第十一話 「私、このままでいいのかな」
練習は昼前に終わるので、そのまま昼食を取らずに自転車で帰る。
東北地方でも真夏は普通に暑い。
仙台市の広瀬川河畔から始まって山形市内で終わる国道二八六号線を、起点の広瀬川河畔からひたすら山形方面の
車で移動する人の涼しそうな様子が恨めしかったが、真夏に自転車で移動するのは自分が決めたことだから、文句は言わない。
途中にある「山田」という交差点で右折すると、坂を上って住宅地に入る。
この先の地名は「山田自由ヶ丘」。格好良いのか悪いのか悩ましい。
私――桑山理穂の自宅は、その「山田自由ヶ丘」の手前にある。先祖代々ここに住んでいた。
近くに「
普通に小洒落た民家が立ち並んでいる中、大通りを逸れて横道に入る。
途端に舗装されてはいるが、車一台分がやっとの細い道になるので、それを抜けて奥へと進む。
すると、新興住宅地が切れたところで、その先に古い家屋とそれを取り囲む屋敷林が見えてくる。宮城県でよく見られる「
私はその屋敷林の切れ目で自転車を降りた。
「理穂ー、今帰ったのがー」
自転車の停まる音が聞こえたのだろう。自宅の前、中庭に広がる畑の背の高いトウモロコシの向こう側から母の声がして、顔が覗いた。麦藁帽子の上から布を被せて日差しを避けていたが、毎日のことなので日焼け防止の役には立っていなかった。黒い顔の真ん中に白い歯が浮かぶ。
私の家は昔からここで専業農家を営んでいた。
「ただいま、何してんの?」
「午後にお客さんがくるがら、トンモロコシもいでんの」
「手伝おうか?」
「もう終わるがら、さぎに中入って冷麦食べてで」
「はーい」
私は自転車を押しながら中庭を進んだ。
愛犬のシロウが、玄関の前、
頑固な老犬の頭を優しく撫でると、迷惑そうに身じろぎされた。
まったくツンデレな犬だ。
奥の農機具が置いてある離れに自転車を置くと、勝手口から中に入る。冷房は茶の間と祖母の部屋にしか設置されていないが、風がよく通る日陰の勝手口付近は、この時間でも比較的涼しい。
板の間のところに愛猫のミネコが横たわって寝ていたので、起こさないように跨ぐ。三毛猫のお腹は穏やかに上下していた。
私の家は現代の間取りに置き直すと、八SLDKになる。そこに祖母と、父、母、私と妹の五人で住んでいた。
「今帰ったのがー」
物音が聞こえたのか、奥の部屋から祖母がゆっくりとした動きで出てきた。
御年六十。
「ひやむぎあるがらねー」
「お婆ちゃんは食べたの?」
「たべだよー」
そう言って、祖母は奥のほうに姿を消した。
その姿を見送ると、私は祖母に聞こえないようにこっそり溜息をつく。
*
仙台市近郊では、夏の冷たい麺としてそうめんよりも冷麦のほうがよく食べられる。
そして、冬になると暖かい
以前、不思議に思って調べたことがある。
日本農林規格(JAS規格)の定義では、機械製麺の場合、長径が一.三ミリ未満のものを「そうめん」、一.三ミリから一.七ミリまでが「冷麦」、それ以上が「うどん」と規定されている。さらに、四.五ミリ以上になると「きしめん」となるのだが、それはともかく、太さが一ミリ以下の世界で呼び名が異なるのだ。
ところが同じJAS規格で、なぜか手延製麺になると一.七ミリ未満であれば「そうめん」と「冷麦」のいずれの名称を使ってもよいことになっている。
これには理由があって、徳島県名産「半田そうめん」は太さが一.七ミリ前後の太いそうめんなのだが、JAS規格をそのままあてはめてしまうと「冷麦」に分類されてしまう。これを回避するために、二〇〇四年にJAS規格のほうが改定されたのだ。
本来、そうめんと冷麦は製法が違っていて、そうめんは手で延ばして作るが、冷麦は延ばした生地を切って作っていたという。
宮城県白石市の特産品で、一般の素麺は生地を延ばす際に油を塗るが、温麺は油を用いない。
