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いくひ誌。【1351~1360】

※日々落ちぶれていく我が身を思い、底さえなければ、とそらを思う。


1351:【なにものでもないもの】
何者でもないが、このままだと何者にもなれなかった者にもなれなかった者になってしまうので、本当の意味で何者でもない者になるには、ときおり何者かになってしまい、日々何者かでありつづけ、変質しつづけるほかに、何者でもない者にはなり得ないから、きっとこのままでは何者でもない者にすらなれない、何かになろうとした有象無象にまぎれ、大衆という名の亡霊に食われ、溶けこみ、消えていくことになる。「私」などというものは幻想であり、「自我」なるものは存在しない、それらはいっときの陽炎であり、何者でもない者による洗脳であり、刷りこみであり、家畜のための餌のようなものである。何者かになることの意味は、変質にこそあり、何者でもない者になるための過程にすぎず、「私」という「自我」を獲得してしまえば、あとはもう、それを以って何者でもない者の糧とされるほかに、存在価値はないのかもしれない。何者にもなりたくない。何者でもない者にすら。或いはそれらすべてになりたいのかもしれない。


1352:【チョコミントアイス】
へーい! いくひしです!!! なんだかお久しぶりって感じするなー。やーやー、このところいくひしさんは完全にヘバっておってな。うんうん。昼間暑くて、夜は寒い、じめっとしてて汗はかくしで、とっとと夏になってほしい。Tシャツ一枚じゃ寒いから未だに首にネクウォーマー巻いて自転車こぎこぎしとるわい。そろそろバンダナに変えたほうがええかもしれん。ちなみにツイッターで、なんかやたらにさいきん、チョコミントアイスの話題が増えてきている気がするのだが、気のせい? 基本は絵描きさんのツイッターしか覗いてないので、なんとも言えんのだが、いくひしもチョコミントアイスはだいすきなので、わしもわしもーって思いながら、いいねボタン押そうかどうか悩むのよね。飲み物はさいきんは、糖分入ってない系のしか飲まない。家だとルイボスティーか紅茶だな。どっちもお湯だしで、冷たい飲み物はまだ出番じゃないのだが、その分アイスで内側から冷やしたりもして、せっかく控えてた糖分もそこでごっそり補給しちゃう流れが定番化してきとるな。うん。ぽんぽん壊さないように寝るときは毛布がかかせないぞ。新作のほうはだな、なんか新しくまた短編をつくりだして、あれもこれもになってて、目がぐるぐる回っている状態なのだな。脱稿済みのは、ようやく半分くらい推敲したので、あと一週間もあれば更新できるはずだぞ。なんて言ってるときはたいがい、もうちょっとかかるから、ま、締め切りがあるわけでもないし、ゆっくりやっていくぞ。推敲のときのコツは、じぶんのなかでいちばん厳しい目を持つ人格に主導権を渡すことなのだな。一行読んでは、クソ、一行読んではクソ、と一刀両断するような目で、文章に、ガンガン金槌を振り下ろさないことには、ふだん小説を読まないような人たちの目に触れたときに、即座にメデューサになってしまうので、気をつけなくてはならないのだね。でもあまりにガンガン金槌を振り下ろしすぎると、こんどはふだん小説を読んでいるような人たちから、なんだこの文章は、って唾を吐かれてしまうので、好きなひとの唾液ならともかく、そうでないのなら、やっぱり唾は吐かれたくはないのだな。うんうん。そしていくひしは今からラーメンを食べるぞ。もうすぐ日付けが変わる時刻じゃが、きょうの夕食なのだな。辛口のみそラーメンで、スープはちゃんと残すぞ。でもきょうはたくさん汗をかいたから、塩分補給のために飲んでもいいかもしれないけど、やっぱりやめておくのだな。うんうん。本日二個目になってしまうのじゃが、食後のデザートでチョコミントアイスを食べようかな、と画策している本日のいくひしまんちゃんでした。オチはなしや! わるいか! わるいの? しるかー!!!


