそうなことを叫びながら、那奈姫は頭を抱える。この頭の出来は、将来を考えると少々心配だ。千尋はそう思ったが、微笑ましくもあった。彼女の感情表現は、いつだってストレートで自由だ。言動の裏を読むことが日常の千尋にとっては、眩しささえ感じられた。

「ほら鳴神さん、そろそろ部活に行かないと、九鬼先生に怒られるよ」

「先生のバカ! 今日は電話しないから!」

 那奈姫は鞄を乱暴に掴むと、ばたばたと部屋を出て行った。

 今日は、ということは、明日は電話があるのだろう。言ったからには、忠実にそれを守るはずだ。嘘を嫌う潔癖さが滲む、精一杯の虚勢。やはり眩しいと、千尋は思う。

「万が一手を出したら、免職の前に血を見そうだな」

 脳裏に紗矢や学園長や彼女の兄、さらには夕妃の顔が浮かび、千尋はため息をついた。


 理事長室に夕妃を迎えに行くと、偶然にも、彼女も奇術師姉妹の話題を口にした。夕妃は意外に、マジックやいかにも眉唾ものの怪奇現象などに興味があるようだ。普段、悪魔や鬼の引き起こす超常現象を散々見ているからか、かえって作り物を楽しんでいる節がある。那奈姫に比べるとかなり皮肉な視点だが、夕妃らしいともいえる。

「私も楽しみだわ。あの坊やも、こういう時は役に立つわね」

生徒会長と学園祭の実行委員長を兼任する那月が奔走していたらしいとは、千尋も聞いていた。おかげで、全校生徒からの支持をますます集めたようだ。

「おもしろそうだと思ったから、私も理事会名義でカンパしてあげたのよ」

「それは本来、きちんと会議を開いて決定すべき事項だと思いますが、理事長」

 聞き捨てならない発言を、千尋が咎める。普段ぼんやりと座っているだけの割に、自分の関心が向いたこととなると、妙に手際が鮮やかだ。

「もうお金は渡してしまったのだから、今さら何を言っても遅いわよ」

 夕妃は回転椅子でくるりと回り、したり顔で笑った。

「それで、具体的な話をしましょうってことになったのだけど、どうやらあちらが忙しくて、日光まで出向く時間が無いそうなの。電話だと伝わりづらいこともあるでしょうし、ショーの内容もしっかり練りたいということだから、こちらが東京に行くしかないわ」

 やけに饒舌でまともな発言をする夕妃に、千尋は確信めいた嫌な予感を覚えた。彼女は滑らかに、その先を続ける。

「でも、さすがに生徒一人を送り出すわけにもいかないでしょう。大きなお金が動くことだし、大人がいないとね。だから、今週末、あなたもあの坊やに同行してちょうだい」

 他に適任がいるのでは、と口を開きかけた千尋を制し、夕妃は言う。

「先生方は、部活動の顧問でみなさん忙しいのよ。ほら、スポーツの秋だから、試合も多いのよね。あなたは非常勤だから、仕事が少ないでしょう?」

 一見、もっともな意見だ。しかし千尋はどうも、腑に落ちなかった。

「どうしても、僕に同行させたいように聞こえますが、何か意図が?」

 夕妃は目を細め、にやりと笑った。

「彼女たちのことを調べたら、面白いことがわかったの。いずれ、あなたにも教えてあげるわ」


 夕妃の含みのある発言は気にかかるが、千尋はひとまず、生徒会室に向かっていた。今はそこが、学園祭の実行委員会本部も兼ねている。那月は剣道部も受験勉強もこなしつつ、実行委員たちに指示を飛ばしているはずだ。

 生徒会室のドアの前に立つと、ドア越しに慌ただしい空気が伝わってきた。千尋は軽くノックし、ドアを開ける。振り返った生徒たちが、一斉に千尋を見た。

 部屋の中央に大きなテーブルがあり、数人の生徒が立ったまま囲んでいた。テーブルの奥に、那月が座っている。会議というほどの重々しさはなかったが、那月の指示を仰ぎに来た様子だった。

「中断させてごめん。会長と少し話があるんだけど、時間はあるかな」

 那月に目を向けて問えば、彼は張りつけたような笑顔で応じた。

「わかりました。申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますか?」

 千尋は頷き、部屋の端に移動した。壁にもたれ、再開した話を見守る。ポスターの印刷や掲示に関することのようだ。実行委員らしき生徒たちは熱心に那月の言葉を聞いており、那月は既に、人を従わせるだけの統率力を身につけているように見えた。将来は父親の後を継いで、もしかすると彼よりも牽引力のある、一族のリーダーになるかもしれない。

 千尋がそんなことを考えているうちに、話は終了したようだ。実行委員たちは使命感を帯びた顔で、テーブルを離れた。彼らは礼儀正しく千尋にも一礼し、部屋を出て行った。ドアが閉じる。その瞬間、那月はすっと尖った視線を、千尋に向けた。

「何の用ですか? 見ての通り、僕は忙しいんです」

 先ほどより数段低い声で、那月は凄む。生徒たちが見れば驚く姿だろう。しかし千尋にとっては見慣れたものだった。余計な前置きは不要と、本題を切り出す。

「東京に行く話だけど、俺も一緒に行くことになった。話はとりあえず、それだけだよ」

「うまくごまかして、空出張にできないですか? 御巫先生と二人なんて、考えただけで寒気がします」

 不正には厳しいはずの那月がそんな発言をするということは、よほど嫌なのだろう。しかしそれも、予想されたことだ。答えは用意していた。

「それは理事長に援助を頼んだ君のミスだよ。彼女の介入が嫌なら、別の方面に頼るべきだった。君のお父様とかね」

 それは既に試みたのだと、那月は反論した。浮かない表情から察するに、賛同を得られなかったのだろう。

「父は頭が固いんです。学園祭が華やかになるよう、ちょっとしたイベントを用意しようと思っただけなのに。大体、有名人を呼ぶのが軽薄だなんて感覚、時代遅れですよ」

「頑固さとコンサバのレベルでいうと、君も中々だと思うけど」

 千尋の言葉をさらりと聞き流し、那月は部屋を歩き回りながら喋る。

「僕だって、できれば自分の交渉手腕でどうにかしたかった。でも予算が決まっている以上、割り振れる金額には上限があります。それで仕方なく、理事長に――」

「悪魔に魂を売り渡すとは、まさにこのことだね」

 黙れ、と那月の視線が言っていた。千尋は軽く肩をすくめる。

「でも意外だな。君は芸能人に興味なんてないと思っていたけど」

「僕個人ではなく、そういうのを期待している生徒もいる、という話です」

「例えば、君の妹とか?」

 二人だけの部屋に、沈黙が落ちる。那月の盛大な舌打ちが部屋に響いた。

「……ご存じなら、回りくどい言い方はやめてくださいませんか?」

「つまり、学園祭実行委員長殿は、妹のために職権を濫用したわけだ」

「ええ、そうですよ! いいじゃないですか、他の生徒だって喜ぶし、那奈姫は『さすがお兄ちゃん!』って――」

「言ってくれたの?」

「……その、予定です」

 なんだか那月が憐れに見え、少々意地悪だったかと千尋は反省した。

「君の愛情は、いつか鳴神さんもわかると思うよ。たとえ、妹の携帯の通話履歴を見るような変態でも――」

「な、那奈姫のやつ、そんなことまで! っていうか、僕は変態じゃない!」

 どうやら、一言多かったようだ。感情的になりやすい点が玉に瑕、と千尋は心の中で呟く。それはともかく、夕妃が姉妹に興味を持った理由については、那月も知らないようだ。実際に会ってみるしかないか、と結論づける。

