第十二話 「分かってはいるんだけど」

 お盆休みが終わって弓道部の練習が再開されると、加奈ちゃんが早速音をあげた。

「ああもう。何だか自分がとっても下手になったような気がする」

 彼女の気持ちがよく分かる。実は、私も同じ気分になっていたからだ。

 今まで自然にできていたことすら、満足に出来なくなったような感じがするのだ。


 三笠先生から教わった「三本指のゆがけで弓を引く場合の注意点」は、以下の通り。

「弦を引く時に、右手の親指を人差指と中指で押さえつけてはいけない」

「弦を引くにつれて、右手の親指が人差指および中指と接する点の摩擦が高まる。そのまま引き続ければ、どこかで摩擦が限界を超えて、親指は自然に離れる」

「弦が離れた瞬間、左手の親指付け根で弓を押して回転させる」

「同時に左手の小指を、弓の下部分が前に出ないように締める」

 特に複雑なことは言っていない。文字に書いて読んでみれば「何をしなければならないか」は素直に理解できる。しかし、実際にそれを自分の身体でやろうとすると、これが極めて難しいのだ。


 まず、右手の親指を押さえつけるなと言われても、引いている途中で弦が外れてしまうような気がして怖いので、どうしても押さえつけてしまうのだ。

 誰しも弓を習いたての時に経験することだが、右手から勝手に弦が外れると、頬や左手の上腕部に弦が当たる。これがとても痛い。時代劇に「鞭打ちの刑」というのが出てくるけれど、それと似ているのではないかと思う。

 弦が当たったところが痣になることもあるし、出血することもある。そのまま電車に乗ると、周囲から「暴力かしら」と変な目で見られて、とても恥ずかしい思いをするぐらいだ。

 だから、どうしても怖くて人差指と中指で親指を押さえてしまう。

 一度押さえてしまうと、いくら弦を引き込んで摩擦を高めても、なかなか押さえる力を超えられなくなる。そうなると離れない。いつまで待っても限界がやってこない。最終的に耐えられなくなって、弦を離すために指の力を抜くことになる。

 すると、自分でも感じるほどに右手が緩んで、せっかく頑張って弦を引いた力が帳消しになる。反省して「次は押さえつけないようにしよう」と心に誓う。

 が、やはり怖いものは怖い。

 当たると痛いから自然に力が入る。

 そうなると、力を抜かないと離れない。

 結果として緩む。


 同じことを何度も繰り返すことになる。


 痛いことが苦手な加奈ちゃんとかおりちゃんは、弦が前髪をかすっただけで大騒ぎしている。物事に動じないほうの私と理穂ちゃん、早苗ちゃんは、加減を体得するために試行錯誤を繰り返した。

 力を抜きすぎると、収まりが悪いところで親指はすっぽ抜ける。

 逆に、力を入れ過ぎるとなかなか摩擦の限界点を超えられない。

 両者のバランスがとれる、具合の良いところがなかなか掴めない。

 あ、これならいいかも――という射がたまに出来たとしても、それを繰り返し再現するのが難しかった。次の射では、ちょっとした加減で感覚ががらりと変わってしまうからだ。


 それに、右手が緩むと弓の勢いが消えるから、今後は左手のほうに影響が出てくる。

 勢いがないので弓が回転しない。左手親指の押し込みと小指の締めが強すぎて、弓が回らなくなるのだ。弓が回らなければ矢の飛ぶ方向が荒れて、酷い時には前の的に中る。

 だからといって、左手親指と小指の力を加減してしまうと、今度は左手が緩んで弓が下に落ちた。

 何かを直すと何かに矛盾が出る。いままでどうやって弓を引いていたのかすら分からなくなる。今まで問題なかったのに、前髪を掃うようになり、頬や上腕を弦が掠めていくようになる。

 そうなると、さらに恐怖心が高まった。

 すべてが悪いほうに転がって、どうしていいのか分からなくなってゆく。

 前のやり方のほうが自分には合っていたのでは――という思いが、ともすれば私の頭をよぎっていった。


 * 


 全員が四苦八苦、右往左往しながら練習を続けていると、

「皆さん、ちょっと練習をストップして、射場に集まってもらえますか」

 と言いながら、大きな荷物を台車に乗せた三笠先生が道場に入ってきた。

 全員が練習をやめて、道具を片付けて射場に座る。

 三笠先生は台車からノートパソコンとディスプレイを降ろすと、射場の前方に設置し始めた。それが終わると、一緒に持ち込んだクーラーボックスを開けて、中から『ガリガリ君』のソーダ味を取り出した。

