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いくひ誌。【1751~1760】

※日々、ザコでいつづける、生ぬるい水からでたくない。


1751:【悪口】
短所や欠点を指摘するときに悪口とならない言い方はなかなかむつかしい。いっそのこと短所を指摘しない、という道をとるのがよいのではないか。しかし短所を見て見ぬ振りをしても構わないような相手と関係をつづけるのはそれはそれで負担となる。となると短所を指摘せずに、短所を直してもらえるような言い方が好ましい。では、褒めるのはどうだろう。長所を褒めるのは誰にでもできる。なればこそ、短所をおのずから改めたくなるような褒め方を編みだすのがよさそうだ。しかしそれは、相手の行動を誘導するのに似た恣意的な言葉にならざるを得ない。甘いささやきは悪魔のささやきだと相場は決まっている。相手を手玉にとるような物言いは、誠実さとはかけ離れていると感じるが、いかがだろう? とはいえ、言い方や伝え方はどんなことであれ、顧慮しておいて損はないのも確かだ。なるべく、悪口と捉えられないような物言いを心掛けたいものである。(短所を指摘するときに欠かせない視点の一つに、誰にとっての短所なのか、がある。じぶんが嫌な目に遭っているから、といった視点のみで短所と決めつけてしまわないように気をつけようと思います)


1752:【穴だらけ】
やあやあ、いくひしさんだ。さいきんはちょくちょく、なんというか、こう、生意気ないくひしさんが登場する機会が多くなってきていると思わんかね。傲慢なのはどのいくひしさんにも共通する点なのじゃが、さいきんのはこう、どことなーく他人の努力をあざ笑うみたいなそういう言動が多くなってきている気がするのだ。ふんふん。なるほど、なるほど。元からだと。むかしからそうだったと。変わっていないとそういう意見がでましたか。ふんふん。うっせーい!!! クズは死んでも治らんのじゃ! 黙らっしゃい!!! まあそうは言うてもですね、たしかにさいきん、ちょっと言葉に毒というか棘がありすぎたかな、と反省してます。しゅみませんでした。でもヘタなウソを吐くよりかはいいんじゃないでしょうか、と思うのよね。いくひしさんはウソがドヘタクソなので、なるほどだから小説もドヘタクソなのかと、そういうツッコミは言わんといてー! すぐクチバシを挟むんだから、そういうところだよチミ。鏡に向かってゆびを突きつけ、捻挫する。人を呪わば穴二つ。でもいくひしさんはそこらちゅうを掘り返しすぎてもはや巨大な穴があいちゃった。いっしょにお墓に入ってくれる方、万年募集中でごわす。あ、なんか急にさびしくなってきちゃった。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんでもさびしさは感じるよ。さびしいのは嫌いじゃないのさ、しんしんと降る初雪だ。肩をだきだき、さびしいので歌います。悪口だいすきないくひしさん、だから誰からも好かれず、寄られず、忌み嫌われる。意味などないのに日々言葉を並べて、無駄に時間を浪費する。人生はどん底、掘った穴のここは底。相手もいないのに呪いばかりが口を衝き、一人で埋もれては消えていく。埋め立てられても埋まらない、ドツボのごとくクズの墓、墓穴を掘ってはえんやこら、バケツを持っては天よコラ! 山になった土を掻きだし、こだまの響く壁をこさては、誰もそばにはいないから、埋めても埋めてもここはどこ? 光も届かぬ奥の奥、墓穴の底の、底の、底へとみずからすすんで突入だい。まとまりきらぬ日々の記事、底なし沼のごとく様相、奏でる懊悩、にじむ病状、諸行無常の響きはついえず、ただひたすらに鳴りつづけるジングルベル、師走くるレベル、隣にくる地獄(ヘル)、怒鳴りむつける。おもてなしの裏返りから蘇えりまで、呪いの言葉で唱えてみせれば叶えてみせるよ、いつの間にかぽつねんと、一人きりの世界でさまよい歩く、万年孤独ウェルカムマンこと、いくひしまんちゃんをあすもよろしくー! 叫んでみたところで返事はなく、こだまが、延々押し寄せては霧散する、合わせ鏡のごとくつづく万羽鶴。呪い、呪われ、文字を並べて、気づけばここは墓の底、夢のなかのうつつと化して、中の外と申しそうらう。暗い歌を祈りにこめて、呪いと化して、怨を溶かして、恩に固めて、浄化したものだけを掬い取ってくれたらうれしいな。いつでもひと任せの他力本願、姑息で卑怯ないくひしさんをあすもよろしくー、って二度目や! おやすみー。


