第十三話 「お前ら、一体どうしたんだよ」
という訳で、私は九月の最終日曜日に宮城県岩沼市にある竹駒神社にいた。
境内にある、神社の来歴を綴った案内板によると、この神社は承和九年(西暦だと八四二年!)に、小倉百人一首で有名な
以降、奥州藤原氏や伊達家の庇護を受け、更には日本三稲荷の一つに選ばれ、参詣する人が絶えないというのだが――
地元民としてはどうしてこんな辺鄙なところにわざわざ神社を建てたのか、不思議でならなかった。
そもそも、
と、そんな八つ当たりのようなことを考えていると、
「あら、阿部さん。もう着いていたの? さすがは地元ですね」
という西條先輩の声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには頭の天辺から足の爪先まで、隙間なく磨き上げられたお嬢様が立っている。
東北地方の秋は急激に深まる。
九月末ともなれば既に肌寒い。
ゆえに、西條先輩は頭に茶色のベレー帽を載せ、焦げ茶色の厚手のワンピースに黒と黄色のチェック柄に編まれた大きめのショールをふんわりと併せ、黒いストッキングに包まれたすんなりとした足で、茶色のコインローファーを履いていた。
さらに、
「遅くなりましたー」
と言いながら、かおりちゃんが現われた。
こちらは濃い茶色と明るい茶色が格子状に組み合わされた、見た目も鮮やかな和服に、僅かに緑がかった帯をきりりと締めている。足元は太めの赤い鼻緒がついた草履、肩には落ち着いた色合いの赤い肩掛けが載っていた。ふわふわとした髪が和服にあわせて結い上げられている。
私はといえば、Tシャツに黒赤チェックのネルシャツ、ジーンズにスニーカーをシンプルにあわせていた。
*
先日、弓道場で西條先輩に『九月最終日曜日の予定』を聞かれて、特段の予定がなかった私は、
「いまのところ空いていますが、何かあるのですか」
と尋ねた。
聞くと「竹駒神社で弓道大会が開催されるから参加しませんか」というお誘いで、三笠先生にも事前に了解を貰ってあるという。
そして、私の家がある名取駅から竹駒神社のある岩沼駅には、通学の時と反対側に電車で少しだけいけばよい。さほど面倒でもないので、
「じゃあ、せっかくの機会だから私も参加します」
と、よく考えもせずに答えてしまった。
その後、巻藁練習中に加奈ちゃんと二人になった時、その話をしてみたところ、彼女は、
「ああ、それね。私はその場で断ったよ」
と軽く言う。
その理由を尋ねると、加奈ちゃんはなんだか胸を張ってこう言った。
「まず、理穂ちゃんと早苗ちゃんは、自宅から竹駒神社まで出るのがかなり面倒なので、それを理由に最初から断るものと推測する」
それは事実です。彼女達は残念そうに断りました。
「さすれば、言い出しっぺの西條先輩は当然参加するとして、恐らく自宅から車で送迎されるはずの、神社大好きかおりちゃんが参加するのは間違いない」
仰る通りです。かおりちゃんは即座に了解したそうです。
「加えて、当日は日曜日であることから、西條先輩とかおりちゃんは当然、制服ではなく私服を着ることであろう」
その通りです――何だと? ということは!