 それを全員に配る。

 なんだか、祖母の昔話に出てきた「紙芝居」のような雰囲気になってきた。

「そろそろ混乱している頃ではないかと思いまして、具体例をいくつか持ってきました」

 紙芝居の弁士のように、三笠先生はにこやかに画面を差し示した。

 全員がガリガリと氷を齧る中、動画が再生される。

 液晶ディスプレイには男性の姿が映し出された。

 うわ、白黒だ。

 てっきり「全日本弓道連盟が最近作成した講習用の映像」あたりが流れるものと予想していた私は、意表を突かれた。

 それにしても古い映像である。

 それは、禿頭の丸顔に眼鏡をかけたかなりの高齢と推測される老人が、三ツがけで弓を引くところを正面から撮影したものだった。最近になってわざわざ白黒風に撮影されたものでないことは、画面の解像度の粗さを見れば明らかだったが、それにも関わらず画面に手振れが見られない。ということは、家庭用の手持ちではなく、三脚等で固定したそれなりのカメラで撮影したのだろう。

 動画は、丸顔の老人が滑らかに引き分けを始めたところから始まっていた。

 彼はするすると引き分けてゆく。

 ところがその途中のちょうど眉毛の辺りで、引き分けを一旦止めた。

 え、何、引っかかったの?

 と、私は目をこらしてみるが、どこかに引っかかっている様子はない。

 再び、何事もなかったかのように弦は滑らかに引き分けられていった。

 そして会に入る。微動だにしない。

 これまで射礼や大会で射を拝見した高齢の射手は、大抵が会で「本当に狙っているのか」と思うほど震えていたから、この点には感心した。よほどの高段者なのだろうか。しばらく動きのない会の状態が続いて、老人は離れた。

 えええ――私は純粋に驚く。

 彼がかなりの達人ではないかと考えていた私は、その時、もっと激しい離れを期待していた。

 例えば、剣の達人同士が立ち会った時、お互いの身体から漏れ出す緊張感のようなもの。その「触れたら切れそうな気」の高まりから、一瞬の閃光と共に目にもとまらない速さで鋭い刃が繰り出されて、気が付いた時には、相手は一刀両断されている。弓道も武道なのだから、達人ともなればそんな感じの「激しさ」が見られるものと期待していた。

 ところが、画面の中の老人の離れは――


 正直、なんということもなかった。


 液晶画面には、先程の丸顔の老人の射を斜め後方から撮影した様子が映し出されていた。

 既に会に入っていて、しばしの静寂の後、離れる。

 音にすると「ぴゅん」。それが相応しい。

 私は「びゅうん」とか「ぎゅるん」とか、そのような濁音含みのものを期待していたので、なんだか微妙な気分になる。周囲の顔を見回すと、他の部員もなんだか微妙な顔をしていた。

 三笠先生は黙って微笑んでいる。


 場面が変わって、さらに古めかしい白黒の画像になった。

 かなり荒れて見づらいものだったが、弓を引いている様子はちゃんと判別がつく。道場で、頭に神主の烏帽子のようなものを被った髭面の老人が、斜め前方から撮影されていた。よく見ると、老人は四本指のゆがけ(四ツがけ)を使っている。

 こちらの画像は弓構えから始まっており、老人は弓を前から頭の上まで上げると、左腕を伸ばしながら大三に移行した。

 なんと――私は再び驚く。

 私は、「打ち起こし」「大三」「離れ」という個々の動作を行なう時、おのおのが終了したことを確認する時間をとるために、一呼吸分だけ停止してから次の動作に移る様にしていた。先輩や他の学校の生徒たちも止めていたし、射礼の先生方もそうしていたので、そうするのが正しいと思っていた。それに、止めたほうが丁寧に見える。