「じゃあ、特急のチケットは取っておくから。また連絡するよ」

 怒っている最中だというのに、那月は反射的に礼を言い、そんな自分を嫌悪するように顔を歪めた。

「妹思いの、いいお兄さんね」

 那月のことを千尋から聞き、夕妃は楽しそうにくすくすと笑った。明らかに、小馬鹿にしている。

「どうりで、いじめると面白かったわけだわ」

 夕妃はその時のことを思い出し、意地の悪い笑みを浮かべた。傍らで千尋が、呆れ顔で息をついた。

 砂利道を進む車は、不規則に揺れた。時折、小石が車体に当たり、ぱらぱらと鳴る。有名ないろは坂に比べればその距離は短いが、きついカーブと傾斜が続く。坂の中腹で、車は地元の人間すら滅多に通らない細道に分け入った。もうすぐ、到着だ。

 千尋の視線を感じ、夕妃も横目で彼の表情を窺った。自分の機嫌を確認しているのだろう、と夕妃は見当をつける。“礼拝”の日は、機嫌の悪いことが多い。不快な人間の相手をしなければならないと考えると、憂鬱になり、周囲に当たり散らすことも間々あったからだ。今日は、特に良くも悪くもない。

ほどなくして、停車と共に、桜沢が到着を告げた。

時刻は午後七時。車を降り立った二人の前には、レンガ造りの聖堂がそびえていた。左右の灯りに、門扉が照らされている。

飾り気のない、ひっそりとした佇まいだ。完全なシンメトリーを辿って上に目を向ければ、尖塔の先の十字架は夜の闇に溶け、その下の明かり取りの細長い窓だけが、浮き上がって見える。内側から、明かりが漏れているのだ。

明治の頃に建てられたこの聖堂は、フィンランドのトゥルク大聖堂をモチーフにしているらしい。大きさに関して言えば本物に遠く及ばないが、内部も含め、細かく再現されている。門の横に立つ札には、その建築技法に加え、重要文化財に指定された旨が書かれていた。普段は立ち入り禁止だが、代々市役所に勤める夕族の人間が便宜を図り、月に一度の使用が認められている。

門の横には立札の他に、ご機嫌伺いのため夕妃を待つ者たちが並んでいた。全員が礼服を着、髪を七対三に撫でつけ、満面の笑みを浮かべているからか、同じ人間のように見える。声音や言葉まで似通っているのだから、本当に見分けがつかない。夕妃は元より彼らの名も顔も覚える気はないが、仮に覚えようとしてもこれは難しいと思う。

「化けるのが下手な狐が並んでいるみたいだわ」

「お歳暮に、油揚げでも差し上げたらいかがでしょう」

 彼らの傍らを通り抜けながら千尋に囁くと、なかなか気の利いた答えが返ってきた。

 聖堂の扉を抜けると長椅子の並ぶ広い空間――身廊が広がり、最奥に置かれた祭壇まで見通すことができる。振り仰げばアーチ型の石造り天井は遥か上方にあり、空間をさらに押し広げていた。

立札の解説によれば、古代ローマから用いられていた、バシリカ式という建築様式らしい。カトリックの教会堂でみられる構造だ。真上から見ると長方形をしており、短辺の一方が入り口、もう一方に祭壇がある。身廊の両側には側廊と呼ばれる通路が平行に伸び、円柱とアーチが連なった構造で区切られていた。どこもかしこも、一部の隙もなく組み上げられている。

 身廊の長椅子には、既に参加者の姿があった。厳格な指定はないが、現当主である夕妃に血筋の近い家が前に、遠くなるほど後ろに座っている。

閖根や見知った顔の生徒など、学園の関係者もちらほら見受けられた。千尋は知り合いと目礼を交わしたが、夕妃は彼らを一瞥することなく、祭壇の前に置かれた椅子に向かって足早に歩を進めた。

「どうしてこうもだだっ広い空間を会合の場所に選んだのかしら」

歩きながら、夕妃は不満を漏らす。精巧な建築も荘厳なアーケードも、夕妃の興味を引くものではない。

「そもそも、キリスト教を信仰しているわけでもないのに」

「眞族に劣らない場所をということで、こちらになったと聞いています。一族のみなさんは派手好きで負けず嫌いの方が多いですから」

「馬鹿馬鹿しい。日光という土地柄で張り合うなんて。あちらは、立派な上にきちんと所縁のある神社を使っているのよ。西洋文化を強調したいなら、明治の館で会食の方が何倍もいいわ」

 眞族が集う場所は、東照宮に家康公が祭られて以降、徳川家の庇護下にあった、煌びやかな社だと聞いている。こと歴史の長さに関しては、移民である夕族の分が悪かった。

 確かに、聖堂の造形は素晴らしい。だが夕族には、クリスチャンはごく少数しかいなかった。その理由は、キリスト教の教義が、悪魔を完全な悪としているからだ。悪の権化たる悪魔と契約した人間は重大な罪を犯していることになり、その時点で教えに背いている。とはいえ、一族の人間として、悪魔から何らかの力を得て貢献しなければ、それはそれで肩身が狭い。このジレンマの結果、夕族には無宗教の人間が多かった。

 そのため、ふざけて礼拝と通称されるこの会合でも、特に祈りをささげる時間は設けられていない。夕妃自身、災いは自らの力で退けることを信条にしているため、神に祈る行為が必要とは思えなかった。

夕妃は専用の肘掛け付きの椅子に腰を下ろし、千尋は最前列の長椅子に座った。横で控えていた中年の男が立ち上がり、よく通る声で呼びかける。

「皆様、ご静粛にお願いいたします。定刻となりましたので、定例会を始めたいと思います」

 地元局のアナウンサーを務めるこの男が、毎回司会役を担っていた。“礼拝”の正式名称は、彼の言った定例会である。司会は手元のメモを片手に、淡々と進行する。叡祥学園に寄付した者への礼や、近隣の病院に関する情報、果ては慰安旅行の日程まで、町内会のように平和な連絡事項が続いた。