1353:【否定の是非】
何かを嫌いだと思う気持ちや、苦手だという感情を抱くのは人間として自然な行為だ。そしてそれら内なる精神のみじろぎを言葉にして吐きだすこともまた、表現の自由として認められている。よろしくないのは、そうした内なる精神のみじろぎを理由に何かを排除したり、闇雲に禁じたりすることである。ヘイトや差別がよろしくないのは、なにも、何かに対する嫌悪感を吐きだしているからではなく、それら嫌悪感をもとに何かを不当に排除しようとしているためである。同様の理由から、たとえデモであっても、なにごとかを排除しようとしたり、闇雲に否定することは、単なる差別であり蔑視であると個人的には捉えてしまう。デモは憲法で保障されている国民の権利である。しかしながら、単に「○○反対!」や「○○はやめろ!」のような否定の意思を声高々と唱えたところで、本質的にはヘイトや差別と変わらないのでは?とふしぎに思う。デモとは、私たちの主張にも耳を傾けてくれ、話を聞いてくれ、という願いを要望に転換するための行動のはずだ。それはけっして、私たちの主張を受け入れろ、という脅しとは異質なものであるはずだ。ニュースで報道されるデモのすくなからずからは、ほとんど脅迫ではないか、と胸が苦しくなるような粗暴さが感じられる。署名活動でも同様に、「○○に反対します!」のような一辺倒な主張で、本当にそれであなた方の望んだ社会になるのですか、と首をひねることが多い。さいきんでは、排除思想を排除するといったロジックで、けっきょくは正論を武器に何かを排除しようとする動き、自分たちで否定した方法論そのものを用いて自分たちの主張を押し通そうとする動きが活発化してきている印象がある。そのつど、新しい差別が生まれているだけではないのか、と思うのだが、なんにせよ、すべてをそのまま受け入れろ、というのも酷な話であることに異存はなく、けっきょくのところみな、共生など求めてはいないのだろう。共生とは、みなが助けあう社会ではなく、ときに傷つけあい、ときに助けあい、ある者にとっては害であるが、またある者にとっては生きるうえで欠かせない要素である、といったことを許容する社会が、共生なのである。自然界は共生のうえに成り立っている。ややもすれば人類はそこから抜けだそうとしているのかもしれない。強制と矯正と強請を以って、共生を拒んでいるのだ。そのさきに何を見ているのか、いちど訊ねてみたいものである。


