物語が自然と溢れてとまらない時があります。
同じように、言葉が溢れてとまらない時があります。
でも、その二つが一致して現れることはありません。
おそらく、働き方が異なるのでしょう。
良い物語は、割と論理的に構築していくことができると思います。
ですが、良い文、自分がよしとする文章というのは、感覚に依存する部分が多いようです。
そして、面白いと思う文章の形があまりに多様であるが故に、
なかなか文体を確立するに至らない。
あらがいようのない、自分である証としての文体。
そうしたものがどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
これは自我に似ているような気がします。
言葉の多面性や深度を考えると、
自分も言葉も、一貫性を持ちながらも変化をし続けている。
その瞬間をすぱっと切り落とした断面が、
私の紡ぐ小説や詩なのでしょうね。
でも、なにかそうした時間軸を超越したものが、
どうにか書けないものでしょうか。
断面ではなく、その人そのものであるようななにかが、
あったり、なかったり、ね。
なんの話でしたっけ、ね。
私はここにいます。書いています。それだけです。
追記。
以下詩集、完結しました。
よろしければお読みください。
『断片からなる銀河の星々の端にいる君はもう』
https://kakuyomu.jp/works/16816452219308237394