ダークサイド・ゴシック
小松雅
序章
この世界で起こる、あるいは起きたすべての物事には、きっかけがある。
ドミノの一枚目のピースのように、パンデミックの最初の感染者のように。
ならば、あの事件にもきっかけがあったはずだ。どこかに、奇跡的な悲劇の連鎖の、引き金が。
事件が起きたのは、今から五年ほど前、私が高校生だった頃のことだ。半日足らずのうちに、私の通っていた学校でたくさんの人が死に、または重傷を負った。一生徒の私には十分な説明もないまま、学園は廃校となり、事件のことも共に葬られてしまった。おそらくは何か大きな力が働いたのだろう、小さな新聞記事と数十秒のニュースで報じられただけで、それ以上追及されることはなかった。
私は報じられなかった事実を、必死で追い求めた。しかし事情を知る者は既にこの世にいないか、生きていても行方不明、探し当てた者は口が堅く、予想以上に難航した。
それでも諦めなかった理由は、ただ一つ、恐れていたからだ。
私が、あの事件の「きっかけ」を作り出したのではないか、と。たった一言で、私は引き金を引いたのかもしれない。私の罪の正体を、私は明らかにしたかった。
そして私は、事件の中心人物であった、ある女性の元に辿り着いた。
――よく来たわね、お入りなさい。
私の姿を認めた彼女は、小さな体でありながら逃げ出したくなるほどの威圧感を湛え、私に言った。
一軒の、庭付きの小さな家。生垣に咲く見事な薔薇は、滴る血を染み込ませたように紅い。
唐突に、彼女は薔薇に似ていると思った。美しく気高く、人を惹きつけるが、茎には鋭い棘を残していて、迂闊に触れれば指先に花弁の色と同じ赤が珠のように浮かぶのだろう。
それにしても、私が今見ているものは、聞いているものは、果たして現実なのだろうか。
私がそんな風に困惑したのは、再会した彼女が、私たちの常識を超越した存在になっていたからだ。一度死んだ命は蘇らないし、精神と身体は分離できない。そういった自明の認識を、彼女は優雅に覆してしまった。
しかし、幻ならそれでも構わない。私が信じるならば、それは私にとっての真実だ。あの時より少しだけ大人になった今なら、真実というものはそれぞれの頭の中にあるのだとわかる。
何かを、誰かを信じるということ。それはなんて難しいのだろう。
そして、裏切ることはなんて容易いのだろう。
私たちの世界は、いとも簡単に反転する。
そう、これは裏切りの物語だ。
思いが通じていたはずの人間が、このまま続くはずだった平穏が、変貌していく。
そして私も、たった一人の親友を裏切ってしまった。
だから、私は彼女の語る真実を求める。自分の罪を暴くために。
薔薇に囲まれた部屋で、彼女は甘いミルクの匂いと共に私を迎え入れ、語り始めた――。
――それで、あなたはあの日のことを尋ねに来たのね?
確かにあなたにとっては、疑問だらけでしょうね。複数の人間が死んでいるのに、記事はごく小さいものだったし、続報もなかった。結局誰が死んだのか、誰が犯人だったのか、そんなことは何も報じられなかったわ。
でも、あなたの場合、ただの好奇心というわけではなさそうね。ここまでたどり着くには、それなりに苦労したでしょう? 正直、驚いたわ、この場所を突き止める人がいるなんて。何がそこまであなたを駆り立てたのか、聞いてもいいかしら。
……そう、あなたは恐れているのね。自分の不用意な一言が、あの惨劇を引き起こしたのではないか。それを否定してほしくて、ここに来た。違う? ……ごめんなさい、そんな言い方は、意地が悪いわね。
まあ、そこにお座りなさい。あの事件は絡まった糸のように複雑で、説明には長い時間がかかるわ。
紅茶はお好き? その棚の中に、茶葉があるの。缶がいくつか並んでいるでしょう。ダージリン、アッサム、アールグレイ……電気ポットに、お湯も入っているはず。ごめんなさいね、私はこんな身体だから。私? じゃあ、ミルクをくださる?
