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いくひ誌。【3821~3830】

※日々、素のじぶんを探ると野蛮で下品でお腹出して寝る。


3821:【2022/07/22*自由はヤジロベー】
自由であれとか、模倣は創造ではないとか、そういうことを言う「芸術家」は、いわゆる大御所や成功者と呼ばれる人たちにすくなくないけれども、特権や権力におもねるな、と言いながら、自らの特権や権力への抵抗には簡単に否定したり、拒絶したり、「それは自由ではない」とレッテルを張ったり、「それは創造ではない」と断言したりする。自家撞着に気づいているのだろうか。己の言動の、自己保身的自己肯定的言動が、歪んだまでの強者の言葉であることを自覚しているのだろうか。完全な自由とは極論、創造主である。神である。全知全能にして万能である。森羅万象、世の総じてを好きに捻じ曲げ、好き勝手に変更できる。編集できる。自分自身も好きに変幻自在であり、同時に無限に存在し得、しかしどこにも存在し得ない。そうでありながら全知全能であることの自覚のないただの個、存在にもなり得、或いはただの時空にもなれる。無にもなれる。そういうものが本当の真実の、純粋なる自由だ。邪悪にもなり得る、自由だ(すなわち、仮に創造主がいるのなら、あなたにも私にもあなたの大嫌いな人にもなれるし、すでになっていなくてはおかしい。なので、そんな存在はいないか、もしくはあなたも私もあなたの大嫌いなひとも創造主足り得るのである)。だがそんな自由の体現は人間には無理だ。自由などと耳触りのよい言葉でお茶を濁すんじゃない、とたまに自分自身の耳たぶを甘噛みしたくなる。自由とは、枷と選択肢の綱引きだ。どんな窮屈を許容し、どんな可能性を帯びるのか。そのヤジロベーがごときバランスが、いかにじぶんにとって心地よいのか。これがみなが自由と呼んでいるものの正体だ。ある者にとっての自由は、けしてほかの者にとっての自由ではない。ただし、ある者にとっての不自由がほかの者にとっての自由になることはある。もちろん、他者の自由をじぶんの自由と思いこむことはできる。しかしいずれそこに潜む歪みに悩むことになるだろう。何にも増して、自由はバランスであるから、ヤジロベーの立っている場所、環境が変わればいともたやすく均衡を失くす。つまり不変の自由などはないのだ。そもそも世の人々の口にする自由が、真実の意味での自由ではない。模倣を禁じられた世界では、模倣をする自由こそが自由の意味を拡張する。権力や特権の崩れた世界では、権力や特権を築くことが自由を拡張する。そこは綱引きなのである。よいバランスがどこに築かれるのか。いまじぶんはどんな変化のなかにおり、どんな窮屈を感じ、どんな選択肢を増やしていきたいのか。その思考がまずは自由でなくてはならない。問題や不満という名の枷を天秤に載せ、その反対側に、望む未来――いまはなき選択肢を載せてみる。自由とはそのヤジロベーの揺らぎの中に現れる、いっときの幻想――妄想にして空想にして理想なのである。したがって、敢えてバランスを崩し、立つのではなく寝ることを選ぶこともまた自由の範疇なのである。枷側に倒れるのか、選択肢側に倒れるのかによって、眠りの心地よさは変わるだろう。また、自由がヤジロベーだからといって、ヤジロベーがヤジロベーでありつづけなくてはならない、ということもない。真正面に倒れてもいいし、後ろ向きに倒れてもいい。竹とんぼのようにして回転して宙を舞ったりしてもいいし、その場で踊ったっていい。自由は、自由という枷からも自由になってよいのである。その余地がある。たぶんきっと、だといいね。定かではありません。


