第1話 残酷なプリンセス
霧雨に、紫煙が溶けて消えた。漂い出ては、ふわりと溶ける。
宙を舞う水滴は、傘をさしても柊一の肌に鬱陶しく纏わりついた。雨に混じり、べたべたとした風と磯の臭いが流れてくる。柊一の背後には、黒々とした海が横たわっていた。平素ならば波が打ち寄せる音も聞こえてくるのだろうが、今は怒号のような指示や報告が飛び交い、潮騒は遠い。窓を開けた車両からの無線が、さらに慌ただしさを演出していた。
潮風に錆びついた倉庫の並ぶ埠頭。それがこの場所の、本来の顏だ。しかし今は、この埠頭全体が、檻の役割を課せられていた。埠頭を囲う倉庫群は、いわば檻を形成する堅固な鉄格子だ。
もうすぐこの檻に、“あれ”が来る。緊張の度合いが徐々に高まっていく現場の空気を感じ、柊一は傘の柄を握りしめた。重度のPPV感染者――見境なく暴力をふるうそれは、街に放たれた猛獣に等しい。檻を作っただけでは不十分だ。誘い込み、そして、無力化して初めて、街は平和を取り戻し、市民は安らかな眠りを得られる。
おそらく今回の感染者は、
明らかに、人間のものではない力が働いている。そう判断し、柊一は彼らに連絡を取った。
――来た。
ざわめいていた埠頭が、しんと静まり返った。微かな唸りと共に、光を増すヘッドライト。無愛想な警察車両を浮かび上がらせながら、こちらに近づいてくる。
黒塗りの高級車が、鮮やかなターンを見せて、柊一から少し離れた場所に停車した。
後部座席のドアが開き、すらりとした脚が覗いた。姿を見せたのは、長身の青年だった。彼は傘を開き、空いた手を車の中に伸ばす。その手を、病的なまでに白い手が掴んだ。闇の中、まるで手だけがそこに浮いているかのようだ。
そしてゆっくりと、黒衣の女性が姿を現す。透き通るような白さの横顔は、黒々とした巻毛に縁どられている。風が豊かな髪を揺らし、一瞬、彼女の口元が露わになった。……笑っている?
柊一は肌が粟立つのを感じだ。幾度となく対面しているはずだが、慣れない。彼女、
夕妃の傍らに立つ青年の一瞥を受け、柊一は彼らに駆け寄った。
「状況は?」
青年――
「感染者は日光市内で突如暴れ出し、周囲にいた数人を切りつけた。その後茨城方面に向かい、現在、バイクで国道を爆走中だ。途中、二人ほど撥ねられてる。性別は男だが、それ以外のパーソナルデータは一切不明」
「バイクのナンバーからは?」
「本人のものじゃなかった。逃走中に奪ったらしい」
「盗んだバイクで走り出した、と」
不覚にも吹き出した柊一は、浮かんだ歌を追いやるためにわざとらしく咳ばらいをした。
「……不謹慎だぞ」
夕妃はそのやりとりを、不思議そうに見上げていた。
「ねえ、それで、いつ来るの?」
「畑や田んぼに突っ込まない限り、あと五分ほどだと思いますよ。パトカーと白バイが、他の道を塞いでますからね」
「それはご苦労なことね」
他人事のようにつぶやき、夕妃は気だるげに髪を払った。雨粒が、夜空にまぶした星のように彼女の髪で瞬く。
「こんな中途半端な雨は嫌いだわ。早く終わらせましょう」
「ええ、こちらもその方が助かります」
夢遊病のような足どりで歩く夕妃を、千尋の持つ傘が追う。時折背伸びをしては、埠頭の入口を窺った。警察官たちは神経を尖らせているというのに、彼女だけは感染者の到着を心待ちにしているようだ。
不意に、興奮し、ひび割れた声が、一斉に無線から流れ出た。その場にいた全員が、埠頭の入り口を注視した。
「来たわ」
夕妃の唇が弧を描き、黒目がちの瞳が見開かれる。やはり彼女は、待ちわびていたのだ。子供のように無邪気な声に、柊一は思った。そして、子供のように無慈悲に、新しいおもちゃを弄ぶ様子を想像した。
傘の下から飛び出た夕妃は、まっすぐにこちらへと向かってくるバイクの正面に立った。埠頭には不似合いな、精緻なフリルのあしらわれたワンピース。その裾が、風を含んではためく。薄く笑みを浮かべたまま、夕妃は右手をかざした。
右掌前方の空間が、ゆらりと歪む。次の瞬間、腹に響く重低音と共に稲妻が落ちた。夕妃は肩慣らしのつもりだっただろうが、どよめきが広がる。それを初めて目にした者が、声を上げたためだろう。何もない空間から突如火花が散り、爆発が起こる。柊一にも、未だに特撮やCGの技術を駆使した、何かの冗談のように見えることがある。
悪魔と契約し、得られる力。当初はすべてがトリックだと主張する向きもあったが、PPV感染者による事件が続発し、警察も対処せざるを得ない状況になった。しかし、不可思議で防ぎようのない現象を認めたくない恐怖は、柊一にも理解できる。感染者ではない柊一には、当然悪魔も鬼も姿は見えない。見えないことそれ自体が、恐怖なのだ。
では、見える彼らには、どのように見えているのだろう。柊一は、夕妃の背に目をやって尋ねた。
「今、彼女のところに悪魔がいるのか? 何て言ったか……アバル……」
「アバンドン、あるいはアポルオン」
最強の悪魔と呼ばれている、とかつて千尋の口から聞いた。悪魔や鬼にも個体差があり、契約により得られる力も異なる。強い力を得たければ、強い悪魔と契約すれば良いのだが、人間の側にそれだけの器が無ければ、魂ごと取り込まれてしまうのだという。ゆえに、最強の悪魔と契約した夕妃は、それだけで強さを認められている。同族の者ですら、彼女を恐れるほどに。
「その悪魔は、どんな姿をしているんだ?」
千尋は夕妃のいる辺りに視線を向け、口を開いた。
「馬に似ている。でも顔は人間に近くて、髪が長い」
「なるほど、なかなか気味が悪いな」
「翼が生えていて、尾はサソリみたいで、頭の上に蛇が乗ってその目から破壊光線を――」
「おいちょっと待て、どこまでが本当だ?」
「さあ、どこまででしょう」
人を食ったような物言いに、柊一は苛立ちよりむしろ安堵を覚えていた。高校時代から、彼は変わらない。言葉少なでその上無表情。時々真顔で、冗談を言う。
あのころは、千尋が「異才」の持ち主であるなど、まったく知らなかった。柊一がそれを知ったのはある事件がきっかけだったが、幸いその後も二人の関係は変わっていない。
それにしても、人の縁というのは不思議なものだと、柊一は思う。出席番号が近いというだけで言葉を交わした二人が、成人後、共に仕事をしているとは。そしてその不思議な縁のおかげで、柊一は県警のPPV感染者対策室特別捜査官の肩書を拝命していた。感染者による事件が発生した際、真っ先に現場に駆けつける重要な立場だ。その実、仕事は単なる連絡係だと感じることも多いが、それについてはあまり考えないようにしている。どんな理由にせよ、電話一本で何の駆け引きもなく気難しい彼らを呼び出せる柊一が重宝されているのは確かだ。
しかし、それなりの気苦労もある。夕妃の従える悪魔は確かに強く、心強い。だが彼女はどうも、派手な戦いを好む傾向にあるようだ。とにかく力をふるうのが楽しいらしく、周辺への被害に頓着しない。現に、今も。
夕妃は立て続けに、衝撃波を放っていた。バイクはそれを器用に、左右に避ける。人間業ではない反応速度だ。当たらなかった衝撃波は、地面を抉るに留まらず、積まれたコンテナや警察車両を跳ね飛ばす。そのような被害状況をまとめ、場合によっては始末書を書くのも、特別捜査官の仕事だった。
