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いくひ誌。【1761~1770】

※日々、酸欠なのに、足りないナニカを否定する、窒息死までの残り時間は。


1761:【ペット】
つぎにくる物語は、人格のないペットとのバディものだ。しゃべれないし、人間の言葉も理解できないくらいに野生に満ちた生き物や幻獣との触れ合いを通した、成長冒険譚がヒットをだす気がする。流れとしては「ポケモン」や「人喰いの大鷲トリコ」に似ている。「人喰いの大鷲トリコ」の文脈で、ポケモンのストーリーラインをなぞったものが観たい。過去にヒットしたものの二番煎じではないのか、との意見もあるだろうが、ポケモンの舞台は小型の生き物との共存が成立した社会であるし、大鷹トリコは、トリコの能力が高すぎる。もっと過剰に庇護したくなるくらいの弱さがあり、しかし人間を殺傷するだけの危険性の高い生き物で、社会的に異質な存在であるとドラマが生まれて、面白くなるのではないか、と想像する。ドラゴンはありきたりすぎて、先行例も多く、推奨はできない。いくひしはすでに試作品をつくりはじめている。時代を先取りすることに意味はないが、後追いするよりかは楽しめる。各々、いまここにないものを掴みとっていこう。


1762:【多作とは?】
多作とはなんだろう。一生のうちでつくった作品数の多いことだろうか? 生産性の高さと無関係ではないはずだ。一定の期間で、なるべく時間をかけずに作品をつくることは多作の一つの条件として挙げられる。しかし、人生にも長短がある。ゴッホのように生産性が高くとも夭逝してしまう作家もいれば、ピカソのように生涯にわたって生産性を高く保った作家もいる。作品数でいえばピカソのほうがずっと多いが、生産性からいえばゴッホとピカソとではさほどの差がないと呼べる(計算したわけではありません。あいまいな印象論で物を語っております)。では、長期間にわたってよりたくさんの品をつくればそれが多作ということになるのかといえば、それもまた違うだろう、と個人的には思うのだ。たとえばネジ工場で、ネジを年間何十万本とつくったところで、それを多作と呼べるのか、といえば、呼べないだろう。生産性の高さと多作は、相関関係があるにせよ、同じではないと言えそうだ。では、よりたくさんの異なったジャンルを手掛ければよいのか、といえば、それも素直に首を縦には振れそうにない。俳句を詠み、絵を描き、花を活け、振り付けをし、人形を組み、仏像を彫り、版画を刷っては、写真を撮る。よりたくさんの作品をつくったところで、それぞれのジャンルの点数がすくなければ、多作と呼ぶのには抵抗が生じる。多趣味と多作はまた別物だと呼べそうだ。むろん、多趣味であるからこその多作はあり得るだろう。岡本太郎のように素材や媒体にかかわらず、数多くの芸術作品を遺した作家はそう珍しくはない。言い換えれば、さきに大枠を定めてしまえば、多趣味と多作の垣根は崩れると言えるのかもしれない。芸術家は芸術作品をつくるかぎり、あらゆる創作は芸術の名のもとに、たったひとつの作品――「それしかできない」を突き詰めていると呼べる。客観的に見れば多趣味であり、多作であるかもしれないが、その作家の主観からすれば、いずれもたったひとつの作品の一部であり、たったひとつをつくりだすための手段でしかないのかもしれない。多作であることそのものに意味はない。ただし、理想のなにかを生みだすべく、無限に思える組み合わせを試そうとする意思がなければ、どんなものをつくろうとしても、ネジの量産と変わらなくなってしまうのではないか、と思われてならない。個人的なことを述べれば、いくひしはじぶんを多作だと思わないし、数でいえば電子書籍で刊行数が40冊にも満たない時点で、けっして多作とは呼べないだろう。また、ジャンルにしても、手当たり次第に手をだしているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、「物語をつむぐ」というたったひとつの目的からズレたことはないと考えている。物語をつむぐ手段に小説という技法を利用しているだけなのだ。そして、小説をつくっているのであり、ジャンルをつくっているわけでも、ジャンルを掘り下げたいわけでもない。ジャンルという、どこの誰が決めたかも分からない枠組みに囚われ、無限に思える組み合わせを試さずにいることの退屈さに付き合う気が、いくひしにはないのである。物語を編みたい、そしてその手段としての小説がある。小説を通して物語をつむいでいるのであり、小説のジャンルを網羅しようという気はサラサラないのだ。ただ、読者が手に取りやすいように、既存のジャンルの型にあてはめて紹介文を並べることはある。そもそもを言えば、ジャンルとはそのための棚(仕切り)であり、棚をつくるために物語をつむぐのは、根本的に間違っていると感じるが、あなたはどう思われるだろう? 多作とは、目的を遂行しようと思えば誰もが辿りつく創作家にとっての通過点と呼べる。多作そのものが目的となるわけではない。考え方によっては、無限に思える組み合わせを無秩序に試そうとするのもまた合理的とは言いがたい。方向性を定め、掘り下げていく作業は、創作においては欠かせない工程だ。多種多様な作品と言ったとき、ジャンルを漏れなく網羅する、という意味は必ずしも付随しない。一つのジャンルであっても多種多様な物語はつむげ得る。その作品群すべてがすっぽりとおさまるフレームが現れれば、それが新しいジャンル名として世の読者たちのあいだに定着することだろう。べつの見方をすれば、既存のジャンルを掘り下げていったところで、これまでになかった組み合わせに行き着けば、おのずとそのジャンルのそとへと逸脱していくこととなる。なんにせよ人類はまだ、物語の鉱脈の入口にすら到達していない。既存の枠組みがすべてだなどと思いあがらずに、あなただけの足場を掘り返していこう。いつの日にか、あなたの背後にできた土の山を眺め、誰かが息を漏らす。多作とは、その嘆息についた色の名だ。


