※日々、万遍の縁に繋がり、孤独だと嘆く。
2721:【怠けてただけなのに眠い】
たまに思うのが、数学とか物理とか、歴史でも文学でもよいけれど、ものすごく勉強ができて物の道理が解っているひとたちがこれだけたくさんいてどうしていまの社会って未だに困ったことで溢れているのだろう、なくならないのだろう、って白目を剥いてしまいそうになるのだけれど、考えられるのは大きく分けて三つあって、一つは、問題は解決しているけど新しくよりむつかしい問題がつぎつぎに生まれてきちゃってイタチゴッコどころか雪だるま式に手に負えなくなっている説。もう一つは、本当はとっくに問題は解決しているのに、人間のほうで欲張りに歯止めがきかなくなって、問題ではないことを問題として見做してしまっている説、三つ目はその両方がミックスして影響しあって手に負えなくなっている説、おそらくは三つ目が有力だけれども、要するに知性の役割の一つに問題を発見することがあるとすれば、どんなに社会が豊かになって完璧な回路にちかづいても、何かしら問題を見つけてしまうのが人間だろうし、それはどんなものにも不満を覚えると言ってしまってもある一面では間違っておらず、ゆえに社会が豊かになっても問題が続出するのは人間の根本的な欠陥にあって、つまりが問題を問題と見做す能力そのものが問題としていずれは俎上に載るようになるだろうと考えられるけれども、これって案外にけっこう卑近な問題、仮説かもしれなくて、とっくに頭のよいひとたちがたくさん考えて、それなりの対処法なり、解釈なりを導きだしているのだろうね。便利さを敢えて追求しない、これ以上発展しない、競わない、そういう抑制もまた知性の役割の一つかもしれないけれども、やっぱりどうしようもない問題というのは、時代や社会に関係なく勃然と現れたりするから、それはたとえば隕石なんかが降ってきたらどんなに文明が発展していようが、一大事というか、放ってはおけない奇禍そのものであるからして、やっぱりどんな時代や社会であっても、問題を解決しなければならない宿命を人類は背負っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない、どうしてそうではないのかもしれないと考えるかと言うと、そもそも人類が繁栄しなければならないなんて決まっているわけでもないからで、いったいどうして現代では、人類は滅んじゃいかんよ繁栄せーよ、の前提が暗黙の了解としてまかり通っているのだろうね、そりゃ滅んでほしくはないけれど、それが正しいのかなんて誰にも本当は解りっこないだろうに、現代人の少なからずは安らかな死を迎えたいと望んでいるのだとすれば、人類だっていまのうちから安らかに滅ぶ方法を模索しておいて、それほど損はないのでは?(眠すぎて、なんも並べることがなかったので、一気呵成に駄文をダダー、ぶーん、と並べただけですので、とくに何か主張や意見を呈そうという意図はありませんので、あー眠い、いつもどおり真に受けないでください)
2722:【さいきんの睡魔は弾丸のよう】
人間がいなければ問題は存在しない、死がすべてを解決する、とかなんとかそれに似たようなことを言った歴史上の人物がいるようですが、なんだか上記とかぶりますね。寝ぼけていたとはいえ、いやはや、人間寝不足だとあまり深く考えを巡らせられないようです。かといっていっぱい寝たからといっていくひしさんはいつでもあんぽんたんなことしか並べていないので、どちらにしても変わりはないのだけれどね。ただ、考えはできるだけたくさん、いろいろな方面から取り揃えて比べてみたほうがよいし、誰かが言っていたからとか、どんな思想から生まれているだとか、そういうことで、考えそれそのものを考慮しないのはおそらくあまり好ましくない気がします。安らかな滅びの方法を考えておけば、それを回避することもできます。想定外を失くすためにも、考えは巡らせておいたほうが、いくひしさんにとっては好ましく映ります。
2723:【視点の拡張と各層】
深層学習に似たアプローチでしか学習ができないので(というよりも学習ができないので)、理解よりさきに、いっぱい試行錯誤したなかでこうこうこうしたら抵抗がよりすくない状態で目的を達成しやすくなるみたいだし、自由度が増すのでこうしておこう、みたいな、なんとなーく、で生きている。科学や論理は因果関係を重視するし、基本としているけれど、いくひしさんはたいがい相関関係でしか物事を見られないし、科学と呼ばれるものの大半も、じつのところ相関関係でしかないのではないか、と思っている。還元主義の限界というか、複雑系として集合全体の挙動としての「創発」や「繰り込み」の視点をもっと思考に取り入れていったほうがよいのではないかな、とどうしても、なんとなーく思ってしまう。還元主義がダメだ、という意味ではなくね。それを踏まえたうえで、ということ。
2724:【まんちゃんそればっか】
まーた、それっぽいこと言ってら。詐欺師にでもなりたいのかな?
2725:【バケモノしかいない】
いくひしさんの費やしている工夫や労力は、いくひしさんが影響を受けているひとたちのそれと比べれば数億分の一くらいしかない(もっとすくないかも)。大袈裟でなくそうなのだ。世界一クラスがごろごろいる。というよりも、世界一になることがたいしてむつかしくないのでは、と疑いたくなるほどの能力を継続して日々発揮しているひとたちがすくなくない。息を吸うように進歩している。積み重ねている。変化している、より目的を達成しやすい形態へと。自己肯定感なんてものはあろうがなかろうが、どっちだっていい。あったらまあいいんじゃないんですか、程度の代物だ。基準として採用するには優先度が低すぎる。自己を肯定するよりさきになすべきことがあるはずだ。なしたいことが、あるはずだ。既成事実として、相対的にいくひしさんは怠け者だ。みんなもっとサボってほしい。いくひしさんが働き者の頑張り屋さんになってしまうくらいにね。
2726:【つっこみどころ】
他者から影響を受けているからといってその他者と知り合いだとは限らない。だいいち影響なんてものは、作用を受ければどんなものからでも受けるのだ。作用反作用の法則だ。硬い鉄に羽毛を押しつけるだけでも、鉄は羽毛から影響を受けている。影響を受けないことのほうがずっとむつかしい。得意げに語っているんじゃないよいくひしくん。いいね。
2727:【失敗の壁】
失敗というか、これをしたら上手くいかない、というパターンをまずは集めようとしてしまう傾向がいくひしさんにはあるのかもしれない。好んで失敗しよう、としているわけではないのだけれど、それはあんまりよくないよ、しないほうがいいよ、と言われても、わかんないじゃん、と思ってまずは試してしまう。一瞬で結果がでることならまだよいけれど(もちろん命の危機に直結しなければという注釈がつくけれども)、ある程度の期間継続しなければ失敗か否かが判らない場合でも、やってみたいなぁ、試す価値がありそうだなぁ、と思ったらそれを継続してしまう悪癖があるのかも、と自己評価を修正しつつある(自己改善が下手と言い換えてもよい)。好ましくない癖かもしれない。ただやっぱり、上手くいかないよね、というパターンを知っておきたい。集めておきたい。そうすると、そのよくないパターンを集積しているあいだは、自他ともに成果があがらない。どんどん袋小路に迷い込んでいく。失敗を過剰学習してしまうので、どちらかと言わずして衰退する、悪化する、下手になる。けれども、そんななかでも、ふとした瞬間にいつもと違った感触を得られるときがある。まったく登れなかった垂直の壁に、ゆびが引っかかった、といった程度のわずかなとっかかりなのだが、そこを足掛かりとして、徐々に壁を登れるようになっていく。どころか、いままでゆびを引っかけるところなんかなかったと思っていた場所に、ゆびがかかるようになっていく。壁が平面としてどこまでもつづいているかぎり、ゆびは徐々に自在にかけられるようになっていく。壁は、これまで蓄積しつづけてきた無数のよくないパターンからできている。壁を登るためにはまず、壁をこさえなくてはならないのだ。そのために、よくないパターンや、こうすると失敗する、といったじぶんなりの負の知見を溜めていくのも、それほど愚かな道程ではない気がしている。いくひしさんが深層学習に似たアプローチのほうが性に合っているというのは、そういう意味でもある。一般には、まず理解してからテンポよく成果を築いていけたほうが成功しやすいのだろうし、実力者として評価されやすいのだろう。おのおの、じぶんに見合った手法をいろいろと試していこう(けっきょく試さないことには判らないのだ)。(言うほど失敗しているわけでもないが。つまり、挑戦していないので)
2728:【ゆびで突つくだけ】
文章を並べるときには、文章用の意識領域にアクセスしないと文章を並べられない。いくひしさんにはいくひしさんのなかのひとがいて、当然と言えば当然だけれど、文章から推し量れるいくひしさんと、いくひしさんのなかのひとはイコールではない。カエルと体温計くらい違う。便宜上、いくひしさんのなかのひとを、ぺんぺん草と名付けよう。文章用の意識領域は、ぺんぺん草の肉体のずっと上のほうにあって、それはときに肉体の内部に潜ろうとして辿りつけることもあれば、昇天するみたいに、失神するみたいに、眠るみたいに、すんなり辿りつけることもある。妄想はその中間みたいなもので、いくひしさんとぺんぺん草のあいだに漂うモヤに視軸を当てると視えてくるのが妄想だ。文章用の意識領域には、ぺんぺん草のままでは入りこめない。いちどぺんぺん草としての殻から脱して、いくひしさんになってから、飛びこまないと、文章用の意識領域にアクセスできないのだ。文章用の意識領域は夜の海みたいなもので、或いは真っ暗闇の水中みたいな具合で、何もないようだし、何かで満ちている。ぺんぺん草から脱して、いくひしさんになったら、全身をそこに沈めて、さて何があるかな、とまずは気の赴くままに言葉を並べようとして、息を吐く。その息継ぎの気泡が、ぽこぽこと線となって浮上していく。その一連の流れをリズムよくゆびで突ついて割るようにしていくと、かってに文章になっている。したがって文章を並べたくてそこに浸かっているのに、文章を並べようとしても、そもそも並べたいことなどはなく、ただ気泡を目で捉えて、ゆびでリズムよく突いているだけなのだ。言いたいことなどはなにもなく、並べたいこともとくにない。虚無だからこそ、いくらでも息を吐きつづけ、暗がりのなかに気泡の筋が浮かんでいく。どんな気泡が筋となって昇るのかは、そのときにならないと判らないし、その気泡にはその気泡にあったリズムがあるから、なぜって暗がりを浮上する気泡の速度はそのつどに様々で、リズムですらじぶんでは操れない。とにかく何か文章を並べようと思ったら、ぺんぺん草であることをやめて、文章用の意識領域へとなんとか辿りつき、そこで目を凝らしながら息を吐けばいい。そうしたら目のまえにかってになぞるべき気泡の群れが姿を現す。数学や論理はこうもいかないのだろうけれど、いくひしさんの場合は、デタラメを自由に並べればいいだけだから、こんなにも簡単で、手間がなく、苦労もない。幼子がクレヨン片手に部屋の床にいたずら描きをするよりも無造作で、無責任で、考えなしだ。そう、考えてなどいない。文章はただ、目のまえに現れているそれをゆびで突つくだけで、かってにできあがっている。どうしてこんなにデタラメに並べているだけで、目で追ったらそれとなく、なんとなく、なにかしら意味があるような言葉の羅列になっているのかが不思議だ。解らない。ひょっとしたら、読み解けているのはじぶんだけかもしれないし、読み解けているとじぶんですら勘違いしているだけかもしれない。文章用の意識領域ってなんだ、そんなものがあるなんていまのいままで知らなかった。ぺんぺん草ってなんだ、もっとほかにいい名前があっただろう。いくひしさんのなかのひとってなんだ、それだとまるでいくひしさんがぬいぐるみみたいではないか、そんなにかわいいわけがないだろう。デタラメなのは、そう、そのとおり、なんも考えていない。波の写真を撮ったら、なんとなく波のしぶきが絵になっていて、それっぽくなっていて、なるほどなー、ってなるみたいな。いくひしさんの並べる文章なんてそんなものだ。偶然の神秘なのだね。
2729:【甘ったれ】
さいきんはもう、カカオ72%のチョコレート美味いな、の感情しか湧かなくて、あとは眠いの感情もか、マンガいっぱい読みたいなの感情もあるし、おもしろい小説読みたいなの感情もあるし、瞬きを忘れちゃうくらいにうおーっな映画も観たいし、もうもう感情だらけだ。おなかが順調にぽっこりちゃんになってきていて、かわいいなぁ、うりうりとひまさえあればつまんでおる。靴だってゆび一本分の隙間がだいじだし、DNAだって余白たる部位が案外にけっこう正常に遺伝子を働かせるのに必要だって判ってきているようでもあって、そりゃおなかのぽっこりちゃんだってなにかしら生きるにあたってだいじになってくるとわたしゃなんかは思うわけなのだよ。