「えー、続いて、次回の市議会議員選挙ですが、我が夕族の代表として来期も出馬なされる――」

「もういいわ」

 頬杖をついた夕妃が言い、聖堂内は水を打ったように静まり返った。

「そんなことより、もっと面白い話はないの?」

 夕妃の上目づかいに動揺しながら、司会がメモに目を落とす。

「ええ、そうですね……。その、先日ですが、一人、蒸発といいますか……」

「脱走、でしょう? 禁を犯したのね」

夕妃は不気味に口の端を上げる。その表情を間近で見た司会役は、まるで自分が非難されているかのように身を縮めた。

 ひそひそと言葉を交わす声が、夕妃のところまで聞こえてくる。始まった、魔女裁判だ、と囁き合っている。魔女を裁くのではなく、魔女――夕妃が裁くことから、そう呼ばれているのだろう。

「脱走者は生かしておけないわ。きちんと調べたの?」

「ええ、まだ掴めていないようですが……。しかし、何も殺すことは」

「無断で日光を出ないこと。私たちはその条件を飲んで、この地である程度自由な生活を送っている。脱走を許せば、国との約束を反故にすることになり、夕族全体に行動の規制がかかるかもしれないわ。どうかしら、私は何か間違っている?」

 気圧されたように、司会者が押し黙った。間違ってはいない。だが脱走者を殺す必要があるのかという点の答えにはなっていない。しかしそれを指摘できるほどの胆力は、この男にはなかった。

「脱走者の親族や友人を厳しく追及なさい。庇ったりしたら、同罪よ。いいわね?」

 夕妃は聖堂全体に視線を巡らせ、反論を許さない問いを投げた。目が合わぬよう、出席者は慌てて顔を伏せる。呼吸の音すら聞こえない静寂が満ちた。

 恐怖の象徴。歴代の当主は行わなかったこの裁きこそが、彼女をそのような存在足らしめている。夕族は元来、実力主義で、自己主張の激しい者が多く集っている。それが形だけでも一つにまとまっているのは、夕妃が恐れられているからだ。

「他に、“面白い話”は?」

 問われた司会者は、声の出し方を忘れてしまったかのように、ぎこちなく首を振った。初めの朗々と響いた声は跡形もなく、掠れた声で、彼は会の終了を告げた。

 出席者たちが、逃げるように席を立ち、聖堂を出て行く。夕妃はその人波を見るともなしに眺めていた。すると、その流れに逆らうように、こちらにやって来る者がある。あえて立ち上がることはせず、夕妃はその人物が近づいてくるのを待っていた。目配せする前に、千尋が彼女の横に立つ。

「お疲れさまでした、夕妃様。少し、よろしいですかな」

「手短にすませていただけるなら結構よ――伯父さま」

 夕妃は伯父である神々みわ洸史こうしを見上げ、微笑んだ。彼は夕妃の父の、兄にあたる。三十代で起業して成功をおさめ、現在は市議会議員を務める「先生」である。背後にはスーツを着込んだ取り巻きを数人、従えていた。

 しかしかつては、実の弟と当主の座を争い、敗北した男だ。彼は同時に、夕妃の母夕華をも弟と奪い合ったが、こちらも弟の勝利に終わった。そして弟が死に、ついに自分が当主をと声を上げたが、今度は夕妃の圧倒的な力の前に、退かざるを得なかった。夕妃がコンプレックスの塊と揶揄するその男は、母に生き写しの夕妃を、憎悪と欲望の混じった目で見下ろしている。

「この前の水族館でのご活躍、拝聴しました。さすがは当主を務められるお方です」

「それはどうもありがとう」

「いかがでしょう、このあたりで、感染者の取り締まりに専念されては」

「それはつまり、当主や学園の理事長の座を譲れ、ということかしら?」

 露骨な問いかけに、洸史は場違いに陽気な声を上げ笑った。彼だけでなく、取り巻きたちも一緒になって笑い声を響かせる。

「いやいや、私のことは良いのです。夕妃様がお忙しくてお疲れなのでは、と思いましてね」

「あら、それは失礼。でも、ご心配には及びませんわ。私はまだまだ、若いですもの」

 還暦を迎えた洸史に対する、棘を含んだ言葉だった。さすがにこれには、洸史も背後の取り巻きも、鼻白んだ様子だ。

「伯父様の方こそ、選挙の前でお忙しそうですわね。こんなところで油を売っていて、よろしいの?」

 洸史はなんとか怒りの表情を押し殺し、口を開いた。

「お気遣い、痛み入ります。では、失礼」

 大股で歩み去っていく洸史を、取り巻きが慌てて追う。小物ね、と呟いた夕妃の声も、届かなかったようだ。

「それになあに、あの人相の悪い腰巾着たち。伯父様ったら、服だけでなく人を選ぶセンスもないのね」

 確かに、彼の服装は、かなり風変りだった。袴姿に、アーガイル柄のカーディガンをはおり、ベレー帽をかぶっている。本人は和と洋を融合させた洒落者を気取っているようだが、目にした者が思わず振り返るほどの異様さを醸し出していた。

「服装の件はともかく、取り巻きの一部には、反社会団体の方がいましたね」

 より直接的な言葉を用いれば、暴力団だ。

「よく知っているわね。調べたの?」

 珍しく感心する素振りを見せた夕妃に、千尋は頷いた。

「洸史様は、当主の座をあらゆる手を使って手に入れようとなさっていますからね。用心するに越したことはありません。夕妃様を狙ったとばっちりで、僕まで怪我をするのはごめんです」

「最後の一言は、聞かなかったことにしてあげるわ」

 夕妃はため息をつき、奇妙な出で立ちの伯父の背中を見やった。父には全く似ていない。父のことは好きではなかったが、それ以上に伯父は好きになれそうにない。

「伯父様は一体、何がしたいの? 政治家になって、暴力団と関係をもって、そんな力が何になるのかしら」

「おそらく、夕妃様に対抗しようとあらゆる方向に手を伸ばして、ああなってしまったのではないでしょうか」

 財力、権力、名声……。とにかく夕妃を出し抜く力を得ることが、彼にとって一縷の望みなのだろう。姪になす術もないと認めることは、プライドが許さないのだ。

 聖堂内にはまだ、ちらほらと話し込む人影が見られたが、出席者の大半は外に出たようだ。千尋は夕妃を振り返り、右手を差し出した。

「我々も、帰りましょうか」

 その手を見つめ、少し考えてから、夕妃は彼の手を取った。

「何か?」

 わずかな間を見逃さず、千尋が尋ねる。

「いいえ、私の周りは敵だらけだと思って」

「全て、目論見通りのことでしょう?」

「あら、それはどういう意味かしら?」

「……脱走者を本当に殺すつもりはないのでしょう?」

 千尋は押し黙った夕妃の手を引いた。夕妃が立ち上がったことを確認すると、夕妃を待たずに踵を返す。夕妃はわざと少しの間隔を空け、その背中を追った。内心の動揺を隠すには、時間が必要だった。

