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『【推しの子】』

はい、はまりました。

と言っても、まだ一話しか見ていません。

が、一話でもうお腹いっぱいで、二話に進めていません。

というか、怖くて二話に進めていません。


結果、一話をひたすら反芻しています。

四回くらい見ました。

今日仕事中にyoasobiの『アイドル』をループで10回くらい聴きました。

そしてふと、思ったわけです。


あれ、音楽ってなんだったっけ?と。



yoasobiはセリフなんかを歌詞に取り入れることが上手だそうです。

ですが、単にセリフを取り入れたという以上に、

原作がアニメ【推しの子】、の曲、という感じがしました。

アニメを見た感動をインスタントに味わうための近道というか、

アニメを短縮して音楽に変えただけというか……。

音楽ってそれで良いんだっけ、と。

(いや、めちゃくちゃいい曲なんですけどね、yoasobi好きなんですけどね……



音楽を聴いて想起するイメージは、

特定の限定されたなにかであることもあれば、

抽象的なイメージであることもある。

これは絵も同じ。

小説はどうだろう。きっと同じ。

具象の背景にはモデルが存在している。

特定の記号が別の記号を説明する役割を果たしている。

意味の連関。

虚実や具象抽象の単純な連続ではなく、

虚実や具象抽象が入り混じりながら連関していく。

ああ、そうか、と思う。

単純な記号から作られた新しい記号には、

どこか身体性が欠けているという話。

では、その身体性とは具体的になんのことを指しているのだろう。



こうして私はいつもどおり行き詰まります。

ChatGPTが身体性を欠くように感じられるのは、

私は前提としてそれがLLMに過ぎないと知っているからだという気もするし、

実際にそれなりの量の文章を書かせれば身体性の欠如が感じられる気もします。

問題は、人間自体もそうした身体性を欠いた文章を書くということなのかもしれません。

からだから必然的に、不可避的に生まれた言葉ではなく、

言葉から生まれた言葉、意味と意味の連関と確率から生まれた言葉を、

平然と書いてしまうわけです。


じゃあ、今はどうだろう。

私の文章は私の体験、経験に強く根ざした、

からだの感じられる文章だろうか。

否、欠けている。


yoasobiの『アイドル』はほとんど完璧といってもいいほどに、

【推しの子】(の第一話)を再現しています。ほんとにすごい。

だからこそ、アニメを見た時の感動に限りなく近い感触を、

たった数分の曲から得られる。反芻できる。

でも、音楽ってそれで良いんだっけ????????



私は音楽音痴です。

手前味噌ですが、割と自分は器用な人間だと思います。

でも、音楽だけはからっきしダメ。

そんな私が音楽のどうのこうのを語るのは、少し違うのかもしれません。

実際、私が語りたいのは音楽そのもののことではないのでしょう。


コンテキスト、という言葉が最近、

私にとってとても重要な意味を持っています。

コンテキストの強弱や有無が、

創作物に与える評価を大きく変えてしまうからです。

同時に、コンテキストが弱かったり無かったりする創作物に、

なんとなく恐ろしさを感じます。

これは意味とも深く関わっているのだろうと思います。

意味はコンテキストを背景に語られます。

私が身体性という言葉であらわそうとしているのはきっと、

そうした意味のことなのでしょう。



とかなんとか。

ようわからんくなってきました。

仕事あとで頭がぐるぐるや。

今日、仕事中に写経してました。

渡辺温と太宰治。

なぜかと言うと、青空文庫で頭に来る二作品だから。

『ああ華族様だよ と私は嘘を吐くのであった』 渡辺温
『ア、秋』太宰治

どちらも面白かった。

あああああ、もう、人生が短い!!!!

仕事サボって写経とかしてたって足りん、足りん、足りん。


と嘆いて今日は終わります。頭ぐるぐるやー

更新、しましたよ。

『より身体的に。からだを探す。からだから離れる。』
https://kakuyomu.jp/works/16817330651692273760/episodes/16817330656422938323

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