※日々死が擬人化されていく。
1481:【バナナちっぷ】
いくひしはバナナ味が好物です。バナナそのものよりも、バナナシェイクとかバナナアイスとか、チョコバナナパフェとか、バナナチップスとか、そういうのがときどき無性に食べたくなる。さいきんだと、コッペパンとか食パンに輪切りにしたバナナを詰めて、チョコを添えて、オーブンでこんがり焼いていただきますするのがマイブームというか、ときどきやってくるバナナ味たべたーい、の衝動をえいや!ってする常套手段になっております。で、さいきん暑いじゃないですか。バナナもすぐに黒くなるし、まいかい、まいかい、バナナチョコじゃ味気ないし、かといってバナナアイスとか、パフェとか、チップスを買ってくるとなかなか値が張って、財布がげっそりしてしまうので、こうね。いくひしね。考えたよね。サランラップに、薄く輪切りしたバナナ並べて、上からサランラップでフタして、ぺったんこのバナナの輪切りの雑魚寝ラップを冷凍庫にぽーいってしたら、あらうれしい! お手軽バナナチップアイスのできあがりでござるよ。こうね、ありますよね。冷凍みかんならぬ、冷凍バナナってのが。ありますでしょ? あれね、でもね、固くて歯にしみるじゃないですか。虫歯じゃないのって? うるせーなー! 飼ってんだよ、いくひしさん歯で虫を飼ってんの、敢えて、これは敢えてですから! それはそれとして食べにくいじゃないですか。でも、そこはほら、輪切りにしておけば、あらふしぎ、ぜんぜんパリポリいける。いただける。いっしょにチョコとかじれば、お得なチョコバナナアイスでござるよ。ヨーグルトに添えたら、チョコバナナアイスヨーグルトでござるよ。すてきー。おいしいのでね。夏バテぎみのそんな日には、ちょちょーいと作ってみてはいかがでしょう。うすーくぺったんこなのでね、凍るのもスグですから。ぜひぜひお試しあれ。え? なに? バナナきらいなの? 食べたくない? 見たくもないの? ふうん。ゴリラにあやまろ?
1482:【猫チェンバー効果】
いくひしの小学校低学年のときの夢は、二十歳になったらたくさんの動物に囲まれて暮らすことでした。かわいくない? でもその動物の内訳は、ヘビとか毒蜘蛛とかそういうのでした。かわいくなくない? まーでも、いくひしはね、いちばんはやっぱり犬がね、子犬が好きでした。なんといっても人懐っこいというか、主さまー、みたいに舌だして、あそんでーあそんでー、って追いすがってくるの、よくないですか? いいですよね。わいがいなけりゃこのコはどうなってまうんやー、みたいなね。そういう、共依存みたいなの、ちいさいころからとぅきでした。猫はねー、いくひし、ちいさいころはあんまり、そこまででもなかった。というか、猫ってほら、べつにあんたなんかいなくても生きていけるわい、ふんだ、みたいな高飛車な感じがしてやじゃない? まるでどっかの売れないぽんぽこぴー作家もどきみたいじゃない? いくひしみたいじゃーんって思った? 思うな! 思わないでー、いくひし、猫みたいって言われるのやだー、あんな小憎たらしくなーい、かわいくなーい、そりゃそうだってうんうんするのやめろや!!! はい。いくひし、傲慢なわりに繊細なので、傷つきやすいのでね、かんべんして! 手加減ってだいじやん? で、犬派と猫派ならだんぜん犬派だったいくひしさんですが、こうね、こう、いまはどうなのっていうと、そのー、あれっす。飼うならいまは猫かなって思ってる。だってさー、なんかさー、放っておいてもいいくらいにたくましいのはさー、猫って感じするじゃん? 偏見? まちがってる? ふうん。そうなんだ。まあね、猫、かわいいじゃん。かわいいって思うようになっちゃった。ネットの影響。これはね、断言する。いくひしね、ネットするようになるまでは猫ってそこまでかー?ってふつうに思ってた。人と話すときも、やー犬っすね、って断言してた。でもネットってさ、なんかさ、猫派のほうが優勢じゃん? 多くない? 