「動きが速すぎて、当たらないわ」
反省とは無縁の破壊者は、そうぼやいた。表情が、言外に飽きたと告げている。しかしこれは仕事だ、飽きたからといって諦めてもらっては困る。
「バイクから下ろせば、仕留められますね」
「簡単に言うが、どうやってやるんだよ」
大抵のことは、ここに来る前に試したはずだ。バリケードは突破されるか、避けられている。バイクの性能ではなく、運転技術が高いのだ。白バイ隊員ですら、追いつくのがやっというレベルだ。
「このまま待てば、こちらに突っ込んでくる。車を並べて塞いでおけば、左は海だから、右に曲がるしかない」
「そこを、攻撃するのか?」
千尋は頷いた。カーブに差し掛かれば、バイクも多少は減速する。直線を走っているときよりは分があるかもしれないが、それでも十分速度が出ているだろう。
「……まあいい、やってみるしかないな」
このままぼんやりと眺めているよりはましだと、柊一は近くの車両に指示を飛ばした。急ごしらえのバリケードができ、柊一たち三人はその手前に陣取った。
バイクの放つ光は、徐々にその大きさを増していく。まっすぐに闇を裂き、唸るエンジン音と共に迫る。ヘルメットがつるりと反射し、痩せぎすの体が浮かび上がった。車両の存在は、そろそろあちらにも見えているはずだ。そろそろ、減速しなければ曲がりきれない。
「……え?」
おかしい。バイクは一向に、スピードを落とす気配がなかった。むしろ、上がったのではないか。呆然とする柊一の目の前で、バイクはふわりと浮かんだ。重力を無視し、前輪を上げて、車の遥か頭上を越えていく。
「エノク書のデーモン……風の……」
夕妃がぶつぶつと何かを呟いている。するとあの曲芸のようなジャンプも、悪魔の力によるものだということか。早急に次の手を、と考えを巡らせる一方で、柊一は鮮やかな飛翔から目を離せずにいた。
バイクはバランスを保持したまま、柔らかく着地態勢に入る。その安定感は確実なものに見えた。しかし再び前輪が地面に着こうとした、その一瞬。
何かが、横からバイクにぶつかった。真横からの衝撃に、車体はバランスを崩す。倒れ込むと同時に、運転していた人間は宙に投げ出された。そのまま数メートル先まで飛び、鈍い音を立てて地面に打ち付けられる。操縦者を失ったバイクは横倒しでくるくると回転しながら滑り、コンテナに衝突して炎上した。
「一体何が……」
何気なく隣を見て、柊一は再び驚いた。さっきまでいたはずの、千尋と夕妃の姿がない。闇に目を凝らすと、バイクが弾き飛ばされた地点に、千尋が立っていた。どうやら先ほどバイクに衝撃を与えたのは、彼だったらしい。
いつの間にバリケードの反対側に移動したのか、夕妃がゆっくりとした足取りで、倒れた感染者に近づいていく。ヘルメットを被ったままの感染者は、手負いの獣のように、夕妃に警戒を見せつつ這って後退した。左腕が力なく垂れているのは、骨が折れたからだろうか。あれだけの衝撃ならば、腕以外にも傷を負っていてもおかしくない。
それでも、感染者は立ち上がり、腕を振り回した。柊一の立つ場所まで、風が吹き荒れる。慌ててかがむと、頭上のフロントガラスに蜘蛛の巣状のひびが入った。
今あの男を動かしているのは、生物としての本能だ。ヒトとしてではなく、ウイルスとしての。負傷した身体を、ウイルスが無理矢理に動かし、逃げ延びようとしている。
早く、終わらせてやってくれ。柊一は祈るように、夕妃を見た。
夕妃はまっすぐに手をかざし、ふらふらと逃げ惑う標的に照準を合わせる。力の差を悟ったか、感染者はこちらに背を向け、足を引きずりながら走り出した。二人三脚のように不恰好だが、決して遅くない。
遠ざかっていく姿を、夕妃は慌てもせず眺めていた。柊一はその姿に、蟻を踏み潰そうと見下ろす子供を重ねた。無邪気な笑みが、口元に浮かぶ。
獣のような生臭さが、微かに鼻をつく。生温い舌で舐められたと錯覚するほどの、湿った風。そして夕妃のかざした手の先には、漆黒の球体。投光器に照らされ、夜の闇の中で、さらに濃く純粋な闇が、膨張していく。意志を持つかの如く、うねり、渦を巻く。
アポルオンはギリシャ語で、破壊者を表すという。彼女が悪魔の力を借りて作り出したあの闇に触れた物体は、材質に関係なく塵と化す。生き物だろうとダイヤモンドだろうと、夕妃に破壊できないものはない。
自分の身体と同じ大きさにまで成長した球体を、夕妃はそっと押し出した。途端に、球体は感染者目がけて、一気に加速した。できる限り遠くへと逃げる感染者は、やがて倉庫の壁に阻まれ、逃げ場を失った。地面を削り、疾駆する球体が、衝突する。
肉を焦がした時のような、じゅっという微かな音。続いた断末魔の叫びに、柊一はたまらず耳を塞ぐ。そして球体は、勢いをそのままに、倉庫の壁に吸い込まれ――。
倉庫が爆発炎上した。火柱が屋根を突き破り、黒煙を上げている。
不幸にもその倉庫は、消防法危険物第四類に相当する引火性液体――石油やアルコールが保管されていた。愉快なほどに炎が踊る様子を、柊一は諦観の眼差しで眺めていた。
「これはまた、始末書だな……」
消防に連絡しろ、と彼の背後で誰かが叫んだ。そちらの対応は任せることにして、柊一は爆発の元凶に歩み寄る。一言文句を言うくらい許されて然るべきだと、強い意志を以って口を開く。
「どうするんです、あれじゃ感染者の身元がわからないでしょうに」
夕妃は炎上する倉庫をガラス玉のような瞳に写したまま、渋々といった様子で口を開いた。
「仕方ないわ。全部焼けちゃったんだもの」
それを焼けないようにするのが、プロではないのか。喉元まで出かかった柊一の肩を、叩く者があった。
「これでどうにかご勘弁を」
千尋が柊一の眼前に見せたのは、一本の毛髪だった。目で問うと、先ほど感染者を蹴り飛ばした際に、採取したものだという。
「あら素敵、DNA鑑定ね。それで解決だわ」
夕妃は満足そうに頷き、一人で車に戻っていった。解決かどうかを決めるのは彼女ではないはずだが、既に興味を失ったということだろう。柊一は毛髪をティッシュに丁寧に包み、上着のポケットにしまった。
「十五歳よりは上だろうけど、若かった気がする」
まだ盗んだバイク云々の歌を引きずっているらしい千尋を一睨みしてから、柊一は言う。
「……かわいそうにな」
PPV感染者は、若い世代、特に未成年者が圧倒的に多い。単純にウイルスへの抵抗力が弱いことや、成人に比べ感情の抑制がきかないということが原因に挙げられているが、未だ憶測の域を出ていない。
「千尋、早く帰りましょう」
車のドアの前で、夕妃がこちらを睨んでいた。相変わらず独占欲が強い、と柊一は苦笑する。
「大変だな、彼女の相手は」
千尋はその言葉にはコメントせず、じゃあ、と短く言った。
「またのご利用、お待ちしております」
「今度は火災保険に入ってからにするよ」
千尋が車に向かってくるのを確認し、夕妃はようやく車に乗り込んだ。柊一は既に、これから用意しなければならない書類に思いを巡らせている。しかしそれでも、その会話は耳に忍び込んできた。
