第2話 アクアリウムの女神
部屋の中に、水槽が置かれていた。ランプに照らされ、ポンプから吐き出される泡が、輝きながら上昇していく。彼女はモーターの唸りと泡の弾ける音に、耳を澄ませる。こうしていると、気分が落ち着くのだ。
水槽の中には、鮮やかなひれを靡かせて泳ぐ熱帯魚。波打つたびに変わる色は、虹を見ているかのようだ。
魚たちがぱくぱくと口を動かす様子に、可愛らしい、と彼女は微笑む。水槽の中に住む魚たちは、彼女を決して裏切らない。そのことに気づいてから、一層愛情を感じるようになった。
可愛らしい彼らを守れるのは、自分しかいない。あらゆるものから、守ってやらなければならない。なぜなら、彼らを死に追いやるのは、とても簡単なことだから。
脳裏に、幼いころの一場面が蘇る。放課後の教室。窓際に置かれた、水槽。一人だけ残っていた少年の、後ろ姿。彼女は廊下に立って、“それ”を見ていた。
水槽の前に立つ彼の顔が、窓ガラスに反射して見えた。彼は笑顔だった。初恋の人。大好きだった笑顔。しかしその右手には、白い――。
「やめて!」
彼女は叫び、目を固く瞑った。
睫毛を震わせながら、恐る恐る、目を開く。水槽の魚たちは、先ほど変わらず、ゆったりとひれを揺らしている。ほっと息をつき、彼女は呟いた。
「私を、裏切らないで」
職員室は、プリントを手繰る音やペンを走らせる音に満ちていた。教師たちの大半が、先日行った実力テストの採点をしていた。その中で、盛大なため息が一つ。それは、千尋の真横の、学年主任の席から聞こえた。千尋が無言でいると、もう一度。仕方なく、千尋は口を開いた。
「テストの結果、悪かったんですか?
「いやあ、夏休み明けは、こんなものだよ。ただ、ちょっとねえ」
白井は思わせぶりに言葉を濁し、白髪混じりの頭を振った。薄くなってきた頭頂を隠すように横から被せていた髪が、ずり落ちそうになる。さすがに指摘はできないな、と千尋はぼんやり考えた。
「ただ、どうしたんですか?」
くるりと椅子を回転させ、紗矢が会話に加わった。欠伸をかみ殺している様子から考えて、眠気を払うために喋ることにしたのだろう。聞き手が二人に増え、白井は芝居がかった動作で頷いた。
「二年の
赤嶺といえば、学年で常に十位以内の成績を収めている秀才だ。叡祥学園でその位置ならば、有名私立にも国公立の医学部にも入れるくらいの偏差値があるはずで、教師たちは期待を寄せていた。
「夏休み中に、何かあったのでしょうか」
紗矢の呟きに、さあ、と白井は首を捻った。
「あまり遊び呆けるようなタイプにも見えないですけどね」
「そうね、生真面目ながり勉タイプって感じよね」
「しかし、夏期講習も、遅刻や居眠りが多かったらしいんだよ。心配だよねえ」
白井は思っていたことを吐き出したら満足したらしく、机に向き直った。ペンを取り、採点を再開している。彼の注意がこちらに向いていないのを確認して、紗矢が千尋に小声で尋ねた。
「今の、どう思う?」
「感染しているか、ということですか?」
紗矢は頷いたが、千尋はどちらかといえば否定的な意見を唱えた。
「PPVに感染すると、一般的に脳の機能は活性化するはずです。成績が落ちるというのは、少し違う気もしますが」
特に彼は、元々成績が良かった。彼の中にはごく自然に、試験で高得点を取りたいという欲望があったはずだ。
「わかんないわよ、他に興味が移ったのかも。ああいうオタクっぽい子は、ハマると一直線でしょうし」
「勝手に決めつけて……」
「仕方ないじゃない、まだ情報がないんだから。これは、調べるべきね」
「ええ、よろしくお願いします、九鬼先生」
「どうして私が……」
声を荒げそうになったらしい紗矢だったが、周囲の目を気にしてトーンを落とした。
「私は別件もあって忙しいの。あんたの方が暇なんだから、調べなさいよ」
声量こそ抑えているものの、威圧感は十分だ。言い出したのは彼女だと指摘しても、最終的に押し切られてしまうことを、千尋はよく理解していた。そこで、一計を案じることにする。
「……
「えっ?」
紗矢の耳が、ピクリと動いた。草灯屋は東武日光駅前に本店を構える老舗で、日光ではカツサンドといえば真っ先にその名が上がる。ヒレ肉を使ったカツサンドは特に人気があり、開店前から行列に並ばなければ手に入らないと言われていた。
「調べていただけたら、草灯屋のヒレカツサンドを進呈します。いかがですか?」
「むー……特製プレミアムソースも付ける?」
「ええ、つけましょう」
「よし、乗った!」
今度こそ盛大に声を上げてしまい、紗矢は教員たちから一斉に注目を浴びる羽目になった。
「――という次第で、九鬼先生に探っていただきました」
理事長室を訪れた千尋は、夕妃に説明した。
約束は必ず守るのが、武士道を重んじる九鬼紗矢という人間である。わずか三日で、赤嶺佳樹のプライベートな情報を仕入れてきた。
「そう、ご苦労なことね」
手元に視線を落としたまま、夕妃は気のない様子で応じる。
「狂暴化したり、犯罪まがいのことをしたりという豹変はなかったようですが、夏休みが始まる少し前から、行動パターンが変化したようです」
「どう変わったの?」
未だ視線の先は手元に向けられているが、夕妃はそう尋ねた。話を聞く気はあるようだ。
「水族館に、通っているそうです」
「水族館というと、去年中禅寺湖の近くにできた、あの?」
千尋は頷いた。中禅寺湖の湖畔は落ち着いた景勝地で、かつてはイタリア大使館別荘が、今でもフランスやベルギーなど四か国の大使館別荘がある。
数年前、湖畔の土地の一部が売りに出され、ある不動産業者が落札した。なぜその土地に水族館が建ったのかは不明だが、同じく湖畔に建てられていた日本両棲類研究所なる施設を吸収し、昨年開業した。
湖の近くということから、「日光レイクサイド・アクアトピア」という長い名がつけられているが、周囲に他の水族館が無いため、地元の人間は皆水族館とだけ呼んでいる。神社仏閣など渋い観光スポットが幅を利かせる日光の、数少ない新規のレジャー施設だ。そこそこに繁盛しているらしく、人気のデートスポットだと那奈姫が騒いでいたのを、千尋も記憶していた。
「ところで、先ほどから何をされているんですか?」
夕妃の目の前にある、執務用の広いテーブル上には、細い棒状の物が並んでいた。乾いた白色で、浜辺に打ち上げられたサンゴのようにも見える。
「西行法師の真似事よ」
夕妃は白色の棒を、まるでジグソーパズルのように時に反転させながら、配置していく。
「ええと、これが脊椎だから、肋骨は……」
その呟きから、夕妃が手にする物の正体は容易に知れた。見れば、テーブルの端には頭蓋らしき骨がある。その横に液体の入った瓶詰が置かれ、何か球体の物が浮いていたが、千尋はあえてそれを覗き込むのはやめた。
「『
「ああ、密教的な反魂の術の話ですね。西行法師が、死んだ人間の骨を集めて、それを元にその人を蘇らせようとする……」
友が去り、人恋しくなった西行法師は、曠野に打ち捨てられた人の骨を集め、その骨をつる草で結び、人間として復元しようとする。西行はかなり詳しくその手順を語っていた。
曰く、骨には砒霜と呼ばれる薬を塗り、藤づるや糸などで入念に骨を繋ぎ合せ、何度も水で清める。髪の生えるところには、葉を焼いて取りつけた、など。
「でもあれは、失敗に終わったと思いますが」
