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いくひ誌。【3321~3330】

※日々、目と鼻の先に限界がある、突破しようとしても指で押すだけでどこまでも逃げる。


3321:【2021/11/28*近況】
ちょっと最近はご本を読めていないので、どこかで集中して本を読む時間をつくりたい。時間はあるのだ。ただ、何もしないでボーっとする時間を欲してしまって、惰眠も貪りたいし、文芸以外の楽しいや好きにも触れたいし、お金も稼がにゃあかんなぁ、と思いつつも、メンドくちゃいなぁ、の気持ちが勝ってしまい、どうしてもウダウダうねうねしてしまうのである。現代のくねくねでござるよ。目にした者はあまねく意識がいくひしさんに似てしまうのだ。えーめっちゃ嫌だ、と言ったやつは誰ですか。しかし、いくひしさんもそれは嫌です。ほかのもっと立派で美しく、誰からも好かれてチヤホヤされる人格がよかった。あーあ誰かくれないかな。もうこの時点で性根の腐り具合が露呈して、無理な気がしたけれども望みは捨てない。だって意地汚いんだもん。それはそれとして世の人々はもっと、いくひしさんを見習って共にウダウダうねうねしたほうがよいと思う。しましょう。してください。できるだけお互いに物理的距離(孤独)を保ちながら。(共にする意味それある!?)(あるでしょ)(ないよ!)(真面目な話、意味はあるけど、他人をじぶんの自堕落街道に巻き込むな、とは思うよね)(それだ!)


3324:【2021/11/28*幼稚な発想】
上記、いつも通り真面目にふざけながら並べていたら、ああそうかもな、と一つ閃いたので、補足です。孤独は他者との物理的距離が開いてはいるけれど、誰かしらとの心理的距離はさほどに開いていないのかもしれない。誰かとは心が繋がっている。心という言い方が気に入らないなら、その人ならではの世界観が、と言い換えてもよい。その人だからこそ生じる世界への解釈や物の見方が、誰かしらと共有可能である状態が保たれているのならば、たとえ周囲に誰も人がいなくともそれは孤独ではないのかもしれない(極端な話、同時代に世界観を共有可能な相手がいる必要もなくなるし、現実に存在する必要もなくなる)。反対に、いくら物理的に周りに人が大勢いようとも、心理的距離が総じての人々から乖離していると、それは孤立にちかくなってしまうのかもしれない。したがって、仮にどんなに素晴らしい発見や発明をしたとしても、最初はきっと人は孤立してしまうものなのだろう。なぜならその発見や発明の素晴らしさを他者と共有するためには、その発見がいかに本質的に異質であり奇特であるのかを理解してもらわねばならないし、同時にそれがいかほどに優れているのかを知るための価値観や世界への解釈を共有しなければならないからだ。とはいえ、最初の協力者を得られればあとは、資本を生みだすかどうかによって、発見の本質的価値とは別の社会的価値観を基準に、それそのものの価値が規定されていくので、いかに最初の協力者――あまり好きな言葉ではないけれど理解者――を得られるかが、社会的な支援(優遇)を受けられるか否かの分水嶺になるのかもしれない。定かではない。(幼稚な発想だけれど、いくひしさんは幼稚なのがそれほど嫌いではないのだ)


3323:【2021/11/28*本当にそうなの?】
おそらく現状のままポリティカルコレクトネスを推進しようとする勢力が増していけば、遠からず法律以外のマナーを他者に押しつけることそのものが一つのハラスメントとして定義され、その結果社会的に最も合理的な倫理的行動選択とは、なるべく他者と物理的に関わらずに一人で行動すること、となっていくだろう。ある程度のバラツキはあるにせよ、いまほど団体行動を良しとする風潮は蔓延せずに、段々と薄れていくと妄想できる。そもそも現代社会における組織問題の要因のすくなからずは、組織の運営や仕組みそのものの瑕疵ではなく、人間の持つ脆弱性の発露によるものである。単独行動であれば問題ない行動選択が、組織という人間の集団において連鎖的に重なると、組織全体の瑕疵として顕現する。これは仕組みをどのように築こうとも必ず発生してしまう渦のようなものだ。社会問題を是正したくば、この渦をできるだけ大きくしないようにするしか術はない。根本的に或いは原理的に、人間が一か所に密集すれば、たとえそれがどれほど統率された組織であろうと、あべこべにどれほど無秩序な群れにすぎなかろうと生じてしまう問題というものがある。一見すれば無関係に見える社会問題の多くはしかし、人間が一か所に密集することで生じる個々の脆弱性の創発――すなわち増幅現象によって予期せぬ性質を帯びてしまうことに起因していると妄想できる。ならばそれら創発現象を防ぐには二通りの手法しかない。一つは創発する前に個々の行動様式を離散させ、ちいさな渦を大きくしない対処を講ずること。もう一つはそもそも人間を一か所に集めないことだと言える。これは物理社会にも情報社会にも言えることだ。これからの時代ではいかに孤独耐性を帯びているか否かが、社会生活を送っていくうえで奇禍を遠ざけていられるかに相関しそうだ、と妄想を逞しくして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ただし孤独でありつづけても困らないだけの環境を築くには相応に他者との協力関係が不可欠であり、やはりというべきか孤立に陥らないような工夫が入り用なのだろう。それを一言で形容すれば、社会性を保つ、と言えそうだ)(定かではありません)(うーん、無理筋かな、と思いながら並べました)