 彼には夕妃が虚勢を張っているように見えるのだろうか。あえて、冷酷に振る舞っているように。そうだとしたら、問題だ。

 開け放たれたドアの手前で、千尋が足を止めた。追いついた夕妃は、雨が降っていることに気づいた。絹糸のような雨が、夜の闇に垂れている。

「ここでお待ちください。車に戻って傘を――」

 雨の中足を踏み出そうとした千尋の袖を、夕妃が引いた。

「いいわ。ねえ、それよりあれを見て」

 夕妃は上空を指差し、自身も夜空を見上げた。

「月が、出ている。夜のお天気雨も、狐の嫁入りというのかしら。満月の下で降る雨なんて、素敵だわ」

 そう言いながら、夕妃は軒先から出た。冷たい雨が、頬を滑り、手を濡らす。ブーツの踵が、泥を含んだ砂利を押しつぶし、くぐもった音を立てる。何だか愉快だ。

不意に、すぐ近くで千尋の呆れ混じりのため息と、衣擦れの音が聞こえた。

「濡れると冷えますよ。早く戻りましょう」

 肩に、布がふわりと掛けられる。すぐに、千尋のジャケットだとわかった。彼の手は冷たかったが、ジャケットは存外に温もりがあった。

上辺だけの優しさにも、温もりは宿るものだろうか。胸を突く痛みが走ったような気がして、夕妃はジャケットの前を掻き合せた。


 早朝の特急の中、那月はあくびをかみ殺した。東京に到着後、奇術師の菅原姉妹との打ち合わせを行うことになっている。当然交通費は出るが、さすがに宿泊はできず、早朝出発の強行日程であった。アラームを止めた時刻は、日の出る前。家族と紗矢以外には知られていないが、彼は朝があまり得意ではない。生徒会長として遅刻はできないという意地で、毎日なんとか起床していた。

 ――まあ、泊まるのも気まずいし、日帰りの方がいいか。

隣席の人物にちらりと目をやり、那月は心の中で呟く。

 同行者である非常勤講師、御巫千尋は、文庫本に目を落としていた。時折ページを捲る音を立てる以外は、いたって静かで、電車の走行音の方がうるさいくらいだ。

 なぜ、よりによって彼なのか。那月は声に出さず、窓に向かって悪態をつく。

「まだ時間があるから、寝てたら?」

 那月が振り向くと、御巫は文字を追う姿勢のまま、彼に言った。あくびを見られていたのだろうか。苦々しく感じ、思わず舌打ちをするが、現実は想像よりも悪かった。

「君、早起き苦手なんでしょう?」

「那奈姫の奴……!」

 ここから鬼を送って悪戯をしてやろうか、と思うくらいには、那月は怒りを覚えた。おそらくはまだ眠っているだろう妹の顏に落書きでもと考え、想像し、その可愛さにしばし浸る。気づけば那月の顔は完全に緩んでおり、冷めた目で御巫が彼を見ていた。

 取り繕おうと口を開きかけた那月だったが、その前に御巫の携帯電話が鳴り、それは叶わなかった。

 御巫は相手の話に相槌を打ちつつ、指示を出している。夕妃様、という言葉が聞こえたので、彼女に困った使用人が助けを求めたといったところだろうか。電話を切った彼に、那月は言う。

「先生、よくあんな人と同じ家に暮らせますよね。僕だったら、頼まれても拒否しますよ」

「どうして?」

 御巫は心もち首を傾げ、那月を見ていた。眼鏡の奥の瞳はガラス球のように無機質で、感情が読めない。本当に理由がわからず尋ねているようにも、わかっているがあえて聞いているようにも見える。どちらだとしても答えは変わらないと、那月は口を開いた。

「言動が普通じゃないからですよ。感染者を楽しんで殺すなんて、正気の沙汰じゃない。むしろ感染者よりサイコパスの度合いが高いんじゃないですか? それなのにあれだけの力を……彼女は危険すぎます。夕族の人間ですら、あの人を恐れているそうじゃないですか」

 予想外に、御巫は那月がまくし立てる言葉を肯定した。

「そのとおり。夕妃様は危ない。君が言うように、破壊行為が生きがいで、わがままで気分屋で、非常に扱いづらい」

「いや、そこまでは言ってませんけど」

 並べられた暴言に那月は面食らうが、御巫の方は普段通りの涼しい顔で淡々と言う。

「でもだからこそ、個人主義者たちが結束を維持できている。彼女の怒りを買ってはいけないという、共通認識によって」

「要は怖がって縮こまっているだけじゃないですか」

「それでも、彼女が一族をまとめている事実に変わりはない」

「必要悪ってやつですか」

 那月としては精一杯の嫌味だったが、御巫の顔は相変わらずの無表情だった。なんとかそれを崩してやりたくなり、那月は口を開く。

「でも、いいんですか、僕にそんなことを話しても。彼女がいなければ夕族が揺らぐという事実を、あなたは肯定した。弱点をさらしたも同然ですよ」

 御巫は興味深そうに那月を見たが、那月が期待したような動揺は見受けられなかった。

「頭のいい君なら、とっくに気づいているものと思っていたけれど」

「……ええ、当然です。口にしなかっただけですよ」

 まったく、面白くない。那月はシートに沈み、目を閉じて寝たふりを決め込んだ。


 特急が新宿駅に到着し、これから待ち合わせ場所に移動という段で、再び御巫の電話に着信があった。今度は使用人ではなく、菅原姉妹のマネージャーからだった。何となく嫌な予感を覚え、御巫の受け答えに耳を澄ませる。

「明日……ですか?」

 ちらりと那月を見やり、彼は相手に尋ねた。二、三言葉を交わし、了承と取れる返事の後、御巫は電話を切った。

「何かあったんですか?」

「今日は急な予定が入って、どうしても都合がつかないって」

「じゃあ、打ち合わせはどうなるんです?」

「明日の午前中。君は帰ってもいいけど、どうする?」

 自分はどこかに泊まるつもりだと、御巫は言った。

打ち合わせに出るならば今日一日を無駄にすることになるが、このまま帰っても、わざわざ東京まで出てきたことが無駄になってしまう。結局、那月も明日まで残ると答えた。

「こんなことなら、新宿行じゃなくて押上行に乗れば良かったな」

 いつの間にか、御巫の手には文庫本ではなく、ガイドブックがあった。

「どうしたんですか、それ」

「広瀬先生が、せっかくなら観光もしたらどうかって貸してくれたんだよ。それで、ここに載ってるスカイツリー饅頭を買ってきてほしいって」

「そっちが本題ですね、明らかに」

 御巫も頷いて同意した。養護教諭の広瀬は眞族側の家系だが、中立の立場をとっている。そのせいか日和見主義に近い印象が彼女にはあり、那月は少々苦手だった。今回だって、土産が欲しいのなら眞族である自分に頼むのが筋ではないのか、と考えてしまう。