「あれはやっぱり、化け物だな」
「ああ、人間じゃない」
彼らに協力を頼む警察関係者ですら、平気で差別的な発言をする。柊一は鋭い目で辺りを見回したが、声の主は発見できなかった。
「なんだかすっきりしないわ。面白いところはあなたが持っていってしまうし」
夕妃は窓に付いた雨粒を、ガラス越しにコツコツと爪で叩いた。彼女と同じく後部座席に座る千尋は、彼女の言う“面白いところ”について見当をつける。
「バイクを蹴飛ばしたところですか? 欠片も面白くなかったですよ。巻き込まれたら大怪我でしたからね」
「でも、映画みたいで格好良かったわ。練習してみようかしら」
「跳躍したバイクを着地直前に蹴飛ばす練習ですか? さて、今後使う機会があるかどうか……」
夕妃は靴先で運転席のシートを蹴った。気弱そうな顔の運転手が、飛び上がらんばかりに体を揺らす。動揺をそのまま目に乗せて、ミラー越しに千尋と夕妃を交互に見た。
「あなたは遠まわしに嫌味を言うのが得意ね」
「それは心外です。僕は最短距離で嫌味を言ったつもりなんですが」
運転手からの抗議の視線が、千尋に向けられた。
「ところで、“あちら”は今回の事件で動いたのかしら」
夕妃は、自分たちと同様の力を持ちながら、相容れない存在であるもう一つの一族について言及した。一言でいえば、夕妃たちと彼らとは、出自が異なっている。夕妃たち
「どうでしょうね。明日、聞いてみましょう」
「また、文句を言われるだけでしょうけれど」
眞族は、感染者を発見し次第殺すという夕族のやり方を、野蛮だと非難している。自我をウイルスに奪われた彼らはいわば被害者であるから、施設への収容や苦しませることなく葬る方法――薬剤による安楽死――を選択するべきであると主張しているのだ。夕妃はそれを聞くたび、冷笑する。ためらいなく人を殺し、街を壊して暴走する者を止めるだけでも一仕事だというのに、それを生け捕りにする余裕などあるわけがない。その手加減が、被害の増加や感染者の逃亡に繋がることは明白だ。
「『人間の尊厳を』という主張は美しいけれど、彼らの理想は、能力に見合っていない。できないことを掲げて、結局最低限こなすべき感染者の駆除すら満足にできないなら、何の意味ないわ」
「まあ、こちらの方が数をこなしているのは、確かですが」
「ですが、なに?」
夕妃は窓ガラスに反射して映る千尋の顏を、不満げに睨んだ。
「賠償請求額が多いおかげで、稼ぎは同じくらいかと。特に、夕妃様がおいでになると、ほぼ毎回赤字です」
感染者の無力化率は十割だが、そのたびに建物や道路が一緒に破壊される。警察もある程度なら補修を肩代わりしてくれるが、今回炎上した倉庫のように商品が全て失われたとあっては、こちらにも請求が来るだろう。商品によっては、過去最高額に上る可能性もあると、千尋は考えていた。
「だって、派手にやらなきゃ面白くないじゃない」
「せめて屋敷や土地を売る羽目にならないように、気をつけてください。住む場所がなくなったら、困るのはご自分ですよ」
「私、今日の夕食は仔牛のソテーが良いわ」
「……かしこまりました、お嬢様」
千尋は携帯電話を取り出し、屋敷のシェフに繋がる番号をダイヤルした。
マンドレイクと呼ばれる、架空の植物がある。人間の姿のように根が二叉になっており、地面から引き抜く時には悲鳴を上げる。中世の魔術書などでは、地中に葬られた殺人者の身体を種にして育つと書かれ、その悲鳴を耳にすると、絶命してしまうらしい。シェイクスピアもジュリエットに、マンドレイクの悲鳴を耳にした人は狂ってしまうという趣旨の台詞を言わせている。
シェイクスピアの想像した悲鳴とは、おそらくこのようなものだろうと、夕妃は毎朝目覚めて思う。
暁闇の中、彼女が耳にするのは、鶏鳴などではなく、悪魔たちの声である。悪魔を知覚できるということは、見るだけでなく、その声を聞くこともできるということだ。これがオペラ歌手のような朗々とした声ならばまだましだが、ガラスを引っ掻いたような非常に耳障りな声である。
過去の書物には、悪魔は人を破滅させる前に狂わせるのだとあったが、それにはまずこの声を聞かせるに違いない。夕妃は既に慣れてしまった朝の儀式の中、のろのろと寝間着から外出用の服に着替えた。
カーテンを引き開け、朝の光を浴びる。業者に手入れをさせている庭は見事な薔薇に彩られているが、朝露に濡れた花弁を見つけるよりも先に、悪魔や鬼たちが妖精のように飛び交っている様子が目に入ってしまう。夕妃は嘆息し、ドアに向かった。
廊下に出ると、既に起き出した使用人たちの気配を感じた。食器を運ぶ音、食事の匂いがここまで漂ってきている。すれ違う使用人は夕妃の姿を目にすると一様に足を止め、丁寧な挨拶と共に頭を下げた。尊敬ではなく、自分への恐怖がそうさせている。その事実を確認しながら、夕妃は廊下を進んだ。
廊下の突き当たりに、両扉の開け放された部屋がある。食堂だ。足を踏み入れると、千尋は先にいつもの席に腰を下ろしていた。
夕妃も、その斜向かいの席につく。待ち構えていた給仕係たちが、朝食を運んできた。焼きたてのパンやスクランブルエッグ、サラダが並べられていく。朝日を浴びて健康的に輝くそれらは、見た目も中身も、リゾートホテルの朝食に引けを取らない出来だ。
無表情にテーブルの上を眺めながら、夕妃はグラスを手に取った。飲み物はまだ、注がれていない。中には氷だけが入っている。今にもオレンジジュースを注ごうとピッチャーを持ち控えていた給仕係が、訝しげに夕妃を見た。夕妃はおもむろに、口を開く。
「この氷、ずいぶんと濁っているわね。どうしたのかしら」
使用人たちの表情が、一斉に凍りついた。当然、原因を尋ねているわけではない。夕妃は白く濁った氷を出したことについて、叱責した。問題は、誰の失敗か、だけだ。
顔を見合わせた使用人たちの中から、若い女性の使用人が震えながら一歩前に出た。
「申し訳ありません、昨日、製氷機が壊れてしまって……普通の冷凍庫で作ったので……」
「他に方法を思いつかなかったのかしら。買いに行けば、氷くらいすぐに手に入るでしょう?」
「それは……」
そこまでするほどのこととは、屋敷中の誰もが考えていなかったのだろう。氷が透明でないことに、夕妃が機嫌を損ねるなど。
「あなた、もうここに来なくて結構よ」
使用人は顔を蒼白にし、喘ぐように口を動かした。その狼狽ぶりがおかしく、夕妃は小さく笑みを浮かべる。
「夕妃様、冗談はそのくらいにしましょう。早く召し上がらないと遅刻しますよ」
「私は冗談のつもりじゃ――」
「ところで、冷凍庫の氷がなぜ濁ってしまうのか、ご存知ですか?」
「知らないわ、そんなこと」
夕妃はフォークを手にして、その先をレタスに突き立てた。水分を含んだ繊維が、小気味よい音を立てる。
「まず、水に不純物があるとそれだけで濁ってしまいます。フィルターでろ過するか、煮沸する必要があります。もう一つ重要な条件は、凍らせる温度と時間です。家庭用の冷凍庫は普通マイナス二十度まで下がりますが、マイナス十度くらいの比較的高い温度で、ゆっくりと凍らせることで、透明な氷ができるそうですよ」