3325:【2021/11/28*ボツの是非】
前々から並べよう並べようと思っていてついつい忘れてしまっていて何年も海馬の枝葉に引っかかっていたのを運よく掴み取れたので、忘れないうちに並べておきます。商業作家において商業ラインに載せられない原稿をボツ原稿と言い、原稿を却下することをボツにすると言いますが、ちょっと言葉が強すぎる気がします。本当に今後二度と世に出せないレベルの、破り捨ててもよい原稿に対してならば、ボツにするという表現も理に適った筋の通った言い方に思えますが、そうでなく単に「いまじゃない」「求めているのとすこし違う」というレベルの原稿に対しては、もっと別の言い方にしたほうが、言うほうも言われたほうも傷心を負わずに、すんなり別の原稿に着手できる気がします。ボツ、という言葉は漢字で書けば「没」でしょうか。これは人が死んだことを示すときや、落ちぶれた様子を示す際に使うような言葉に思えます。それとも何かを地中や水中に埋めたり沈めたりするときの言葉でしょうか。やはりすこし強すぎる気がします。原稿を全否定したい意味で使うのならば「ボツ」でもいいのかもしれませんが、そうでないのなら、「いまではない」くらいのニュアンスの別の言い方を探ってみると、仮にいくひしさんが言われる立場であった場合には、好ましく聞こえます。(そういう立場になる予定は今後百年くらいはありませんが、好きな作家さんたちが、またボツだった、みたいな話をしているのを見聞きすると、ボツじゃなくていまじゃなかっただけなんよ、と思ってしまって、かってに哀しくなるので、本気でその原稿を土に埋める気があるときにだけボツと言ってほしいな、とかってながらに思ってしまいました)(ただ、言葉狩りみたいなことを言いたいわけではなく、あくまでこういう考えもあります、という一例ですので、話半分に読み流してください)(実際、いくひしさんもじぶんの超初期作に対してはボツ作扱いしているので、他人様のことは言えないのである)


3326:【2021/11/29*甘えたがり】
いっぱい寝た。でも小説のネタはいつでもコツンコツンのいくひしまんです。おはようございます。もうなんも思いつかん、とここ毎日ふて寝しています。ふて寝だけでなく、ふて腐れているし、ふてぇ野郎だ、と言われているし、ビフテキ食いて、と思っています。いくひしさんは人に触れられるのが好きではありません。これはむかしからそうでした。どんなに親しい相手でも身体に触れられるのが苦手です。でもこっちから相手に触れるのは大丈夫です。わがままさんなんですね。でもときどき猫になって、大きな人に撫でてもらいたい、と思うときもあり、猫にならずに猫を撫でていたい、と思うこともあります。よちよちかわいいでちゅねー、とされたい願望がありますが、これを言うと、まんちゃん気持ちわるい、の顔で引かれてしまうので宣言するのはお勧めしません。そう、あれは本当に嫌な体験でした。いくひしさんもお猫さんを飼ってみたいのですが、何かとお金がかかりますし、いま住んでいるところの都合上飼えなかったりもして、お猫さーん、と恋焦がれている日々です。うそです。それほどでもありません。お外を歩いているときに見掛けるくらいで満足です。あとネットの動画や画像で満足です。根が覗き屋気質なんですね。なるべくじかに触れあいたくはないのです。きょうはもう何も思い浮かばないので、こんな感じで、いくひしさんもふっつーの人間なんですよ、と好感度アップを狙って見事に裏目に出て玉砕し、なんでや、の気分で本日の日誌としちゃってもいいだろか。お好きにどうぞ、とのお声をいただいたので、これにて結びと致しましょう。本日のいっぱい寝たのにネタなし人間、いくひしまんでした。(新作掌編:「カレンダーが破られたー(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428877384901)」「ちいさなピラニアの怪(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428900800605)」)


3327:【2021/11/29*強弱と清濁】
突出した能力を示さなければ敬意を払えない、という価値観があまり好きではない。じぶんの認めた能力でしか、「強さ」を測ろうとしない姿勢も苦手だ。もしいくひしさんが本気で憤るときがあるとすれば、根底にこの苦手意識があるのかもしれない。強者には甘く、弱者には厳しい(強者と弱者の関係はいつでも時と場所と見方によって容易に覆り得るし、同時に満たし得る)。世の人々から強いと見做されている人や組織がそういう真似をしていると、そこに潜む淀みを暴きたくなってしまう。かといってではじぶんはどうかと顧みれば、けして淀みなき身ではない。淀みへの過剰反応の根底にあるのは突き詰めれば、同族嫌悪なのかもしれない。定かではない。