猫の画像の多さに比べたら犬の画像の目立たなさときたらないよ。ロリとショタならロリのほうが多い現象並に顕著だよ。ショタは犬だったかー。そっかー。そういうことではない? そっか。で、やっぱりインターネットでさ、あまりにみんなして「猫いいよね」「いい」みたいに言ってるからさ、素直ないくひしさんは、そっかー猫、いいんだね?みたいに段々なってきちゃってさ、いまでは立派な猫派だよ。犬もいいけどやっぱ猫だよね、みたいになっちゃった。くそー。インターネットの陰謀だ。こういうのなんてったっけ。あったよね。大勢の意見に流されちゃうやつ。元々あった猫も好きだけど、の猫が好きって気持ちが、閉じたコミュニティに属したせいで、増強して強化されちゃうやつ。そうそう、ネコチェンバー効果ね。え? ちがう? エコーチェンバー? そっかそっか。だそうです。インターネットでもね、こうね、好きなものだけ見てると、知らぬ間にじぶんの嗜好すらねじ曲がってきちゃうこともあるのでね。それのなにが問題かはよくわからないけど、いくひしの場合はたまたま猫がもっと好きになっただけだけど、でも運がわるければ、犬なんてかわいくないみたいな言葉にばっかり触れちゃって、あれだけ好きだった犬のこと、嫌いになってたかもしれない。そんなのって、ないやん? かなしー。やだよ。なのでね。できるなら、好きなものをよりよく好きになるようにインターネットを使っていけたらなって思う。エコーチェンバーじゃなく、すこし好きだったものをもっと好きになるような、そういうネコチェンバーを目指していきたいなって、きょうのいくひしさんは思ったんだってさ。いいこと言った? そうでもない? 褒めて!!! おやすみー。
1483:【挫折】
まいにち絵を描くって言ったな(三か月くらい前に)。ありゃウソだ。
1484:【短編のつくり方3】
きょうは書くことを思いつかなかったので、短編をつくる過程を追っていきたいと思います。きょうのテーマはホラーです。ホラーの基本は、不気味さですよね。不安定さというか。もうすこし大まかには、放置できない未知というべきか。放っておくことができない、とは要するに、危険だ、ということです。なぜ危険なのか。それが判ってしまうと、ホラーではなくなってしまうので、なぜかは分からないけれども、なんとなく危険、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。ではどうなったら危険だと人は思うのでしょう? まずはなんといっても命の危険ですね。死んでしまう恐怖は、ホラーの基本です。あとは、たいせつなものが損なわれる恐怖もありますね。ただ、それを直接描くと、じつはホラーにはなりません。いえ、なることもありますが、あまり上質ではない。ミステリィやサスペンスも命の危険や、たいせつなものの消失を描いたりしてますよね。そちらのほうが直接的と言いますか。むしろ、恐怖の延長線上で、このままいくとそうなるかもしれない、と無意識に連想してしまう、そうした事象のほうが、ホラーの本質を捉えている気がします。つまり、死んじゃうからコワイ、ではなく、死ぬかもしれない、とぼんやり思わせるくらいがちょうどよいのです。たいせつなものが失われる、となれば対策をとるのが人間です。でも、まだそこまでじゃない、でもこのままだとなんか不安だ、がホラーの神髄だと思います。それを一言でまとめますと、常識が通じない、不条理、となるでしょう。たとえばこういうのはどうでしょう。『仕事のついでに食堂に立ち寄った。知らない町だ。山に囲まれているせいか、蝉の声がうるさい。食事処は繁盛しており、味のほうの期待が高まる。注文し、料理が運ばれてくるまでのあいだ、なにともなしに店内を眺めていると、ふと妙なことに気がついた。客がみな、箸を逆に持ち、使っている。なぜだろう。思いつつも、運ばれてきた料理のうまそうな匂いに、さっそくとばかりに箸を構える。そのままふつうに食していると、ふと、耳鳴りがした。