※日々、どうにもならないのに、あたまばかりがどうにかなりそう。
1771:【騙し騙し】
錯視をテーマにした番組を観た。錯視がなぜ起きるのかはまだ解明されていないようだ。おもしろいのは、エッシャーの騙し絵のようなあり得ない絵を見せても、コンピューターはそれを、実存する構造物として認識し、じっさいに図案まで引いてしまうことだ。人間にはあり得ないように映る騙し絵も、実在可能な図形としてコンピューターは処理する。そして現に、コンピューターによって引かれた図案を元に生成すれば、「あり得ない絵」の建造物を三次元上に再現できるのだ。もちろん、そのように見えるというだけであり、あり得ない絵が三次元上にそのまま再現されるわけではない。しかし、人間の錯視の仕方には一定の性質があり、どのように設計すればそう見えるのかを計算して求めることが可能だという。よって、エッシャーのような騙し絵も、そしてそのように見える構造物も、計算によって導きだせる。今後、そうした技術が発展していけば、計算して生みだせるものやことの価値は相対的に下がっていくだろう。あべこべに、計算できないものやことの価値があがっていくはずだ。言い換えれば、いかに再現性のないものを再現しつづけていくかが、価値の基準として再定義されていくこととなるだろう。そしてそれは奇しくも、芸術の価値基準と合致し、同時に科学とは相反する性質を併せ持つ。資本主義経済におかれては金になるものやことが社会に氾濫する傾向にある。これからさき、芸術が金になる時代に突入すると、科学を追及する姿勢はおろそかにされ、その弊害としてオカルトやファンタジィが、科学の顔をして人々のひび割れた日常の隙間を埋めていく緩衝材の役割を果たしていくようになる。そうした効能をうまく使えればよいが、なにごとも依存してしまっては痛い目を見る。それを盲信と言い換えてもよい。オカルトやファンタジィが科学よりも卑しいと言うつもりはない。どちらも人類が社会を成立させていくうえで欠かせない要素だ。とはいえ、どちらをより優先すべき基準にしていくかは、各種要素の基本となる姿勢を見れば瞭然であろう。科学はみずからを信じない。ゆえに、科学者が科学を盲信することはない。いっぽうでは、生活を営むうえでは真理ばかりを追究してはいられない。人間の頭脳が現実からかけ離れた映像を現実と認める錯視という機能を身につけたように、真理ではないからこそ営める人間の生もあるだろう。正しさばかりが正しいわけではない。或いは、そもそもが正しさの基準が間違っているだけかも分からない。人類が真理を手にするにはまだまだ時間がかかりそうだ。自分たちが何を見誤り、どのように錯覚しているのかを一つ一つ自覚しながら、うまい具合に騙し、騙し、残りの人生を丹念につぶしていきたいものである。
1772:【えへへ】
いっぱい寝ちゃった。起きたらおそと真っ暗だった。やびゃい。なんもしてない。
1773:【快楽地獄への憧憬】
脳みそに電極をぶっ挿して、一生快楽だけを感じつづけていたい。たまに本気で思うのだ。ドラッグ中毒とかでも、それでもいいと思えるならそういう生き方もあってよいと思う。もちろんそのせいで他人の人生を損なうような真似をするのはよろしくないけれども、じぶんだけが破滅していくのならそれはそれでありじゃないのかなって。言ってしまえば、作家なんて天然のドラッグ中毒者のようなものだし、音楽家だって研究者だってアスリートだって、なんだってそうなんじゃないのかなって。何かに夢中になって、脳内麻薬をばんばんだして、いつかやってくる死までのひまをつぶしている。ただし、ドラッグ中毒と違って、天然の中毒は、ほかのことをやろうとすればできる、という選択肢が残されているから、そういう意味ではドラッグ中毒はそれに手をだしたときの未来の先細り感がハンパなくて、だからまあ、よく考えてから手をだしたほうがいいんじゃないかな、とは思うけれども、そうは言っても、何が何でも絶対ダメ、というほどわるいことだとは、しょうじき思っていない。ただ、そこまで深く物事を考えて何かを判断できる人間は、ドラッグには手をださないとは思うのだけれども。気持ちいいことだけをしていけたらなぁ、と思ういっぽうで、世のなかには性的絶頂に達しつづけてしまう病気もあって、それはそれでつらいんだよ、ということも知識としては知っているから、いざ気持ちいいことだけをしつづけたところで、どこかで虚しさを感じることになるのだろうなぁ、とは思うのだ。