3328:【2021/11/29*はっとした】
きょう気づいたのだけれど「涼宮ハルヒの憂鬱」は多重構造であり、昨今ハリウッド映画やディズニー映画で流行りの三本リボン構造だ。三本の「別の世界観を有した物語」を通して「ハルヒという一本の芯となる物語」を浮き彫りにし、それをキョンという名の神の視点で叙述している。そりゃ面白いわけですわ、と我田引水ではあるものの納得してしまったな。(多重構造と三本リボン構造という自説の説得力を強化したいがための、ポジショントークですので真に受けないように注意してください)


3329:【2021/11/29*忘れん坊】
きょう気づいた、とか上記で並べたけれど、同じことをすでに数年前に並べており、記憶力……、となった。記事「34:【線から面へ、そして立体】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262191」と「969:【つくり方】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884607836」である。いい加減なことばかり並べてすみません。


3330:【2021/11/30*きのうはご本を楽しく読めました】
身体を酷使した日は、細かな装飾の施された起伏の多い文章を読み進められなくなる。目が滑ってしまうのだが、それは文章がわるいのではなく、読者たるいくひしさんの体調や文章との相性の波長が合わなかっただけである。これはたとえば虹を目にしたときに、きれいだな、と感動できるときもあれば、単に雨があがったな、で済ましてしまうときもあることと似たようなものだ。三日前には読み進められなかった文章が、きょうはとってもおもしろく読めた、という経験は読書を趣味にしていれば何度も経験することになるだろう。あべこべに、以前はおもしろく読めたのに、いまはそうでもないな、ということもでてくる。これは文章に原因を求めるよりかは、読者たるじぶんが変化したからだ、と考えるほうが妥当だろう。曇り空を見て気分が塞ぐのは、曇り空のせいではない。とはいえ曇りの日は気圧が下がる傾向にあるため体調不良を招きやすい。また雨が降りやすくもあり、外での活動が制限されることも経験的に知ることとなる。となれば、経験上、曇りの日は好ましくないことが多くなる、と予感できるので気分が塞ぐのは致し方ないことである。ひるがえって言えば、曇りの日でもいいことの多かった人は、曇り空を見ても気分が塞ぐことは、そうでないひとに比べてすくないだろう。これは読書にも言えることだ。暴力描写のあるハッピーエンドではない終わり方でも、それを読んで心が軽くなったことの多い人は、陰惨な小説を読んでも気分を害することはすくない。あべこべに眉をしかめてしまう人は、ただそういう内容の小説だ、というだけで気分を害してしまうだろう。そこは経験の差によって分かれるので、一概に本の内容とは関係がないとは言いきれないし、また本の内容が問題だ、とも言いきれない。経験とはすなわち環境によって規定される。曇り空を見て気分を害したからといってではその責任を曇り空に求めることができるのか、と言えば、あまり理に適った態度ではない、と言えよう。しかし曇り空が気分を害するきっかけになったのは確かである。必ずしもきっかけが要因であるとは限らないが、きっかけがなければそも、気分を害することもなかったかもしれない点は無視しないほうがよろしいように思うしだいである。まとめれば、文章を読んで得られる心の動きは、けして文章の内容から受ける影響によってのみ規定されているわけではないのですよ、ということである。どちらかと言えば、文章の内容の違い程度で心の動きを左右されてしまうような経験を積み重ねてきてしまったそれまでの環境のほうにこそ根の深い要因がある、と言えるのではないでしょうか。もっとも、文章の内容と環境要因、どちらが手っ取り早く改善できるかと言えばこれは圧倒的に文章の内容のほうであり、ゆえに手軽なことをよしとする環境のなかでは、きっかけにすぎない文章の内容のほうに責任を問う向きが強まるのは、人間に備わった未熟さ――不完全さ――を思えばしぜんなのかもしれませんね。(人間が不完全な存在である以上、論理的に正しい手法が必ずしも人間社会に当てはめても妥当とは限らない。ときには間違っているかもしれないが、人間社会ではひとまず成果がでてしまうことを致し方なく選択するしかないこともあるとは思います。ただしそうした妥協の積み重ねによって予期せぬ悪果が顕現してしまうのは、歴史を紐解けば瞭然であることもまた否定できないように思えます)(何かを暗に主張しているような文章になってしまいましたが、そういう意図はありません。こういう考え方もできるよなぁ、以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意してください)(新作掌編:「マッチ売りの少女を消す方法」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428926346916


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参照:いくひ誌。【2041~2050】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054889723982

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