江戸時代所期に、白石の大畑屋鈴木浅右衛門が、胃腸の弱い父親のために「油を使わない麺の製法」を旅の僧に教わったと伝えられる。
ちなみに「そば」には太さによる定義はない。
そば粉の配合率が三十パーセント以上なら「そば」と名付けてよい、という規定だけがある。
*
私は、風通しのよい座敷で、
子供の頃は茗荷の癖が苦手だったが、中学生の後半ぐらいから慣れてきた。今では、ないと物足りなく感じる。
台所のほうから、トウモロコシを煮る「いがらっぽい」香りが流れてきた。この香りも昔は苦手だったが、今は夏が来たことが実感できて気分がよい。
大人になるといろいろ変わるものだ。
いいほうにも、悪いほうにも。
トウモロコシを煮る香りを掻き混ぜながら、父が何も言わずにのっそりと座敷に入ってきた。
背丈は高いほうではない。百七十は超えていないと思う。しかし、長年の農作業で全身が締っていた。水の中に放り込んだら沈むのではないか思われるほどに、中身がぎっしりと詰まっている。
横を通る時に、節くれだった大きな手が私の頭を撫でる。
普通の子ならば「もう高校生なのだからやめてほしい」と言ってもおかしくはないのだろうが、今までそんなことは一度も言ったことがない。
父はとても無口で、必要なこと以外は殆ど何も言わない。酒を飲んで軽口をたたきながら笑う姿すら見たことがない。いつも静かに飲んでいる。
そんな父が、唯一示す愛情表現だった。
「はい、これ」
麺汁を入れたガラスの器を渡すと、父は黙って受け取る。繊細な器が父の掌の中に納まると、いつも以上に儚げに見える。
そのまま、しばらく二人で黙って冷麦を啜った。別に、気詰まりな感じはしなかった。
「できだよー」
母が、茹で上がったトウモロコシを笊に入れたままで運んできた。下に布巾をあてて、水滴が落ちないようにしている。
そのまま食卓の上に載せると、母も腰を下ろした。
「
「岩手県だっけ、大会会場」
果歩というのは、私の妹である。
中学二年生で陸上競技をやっており、その日は大会で県外まで遠征していた。
身長は既に私よりも高く、すんなりと健やかに伸びていて、姉の目から見てもいい感じに「実って」いた。
「山奥だがら、涼しいがもねー」
母は羨ましそうに笑う。
そこで、ぽつりと間が開いた。
私は、普段から思っていることをいう絶好のチャンスだと感じた。
「ねえ、前から思っていたのだけど――」
箸を食卓に置くと、改まった感じになりすぎないよう、注意して言った。
「――私、このままでいいのかな」
父と母は顔を見合わせる。
母が言った。
「いいのがなって、何が気になんの」
「だって、地震の後、家のほう大変じゃない。それなのに私、夏休み中は部活の練習ばかりで、朝の農作業を手伝っていない。それでいいなかなあって」
私は両親の顔を交互に見ながら、近頃気になっていたことを言い切った。
*
東日本大震災以降、東北地方の復興支援が声高に叫ばれている。
発生直後から映像で流された津波の様子は、人々の心の中に「未曽有の大惨事」という強い印象を与え、義捐金は世界中から集まった。湾岸部の整地や、被災者支援は、十分とは言えないながらも、着実に進んでいる。仙台市内の復興は進み、新しい建築物が生まれている。
しかし、農業と漁業に対する復興支援は別だ。
東北地方の農産物や海産物を販売するフェアは、日本各地で開催されている。そこでの売り上げは確実に上がっており、人々の目には支援が十分になされているものと映るだろう。
しかし、この裏で実際に何が起きているのかを、生産者以外が実感することは難しい。
フェア以外での売り上げは、壊滅的な打撃を受けていた。震災前のレベルには到底達していない。
福島第一原子力発電所の事故以降、東北地方から北関東にかけての農作物は、関係者の懸命な『安全宣言』にも関わらず、売れなかった。一時期の風評被害や「東北の農作物は危ない」コールは鳴りを潜めていたものの、意識の上にあたかも一枚のカーテンが引かれたかのように、東北の農産物は視界から遠ざけられていた。