「ほほう、貴殿がいかに危機的な状況に置かれることになるか理解できたようだね。よって
いやもう、すっかり引き立て役に収まっています。
*
私は、昨日の晩に道場から弓道具一式を自宅に持って帰り、今朝はそれを担いでやってきた。西條先輩とかおりちゃんは明らかに手ぶらだったが、聞けばきっと、
「ああ、それならば既に現地に届けてもらっています(お付きの者に)」
という回答が返ってくるに違いないので、聞かなかった。
さらに、昨日私は近所にある行きつけの美容室で、髪を短く揃えてもらっている。
以上の状況をできるだけ客観的に描写してみると、こうなる。
昨日美容室で髪を切ったが、いつもより切り過ぎたので、下手をすると男に間違われかねない。
そもそも長身で、胸が哀しいほどに控え目である。
そして、結構な量の弓道具を抱えている。
右手にはシックな装いの令嬢、左手には落ち着いた和服の淑女が、並んで歩いている。
彼女たちは手ぶらだ。
どう考えても、これでは両手に花で弓道大会に臨む男子高校生である。
せめて荷物ぐらいは自分で運んで頂きたかった。
竹駒神社の隣には神社所有の弓道場があり、既に人が大勢集まっている。
入口に入った途端に、顔見知りの仙台第二女子高校弓道部コーチが、さっそく声をかけてきた。
「なんだか、いっそう男前になってやしないか?」
余計なお世話です。
施設内にある控室は、近隣から集まってきた高校生で一杯だった。
かおりちゃんは、駐車場で仙台第二女子高校がマイクロバスを仕立ててやってきたのを見たという。
さすがに県総体の優勝常連校は待遇が違うなあと思いながら、先生に教わった通りに両手で竹弓を張っていると、私の後ろから、
「あ――」
という鈴を鳴らすような可愛らしい声がした。驚いてその方向を見ると、小柄な女性が私の竹弓を見て目を丸くしている。
身長は百五十センチの後半ぐらい。
外見はほっそりとしているものの、華奢ではない。
素直そうな髪質の黒々とした長い髪を、ツインテールにしている。
黒いセルフレームの眼鏡をかけており、その向こう側には驚くほど大きな瞳が控えめな光を湛えていた。
制服を見ると仙台第二女子の生徒である。
「あの、何か」
最前の第二女子コーチの言葉に少々気分を悪くしていた私は、訝しげな声で尋ねた。
「あ、ごめんなさい。竹弓なんて高校生の大会ではあまり見ないものだから。あなたの弓ですか?」
顔を赤らめながら恐縮して話す彼女の姿に、私は態度を改める。
「いえ、学校の備品なんです。私はそれをお借りしているだけで」
と、今度はなるべく丁寧な口調で答えた。
「そうなんですか。あの、ちょっと拝見しても構いませんか」
「ええ、どうぞ」
そう言いながら私が弓を渡すと彼女は握り皮のところをさりげなく避けて、弓を受け取った。さすがは第二女子、指導が行き届いている。
彼女は弓を持ち上げて、下の部分を顔に近づけ、
「随分と擦れてしまっているけど、これは『
と、なんだか質実剛健な名前を口にした。理穂ちゃんに似合いそうな名称である。
続いて彼女は、弓の上部分を丁寧に床に置くと下の部分を指先で持ち、弓を右に傾けて真横から眺めた。先生がよくやっている弓の確認動作と同じだった。
彼女はしげしげと弓を眺め始める。なんだか雰囲気が真剣である。
私が居心地の悪さを感じてもじもじしていると、彼女は、
「この
と唐突にそう尋ねてきた。
私には『
「いえ、それは先生がやっています」
と答えたところ、彼女は小さく息を吐いた。
「ふう、高校の先生がここまでやるなんて凄いわ。ここなんて削ってあるし」
そう言われて、私は彼女の視線の先を見た。
今まで気がつかなかったが、確かに握り皮のところだけ弓の側面の竹と木の色が、まわりに比べて若々しい。
「貴方の手に合わせてあるのね。この弓、大事に使ったほうがいいわよ」
そう言いながら、彼女は私を見て微笑む。
「ごめんなさい、自己紹介がまだでしたね。私、第二女子の