出来上がったそれは、人の姿はしているものの、心もなく、肌色も悪く、声も悪い。結局西行は、そのできそこないの人間を、高野に置き捨ててしまう。
「西行が助言を仰いだ伏見中納言によれば、その原因は修行が足りなかったこと、香を焚いて清めてしまったこと、七日間の断食を行わなかったこと、だそうよ。そこにさえ気をつければ、成功するのではないかしら」
「断食、されていませんよね」
「そんな美容に悪そうなこと、できないわ」
当然のことのように、夕妃は言う。香はともかく、さて、修行の方はどうだろうか。
「まともに仕事をしない理事長に、修行が足りているとはとても――」
「それとこれとは、無関係だわ」
射るような視線を向けられ、千尋は口を噤んだ。話題を少し、ずらすことにする。
「それにしても、全身の動物の骨なんて、よく手に入りましたね」
「何を言っているの、その辺にごろごろ転がっているじゃない」
言葉の意味するところに思い当たった千尋は、哀れな小動物に、しばし黙祷した。明らかな動物虐待。非難の目を感じ取ったのか、夕妃は骨の一つを取って千尋に突きつけた。
「この子は蘇るのよ。一度死んだことなんて大した問題じゃないわ」
「当人にとっては、大問題ですよ。そもそも、本当に蘇るとお考えですか?」
夕妃は骨を元の位置に戻し、首を傾げた。理解されないことが理解できないと感じた時の仕草だ。その後は不機嫌になることが多い彼女だが、今は笑みが浮かんでおり、千尋はかえって不吉な予感がした。
「いずれ、わかるわ。……ところで、今度の日曜日は何も予定が入っていなかったわよね。その水族館に、行きましょう」
「行くって、二人でですか?」
頬杖をついた夕妃は、人形のような睫毛をばさりと揺らし、にっこりと目を細めた。
「私、一度行ってみたかったの。楽しみだわ」
翌日曜日、夕妃と千尋は件の水族館の前に立っていた。
木立の中、敷石が秋晴れに照り映え、水族館までの道を示している。その道をゆく、カップルや家族連れ。誰もが笑顔で、幸せそうだ。空から、そして地面から注ぐ陽光には、まだ微かに、夏の気配が漂っている。
「いやだわ、こんなに日差しが強いなんて」
その夏の気配を打ち払うが如く、夕妃はレースに縁どられた黒色の日傘を開いた。服装も、もちろん、黒一色である。この陽気では、見る者に暑苦しさを感じさせる。しかし夕妃自身は、汗ひとつかいていなかった。
「ですから、彼が現れるまで車の中で待った方が、と申し上げたでしょう」
「だって、早く近くで見たかったんですもの」
夕妃は飛び石を移動するように、敷石の上で跳ねた。日傘をくるくると回し、水族館を見る。すこぶる機嫌が良いようだ、と千尋は判断した。
水族館は、巨大な船を模して造られていた。全体的に丸みを帯び、丸い窓が上部に等間隔で並んでいる。池に囲まれているため、ここからでは本当に、建物が水上に浮かんでいるように見える。ガラス張りの壁は日光を反射し、今は銀色に覆われていた。メタリックで、どこか近未来的な印象を与える。
「UFOがこの地に降りてきたら、こんな感じかしら」
珍しく、夢見がちなことを言う。不思議に思い、千尋は夕妃の横顔を見た。
「そしたら、中に飼われているのは宇宙生物ね。人間の体内に寄生して、身体を食い破って出てくるんだわ」
前言撤回、と千尋は心の中で呟いた。しかし、稀にみる上機嫌であることは、間違いない。ただ、千尋にはその理由がわからなかった。内心首を傾げていると、叫びに近い大声が、千尋を現実に引き戻した。
「あんたたち、やっぱり来てたのね!」
正しい仁王立ちの姿勢で、九鬼紗矢が二人を睨みつけた。
「あら、紗矢さん、ごきげんよう」
夕妃は傘を傾け、おっとりと挨拶を口にした。目だけは素早く、紗矢の背後を確認する。
「鳴神のお坊ちゃんとお嬢さんも一緒なのね。あなたたちも、水族館がお好きなの?」
「抜け抜けと……! 我々は、遊びに来たわけではありません。目的は、あなた方と同じはずですけど?」
「同じ? それはおかしいわね。私たち、デートに来たのよ」
夕妃はわざとらしく、千尋と腕をからめた。それをやんわりとほどきながら、千尋は三人を観察する。夕妃への態度は、三者三様だった。
直球勝負しかできない紗矢は、毎度夕妃に翻弄されているが、威勢よく噛みつく度胸がある。那月は無言で、こちらに冷たい視線を送っている。警戒心と強い嫌悪感から、距離を保とうとしているようだ。そして那奈姫は、兄の陰で縮こまっている。夕妃への恐れを、彼女が最も態度に示していた。それでも抑えきれない好奇心が、目の中で躍動している。
「デートって、ホント?」
無言で首を振る千尋を見て、那奈姫は安心したように息をついた。
「だからといって、あなたにチャンスがあるわけではなくってよ」
満面の笑みを浮かべて牽制する夕妃に、那奈姫は吐いた息をすぐに飲み込む羽目になる。
「那奈姫、バカなことを聞くんじゃない。会話するだけ無駄だ」
「あら、ひどいわね、生徒会長さん。私、一応理事長なのに」
「あなたがいつ、理事長の仕事を――」
「ちょっと那月、今その話題は面倒なことになるから――」
紗矢も加わり、余計に収拾がつかなくなっている。水族館に向かう人波の中、彼らはブイのように留まり、そして少々浮いていた。
「あ、赤嶺君」
千尋が口にすると、全員が一斉に千尋と同じ方向を見た。どうやら、赤嶺を観察するという任務は、頭に残っているらしい。
「……かと思いましたけど、違う人でした」
「あんたも! いい加減にしないと殴るわよ!」
紗矢はその言葉と共に、肘で突きを繰り出した。避けなければ、鳩尾に入っていただろう。
「あ!」
今度は那奈姫が素っ頓狂な声を上げた。彼女の指差す方向を見れば、黒のシャツにブラックジーンズという出で立ちの赤嶺が、俯きがちに水族館の入り口に向かっていた。暗く地味な服装は、夕妃ほどではないものの浮いている。しかし足取りに迷いはない。彼がここに足繁く通っているのは、間違いないようだ。
無言で赤嶺の背中が小さくなるのを眺めていた一行は、はっと我に返った。すぐに追いかけなければ、この混雑の中で見失ってしまう。
「早くチケット買いに行かなきゃ!」
列をなしているチケット売り場に駆け出した眞族の三人を見送り、千尋はあらかじめ用意しておいたチケットを懐から出し、夕妃に渡した。
「さすが、抜かりはないわね」
「前売りの方が、一割安いですからね」
「……褒めたのは、そこではないのだけど。まあ、いいわ」
日傘の下で、夕妃が小さく呟いた。
船の舳先に当たる部分が、水族館の入り口だ。洞窟のような、小さなトンネルが口を開けている。足を踏み入れると、外の喧騒がふっと途絶えた。突然の暗さに慣れぬ目が、トンネルの先の光源を捉える。川のせせらぎのような音が、微かに聞こえていた。
不意に、シャツの裾を引かれた。千尋は闇と同化した夕妃の姿を探す。握られたシャツと白い手が見えた。
「……夕妃様?」
行動の意味を尋ねようと千尋が口を開いた瞬間、視界は光に満ちた。
「今日はデートだって言ったでしょう?」
中学生くらいの女の子が、男の子のシャツの裾を掴んでいる様子を見やり、夕妃が真似をしてみたと笑う。恥ずかしそうに俯く初々しさが足りない、と千尋は感じたが、夕妃に求めても無駄だと思い直す。
中は広大なホールになっており、比較的小さな水槽が点在していた。その一つ一つが緑や赤の光源で、柔らかくライトアップされている。千尋たちの正面の水槽では、イソギンチャクの触手に埋もれたカクレクマノミが、優雅に体を揺らしていた。
