「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis 、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』で提唱したとされる命題の事だ。
ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。
しかし、“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)とし、哲学の第一原理とした。
これが絶対の真理であり、この絶対の間違いのない事実から、諸処の問題を解決していったとされる。
ここまで、あのウイキペディアがそう説明してるのだ。
私が自分の記憶力と想像力で、デカルトの第一原理を説明し、ラテン語やフランス語を紡いだのではない!
しかし、ここで、考えようではないか!
存在、それは、思い!
自分の存在としての、「思う」とは?
つまりは、自分の存在とは、思うことであるのなら、その思いは、どういう働きをするのか?
何を、どのように思うのか?
その思いは、いったいどうなるのか?
そう考えた時、次のような詩が浮かんだ。
私は、思う。
自分が楽しく、幸せなら、周りの人も、少しは影響して幸せになるのではと。
私は、思う。
自分さえでなく、自分が!より良くなる事が、周りをより良くする事になると。
私は、思う。
自己の勉強や努力は、自分の為だけでなく、他者に還元できるのではないかと。
そして、私は、自分の存在は、他者と共にあると思うのだ(๑˃̵ᴗ˂̵)
毎日、世界平和を考えさせられるTV報道やニュースが報道される。
だったら、自分たちに出来る事は何なのか?
それは、思う事。
平和を思うことだ!
つまり、それは、祈る事と、同義となる。
ここに、祈りが世界中を駆け巡り、行動変容を起こす起爆剤となるのが、お分かりいただけるだろうか?
思いは、ヒトを強くする。
これは、ラノベで良く使われるロジックの一つだ。
それを、今やらないで、いつやるのか?
祈りましょう!
思いましょう!
世界の安寧と、人類の平安を!
注)これは、祈りの超常的な現象を否定的に思われる人への、もうひとつの理屈家で書いたものです。
もし、祈りの超常的な力の話を知りたい人は、私のエッセイ「瓢箪からゴマフアザラシ!」をご覧いただきたいと思います!フフ!