*
とかく、弓道大会というのは待ち時間が長い。
社会人の部と同時に開催される大会では、高校生の部は午前中に配置されることが多く、朝の早い時間に二本(一手)、一巡して午前中に四本(二手)の矢を射る。
計六本の的中数が多い順に順位決定戦が行われるが、西條先輩によれはそこまで残ることは近年まったくなかった。
苦労してやってきて六本だけしか引かないとは、随分ともったいない話である。
まあ、どちらかといえばメインは同時に開催されている竹駒神社のお祭りにあるので、私は何を食べようか考えながら、正座して最初の一手の準備をしていた。
すると今度は頭の上のほうから、
「おお、君達も来ていたのか」
という声がした。
よく人から声をかけられる日だなと思って顔をあげると、北条さんがにこにこ笑って立っている。
「あ、お久しぶりです、北条さん。花火の日以来ですね」
「そうだね。どう、その後元気にやってる?」
「ぼちぼちです。あんまり上手くなったような気がしません」
私の答えを聞いて、北条さんは苦笑した。
「そりゃあそうだよ。でもね、そういう時が一番上達しているからね。焦る必要なんかないよ。丁寧に練習を続けていると、ある日、あるきっかけで、あるものが見えてくるようになるんだ。それを気長に待てばいいんだって」
と、彼は落ち着いた声で言った。
その言葉で、しばらく燻っていた私の焦りが自然に溶けてゆく。
そう、自分はまだ弓を始めたばかりなのだから、ここで急いで成果を求めなくてもいいんだ。誰かと比べたりせずに、自分が出来ることをやって、それを身につけていけばいいんだ。
さすがは年長者と、改めて北条さんを見直していたところで、彼はさらにこう続けた。
「しかし、相変わらず君は男前だね」
この男、絞め殺してやろうかと思う。
すると、北条さんの後頭部から
「ばしん!」
という見事な音がした。
「女子高生に何てこと言ってるの?」
お約束の相模さんによるお仕置きである。この二人、いつもこんな調子なのだろうか?
相模さんに引きずられるようにして北条さんがいなくなると、私たちの『控え』の時間がやってきた。
高校生の部には、一校五人一チームの団体戦と、それ未満の参加者による個人戦がある。
私たちは三人だったので、団体チームが終わった後の個人戦の部に組み込まれており、前に他の学校の生徒が二人加わって、合計五人で射場に入ることになっていた。
自分達の番がくるまで、射場の後ろに準備された椅子に、かおりちゃん、私、西條先輩、の順に横に並んで座る。どうやら前の二人も一年生のようで、なんだか落ち着かない様子で話をしていた。
「緊張するねー」
と、どのあたりが緊張しているのか分らない口調で、かおりちゃんは言った。
「そうだね。私たち、大会初めてだしね」
と私は答える。
実は私たち一年生は、大会に出場した経験がない。
入部したばかりの時に行われる県総体は各校の出場人数が決められており、部員の少ない第一女子は一年生を加えてチームを作ることも可能だったが、昔からの伝統で主力選手五人だけしか出場していなかった。一般の弓道大会はちらほら行われていたものの、部員全員が基本からのやり直しで四苦八苦していたので、参加を考える余裕がなかった。
今日、ここにいるということは、少しは心の余裕が出てきたということである。三笠先生が何も言わなかったところを見ると、先生もそう感じていたのだろう。
私自身はそんな余裕を感じたことはなかったが、偶然会った北条さんの言葉で考え方を切り替えることができた。
そういう意味で、この大会参加には非常に大きな意味があった。
「そろそろ入場準備をお願いします」
物思いに耽っていたところで、入場係の女性に声をかけられて我に帰る。
「それじゃあ参りましょう」
西條先輩が落ち着いた声でそう言うと、椅子から腰を上げる。射場の後方にある入場口に移動して、そこから射場を、そして矢道を見た。