 しかし、目の前の動画に映し出されている老人はまったくそんなそぶりを見せない。

 彼は「打ち起こし、大三、引き分け」が一連の動作であるかのように、途中で動作を止めることなくさらさらと流していた。なんだか無作法にすら見える引き方だった。

 そのままさらさらと会に入る。

 前の老人と同様に、こちらの老人も微動だにしない。そして会が長かった。

 私が「そろそろ離れるかな」と思ったところよりも、さらに一呼吸分過ぎてから――


 やはり、なんということもなく離れる。音にすると「ぴゅん」。


 私はまた周囲の部員たちの顔を見回す。やはり全員が肩透かしを食らったような顔をしていた。

 三笠先生はやはり何も言わない。

 動画はリピートされているらしい。また最初の丸顔老人に戻る。

 正面からの「ぴゅん」とした離れ。

 斜め後方からの「ぴゅん」とした離れ。

 続いて髭面老人に移る。

 斜め前方からの「ぴゅん」とした離れ。

 激しさはない。むしろ拍子抜けするような軽さを感じる。

 三回目のリピートに入り、丸顔老人の正面からの離れを見たところで、やっと私は、

 あれ?――と、そのことに気が付いた。

 斜め後方からの映像で確認してみる。

 会の後の「ぴゅん」とした離れ。

 あっ、やっぱり!

 私は身を乗り出して髭面老人の離れを見つめる。

 長い会の後の「ぴゅん」とした離れ。

 それで、やっと確信した。


 *


 四回目のリピートが終了したところで、三笠先生は映像を止めた。

「さて、同じ映像を四回繰り返してみましたが、誰か何かに気が付いた方はおりますか」

 そして西條先輩の顔を見る。

「西條さんは映っていた方が誰なのか、気が付いたと思います。ですが、それはまだ言わないで下さい」

 一年生は顔を見合わせると、自然に視線がある方向に集約する。

 よし、ここは加奈ちゃんの出番だ。

「はいはーい」

 期待通りに加奈ちゃんは右手を挙げた。

「はい、篠島さん」

 加奈ちゃんは胸を張って高らかに答えた。

「お二人ともお爺ちゃんです!」

「そうですね、その通りです。では他には?」

 渾身のボケを見事にスルーされて落ち込む加奈ちゃんを、理穂ちゃんが慰める。

「まあまあ、これで話しやすくなったよ」

 その隣りで何事かを考えていた早苗ちゃんが手を挙げる。

「はい、先生」

「では、藤波さん」

「お二人とも、弓を握っている拳の部分が一切無駄な動きをしていませんでした。それなのに、そこを中心として弓は鋭く滑らかに回転していたと思います」

 そう、私もそれに気づいた。

 お二人とも離れの印象自体は「ぴゅん」という軽いものだったのに、手の中で回転する弓の滑らかさが尋常ではなかった。しかも、弦が左拳を中心に回り込んだところで、ぴたりと停止して跳ね返ったりしなかった。いつもの自分の様子と比較すると、その違いは明らかである。

「よく気がつきましたね。藤波さんの言う通りです」


 三笠先生は先程の映像をまた最初から映し出して、止めた。

 禿頭の老人が画面上に固定される。

「それでは西條さん。まずは最初の方が誰なのかを説明して頂けますか」

「はい。浦上栄先生です。弓道教本の第一巻に写真が載っていました。確か斜面打ち起こしの名人――ぐらいしか分からないのですが」

「まあ、そうですね。そのくらいが普通でしょうね」

 三笠先生は眉を上げて言った。先生にしては珍しい、なんだが不満そうな表情だった。

「細かい話は置いておきます。浦上栄先生は、日置流印西派へきりゅういんさいはを極めた方で、その手の内と離れの見事さで有名です」

 先生は映像を再生、停止しながら解説を始めた。

「高校で日置流を指導しているところは殆どありませんから、皆さんはあまりこの射法を目にしたことはないと思いますが、所謂『斜面打ち起こし』というのは古くから伝わる日本弓道の伝統的な射法です」

「あのー、先生ー」

 そこでかおりちゃんがおずおずと手を挙げた。

「どうかしましたか、浅沼さん」

「今ー、先生はー、斜面打ち起こしをー、日本の伝統射法とおっしゃったと思うのですがー」

「そう言いましたが、何か?」

 かおりちゃんは小首を傾げ、右手の人差し指を頬に当てながら言った。

「私の家は呉服屋なのでー、伝統と言われるとそれを代々守るものと自然に思うのですがー、どうして弓道はすべて斜面打ち起こしじゃないでしょうかー。特にー、昔から続く礼節を重んじる弓道らしくないと思うんですがー。例えばー、正面打ち起こしも伝統射法であればー、単なる派閥の力関係の結果と理解できるのですがー」