静かだ。箸さきを口に咥えたまま何気なく店内を見回すと、客や店員たちが一様にみなこちらに顔を向けていた。何を言うでもなく、ただこちらを見ている。居心地がわるい。ひと息に平らげ、勘定をすべく席を立つ。店員や客たちは、なぜかこちらの食したカラの器と箸を囲むと、じっとその一点を凝視した。不気味になり、金だけレジに置き、そとにでる。耳鳴りがいっそうつよまるのを感じた。額から垂れた汗が靴のうえに落ちる音が聞こえるようだ。歩を進めようとして、踏みとどまる。道路は一面まっくろだ。蝉のなきがらで埋め尽くされている。どの蝉も六本の肢をそらへと向け、どの眼も黒く、箸さきで突いてできた穴のようだった』なんだか作り話みたいで、あまりホラーらしくないですね。作り話なのでそのとおりです。幽霊やオバケや、超常現象をネタにするときの問題点として、体験したことの因果関係を主人公が洗いだせるのか否か、があると思います。上記の蝉の話の場合は、その後に店に戻って、「なんか道路が蝉でいっぱいなんですけど」と言った場合に、どうなるのか、を想像すると、途端に白けてしまいます。箸をふつうに使ったから蝉が大量死した、と読み解けるものの、その因果関係を証明しようとすれば、案外かんたんにできてしまうところに、この話の弱さがあります。せめて、蝉の大量死を目撃するのは、その町からでるとき、電車から見た風景にすべきでしょう。そうすれば店に戻ることもできず、また、見間違いかもしれなかった、というあいまいさが漂い、因果関係の証明が困難となり、よりホラーらしくなります。ここ数年のホラーの定番としては、幽霊や超常現象だと思っていたけれどもじつは人間の奇行が原因だった、というものがあります。これは、因果関係を明らかにできることがむしろ恐怖に繋がるタイプの物語構造で、本当におそろしいのは人間だ、という単純な話ではなく、ホラーの抱える欠点を見事に打開している「新しい定番」だと言えます(すこし古い型だと、「じつは殺人現場だった」や「人が死んでいた」といった、その場所やアイテムがいわくつきだった過去を明らかにするホラーも定番です)。ミステリィとの違いは、事件を解決するのではなく、飽くまで解釈が変化しただけ、という点にあるでしょう。つまり、ホラーの場合は何も解決しないのです。この点を意識して、一つためしにつくってみましょう。『その噂は知っていた。帰り道や家の窓からよく目にしていたので、半分は正しいと知っている。小学校の第二図工室には、夜中になると居残りの生徒が一人で授業をしている。もちろん、夜中にそんな生徒はいないし、幽霊が漂っているなんてこともない。ただし、ときおり明かりが灯っていることがある。それは本当だ。バイト帰りによく目にしていた。午前零時を回った時刻に、なぜか小学校の図工室にだけ明かりが点いている。家が丘のうえにあるため、校舎を一望できた。ほかの家からも見えているだろう。教師の消し忘れなのか、なんなのか。なぜかいつも同じ教室、図工室だけが煌々と明かりを灯している。もちろんそこには誰もいない。すくなくとも、見える範囲には、人影はない。だからおそろしくもないし、不審にも思わなかった。何年もずっとつづいているのだ。日はまちまちであるにしろ、それが自然な様として日常の風景に溶けこんでいた。学校側で、何か目的があってそうしているのかもしれない、と心のどこかでは納得していた。就職し、地元を離れてからは、すっかりそんな日常の風景のことなど忘却の彼方に沈んでいた。だから、ことしになって、校舎から遺体が発見された、とニュースで観たときは驚いた。校舎の駐車場に並んだパトカーの画像を母が送って寄こし、うそではなかったか、と亜然とした。そのときはまだ、例の、日常の風景を思いだすことはなかった。なぜなら遺体の見つかった場所は、校舎のなかではなく、そとだったからだ。体育館の裏にある畑から、若い女性とみられる遺体が発見された。