3822:【2022/07/23*きょうも雨】
地球温暖化についての覚書き。大気成分において、赤外線などの長波放射を最も吸収しやすい構成要素は、水蒸気らしい。つぎが二酸化炭素で、あとはメタンや一酸化二窒素、オゾンがつづくそうだ。大気中の水蒸気が多くなると温暖化は進むと解釈できる。それって結構、深刻なのでは。湿度が高くなる方向に世界中の気候が傾けば、それだけ温暖化は加速すると言ってもいいのでは。大陸の氷が融け、海水が増えれば必然、雲もできやすくなる。大雨が降りやすくなり、湿度も上がるのでは。ただ、雲が上空を広域に漂う時間が増えるのなら、日光が遮られる。日光が遮られるなら、地上は温められにくくなる。ならば水蒸気が増しても、雲の遮断する分、気温は下がるはずだ。そこの「相殺」と「温暖化促進」の関係のどちらが優位に働くかによって、気候変動の加速する率は変わってきそうだ。ただ、地上の湿度は上がる方向にこれからは全世界の気候が変質していくと妄想できる。たとえ温暖化の進行が停滞したとしても、湿度の上昇だけでも結構な環境変容が起こるのではないか。もっと言えば、地上はこれから先、通信技術が進歩することで、いま以上に電磁波が溢れる。湿度が高いというのは言い換えれば、空気中に含まれる水分子が多くなるということだ。いまはさほどでもない電磁波の熱変換が、いま以上に活発に行われるようになるのではないか、との疑念が湧く。譬えるなら、地球全体が巨大な電子レンジのなかに仕舞われるようなものだ。そこまでではないにしろ、湿度の高さと氾濫する電磁波の相互作用は、環境変容に対してまったくの無関係とは言いにくいのではないか、と定かではない妄想をして眠くなってしまういくひしさんなのであった。(湿度が上がるというのは、極論、蒸し風呂状態にちかくなるということだ。地上の水溜まりは蒸発しにくくなるし、木材は腐りやすくなる。昆虫は低空飛行になり、捕食されやすくなる。鳥や獣も流行り病にかかりやすくなるだろうし、そうすると新たな変異ウィルスが出やすくなる。風が吹けば桶屋が儲かるではないが、湿度が上がるといくひしさんが泣く。そういう事態にならぬとよいなぁ。頼むよ世界。よい夢を視よ)


3823:【2022/07/23*自由はあっかんべー】
ルッキズムの叫ばれる昨今である。見た目の美醜や、端麗さによって人々の受ける利や損は偏り、不均衡になる。不条理になる。理不尽になる。それを自覚し、是正し、見た目の違いで不利益を被る人のでてこない社会にしていきましょう。そういう流れが生まれている。これは勘違いしている人もいるかもしれないけれども、問題点が二つある。一つは、美醜が相対的な点であること。もう一つが、美しいことが必ずしも利ばかりを受けるわけではないことだ。この二つの問題点を紐解くための思想がつまり、ルッキズムへの反発運動なのだ、といくひしさんは解釈している(実際がどうかは知らないけれども)。個々人によっての美醜の価値観はある。何を見て美しいと思い、何を綺麗と思うのかはそれぞれに基準がある。したがって、絶対的な基準ではないし、たとえ絶対的な基準があろうとも、それらをもとに下された判断で、相手への態度を変えない。評価を変えない。そうしていきましょう、というのがルッキズム反発運動の根幹だといまは思っています。したがって、美醜の判断そのものを失くそう、ではないはずだ。どちらかと言えば、美醜にも様々あり、あなたにとっての美にも醜い側面はあり、あなたにとっての醜いにも美しい側面はある。暑い日の風は心地よいが、寒い日の風は苦痛である。似たような「いい加減さ」が美醜にはある。そんなものに囚われて、相手との関係を築かなくともよいはずだ。こういう思想なのだと思っているので、そこさえ共有されているのなら、全然見た目の美しさを競ってもいいと思うし、見た目の醜さを競ったっていいと思っています。もちろん見た目とは無関係の要素で競い合ってもいいと思いますし、競い合わなくたっていいと思います。つまり、ジャンケンで勝ったからと言ってそれでその人物がほかの大多数の者たちと比べて人間として秀でているわけではないのと同じ理屈である。見た目がよい、は数多ある判断基準の一要素にすぎないのである。いくひしさんは社会からルッキズムが薄まって欲しいと考えてはいるものの、いくひしさん自身が見た目で人を無自覚に無意識から差別をしてしまうモニョモニョな生き物であるから、たとえば絵や漫画やアニメのキャラクターは端麗な外見であるほうが好みである(むろん、あべこべに醜い見た目のほうが好む場合もありますが)。ほかにもたとえば私生活上では、ここふた月あまり、近所のスーパーに新しく入った店員さんがおり、じつに可愛らしくも凛と美しいお方であられる。お客さんの混み具合によってはその店員さんのレジに並ぶこともあり、そうするといくひしさんは全身から汗が滲み出て、挙動不審になってしまう。おどおどしてしまう。目なんか合わせられない。顔面がカッカする。背中が鉄板になる。ずっと下を向いている。緊張する。端的に、美しい人は怖い。これは差別である。態度を変えてしまう。きっと向こうからしたら損であろう。理不尽である。ルッキズムなのである。言うは易しちゃんなのである。申し訳ね、と思いつつ、すごすごとスーパーを去り、もう二度と可愛らしくも凛とした美しい人のレジには並ばん、と心に誓うのである。でも、あわよくば仲良くなれんかな、と妄想の世界で差別のない交流を思い浮かべる万年下心満載の不届き者、歩く18禁のいくひしまんでした。ごめんちゃい。(謝って済むと思うなよ)(バレたか)(で、店員さんの性別は?)(そこ重要?)(年齢は?)(そこ重要?)(人種に学歴に趣味長所は?)(そこ重要?)(何を重視して何を無視し、それによってどう態度を変えて、干渉の仕方を変えるのか。人はいくらでも差別をしているし、差別によって安全と利を得ている。差別のない利を、いくひしさんはなかなか思い浮かべられません)(だからといって、差別を許容しましょう、とはまったく思いませんが)