1354:【間違い探し】
きょうは書店さんに寄った。去年はまいにち通っていたのだけれど、さいきんは一週間に一回寄るかどうかで、本当にここ三か月ほど、読みたい小説がなくなってきていて、それはおもしろい小説がない、という意味ではなく、単にいくひしが小説を読めなくなってきているのだ。飽きてきているのかもしれない。ゆゆしき事態だ。なのできょうも文庫の新刊コーナーをフラーと歩いてみて、以前ならば立ち読みで三十分くらいはタイムスリップを体感していたところなのに、本当にさいきんは、ふらーっとまえを通るだけで、タイトルを流し読みして、本を手に取ることなく、そのまま新書コーナーへと移行する。新書はすこし立ち読みする。去年は宇宙や遺伝子に関する新書が多く出回っていたのに、さいきんはすこし減少ぎみでさびしく思っている。売れないのだろうか? 購入する本もなく、そのままマンガコーナーへと移ろう。そこでも気になるタイトルはないかな、と探すだけで、やはり購入はしない。去年は表紙買いをしていたのだけれど、いまは前以って購入リストを頭のなかにではあるけれど作っているから、衝動買いすることはない(リストには載っているけれど発売日を知らずに、書店で見つけて買うことはある。これも衝動買いと呼ぶのだろうか?)。どんな新刊があるかな、と眺めるのは、次回作の構想に活かせるからだ。たとえばタイトルの傾向だったり、扱っている素材の傾向だったり、流行りと廃りがいちばん顕著に変動するのが、やはりというべきかマンガなので、観察する分には重宝している。ただし、さっこん、いきつけの書店さんが大型の店舗の割に、マイナーな本をとり扱わなくなってきているようで、以前よりも参考にならなくなってきた感が否めない。ツイッター上でバズっているマンガと、それから流行りの映画を織り交ぜて、傾向を読み取ると、それとなく、つぎに流行りそうな素材が見えてくる(どちらかというと、たくさん宣伝していながらに売れなかったものや、かつてなら売れただろうな、と思うようなものがそうでもなかったりするほうが参考になる)。とはいえ、そのていどで見えてくる流行りは、数年で廃れる一過性のものがほとんどなので、自作の物語の主軸に据えたりはしない。飽くまで、添える程度だ。ないよりかはマシだろう。そしてきょうはいくひしには珍しく、雑貨コーナーを覗いた。気分転換をしたい気分だったのだが、いつもとはちがったことをしたいな、と思った以上、その時点で、わざわざ行動に移さずともすでに気分は転換されている、というめんどくさい考えは巡らせないでおいたほうが賢明なので、いくひしは素直に雑貨コーナーを覗いた。千円のボールペンがあった。百円のものとどこが違うのだろう。宇宙空間でも使えるのだろうか。宙に字が書けるとか。などと考えるでもなくつらつらと歩いていると、カレンダーに目が留まった。俳句文学館の二〇一八年、ことしのカレンダーだった。そう言えばさいきん俳句が流行っているな。流行には敏感ないくひしさんである。ぺらぺらとめくってみると、たくさんの俳句が目に飛び込んできた。特選とでも言えばいいのだろうか、月ごとに一つか二つ、とくべつに大きく目玉商品ですとばかりに印刷された俳句がある。ほかの俳句と比べて何がいいのかはよくわからないが、特選の句だけは色紙に書かれたものを印刷してあるようで、月ごとに、詠み人の独特な感性が文字に浮きでて映り、味があるなぁ、と感じ入った。今月はどんなかな。思ったので六月のページを見た。以下、引用する。「さなぶりを 終え啄木の 村しづか」角川春樹――とある。はぁ。ひょっとしてこの角川さんはあの角川さんだろうか。ここでいくひしは考えた。カドカワの社長ってどっちだっけ? たしか兄弟だったような。なんとなく、社長のほうではない気がした。いずれにしろ出版業界の大物の名前があって、ほぉ、となった。俳句の意味はわからないが、特選をとっているくらいだからすごいのだろう。やはり、ほぉ、となった。さて、前置きが長かった。上記の文章には明らかにおかしい点が一つある。校閲に通せばまず赤字の入る、明確な嘘が並べてあるのだが、お気づきいただけただろうか。誤字脱字ではないのであしからず。日常のできごととして、ハッキリとおかしい点がある。聡明な読者諸君のことだから、読んでいるあいだに、あれ?と思われたことだろう。思われなくともまったく問題ない。こんな文章、きちんと読んでいるほうがおかしいのである。答えは、「書店に売られているカレンダーが今年のものなわけがない」である。すくなくとも、六月に売られているカレンダーに、その年の六月の暦が載っているはずはない。もしあったならば不良品なので、店員に教えてあげたほうが親切だ。ちなみに、小説における伏線をこのレベルで分かりにくく取り入れると、読者はまったく気づいてくれず、また、伏線でしたと回収してみせたところで、そんな記述あったっけ、知らんがな、とそっぽを向かれてしまうので注意が必要だ。


1355:【いいねの内訳】
ツイッターには「いいね」ボタンがある。押すと、赤く変色するので、じぶんが押したかどうか判るのだが、ときどき赤いのに数字がカウントされないときがあって、困る。あと、以前押したはずなのに赤色じゃなくなっているときがあり、それも困る。リツイートみたいに一定時間経つとまた押せるようにリセットされるのだろうか? ちなみにいくひしの場合、「いいね」を押すとき、その意味合いは四つある。「ヨッタ好き!!!」「わかる~~~!!!」「うらやましいぞこのやろー」「がんばってください!!!」の四つだ。どれも深い意味はなく、山のいただきに立って、いい景色だなぁ、と思うようなものなので、あまり気にしてほしくはない。リツイートしたときは基本的に「いいね」も押しているので、なんでこっちのはいいねがあるのに、こっちにはないのだろう、と思っても、それは単にツイッターの仕様によるバグなので、気に病まないでほしい。とはいえ、いくひしの干渉を気にする人間も、いないとは言い切れないにしろ、限りなくすくないだろうから、これは、もしもイヤな思いをされている方がいらっしゃったら、どうもすみません、悪意はありません、という言いわけである。きょうは日差しがつよいなぁ、蚊がうるさいなぁ、ていどに思っていただけるとさいわいだ。ともあれ、日差しにしろ、蚊にしろ、四種のいいね!を抱いていることに変わりはない。あなたの活動そのものがいくひしのつぎの創作の糧になっているので、五つ目の意味合いとして、ありがとうございます、も含まれているかもしれない。或いは、申しわけないです、と。なぜならいくひしは、ツイッターの向こう側にいるあなたがたに何も返せないのだから。いっぽうてきに貪っているようで、ほんのときどきだけれど、申しわけなく思うのだ。(いいこと言ったふうでいて、そのじつ、糧がいっぱい、素材がいっぱい、うれしいなぁ、と思うでもなく享受していることのほうが多い。まったくどうして腹黒いやつである)