 かおりちゃんの素朴な疑問に、弓道部全員が頷く。確かに、なにかと作法にうるさい弓道で、どうして正面打ち起こしが主なのか分からない。

「なかなかいいところを突いてきましたね」

 三笠先生は腕組みをして考え込む。

「それを話すと長くなりますし、現時点で皆さんを混乱させることにしかなりません。誤魔化す訳ではないのでいつかちゃんとお話ししますが、今日はとりあえず保留にしておいて下さい。ただ、これだけは先に言っておきます。後の方の説明でも必要になるので」

 三笠先生は腕組みをしたまま言った。

「現在の日本弓道連盟が指導しようとしている正面打ち起こしは、伝統射法とは言い切れません」

「はいー、分かりましたー」

 かおりちゃんは素直に引き下がったが、私はなんだかすっきりしなかった。

 万事歯切れの良い三笠先生が珍しく話を保留したことが、納得できなかった。それに補足のなんともいえない微妙な表現も、先生らしくない。

 そんな私の思いとは別にして、話は先に進んでゆく。

「斜面打ち起こしの説明に戻ります。現在、この射法を継承している流派は、殆どが日置流の流れを組んでいます。その日置流の中に更に細かい流派があり、その一つが浦上先生の属する印西派です。他には竹林ちくりん雪荷せっか道雪どうせつなどの諸派があります」

 そこで先生はいったん話を止めると、映像を睨んだ。

「そういえば、この映像だけでは斜面打ち起こしがどんな射法かが分かりませんね」

 映像は引き分けから始まっているために、これだけだと正面打ち起こしと変わらない。三笠先生は溜息をつくと、私に向かってこう言った。

「阿部さん、ちょっと弓をお借りできるかしら?」


 三笠先生が弓を引く、だと!?