よくもわるくも人間には飽きるという機能が備わっている。多種多様な刺激を求めなさいとの本能からの指令じみた保護機構がときおり人間に、そのままではダメになる、との脅迫じみた観念を抱かせ、カタツムリの目をつつくような嫌がらせを働かせる。飽きたくない。空腹のさなかに貪り食うおにぎりみたいに、最初の一口の至福を延々と味わっていたい。飽きたくない。それはきっと言い換えれば、満たされたくない、というどこか捻転した欲望を生みだし、底の抜けた自己満足の世界へといざなうのだ。天然のドラッグの落とし穴というべきか、満足しつづけたいがために掘りつづける飽くなき穴ぼこは、理想を追いつづけながらも、到達しないよろこびにとり憑かれ、不毛な日常に支配されていく。飽きるという感情を拒絶せずに、飽きるがやってくる前から自発的に変質する癖をつけられれば、快楽地獄への憧憬を抱かずに済むのかもしれない。抱かずに済むことがじぶんにとって好ましいのかどうかも分からないのだけれど。
1774:【GO(D)MAN】
きょう憶えた単語は、「後顧の憂い」と「おりしも」です。後顧の憂いとは、あとあとまで尾を引く不安、みたいな意味だそうです。使い方としては、「後顧の憂いなし」みたいに否定形で、万全の態勢を強調する意味合いで使えるようです。譬えるなら、石橋を叩いて渡る前にすでに石橋の強度を計っておいたので心配せずとも進めますよ、みたいな感じかもしれません。「おりしも」は、ちょうどそのとき、の類義語です。おばぁさんが川で桃を拾っていたとき、おりしもおじぃさんは山で芝犬を飼っていた、みたいな感じでしょうか。なぜおじぃさんが山で柴犬を飼っていたのかは不明です。きっといちどおばぁさんに反対され、それでもあきらめきれずに内緒で飼っていたのでしょう。けなげなおじぃさんに幸あれ。ところでいくひしさんは固有名詞がずらずらと並ぶととたんに眠たくなってしまう呪いにかかって、はやウン十年、たとえば犬の種類を述べるにしても、「シベリアンハスキージェントルクックバード(なんて種類の犬はいませんが)」みたいな固有名詞をずらずらと並べられるよりかは、毛並みは鼈甲のような光沢を浮かべ、呼吸は静かに、身の丈は大きく、主の命令があるまではじっとその場を動かない姿は犬と呼ぶよりもむしろ鷹を思わせる、みたいな比喩や形容で描写されるほうが眠たくならずに済むでござる。ただ、全部の固有名詞にそんな真似をしてはいられない、となると、しぜんと並べるべき単語が絞られてくるので、何行も比喩を費やしてまで「任意のこれ!」みたいな名前を示す必要があるかどうかを鑑みれば、しぜんと、大きな枠組みでの名詞を選ぶようになっていくのではないかな、だからいくひしさんの文章はなんだか幼稚なのだなぁ、との気づきがありました。幼稚なのがわるいことだとは思っていないので、直す予定はとくにありません。でもあべこべに、いくひしさんみたいな大きな枠組みで名詞を扱う文章で眠くなってしまう読者の方もおられると思うので、本当にそこは相性だなぁ、と思うのであります。お好みの文章と出会えたときの高揚感は、好きなひととおしゃべりをしたときのようなウキウキがあります。また、本来なら眠くなっていておかしくない固有名詞のわんさかな文章でも、引きこまれてしまったときには、いくひしさんは骨の髄まで惚れてしまうので、ほとほとビッチの気があるなぁ、と尻の軽いじぶんの性根には呆れてしまいます。とはいえ、ビッチがわるいことだとは思っていないので、とくに直す予定はありません。それはたとえば、いくひしさんが見向きも(デビュー)してない文芸業界に未来なんかあるわけないっしょ、と傲慢さが日々爆発しているいくひしさんには呆れてしまいますが、べつにその傲慢さがわるいことだとは思っていないのと同じことです。わるいことと思っていないだけで、ひょっとしたらわるいことなのかもしれませんが、直す予定はありません。ほどよい文章量となりましたか? では打鍵を終わりましょう。GODみたいに傲慢な、いくひしまんでした。
1775:【GOD?】
神はそんなこと言わないし、本当の神なら、神と思われたい、なんておこがましい考えは巡らせない。ましてや、ある一面だけを見せて神だと思われようだなんてはしたない考えは。
1776:【いまごろ気づいたかばかめ】
ひょっとして、ひょっとしてだけど、いくひしって性格わるい? 嫌われてる? まじで? なんでやーーーー!!!!!!! ぶーぶー!!!