そこは秋の日差しが降りそそぎ、眩しいばかりに輝いている。控えの蛍光灯に慣れた目を幻惑されて、私は
矢道の右手側にある観客席には、高校生だけでなく一般の観客も鈴なりになっている。
竹駒神社の弓道場は十人が一度に行射できる大きさがあるので、五人ずつ二つに分れて入場する。私たちは後方の立だった。
それだけのことで少し心が軽くなる。まだ人前で弓を引くことに慣れていない。
「一手は座射でお願いします」
係員の確認の声がかかる。
そろそろ入場の時間だ。矢を握る右手に力が入った。
後ろから西條先輩の、
「美代子、己に勝つ者を怨みず、だよ」
という声が聞こえてくる。
習ったばかりの礼記射義の一節。私も小声で応じた。
「反ってこれを己に求むるのみ、です」
肩の力が抜ける。
「それでは入場願います」
係員の合図の声に、私は息を吐いて
前の二人が覚束ない足取りで入場し、ぎこちない礼をするのが見えた。つい先日まで私たちもあんな感じだったのだなと思う。
かおりちゃんは前の二人のペースを見計らいながらも、先生に習った通りの動作を丁寧に行った。
私も左足から射場に入る。
途端に控えとは違う空気を感じた。
明るくて、眩くて、広々とした世界。
神棚のほうを向いて一礼し、それから本座に向かって左足を踏み出す。
前の二人がもたついていて進みが遅くなっていたが、私はかおりちゃんの動作に集中した。
吸う、吸う、吐く、吐く。
本座の手前まで来ると、その場に正座した。
前方では前の立の行射が行われており、後ろの立の大前が会に入っていた。立順表によれば、私たちの前は団体戦の最終チーム、第二女子だ。
伸びやかな会の後の、切れの良い離れ。
矢は的に向かって飛び――的の右側上方で枠に弾かれ、外に逸れた。
「ああ――」
場内から溜息が溢れる。初めて射場から聞いたこの独特な溜息の圧力で、私の背中を震えが走った。
後で記録を見たら、第二女子は全員が一本目を的中させていた。期待のかかる二本目、それを大前が外したことによる溜息である。
少しだけ項垂れて射位を出る彼女の後方で、二的が会に入る。
こちらも伸びやかな会に、切れの良い離れ。
矢は的に向かって飛び――的の左下後方すれすれに的中する。
途端、場外に溢れる拍手の洪水。二本とも的に的中した証しだ。
心もち頭を後ろに逸らした彼女は、射位を出る。
弓道は極めてメンタルな競技で、射手の心理が表に現れやすい。出さないのが礼儀だけれど、思わず出てしまうものを止めるのも難しい。
私は弓を握る掌に汗を感じた。弓を手放して、こっそりと
結局、第二女子は大前を除いた四人が二本を的中させていた。
*
しばらくの
「たは――」
射場を出た私の口から、大量の息が溢れだした。
やってしまった。
前の立の華々しい雰囲気に飲まれて、私はのぼせ上がってしまった。両腕に力が入らない状態で引いた一本目の矢は、低めに飛び、地面に跳ね返されて、見事に安土の上に横たわる。
これを横矢という。
そのままだと二本目の行射の邪魔になるので、競技の進行が一旦止められて、矢取りが入る。己の未熟さを思い知らされるやら、周囲に対して申し訳ないやらで、極めて恥かしい。
それがあって二本目の矢は、的の遥か上方に飛んでいった。的の上にある幕に当てなかっただけでもめっけものである。幕打ちした挙句に落ちた矢が横矢では、みっともないことこの上ない。
「初めてだから仕方ないよー」
かおりちゃんがそう慰めてくれたが、彼女は二本目を中てていたから逆にダメージが大きい。
「それでも退場まで体配を崩さなかったから、立派だわ」
と、やはり二本目を的中させた西條先輩が慰めてくれたが、なんだか本筋とは違うような気がして、気分は治らなかった。
「己に勝つ者を怨みず、己に勝つ者を怨みず、己に勝つ者を怨みず……」
頭の中で呪文のように繰り返す。まったくもって怨まないことは難しい。
控室に戻り、人と荷物でごった返している中の小さなスペースに座り込む。