1763:【ないものは枯れない】
いくひしは才能が端からないから枯れる心配がない。ただそれだけが救い。


1764:【ナマケモノ】
やあやあ、いくひしさんだ。いくひしさんは肉ソボロが好きだぞ。鶏肉でも豚肉でも牛肉でも構わんのだ。まずはひき肉を炒めるのだ。そして肉がひたひたになるくらいまで、醤油・みりん・調理酒・砂糖を2:2:2:1の割合でそそぐのだ。合間にしょうがを擦って、フタをして5~8分蒸せば、あっという間に肉ソボロ~。しょうがは丸ごと一つ使ってしまうのがいくひしさんのお好みだい。茹で卵をこねこねにしたのをまぶせば、三色丼にもなるので、お手軽にお腹がぱんぱんになるぞ。調理時間が二十分とかからないところがまたよいと思うのだ。あとさいきんハマってるのが、インスタントカレーにバターを載せるやつ。カレーとバターの相性といったらないぞ。チーズをまぶしてもおいちかったが、バターで食べてもおいちいのだ。インスタントカレーはハウス食品の「プロクオリティ・ビーフカレー(辛口)4袋入り(398円)」がいくひしのお口にはぴったりだぞ。ちょっとした食堂のカレーよりも美味しいと思うのだ。バターをかけたら無敵ではなかろうか。言いすぎか。言いすぎでござるな。あとはなんじゃろな、抹茶くず湯が飲みたいな。飲みたい、飲みたい~。こころなし、ここ数年でくず湯のトロミが薄くなった気がするのだ。内容量も減っているのだな。そうそう、いくひしさんが高校生のときにはまだ紙パックのリプトンは500ミリだったのだ。でもいまはもう470ミリ(※検索してみたらいまはまだミルクティーだけみたい)になってしまっているのだな。コンビニで久々に買ってびっくりしたぞ。いつの間にかなのだなぁ。どんどんひもじくなってるが、まあ、いままでが贅沢だったのかな、と考えなおすでござる。贅沢は余裕がないとできないのだ。つまり、いまこの国には余裕がないのだ。余裕ができるくらいにまで、いろいろと贅沢の贅の部分を落とすのはわるいことだとは思わんぞ。そのせいで経済がまわらなくなっちゃうでしょ~、なんて声も聞かれるが、以前のような回し方で経済を回しては、いろいろと長持ちしないのだ、ということをまずは認めたほうがよいのではないじゃろか、と思うのじゃが、まあ、いくひしさんがそんなことを言ったところでどうにもならないのだな。無理せず生きていきたいものだぞ。怠け者でもまいにち楽しく生きていける世のなかになってほしいのだ。怠けることがいちばんの贅沢だと言われてしまうと、いの一番に怠けられなくなってしまうので、怠けることと贅沢であることは切り離して考えていきたいでござる。だめでござるか? だめでござったか。まあよいよい。いくひしさんはどっちにしろ、怠けて生きていくでござる。なぜならナマケモノでござるので。眠いから寝るでござる。おやすみでござる~。