 部員全員の目の色が変わった。

 そう。実は私たちは先生が弓を引くところを見たことがない。指導を受ける中で、部分的な動きをお手本として先生に示してもらったことがあるだけである。

 私はちょっとだけ緊張しながら「先生、どうぞ」と、竹弓を渡す。

「有り難う。本当は他の人の弓具を借りるなんて褒められたことではないんですけどね。無作法ついでに矢もお借りしてよいかしら」

「あ、はい。どうぞどうぞ」

 先生はにっこり笑うと、矢立のなかでひときわ目立つ私の矢を、一瞬だけ手を止めて見つめてから、一本取り上げた。

「あの、先生」

 そこで理穂ちゃんが手を挙げた。

「はい、なんですか、桑山さん」

 理穂ちゃんは不思議そうな顔をしながら尋ねる。

「ゆがけは、なさらないのですか?」

 その横では加奈ちゃんが「しまった」という顔をしていた。きっと、三笠先生がボケをかましたところにツッコむことができず、悔しがっていたのだろう。

 しかし、三笠先生は平然とした顔で言い切った。

「はい。お借りする訳にはいきませんから」

 つまり、素手で弓を引くという。

「ゆがけは弓道家にとって最も重要な道具です。命ともいえるものであり、貸し借りしてはいけません」

 先程の奥歯に物が詰まったような言い方とはうってかわって、三笠先生はそう明確に言い切る。

「今日は自分のゆがけが手元にありませんから、素手で引くことにしましょう」

 そう言うと先生は素引きを始めた。

 頭の少し上に弓を構えて胸元に向かって引き下ろす。竹弓が先生の手の中で滑らかに伸び縮みする。無造作な動きながら、先生の目は真剣だった。

 いつもの穏やかな表情からの急変に、部員たちは息を飲む。

 五回素引きをした先生は、

「それでは、斜面打ち起こしを行なってみましょう。二的に入るから、皆さんは大前で見ていて下さい」

 と言いながら、二的の本座に立つ。私たちはこそこそと大前の射位に二列で並んだ。

「実はものすごく弓が下手くそだという、ありがちな設定はどうだろうかね」

 加奈ちゃんが小声で呟く。

 いや、それは確かにあるかもしれない。これまで全く行射を見せなかったことから、その伏線の存在を感じる。

「それでは入ります」

 そう言いながら、三笠先生は射位に進む。


 その動作に全員が仰天した。


 三笠先生は、進みながら弓を徐々に水平に倒すと、左腕と共に的の方向に伸ばした。

 同時に身体を神棚のほうに向けてゆく。

 射位で弓を倒しながら跪坐。

 再度、的のほうに向い、今度は弓を垂直に立てて、手首を捻って弦を腕の左側から右側に返す。

 それを体の前に移動して、矢を番えた。


 私たちの知っている体配と違う。あれほど呼吸や動作について細かく指示をされていた三笠先生とは思えない所業ながら、先生の真剣な表情に圧されて誰も何も言えなかった。


 先生は弓と矢を目の前に捧げ持つと、立ち上がって足踏みをする。

 その動作も、まず左足を開いて、それから右足を左足に寄せることなく、そのままの位置から右に開いた。

 弓の下部分を左ひざの上に載せると、右の拳をおへその辺りに当てる。


「いろいろと言いたいことはあるでしょうが、後で説明します。ここからが日置流印西派の斜面打ち起こしになりますから、よく見ておいて下さい」


 三笠先生はそう注釈をいれると、右の拳で矢と弦を押さえ、左腕を左斜め下方に伸ばした。

 左手の人差し指と親指の間に弓を挟んだ状態で、すべての指を真っ直ぐ伸ばす。

 その上でまず中指と小指を弓にあてがい、その上に窮屈そうに薬指を載せる。

 指先がつぶれた三角形を形作っていた。

 その上に親指を載せる。

 押手の準備を終えると、先生は的のほうを向いて、左腕を伸ばしたまま斜め上方に持ち上げた。

 右腕はそれに従って正面打ち起こしでいうところの大三の位置まで一気に移動する。


 なるほど。

 身体の左斜め前方に向かって最初から打ち起こすから「斜面打ち起こし」なのか!


 そう私が納得している目の前で、三笠先生は引き分け始めた。

 ここからは先程の映像と変わらない動作となる。

 三笠先生は眉毛の上ぐらいの位置でいったん引き分けを止め、そして再び引き分ける。

 口のところまで矢が引き込まれた時には、私の矢が弓からやじりしか出ていないほどに引き込まれていた。私だともっと弓からはみ出している。

 先生の会は、なんだか懐が広く見え、そして長かった。

 十秒を越えて、私たちがちょっとどよめき始めたところで、


 三笠先生は軽やかに離れる。


 弓はいくぶん上を的方向に倒しつつ、鋭く回転した。弦が廻って左腕の左側にきっちりと収まる。

 そして、矢はとても私が使っている弓とは思えないほどの速度で飛び――


 的の中心から少しだけ前のところに中った。


 あまりの見事さに声も出ない。先生が自分の道具を使って行射したら、どんなことになるのか見当もつかなかった。

「以上が日置流印西派の斜面打ち起こしです」

 三笠先生が弓立に弓を置いてそう言うまで、全員が魔法にかかったように硬直していた。

 それほど三笠先生の射は鮮烈だった。いままでの自分達の弓が、幼稚園児のお遊戯に思えるほどに――

「ちょっと矢取にいってくるから、待ってて頂戴ね」

 そう言うと、先生は道場を出てゆく。


 私達は我に帰って騒然となった。

「ちょ、ちょ、ちょっと、見た? 今の何、あれ」

「加奈ちゃん、ちょっと落ちつきなさいよ」

「だって、理穂ちゃん。先生、ここですとーんと落として美味しいところを全部持っていくのかと思いきや、まるっきりガチじゃない」

「日本語おかしくなってる」

「美代子ちゃんだって見たでしょ。分かるでしょ」

「分かる、分かる」

「本当ー、凄かったねー」

「なのに先生、何でこの道場で弓を引かないのかしら。何も情報が入ってこないのだけれど。何か御存知ですか、西條先輩」

 一年生の視線が西條先輩に集まる。

「さて、私も何も聞いていませんが、ただ――」

 西條先輩も小首を傾げて、右手の人差し指を頬に当てる。

 こういうのは育ちの良い人しか似合わない。

「――多分、三笠先生自身が日置流印西派に所属しているのではないかと思います。そうでなければ、あそこまで見事には引けないのではないでしょうか」


 三笠先生は道場に戻ってくると、まず最初に先程の体配について説明を始めた。

「私が急に全日本弓道連盟の体配と別な体配を始めたので、驚いた方も多いと思います。あれは、日置流に伝わる体配のやり方でした」

 先生によると、古来からの諸派をまとめて弓道の全国組織『全日本弓道連盟』を作るにあたり、体配がばらばらではまとまりがないという観点から、現在の体配は形作られたらしい。諸派には諸派のやり方があり、今でも残っているという。  