「よし、じゃあ行こうか」

 那月が考え事をしているうちに、御巫はガイドブックをしまい、改札口に向かおうとしていた。どうやら、那月も一緒に来るものと考えているらしい。

「僕はいいですよ、観光なんて。遊びに来たわけでもないのに」

 勉強道具は、一応持っている。どこかのカフェで問題集でも解こうと思っていた。

「え、せっかく来たのに、スカイツリーに上ったり、東京タワーに上ったりしないの?」

「上りません! なんでそんなに高いところが好きなんですか。馬鹿ですか?」

「じゃあ、浅草で人力車に乗ったり――」

「しません!」

 つまらない、と御巫が呟いた声が聞こえたが、那月はため息で返した。何が悲しくて、天敵とのどかに観光なんてしなければならないのか。

「それに、那奈姫から、先生は東京育ちだって聞きましたけど。スカイツリーはともかく、他は今さら見る必要ないじゃないですか」

「確かに高校までは東京だったけど。……でも、妹さんもお土産があったら喜ぶんじゃないかな」

 那月にとっては魔法に等しい言葉を、御巫が唱える。効果はてき面であった。

「まあ、そういうことなら。那奈姫がお土産で先生に釣られるのも、兄としては気分良くありませんからね」

「そうだよ、せっかくだから、楽しんだ方がいい。『檻』の中から出て自由に動ける機会なんて、そうないよ」

 突然の核心を突く言葉に、那月は思わず息をつめた。

 「異才ことざえ」の一族は、一見自由に暮らしているが、実はそうではない。日光を出るには届け出が必要で、住居を外に構えるには審査が行われる。場合によっては監視が付くとも聞いていた。すべては“一般人”を守り、社会の秩序を保つため。自分たちが動けば「鬼」や「悪魔」も付いて回り、PPV感染者が凶悪な武器を手に入れてしまう。悪魔や鬼と契約した感染者が日光近辺に留まっているのも、その規則が徹底されているからだ。

かつて那月の父祖が、山々に結界を張り、鬼たちを日光に封じ込めた。結界の管理は眞族に脈々と受け継がれ、現代にもその任に就く者がいる。人と契約を交わした鬼や悪魔以外に、これまでにあの結界を出た悪しきモノはいないはずだ。

仕方のないこと、と理解はしている。それでも、ふとした瞬間に窮屈さを自覚することがある。今回の場合、明らかに御巫がきっかけだが。

「方向は同じですけど、別行動にしましょう」

 無神経な教師だ。那月は相変わらず無表情の御巫を睨みつけ、そう宣言した。


那月は隅田川沿いの土手を、ひとり歩いていた。かろうじて流れているのがわかるほどの、ゆったりと幅の広い川が続いている。

スカイツリーは見上げただけで上る気にはなれず、人ごみも嫌いな那月は、気づけば寂れた家や店が林立する一角に足を踏み入れていた。といっても、一本隣の表通りに出れば近代的なビルが建ち、交通量も多い都会だ。古い街並みと新しい街並みが隣り合わせに、しかし決して混ざり合わずにいる。その不思議な構造が気になり歩いてきたら、いつの間にか隅田川に出ていた。橋を渡れば、その先は浅草だ。

 川を見下ろし、那月はコンクリートの手すりに肘をついた。犬を連れた老婆やジョギング中の若い女性、ベビーカーを押す夫婦が、那月の前を過ぎていく。

 赤ん坊と夫婦連れに、しばし意識を向ける。那月にも、あんな風に両親と過ごした時期があった。記憶は本当におぼろげで、思い出す母の顔は、写真を見て補完されたものかもしれない。でも確かに、その時母は生きて、那月を抱いたり、ミルクを与えたりしていたはずだ。

 淋しいか、と問われれば、そうでもなかったと那月は思う。母を失った悲しみは、幼すぎて理解できなかった。物心ついた時は、傍らに紗矢がいた。鳴神の家は人の出入りが多く、いつもざわざわとしていた。那奈姫は母のことを全く覚えていないから、母親のいる家庭に憧れがあると言っていたが、那月にはそれもない。父がいれば、十分だと思っていた。遊んでもらった記憶は数回しかないが、父が人から敬われる偉大な存在であることが那月の誇りであり、そのために多忙であるなら不満はなかった。

 那月は古い住宅が残る狭い路地を思いつくままに進んだ。大きな煙突の銭湯やトタン屋根の家の前を通り、押上方面へと戻る。人とすれ違うことはなく、大通りを走る車の音が聞こえてくるほどに静かだ。

 スカイツリーの下に広がるショッピングモールには、辟易するほどたくさんの人が吸い込まれていく。那月は思い立って、商店街の方に足を向けた。テレビの特集か何かで、昔ながらの商店街が付近にあることは知っていた。スカイツリーの建設で活性化が期待されたが、併せて開業したショッピングモールに客を奪われ、あまり状況は変わらなかったらしい。まるで眞族と夕族の関係のようだ。伝統の一族と、その縄張りを踏み荒らす新興勢力。自分があの世界一高いテレビ塔を好きになれないのは、そのせいかもしれない。

 小さな橋を渡ると、商店街が見えてきた。ちらほら人影はあるが、混雑には程遠い。那月は左右に目をやりながらゆっくりと、商店の間を歩いた。

 背の低いビルや、年季の入った食品サンプルを置く定食屋。ブティックと呼びたくなる、洋品店。小奇麗なカフェが、そこだけ現代的で目を引く。何を買うというわけでもないが、眺めているだけでも、不思議と落ち着くような空気が漂っていた。

 いつもなら嫌でも目に入る、鬼や悪魔の姿がないのだ。しばらく歩いて、那月はそのことに気づいた。あれがいない世界はこんなにも、穏やかだったのか。感動すら覚えて、那月は辺りを見回した。

 高校生くらいに見えるグループとも、すれ違った。部活動の帰りだろうか、ジャージを着ていたり、テニスバッグを背負っていたりする彼らは、大きな声で喋り、笑っていた。あのような開けっ広げな笑顔は、叡祥学園ではあまり見かけない。「異才」を持つ生徒は全体の二割程度のはずだが、彼らや教員たちが知らず影響を与え、生徒たちを抑圧しているのかもしれない。

 その女子高生の三人連れも、傍目には何の変哲もなかった。

 しかし那月は、強烈な違和感を覚えた。健康的に焼けた、スポーツ少女たち。二人が並んで歩き、一人がその後ろをついていく。彼女たちは一様に笑顔だったが、よく観察すればその質は異なっていた。前の二人はにやにやと、後ろの一人はひきつっている。

 それに、後ろの一人の荷物は、不自然に多かった。対して、残り二人はほとんど手ぶらだ。

 いじめ、だろうか。那月は目撃してしまったことを後悔した。胸が悪いが、自分がどうにかできることでもない。顔を背け、やり過ごそうとした。

 押しつけられた荷物を重そうに抱え、俯いて歩く女子高生と、すれ違う。何気なく、彼女の手元を見た時、有り得ないものが、那月の視界に入った。言葉で認識するよりも早く、頭に危険信号が灯り、那月は思わず彼女の持つバッグの一つを引いていた。