ありがとう。あなたは優しいのね。それに、とても柔軟だわ。こんな状況、普通の人なら、気が狂ったと思うでしょうに。それとも、そんなことが気にならないくらい、あの事件に囚われているのかしら。
さて、喉も潤ったことだし、はじめましょうね。
まずは、そうね、「悪しきモノ」の話をしましょう。事件の直接的な凶器になったもの。事件にかかわった人たちが、目にしたもの。まだその存在に懐疑的な人もいるようだけど、それは確かに存在している。
この日本では、それは「鬼」と呼ばれているわ。一口に鬼と言っても、宗教的な背景をもっていたり、民話の中に登場したり、その出自や意図は異なるのだけど、今はそこまで踏み込む必要はないわね。これは単なる呼称だから。人間の想像を超越した、奇怪な存在。だから、あなたのイメージする鬼でいいわ。
とはいえ、突然そんな曖昧な話をしても理解できないわね。とりあえず、学校の授業みたいに古典を紐解いてみましょうか。
「鬼」は、太古の昔に登場していたのよ。日本で「鬼」の字が初めて使われたのは、「出雲国風土記」。編纂を命じたのは、元明天皇だそうよ。和銅六年――西暦でいうと、七一三年ですって。ほら、途方もなく昔でしょう。
それから、「日本書紀」。あれにも、「鬼」が出てくるわ。読み方は、おにではなくて、”もの”だそうだけれど。”もの”はね、まがまがしい現象の源として認識されていたんですって。目に見えず、手に触れることもできない。だけどそこに在る、恐るべきもの。当時は雷や地震のような自然災害だってうまく説明の付けられるものではなかったでしょうから、あらゆる脅威を一緒くたにして、見えないながらも近くに感じられる災いの源を鬼と呼び、怯えていたのでしょうね。
「倭名類聚抄」にも、興味深い記述があるわ。ちょうど、紀貫之が「土佐日記」を書いたころの書物よ。こんな一文がある。
「鬼は物に隠れて現るることを欲せざるゆえに、俗に呼びて隠と云うなり」
ここにも、「鬼」は人の前に姿を現さないものだという認識があったということよね。
一方で、西洋やアフリカ諸国には「悪魔」、あるいは「デーモン」と呼ばれる存在があった。その起源は「鬼」以上に古いわ。少なくとも、二千年前。エジプト神話の神が伝承により広まって、後にデーモンの姿になったなんて話もあるから、紀元前と考えてもいいかもしれない。
面白いことに、デーモンも鬼と同じく、通常目に見えないものだと定義されているのよ。十三世紀ごろに、マイケル・スコットという占星術師で数学者で、魔術師(!)でもあった人がいたのだけど、彼は、デーモンは自然の力を支配する大きな力を持っていると主張したそうよ。すさまじい嵐や強風が、実際にはデーモンの仕業であるって。これって、鬼に対する認識とよく似ているわよね。
悪魔を描いた作品で一般的に知られているのは、ダンテの「神曲」でしょうね。彼の捉えた地獄のイメージは鮮烈だわ。地獄に堕ちた魂には終わりも救済もなく、デーモンたちに苦しみを与えられる。当然ながら、悪魔は完全なる「悪」として描かれているわ。
それから、興味深いのは「魔女の槌」ね。悪名高い魔女狩りの時代を開くきっかけとなった書物よ。この本の何が興味深いかというと、現世での人間と悪魔との関係を記した部分があるということ。魔女は悪魔と契約し、悪魔に仕えて忠誠を尽くす。悪魔の力で変身し、空を飛ぶ……。そんな風に伝えられているわ。
さて、ここまでが、文献の中の鬼と悪魔について。この程度の情報なら、あなただって知ることができるわ。でも、この鬼と悪魔が本質的に同じものだと気づく人が、どれだけいるかしら。