3824:【2022/07/24*ぞわっとした】
最近びっくりしたことの一つに、仏像がある。仏像の本をぱらぱらと流し読みしたのだけれども、仏さんに格付けがあるらしく、階級あるの!?となった。平等ちゃうんか……、とすこし肩透かしを食らってしまったいくひしさんなのであった。平等たれや、と思わんでもないよ。(ひょっとしてどの宗教にも階級ってあるんじゃ……)(神と信徒は、平等では……ない? 公平では……ない?)(もしかして存在価値に差があるのかしら)(深淵を覗いた気になってしまったな。夏のゾゾゾである)


3825:【2022/07/24*苦肉の計】
距離のある二点間(情報の非対称性がある場)において。情報が伝わる、というとき、何の情報がどのように伝わるのか、は重要だと思う。通信にしろ、コミュニケーションにしろ、量子テレポーテーションにしろ。せめて「位置座標(環境・状態)」と「既知の情報(関係性・法則・因果)」はセットで扱いたい。片一方しか明らかにならない場合、それは情報が伝わっている、とは呼べないのでは(位置座標のみが判るとき、それは同じ場所に存在することを示唆する。既知の情報のみで判断可能なとき、それは対象の位置や現在の状態が不明である)。通信にしろ、コミュニケーションにしろ、量子テレポーテーションにしろ、これは同じであろう。(三段論法において、Aが判ったらBも判る、というとき、Aが判った瞬間にBの情報が伝わっているわけではない。この場合、情報伝達は飽くまで、観測者とAとのあいだでしか行われていない点には留意されたい)(定かではありません)