「私、ウーパールーパーとマンボウが見たいわ」
どうやら夕妃は、間の抜けた顔の生物が好みらしい。ふらふらと視線を彷徨わせる夕妃を、千尋は引き留めた。
「目的を忘れないでください。ほら、赤嶺くんが行ってしまいますよ」
赤嶺の足取りは、中に入っても同じ速度だった。ホールの水槽には目もくれず、その奥の下りエスカレーターに向かっている。下りた先は、この水族館の目玉、巨大ドーム水槽だ。間に数人を挟み、千尋と夕妃も後に続いた。エスカレーターの両脇にも水槽があり、彩りの多様な熱帯魚とサンゴが、客の目を楽しませている。夕妃ももの珍しそうに、熱帯魚を目で追っていた。
エスカレーターを降りた前方の女性二人が、顔を上に向け、感嘆の声を上げた。同じように水槽を見上げた千尋も、すぐにその理由を知る。銀色のイワシの大群が、一つの生き物のように頭上を躍動していた。床に落ちた影すら、濃淡の美しい絵画のようだ。その群の中を一匹のマンタが通り抜け、どよめきが起きる。
海の底から、海面を見上げているかのような光景が、広がっていた。
頭上を飛ぶジンベイザメは、体をくねらせ、水槽のガラスに沿って潜っていく。突如目の前に現れたサメに、小さな女の子が驚いて母親にしがみついた。近くにいたカップルが、微笑ましい様子に、顔を見合わせて笑う。休日の昼下がりの、平和な一コマ。その傍らに、赤嶺は一人で立っていた。
彼は水槽にぎりぎりまで近づき、顔を上に向けていた。そこから一歩も動かず、黙って頭上を見ている。何か珍しいものが、そこにいるのだろうか。千尋は水槽の中の岩や海藻にも目を凝らしてみたが、彼の凝視している対象はわからなかった。
「……違うわ。彼が見ているのは、魚じゃない」
赤嶺の背後に立った夕妃は、彼と同じように水槽を見上げた。ほら、と彼女は指をさす。
水槽の、さらに上。水面の向こうにユラユラと、一人の女性飼育員の姿があった。
「赤嶺先輩の、彼女?」
那奈姫はごくりと喉を鳴らしてミルクコーヒーを飲み込み、パチパチと目を瞬かせた。
「ええと、何て言ったかな。同じ図書委員の歩ちゃんが言ってたんだけど、三年生の……」
「
「ああそう! そんな名前だった! っていうか先生、知ってるんじゃん」
「付き合ってるのか、一方通行なのか、はっきりさせておかないとと思ってね」
箱崎春海は、水族館でアルバイトをしている。叡祥学園ではアルバイトをする際、届け出が必要で、彼女の氏名はすぐにわかった。赤嶺が見上げていた人物は、まず間違いなく彼女だろう。彼は魚を見るためではなく、彼女が働いている姿を見るために、水族館に通っていたのだ。
「そうそう、それで二人が付き合い始めたきっかけがね、赤嶺先輩が書いたラブレターなんだって! 今時、ラブレターってすごくない?」
どうやら、那奈姫の中の、あるスイッチを押してしまったらしい。彼女はばたばたと手足を振り回しながら、ミルクコーヒーを飲むのも忘れて、千尋にまくし立てた。
「もともと二人は、本が好きで、趣味も合ってたらしいのね。図書委員だから、貸出カードの書名とかも見られるでしょ? 同じ作家の本読んでるとか、赤嶺先輩が気づいたんだって。普通ならさ、委員会も同じなんだし、その本面白いですよね、とか言って話しかければいいじゃない。でも、赤嶺先輩は違ったの。どうしたと思う?」
「ラブレターを書いたの?」
わかりきっている答えを口にした千尋だったが、那奈姫は正解、と叫んだ。
「しかもね、箱崎先輩が次に読みそうな本を予想して、そこに挟んだの。それで、予想が見事に的中! ラブレターは無事届いたってわけ」
「そこから付き合いだしたってことか」
うーん、と那奈姫は首を捻った。
「箱崎先輩がなんて返事したかは、聞いてないかも。ホントに付き合ってるのかなあ」
「……結局、今の話からじゃわからないってことだね」
那奈姫はしょんぼりとうなだれた。しかし、春海と赤嶺の接点が確認できたことは、収穫だ。仮に赤嶺がPPVに感染していたとして、彼の欲望の対象がはっきりしているならば、対策も講じやすくなる。
「でも、三年の今の時期でアルバイトなんて、ずいぶん余裕だね。推薦が確実なの?」
「ああ、うん、箱崎先輩は指定校推薦で専門学校入るんだって」
その学校には水族館の飼育員を養成する科があるらしいと、那奈姫は説明した。春海がアルバイトをしていたのは、将来のための勉強でもあったようだ。情報を頭の中で整理している千尋に、那奈姫は身を乗り出して尋ねた。
「今のところ、どうなの? 赤嶺先輩、感染しちゃってる?」
「正直、まだわからない。彼が何らかの力を使えば、悪魔や鬼の姿が見えるはずだけど。血液を調べるにしても、何の理由もなく血は採れないし」
那奈姫は手帳を広げ、真剣な表情でメモしている。何をしているのかと問えば、那奈姫は得意げに答えた。
「私も今のうちから、勉強しておこうと思って。特に今回は、紗矢姉も他のことで忙しいみたいだし」
「そういえば、この前も別件があるって言ってたような……」
「最近、連続溺死事件が起きてるでしょ。あれも感染者が起こしてるかもしれないんだって。死体のそばに、お供え物みたいに動物の死体まで添えてあるとか……」
「それはたぶん、俺が聞いちゃいけない話だね」
事件の存在は千尋の耳にも入っていたが、動物の死体の話は初耳だった。
新聞やテレビは、池や川など水辺の近くで、溺死体が発見されたとだけ報じている。全身が濡れていることから、被害者は水中に落とされ、死亡後引き揚げられたと考えられているが、なぜわざわざ犯人が死体を引き揚げたのか、納得できる理由は今のところない。これまでの被害者二人はいずれも男性で、持ち上げるのは重労働だ。不可解な行動はPPV感染によるサイコパス的衝動に起因する可能性もあり、千尋や夕妃も続報に注意していた。それに動物の死体まで添えられていたという情報が加われば、必ず調査を始めていただろう。
だから、情報が意図的に伏せられていたのだ。おそらく、眞族が何らかの取引をして。もちろんその目的は、手柄を横取りされないためである。
「でもさ、人を殺すのもひどいけど、動物にひどいことするなんて、許せないよね」
猫や犬から爬虫類、両生類に至るまで、動物好きを自称する那奈姫は、拳を振って憤慨した。
「どうして、動物をいじめたり殺したりできるんだろう……」
ごく最近、夕妃の蛮行を知った千尋は、黙っているしかない。彼女の場合、蘇らせるなどと嘯き、罪の意識も無いので、余計に始末が悪い。
「どうしよう、そのうち黒夜叉も、あの事件の犯人に捕まっちゃうかもしれない」
さすがに飛躍しすぎだと千尋は感じたが、那奈姫は本気で焦り始めた。意味もなく立ち上がり、うろうろと部屋の中を歩き回る。
「そのまえにきっと、九鬼先生が捕まえてくれるよ」
そうだよね、と那奈姫は頷いたが、不安は拭えないようだった。
「やっぱり心配だから、探してくる!」
飲みかけのミルクコーヒーをテーブルに残したまま、那奈姫は慌ただしく部屋を出て行った。
時計を見れば、那奈姫の相手をするために空けていた時間は、まだ残っている。特に目的はなかったが、千尋は図書館に顔を出してみることにした。運が良ければ、図書委員の赤嶺や春海と、話をすることができるかもしれない。