1753:【傲慢が爆発】
「どいつもこいつも猿山のサルかよ。人脈だの発言力だの何者かになるだの、お山の大将きどって満足できるなんてお得な性格してるぜどいつもこいつもよォ。何を言うかよりも誰が言うかが優先度高めの世のなかになってきてるが、んなことやってっからカルトだのナチスだのブラック企業だの、政治の腐敗だの、ぜんぶ根っこが繋がってんじゃねぇか本気で気づいてねぇのか、それとも弱者はべらせて悦に浸ってんのか、なびくやつらもやつらだが、弱者で組んだ玉座にふんぞりかえってる何者かさんどもにゃぁ、ほとほと反吐がでるね。クっソくだらねぇ。孤独でも、弱者でも、何者でもなくとも、発言力なんて皆無でも、視点に、発見に、理論に、システム、なんでもいいが、これまでになかった新しさってやつを見せつけてくれるやつらのほうがよっぽど崇めたてまつるに値する。むろん、崇めたてまつることに意味なんてぇし、きっと関係ねぇどころか、邪魔すんなって追い払われちまいそうだけどな。そういうところがまたとびきりチャーミングだろ? 俺はそういうやつらが好きだ。それが正しいって話じゃねぇ。俺が好きだってだけの話だ。サルだって嫌いじゃねぇよ。お山の大将だって、上を見上げりゃ井のなかの蛙よ、下を見てばっかいっから自分のいる世界のちいささにも、自分がサルですらねぇカエルだってことにも気づかねぇんだ。カエルだって嫌いじゃねぇよ。ただまあ、井戸の底にいんのに大海原を牛耳ってるみてぇに錯覚しては、それを以って他者を見下すようなカエルは、たとえそれが神であっても俺は嫌だね。クソ喰らえってなもんよ。いいか、お山の大将見返していじめてやんのもわるかねぇ。だが、んなことに時間使ってるヒマがあんなら、一つでも多くの新しさ、新鮮な何かを見せてくれよ。それが正しいって話じゃねぇ。俺が見てぇってだけの話だ。なんでおめぇなんかに、って思うかもしんねぇし、誰だよおまえって言いてぇかもしんねぇ。それはそれでいいんじゃねぇの。俺は俺のためにつくられた新しさなんか見たくねぇよ。おまえがおまえのためにした結果の新しさじゃなきゃ意味がねぇ。俺はかってに見るだけだ。そしておまえはおまえで、かってに進んで、道をつくりつづける。それでいいんじゃねぇのか。何者かになるだぁ? かってになってろよバーカ。おめぇが誰かなんてクソどうでもいいんだっつうの。俺が誰かってのがクソどうでもいいのと同じくれぇにな。てめぇの軌跡を見せてくれよ。教えてくれよ。おめぇがいなけりゃ生じなかった猿山のそとへとつづく道、井戸の底から見上げたそらの高さってやつをさ」