夕妃は再び、グラスを持ち上げてカラカラと揺らした。催促を受けた使用人が、慌ててジュースを注ぐ。一口飲んでから、夕妃は淡々と食事を進める千尋に目をやった。
「あなたの話は、つまらないわ」
「つまらなくて結構。正しい情報というのは、説教じみていてつまらないものです」
「この私にお説教なんて、いい度胸ね」
先ほど使用人を縮み上がらせたのと同じ目を、夕妃は千尋に向けた。しかし彼は眼鏡の奥の目を夕妃に合わせる気すらないらしく、早々に食後のコーヒーを飲み終え、席を立った。
「では、一旦失礼いたします」
背筋の伸びた後ろ姿に、使用人たちが熱の籠った視線を注ぐ。夕妃は乱暴にパンをちぎり、頬張った。
午前七時半、車は屋敷を出発した。昨夜と同じように、後部座席の運転席側に夕妃、助手席側に千尋が座っている。空はすっきりと晴れ上がり、細く開いた窓から入り込んだ乾いた風が、夕妃の髪を揺らした。首都圏と比べると、ここ日光の秋の訪れは早い。朝晩はひんやりと澄んだ空気が感じられるようになった。
「今日の仕事は何だったかしら。こんな日はのんびりしたいわ」
「今日は始業式です。理事長も参加すべきだと思いますが」
「どうせ、夏休みボケの生徒がぼんやり並んでいるだけでしょう。天井のスプリンクラーで冷水でもかけたら、目が覚めるんじゃないかしら」
「面白い冗談ですね」
口調とは裏腹に、千尋はにこりともしなかった。それを指摘しかけて、昔から彼の笑ったところなど見たことがないと、夕妃は気づく。
千尋が窓の外を無言で眺めているので、夕妃は鼻歌を歌いだした。機嫌が良いようにも見えるが、その旋律はシューベルトの「魔王」にほかならず、如何とも評価し難い。おどろおどろしい空気が車内に満ち、運転手だけが居心地悪そうにハンドルを握り直した。
三十分ほど走ると、道は上り坂に差し掛かった。緑が徐々に濃くなり、山深い景色に変わっていく。そしてこんもりと茂る山からせり出した崖の上に、目指す建物の姿が見えた。
私立
夕妃は、この学園の理事長を務めていた。夕族の長がその椅子に座ることが、長年の慣習なのだ。名ばかりの理事長は、時折開かれる会議に出席する以外は、書類に判を押す程度の仕事しかない、気楽な役職である。経営の面倒な部分は専門家を雇っているため、頭を悩ます必要もない。学園長は別にいるので、教育現場での問題も夕妃までは届かない。
学園入口の車寄せに到着し、夕妃と千尋は車を降り立った。寮は校舎の奥にあるため、こちら側に生徒の姿はない。バスや自家用車で出勤してきた教師や事務員が、二人に会釈し足早に通り過ぎていく。
職員玄関を抜け、階段を上がる。夕妃はゴシック調のワンピースの裾を踏まぬよう、慎重に歩を進め、その数段後ろを、千尋が上っていた。いつからか、彼は上りなら夕妃の後ろに、下りなら少し前に立つようになった。夕妃が命じたことではなく、自然と。
「そんなところにいなくても、転んだりしないわ」
憎まれ口を叩きながら、夕妃はちらりと考える。もし自分が階段から落ちそうになった時、彼は本当に助けてくれるのだろうか、と。あるいは、好機と考えて夕妃を突き飛ばすかもしれない。彼には、そうするだけの理由がある。守られているという安堵は一瞬にして、素肌をナイフの先で撫でられるような感覚に変わる。しかし夕妃は、その感覚を楽しんでもいた。
二階の廊下を、直進する。突き当りに、重々しい木造のドアが見えていた。夕妃が一日を過ごす、理事長室である。ドアの前で、夕妃は千尋から中身のほとんど入っていない鞄を受け取る。
「夕方にお迎えに上がります、理事長」
夕妃が頷くと、千尋は廊下を戻り、途中で右に折れた。向かう先は、職員室だ。彼は非常勤の化学教師として、教鞭をとっている。
「行ってらっしゃい、御巫先生」
聞こえないほどの声で呟くと、夕妃は理事長室の扉を開け中に入った。
千尋は職員室のドアを引き開けた。
通りがかった教師たちとあいさつを交わし、机の列を抜けて自分の席に向かう。椅子を引き、腰を下ろした時に、背後で回転椅子の軋む音がした。背中合わせの席から椅子ごと近づいてきた相手に、千尋は振り返らず答える。
「おはようございます、
「おはようじゃないわよ。昨日、また暴れたんですって?」
「暴れたのは僕ではなく、夕妃様です」
同じことだと、九鬼
紗矢も千尋や夕妃と同じく、「異才」の力を持っている。ただし千尋たち夕族とは別の勢力、眞族の人間である。
「こっちも防衛省から連絡を受けて茨城港まで二時間かけて行ったっていうのに、結局あんたたちが派手にやって台無しにしたそうじゃない」
引き出したい情報を勝手に喋ってくれた幸運に感謝しつつ、千尋はさらに尋ねる。
「九鬼先生も向かわれたんですか?」
「昨日は用事があったの。私がいたら、みすみすあんたたちにかっさらわれたりしなかったわ」
「それは残念でしたね」
淡々とした言い様が癪に障ったのか、紗矢の顔が般若のように歪んだ。
「大体、やり方が乱暴なのよ、そっちは」
何回と口にした文言を、紗矢は繰り返した。感染者への慈悲が足りない、一般市民への配慮が足りない、と彼女の目に映る夕族の至らない点を延々と挙げていく。紗矢は眞族では中枢で力を奮っているため、彼女の意見はそのまま眞族の意見であるといえた。
眞族は王政復古宣言の直後から軍と手を組んでいた経緯があり、現在も防衛省と密な関係にある。対して新興の夕族は警察からの依頼を受けることが多かった。現場レベルでの夕族と眞属の対立に加え、二つの組織も、PPV感染者の対処が絡むと手柄を争う形になり、根深い対立構図がある。
「ちょっと御巫、聞いてんの?」
「僕が聞いても意味がありません。直接夕妃様に言ってください」
千尋もまた、いつもの答えで応じた。さすがの紗矢も、夕妃には得体の知れない恐怖を感じるらしく、鋭い舌鋒がここで収められる。しかし今日は虫の居所が悪いのか、彼女は抜身の剣を振りかぶるが如く立ち上がった。
「いつも二言目には夕妃様って、あんたの意思はどこにあるの? 夕妃様は神様ですとでも言うわけ?」
どうやら彼女は、千尋が唯々諾々と夕妃に従う様子にいらいらとしているらしい。いかにも教師らしい怒りだ。
「別に、盲目的に崇拝しているわけではありませんよ。誰かを崇拝しすぎると自由を失う、という言葉もありますし」
「へえ、誰が言ったの?」
「確か……スナフキンだったと思います」
紗矢が口を開けたまま固まっているので、千尋は続けて言った。
「知りません? 『ムーミン』に出てくるスナフキン。彼は春になるとムーミン谷に戻ってきて――」
紗矢が千尋の机に手を叩きつけ、千尋は口を噤む。無理に張り付けたような笑顔で、紗矢が言う。
「あんた、ケンカ売ってんの?」
「滅相もない。九鬼先生に喧嘩を売ったら、怖くて夜道が歩けません。まあ、帰りはいつも車ですけど」
拳を振りかぶる紗矢の姿を目にし、千尋は分厚い教科書を頭の上に構えた。しかしその拳が振り下ろされる前に、紗矢を呼ぶ声が聞こえた。