校舎の裏、うっそうと茂る草むらに隠れるようにして、小道の入り口がある。辿っていくと、小道は緩いカーブを繰り返して木立の間を縫い、一面草に覆われた広場に出る。そこにぽつんと建っているのが、学園の設立当初からあると言われている、図書館だ。
図書館のためだけに作られたであろう道を、千尋は転がる石を避けながら進んだ。舗装されていない土の道には、大小の石や木の枝が、ごろごろと転がっている。夕妃にも声をかけるべきか迷ったが、おそらく靴やスカートの裾が泥に汚れるからと、断られただろう。あるいは、自分を抱えて行けなどと、おかしな命令をするか。どの道、一人で行く方が楽だろう。
土はひんやりと湿り、独特の泥臭さが、踏みしめるたびに感じられる。昨日の通り雨のためか、葉には水滴が残っていた。陽光が遮られ、吹き抜ける風は思いがけず冷たい。
しかし広場に一歩出ると、眩しいほどの光が一斉に降ってきた。晴れの日に干した布団のような、暖かい日なたの匂いがする。
ねっとりとした西日が射す、オレンジ色の草原を、千尋はゆっくりと進む。その先にあるアーチや、図書館の壁もまた、溶けそうなオレンジ色の中にあった。
蔦を絡ませたアーチを抜けたところで、千尋は人影に気づいた。玄関前のポーチの脇に、こちらに背を向けて屈み込む女性の姿があった。ざくざくと聞こえるのは、シャベルで土を掘る音だろうか。
千尋の足音に、女性は麦わら帽子を傾けて振り返り、軽く驚きの声を上げた。
「珍しいですね、千尋先生。こんなところにいらっしゃるなんて」
図書館の司書を務める閖(ゆり)根(ね)は千尋の両親と親交があり、その息子である千尋を、親しみを込めて名前で呼んでいた。微笑むと口元や目尻にしわが寄ったが、それでも、六十歳という実年齢より若く見える。
「ええ、久しぶりに来ました。見ない間に、一段と、華やかになりましたね」
図書館の壁に沿う花壇には、色も形も様々なバラが咲き乱れていた。司書の仕事の傍ら、園芸書からの情報だけで作り上げたと聞いているが、庭園と呼んで差支えないレベルだ。
「お一人で、これを?」
いいえ、と閖根はたおやかな動きで首を振った。
「この子が、手伝ってくれたおかげですよ」
彼女はそう言って、自らの肩のあたりに目をやった。
掌ほどの大きさのそれは、イギリスの絵本に出てくる妖精の姿によく似ていた。尖った鼻と宝石のようにきらめく瞳、薄く透き通る羽。閖根が契約した「悪魔」だ。悪魔には見えぬ可愛らしい外見だが、植物を司る鬼神であり、サクルフという名も持っている。力の振るい方によっては十分に戦える能力があるが、争いを好まない閖根は、趣味のバラ園を咲き誇らせることだけに、手に入れた力を使っているようだ。
「秋に咲くバラは、長持ちするんですよ。夏のように、暑すぎないから。これは最近花が開いた『ポール・ゴーギャン』。画家の名前を付けられただけあって、花弁の絞りの柄が芸術的でしょう。それからこちらが、『ソンブロイユ』。無垢な白と折り重なった花弁が美しくて――あら、その顔は、本業はどうしたって言いたそうね」
最近は暇でしかたないのよ、と閖根は弁解するように言った。
「いいえ、そんなつもりは。さすが、生徒に『バラの貴婦人』と呼ばれるだけのことはあると感心していたんです」
そのあだ名は初耳らしく、閖根は嬉しそうに目を細めた。我が子を慈しむかのように、バラたちを見渡す。千尋も膝をつき、鮮やかな赤いバラに触れた。ベルベットのように重厚に見えた花弁は、触れてみると薄く、つるりとしている。
「それは、ロイヤル・ウイリアム。古風で気品があって、私はとても好きなんです。……ああ、棘には気をつけてくださいね。過去に、バラの棘が刺さって亡くなった偉人もいるようですから」
「詩人の、リルケですか?」
その傷が元で、彼は白血病を発症し、亡くなったという話を聞いたことがある。
「さすが、千尋先生は博識ですね」
出来の良い生徒を褒めるように、閖根は微笑む。千尋は面はゆさに、自然と地面に視線を落とした。閖根がそっと、地面に落ちた赤い花弁を拾い上げる。
「バラの棘で命を落とす。素敵だと思いませんか?」
「さあ、僕にはわかりません。どちらかといえば、悲劇――いや、滑稽ではないですか?」
正直ね、と閖根は面白そうに声を立てて笑った。
「私が言いたいのはね、人間が、バラの棘ひとつに命を奪われるような繊細な生き物であったら素晴らしいのに、ということです。残念なことに、我々はそんなに繊細ではありません」
彼女の嘆く「我々」が、ヒトという種を指すのか、未知のウイルスに打ち勝ってしまった異才の一族を指すのか、千尋にはわからなかった。しかし、どちらにしても繊細さとは程遠いことは確かだ。
「むしろ、凶器はバラの棘ではなく、我々に流れる血なのでしょう。一滴が、人を狂わせ不幸にする」
「そうですね、気をつけなければなりません。学園にはPPVに耐性のない一般人も多くいます」
「私たちだって、例外ではないでしょう? 眞族の有するウイルスに、我々夕族は耐性を持たない。逆もそう」
PPVは、Ⅰ型に対する抵抗性があっても、Ⅱ型には感染する。それはウイルスの外郭の構造が、二つの型で大きく異なるためだといわれている。眞族と夕族の不和の原因は、この点にもあった。感染の恐れがあっては婚姻による融和もできず、お互い距離をおくしかない。最も近い境遇でありながら、最も警戒しなければならない相手なのだ。
「引き留めてしまってごめんなさい。図書館に用があったのよね」
物思いに沈んでいた千尋は、その言葉に本来の目的を思い出した。
「図書委員の箱崎春海さんは、よくここに来るんですか?」
「ええ、時々水やりを手伝ってくれたりするわ。アルバイトに行くまで、時間があるからって。あとは、中で本を読んでいたり、魚の世話をしたり」
「魚の世話……」
図書館の中に水槽があり、彼女がほぼ毎日世話をしているのだという。水族館でのアルバイトといい、本当に魚が好きなのだろう。
「でも、今日はまだ見ていないわね。もう少ししたら、来るんじゃないかしら」
それならばと、千尋は図書館の中で彼女を待つことにした。幸い、時間はまだある。
「それはもしかして、感染に関係すること?」
遠慮がちに、閖根は問いかけた。千尋は振り返り、まだわからないと正直に答える。
「また、血が流れるのかしら。……いいえ、あなたや夕妃様に、不満があるわけではないの。あなたたちには、感謝しているわ。夕妃様が絶対的な力で牽制しているからこそ、眞族との関係も維持されている」
閖根は眞族との争いにも、感染者を葬ることにも難色を示している平和主義者だ。一族の中では情報部門に属し、悪魔や夕族に関する資料の編纂を担当しているため、現場には出たことがない。しかし多くの資料を目にしているからこそ、現状では他に方法がないことも、理解している。それでも、無残に殺される者がいないようにと、祈っているのだろう。このバラ園を作りながら、人間が繊細であることを願って。
「でも千尋先生。あなたはどうして、夕妃様の傍らにいるの? もし、一族の存続のためなら、あなただけが耐える必要なんてないのよ。だって、彼女はあなたの両親を――」
千尋はそっと首を振り、閖根の言葉を遮った。
「中に入っても、よろしいですか?」
「……どうぞ。今なら、貸し切りよ」
ガラス戸を押し開けると、時を経た紙の匂いが鼻をついた。埃っぽく、微かにつんと刺激を感じる。真新しい本とは違うその匂いが、千尋は嫌いではない。