1754:【エンジンの保ち方】
一人の人間が発揮できる仕事量は日によってマチマチだ。ずっと100%の能率では仕事を処理することはできない。仮にできたとしても、肉体のほうが消耗し、長期的に見れば、能率は下がる。ゆえに、長期間発揮しつづけられる仕事量の最低ラインをじぶんの基本性能として認めておくと遂行しやすい計画を立てやすくなる、という話は、ここ数年のビジネス書では割と取りあげられている傾向にある話だ。ところでエンジンの性能とは、一秒間の回転数で計るものなのだろうか。自転車のギアを考えてみよう。回転数のもっとも出やすいギアはペダルが軽いギアだ。ちょっとのチカラでタイヤが回る。その代わり、ペダルを一回転させるあいだに進む距離は短くなる。反面、ペダルの重いギアは、ペダルを一回転させるあいだに進む距離が長い。一分間に駆動する回転数が同じなら、スピードがでるのはペダルの重いギアだ。もちろんそれだけ抵抗が高いので、回転数を増やすのにはチカラがいる。その分、馬力もあがる道理だ。回転数ばかりに気をとられていると、すこしばかり損をするかもしれない。同じ回転数なのに進む距離がまったく異なるエンジンもある。馬力を能率と言い換えるならば、能率をあげるためには、ときには回転数を落としてでも、重いペダルを漕ぐ訓練が必要だ。言い換えれば、能率をあげるためには、敢えて回転数を落としてでも、負荷のかかる仕事に取り組まねばならない。ペダルを一回転させるのに全体重を籠めて踏ん張るくらいの重いギアに慣れてくると、これまでの回転数でも進む距離が段違いになってくる。物書きともなれば、この理屈は感覚的に理解できるはずだ。最初はなんでも、考えたことを思いついたさきから並べておけばよかったのが、しだいに削ったほうがよい文章が判るようになり、何行もの文章を一言で言い表せる技術が身についてくる。そうすると、一分間に並べられる文字数が段階的に減っていく。これまでなら並べていたはずの文章を、出力する前から、脳内で削ってしまうからだ。しかし、それも時間が経つと、その思考回路に慣れてきて、以前と同じ文章量を短時間で出力できるようになる。しかしこれもまた、新たな視点や技術を導入することで、筆が重くなる。この繰り返しによって文体は強化され、ときに乱れ、そして変質しつづけていく。その変質の過程そのものがその作家固有のオリジナルとして、文章にもにじみでるようになっていく。本来、文体とはこの変質に宿るオリジナルのことだと言っていい。話が逸れた。軌道を修正しよう。エンジンがかかる、という言い回しがある。しかし、エンジンの回転数ばかりに気をとられて、馬力をあげられずにいては長期的に見て損をしてしまうかもしれない。ときにはエンジンの機構を緻密にしたり(または単純化したり)、部品をバージョンアップしたものに交換してみるのも、能率をあげるのに一役買う。エンジンに手を加えてしまったがために、かえって能率が下がることもあるだろう。基本的には、一時的に能率は下がるとみておいたほうがよい。回転数は落ちる。しかし改善を重ねていけば、以前よりも馬力のあるエンジンとなっていくはずだ。また、緻密なエンジンや、馬力のあるエンジンほど、いちど駆動したらなるべく切らないほうが長持ちしやすい傾向にある(停止している状態がもっとも消耗しないのは言うまでもないが)。原子炉やコンピューター全般がそうであるように、起動するときの負荷が高いためだ(駆動したあとと停止したあとのエンジン本体の温度差もまた劣化の一因として挙げられる)。むろん、出力を高めても高負荷がかかる。なれば、エンジンを止めてしまわないようにしつつ、燃え尽きてしまわない程度のチカラでペダルを漕ぎつづけるのがよさそうだ。ときおり、こうしたことを意識しながら工夫していけば、長い目で見れば楽しい思いをすることが増えていくのではないか、と期待するものだ。じっさいがどうかはやってみなければわからない。とはいえやはりというべきか、無理なくつづけるのが吉とでるのではないか、と考えるものだ。(毎日つづけるのが偉い、という話ではない。すこしずつでも目標に近づこうとする姿勢がだいじなのではないか、という話である)


1755:【まだなの?】
まんちゃんうるさい。閉じてないショートショートはどうしたの? いっぱいあるでしょ、まだなの? 上から目線で偉そうなことばかり言うのもいいけど、さきにやるべきこととかあるんじゃない? まんちゃんのそういうとこ、ホントときどきどうかと思う。あ、うそうそ、ごめんね、そうじゃなかった。まんちゃん見るたびにそう思う。どうかと思うよ、ホント。


1756:【ぴぎゃー】
ごべんなだーい! ごべんなだーい! がんばでぃばずので、いくひし、がんばでぃばずので!