復興支援を声高に言う人がいる一方で、市場の農産物や海産物は産地で露骨に売れ行きが変わっている。
東北地方の農産物と、関西以西の農産物が並んでいると、明らかに関西以西のものが先に売り切れる。
東北地方の農産物と、中国からの輸入作物が並んでいると、場合によっては中国産が先に売り切れる。
震災前はブランド品で高値の花だった「東北の米」は、関西のスーパーで激安品として売られていた。
誰かの悪意によるものではない。
何かの作為によるものでもない。
ただ、市場全体が「東北地方」を漫然と避けている。それが現実の姿だった。
私、そして両親も口には出さなかったがおそらくは、こう思っていた。
(原発事故がなければ、東北地方の復興はもっと急激に進んでいたはずなのに――)
東北地方の生産者は、農産物および海産物に対する「もやもやとした忌避感」を感じながら、それを払拭できずにいるのだ。
*
父親の溜息が聞こえた。
それは決して重いものではない。むしろ、
(こいつは何を言っているんだか)
というものだった。
「理穂、いいがらお前は弓の稽古をちゃんと続げろ」
「だってお父さん――」
「いいがら」
父は怒ったようにそう言って、冷麦を啜った。
こうなるともう何を言っても聞かない。彼――というよりは、東北の男に共通する悪い癖である。
母親はにっこりと笑うと、補足した。
「そんなごど考えでだの。なんだやー、心配するごだねえのに」
そう言って、トウモロコシを一本取る。
「まあ、昔に比べだら確かに売れないけんども、家族五人でなんとか生きでいげるくらいにはなってるべや。東北地方の中で消費されでる分もあるがら」
「でも、震災でやられた家の補修も終わっていないじゃない」
それにお婆ちゃんだって――と言いそうになって、私はさすがに自制した。
震災以降、祖母は外に出ることを嫌がるようになった。
農家の生まれだけあって足腰は頑丈で、本人さえその気になれば外出は自由である。しかし、一日中家の中で細々とした身近な作業を熟していた。
何もしないという選択肢は祖母にはない。常に手を動かしていないと落ち着かない性分であったから、掃除や洗濯やらをしきりにやっている。そして、片付けた先から「どこに何を置いたのか」を忘れることがたまにあった。
心因性の認知症――その徴候を見せ始めていのだ。
顔色から、私が祖母のことを言いそうになっていたことを、母親は察したらしい。
「いろいろと震災の影響はあるけんど、それはお父さんと私でなんとがすっから」
と、気持ち良いほどに明るく言い放った。
「それに、理穂が好きなことをやめで、家のこどに振り回されるようになんのは、親どして我慢がなんね。お前や果歩が好きなこどをしてられるうぢは、まだまだ家は大丈夫だど思ってっから、今まで通りに稽古しなさい」
「――分かった。変なこと言ってごめんなさい」
私はトウモロコシを手に取る。
口数の極端に少ない頑固な父と、口数の多い明るい母の組み合わせは、神様の配剤ではないかと思うことがある。私が察するに、父が言いたいことは母が言っていることと常に同じである。ただ、口が重くてそのような言葉にならないだけのことである。
黙って冷麦を食べている父親の横顔を見ながら、私はトウモロコシを齧った。
途端に夏の光が生み出した甘さが口の中に広がる。
「分かった。有り難う」
私は再度、礼を言った。
そして、涙を流していることを隠すように、下を向きながらトウモロコシを頬張る。両親はその様子を見て見ぬ振りをしていた。
猫が起き上がって、一声鳴くのが聞こえた。
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