校舎を増築するために掘り返した際に発見されたものらしく、死後、十年は経っているとのことだった。犯人は捕まっていない。みな口には出さないが、教師の誰かが犯人なのではないか、と思っているにちがいなかった。警察からはとくにそういった発表はなかった。週刊誌もひと月ほど騒ぎ立てたが、捜査が難航し、容疑者がいっさい浮上しないとみるや、続報を載せることもなくなった。ニュースから一年半後に同窓会があり、地元に戻った。同窓会は中学校時代の生徒の集まりだった。やはり件のニュースは話題になった。「そう言えばさ、夜の図工室のやつって、どうなんだろうね」誰かが言った。「関係ないんじゃね」そういった声が多いなか、じつは、と話したコがいた。丘のうえに家のある、近所のコだった。夜な夜な、明かりが点いているのをよく目にしていた、噂の半分は本当なのだ、といったことを話した。いまはどうなのか、とみな話に食いついた。そのコは実家暮らしをしており、いまでも学校を見下ろせる場所にいる。「いまはもうないよ。そうだね、事件があったころからかも」こわーい、と女子たちが騒ぎ、やだー、と男子たちが真似した。同窓会は精神年齢が低下して困る。帰りに、くだんの小学校に寄った。辺りはまだ明るい。とくに理由があったわけではないが、なんとなしに、遺体が発見されただろう場所に花を添えた。まいにちのように眺めていたのだ。あすの朝いちばんにはまた地元を離れる。これくらいしてバチは当たるまい。夜、寝る前に窓からそとを眺めた。学校が見える。暗闇に沈んでいる。意識したわけではないが、遺体の発見された区画に目がいった。そなえてきた献花は闇に埋もれている。新しい建物が増築されている。あの下に遺体が埋まっていたのだ。生徒たちは何も思わないのだろうか。寝る前に見る風景ではないと思い、目を逸らそうとしたとき、視界の端に明かりが灯った。まさか。目を転じると、例の、図工室に明かりが灯っていた。うそ。なんで。思いながら、じぶんは無意識から、遺体が見つかったのだからもう灯るはずもないと思っていたようだと知った。端から事件と関係ないのならば、べつに明かりが灯ったとしてもふしぎではない。それこそ、学校側で何か目的があるのかもしれないのだから。納得し、カーテンを閉めようとすると、明かりのなかに何か動くものを目にした。意識するよりさきに目がいった。誰かが立っている。小柄で、髪が長い。女性だと判った。図工室のなかで、窓に触れるように立っている。なぜか彼女はこちらを見ているように感じた。気のせいだ。そうに違いない。だんだん目が慣れてきた。女性が窓を拭いている。ちがう。手を振っている。だれに? 女性の口元が動いている気がした。次点で、彼女は窓にゆびで大きく文字を書くようにした。鏡文字でありながら、それがなんと書かれているのかを理解するのは容易だった。おかえり。女性の年齢は若くないように見えた。なぜか、あのコと同じ柄の服を着ていた。土に埋もれていくその柄がまぶたの裏によみがえる。振り払うように、カーテンを閉めた。リビングに下り、母に訊ねた。「遺体の発見された場所って、新しい校舎のとこだよね」母はTV画面を見たまま、「そのもっと手前」と言った。ついでのように、ずっと探してたんだってさ、と付け足す。「かわいそうだねぇ。亡くなったコも、そのコのお母さんも」そのとき、インターホンが鳴った。「あらやだ、こんな時間に」暢気な足取りで玄関へと向かう母を、止める言葉を、ついぞ思いつくことはなかった。玄関の鍵の解かれる音がする。扉が開く。話し声がする。一拍の静寂のあと、母の、こちらを呼ぶ声がする。(完)』はい、どうでしょう。ホラーというよりもミステリィになってしまったかもしれません。ただ、問題は解決していませんし、途中で変わったのは読者の解釈の仕方です。また、ホラーのつもりでミステリィになったとしても、それで困るのは、ジャンルで作品を評価するレーベルや編集者であって、読者や作者にとっては些末な事項でしょう。