「九鬼先生、学園長先生がお呼びでしたよ」
養護教諭の
「ありがとう。すぐに行くわ」
紗矢は御巫を一睨みし、職員室を出た。ちょうど広瀬も保健室に向かうところらしく、一緒に廊下を歩く。彼女はくすりと笑い声を漏らしてから、紗矢に言う。
「お二人は仲がいいですよね、本当に」
「どこをどう見たらそうなるのかしら。あんなロボット人間、どう仲良くなれっていうのよ」
「でも、御巫先生って生徒に人気があるみたいですよ。特に女子から」
「あの鉄仮面が?」
紗矢は目を大きく開き、大げさに驚いてみせた。有り得ない、と鼻で笑う。
「そこがクールでキュンと来るんですって。眼鏡をかけていても、顔立ちがいいのは一目瞭然ですしね」
保健室には連日、病気や怪我以外の理由で生徒がやって来る。華奢な容貌ながら不思議と包容力を放つ広瀬は、彼らから様々な相談事を受けるという。おそらくこの学校で最も生徒たちの本音を知る教員であり、彼女の情報の信頼度は非常に高い。
そんな彼女を疑うわけではないが、解せない。紗矢の表情を目にして、広瀬は微笑んだ。
「高校生くらいの子供たちって、自分ではわりと大人だと思ってるんです。それなのにいろいろ口出ししてくる教師って、鬱陶しいだけなんですよ。だから、余計なことを言わずに淡々と授業をして、見た目も格好良くてっていう教師の方が、子供たちの評価は高い。スマートな大人に映るわけです」
広瀬はにっこりと笑った。彼女は生徒と友達のように接するタイプだと思っていたが、存外に一歩引いた目線を持っているようだ。生徒たちは少々がっかりするかもしれないが、紗矢には頼もしく映った。
「じゃあ、広瀬先生はどういう教師を目指してるの?」
「私は狡い大人ですから、話を聞いて、その子の望んでいそうな意見を言うんです。相談に来る子の大半って、自分の考えていることを肯定してほしいだけですからね」
「なるほど、あなたが生徒に大人気の理由がわかったわ」
それに引き換え、自分は確実に鬱陶しい教師だと、紗矢は自嘲した。既に生徒から、名前と小柄な体格をかけて「小鬼」などと呼ばれていることは知っている。しかし今さら変えられることでもなく、変えるつもりもなかった。今はわからなくとも、社会人になってから、教えの意味をわかってくれる生徒もいるはずだ。それが本当の意味の教育だと、紗矢は信じていた。
広瀬と別れ、紗矢は学園長室の前に立った。ノックをすると、すぐに返事がある。深刻な話ではなさそうだと当たりをつけ、紗矢はドアを開けた。
「失礼します。どういったご用件でしょうか」
背筋を伸ばし、颯爽と足を運ぶ紗矢を、学園長にして眞族当主の
「昨日の感染者のことを、聞きたくてね」
カツンと、紗矢の靴の踵が鳴る。叱責されたかのように、紗矢は苦々しげに顔を歪めた。
「申し訳ありません。昨日は所用がありまして、私は現場には……」
鳴神は穏やかな顔で首をゆっくりと振った。
「いや、それは知っているよ。君にだって予定はあるだろうから、咎めるつもりもない。今回の件について、君の意見を聞きたかっただけだ」
紗矢はあからさまに、ほっとした顔を見せた。
「はっきり申し上げて、大失態です。初動から後れを取ってしまったため、感染者は、夕族の当主に無残に殺されてしまいました」
「改善には、何が必要だと思う?」
「情報収集に力を入れるべきかと。我々も、警察と同程度の監視網を作る必要があると考えます。一報が早ければ、夕族より先に現着できるはずです」
「なるほど。それから?」
紗矢はまっすぐに鳴神の目を見、強い口調で言い切った。
「夕族を、排除すること。彼らのやり口は、残忍に過ぎます。今回も、感染者は爆破に巻き込まれ、身体の一部すら残らず焼けてしまったそうです。そんな者たちが介入するから、我々も気を取られて本来の力を発揮できないんです」
「排除、か。それこそ難しいと思うが、できるかね?」
「やるしかありません。彼らは感染者の、人としての尊厳を踏みにじる存在です。このまま、許してはおけません」
尚も続けようとした紗矢だったが、ノックの音が遮った。二人は揃って、ドアを見やった。
「紗矢君、引き続き頼むよ。――入りなさい」
紗矢は一礼し、ドアを開けてやる。部屋に入ってきたのは、予想通り、早瀬の息子の
「失礼します。学園長、どんなご用件ですか?」
紗矢に似た口調に、鳴神は笑みをこぼした。幼いころから紗矢を家庭教師につけていたためか、彼は紗矢の持つ生真面目さまで身に着けたようだ。校内では父子の関係と一線を引き、学園長と生徒会長として接すると決めているのだろう。しかしそうなると、この頼み事には難色を示すかもしれない。鳴神は逡巡したが、結局、要件をそのまま伝えることにした。
懐から、携帯電話を取り出して、机の上に置く。淡いピンクのカバーと可愛らしい猫のストラップは、明らかに鳴神の物ではなかった。那月は首を傾げ、鳴神に尋ねる。
「それは、
「食卓の上に、忘れて行ったんだ。悪いが、那奈姫に渡してくれないか?」
「相変わらずですね。本家の人間だというのに、気が抜けている」
那月は遅刻すると騒いでいた妹の朝の姿を思い浮かべ、ため息をついた。那月が父の後を継いで眞族の当主となれば、彼女もまた重要な地位につく。しかし那奈姫はいつも太平楽に笑っているだけで、未来の責任を気に掛ける様子はなかった。
「こんなことでは、夕族に後れを取ってしまいます。昨日の件もありますし、せめて僕だけでも現場に――」
「まあその話はおいおい、ということにしよう。もうすぐホームルームが始まってしまう」
鳴神は壁掛け時計に目をやり、那月を促した。不満そうな顔を見せたものの、那月は那奈姫の携帯電話を手に、学園長室を出た。
父は甘いのだ。那月は内心で悪態をつきながら、那奈姫の教室に向かっていた。那奈姫のこともそうだが、それ以上に、夕族への態度が問題だ。こちらが自由に動けないのはひとえに夕族の横暴が原因だというのに、どうもあちらに遠慮しているように見えてならない。夕妃は確かに強かで得体のしれない怖さがあるが、毅然とした態度で臨まなければ傍若無人ぶりに拍車をかけてしまう。いずれ眞族は消滅させられてしまうのではないか、と那月は危惧していた。
「外来種は、早く駆逐しなければ」
若い那月の思想は、紗矢よりも過激であった。夕族の人間は殲滅するべきだと考えている。そのためには力と共に実戦経験が必要だが、父は中々現場に出ることを許可してくれない。まだ半人前だと言われているようで、それがさらに那月の苛立ちを募らせていた。
苛立ちの原因といえば、と那月は預かった携帯電話に目をやる。電源ボタンを押すと画面が明るくなり、パスコードの入力を要求してきた。那月は那奈姫の誕生日を入力した。違う。少し思案して、別の四桁の番号を入力した。解除された事実に、軽く舌打ちする。
二番目に入力した番号も、誕生日だ。非常勤の化学講師である、御巫千尋の。
那奈姫は何故か――那月にとっては本当に意味不明であるが――御巫に傍から見てもわかるほどに熱を上げていた。よりによって、夕族の、当主の片腕に。危険だ、立場上ふさわしくない、などと那月が警告しても、那奈姫が聞き入れることはなかった。かえって“許されざる恋”という響きに那奈姫を酔わせ、火に油を注いでしまった感すらある。