目に見えない、災いの源……そう、姿かたちは違っても、あれらは同じなの。それが、「悪しきモノ」の正体よ。そして、彼らは私たち人間の、すぐそばにいる。
なぜなら、「鬼」も「悪魔」も、人を喰うものだからよ。肉体をバリバリと喰うわけではなくて、情念とか、怨念とか、そんな風に呼ばれるものを。彼らは一様に、醜くて猛々しい感情が大好きなの。だから、人の近くをうろうろしているのよ。
面白いことに、世界各国の文化が融合していくにつれ、鬼と悪魔も共存するようになったわ。つまりね、この日本には今や、鬼と悪魔の両方が跳梁跋扈しているわけ。
……ここまでは、大丈夫? 信じられないかしら。ふふ、狐につままれたような顔をしているわ。
無理もないわね、あなたには、見えないのだから。鬼も悪魔も、見える人間はごく一部よ。
でも、あなたにも方法がないわけじゃないわ。ただし、引き換えに、人間であることを放棄する羽目になる。あなたのお友達のようにね。
その方法は、あるウイルスに感染すること。ウイルスの名は、PPV。Psychopath virus――その名の通り、まるでサイコパスのような振る舞いを引き起こす、恐ろしいウイルスよ。
そもそも、サイコパスに分類される精神病質者は、衝動的、不誠実で口達者、自己中心的で傲慢、さらには良心や罪悪感の欠如――まともな社会生活は到底送れないような特徴が見られるわ。同様に、PPVに感染すると、特に罪悪感の欠如が著しく発露する。欲望のままに行動し、それがたとえ他の人が損害を被ることだとしても、歯牙にもかけない。
例えば強盗殺人。その時、殺人はせいぜい邪魔な荷物をどけるくらいの意識なの。彼らは他人を物としか見ておらず、後には大金を得た満足だけが残る。そういう人格になってしまうのね。
人間臭い欲望を、彼らは非人道的な手段で叶えようとする。ウイルスは欲望を満たすための、あらゆる枷を外す。その意味では、感染者はウイルスではなく自身の欲望に操られているといえるかもしれないわね。
医学的には、脳の神経回路の異常がその原因であることが示唆されているわ。大脳には
そしてPPV感染者にも、同様に鈎状束の異常が見られる。症状のレベルも、鈎状束の異常レベルに依存するらしいわ。
さらにもう一点、特筆すべき症状――あるいは、能力が確認されている。先ほどの話の通り、感染者は「鬼」や「悪魔」を見ることができるようになるの。そちらの理由は、医学的には全く解明されていないわ。ウイルスが脳の感覚野に影響を及ぼすのかもしれないという、漠然とした推測があるだけ。そもそも公式に「鬼」や「悪魔」の存在を認めている機関がないから、研究も進んでいないの。
でも、ただ見ることができるだけなら、そこまで問題にはならない。問題はね、私たちの学園で起きたような事件が起きることよ。感染者は悪魔や鬼を知覚し、時には彼らと契約を結んでしまう。
ええ、まるで中世の魔女ね。もちろん、PPVは性別に関係なく感染するものだけど。
契約により、感染者は人知を超えた力を得るというわけ。契約する相手によって、得る力は違うわ。炎や氷を何もないところから出したり、幻を見せたり。使い方を間違えなければ有用な魔法にもなるのでしょうけれど、残念ながら、PPV感染者は世のため人のためにはその能力を使ってくれないのよね。むしろその逆。意気揚々と人を傷つけるわ。
治療法? いやだわ、そんなものあるわけないじゃない。彼らを止める方法はただ一つ、ウイルスごと生命活動を停止させることよ。要は、殺すの。
暴れる感染者を止めるのは、とても大変。警察や自衛隊が出動しても、生身の人間では対処できないこともある。そんな時は、私たちの出番。
そう、私たち一族は、悪魔や鬼を知覚できるの。知覚できるだけでなく、契約し、特別な力――