1356:【爆睡日】
またまたきましたね、いくひしさんの爆睡日。きのうの夜は「いくひ誌。」を更新せずに、二十二時くらいに寝て、夜の三時くらいに起きて作業しようと思ったのですが、気づいたら翌日の十二時というね。十四時間睡眠でした。あるあるー。寝起きのいくひしさん、顔がシュってなっててイケメンやぞ。水分補給したらすぐにムニってなるから、あれだけど。中途半端に寝ると目がはれぼったくなってなんかブサかわいいのだが、ぐっすり寝すぎるとこんどは、シュっとなるのは、身体のほうで栄養不足に水分不足で、単に痩せてるだけなのだね。前にも書いたけれども、睡眠ダイエットは効果があるぞ。ただし、身体が弱体化するから注意が必要だ。腰とかすぐに痛くなる。よくない、よくない。きょうは脱稿済みの自作を推敲して、新作短編をちゃっちゃと片づけて、んー、順調にいってあした脱稿できるかな、というところかな。あとは溜まってる新作のほうをはやく結んでしまいたいのだが、なかなかうまくいかないなー。夕方から雨っぽい天気だし、やんだくなっちゃうね。あー、お腹すいたなー。お好み焼きでもつくるかな。具材は玉ねぎだけ。さきに玉ねぎを炒めておくのがコツだぞ。炒めるときも、焦げちゃわないように水を加えて、ほとんど茹でるというか、蒸す感じでやると、半透明で甘い玉ねぎになって、おいしいのだ。アツアツの玉ねぎを、お好み焼きのタネに放りこんで、そのまま焼いて、蒸して、できあがり。調理時間十分くらいかな。手軽でおいしい玉ねぎだけお好み焼き、いくひしの好物やからな。憶えておいてくれよ。念のため。あんまりに貧相な見た目なので、人さまにはとてもではないが、食べさせられないのだが。短いけど、きのうの分はこんなもんでいっかな。きょうの分はまた夜に更新します。では!