寝ている人がいたり、スマホを操作している人がいたり、本を読んでいる人がいたりと、弓道大会の控室は相変らずカオス状態だった。
それでも、弓を地面に放置している人がいないのは見事だと思う。さすがに弓道部に入った最初に、
「弓は決して地面に横倒しで置かないこと」
と何度も言われたから、私もちゃんと壁に立てかけておいた。
「お茶でも飲む?」
西條先輩が荷物の中から、結構な大きさのボトルを取り出す。有り難く頂戴すると、驚いたことに中身は香り高い紅茶だった。
「お菓子でも食べるー?」
かおりちゃんも荷物の中から、厚手の紙箱を取り出す。見ると、箱に鹿児島銘菓「かるかん」と書いてあった。
いずれも美味しいといえば美味しいのだが、正直「
*
結構な待ち時間の後、二手競射の順番が回ってくる。
今度は立射だ。細々とした座射の体配も嫌いではないが、一手の後遺症が残る身には気楽な立射が有り難い。
「矢を取ってくるねー」
と、かおりちゃんが腰を上げる。そういえば座射の後で矢を取りにいっていなかった。有り難くお願いするとして、
「私の矢、分かる?」
と尋ねると、かおりちゃんは満面の笑みで答える。
「多分、矢立の中でー、一番長い奴でいいと思うのー」
さいですか。
先程と同じように射場の後ろの控えに入る。
前の二人もすっかり大会の雰囲気に慣れたようで、今回は落ち着いた声で会話していた。係員の表情もなんだか和んでいるような気がする。
恐らくそれは気のせいで、私自身が少し余裕を持てるようになっていたのだろう。
「さっきは第二女子、凄かったねー」
かおりちゃんは相変らずのマイペースだ。
「十射九中でしたね。さすがだわ」
西條先輩が落ち着いた声で答えた。
「立射はどうなっているんでしょうねー」
「二十射皆中だったりしてね」
本座まで入場し、先程と同じく第二女子の団体チームの後ろで、今度は立ったままで控える。的前にある的中の表示板が見えた。
大前 ×××
二的 ○×○
三的 ○×○
落前 ○×○
大落 ○○○
ああ、これは辛いわ……
そう素直に思った。
弓道をやっている人でなければ、この「辛さ」の意味が分からないだろう。特に大前の彼女にはかなりの重圧がかかっているに違いない。そう思って眺めてみると、ちょうど会に入ろうとしている。
それは無残な光景だった。
さきほどまでの伸びやかさは見る影もない。
なんだか窮屈で、しかも押手が小刻みに震えていた。
足や腰も心なしか揺れているように見える。
土台が安定しないままの離れはいかにも強引で、矢はふらつきながら的の左下に外れた。
見ると、的の右上、右下、左上、左下と、見事なほどに取り囲んでいる。
さっきよりも一層項垂れて、大前は射位を離れた。
これが弓道の残酷なところである。落ち込み始めるとそこから浮かび上がるのが難しい。むしろとことんまで雑念が襲い掛かってくる。
二的から落前まで的中が続き、大落の番となる。
彼女は落ち着いていた。
伸びやかな会と鋭い離れ。
矢は的の中心に向かって真っ直ぐに飛んでゆき、そのまま的中した。
場内に轟く拍手の嵐。
その中で大落はゆっくりと弓を倒す。
第二女子の大前と大落だから、実力にそう違いはないと思う。しかし、結果が大きく異なることがありえる。
「礼、初め!」
自分の立順になった時、私はなぜか開き直っていた。
*
かおりちゃんの一本目が、彼女らしい穏やかさで的に向かって飛んでゆく。それは的の中心からわずか上のところに「すぽん」と的中した。
私は打ち起こす。
座射の時は足がふわふわとして頼りなかったが、今はしっかりと射場に吸いついている気がした。
なにより大三から引き分けまで、明らかに前より引き心地が良い。調子が良い時のように、自分の胸が弓と矢の間に割り込む感じがする。
眉のところを過ぎて会に入ろうとする時――
そこで、今まで一度も経験したことがないことが起こった。