 バランスを崩した女子高生は、荷物に振り回される形で横向きに倒れた。持っていた他のバッグが、音を立てて落ちる。物音に気づいた前を歩く二人が、振り返って口々に文句を言った。

「ちょっとサオリ、私のカバン汚さないでよ」

「あんたが持つって言ったんでしょ」

 威圧することに慣れた口調だった。嫌な気分を押し殺し、那月は愛想笑いを浮かべて割って入る。

「すいません、僕がぶつかっちゃったんです」

 二人に向かって言うと、彼女たちは顔を見合わせ、無言で何かを伝えあった。再び那月を見た彼女たちは、先ほどとうって変わった鼻にかかった声で言った。

「気にしないでください、この子普段からぼーっとしてるから」

「そうそう。ところでその制服ってどこの学校? この辺じゃないよね。修学旅行?」

 あまりの変わり身の早さに、那月は恐怖に近い感情を覚えた。ついさっきまで残酷な言葉を投げておいて、どうしてこうも自然に健全なふりができるのだろう。那月は曖昧な返事をし、まだ座り込んだままのサオリと呼ばれた少女の前に膝をついた。耳元で、そっと囁く。

「それ、早くしまった方がいい」

 サオリははっとした顔で、那月を見た。とっさに動いた彼女の右手を、那月は制服のポケットの上から押さえる。右手はポケットの中で、ナイフを握っているはずだ。那月がすれ違おうとした時、それは二人の少女の背中に向けられていた。表情は見えなかったが、本気で刺そうという気迫を、那月は敏感に察知していた。

 那月は散らばったバッグの一つを担ぎ、サオリに手を差し出した。縋るように、潤んだ目で見上げた彼女は、しかし次の瞬間に、ふっと無表情になった。

「え……?」

 ぱしん、と乾いた音が響き、那月は自分の手が振り払われたことに気づいた。戸惑いに追い打ちをかけるように、彼女は憎しみの籠った目で那月を睨んだ。

「邪魔をするな……!」

 背後で、ひきつった悲鳴が聞こえた。二人のうちどちらかの声だろう。サオリの右手にはしっかりと、折り畳み式のナイフが握られていた。

 ――感染者。

 確かな証拠はない。しかし、激情を見せる割に何も映していないような目は、これまで見た感染者の表情に似ていた。この状態になると、感染者は己の欲望を最優先に行動する。異才たちの言い方では、「閫」を越えた段階だ。そして彼女の望みはおそらく、自分をいじめていた二人を、刺す、あるいは殺すこと。

「逃げて! 早く!」

 弾かれたように、二人は駆け出した。躓き、手をつきながらも、必死で。騒ぎに、商店の従業員たちが、顔を出す。人通りが少ないとはいえ、徐々に異変に気づいた者たちが集まってくる。首を動かしてその様子を見ていたサオリは、くるりと踵を返した。

「待て!」

 サオリはバッグを全て投げ出し、那月に背を向けて走り出した。一直線に続く商店街を、全速力で駆け抜ける。すれ違う人たちが、驚いたような顔で道を開けた。その後を、那月も追う。

 商店街が終わり、正面に大通りが見えてきた。横断歩道はあるが、信号は赤。車通りも多く、さすがに合間を縫って渡ることもできないようだ。追いつける。那月はスピードを上げ、焦りを滲ませて辺りを見回すサオリに近づく。息を整えながら、那月は声をかけた。

「大丈夫、何もしないよ。ただ、危ないからナイフを――」

 渡してほしいと言い終える前に、サオリは右手を振りかぶった。ナイフが、那月目がけて飛んでくる。

「この……っ」

 那月の前方に熱風が膨れ上がり、ナイフが勢いを削がれて地面に落ちた。サオリは驚愕に目を見開く。那月ではなく、那月の背後にあるモノを目にして。

 鬼の名は、火鬼。古くは天智天皇の御世に反乱を起こした藤原千方が操ったという、「四性の鬼」の一体だ。「太平記」に、その出来事が綴られている。元は紗矢が、「鬼使い千方」と同様に四体と契約を交わしていたが、那月がそのうちの一体を譲り受けていた。炎に包まれた、尾の長い鳥の姿。羽ばたきひとつで熱風を巻き起こし、その鋭い嘴からは炎を吐く。

 悔しそうな表情で後ずさったサオリは、近くのビルに逃げ込んだ。いくつかの事業所が入った、古ぼけた雑居ビルだ。サオリはコンクリートの外階段を駆けあがっていく。階数表示を見れば、三階建。鬼ごっこはそう長く続かないだろう。那月はサオリの背中を追って、彼女が三階の更に上、屋上のドアを開ける背中をしっかりと確認した。

 軋んだ音を立て、重そうなドアが那月の前で閉じる。ドアを押し開けようとしたが、サオリが反対側から押しているせいでびくともしない。女子高生の力にしては、あまりにも強い。おそらくはウイルスが大脳抑制を外し、筋力にぎりぎりまで負担をかけ、力を出しているのだ。

 那月は深呼吸し、ドアの前に手をかざした。再び鬼の姿が現れる。火鬼は嘴をぱっくりと開け、咆哮と共に炎を吐き出した。金属のドアが、にわかに炎に包まれる。

 ドアの向こうで、悲鳴が上がった。触れていたドアが熱くなり、彼女は手を放したはずだ。那月はまだ熱の残るドアに体当たりした。今度は抵抗なく、ドアが開いた。

 霞がかかったような、都会らしい薄味の青空が、頭上に広がっている。その下に、似たような構造のビルがいくつか見えた。この屋上も、その中の一つだ。コンクリートがむき出しの地面と、錆の浮いたフェンス。唯一異質なのは、怒りに髪を逆立たせている、女子高生。のどかな風景を背景に、彼女は殺気を撒き散らしていた。

 那月は冷静にと自分に言い聞かせ、サオリを観察する。凶器はあのナイフだけらしく、手には何もなかった。慎重に、一歩、足を踏み出す。

「来ないで!」

 サオリは素早い動きで屋上の端に駆け寄った。そのままフェンスに飛びつき、足をかける。彼女の目は、隣のビルの屋上を見ていた。まさか、そこから跳んで逃げる気だろうか。

 捕まえなければ。しかし炎で怪我をさせるわけにもいかない。そんなことをすれば、感染者を容赦なく殺す夕族の人間と同類になってしまう。

 逡巡する那月の前で、サオリは蜘蛛のようにフェンスに張り付き、よじ登っている。

 その時、強い風が屋上に吹き付けた。思わず腕で顔を覆った那月の前で、フェンスがぐらりと傾いた。老朽化したフェンスが、根元の留め金部分から外れる。

「危ない!」

 那月は考えるより先に、走り出していた。フェンスと共に屋上から投げ出されそうになっていたサオリの手を、掴む。彼女がしがみついていたフェンスはかろうじて屋上と繋がっているものの、だらりと下の階にまで垂れていた。