3826:【2022/07/24*人工知能と殺人】
Y字のレールがある。左に行くと子ども、右に行くと五人の成人、どちらか一方にしか進路が取れない。しかしいずれのレールに切り替えたところで確実にどちらかのレールにいる人物たちを轢くことになる。あなたならどちらのレールに切り替えるだろう(子どもと五人の成人のどちらを生かすだろう)。選択肢にはバリエーションがあるが、要約すればトロッコ問題はこのようなものである、といくひしさんは思っている。トロッコ自体を脱線させるといった選択肢もあれば、レールの分岐点に突っこんでトロッコを止めるという選択肢もあるだろう。五人のほうのレールに突っこんだほうが、確率の問題としてトロッコの接近に気付く者が現れる確率が、子ども一人よりかは高くなる。轢くにしても五人同時にはならないだろう。そういった理屈をこねて五人を選ぶ人もあれば、単純に功利的な判断から、一人の犠牲者で済むほうがよいと考え、子どもを選ぶ者もあるだろう。少なからずの方は、問題そのものが理不尽であり、その状況になってみなければ分からないし、そもそもがそのような状況を生みださないように尽力すべきだ、と考えるだろう。唯一絶対の正解はない。問題というよりも、思考実験と言ったほうが実態はちかい。その点、自動運転車におけるトロッコ問題は、ハッキリとしたプログラミングの問題として、初期設定の段階から解をだしておかねばならないというジレンマを抱えている。答えの出ない問題の答えを出さなければならないのだ。ただし、自動運転車の場合は、トロッコ問題にはない様々な状況や、社会との繋がりが考慮される。前提として、運転手を含める自動車内の人間を守るように制御することが第一優先となる。第二に、危険を回避することで二次的被害を引き起こさないような回避策を優先することが挙げられる。第三に、それによる社会への影響を考慮することが求められる。この三点を層にして、どの選択肢が最も短期中期長期でのリスクを減らせるかを考えていくと、自ずと解は絞られていくだろう。具体的には、先ほどのトロッコ問題の例を考えてみよう。国道を走る自動運転車のまえに、五人組の成人が現れた。突っ込めば轢くことになる。回避するにしても、反対車線にハンドルを切ることはできない。対向車とぶつかり、それによる玉突き事故を誘発させ得る。同様の理由から急ブレーキも踏めない。では歩道側にハンドルを切るのはどうか。しかしそこには子どもが一人歩いている。五人組を回避しようとすると、子どもを轢くことになる。このとき、自動運転車の人工知能は状況の総じてを把握できるものとする。どのように回避策を選択すればよいのか。これは、この状況になったときの場合を最初から想定し、アルゴリズムとして組み込んでおかねばならない。その際、自動運転車の人工知能は、百回同じ場面に遭遇すれば、百回同じ回避策を選択することとなる。むろん性能が上がれば、百メートル先からでも、道路に五人組が突入してくるかもしれないと予測し、スピードを落とすなどの策を講じることはできる。だが、そこまで性能がアップするにはまずは自動運転車が実用化されなければならないため、性能アップの前段階で、このような葛藤を技術者たちはクリアしなければならない。このケースで言うなれば、どのような選択肢をとろうとも犠牲者のでる結果となる。その場合、事故後の社会の動向を加味することで、選択肢を減らすことに繋がる。つまり、このケースでの問題点は、車道に五人組が現れたことにある。交通ルールを守っていない。もしここで、交通ルールを守っていない者たちを優先して、何の瑕疵もない子どもを轢くことになったら――或いは対向車線、後続車と衝突することとなったら――もはや交通ルールとは何か、守る道理はどこに担保されるのか、という問題に発展する。仮に、五人組が轢き殺されたとしよう。その結果、社会には、もう二度とこのような事故が起きないような対策が敷かれることが求められる。そういう流れに傾くことが予想される。そのために五人の命を奪いましょう、ではないのだ。回避できない状況にある場合において、結果のあとの社会秩序――もっと言うなれば、同様の事案をいかに防げるのか。長期的な視野でのリスクもまた考慮していかなくてはならない。交通ルールを守れない者の溢れた社会では、いかに高性能な自動運転車ができようが、リスクは一定水準で存在しつづけることになる。極論、自動運転車の人工知能の性能を頼りに、当たり屋のようにじぶんから突撃することで「安全に事故に遭う」ことができる世の中になり得る。そういった、交通ルールを無視した事故による個々のメリットを減らすためにも、優先すべきはルールを守っている人の命、とするのは、一つの功利的な考えとしては妥当だ。しかし、人は必ずしもルールを守って生きることはできない。そこに悪意はなく、偶然による過失、または善意ゆえの逸脱とて当然あり得てくる。畢竟、飛びだした子どもを守るために飛びだす者もあるだろう。または、車道に飛びだしてくる小動物にはどう対処すべきか、もまた別の問題として立ちはだかる(回避できない場合は轢き殺すしかないが、そうすると小動物と人間への対処がイコールで結びついてしまう。同じ命なのだから、と考えることもできるが、倫理的に、端から「轢き殺すこと」を前提としたプログラミングは、やはり何かがねじれて感じずにはいられない)(殺すことを肯定し、命じ、選択肢として与えることそのものが、果たして許されるのか、という問題と地続きである。これはロボット三原則にも違反する。人工知能の在り方を根底から揺るがす問題なのである)。以上は、インターネット上のニュースで取り上げられていた「自動運転車におけるトロッコ問題」の記事を読んでの所感である。いつもながらに一気呵成にダダダーっと並べただけの駄菓子がごとく駄文であるので、美味しく感じる方に読んでもらえたら僥倖である。(いつものごとく何の根拠もない妄想なので、真に受けないように注意してください)(補足2022/07/24(21:53):人工知能に殺人を肯定させることはセキュリティ上、倫理上、双方の視点で、好ましくないと考えられます。したがって、最善の回避策を行う中での犠牲は回避しきれないものと想定し、「空白」の領域を構築しておく方針が、自動運転車の性能がアップするまでは妥当な判断と言えるのかもしれません。ブレーキを踏みつつ、安全な停車を優先する。その結果に目前に現れた五人に怪我を負わせた場合、これは致し方ないと言えるでしょう――とはいえ対策はその都度敷かれていくほうが望ましいのは言うまでもありません。ある意味で、運に任せるよりない、と言えましょう。残る問題は、法律上の責任がどこに向くのか、であるので、人工知能のプログラミングや倫理とはまた別個の視点での議論がいりそうです。双方の問題がまったくの無関係ではないため、思考が複雑になりそうですが)(定かではありません)