思ったのと違うものができあがったとしても、当初の予定を知る者は、作者以外にはいないのですから(依頼があった場合はまた話が変わってきますが)、ホラーのつもりでミステリィができてしまったのならば、ミステリィですと言って世に放てばそれで済む話です。飽くまで、小説であればよく、さいあく、短編をつくりたかったのであれば、短編に収まれば、それが最善です。ジャンルとは料理名ではありません。洋風のハンバーグも、和風のハンバーグもあってよいのです。ハンバーグをつくろうとしてカレーをつくってしまうのは考えものですが、けっかとしてハンバーグになっていれば、料理としては成功でしょう。ジャンルに囚われると、創作そのものがつまらなくなってしまいます。カレーハンバーグを食べて、それを和風と位置づけるか、洋風と位置づけるかは、食べた人の解釈次第です。このように、短編をつくるときは、ある程度の方向性を決めておけば、それらしい何かができあがります。詰まってしまったときは、いっそのことジャンルという縛りを脱ぎ捨てることも厭わない奔放さが、物語を編みつづけていく過程では必要となってくるでしょう。まずは完成させること、結ぶ癖をつけることが、小説をつくるうえで欠かせない訓練になっていくと思います。今回、読んでいただけた方には伝わったかもしれませんが、創作論と、じっさいの創作とのあいだには、そこに表出する物語に差異があります。こうして、こうして、こうすればいい、という理屈と、その理屈によって編まれた物語とでは、どこかにゆがみがでてきます。それは欠点であると同時に、醍醐味でもあります。理屈で、(おもしろい)物語を構築できるのならば、世の編集者はみな作家になっているでしょう。逆もまた然りです。おもしろい物語が理屈でつくれるのならば、世の売れっ子作家はみな、自分自身で編集業も営んでいるはずです。物語の構造や特性を分解し、理解し、統合することと、じっさいに組みあげてみせることのあいだには、どこか捻転した境界があります。イコールでは結ぶことのできないねじれが、物語にはあるのです。それを、創作と言い換えてもよいでしょう。小説のよいところは、自由なことです。テーマやオチを決めたとしても、途中でいかようにも変えていい奔放さがあります。それを手放さずにいましょう。そのためにも、途中で方向性を変えても崩れてしまわないだけの、強固なブロックをたくさん手にしておく必要性があります。頭と胴体と下半身は一つでセットです。どんな頭をどんな胴体にどうやって下半身へとくっつけるか。一連をとおして頭の物語もあってよいですが、お付き合いするのならば、やはり頭と胴体と下半身がセットになっているほうが、とっつきやすくはあるでしょう。もちろん、下半身のない物語も、中身がステキなら文句はありません。そういうことを常日頃考えながら、ときに忘れながら、物語を編んでいきましょう。もちろん、編まずにいても問題ありません。いずれ人はみな、じぶんという人生をつむぎつづけているのですから。
1485:【権化の言語】
私は差別意識が人よりつよい。他人の気持ちも、びっくりするほど解からない。なぜそんなことで傷つくのか、と周囲の者どもの脆弱さにビクビクする毎日だ。浮かんでくる言葉の総じては吐きだしてはいけない醜悪ばかりで、まるでじぶんの血をぐびぐび飲みくだすような不快感をつねに抱いている。他人を傷つける人間はそれだけで、大勢から滅多打ちにされる。だから飲みこんでいるだけにすぎない。王さまや独裁者にでもなればこんな不愉快な思いをせずに済むのだろうと、二時間にいっぺんは考える。私がすこし身を入れると、すぐさま周囲の人間を置き去りにしてしまう。本気をだしてはいけないのだと知ったのは言葉を覚えるよりさきだったかもしれない。まるで周りの人間がイモムシか何かに視える。同じ生き物とはとうてい思えない。私は私ひとりきりが宇宙人で、この星の住人ではなく、不承不承致し方なくこの脆弱な生き物の皮を被っているだけなのだと、義務教育にあがるまでは真面目に考えていた。