 人一人の体重が、那月の腕を引く。油断すれば、身体ごと持って行かれそうだ。掴んだ手に力を込め、歯を食いしばる。右手一本でぶら下がっているサオリと、目が合った。怒りに満ちていたはずの目は、弱々しく那月を見上げている。掠れた声で、彼女は言った。

「お願い、助けて……」

 那月は無理に笑顔を見せ、頷いた。

「大丈夫だよ、今引き上げるから」

 息を止め、一気に屋上の内側に引っ張る。コンクリートで手足を擦りむくかもしれなかったが、気にする余裕はなかった。やがてサオリの肘が屋上の縁に掛かり、上半身がぐっと持ち上がった。ようやく足がかかり、サオリはぺたんと屋上の縁に座り込む。放心したような表情で、荒く息をしていた。那月もいつの間にか息が切れていたが、気分は晴れ晴れとしていた。

「良かった、助かって」

 那月は一旦離した手を、再び差し出した。サオリはにっこりと笑い、その手を掴んで立ち上がる。

「ありがとう」

 笑顔を浮かべたまま、サオリは両手で那月の手を掴み、次の瞬間、思い切り振り回した。あまりに突然のことで、声を上げる間もなかった。遠心力に従い、那月は彼女と入れ替わるように、屋上の外――何もない空間へ、投げ出される。

 騙された。気づいた時には、サオリの手は離れ、那月は完全に宙に浮いていた。スローモーションになった世界の中で、サオリが笑っている。口が裂けそうなくらいの、狂った笑顔。

「あははははは!」

 空が見えた。だらけて広がったような、平たい雲。これが最後の風景かと思うと、情けなくて涙も出ず、那月は目を閉じた。スローモーションが解け、落下の感覚に内臓が揺さぶられる。

 そのまま落ちていくはずだった体は、唐突に何かにぶつかり、落下が止まった。地面に落ちたにしては、衝撃が軽い。那月は思わず目を開けた。

「これは……?」

 留め具が外れて一方の端が垂れ下がっていたはずのフェンスが、那月の身体を包み込んでいた。さっきまで、こんな形ではなく、人の体を支えるほどの強度もなかった。明らかに、不自然だ。まるで、何者かの意思を受けたように。

屋上を見上げ、目に入った光景に、那月は舌打ちした。フェンスに片手をかけ、御巫がこちらを見下ろしている。その背後に、中世の甲冑を纏う騎士。悪魔の姿だ。

「感染者の、女の子は」

 格好のつかない態勢のまま、那月は声を絞り出した。

「ここに」

 サオリは地面に伏していた。気を失っているだけのようだ。

「いつものように、殺さないんですか?」

 憎まれ口を叩いてみるが、御巫は涼しい顔で受け流す。

「君が、命を懸けてまで助けようとしたみたいだから」

 何を言っても惨めになるだけだと気づいた那月は、大人しく口を噤んだ。


「先生はどうして、あそこにいたんですか?」

 那月がようやくその話題を持ち出したのは、夜も更け、そろそろ就寝しようという時刻だった。

 PPV感染者の発見は紗矢を通じて防衛省の担当者に伝えられ、救急車で専門の病院に運ばれていった。那月も詳しくは知らないが、眞族が維持するホスピスのような施設だと聞いている。おそらく、二度と外には出られない。しかし夕族がするように、苦しみを与えて殺すことはない。彼女も、人としての尊厳を保って生活できるだろう。

 結果的に那月の手柄になったが、もちろん手放しで喜べはしなかった。むしろ、自分の思慮の浅さを痛感し、忸怩たる思いが胸中を吹き荒れていた。父の早瀬にも、明日帰るまでは御巫と一緒に行動しろと命じられる始末だ。自分の中で今日の出来事を消化するまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。

「押上駅の方からぶらぶら散歩してたら、君の『火鬼』の炎が見えたから。まさかビルの屋上からダイブしているとは思わなかったけど」

 穴があれば入りたいが、ビジネスホテルの一室に隠れる場所はなく、那月は拳を握ってその衝動に耐えた。

 内心では自分のことを馬鹿にしているだろう。そう思いながら、那月は御巫の横顔を窺う。彼はベッドサイドのライトを点けて、また本を読んでいた。電気を消せばいつでも寝られる態勢である。

「……何?」

 視線を感じたのか、御巫が目だけ動かし、那月を見た。

「いえ、今日の朝は、まさかこんなことになると思っていなかったので、不思議だなあと」

 そうだね、と短い相槌を受け、那月はでも、と言葉を継いだ。

「いい機会です。実は先生に、言っておきたいことがあったんです」

「ごめん、気持ちは嬉しいけどそういう趣味は……」

「何勘違いしてるんですか! 違いますよ! 那奈姫のことです」

 那月は布団を跳ね上げ叫んだ。御巫は相変わらずの無表情で、言葉が通じているのか不安を覚えるが、言わずにはいられなかった。

「あいつ、何もわかってないんです。異才の一族同士は似て非なるもので、馴れ合いがどれだけ危険か。先生からも言っていただけませんか? 能天気なのはあいつの取り柄だけど、少しは宗家としての自覚を――」

「自覚なら、あると思うけど」

「……えっ?」

「いつも、悩んでるよ。鬼が見えない自分が、お荷物になってるんじゃないかって」

「あいつ、そんなこと言ったんですか?」

「だから彼女は、俺のところに来るのかもしれない」

「それは、どういう……?」

 予想外の話に戸惑う那月を、御巫はひたと見つめた。気圧されそうになり、口元を引き締める。

「自分にできることを模索した結果だってこと。戦うことができないから、せめて夕族と友好的な関係を築くことで、一族の役に立とうとしているのかもしれない」

 那月は言葉を失った。今まで、那奈姫の行動の意味を、そんな風に考えたことなどなかった。悩んでいたことにも全く気づかず、気楽でうらやましいとまで思っていた。

 茫然としている那月を慰めるように、御巫が言う。

「家族だからこそ、言えないこともある。妹思いの君に、心配させたくなかったんだよ」

「でも僕は、話して欲しかった。だからといって、解決はしないけど、相談くらいは」

「……君が本当に彼女のことを大切に思っているなら、別の道を勧める手もある」

「別の、道?」

 魅入られたかのように、那月は尋ねる。会話の主導権を完全に握られていることにも、気づく余裕はなかった。

「彼女は『鬼』も『悪魔』も見ずに暮らせる。周りに感染させないよう気をつけさえすれば、日光を出て、普通に生活ができる。それも、一つの選択じゃないかと、俺は思う。異才の一族の中にいれば、嫌なものを見聞きすることも多いだろうから」