1757:【愛おしい】
好きなひとが、さびしい、さびしいって喚いていると、かわいくって、ついつい甘やかしてあげたくなっちゃうけど、いくひしの好意が加わったところで、そのひとのさびしさが薄れることはないから何もできないときは、ホットココアでも飲んで、好きなひとがこごえぬ夜を過ごせますように、と祈るほかに、すべきことは何もないのだ。いくひしの好意でさびしさが紛れるのなら、いくらでも耳元で、好き好き、って言ってあげたい。もちろんそれはじぶんのためであって、相手を愛玩動物やぬいぐるみの代わりにしたいだけなのかもしれないけれど。


1758:【終わりが見えるから】
傷を舐めあう関係性は長つづきしない。関係性を終わらせまいと、じぶんの傷口だけでなく、相手の傷口までぐちゅぐちゅのままにしようと抗いはじめては、互いに傷つけあって、腐り落ちるまで、ぐちゅぐちゅに化膿しつづけていく。そんなのはごめんだよ。そうなってもいいと思ってしまう分、日々じぶんに言い聞かせていく。


1759:【恋愛経験ゼロマスター】
貞操とか不倫とかそういうのはべつに個人の自由だとは思うのよね。でも、好きなひとと交わした約束くらいは守りたいじゃない? 守れないんならせめて関係性を終わらせてからにしてほしいと思うし、約束を破ることが快感だっていうなら、そういうことが好きな者同士で、そういう取り決めを交わして互いに許容しあってすればいいと思うの。肉体関係だけが愛の証明ではないと思うから。一生に一人しか愛してはいけない、なんて取り決めもばかばかしいと思うのよね。だからね、こそこそなんてしないで、堂々としてればいいんじゃない? こそこそしなきゃいけない理由をまずは考えてほしいと思うの。そうよ、そうなの。あなたはいったい誰に何を知られたくなくて、そんなに浮かない顔をしているの?


1760:【誰に向けて?】
物語を編むうえで想定している読者は、ふだん本を読まない人々である。十年前のいくひしは本とは縁のない生活を送っていた。本を読む習慣がなかったし、本なんてこの世になくていいもののトップ10にランクインしていたくらいだ。それでも、こうして読書の世界、虚構の世界、或いは現実を文字に変換して刻印し、人間の目に映し(或いはゆびで感じ)、思考で以って、ふたたび解きほぐせることの魅力にとりつかれているのは、ただそれだけを取りだしても、読書の価値を端的に実感させてくれる好例と言ってよい。大っ嫌いなはずなのに目が離せない。魔法じみたチカラが読書にはある。あべこべに、大好きだったものを大嫌いにしてしまう魔法にもなり得る。言葉の呪力はまさにそこにこそあるように思う。使い方しだいだ。そしていくひしは、大嫌いなもののなかにも部分的には好きになれる要素があることを、むかしのじぶんに伝えたい。初心はきっとそこにしかない。いくひしの原点である。だからこそ、ふだんから読書をたしなんでいる方々を読者に想定していない。かといって、まったく歯牙にもかけないのかといえばそれは嘘になる。なぜならすでにいくひしが、読書をたしなむ人間になってしまっているからだ。現在のじぶんを完全に無視して創作はできない。とはいえ、比重としては、過去の、読書と出会うことのなかったじぶんを中心に据えて物語を編んでいる。過去のじぶんを芯として、周囲により多くの読者を肉付けしていければ理想だ。欲張りに磨きがかかっていく日々である。過去のじぶんとかけ離れればかけ離れるほど、いくひしのつむぐ物語の懐は深くなっていく。そのためにも、原点となる初心を忘れずにいたいものである。はじまりが過去となり、始点となってくれるからこそ、辿ってきた軌跡はより長く、深い線となって、現在のじぶんをかたちづくってくれるのだ。輪郭を意識するためにも、ときおり原点を振りかえることは月並みではあるが、やはりというべきか、理想の物語をつむぐうえで有効だと感じる。


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参照:いくひ誌。【1481~1490】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886540746

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