周囲の人間たちの真似もだいぶん板についた。私は私であることを放棄するのがとても上手だ。もはや誰も、私が私であると知る者はない。自由を束縛される心配を抱かずに、ヒト一人をこの世から消すなど造作もない。この手を汚すことなく、そうなるようにそうすることは、盤上ゲームよりもお手軽に私の胸のうちに、いっときの開放感を与える。私の周りでは、自殺者が絶えない。私に害をなす者も、例外なくその地位を追われ、惨めな余生を送るはめになる。私はそんな彼氏彼女たちに憐みの言葉をかけ、ときに陰ながら応援し、そうして、そうした善意を相手へと善意だと思わせることなく、しずかにしぜんと摂取させ、徐々に内側から毒していく。殺意で人を殺すのは三流だ。無関心に人を殺めるのも一流とは言い難い。私は私でいられぬこの世のなかに愛想を尽かさぬよう、これからも、これまでのように、この脆弱な身体の内側から、善意を振りまき、損ないつづける。人の生を、その生き様を。私に窮屈な世界を強いるみなの夢を、希望を、損なうのだ。人は私を弱者と呼ぶ。私がそう呼ばせているにすぎない。強者であることの強みとは、弱者と見做されてもつぶされないことにある。誰からも敵視されることなく、世界はこうも奪えるもので溢れている。
1486:【寝起き】
やばい。頭から赤ちゃんのすっぱいにおいするんだけど。
1487:【髪洗ってから寝ろ】
SNSでたくさん話題になることを「バズる」と呼ぶ。いくひしは基本的に、バズることでその作品の価値が高まるとは思っていないタイプの人間なので、バズりたいとも、バズろうとも思わない。出版社から声がかかりやすくなりますよ、と言われても、はぁそうですか、となる。電子書籍の売り上げがあがりますよ、と言われると、まじでー、とはなるものの、バズった程度で売り上げに顕著な変化は起こらないと思っている。いっぽうで、そんなこと言ってバズれないだけちゃうの、と言われると、なにくそこのやろー、となるタイプでもあるので、ひとまずいちどくらいはバズっておきたいとも考えている。ゲーム感覚で、あれやこれやと気長にやっていこうと思う。
1488:【コーヒー牛乳】
コーヒーと牛乳を混ぜただけの、甘くもないただのコーヒー牛乳がうまい! おなかぱっつんぱっつんなるまで飲んでまう。ごくごく、ぷはー。生きかえる~。げこげこ。
1489:【言えない】
お世辞が言えない。言い換えると、いくひしは嘘が下手である。思ってもないことを声にだす、という行為がむつかしい。思っていないのになぜ、本音のときと同じ口調でみなはしゃべられるのだろう? 役者でもないのに、どないしてー、とふしぎでならない。うらやましい。あべこべに文章では、本音が並べられなくなる。じぶんでもふしぎなのだが、そうなのである。本当に思っていることを言葉の羅列に落としこむことが苦手だ。この文章もまた、ほとんど今この瞬間に浮かんでいる、どうでもいいことである。どうでもいいから、いくらでも並べていられる。嘘とまではいかないが、本音とは言いがたい。だいいち、本音とは何かがよく解からない。ということは、声にだしてしゃべるときも、本音のつもりで、本音ではないのかもしれない。なぞである。べつに解かれずとも困らないので、しばらくはなぞのままでいさせてやろう。寛大なお心持ちのいくひしさんである。
1490:【命名が苦手】
知らないことが多すぎる。と、いうよりも、知っていることなど何かあるのか、と我が身のスカスカ加減に目をみはる。ところでたった今閃いたのだが、「めをみ・はる」というキャラ名はなかなかどうしてかわいらしく、よいと思う。
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参照:いくひ誌。【901~910】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884457582