「あのー、先生ー」

 そこで再びかおりちゃんが手を挙げた。三笠先生は苦笑しながら言った。

「なんだか悪い予感しかしませんが、なんでしょうか。浅沼さん」

「あのー、ということはー、現在の全日本弓道連盟の体配はー、後で話し合いで作ったものになるんですかー」

「小笠原流の体配をベースにしたという話ですが、まあ、合意の上で成立した新しいやり方であるとは言えますね」

「そうなるとー、特に家元のような権威がいるわけでもないですしー、原典があるわけでもないのでー、細かい齟齬が出てきた時の調整がー、とぉっても大変じゃないでしょうかー」

「やっぱり痛いところをついてきましたね。鋭いです、浅沼さん」

「へへへー、それほどでもー」

 本人は照れているが、周りの者は全員、本気で感心していた。

「ええと、これもかなり難度の高い話なので、又の機会に持ち越したいと思います。これもいつか必ずお話しますね。ただ、浅沼さんの言う通り、現在の体配には歴史的な蓄積があまりないことを覚えておいて下さい」

「はいー、わかりましたー」

 やはりかおりちゃんは素直に引き下がる。指摘する内容は鋭いが、回答には淡白なあたり、いかにもかおりちゃんらしい。


「さて、思わず最初の方に時間がかかってしまいました。次の方の話をしましょう」

 三笠先生は二つ目の映像を再生する。

「それでは、例によって西條さんから参りましょうか。この方はどなたなのか分かりますか」

「はい。『弓聖』と呼ばれた阿波研造先生です。やはり弓道教本第一巻に写真が出ています。宮城県石巻市のご出身だと県弓連の先生から伺ったことがあります」

 西條先輩は前回と比べてすんなり答えた。三笠先生は再び苦笑する。

「宮城県の伝説的な存在ですから、さすがに情報も多くなりますね。その通り、阿波研造先生です。先生は本多流ほんだりゅうの修練をされました。そして、映像からも分かる通り、正面打ち起こしです」

「はいっ、はいっ」

 加奈ちゃんが正座しているのに飛び上がりながら手を挙げた。

「篠島さん、どうぞ」

「正面打ち起こしだから今の射法と同じですよね。それに偉い先生なんですよね。それにしては何だか、引き方が雑というか、無作法というか、適当というか、いい加減というか……」

 加奈ちゃんは他にも何か言い方がないか考えているが、十分ひどいことを言っているので、これ以上はどうかと思う。

 三笠先生もそう思ったらしく、

「まあまあ、先生が現役だった時代に全日本弓道連盟はありませんから、それまでの流派の影響によるものでしょう。本多流はそもそも日置流から分れた流派ですから」


 先生の言葉に全員の目が点になる。


「先生、ということは斜面打ち起こしの流派から、正面打ち起こしという技術革新が現れて、現在のように主流派になったということでしょうか? 勝手にそんなことをしてもよかったのですか?」

 早苗ちゃんが全員の疑問を上手にまとめてくれた。

「そうですね、今そんなことをしたら大騒ぎになるでしょうね」

 三笠先生は淡々とそう言った。私は、先生のその穏やかさが変に気になってしかたがない。


 さっきから、三笠先生は流派の話になると急に控えめになっている。 


「何だか今日は皆さんのつっこみが厳しいですね」

 三笠先生は映像を止めて、説明を続けた。

「現在の全日本弓道連盟の正面打ち起こしは、その基本の殆どを本多流に置いています。本多流というのは、幕末から大正にかけて活躍された本多利實先生が、日置流尾州竹林派の射法に正面からの打ち起こしを加えて創設したものです。もっとも本多先生自身は『本多流』という言い方は決してなさらず、『尾州竹林派の正面打ち起こし』という言い方をされていたそうですから、直接の薫陶を受けた阿波先生も、正しくは尾州竹林派の正面打ち起こしということになりますね。江戸時代末期には本多先生に限らず、日置流の斜面打ち起こしに小笠原流などで見られた正面からの打ち起こしを取り入れようとされた例は多々あったようですが、それを世に広めることに成功したのは本多先生だけでした」