試しに電話の発信履歴を開いて、那月は再び舌打ちする羽目になった。一日と休まず、御巫の番号が連なっている。ここまでのアプローチを受けて、彼が飄々と受け流していることにも腹が立つ。可愛い妹が全く相手にされないというのも、兄としては複雑だ。
教室のある校舎に渡ると、途端にざわめきが聞こえてきた。久しぶりに会えた友人と談笑する、興奮気味の声。また学校が始まってしまったという、嘆きのため息。そんな生徒たちが、使命を持つ自分より子供に見えて仕方ない。自分には、彼らの知らない苦悩がある。そこに微かな優越感を覚えるのは子供らしい心理だが、当の那月はそれに気づいていなかった。
油断すれば仏頂面になりそうな表情を、生徒会長の仮面で覆う。冷静かつ柔和な人柄だと、周囲は那月を評価している。笑顔に癒される、と友人が女子の話をからかい混じりに教えてくれたこともあった。褒められれば、悪い気はしない。那月はことさらに笑顔を振りまき、生徒会長としての人気を確実にするよう努めていた。
那奈姫のクラス、二年一組に到着する。突然顔を見せた生徒会長に、クラスの視線が集まった。にこやかにあいさつを交わしながら、那月は那奈姫の姿を探す。友人との会話に夢中だったらしい彼女は、クラスメイトにつつかれてようやく那月に気づいた。ぱっと顔を輝かせてやって来る姿は、我が妹ながら可愛らしいと思う。
「これ、父さんから。家に忘れて行っただろ?」
「ありがとう、お兄ちゃん! 良かったあ。携帯ないと不安でさ」
「だからって、電話かけすぎなんじゃないか?」
那奈姫はきょとんとした顔で瞬き、数秒後、はっとして眉を吊り上げた。
「お兄ちゃん、履歴見たの? さいてー!」
「こ、こら、声が大きいだろ。とにかく届けたからな!」
那月は慌てて那奈姫を宥め、足早に教室を去った。
「もう、プライバシーの侵害だよ……」
ぶつぶつと呟きながら、那奈姫は席に戻る。先ほどまで話していた
「心配なんでしょ、ななちゃんのことが。愛ゆえ、ってやつじゃない?」
歩が根っからの那月信者であることを、那奈姫はすっかり失念していた。那奈姫がうらやましいと言わんばかりである。これ以上言い募るのもばかばかしいと、那奈姫はため息をついて憤慨を押し込めた。ともかく、携帯を届けてもらったことには、感謝している。これがないと、“彼”に連絡ができない。
「通話料定額だし、迷惑かけてないと思うんだけどなあ」
この少しピントのずれた感覚が、那月を心配させる要因なのだが、もちろん、那奈姫が気づく気配はなかった。
始業式の日は、ほぼやることがない。式が終わり、教室で簡単な連絡事項を担任から伝えられれば、それで終わりだ。午前中に、放課になった。夏休みの余韻を味わい尽くそうと、クラスメイト達が急いで教室を出て行く。那奈姫も、カバンに荷物を詰め終え、浮き立つ気分で立ち上がった。
「那奈ちゃん、もしかして、今日も行くの?」
「当然! じゃあ歩ちゃん、また明日ね!」
手を振る那奈姫は、既に駆け出している。
向かう先は、第二化学準備室。階段を一段飛ばしで上がり、最上階を目指す。人けのない廊下で、春に貼られてそのままの、部活勧誘のチラシがはためいていた。夏休みの間に、業者がワックスがけをしたのだろう、不自然な光沢を放つ床。ワックスの臭いが、まだ残っている。
廊下の窓が開いているのなら、いるはずだ。那奈姫はドアを勢いよく開け放った。
「失礼しまーす!」
細長い準備室の奥、窓枠に腰掛けていた部屋の主は、ゆっくりと顔を上げた。片手に、分厚い本。この距離では、専門書なのか小説なのか、判別できない。しかしそんなことは、那奈姫にとって重要ではなかった。
いつものようにソファの脇に鞄を置き、黒革のふかふかしたソファに体を沈める。好き勝手な方向にはねたショートカットの髪が、和毛のようにふわりと弾んだ。その姿を無言で眺めていた千尋が、呆れの混じった息を吐き、本を閉じた。
「始業日から来るとは思わなかった」
「始業日だから、でしょ。登校日から数えて、十日も先生に会ってなかったんだよ」
由々しき問題だというように、那奈姫は真面目な顔を作って口を尖らせた。かと思えば、ぴょこりと起き上って携帯を触る。何やら操作をしてから、千尋にくるりと画面を向けた。
「見て見て、この黒猫! 可愛くない? この間の登校日の帰りにね、花壇のところにいたの」
向日葵の根元に、頭から爪先まで真っ黒の猫が寝転んでいた。カメラも人間も気に留めないふてぶてしさが、写真からでも伝わってくる。エメラルドグリーンの鮮やかな瞳を、面倒臭そうに細めていた。
「可愛くはない気がする」
「えー、そうかなあ。名前も付けたんだよ、黒夜叉っていうの」
「……可愛くない気がする」
同意を得られないのは残念だが、千尋の反応が鈍いのはいつものことだ。那奈姫はめげることなくあっさり携帯をポケットにしまった。
「そういえば、黒猫って不吉なの? この前読んだ漫画に、悪魔の使いだって書いてあったんだよね」
那奈姫が思いついた疑問を聞き、千尋は記憶の引き出しを探るように、僅かに目を細めて宙を見た。那奈姫の好きな表情だ。切実に答えを探しているわけでもないのに、彼はいつもきちんと考えてくれる。
「黒猫と悪魔に直接的な繋がりはないと思うけど。ただ、黒色にマイナスのイメージがあるのは確かだね。デヴィルが着る制服は黒と黄色で、黒は死、黄色は隔離を表す、なんて記述もある」
「黒は、死……やっぱり不吉じゃん」
「色が襲ってくるわけでもないし、何か不安な要素がある?」
那奈姫は諦めて首を振った。超リアリストの彼に、こういった感覚を理解してもらうのは難しそうだ。たぶん、占いも風水も微塵も信じない人なのだろう。
「今日、部活は?」
「無いよ。明日から。家の道場に行ってもいいんだけどね」
那奈姫は剣道部員だった。全国大会に出場できるほどの腕前だ。那月も部員だが、顧問であり師匠でもある紗矢は、センスに関しては那奈姫の方が上だと評価していた。
「ほら、私お兄ちゃんみたいに勉強できないし、リーダーシップとかないし、剣道くらいはがんばらないと。……『鬼』だって、見えないから」
眞族直系の血を引く那奈姫だったが、何故か彼女には「鬼」も「悪魔」も知覚することができなかった。血液を調べれば、確かにPPVが検出される。その状態で自我を保っているのだから、「異才」の一族であることに間違いはない。しかし、同族の者たちのように鬼と契約することはできなかった。知覚できなければ、契約もできない。
知らず顔を伏せていた那奈姫は、香ばしいコーヒーの匂いに気づき、潤んだ目のまま顔を上げた。
「はい」
手渡されたマグカップを、両手で包み込む。たっぷりと砂糖の入ったミルクコーヒーは、猫舌の那奈姫にちょうど良い温度だった。微かに立ち上る湯気で、視界が滲む。
「それ飲んだら、帰りなさい。俺も昼には一旦、外に出ないといけないから」