1357:【才能とは】
いくひしにとって才能とは、相対的なものだ。たとえば、他人が百の労力で可能なことを一の労力でできるようなものが才能だと思っている。生産性にも言えることだし、持続性にも言えることだ。つまり、他人より上手にできることが才能だし、楽にできることも才能だ、さらには継続しつづけられるという、いわゆる努力もまた才能だ。どうやったらうまくできるようになるかを見抜く眼力もまた才能だし、それを他人に解りやすく伝えられることも才能だと思っている。所属するコミュニティが変われば才能の有様も変わる。時代によっても変わるだろうし、それを評価する者によっても変わってくるだろう。けっきょく才能とはその程度のものなのだ。それを価値と言い換えてもいい。ここでふいに問いを投げかけよう。あなたは他人に価値を規定されたいですか? そんなあやふやなものを生きるための指標にしたいのですか。もちろん、それはわるいことではない。ときには他人に価値を規定してもらい、その価値を提供することも求められるだろう。ただ、それを目的に定めてしまってはやはりというべきか息苦しくなるだろう。なんといっても、現代は、ネットに繋げば時代に関係なく、世界という枠組みでの才能に容易く触れられるのだ。大きな枠組みのコミュニティに属して、果たしていったい何人が才能アリと認められるだろう。世界一を基準にしてしまえば、ほかのみなは総じて才能がないと呼べる。しかし、才能がないことイコール価値がない、ではない。評価する者によって変わっていくのだから、あなたの価値を決めるのはあなたであってよいのだ。そしていくひしは、そうあってほしい、と望んでいる。もちろん、あなたがあなたに見出した価値を、ほかの人たちにも認めてもらいたいとする欲求は理解できる。それもまたわるいことではない。ただし、唯一無二の価値とは、他人となかなか共有できない。そういうものだろうと思う。他人においそれと認められるものではない。時代に関係なく高い価値を付与される事例もなくはない。芸術作品や社会システムなどに多く見られる。しかしたとえ名作であっても、否、名作だからこそ、けっきょくのところは、その価値を理解できないことこそが価値の保全に繋がっていると言っても言いすぎではない。オーパーツのようなものだ。ピカソの絵を見て果たしてこの世に生きる者の何人がその価値をきちんと理解できるだろうか。学問にしても同様だ。真に価値を理解している者がいるとすれば、価値はつけられない、と応えるだろう。それほどに、価値があるものを多くの者は理解できない。ともすれば、価値がないことにも、二種類ある、と捉えることも可能かもしれない。価値のある無理解と、価値のない無理解がある、と。しかし、本質的にはどちらも同じことだ。これは、逆に言い換えることもできる。価値のある理解と、価値のない理解があると。だが、そうではないのだ。理解の有無に価値は関係ない。価値がついているように錯覚できるか否か、というただそれしきのことなのだ。価値があるように思える。それを利用しているのが資本主義社会における宣伝であり、プロデュースだ。まとめると、価値や評価そのものが極めてあやふやで、数値化するほど本質から遠ざかるような性質を有していると呼べる。それはけっして、数値の高いものに価値がない、という意味ではない。それぞれに、それぞれの価値があり、そしてそれら価値は、誰かにとって意味のあるものだ、ということだ。それ以上でもなく、それ以下でもない。これはそういう話だ。たとえばの話をしよう。ある絵画を百億円で購入した実業家がいた。実業家はその絵画がほしいのではなく、それを購入することで、各界からの注目を集めたかったのだ。宣伝費として百億円を払ったようなものである。手元には百億円の絵画(資産)があるのだから、実質損失はない。金を、時代を経るごとに価値の増す魔法の絵画と取り換えただけで、各界から知られる存在となったのだ。お得な手法だ。実業家はそれから時代を変えるようなサービスをネット上で展開し、社会への影響力を増やしていく。いっぽうで、その絵画をネット上でタダで見た作家がいた。作家はその絵に感動し、いずれ本物を目にしたいと思い、同時に行き詰まっていた創作活動の方針を大幅に変えた。そうした作家が半世紀のなかに一万人ほどいた。そのうちの一人が、のちに時代に残る作品を残した。やがてその作品を高値で購入する者が現れる。いずれにせよ、支払った報酬に関係なく、物から受ける影響は人それぞれである。そしてその影響がもたらす結果もまたそれぞれだ。お金をいくら支払ったかが評価のすべてではないし、また数値に現れるものだけが価値のすべてでもない。どんな影響を受け、それをもとに何を生みだすのか。何もそれは芸術や学問だけではない。ただ生きるだけでも計り知れない影響をつど、人は生みだしつづける。よき母であり、父であり、友であり、師であるだけで、それは一つの名作をつくるのに匹敵する影響力を生みだすのだ。そこに価値はあるのか。きっと価値はないだろう。すくなくとも、値段をつけたくはないはずだ。才能とは相対的なものである。ただし、誰かにとっての絶対的な価値を生みだすことはある。価値をつけられない、ナニモノにも代えがたい、そういった価値なき価値だ。図らずもそれは、才能とは無縁だ。影響の果てにもたらされる巡り合わせの産物なのである。


1358:【いや、そうは言ってもよ】
ちやほやされたいやろーがよ。いいね!いっぱい欲しいし、お金だってほしいだろうがよ。感謝だってされたいし、好きなひとに好きって思われたいじゃんよ。ないの? うそでしょ、マンちゃんさー。そういうとこやぞキミ。


1359:【詭弁だなー】
いくひしさ、おまえさー、価値なき価値とか、巡り合わせの産物とか都合のいいこと言ってっけどさ、けっきょくじぶん以外の人間に何かしら評価されなきゃ存在する意味がねぇって、創作する意味がねぇって、生みだす意味がねぇって、そういうことになんだろうがよ、世界でじぶんしかいなくなってもつづける意味はどうやって担保されんだよ、自己満足って話はどこいったんだよ、そういうとこやぞおまえ、しっかりしろよなー。


1360:【んーっ!怒】
うるさい、うるさい、うるさーい!!! いいことゆったときくらいいいこいいこってしてよもー!!! んーーーっっっ!!!


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参照:いくひ誌。【351~360】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882683609

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