3827:【2022/07/25*わ、わからぬ】
わかんない、わかんない、ばっかりだ。わからぬときは寝るに限る。いくひしは不貞寝した。(本当なんでかことしは、「???」ばっかりだ。毎日百回は、「これは???」と混乱する。「あれって???」となる。わかんない、わかんない)(目がぐるぐるする)(未知の悪魔になってしまう)


3828:【2022/07/25*偶然としか思えぬ】
わかんないときはひとまず、偶然と解釈する。妙な偶然がつづくなぁ、と考える。でないと、妄想を現実と履き違えちゃうからね。(でも違和感は違和感として憶えとく。これ大事)


3829:【2022/07/25*邪悪を煮詰める】
解離性同一性障害ではないけれども、その発生メカニズムとされている原理は、ストレス軽減やトラウマ回避に応用できる気がする。自覚的にキャラを複数つくり、嫌な記憶はすべて吸収してしくれるキャラをつくっておく。なるべく最強最悪のキャラ設定にしておこう。邪悪ゆえに、マイナスの記憶がプラスになるのである。じぶんがわるいことをしてしまったときも、そのキャラに責任を押しつけましょう。すると、表面上のじぶんは無傷でいられます。ただし注意して欲しいのは、油断するとすぐにキャラ同士がくっついてしまい、蓄積し切り離してきたはずのマイナスを一挙に浴びてしまうことがある点だ。一発で裏返るので、器用貧乏でない人は真似しないほうがよいだろう。また、他者から見た場合、キャラの使い分けは、まず伝わらない。すべてじぶんの責任なので、気をつけましょう。うひひ。


3830:【2022/07/25*最弱の極み】
最弱ってなんだろう、と考えたとき、煎じ詰めてみると、真の最弱とは、「最強になったはずなのに、その実力を披露する機会なく、最弱にねじ伏せられ、最弱に支配されること」なのではなかろうか。最弱に献身する最強、これはまさに真の最弱と言えよう。(かわいいに屈せよ)(まぁたまんちゃんが適当なこと言ってら)


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参照:いくひ誌。【2721~2730】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054896046543

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