那奈姫は素直に頷いた。窓を揺らす風は、朝よりも強くなっている。日光の天気は、変わりやすい。今は快晴だが、夕方には通り雨が来るかもしれないと、那奈姫は四角く切り取られた空を見て思った。
「別に、見えるからいいってことも、ないと思うけどね」
自分もコーヒーを啜りながら、千尋がぽつりと言う。
「鬼や悪魔が見えるって、どんな気分?」
「ラジオのノイズを聞いてるみたいな感じかな。勝手に現れて、騒いで、でも無視できない。はっきり言って、不快」
「そっかあ、だったら、見えない方がいいね。私、ラッキーかも」
強がりでしかないのは、おそらく千尋も気づいている。それでも、那奈姫は明るく声を張り上げた。声の震えは誤魔化せたが、カップを持つ指先の震えは、止められなかった。そんな那奈姫を見て、千尋は自分のマグカップをテーブルの上にそっと置き、口を開いた。
「そのままで大丈夫だよ。君は一族の落ちこぼれなんかじゃない」
温かい飲み物のように、その言葉は那奈姫の胸に沁み渡って、じんわりと温もりを発した。今度は別の感情で、視界が滲む。慌ててミルクコーヒーをごくりと飲み込み、那奈姫は歯を見せて笑った。
「ありがと、先生。がんばれそうな気がしてきた!」
「頑張る必要もないと思う。俺なんて、ここ数年がんばった記憶なんてないし」
「あはは、確かに先生が必死なとこは想像できないね! でも私って不器用だから、がんばってようやく人並なのです。じゃあね!」
ソファから弾みをつけて体を起こすと、那奈姫は軽やかな足取りでドアに向かった。一旦ドアの前でくるりと振り返り、瞳を揺らして千尋を見る。
「でも、また不安になっちゃうかもしれないから、そういう時は、電話してもいい?」
「いつでも、かけておいで」
那奈姫はほっとした表情を浮かべ、ここへ入って来た時より幾分自然な笑顔を見せた。廊下を駆けていく音が反響し、徐々に小さくなっていった。
部屋に吹き込む風が冷たくなり、千尋は窓を閉めに立った。時計を見れば、退勤の時間が迫っていた。
夕妃の世話係を理由に非常勤の立場にいる千尋は、常勤の講師のようにクラス担任を務める必要もなく、負担は軽い。とはいえ、二学期開始にあたっての細々とした事務仕事や、一週間後に行われる実力テストの問題作成の仕事は回ってきていた。だがそれも、無理をして今日片付けなければならないほどでもない。このまま切り上げることに決め、千尋は帰宅の準備を始めた。
夕闇に沈む廊下の空気は、部屋よりさらに冷えていた。細く開いた窓の向こうから、日暮らしとコオロギの二重奏が聞こえる。夏の果てと初秋が同時に訪れる忙しなさは、降りかかる問題に対処するだけで過ぎ去る自身の日々とも重なり、千尋はぴたりと窓を閉てた。
準備室の鍵を閉めた時に、ふと気配を感じ、千尋は廊下の突き当りに目をやった。
黒々とした影が床に延び、動いていた。影は床を舐め、壁を登る。天井に届くまで目一杯に肥大するころには、千尋もその正体に気づいていた。
「珍しいですね、こちらまでいらっしゃるなんて」
影よりも濃い闇に、千尋は話しかける。黒衣と黒髪を纏った夕妃は、悪戯な笑みを浮かべていた。
「待ちくたびれてしまったの。驚いた?」
「ええ、逢魔が時に、本物の魑魅魍魎が現れたのかと思いました」
「失礼ね、あなたは」
「そうでしたね。夕妃様の方がずっと、強くて恐ろしいですよ」
夕妃は眉をひそめ、千尋に向かって鞄を突き出した。彼は黙ってそれを預かり、下り階段に向かう。
「そういえば、逢魔が時は、大禍時とも書くそうですよ。ご存知でしたか?」
「あら、なんだか素敵なことが起きそうな時間ね」
夕妃は階段をひらりと降り、千尋を追い越す拍子に彼の眼鏡を奪った。咎める声に笑みで答え、レンズを覗く。度は入っていなかった。
眼鏡は切り替えのためのスイッチなのだと、千尋はかつて夕妃に説明した。学園では、理事長と教師。一歩学園を出れば、一族の当主と補佐、あるいは女王様と従者。夕妃は眼鏡を奪い、彼の教師の仮面を早々に剥がそうとした。
「あの子、また来たの?」
鼻を掠めた砂糖とミルクの香りに、夕妃は不機嫌さを露わにする。
「甘ったるい匂いがするわ。お子様の匂いが」
「高校生は、まだまだ子供ですよ」
夕妃を宥めるように、千尋が言う。夕妃も、その言葉に異論はないようだった。
「そのくせ、小難しいことを頭の中でこねくり回しているのよね。自分の知っている世界なんて、まだ箱庭のそのまた中に建つ家くらいに狭いのに、勝手に不安になったり、自分に失望したり。面倒で、アンバランスな生き物だわ」
「アンバランス……」
千尋は先ほどの、那奈姫の姿を思い出した。表向きは明るく振る舞いながら、完璧な兄に対するコンプレックスや、家族への負い目を感じている。異才が絡んでいる点は特殊だが、ごく一般的な高校生にも通ずる悩みだ。彼女の場合、家族にすら打ち明けられず、本来の自分を見せられないことが、余計に拍車をかけているかもしれない。
「PPV感染者が高校生に多いのも、そのアンバランスによるのではないかしら。平衡を保てないものは、脆いわ」
「その真偽のほどはわかりませんが、我々が教師なんて仕事をしているのも、それが理由ですね。教師の肩書があれば、他校の生徒に接触しても、それほど怪しまれませんから」
ようやく夕妃から眼鏡を取り戻した千尋は、それをジャケットの胸ポケットにしまう。一階に降りた二人は、朝とは逆の道を辿った。正面玄関に向かう廊下の左右の壁には、歴代の学園長や理事長の写真が掲げられていた。左側が理事長、右側が学園長。まるで、睨み合うかのように。夕妃は一つの写真の額を、指先でなぞる。
「でも、外の人たちがこの学園の実態を知ったら、驚くでしょうね」
この学園は夕族と眞族、二つの異才の一族が出資し作り上げた、いわば隠れ蓑だった。理事長を夕族の長、学園長を眞族の長が歴任し、教職員の半数以上は、どちらかの一族に属している。学園が国の認可を受け、一般に存在を知られている以上、外からも生徒は入って来るが、全校生徒の約二割は異才を持つ一族の人間である。
夕族と眞属は、友好関係を築いているとは言い難い。しかし、幾度目かの迫害を受け、一族の存続が危ぶまれた時、一族の長が共同で居場所を確保すること決断した。ひっそりと集団で暮らしていれば、余所者の入る隙間はなくなり、よしんば入り込んだとしても、すぐに排除できる。彼らの管理に頭を悩ませていた政府も、一か所に留まることに賛成し、学園の設立が認められた。
「驚くだけでは、すまないでしょう。危険だと叩かれて学園も潰れますよ」
管理が容易である反面、人知を超える力を持つ者が束になれば、脅威にもなる。
「それはそれで、せいせいするわ。眞族の人たちときたら、『鬼』や『悪魔』とだっていつかは分かり合えるなんて真顔で言うんだもの。あれはもう、危ない宗教と同じだわ」
その点でも、眞族と夕族の見解は異なっていた。「鬼」と名付けたことだけでも、眞族がそれを完全な悪と見做していないことが窺える。