ゆがけの親指と中指の接点から、音がし始めた。
「キチ、キチ、キチ……」
という断続的なその音は、会に入ると次第に
「キチ―、キチ――、キチ―――」
と間延びしていった。
理由は分からないが、なんだかそれに合わせて指や腕や肩が伸びるような気がする。いつもは会の途中で、離れの瞬間をどうすればよいのか分からなくて焦るのに、その時は音に集中していてそれを忘れていた。
「キチ―――――」
音が伸びる。
そこで、離れが来た。
離れた、ではなく、離れが向こうからやって来た。
押手は的のほうへと伸び、勝手は自然に後方に伸びる。
弓は掌の中で回転し、弦が的のほうを向いたところで止まる。
矢は真っ直ぐに飛んで、的の右上方ぎりぎりに中った。
自分でも何が起こったのかさっぱり分らない。ただ、とても気分がよかった。
弓を倒して顔を前に戻す。
ぼんやりしていると、後ろから西條先輩の離れる音と、矢が的に中る音がした。
三人とも的中した。その事実がなんだか無性に嬉しかった。
かおりちゃんが二本目の会に入り、離れる。相変わらずのほほんと飛んでいった矢は、先ほどの矢の隣に「すぽん」と的中した。
私は打ち起こしを始める。
やはり足腰は射場に吸いつき、引き分けでは胸が間に入った。
そして、音がする。
「キチ―、キチ――、キチ―――」
肩が伸びる。
「キチ―――――」
音が伸びる。
そこで、やはり離れが来た。
弓は先程と同じく、弦が的のほうに向いたところで回転をやめる。
真っ直ぐな矢は的に向かって飛び、今度は的の右上方ぎりぎりのところに外れた。
「そんなに上手くいく訳ないか」
と、私はさほど気落ちするもことなく、弓を倒す。
後ろから西條先輩の離れる音と、今度は矢が土に刺さる音がした。
かおりちゃんの三本目が飛ぶ。やはり的の右上に飛んで、今度はわずかに的の外に外れた。
私は会に入る。
やはり音がした。
「キチ―、キチ――、キチ―――」
指、腕、肩が伸びる。
「キチ―――――」
音が伸びる。
離れが来る。
矢は的に向かって飛び、右上方で先程の外れた矢と並ぶ。
外れたが、やっぱりなんだか離れが心地よい。
西條先輩は的に中った。
かおりちゃんが最期の矢を放つ。ほのぼのとした矢が三本目の隣に仲良く並んで外れた。
私は会に入る。
音がした。
「キチ―、キチ――、キチ―――」
指、腕、肩が伸びる。
「キチ―――――」
音が伸びる。
離れが来る。
そこで、今度は押手の親指が伸びた。
弓が軽やかに回転し、弦は拳を回って左側のあるべきところに収まる。
矢は的に向かって飛び、右上方で一本目と並んで的に中る。
やはり気分が良い。
西條先輩は的に中っていた。
*
「なんだかー、とぉーっても気持ちよくなかったですかー」
そう言って笑うかおりちゃんの顔を見ていると、私も心が和んだ。
「そうだよねー、気持ちよかったよねー」
なんだか自分も語尾が延びてしまう。
「西條先輩はー、六射四中ですからー、もしかすると個人戦の決勝に残るかもですよー」
「残っても下の方の順位決定戦ですけどね。このまま終わりでも、なんだかとっても楽しいですね」
西條先輩はいつも通りの落ち着き方だったが、声の調子がわずかに高かった。
「弓道ってー、ちゃんと引いて中るとー、とぉーっても面白いですよねー」
かおりちゃんが何気なくそう言った。
その言葉が私の心に響く。
そうなのだ。
練習でもたまに、偶然のように中ることがある。四本のうち、今日のように二本中ることもある。それはそれで嬉しいのだが、今日のような楽しさを感じたことはなかった。
今日はなんだか、ちゃんと弓が引けたような達成感がある。
その結果、二本中った。これはむしろおまけのようなものだ。
西條先輩もかおりちゃんも同じ気持ちらしく、三人でなんだかにこにこしながら控室のほうに移動する。
そして、控室の入口までやってきた時――
「お前ら、一体どうしたんだよ!!」
という大声が廊下に鳴り響いた。