貸し切りの言葉通り、中に人の気配はなかった。この状態が続いているのなら、閖根が暇だと言うのも頷ける。最近は、図書館で勉強をする高校生など少ないのだろう。皆、バスで駅前の進学塾に行き、そこの自習室で勉強しているらしい。
レースのカーテン越しに、柔らかな西日が射しこんでいた。窓の隙間から爽やかな風が舞い込み、床に落ちたカーテンの影が不思議な模様を描く。布の擦れる音に混じり、水音が聞こえていた。
窓際には腰の高さ程の、低い本棚が続いていた。その棚の上、ちょうど柱の陰になる辺りに、水槽が置かれている。青と赤のコントラストが美しいネオンテトラが、せわしなく水槽の端から端へと泳いでいた。
「あ、いた」
水槽を床から見上げる黒い塊が一つ。那奈姫が探していた、黒夜叉だった。背を丸め、今にも跳躍しそうな姿勢をとっている。らんらんと輝く緑の瞳が狙うのは、もちろん、熱帯魚だろう。
千尋はそっと、黒夜叉の背後に近づいた。隙のない黒猫は、しなやかに体を波打たせ、千尋に頭を向ける。じっと目を見つめると、にゃーあ、と間延びした声を上げた。千尋の足元にやって来て、彼の足に体をこすりつけている。
「あの魚は、食べちゃいけないよ。それに、たぶん熱帯魚はおいしくない」
千尋は黒夜叉を抱き上げ、そう言い聞かせた。理解しているのかは不明だが、黒夜叉は喉をごろごろと気持ちよさそうに鳴らしている。
鈴を転がすような笑い声が聞こえ、千尋は思わず腕の中の黒夜叉を見た。猫は首を上げて彼を見たが、その口は開いていない。千尋は背後を振り返り、声の主を見た。
「そうですね、私もネオンテトラは、おいしくないと思います。食べたら、お腹が光り出しそう」
「箱崎、春海さん?」
はい、と彼女は頷いた。黒夜叉がするりと千尋の腕をすり抜け、窓際の棚に飛び乗る。細く開いた窓に体を滑り込ませ、外に出て行った。
「赤嶺君のことを、少し訊きたいんだけど」
「恋愛って、校則で禁止されていました?」
注意を受けると思ったのか、春海は先回りして不安そうに尋ねた。真面目で、几帳面。裏を返せば少々神経質で、融通が利かない。それが、千尋が受けた第一印象だ。
「さあ、たぶん禁止されていないんじゃないかな」
「たぶん?」
「校則なんて、きちんと読んだことないから」
こらえきれない、というように、春海は吹き出した。笑うと生真面目な表情が、柔らかくなる。ボブの黒髪が、さらさらと揺れた。
「彼の成績が落ちたみたいだから、心配になってね。君なら、心当たりがあるんじゃないかと思って。教師としては、どうにかしないと」
「先生、校則も読んでないのに?」
春海はまだ笑っていた。それって、と彼女は続ける。
「つまり、恋愛にうつつを抜かしているせいで、赤嶺くんの成績が落ちたんじゃないかってことですよね。やっぱり、責められている気がするんですけど」
「まあ、そう言えないこともないね」
実際は成績よりずっと緊迫した事情だが、千尋は誤魔化した。赤嶺の一番近くにいるであろう春海が、彼に違和感を抱いていないのなら、感染はしていないのかもしれない。
「でも御巫先生、私、実はまだ赤嶺くんに返事をしていないんです。だから、私たち彼氏彼女じゃないんですよ。私が学校からアルバイトに行くまでの間の道で、ちょっと話すだけです。まだ、手も握ったことありません」
「彼のことは、好きなんでしょう?」
春海は迷わず首を縦に動かした。しかし、どこかもどかしそうに、顔をゆがめている。千尋は彼女が口を開くのを待った。
「……です」
春海の声は小さく、聞き取れなかった。水槽の方に視線をやり、ぼんやりと眺めている。千尋も振り返り、水槽に目をやった。先ほどと変わらず、ネオンテトラはそれが仕事であるかのように、水槽の端から端を素早く移動している。
「怖いんです、私」
「赤嶺君のことが?」
水槽に顔を向けたまま、千尋は尋ねる。気配で、彼女が首を横に振ったのがわかった。
「いいえ、人が。特に、男の人が。父親のいない家庭で育ったからかもしれませんけれど。――ねえ先生。男の人は、みんな仮面を被っているものなんですか?」
おかしな質問に、千尋は春海の表情を窺った。彼女は真剣に、切実に、その答えを待っているように見えた。
「君は、どんな仮面を見たの?」
「明るい優等生の仮面です。その下は……残酷な殺戮者」
千尋ははっとした。赤嶺のことを言っているのかと思ったのだ。しかし考えてみれば、彼はお世辞にも明るいとはいえない。それに、おそらく彼女が言っているのは、もっと昔のことだ。彼女は淡々と、話を始めた。
「彼は、動物が好きだと言っていました。その時、クラスではメダカを飼っていて、それを世話する係になっていたんです。楽しそうに餌をあげて、水槽を洗って……私も手伝いました。すごく楽しかった。でも、ある日、私は見てしまった」
春海の瞳が、わずかに潤み、揺れていた。過去の体験の追憶が、彼女を動揺させている。千尋はそっと、何を見たのかと問いかけた。
「放課後の教室で、彼は水槽の中を見て笑っていました。その手に、袋が握られていて、何か白い粉が入っていた。翌日、メダカたちが水面に浮かんでいて……私は彼が何をしたのか、知りました。気づいたんです。彼は動物が好きなのではなく、動物をいたぶって、殺すことが好きだったんだって」
春海は顔を上げ、息を吸うと、一思いに言葉を吐き出した。
「彼は裏切った! 信じていたのに。私は、好きだったのに。憧れも、何もかも全部、砕けて消えてしまったんです」
肩で息をしながら、春海は震えていた。憤怒と恐怖が入り混じった表情で、己の身体を抱き、震えを止めようとしていた。
「また、裏切られるんじゃないか。君は、それを心配しているんだね」
心配などという、生易しい言葉では表すことのできない、狂おしい不安だ。幼少期の傷が、彼女の中でまだ血を流し続けている。
「でも、箱崎さん。その彼と、赤嶺君は違うよ」
「……じゃあ、赤嶺くんは、私を絶対に裏切らないですか?」
挑むような目で、春海は千尋を見た。彼女が安心のため肯定を望んでいるのは明らかだったが、千尋はあえてはっきりと答えなかった。代わりに、図書館の入り口に目をやる。
「それは、他人の俺にはわからない。本人に、確かめてごらん」
「……赤嶺くん」
たった今入って来たばかりの赤嶺は、ただならぬ空気にたじろいでいた。しかし、千尋と春海を交互に見ると、毅然とした足取りで春海の隣に立った。
「何か、あったんですか?」
堅い声で問う赤嶺は、千尋に対する警戒心を隠さなかった。教師と生徒ではなく、同じ男として。誤解だと弁解することはできたが、千尋は短く、何もと答えた。
「先輩、そろそろ時間じゃないですか」
「……うん、そうね。行きましょう」
赤嶺に促され、春海は大人しく彼の後ろに続いた。迷ったが、千尋はその背中に声をかけた。
「裏切るかどうかだけが、人を判断する基準じゃないと、俺は思う。それだけに囚われちゃいけない」
春海は肩をピクリと動かし、立ち止まった。咎めるように、赤嶺が千尋に視線を向ける。顔を俯けて、春海は言った。
「でも私は、それ以外に、知らないんです」
ドアが開き、葉の騒ぐ音が聞こえた。高く鳴る風が、悲痛な叫びのように、千尋の耳に届いた。
「動物の死骸……あれが犯人によるものではないとしたら」
誰もいない図書館で、千尋は呟いた。