 御巫の言葉を咀嚼し終えた那月は、くすりと笑みをこぼした。

「案外、僕より先生の方があいつに甘いんじゃないですか?」

「大事な生徒、だからね」

「……本当に、それだけですか?」

 御巫がまるで自分に言い聞かせているかのように、那月には見えた。

「それだけじゃなかったら、どうする?」

挑むような言い方に、那月は意外にも安堵を覚えた。那奈姫は、きちんと大切にされている。だから、鼻を鳴らして答えた。

「その時は、先生の悪魔ごと焼き払ってやりますよ」


 翌日、再び新宿駅に到着した二人は、指定された喫茶店に向かっていた。日曜日の朝、街はまだ完全に目覚めてはおらず、気だるく昨晩の余韻を残していた。買い物にきたらしいカップルの横を、遊び疲れたような大学生くらいの集団がすれ違う。裏路地に入ればゴミ袋が大量に積み上げられており、お世辞にもきれいだとは言い難い。しかし千尋は、この雑多な雰囲気が嫌いではなかった。少なくとも観光地として着飾ったスカイツリーよりは、好感が持てる。

 ただし、教育上は、あまりよろしくないかもしれない。もの珍しそうに店の看板や水商売帰りの女性を見ている那月に目をやり、千尋は思った。

「この次の交差点の、角だよ」

 横断歩道を渡った先に、古めかしい店構えが見えた。ガラス張りのビルに囲まれているため、余計に時代から取り残された哀愁が感じられる。しかしくすんだ窓ガラスから店内を覗けば、中は盛況のようだった。日曜だというのに、スーツを着たサラリーマンがパソコンを開いていたり、真剣な顔で議論したりしている。千尋も中に入ったことはないが、よく商談などに使われる店だと聞いたことがある。

 やや気後れした様子の那月の前に立ち、千尋はドアを押し開けた。濁ったカウベルが、ガラガラと鳴る。

 煙草の臭いが強い。今の時代に珍しく、ここは全席が喫煙席のようだ。ガラス製の大きな灰皿が各テーブルに置かれていた。那月が露骨に顔をしかめる。後で彼に文句を言われるに違いない、とこの場所を了承したことを少々後悔した。

 白いフリルのついたエプロン姿のウェイトレスが、素早い動きでやって来て、人数を尋ねた。待ち合わせをしている旨を告げると、窓際の席の方を見やり、一人の男を指差した。

「あの人じゃないですか? 確か、待ち合わせって言ってたと思います」

 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、彼女は近くの席に残った皿を、手早く片付け始めた。

「菅原さんたちは、来ていないんでしょうか」

 窓際の席に座る男――おそらく三十代後半――の他に、人影はなかった。四人席にいるということは、これから来る予定もないのだろう。

「そうみたいだね。たぶんあの人が、マネージャーの杉田さんだ」

 千尋と那月が近づくと、彼は笑顔を浮かべて立ち上がった。同時に、手にしていた煙草を灰皿に押しつけてもみ消す。その間に反対の手でスーツのポケットから名刺入れを出し、慣れた手つきでそれを二人に一枚ずつ差し出した。彼の動作も、マジックのようだ。

「どうぞ、おかけください。いやー、昨日は大変失礼いたしました。わざわざ日光からおいでいただいたのに……ああもちろん、今回ご迷惑をおかけした分、出演料の方は下げさせていただきますし、普段はやらない特別なマジックを――」

 よく回る口だと、感心する。愛想は良いが、初めに謝罪し条件を提示するあたり、如才ない印象だ。放っておくと彼の独擅場になりかねないと感じ、適当なところで割って入る。

「こちらこそ、お忙しいところありがとうございます。詳しい話は、実行委員長の鳴神君に一任しているので……」

 那月を目線で促すと、彼は緊張した面持ちで、姿勢を正した。一任ではなく丸投げだろうという指摘があるかと思ったが、それどころではないようだ。公演時間や必要な舞台装置などについて、こちらの要望を伝えつつ、質問していく。緊張はまだ解けていないが、落ち着いた話し方で、助け舟は必要ないようだった。

新宿の雑踏は午後に向かうにつれ、混雑を増していく。窓の外では、家族連れやカップルが増え、騒がしくも微笑ましい休日の風景が見られた。コーヒーを飲みながら本でも読みたいところだが、必死の様子の那月の手前、そんなことも言っていられない。

那月は鞄から学園の見取り図を出し、テーブルに広げていた。目玉となる、脱出マジックについての打ち合わせだ。杉田も頷きながら、真剣に耳を傾けている。業界人らしい抜け目のない印象は変わらないが、高校生相手でも子供扱いすることはなく、悪い人間ではないように見えた。

「こちらとしては、ステージ上や観客席に鏡とカメラを持ち込まないことを、お願いしたいんです。特に、撮影の禁止は徹底していただきたいと思います」

「わかりました。会場に掲示して、アナウンスもしましょう。警備の生徒にも、言っておきます」

 マジックというパフォーマンスの都合、必要なことだと杉田は念を押した。

打ち合わせは一時間に及び、そろそろ、と言いたげに杉田が腕時計に目を落とした。

「最後に、出演料の件ですが、具体的には――」

 杉田が口にした額は、打ち合わせのドタキャンがあったにしても、あまりに低かった。理事会の援助など必要のない金額に、思わず、千尋は那月と顔を見合わせる。

「失礼ですが、その出演料はピークの過ぎた一発屋の芸人ぐらいじゃ……」

「ちょっと先生! 本気で失礼じゃないですか!」

 杉田は気分を害する様子もなくひとしきり笑うと、その額で十分だと答えた。

「実は、今回は二人の里帰りも兼ねているんです。姉妹は子供のころ日光に住んでいたんですが、マジシャンとしてデビューしてからはあまり帰る機会がなくて。そういうことなので、今回叡祥学園さんからオファーをいただけて、本当に感謝しています」

 事情を聞いた那月は、やや気落ちしているように見えた。自分の交渉手腕が出演を勝ち取ったと思っていたからだろう。代わりに、千尋が口を開く。

「こちらこそ、ありがとうございます。お二人に来ていただけることになって、生徒たちもとても喜んでいます。現役の高校生ですから、学校との両立は大変でしょうね」

「ええ、よくやってくれていますが、苦労はしています。特に最近は疲れが出ているようで……ああ、ご心配なく。ショーの出来に関しては、保証しますよ」

 にっこりする杉田はやはり如才なさをうかがわせたが、マネージャーとしてのスケジュール管理だけでなく、大人として菅原姉妹をサポートしているように感じられた。親子くらいの年の差だろうから、父親役といったところか。

残るは機材の運び込みや舞台の組み立てなどの具体的な計画だが、そちらは実際に作業しながら進めるらしい。あとは学園祭前日に、ということで打ち合わせはお開きになった。

仕事を終えた那月は、強張った顔をほっと弛ませ、杉田の手を握った。

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