見ると、仙台第二女子高校の男性コーチが入口のところに立っていた。
「
西條先輩が冷静に指摘する。私はその時初めて、第二女子のコーチの名前が『麻宮』であることを知った。
「そいつは申し訳なかったな。しかし、なんだよさっきのお前たちの射は。いつの間にあんなに上達したんだよ。一体何をしたんだ、教えろよ。特にそこの背の高い、男前の、竹弓の、その……」
麻宮さんは私を見ながら口籠る。そういえば、私も名乗ったことはなかった。
「あの、阿部ですが――」
「そう、それだ。その阿部! お前の四本目は一体何だ?」
「一体何だと言われても……」
自分でもよく分からないことを説明することはできない。
そこで、西條先輩が会話に割って入った。
「美代子、それは極秘事項だから決して他人に話してはいけないわ。私たちの辛い特訓の日々を忘れたの」
さらにかおりちゃんが、その尻馬に乗る。
「そうだよー、血の涙を流してみんな頑張ったよねー、最期に三笠先生も言ってたよー、貴方は我が校の最終兵器だってー」
ああ、なんだかこの二人、やると決めるととことん容赦ない。
麻宮さんが可愛そうになって彼のほうを見ると――
麻宮さんは何故か顔面蒼白になっていた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。今、一体、何て、言った?」
唇が
「極秘事項」と西條先輩。
「最終兵器」とかおりちゃん。
「それじゃねえ」と麻宮さん。
「辛い特訓」と西條先輩。
「血の涙」とかおりちゃん。
「だから、それじゃねえ」と麻宮さん。
駄目だ、麻宮さんは完全に
「もしかして――三笠先生?」と私。
「そうだよ、それだよ、三笠! 阿部だよ――じゃなくて、三笠だよ、阿部! 三笠――
麻宮さんは興奮しすぎて、言っていることがばらばらだ。ともかく、公共の場でダンジョンのラスボス出現のような驚き方は止めてほしい。
そこでかおりちゃんが、
「ああー、美代ちゃん駄目じゃないー、先生の名前なんか言っちゃー」
と言ったので、私は、
「あ、ごめん」
と謝る。
いや、ちょっと待て、なんかおかしくないか、と私まで混乱し始めたところで、西條先輩が
「今日はこのぐらいにしておきますが、我が校の『一年生五人衆』の力を甘く見てはいけませんよ」
ああもう、どこかで聞いたようなファンタジーの設定、混じってるし――
*
この後も西條香奈枝と浅沼かおりによって弄ばれた
「くっ、三笠祥子だと!」
彼は三笠と同世代である。三笠が奥羽大学在学中、彼は仙台教育大学の弓道部に在籍していたから、彼女のことをよく知っていた。
だからこそ、彼女が仙台第一女子高校の弓道顧問であることの恐ろしさを、誰よりも理解していた。
彼は決断した。
「
「はい」
麻宮の背後、控室の中から、先程、阿部美代子と会話を交わしていた
「今の会話を聞いていたか?」
「はい――コーチ、割とメンタル弱いですね」
「余計なお世話だ! それはそれとして、お前、第一女子の生徒に知り合いはいるか?」
「今はいませんが、作ります」
「悪い、助かる。そこから何としても第一女子弓道部、特に三笠祥子の情報を仕入れてくれ」
「分かりました。例えば彼氏の存在とか」
「おお、そいつは是非……いや、いらん。お前まで乗せるな」
麻宮が振り向くと、控室の入口に早池峰の姿はなかった。
「相変わらず神出鬼没だな、早池峰。しかし――」
麻宮は遠い目をして言った。
「――来年のインターハイ県予選は荒れるぞ」
その背後、控室入口から五十センチずれて、隣にあった壁に背中をつけただけの早池峰は呟く。
「この人、弓道の指導力だけはあるんだけどなあ……」
そして彼女は小さな溜息をついた。
(第一章 終り)
Q.D.B. 第一章 まずは基本から 阿井上夫 @Aiueo
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