日の暮れた湖畔を、春海は歩いていた。隣には、赤嶺がいる。学園からバスに乗り、下りて、ぽつぽつと言葉を交わす。それが、春海がアルバイトに行く日の決まった行動パターンだった。肩が触れない、ぎりぎりの位置。時々互いの鞄が、腕に当たったりもする。謝って、笑い合う。春海はその時間が好きだった。
数日前、御巫先生と、図書館で話をした。本来の教科担当が欠席したとき、授業を受けたことはあったが、きちんと話したのはそれが初めてだった。愛想笑いの一つもなかったが、不思議と、冷たいとは感じなかった。気づけば、親にさえ話したことのなかった過去のトラウマ体験を、彼に吐露していた。
どうも最近、自分をコントロールできていない気がする。突然かっと怒りを覚えたり、悲しくて涙が流れていたりするのだ。気づいたら、寮を抜け出して川を眺めていることもあった。疲れているのだろうか。春海は小さく、息をついた。
「先輩、体調不良ですか?」
赤嶺の言葉に、春海は緩くかぶりを振った。体調不良、などと硬い言葉が、彼らしい。
「大丈夫。ただ、毎回つきあわせてしまって悪いな、と思っていたの。バス代だって、馬鹿にならないでしょう?」
「いえ、バス代くらい何の問題もありません。僕は先輩とこうしてお話ができるだけで、十分ですから」
「……ありがとう」
赤嶺は口ごもり、顔を赤らめて、注意して見なければわからないほど微かに、微笑んだ。
恋人というより、従順な飼い犬のようだと、春海は考えてしまった。いっそ、その方が良かったのかもしれない。魚もイルカも、春海が心を込めて世話をすれば、応えてくれた。動物は愛情を注げば、決して彼女を失望させる真似はしない。彼もそうだったら、この不安はすぐに消えるのに。そうだ、彼を飼うことができたら。
――いったい何を考えているのだ。春海は慌ててその思考に蓋をした。まるで変な趣味を持った人間のようではないかと、恥ずかしくなる。純粋に、彼が好きなはずなのに。
その時、耳障りな音を春海は聞いた。黒板に爪を立てて擦るような、神経がざわつく音だ。立ち止まり、辺りを見回す。
「どうかしました?」
心配そうに、赤嶺が問いかけてくる。彼には、聞こえていないのだろうか。
「変な音がするの。甲高くて、嫌な――泣き声みたいな」
ずっと聞いているうちに、春海には泣き声としか思えなくなっていた。助けを求めて、泣いている。早く、行かなければ。焦る春海は、必死に薄闇の中目を凝らす。
そして、湖のほとりに、ごく小さな人影を発見した。
小さく見えるのは、うずくまっているからだ。何もない岸辺で。――何のために?
春海は駆け出していた。先輩、と慌てた声がしたが、振り返らなかった。一目散に、人影へと走る。
「……何を、しているの?」
弾む息を抑え、春海は尋ねた。うずくまっていた人影は、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がっても、その姿は少女のように小さかった。真っ黒の、ワンピースを着ていた。
振り返った女性は、はっと息をのむほどに可愛らしかった。少女のように、あどけない顔。どこかで見かけた気がするが、春海には思い出せなかった。それよりも、彼女の足元に転がる物から、目が離せない。キイキイと、耳障りな鳴き声は、そこから聞こえていた。
「あなたが、やったの?」
可哀そうなその生き物は、弱々しく手足を震わせていた。子猫だろうか。闇にまぎれていて、よく見えない。しかし、彼女が何かひどいことをしていたのは確かだ。春海は頭に血が上るのを感じた。
「理事長? どうして、こんなところに」
いつの間にか、背後に赤嶺が立っていた。赤嶺に言われ、春海も思い出した。そうだった、彼女は叡祥学園の理事長――神々夕妃だ。滅多に姿を見ないが、その年齢不詳かつ美しい風貌は、生徒たちの間で話題に上っていた。
「でも先輩、先輩は何の話をしているんですか?」
はっとして、春海は赤嶺を見上げた。先日、御巫と対峙した時と同じように、彼は戸惑っているように見えた。だがそれ以上に、彼は怯えていた。誰に、と春海は自問する。赤嶺が今見ているのは、春海だ。自分しか、いない。
「泣き声とか、やったとか、何の話です? 僕には何も聞こえないし、見えない」
春海は恐る恐る、人形のように佇む理事長と、足元の黒い塊を振り返った。彼女はニコリと笑う。
「あなたには、見えるのね、コレが」
夕妃は掌を上に向けた。驚くことに、そこから炎がふわりと生まれた。そして足元の黒い物に、それを近づける。光に浮かび上がったそれは――。
「いやあ!」
悲鳴を上げ、春海は飛び退いた。バランスを崩した彼女の肩を、赤嶺が支える。
そこにいたのは、子猫ではなかった。もっと禍々しい何かだ。爬虫類のような手足と、蝙蝠のような羽。猿のような顔からは、鋭い歯が覗く。生理的な嫌悪感に、吐き気が込み上げた。
「これはリモンという名の下級のデーモンよ。見えるということは、残念だけど、あなたはPPVに感染しているのね」
「かん、せん? 何の話? 嘘、嘘よ」
嘘じゃないわ、と夕妃は春海に一歩、近づいた。
「あなたは今のように、河の近くや湖の近くで、動物を惨殺した男を見つけた。そして、彼らを殺した」
「殺すなんて……そんなこと、できるはずが……」
しかし春海の脳裏には、否定しているはずのその光景が、浮かび上がっていた。別の引き出しにしまわれていた記憶が、突如飛び出し、頭の中を暴れ回る。フラッシュを焚いたような、断片的な風景。男たちはこちらを振り返り、水の塊に飲み込まれ、顔を歪めて死んでいく。事切れるその瞬間の、満ち足りた感覚まで、春海の中にまざまざと蘇っていた。
残酷な人間を殺して、何が悪いのだ。彼らは無辜の命を奪う。自分は、間違ったことはしていない――。
その瞬間、息苦しい水中から顔を出し、視界が一気に開けた時のように、春海の頭はクリアになった。後悔すべきことも、恐れることも、何一つない。なぜなら、間違ったことはしていないのだから。
春海は夕妃の背後の湖に、意識を集中させた。同時に、傍らに大きく頼もしい気配を感じた。自分に力を与えてくれた存在だ。夕妃がそれを見て、呟いた。
「海の鬼神、ヒザルビン……あなたには、お似合いだわ」
余裕の表情を浮かべている夕妃が、憎くて仕方がなかった。憎いなら、殺してしまえばいい。彼らと同じように。
湖水が、一気に膨れ上がった。それは瞬く間に天に上り、あるところまで舞い上がると、生き物のように首をもたげた。巨大な水柱が、夕妃を狙って急降下する。
「ダメだ!」
遠くで、誰かが叫んでいた。強い力で手を引かれる。春海はぱらぱらと降る水滴を頬に受け、混乱と興奮の最中にあった。引っ張られる。握られた手の熱さだけが、確かに感じられた。
夕妃の頭上では、龍がぱっくりと口を開いたような形のまま、水柱が動きを止めていた。
すでにそれは液体としての水ではなく、氷だった。湖面から盛り上がった水柱は、湖水の表面ごと凍りついている。冷気で空中の水分も急激に冷やされ、辺りは霧のように煙っていた。
「寒いわ、千尋」
夕妃は氷の下で、手を優雅にひらりと返した。放たれた衝撃波が、氷柱を粉々に砕く。湖に落下した氷の粒が、水面にいくつもの円を浮かび上がらせた。
「そうおっしゃられましても、他に方法がありませんでしたから」
木陰から姿を現した千尋は、その身にまだ微かな冷気を伴っていた。彼の契約した悪魔、鬼神ヘイグロトは、雪嵐を操る力をもつ。先ほど水柱を凍らせたのも、その力だ。