「ということは、当時はその辺――新射法を作ることが割と自由に出来た、ということなのですか」

 早苗ちゃんが確認する。

「まあ、そうなりますね」

 三笠先生はそんな曖昧な言い方をした。

「むふぅん」

 と、加奈ちゃんが妙な声を出す。見ると鼻の穴が広がって、息が盛大に漏れていた。

「つまり、私が篠島流宗家になるという分岐ルートもあるということだねっ!」

 いや、それはないと思うよ。


 さて、いろいろと話は横道に逸れてしまったが、その日の主題は「理想的な離れとは何か」という点にあった。

 二人の名人の行射を実際の映像で見て、部員の頭の中には「理想的な離れとはどのようなものか」というイメージが定着したように思うものの、後に加奈ちゃんはいみじくもこう言った。

「頭で分かってはいるんだけど、それでもできないものはできないんだよね」

 まったく彼女の言う通りだと思う。むしろイメージだけが膨らみ過ぎて、それと現実とのギャップを感じるようになってしまった。

 三笠先生は、

「正しい姿を知り、それに近付くように努力することが、上達の早道となります」

 と最後に言い切っていたが、流石に斯界の名人に近付くための道のりは険しい。

 そもそも、一介の女子高生が辿りつける境地なのだろうかと疑問に思う。 

 そして、さらに疑問に思うのが「三笠先生の立ち位置」だ。

 先生は終始、流派の盛衰に関するところになると歯切れが悪かった。それに、離れのイメージを定着させるためであれば、先生自身が弓道場でもっと頻繁にお手本を示してくれたほうが、偉い先生の荒い映像を見せられるよりも、よっぽど参考になる。そう私なんかは思うのだが、その後も先生は弓道場で弓を引くところを見せなかった。

 私はそんな先生の中途半端さが、なんとなく気になって仕方がなかった。

 そして、先生がそのことでどんなに深く悩んでいたか知りもしなかった。


 *


 そんなこんなで、高校一年生の夏休みが終わる。

 なんだか「人生の貴重な一時期を弓道に捧げた」気分になるが、実際はそんな大層なものではない。夏休みの後半は、先生から教わった「的に中てるために必要な技術」の習得に気をとられていた。また、その合間にしっかり「高校生らしいイベント」に興じたりもしていたから、気が付いたらいつの間にか夏休みが終わっていた、というのが真相である。

 それだけ集中して練習した結果がどうなったかというと、これが実に心許ない。

「ぴょんだよ、ぴょん」

 加奈ちゃんが私の巻藁練習を見ながら言った。

「今のは、がしゃん。いや、がつんかな。ともかくそんな感じ」

 実にいい加減だが、彼女の言いたいことはよく伝わってくる。

 それに自分でもよく分かっていた。

 私は他の女の子に比べて力が強かった。弓を押し、弦を引く、その力の頂点の摩擦力が極小になる点というのが、私の場合はどうやら激しく高いところにあるらしく、いくら会を長く持ってみてもその境地はやってこない。しかたなく離そうとすると、胸から腕にかけての緊張が途切れて弦がわずかに戻ってしまうから、濁った感じの離れになってしまう。

 もともとが勘の良い理穂ちゃんや早苗ちゃんは、なんとなく感じがつかめてきたらしい。離れた時に手首や頬に弦が当たることもなくなったらしく、離れに勢いがあった。

 西條先輩とかおりちゃんは相変わらずマイペースで、毎日同じことを丁寧に繰り返している。根気に勝る才能はないから、どこかで確実に花を咲かせるに違いない。

 加奈ちゃんは相変らず押手の緩みに悩んでいたが、思い込み過ぎないのが彼女のよいところである。


 というわけで、その時の私は、なんだか他の部員達に置いて行かれた気分になっていた。

 弓道場の控室で着替えをしながら、

「はあっ――」

 と溜息をついてしまい、そばにいた早苗ちゃんから、

「幸せが逃げるから、そんな大きな溜息をつくのはやめなさい」

 と怒られてしまう。

 何かこう、私のこの停滞した現状を打開する切っ掛けになるような、そんな都合のよい出来事は起きないものだろうか――そんなことをぼんやり考えていると、西條先輩が控室の扉を開けてこう言った。

「阿部さんは九月の最終日曜日になにか予定はありますか?」


 ありませんが、それが何か?

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