1765:【誰が損をしている?】
たとえばジョブズが、たとえばエジソンが、たとえばアインシュタインが、それぞれiphoneを、電球を、相対性理論を誰の目にもつかない場所で編みだし、そのまま人生に幕を下ろしたとして、それで損をするのはいったい誰であろう? ジョブズは、エジソンは、アインシュタインは、それぞれ名声や資本を得られなかったかもしれない。それでも彼らの人生の豊かさはそれほど大きく違ってはいなかっただろう。すくなくとも、彼らの発明や発見を共有されなかった社会に比べれば、彼らの人生の起伏は微々たるものだ。ひるがえって、iphoneを、電球を、相対性理論を得られなかった社会はいまとはまったく異なった世界線を辿り、その損失は計り知れない。共有することの意義とはまさしくそこにあり、発掘することの意義もまた同じくそこにあると呼べる。あなたが売れなくとも、時代に埋没したままでも、それで損をするのはあなたではない。安心して発明を、発見を、創作をしつづけてほしい。


1766:【なんでかは知らん】
創作にかぎって言うならいくひしは基本的に、絶対評価なので、好きなものはずっと好きだし、技術的にどれだけ上手なものが現れても、過去に好きになったものへの好印象は揺るがない(それがいくひしの短所でもあるのだけれども)。もちろん、技術の面での巧拙は数値化可能だけれども、言ってしまえば、幼子がせいいっぱいに描いた絵とか、お手紙とか、そういうのは、どれだけヘタクソでもやっぱりいいなぁって思うし、それがじぶんに宛てられたものだったら(そう錯覚できただけでも)宝物になると思う。それは、どれだけ上手な創作物をほかで手に入れても、揺らぐことはないじぶんだけの評価のはずだ。そしていくひしは、そういうものをこそ、だいじにしていきたい(愛着を優先するという意味ではない。慣れあいや身内びいきはむしろ苦手だ)(好きなものは好きなのだ。なんで好きかなんて、言えるようなものをいくひしは好きになれるほど器用ではない)。何度でも言っていきたい。好きなものは好きなのだ。なんでかは知らん。ただべつに、独占したり、所有したいとは思わないのが、じぶんでもふしぎに思うところだ。


1767:【したいこと】
いくひしのしたいことはだいたい法律で禁止されているので、もうほとんど、したいことはないと言っていい。したいことがないので、そのなかでも、まあしてもいいかな、みたいなことをやっているだけだ。べつに楽しくはないし、達成感なんてないし、満たされないし、虚しすぎるけれども、ほかに残された選択肢よりかはマシかな、みたいな感じだ。小説にしても好きなわけではないしな。おもしろい小説は好きだけど。好きなものが好きと言っているだけで意味のない言葉ではあるが。