「あの子、完全に発症してしまったわね」
「追い詰めたのは、誰ですか」
非難を込め、千尋は夕妃に言った。殺人を犯していた時点で、既に「
「だって、大人しい子を相手にするんじゃ、面白くないじゃない」
悪びれもせず、夕妃は答える。嬉々とした表情で、夕妃は千尋を見上げた。
「ほら、早く行きましょう。次は逃がさないわ」
夕妃の背中から、鳥のような黒い翼が生えた。背中に取りついている悪魔が、その翼を広げたのだ。夕妃は地面を蹴り、悪魔と共に飛び上がる。
「通行人に見られるかもしれません。車にしましょう」
駄目で元々、と千尋は声をかけたが、案の定、夕妃は聞く耳を持たなかった。
「日光にも、天狗の伝説が生まれるんじゃないかしら。じゃあ、先に行っているわね」
一度の羽ばたきで、落ち葉は風に巻かれ、木々は新たに葉を落とした。強風に顔を庇っていた千尋が見上げた時には、夕妃は既に、木々の上を飛んでいた。驚いたカラスたちが、休んでいた樹上から飛び出て喚いている。千尋は諦観のため息をつき、待たせてある車に向かった。
赤嶺と春海が向かう先は、一つしか考えられなかった。車に乗り込み、桜沢に行先を告げる。
「水族館に、向かってください」
「ええと、夕妃様は」
千尋は無言で、上空を指差した。それでおおよそを察したらしい桜沢は、アクセルを踏み、滑らかに車を発進させた。
ドアに肩を預け、千尋は逃げた二人の様子を思い返していた。夕妃に注意を向けていてはっきりと確認はできなかったが、赤嶺が春海の手を引いていたように見えた。確か赤嶺の家は、眞族の血統だ。知識のある彼は気づいたはずだ。春海がPPVに感染し、自我を失いかけていることを。それなのに、春海を逃がそうとした。
「一度も、手をつないだことがなかった……」
千尋は呟く。その最初の一回を、赤嶺の思いを、春海は感じ取ることができただろうか。
「千尋さんも、大変ですね。本当に、頭が下がります」
桜沢がやんわり、夕妃のお守は大変だろうと千尋に言う。
「それに、夕妃様は千尋さんを大変頼りにされていますし」
「そうですね、仕事上は」
自分の命を狙う人間を信頼しているわけがないという意味で千尋は言ったが、事情を知らないらしい桜沢は、気安い笑みを浮かべて言った。
「おや、私の目には、夕妃様は“私生活”も頼りにしたいと望んでいらっしゃるように見えますが」
「……余計に気が滅入る話はやめてください」
千尋は嘆息したが、桜沢はまだ、にやにやしている。
正直なところ、夕妃が何を考えているのか千尋には全くわからない。普通の神経の持ち主ならば、あからさまな殺意を口にする者を傍に置くことはしない。終わりの見えない緊張に、常人は耐えられないものだ。
自分との関係もまた、彼女の求める刺激でしかないのかもしれない。感染者の排除よりも、ずっとスリリングなゲームだ。
だから、夕妃のあらゆる態度は、偽りだ。露骨なまでの千尋への執着も、愛の囁きも。千尋は自身にそう言い聞かせた。
到着を告げる桜沢の声に、千尋は目を上げた。
秋期中、水族館は十八時まで営業しているはずだったが、今日はライトアップもなく閑散としていた。九月は施設点検のため二日間休業の日があり、今日がその二日目に当たる。営業はしないがアルバイトの仕事はある、という情報を仕入れ、千尋と夕妃は今日春海に接触したのだ。一般人の目撃者が出るにしても、できる限り少ない方が良い。もちろん、怪我人も。
「夕妃様は、どちらでしょうか」
「さあ、先に入ってしまったかもしれません。下りて探してみます」
夕妃はともかく、水族館が閉館しているとなると、春海や佳樹の居場所もわからない。スタッフ用の専用出入り口から入ったのだろうか。考えを巡らせながら、玄関付近のみ明かりの灯る建物に、近づいていく。
夕妃は、すぐに見つかった。入口の手前で、水族館の警備員らしき男と、押し問答を続けている。会話の内容から察するに、夕妃は子供だと思われているようだ。夕妃はふくれっ面で千尋を見た。ひとまず、怒りのあまり一般人に危害を加えていないことに、胸をなで下ろす。
千尋は叡祥学園の職員証を見せ、警備員に説明した。
「こちらでアルバイトをしている箱崎春海さんを探しているんですが、見かけませんでしたか?」
「ああ、春海ちゃんなら、さっき見ましたけど。同じ学校の男子生徒を連れていて、彼もバイトを始めるから一緒にミーティングに顔を出すとか……」
「それで、ここを通したんですか?」
警備員は頷く。ミーティングを行うスタッフルームへは、正面玄関から入った方が、外を回るより早いのだという。
「実は、その一緒にいた男子生徒と、トラブルになっているようなんです。春海さんから相談があって、我々が様子を見に来たんですが」
「え、じゃあ、さっきのバイトがどうとかいう話は、嘘ですか? ああ、言われてみれば、少し様子がおかしかったな。二人とも、不安そうな顔をしていて。男の子の方は、やたらと背後を気にしていた」
急に心配になったのか、警備員は今にも中に向かおうとしている。春海とも顔見知りなのだろう、孫を案じるような顔だ。千尋は彼を押しとどめる。
「中には、私たちが行きます。箱崎さんたちがここに来たら、引き留めておいてください」
警備員は何度も頷き、自動ドアを手で動かして入口を開けた。
緑の非常灯のみが灯る通路を歩きながら、夕妃は言う。
「あなたは嘘がうまいのね。男女間のトラブルだなんて」
「感染者が出たなんて話よりずっと、それらしいですからね」
日光はある事情から感染者の出現率が高い土地柄だが、一般人にとっては遭遇することが稀だ。突然感染者だ鬼だ悪魔だと言われても、危険を感じるより訝る者の方が多い。
通路を抜けて出たフロアも、この前訪れた時と比べ、照明が落とされている。わずかな明かりを水槽が反射し、ゆらりと光源が浮かぶ様は、幻想的な光景だった。明かりの届かぬ仄暗い闇がそこここにあり、何かが潜んでいるようにも見えたが、注意深く探しても、春海や赤嶺の姿はなかった。
早足で、停止しているエスカレーターを下る。夕妃の履く靴のヒールが、甲高い音を響かせた。
「あら、魚がいないわ」
夕妃の声に、千尋は頭上を覆う巨大ドーム水槽を見上げた。確かに、先日泳いでいたはずのマンタや大群のイワシなどの姿が、まったくない。
「施設点検のために、バックヤードに移動させたのでは?」
つまらなそうに夕妃は水槽を見ているが、今はそれどころではない。春海は既に、理性を失っている。彼女と早く引き離さなければ、赤嶺の命が危ないのだ。
しかし、エスカレーターを下りた先にも、二人の姿はなかった。水槽の脇に、スタッフ以外立ち入り禁止のドアが見える。あそこから、バックヤードに入ったのだろうか。それとも、このまま進んでアシカとペンギンのゾーンに向かったか。
夕妃と手分けするべきか思案する千尋の左手に、すっと影が差した。不自然に光の遮られた方に目を向け、はっと息をのむ。
大水槽の中を、人が沈んでいく。叡祥学園の、男子の制服。赤嶺だ。
「彼女、上にいるわ」
夕妃が水槽の上方を指差した。揺れる水面と泡の向こうに、人の姿が見える。
「早く、引き揚げないと……」
千尋はスタッフ用のドアに向かおうとした。
「その必要はないわ」