日本で有名なのは、あれね、陰陽師という人たち。彼らは鬼を見ることができ、かつそれを払うことを生業にしていた。日本には彼らの末裔がいるけれど、まさに今説明したような形質の持ち主たちよ。
陰陽師の血を継ぐ者たちは、目にした鬼を記録に残しているわ。系統だったものではないけれど、鬼に名を与え、能力や姿を記してあるの。現代の子孫たちは、それを秘伝の書として受け継ぎ、その記述を元に鬼に対処しているわ。
彼らの偉大な功績はもう一つ。日光という霊験あらたかな土地に、鬼たちを封じたことね。結界に守られ、当時天皇のいらした京の都や現代の首都東京には、鬼がやって来ることはない。
私たちはというと、先祖はロシアからの移民だと聞いているわ。私たちに馴染み深いのは、鬼よりも悪魔ね。私たちにとってのマニュアルは、「エノク書」という黙示文学の一つよ。世界の終末に関する文学らしいけれど、宗教的な側面については私もよくわからないわ。というより、黙示文学の体裁をとっているけれど、実際は悪魔を分類したものなの。これを記した者は、確実に悪魔を知覚できた人間ね。何故なら、エノク書に記された悪魔の特徴と私たちが目にする悪魔の特徴とが、ぴたりと一致するから。かなり詳細な系統分類もなされているわ。言うなれば、図鑑ね。
鬼は陰陽師秘伝の書、悪魔はエノク書。人間は得体の知れぬ「悪しきモノ」への対策を講じるため、名前を付け、姿を記録した。それは、鬼や悪魔との苦闘の記録でもあるわ。戦わなければ、いずれ、ヒトという種が途絶えてしまうと案じたから。
だから子孫である私たち異才も、無力な一般市民を守るため、力をふるうってわけ。
感謝なんて、されたことないわ。だって私たちは普通の人間から見れば、遠ざけるべきPPV感染者の亜種でしかないもの。或いは、超能力を持つ化け物。この血にはウイルスがいるのだから、仕方のないことだけれど。
だから私たちは、ひっそりと、一族で固まって暮らしてきた。異才に気づかれぬように、迫害を受けないように。
あの学園には、私をはじめ、異才を持つ者たちが多くいたの。何と言っても、隠れ蓑のために作られた学園だったから。あなたは知らなかったでしょうけどね。
だからあの事件で死んだ者も、全員が「悪しきモノ」を知覚していたというわけ。そして、それがヒトに与える力によって、彼らは殺された。
でも、どうしてあそこまでの惨事になってしまったのかしら。あなたの親友がウイルスによって暴走したから? いいえ、それだけではないわ。私もあれからずっと考えているのだけど、どこで歯車が狂ったのか、何が引き金だったのか、わからないの。すべてはあっという間に起こり、後には死体が残った。そんな気がしている。
罪は一体、誰にあったのか。
そうそう、罪といえば、七つの大罪って聞いたことがあるかしら。憤怒、驕り、嫉妬、怠惰、暴食、強欲、欲情の七つ。奇しくも主要な登場人物が七人。彼らがそれぞれ七つの大罪を抱えていた、なんてお話なら、面白いわね。
でも私、事件の原因はこの大罪の中にはないと思うの。あえて言うなら――愛。
あら、そんな顔しないでちょうだい。私は大真面目よ。誰かが誰かのためを思い、行動した結果。それがあの事件を生んだ。何とも悲劇的で、美しいとは思わない?
あなたも話の続きを聞くつもりなら、考えてほしいの。歯車を狂わせた、はじまりの狂気が、どこにあったのか。そうすれば自ずと、あなた自身の罪の在り処も見えてくるはず。
答え合わせは、お話の後ね。楽しみにしているわ――。
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