1768:【孤独の合間を縫って】
夜に降る雪がすきだ。自転車に乗って、夜に降る雪のなかを黙々と、もくもくと、白い息を吐きながら、街灯のしたを通るたびに一定の律動で降りしきる白い虫の群れを目で追うと、まるで繰りかえし再生される短い動画のようで、白い虫の群れは、目で追いきれない点の軌跡を、絡ませあいながら、二度と出会うことのない配置を連綿と組み合わせつづけ、こちらの情報処理能力を圧倒し、焼き、麻痺させてはやってくるしびれのギザギザで身体の内側まで白い虫の群れにまみれていく、それはまるで途切れることのないさざなみのようで、街灯のしたを通るたびに夜を見上げ、よりはっきりとコンコンとシンシンとを宿したくて、つぎなる街灯を求めては、夜に降る雪のなかを黙々と、もくもくと、白い息を吐きながら自転車のペダルを漕いでいる。生きていると実感できる数少ない時間、ぼくだけの世界、孤独はコンコンとシンシンと、ただ一定の律動を繰りかえしている、ぼくだけが異物、ぼくだけが旋律、律動の合間を縫って駆け抜けていく。


1769:【不安定】
やりたいことのバランスが崩れていて、うまく自我を操れない。バラバラにしすぎたので、統合する方向に調整中です。しばらくは文体が不安定になるだろうけれども、しばしの辛抱です。きょうは朝から窓を開くと雪が積もっていたのだが、どうりで寒いわけでござるな。いくひしさんは家のなかでもダウンジャケットを着こんで、ネクウォーマーをしてさらに毛布をひざに掛け、体温を逃さぬように工夫しています。空気が乾燥していますから、喉を傷めないように定期的に紅茶を飲みます。コーヒーも飲むぞ。さいきんは中断していた読みかけの本を寝る前にぱらぱらと読み進めていてな、以前はうーんと思った本でも未来のいくひしさんにとってはなかなかによくできた文章だと褒めてやるにもやぶさかではない本にもなり得る可能性は否定せずにいたいものだ。現にこうして、時間を置いた甲斐あってか、なかなかどうしておもしろく読み進めている。本というものはおそらく、読者を選ぶのと同じかそれ以上に、読む時期を選ぶものなのでしょう。読者が本を選ぶようでいて、いつだって本が読者を選んでいると呼べるのかもわかりません。いくひしはいくひしのような人間の皮を被ったナニカの手に渡るような物語を編んでいきたいと思います。それはそうとして、まんちゃんさー、そろそろつくりかけの小説増やすのやめてくんなーい。いい加減にしてほしいよね、ホントそう思う。前々から思ってたんだけど、いくひしさんはどうしてそう、キャラをつくるのに必死なのかなって、だっていちどだって自然体の、じぶんの言葉を並べたことがあって? なくない? なんで誤魔化すのかなって、地をださないのはなんなの? それでも物書きなの? じぶんの言葉の一つも持たないなんてどうかしてると思う、っていうか、だから陽の目みないんでしょ、答えでてんじゃん。あーあーあー。聞こえなーい、両手で耳ぱたぱたしちゃうもんねー、いくひしさん辛辣なへにょへにょは聞こえなーい。あーあーあー。きょうからちゃんとします。がんばろー。がんばりたくないけど。


1770:【裏目】
むかしから、よかれと思ってやったことが裏目にでることが多すぎたので、ある時期からはもう、じぶんのすることはぜんぶ相手を困らせることだから、相手を困らせてもいいと思うことだけをしようという判断基準ができてしまった。嫌われてもいいからそれをすることで回り回って相手にプラスになり、だからじぶんも得をする。目先の不利益は度外視する癖がついた過程はこのように分析できる。打算の塊である。或いは、悪意の。


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参照:いくひ誌。【381~390】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882798664

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