夕妃は水槽に手をかざした。禍々しいアポルオンの姿が、千尋の前で形作られていく。悪魔の咆哮と共に、凝縮されたエネルギーが水槽に向かって放たれた。夕妃の放った衝撃波は易々と水槽を突き破る。水槽のアクリル板は分厚く、少なくとも六〇センチはあるはずだ。防弾ガラスと同様、アクリル板は何層も重ねられており、ライフルでも貫通は難しい。それを上回るエネルギーが、半径一メートルほどの大きさで叩きつけられたのだ。当然、館内に響くほどの轟音と地震のような揺れが生じた。
水槽にぽっかりと空いた穴から、水がなだれ込んでくる。急激な水流に運ばれ、赤嶺の身体も引き寄せられた。千尋が力を失った赤嶺を、水槽の外に引きずり出した刹那、アクリル板に大きなひびが生じた。ひびから漏れた水が、滝のように降り注ぐ。
――決壊する。千尋がそう直感した時には、二度目の轟音が響き、大量の水が砕けたアクリル板と共にフロアに襲い掛かった。
夕妃は跳躍し、水面の上部へも穴を空ける。そのまま、叩き割ったアクリル板の穴の縁に着地した。ちょうど、バックヤード側に立つ春海と同じ高さだ。水の抜けていく水槽を挟み、二人は対峙した。
「良かったわね、あなたの大好きなお魚さんたちがいない時で。でも、魚がいないからって、人間を泳がせるのはいかがなものかしら」
春海は血走った目で、夕妃を睨みつけていた。剥き出しの敵意を浴び、夕妃の唇は弧を描く。
「可哀そうに、あなたは臆病なのね。人を信じられない臆病者」
「違う! 信じられないのは、みんなが私を裏切るからよ。“彼”も、あの男たちも……残酷で、生きている価値なんてないんだわ」
「じゃあ、あそこにいる彼も?」
夕妃はフロアの隅で意識を失ったままの、赤嶺を見下ろした。
「いつかは、裏切るに決まってる。だからその前に、喋れないようにしようと思ったの」
春海の表情はやや平静を取り戻したようにも見えたが、内容は常軌を逸していた。大真面目な顔で、異常な行動を正当化する。感染者の特徴の一つだ。好きな相手に裏切られることを不安に思う。そこまでは普通だが、不安が高じて相手を殺すのは、明らかに異常だ。
夕妃はふっと笑みを消し、水槽を飛び越えてバックヤード側の足場に移った。春海が身構えるように、半歩下がる。
「信じられないから、人を好きになれないの? なんて馬鹿なのかしら。いいえ、あなたは本当に人を好きになったことがないんだわ。裏切られようと憎まれようと、好きならそれでいいじゃない。相手が同じ愛情を返してくれるのを期待するなんて、何様のつもり?」
傲慢だ、と夕妃は春海を断じた。
「違う!」
「何が違うの? あなたにとっての正しいものは何?」
問われた春海は、残った人間らしい心をかき集めようとするかのように、俯いて胸の前で固く拳を握った。しばらくして上げた顔には、涙が光っていた。凶暴な表情を消した春海は、ゆっくりと振り返った。赤嶺の姿を、その目が捉える。春海は宙へ、足を踏み出した。海の鬼神が現れ、共に歩いていく。どこからか生じた水が、いたわるように春海を包んだ。水槽のアクリル板にそっと額を押し当て、春海は赤嶺を見た。
「本当に、好きだった。だから、失うのが怖かったの。好きだから、怖かったの」
「そう……最後にわかって、よかったわね」
夕妃は春海の背中に向け、掌をかざした。
透き通った水に、大量の赤が溶け込んでいく。魂の抜け落ちた春海から離れていく悪魔を、夕妃は見送った。
血に染まる水槽を見上げ、千尋は夕妃が仕事を終えたことを知った。弱々しい呼吸を繰り返していた赤嶺が、ゆっくりと目を開ける。意識はあるようだが、目の焦点ははっきりと結べていないようだった。
「赤嶺君、どこか、痛いところは――」
助け起こそうとする千尋の腕を、赤嶺が掴んだ。シャツの袖が、じわりと滲む。消え入りそうな声に、千尋は耳を近づける。
濡れて張りついた髪の毛を払うこともせず、途切れ途切れに、赤嶺は言った。
「気づいていたんです。少し前から、先輩の様子が、おかしいことに。でも誰かに知られたら、一緒にいられなくなるから」
「だから、彼女を連れて、逃げようとした?」
肯定するように、赤嶺は息を漏らして笑みを浮かべた。
「僕は、あの水槽の中に沈んだままでもよかった。僕を突き落として、見下ろした時の、先輩の安心しきった顔……。水中から見上げた彼女は、本当に、綺麗だったんです……」
その後は、騒ぎに気づいた水族館のスタッフが駆けつけ、嵐のような混乱が巻き起こった。当然のことだが、スタッフたちにとって、砕けた水槽や鮮血に染まる水、春海の死は、現実か疑いたくなるほどに衝撃が強かったようだ。説明しても埒があかず、柊一と連絡を取り、警察を呼ぶことで、ようやく収まった。もちろん、夕妃は見ているだけで、実際に動いたのは千尋である。
大丈夫だと言い張る赤嶺を医者に診せ、さらに家まで送り届けると、一般的な夕食の時間はとうに過ぎていた。対応に追われた千尋はさすがに疲労を感じたのか、車の座席に体を沈めていた。
お馴染みの禍々しい鼻歌を歌うこともなくぼんやり車外を眺めていると、千尋がそっと夕妃に声をかけた。夕妃は気だるげに首を動かし、千尋を見る。
「なあに? お説教なら聞かないわよ」
「それはまた後日、請求書が来てからじっくりしましょう。それより、一つ、お聞きしたいことが」
首を傾げ、夕妃は先を促した。
「箱崎さんと、何を話していたんですか?」
「別に。会話といえるようなことはしていないわ。それが、何か?」
千尋は少しの沈黙のあと、答えた。
「いえ、ただ、最期の彼女の顏が、とても安らかに見えたので」
「……さあ、私は知らないわ。彼女は私に、背を向けていたもの」
千尋の目は、夕妃の内に慈悲を探しているように見え、夕妃は苛立ちを露わにした。
「あなたは私に、何を期待しているの?」
唐突に射るような視線を向けられた千尋は、訝しげに夕妃を見た。ハンドルを握りながら小動物のようにびくびくしている桜沢と違い、彼に怯えの色はない。
復讐の対象として、憎しみを抱かせる存在でなければ、彼を惹きつけることはできない。けれど愛情を示さなければ、彼が自分を好いてくれることもない。そもそも、自分は彼に憎まれたいのか、愛されたいのか、それすら曖昧だ。そのせいで苛ついているのだと、夕妃は今さらながらに理解した。
「期待なんて、何も。今のままで、十分ですよ」
千尋の答えを聞いた桜沢は、ほっと息を吐いた。反対に夕妃は、眉をひそめる。彼が率直に夕妃を褒めることなど、まずない。この台詞も、ただの皮肉だ。案の定、千尋は続けた。
「夕妃様だっておっしゃったでしょう、大人しい相手じゃ、つまらないと」
今度は夕妃が、千尋の表情を窺う番だった。しかしそこから感情を読み取る前に、彼は次の言葉を重ねてしまう。
「お疲れでしょう。僕も、濡れたせいか疲れました。夕食は温かいものがいいですね」
夕妃は無言で窓の外に目をやった。闇の中、車のライトが立ち並ぶ木々の幹を次々に照らし出す。窓を閉め切っていても、強い風に揺れる葉のざわめきが聞こえた。
自分の望みはわからないが、今のままでもそう悪くないと、夕妃は思う。甘えるような仕草を見せたそばから、過去の傷を抉るような言葉を突きつける。そんな関係を、夕妃は楽しんでいた。時々、少しだけ寂しくなることはあるけれど。
「でも私は、冷酷でなければ、存在する意味がないのよ」
ぽつりと呟かれた言葉は、誰にも聞かれずに消えていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます