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いくひ誌。【1741~1750】

※日々、無知をさらけだす。


1741:【死と共にある】
事件や事故で、誰かが死亡しました、といったニュースを見かけるたびに、ああこの人はきっと朝、でかけるときにはまさかきょう死ぬとは考えなかったのだろうなぁ、と想像してしまう(きょう死ぬと考えたところで人は、死んでしまうときは死んでしまうのだが)。だからいくひしは家をでるときは、きょう死ぬかも、と想像する癖がついてしまった。きょうを無事に生き、あすを迎えられるなんてどうやったら信じられるのだろう。信じられないからみな目を逸らし、忘却することにいそがしいのだ。


1742:【クズisクズ】
半年前の「いくひ誌。」とか読み返すと、コイツあたま湧いてんなーってかバカじゃん、って恥ずかしくなるよりさきに頭の芯が冷めていくのだけど、それだけいくひしが変化してるってことだと思うんですよ。うん。成長しているかは微妙なところというか、大いに疑問ではあるものの、変化はしているわけですよ。いくひしはよくむかしのじぶんを思いだしては、あばばばーって顔をぶんぶん振っては、その遠心力で以って、記憶をどっかに飛ばそうと試みるのですけど、成功したことはなくって、そういうときは高尚なる呪文、「くそファック殺す!」を唱え、うちなるじぶんを八つ裂きにすることで事なきを得るのだ。冗談でなく効果があるので、いくひしの口癖はもうほとんど十割、「くそファック殺す!」です。さいていだー。クズにふさわしすぎて、なんのひねりもないでごわす。まあでもね、思うんですよ。過去のじぶんを否定できるくらいに変化してるのかなって。よきかな、よきかな。いくひしさんはちゃんとむかしのじぶんをやんわり受け止めてあげるのだ。きみがいたからいまのいくひしさんがあるのだねって。よくぞ、よくぞ、と思いながら、ありがとうって、念じつつ、抱きしめてあげるのだ。八つ裂きにしたあとで。そしてそんなじぶんもそう遠くないうちに、未来のじぶんに殺されてしまうのだ。かわいそう。でもそっかぁ。きょうのいくひしさんも、半年後のいくひしさんにとっては「くそファック殺す!」と念じたいくらいの存在なのだなぁ。そう思うと、ほら、ね? 気を張って、お利口さんになろうなんてがんばるのもバカらしくなるでしょ。どう抗ったって、未来のいくひしさんはきょうのいくひしさんを認めてくれたりはしないのだ。せいぜいが、八つ裂きにしたあとで、まあおまえのおかげですこしは楽しめたよ、みたいに悪態ついでに唾でも吐かれるのがオチなのだ。未来のいくひしさんこそさっさとくたばればいいのに。返り討ちにしてやるよ。かかってこいよ。どうせ勝つのはいくひしだけどな! 傲慢さに磨きをかけては、あっけなく八つ裂きにされてしまうきょうのいくひしさんなのであった。きょうのいくひしさんを倒したのはいったい、いつのいくひしさんじゃろか? すこしでも粘れるようにと策を練りつつ、こうきたらこう! こうきたらこう! とイメトレしては、片手間に過去のいくひしさんを秒殺していく、万年孤独ウェルカムマンこと、不死身のいくひしまんちゃんなのでした。


1743:【いやん】
ツイッターで絵描きさんばっかり眺めてるけど、絵だけでなく段々そのひとの人柄まで好きになってきちゃうのがあって(もちろんツイッターのつぶやきから分かる人柄なんてそのひとの極々一部だとは重々承知の助ではござるけれども)、個人的によろしくないなぁ、と反省中です。でも好きになってしまう。じぶんの世界観を持ってるひとはステキだと思う。いくひしがよくリツイートしちゃう方はみんな好き。プロフェッショナルとして尊敬できる方から、ひねくれ加減がかわいい方から、陰のいっさいないひまわりみたいな方から、病気になってないといいけどって私生活を心配してしまう方から、がんばりすぎですよ~~休んでくださ~い、って叫びたくなる方から、あなたの絵ならなんでも好きですって逆に失礼な想いが湧いちゃう方から、数年後にぜったいビッグになってるでしょ~~いまのうちに媚び売っとこ~~って打算が全開になってしまう方から、うお~~おまえにはこれっぽっちも興味はないけど貴様の絵はめっちゃ好き~~って方から、これは恋では?と思うくらい気になっちゃう絵描きさんまで、本当にステキなひとが多い。ツイッター上でそういうフリをしているだけだとしても、そういうフリができる時点で、尊敬に値するのよね。漏れなく小説の主人公にできるくらい魅力的な方ばかりで、比較するのはよろしくないのだけれども、おうおう、小説家ども、絵描きさんたちをすこしは見習え、と思ってしまうのよね。そしてぜんぶじぶんに跳ね返って死んでしまうのよ。いやん。


1744:【同情と差別】
同情と差別は部分的に同じだ。「私だったら嫌だな、そうはなりたくないな」と思うからこそ、相手を可哀そうだな、と思い、憐れむ。それが同情だ。たほうで、「私だったら嫌だな、そうはなりたくないな」と思うことで、相手を避けたり、拒んだり、虐げたりすると、それは同情ではなく差別となる。喚起された感情によって生じる行動の方向性が異なるだけで、本質的に同情と差別は同じだと呼べる。むろん、本質が同じだからといって、顕在化する事象までが同じなわけではない。犬とクジラは哺乳類であり、本質的に同じだからといって、まったく同じではないのと似ている。ゆえに、同情と差別は部分的に同じだ、と冒頭では述べた。差別をなくすにはまず、差別という行為を同情へと移行させる段階が必要であり、その後、同情すらせずに済む段階へと移行することで、平等の意識された社会が再構築される。だが、同情を煽り、なにかしらの利を得る組織ができてしまうと、せっかく差別が減少しつつあったにもかかわらず、つぎの段階へと移行できずに、またべつの対立構造が形成されてしまうことがある。同情を煽り、対立を強調することに終始しては、差別はまたべつの差別や諍いの種を撒き散らす結果になるのだ。そうなっては本末転倒を地で描く。ならばどうすればよいかと言えば、しょうじきなところよくは分からない。ただ、差別はなくならない、ということを受け入れることが前提条件の一つだとは感じる。前述したとおり、本質的に同情と差別は同じなのだ。差別を完全になくすには、同情や憐憫といった感情そのものもまた封殺する必然性がある。だが、同情や憐憫のなくなった社会が果たして実現可能だろうか。よしんば可能だとして、そんな社会が理想だろうか。細かくみていけば、人は差別をしているから社会を形成していられるのだ、と言い換えることもできる。差別はないほうが好ましいが、なくしてしまうことはできないのだ。たとえばそれは、バイキンは好ましくはないが、なくしてしまうことができないのと同じ理屈だ(極論、あなたの腸内細菌ですら他人にとってはバイキンとなり得る)。清潔な空間と、バイキンのいっさいない空間はまた別の概念だ。したがってまずは、なるべく差別(バイキン)のない清潔な環境のほうがよろしいよね、という合意が社会に浸透することを目指すのがよろしいのではないかと思う。差別の完全なる撲滅を目指してはむしろ、目的からは遠ざかるように感じられるのだが、あなたはどう思われるだろう?(とはいえ、絶対に到達できない理想ならば、追いつづけていてもさしたる害はないのかもしれない。けっきょくのところ、完全なる差別の撲滅を標語に掲げることで、かえって差別がなくならないのならば、それもまた社会にとってはシステムの維持という意味で、有用なことなのかもしれない。バイキンを根絶やしにしてくれるわ、と息巻くことでバイキンが繁殖する余地が高まるのならば、それはそれでうまくバランスがとれさえすれば、無菌室ではない清潔な空間が維持されるのかもわからない。ただし、そんな都合よくはいかないのが世のつねではないか、と思うしだいだ)


1745:【嫌われ者あるある】
いくひしがいなくなったとたんみんな饒舌になるやつ~~。


1746:【差別とハラスメント】
差別とハラスメントは同じではない。重なる部分もあれば、重ならない部分もある。重ならない部分が何かというと、差別は身分や階級にかかわらず生じ得る事象に対して、ハラスメントは身分や階級が要因となって生じる事象である点だ。つまり、ハラスメントをなくすには人々の意識を変えるよりもまずは社会構造を変えていくほうが優先される。差別は人の心理現象が要因であるいっぽうで(言い換えればより本能にちかい性質があるいっぽうで)、ハラスメントは上下関係という名の格差が発生要因となっている。したがって、ハラスメントをなくすためにと、強者たる相手と立場を入れ替わったところで、構造そのものが変わらないかぎりは、ハラスメントはベクトルを変えて引き継がれることになる。しかし、社会構造を変えるためには、社会を変えようとする人物が組織を動かせるだけの権限を持つ必要がある。そのためにはまずは偉くなる、権力を手にする、といった選択は有効だ。ただし、自ら得た地位に満足し、社会構造を是正することなくハラスメントをする側になってしまう例はそれほど珍しくはない。ある意味で、構造を変えるという意思を反対勢力に押しつけなくてはたとえ権力があっても構造を変えることは容易ではない。ともすれば、改革や是正とはいつの世も、ハラスメント的側面を以ってしか実行できないものなのかもしれない。ハラスメントをすることがリスクとなる社会では、ハラスメントが減る。そのいっぽうで、ハラスメントと見做されない環境を整備しようとして、結果としてハラスメントが差別へと転嫁していく悪循環は、けっして健全な一歩とは呼べない(たとえば蟻を踏みつぶすことが罪となったので、踏みつぶさないように蟻をこの国から追いだしてしまおう、みたいな本末転倒な事態が引き起こり得る)。我々の環境を脅かすな、損なえば痛い目をみるぞ、と脅し合うことでしか相手と対等になれない社会は、もはや抜けだすことのできないハラスメント地獄に陥っていると呼べる。地位を得なければなにも変えられない、相手よりも権力を持たなければなにも変えられない、そういった強迫観念を捨てないかぎりは、ハラスメント地獄から抜けだすことはできないだろう。むろん、これまでの社会はいつの世もハラスメント地獄であり、それでなんとかやってきたわけであるから、ことさら無理をしてまで抜けだす必然性があるわけではないのかもしれない。それでもハラスメント地獄から抜けだそうと抗いたいのならば、まずは、権力や地位、相手を見返してやる、といった自身に染みついた社会構造から変えていくのが合理的なのではないか、と思うのだが、ただいっぽうでは、権力を保持するのは何事かを成すうえでは近道であり、短期的な成果がでやすいので、一概に責めたり、非難するつもりはないのだが。(なにもしようとしないいくひしよりかは、何かを変えようと行動している人間のほうがずっと有能で立派であることは言を俟つまでもない)


1747:【ご主人たまは野菜】
やあやあ、いくひしさんだ。ここ二日間でめっきり寒くなったな。体調には気をつけるんだぞ。風邪なんかひいたら、いくひしさん、こらーだからな。畑の野菜がかってに病気になって腐ったりしたら、農家のひとはクッソーってなるじゃろ? あれと同じなのだ。いくひしさんにとっておぬしらは畑の野菜と同じ、いくひしの耕した土くれの養分を吸い取って、物語に色を、音を、感触を、流れをつくってくれるすごいやつなのだ。こうやって、この文章を読んでいるということはきっと、いくひしさんのつむいだ物語も、一つくらいは目を通していると思うのだ。ちがったか? ちがっていてもよいのだ。この文章に目を走らせている時点で、おぬしはもはやいくひしのご主人たまと言っても過言ではないのだ。農家のひとはけっして、野菜を奴隷にしているわけではないのだ。野菜たちは、農家のひと、ひいては人類に糧とされることで進化しつづけ、繁栄しつづけているのだ。利用されているのは人類のほうだと言っても間違ってはいないのだ。ただ、人類のほうでも大きすぎる恩恵をもらっているから、搾取されているとまでは言えないのだ。もちつもたれつと言いたいところじゃが、野菜のほうが上位の存在なのだ。植物のほうがよっぽど繁栄していると呼べるのだぞ。さすがは原始のころから地上に楽園を築いてきた種族といったところだな。それと同じで、物語を編む者が多くなってきたとは言っても、それを摂取する者のほうが全体としては多いのだな。しょせん、創作家なんて、読者や視聴者にいいように利用されている操り人形にすぎないのだ。みなのもの。奴隷をほったらかして風邪なんてひいたら、いくひしさん、こらーだからな。野菜は野菜らしく(ご主人たまはご主人たまらしく)、すこやかに、すくすくと、のびのび育ってほしいのだ。おぬしらが、まいにち、しゅわわせー、と思えることが一つでも多くあるとよいのだ。尽くしがいのあるご主人たまのそれが条件なのだぞ。いくひしさんは尽くしがいのあるご主人たまが大好きだぞ。ゴマドレッシングをかけて食べちゃいたいくらいだ。むしゃむしゃ、ごっくん。こうしていくひしさんのおちりの穴からは、物語というご主人たまたちの新しい土壌がぷりぷり、ぽっこん、とひねり落とされるわけなのだ。ちたない話でソワソワしちゃってるそこのちみー! 落ち着かないだけに、このままじゃオチちゅかないってなところで、きょうのオチとさせてくださいな。ではでは、おやすみー。


1748:【ITインフラ】
情報ネットワークは企業がしのぎを削ってサービス向上に努めている。これからさき、どんどんサービスは細分化し、深化していくため、宣伝コストが下がっていくことが予想される。いまはまだ一部の目立つユーザーがネットワークの上層部に浮きあがっている状態だが、時代が進むにつれて、ネットワーク上で目立つことの優位性が薄まっていく。言い換えると、ネットワークサービスのほうで、ユーザーごとの潜在需要に合った導線を引いてくれるようになる。ことさら宣伝努力をしなくとも、相性のよいユーザー同士がかってに繋がるような情報社会になっていく。そのときに優位に立つのは宣伝のうまいユーザーではなく、より飽きられないだけのコンテンツ(情報)を有しているユーザーだ。いま宣伝に五割以上のちからを注いでいるクリエイターは、その労力をあと四割減らし、その分、作品をつくる方向に尽力したほうが、将来的に有利だろう。よく観察してみるといい。フォロワーをたくさん獲得していながらに、球数がないためにすでに見向きもされなくなっているクリエイター(著名人)が増加傾向にあることを。フォロワー数がそのままなので人気が衰えていないかのように映るが、じっさいには見かけの数値よりも影響力はない(だからといってそれがわるいことだとは思わないが)。大きな組織のバックアップが期待できない時代にあって、これからは個人がいかに多種多様なコンテンツをほかのユーザーに提供できるかが、命運を分けるようになっていく。インターネット上での評価を気にしているヒマがあるなら、一作でも多く、あなたにしかつくれない作品を手がけたほうが、のちのち得をする確率をあげられる(得をしないでもいい、という姿勢ももちろんあってよい)。宣伝は片手間でできる程度でよいのではないか(短期戦を想定している方は、めいいっぱい宣伝したほうがよいとは思うが)。人生は長いようで短い。優先順位をつけていこう。


1749:【べつの見方をすれば】
クリエイターにとって、新作を発表すること以上に効果的な宣伝はないと言える。自戒を込めて述べておくが、他人の言葉(宣伝を生業とする者たちの言葉)に惑わされずに、じぶんの人生を費やすに値する時間の過ごし方を選んでいこう。


1750:【感情とは人間の抱くもっとも代表的な錯誤である】
AIは人間の感情を理解できない(大意)といったインターネット上の記事を読んだ。とくに反論はないが、では人間は人間の感情を理解できているのか、と疑問が湧く。それからAIは人間の感情を理解できないだろうが、複数のIoT(モノAI)を利用することで、人間の行動パターンを予測することは可能だろうといくひしは考える。たとえば表情のみを画像として切り取って分析してみたところで、その人物がその後にどのような行動を起こすのかは判断しにくい。怒っていてもそれを隠すために笑うなどのことを人間は日常的に行っている。しかし、腕時計型IoTを介して脈拍や発汗率、それから血中のアドレナリンなどの内分泌系やメッセージ物質の分量を計測可能ならば、表情との組み合わせで、その人物の行動様式を解析可能となるのではないか、と想像するものだ。個人のそうしたデータを日常的に学習させていけばAIの解析精度も高まっていく。そうなるとおそらく、病院で患者の容態に合わせて点滴や薬剤を投与するように、感情とはまたべつの基準で人間の内面が再定義されていくことになるだろう。人間の感情をAIが理解する必要はない。AIに合わせて、人間の内的動向の解釈が変わっていく。とするとそう遠くない未来、喜怒哀楽とはべつの基準によって、「この数値のバイタルデータならばこの人物はいま殺意を抱いていて、その衝動を制御できないだろうから、その前に鎮静剤を投与しよう」といったAIによる補助機構が可能となるかもしれない。ちなみにこれは邪推となるが、冒頭の「AIが感情を理解できないだろう(大意)との記事」は株価の操作を目的としたブラフではないのか、と妄想するものだ。二年以内にAIによる人間の内的動向を解析可能なシステムを開発したと発表する企業がでてくれば、この妄想も現実味を帯びてくる。また、こうした人間の内的動向を解析可能なAIによる生活補助になんの疑いもなくなり、AIからもたらされる情報や援助によってのみ生活を営むようになった時点で、人類は、自由洗脳時代の幕を開けてしまうのかもしれない懸念は、妄想程度でもよいのでいまのうちに巡らせておいても損はないだろう。何かを盲信し、依存した人間を操作するのは赤子の手をひねるよりも容易い(というよりも赤子の手をひねるだなんてかわいそうな所業はなかなかの難度だ)。AIを利用すれば誰もが他者に殺人などの逸脱行為を犯させることの可能な時代は、目前に迫っているのかもしれない。(※妄想ですので真に受けないようにお願いいたします)


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参照:いくひ誌。【1351~1360】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886062473

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