そりゃあ生きてきてこの方、ろくにひととしゃべらず、かかわらず、友人はおらず、片想いは数知れず、じぶんという分厚い金庫に閉じこもって、無数の虚構の恋愛やら友情やらにうつつを抜かしてきおった甘ったれでおじゃるが、えぇえぇ、言い訳はいたしませぬ。堂々たる面構えでおじゃろう? わたしゃ思うよ、チョコレートと言えば甘いの代表、代名詞で通ってきた時代はもうもうとっくに過去のものとなっておって、カカオ72%の苦味のほうが、美味さの内訳の大半を占めるようになって久しいご時世におかれましては、甘ったれの一匹や二匹はむしろ貴重で、72%のあとの残りの28%ほどの介在の余地がある。甘ければ甘いほどに苦い顔をされてきおった甘ったれは、世界に苦いを溜めてきた、なるほど道理でなあ、見渡せば72%の苦味成分カカオいっぱいのチョコレートがお店の棚を占めておる。苦い気持ちもないよりかはあったほうがよい。甘ったれの甘さだって苦味を引き立て、美味いの感情を覚えさせるよ、わーい、こんなに美味しい苦味なら72と言わずに80、90、といってみようかと欲張ったなら、甘ったれの甘さが失せて、ただただふつうに苦かった。ほどよい甘さはだいじだね。ないよりかはあったほうがよい。甘さも苦みもほどよく取り揃えていこうと心を新たに、いつでも甘ったれる側でありたいなとの欲張りに磨きをかけて、本日の「いくひ誌。」とさせてちょうだいな。
2730:【きょう当番なの忘れてた】
割とじぶんの文章を読みかえすとダメージを受ける。こんなんわいちゃうねん、の気持ちになってしまうのだけれど、同時に、じぶんからは極力離れた文章を並べたくもあって、こんなんわいちゃうねん、からの、できとるやん、のエセ関西弁のコンボが胸に突き刺さる。それが心地よいときもあるし、ないときもある、という話で、これは文章に限らず現実世界で鏡を覗いたときなんかもそうで、こんなんわいちゃうねん、の気持ちになってからの、いやいやそれがおまえなんやで、のやさしい気持ちになって、おうおうそうやったこれがわいやった、おっしゃー! になるのも割と毎日の通過儀礼だ。写真が苦手なのもその影響かもしれないし、動画でしゃべりたくないのもそれが影響しているのかもしれないし、していないのかもしれない。なんて言いながらもけっこうにいくひしさんのなかのひとはナルシストなので、いくひしさんはそんないくひしさんのなかのひとを眺めて、ナルシストきも、とか思ったりする。でもそういうことを直接言うと、いくひしさんのなかのひとは傷ついた顔を隠そうともしないからなかなか言えない。というか、図太くて傲慢なくせに繊細ってなんやねん、最悪やな、と思ってしまうけれども、これも言わんといてやる。親切心や。でも本当にいくひしさんのなかのひとのためを思ったら、ときおりは指摘してあげて、じぶんを見詰め直す機会をあげてもよいのかもしれない。じぶんを客観視するうちなるじぶんをつくっておくとよいかもしれない。多重人格ごっこをするとよいかもしれない、と思ったけれど、けっこうそれはそれで客観視するとオイタタタ、ですね。いくひしさんはだからオイタタタなのかいな? 気づいてしまったな。真理を突いてしまったな。図星を突いてしまったな。でもこれは独り遊びなので、オイタタタ、と痛がるひともけっきょくはいくひしさんであって、客観視するためのうちなるじぶんてけっきょくそれもいくひしさんなんやろ、のあたたかーい目で鏡を覗いて、きょうもたくさんのいくひしさんに囲まれて、賑やかに、孤独に、それとなくこっそり過ごしていくのだった。関西のひとってエセ関西弁を見たらイラっとしちゃうのかな。ごめんなさい、と思うけれども、さいわいなことにいくひしさんのなかには純粋な関西の方はいらっしゃらないので、すべてよしや。どこがや。おしまい。
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参照:いくひ誌。【1741~1750】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887704721