仏教系の鬼とされる羅刹や夜叉は、地獄に繋がる恐ろしい存在として描かれているが、民話では祝福に来る祖霊なども鬼と呼ばれており、必ずしも恐ろしく話の通じない相手というわけではない。放逐者や盗賊などの人間が鬼となった話や、憤怒や怨恨など情念のエネルギーにより人間から鬼となった者の話も残されている。元来が人間であるという設定には、分かり合える、あるいは分かり合いたいという意思が、透けて見える。感情を持ち合わせ、同情の余地のある存在として鬼を定義しているのだ。
対して夕族は、「悪魔」は完全に人と異なる存在として距離をおいている。中世のデーモン信仰では、悪魔との契約にはまず、悪魔の召喚が必要だとされていた。様々な決まりごとがあり、そのステップを経てようやく、悪魔と契約できる。人間の知り得ない世界で、人間の言葉を用いない者たちを、自分の欲望のために利用する。それが悪魔に対する、人間のスタンスになっているのだ。悪魔の方も、人間に力を与え、手を貸すように見えるが、それは契約者が悪魔の餌――暴走するPPV感染者――の近くにいるからに他ならない。
鬼にしろ悪魔にしろ、書物を綴った人間がどのような印象を抱いていたのかは、今となっては確かめようがない。しかし名もなき不思議な存在と、それに付随する“物語”は、少なからず著者の思想を反映しているはずだ。認識の差がそのまま物語に表れたという考えは、決して乱暴ではない。
そして感染者への対応も、その認識の差が理由である、と千尋は考えている。眞族にとっては、鬼ですら分かり合う術を模索すべき存在なのだから、元は普通の人間である感染者たちは、より自分たちと近い存在だ。問答無用で殺すなど、とんでもないという結論になる。
「そのうち、感染者には更生の余地があるとか言いだすのでしょうね」
同じことに思いを巡らせていたらしい夕妃が、そう言った。
「でも、今の医療技術でそれは不可能だわ。脳に寄生したウイルスを除くことも、感染した人間の発症を抑えることもできない。HIVの方がまだ対策が進んでいるわ」
その挙動や感染経路が酷似していることから、PPVとHIVは比較されることが多かった。どちらも感染者の体液を巡り、感染経路は性行為感染、母子感染、血液媒介感染だ。HIVには遺伝子の違いによりタイプIとタイプⅡがあるが、PPVも同様に、I型とⅡ型に大別できる。Ⅰ型は北米やヨーロッパ、Ⅱ型はアジアを中心に感染が拡大していった。日本ではかつてⅡ型しか確認されていなかったが、現在ではⅠ型の感染者も見られる。その原因が夕族の移住であると眞族は主張しており、夕族を外来種という蔑称で呼ぶことも間々ある。
しかし、発見されてから日が浅く、感染者が暴れて十分な情報収集もできないことから、PPVは治療法が全くない状況だ。HIVの場合、抗HIV薬によりウイルス複製を抑えることができるが、PPVの場合、まだどの薬剤を用いるか、試行錯誤している段階である。
「恐ろしいウイルスです。それが自分の体内を回っていると思うと、ぞっとしますね」
電灯に自らの手をかざし、千尋は言うが、無表情のままでは本当にウイルスに恐怖を覚えているのか、判然としなかった。
「そのおかげで、私たちは腫物のように扱われる。ウイルスの運び屋、いいえ、ウイルスの乗り物かしら」
「子孫を作れば、耐性と共にウイルスもまた受け継がれる。いっそ我々が血脈を途絶えさせれば、宿主を失ったウイルスもやがて消えるかもしれません」
「でも、それはできないのよね。私たちは体内にウイルスを飼うと同時に、ヒトとしての本能も残しているから。人を愛することも、その人との子供が欲しいと思うことも、理性では止められないわ」
ふいに夕妃の視線が熱を帯びたのを感じ取り、千尋は目を逸らした。
「私たちは、ウイルスに侵されて自我を失った人間とは違う。人を愛したいと思う心がある。それって、素晴らしいことじゃない?」
千尋の手首を、夕妃が掴む。柔らかく冷たい指先の下で、血管がどくりと脈打つ。逃がさないと見上げる彼女に、一瞬だけ視線を向け、彼はため息をついた。
「不幸な方ですね、夕妃様は」
「あら、どうして?」
「届かない思いを抱き続けることほど、不幸なことはないと思いますけれど」
夕妃は微かに首を振り、そうでもないわ、と楽しげに答えた。
「案外、片思いも悪くないわよ」
車寄せには、まだ迎えは到着していなかった。見上げれば、青々とした黒雲が空を覆っている。遠く、雷鳴が聞こえた。
「遅いわね」
「違います、僕らが早すぎるんですよ。本来なら、まだ勤務時間中です」
腕時計を見ながら、千尋が言う。また難癖をつけて解雇などと言い出したら敵わない、と夕妃を牽制した。現在運転手を務めている桜沢(おうさわ)は千尋と同年配の若さだが、気弱そうに見える割に、長く勤めあげている。裏を返せば、長続きする者が今までいなかったということだが、それは何も運転手に限ったことではなかった。異才のあるなしに関わらず、夕妃を見た人間は本能的な恐怖を覚えるらしい。加えて理不尽な叱責を受けることも多く、給与が多少高くとも、辞める者は後を絶たない。
「降ってきたわ」
ぽつり、ぽつり、とアスファルトの地面に染みが落ちた。大粒の雨は瞬く間に、地面を黒く染めていく。叩きつける雨が虫の声をかき消し、穏やかな夕暮れは、滝の中のような轟音に飲み込まれてしまった。凶暴な風雨が迫り、二人は壁際まで下がって雨を眺めた。
「あの日も、こんな雨だったわね」
雨音は騒々しいが、自分の声は千尋の耳にしっかり届いていると、夕妃は確信していた。
この話をするとき、夕妃はいつも自然と笑みを浮かべる。それは眼前の獲物を捕食する前に弄る、猛獣のような気分だった。夕妃から目を逸らし、素知らぬ顔で、千尋は答える。
「もっと、ひどい雨でしたよ。悲鳴も聞こえないくらいの」
「そうだったかしら。でも、確かに私も悲鳴を聞いた覚えはないわ。あなたのご両親が、血塗れで倒れていた場面なら、よく覚えているけれど。雨が、その血を洗い流して……そう、流れる水が川のようになって、赤い血が溶け込んで、とても幻想的だったわ。それから、あなたが来た」
じわじわと浸食させるように、夕妃はゆっくりと語る。その横で、千尋は目を閉じていた。瞼の裏に、その時の光景を映しているのだろうか。夕妃はその様子を見て、言葉を重ねた。
「あなたは、あなたの両親を殺した私を、殺そうとしたわね」
「ええ、あの時は、失敗しましたね」
彼は当時、高校生だった。夕妃は今の千尋の横顔と、過去の彼を重ねる。あの頃より幾分背が伸び、少年の面影を残していた輪郭は、よりシャープになった。そして純真さを宿していた瞳は一時、怒りに燃えたが、今では凍った水面のように揺らがず、ただ機械的に物を映している。
自分が、彼をそのようにしたのだ。夕妃はそれを実感するたび、昏い喜びに満たされる。
「次は、失敗するつもりはありません」
「できるかしら、あなたに?」
千尋の目の中に、ほんのわずかに、波立つ感情が現れる。夕妃はそれを、食い入るように見つめた。
「……僕はあなたを、殺します」
「そう、楽しみにしているわ」
水音に目をやれば、ようやく、車が雨の中門をくぐるところだった。
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