1777:【からまわり】
やる気をだすとチカラを制御できずにカラ回って、裏目にでてしまうことがある。絶不調のときのほうがかえって調子がよいくらいで、ときおり手抜きとの差が解からなくなり、不安なので、ダメと判っていてもチカラを籠める方向に舵をとってしまうことがある。たほうで、相手を圧倒したり、威圧するときは、カラ回っている感じがプラスに働くこともあるので、いちがいにやる気をだしたり、全力をだすことを否定はできない。ともあれ、若さが衰えていくいっぽうの日々にあって、しだいに、いかに微力な労力で全体の完成度を高めるか、といった老獪な考えを巡らせたり、趣向を凝らす頻度が高くなってきた感覚がある。それがよいことなのか、わるいことなのかの判断がつかない手前、まだどちらにも振りきれずに、試し、試し、すすめていくよりないのが現状だ。労力は二倍なので、効率はわるい。いっそのことどちらかに傾倒してしまったほうがよいのかもしれない。そういう意味では、全体の完成度が高まる、チカラを抜く方向に尽力したほうがよい気もするが、直感からするとなんだかそれだけに傾くと、のちのち尻つぼみに終わってしまいそうな気がするのだ。おそらくは、全力をだすことと、ゆったりと余裕のあるくらいにチカラを抜くことは、理想に近づくためには必要な条件であり、矛盾はしない。両方相互に繰りかえすことがひとつの大きな術となる。足は上げたら、つぎは下ろさなければならない。坂を上がったら下りなければいずれ立ち止まらざるを得なくなるのだから、ずっと全力、またはずっと脱力をしてばかりはいられない。息は吐くからこそ吸うように、チカラをこめる感覚が残っているからこそ、チカラを緩める感覚が判るのではないだろうか。などと考えながら、サボりがちな日々の言いわけを並べては、だらだらとした時間をすごしている。まったくどうしてクズである。
1778:【初版印税なし】
ツイッター上で「初版印税なし」についての話題を目にした。重版がかからないと印税をもらえない案件がすでにでてきているそうだ(最初に刷った分の本が売りきれなければ、作家に印税が支払われない契約が登場しつつあるとの話だ)。ざっと眺めるにかぎり、否定的な意見が多い。しかし、初版すら捌けない本が半数以上(具体的な数値は各自調べてください。間違えている可能性もあります)を占めている出版業界がそもそもおかしいのだ、ということを再認識したほうがよろしいのではないか、と思うのだが、この考え方は間違っているのだろうか? 初版の印税が支払われない代わりに、初版が捌けなければ(重版しなければ)出版社側の責任として違約金が支払われるような仕組みにすればよいように思う。出版社は初版をすべて売りきることをまずは最低条件と規定するのだ。その代わりとして、印税は重版してから、とすれば、初版さえ捌ければ出版社の利益は確保されるので、赤字のリスクを回避できる。また、(初版を売り尽くし)重版することが最低条件として組み込まれているので、作家側は、もし重版がかからなければ、出版社側から違約金を受け取ることができる。このことにより、返本制度における、出版社側の、とにかくつぎからつぎに本(新人作家)をだしとけ、といった姿勢が根本的に是正される方向に働くのではないか、と期待するものだ。問題点があるとすれば、重版がかかっても、違約金のほうの金額が高くなることもあるだろうから、純粋な報酬だけを比べれば、中途半端な重版がかかるよりかは、違約金をもらったほうが得をするケースもでてくるだろう。しかし、より多くの読者のもとに本が届くことを優先する作家にとっては、初版がすべて売りきれることのほうが、売れもしないのに振りこまれる違約金よりかは、価値が高いはずだ。初版印税なしは、今後、主流となっていく契約形式になっていくだろうと想像する。同時にこれまでのような、本が出版されてから契約を交わす、といった通常のビジネスでは考えられない風習は刷新され、作家が原稿に着手する前の段階で契約を結ぶことが可能となっていくのではないか、と期待できる。出版社はまずは、初版を売りきることがじぶんたちのこなすべき最低限の仕事なのだ、と認識し直したほうが、より時代に即したビジネスモデルを構築できるようになっていくのではないだろうか。そして作家は、売れもしない架空の部数でお金を稼ぐような投機的なシステムを当然のように甘受する真似は、避けたほうが回り回って得をするように思えるが、いかがだろう。堅実にビジネスとして、相応の対価を得る努力をしたほうがよろしいのではないか。じぶんたちのほうからそうした形骸化した風習を是正していこうとする姿勢を示したほうが、のちのち商業作家という文化を絶やさずに済むようになるのではないか。いっぽうでは、現状の印刷コストのままで、一冊単位での書籍の発行が可能になれば、実売数での契約がもっとも理に適ったビジネスモデルになる、と考えられる。大量に刷らなければコストを削減できない、といった現状の大量生産型ビジネスモデルが改善されるまでは、初版印税なしは、作家、出版社共に得をするシステムだと評価したい。ともあれ、初版部数をいかに設定するか、もしくは違約金の額をどのように設定するかによって、このシステムの有効性は大きく左右されるだろう。この懸念については強調して指摘しておきたい。いずれにせよ、なぜ業界関係者の誰一人として、印税制度自体が現代ではすでに破たんしたシステムだと表立って指摘しないのかがふしぎでならない(いくひしの認識範囲で観測できていないだけかもしれないが)。むろん、こんな戯言は素人の妄言はなはだしいので、真に受けないでほしいところではあるが、反論が可能であるならば、ご教授願いたいものである。
1779:【洗脳】
ひとから好きと思われる。ただそれだけでもむつかしいのに、好きなひとから好きと思われる。絶望と呼ぶにふさわしい。
1780:【買って、読んで、待ち遠しい】
大沢やよいさんのマンガ「2DK、Gペン、目覚まし時計。8巻」を読みました(※以下、ネタバレを含みます、ご注意ください)。いちおうジャンルは百合漫画ということになるとは思うのですが、百合というよりもどちらかと言えば、でてくる登場人物が女性ばかりだからこその人間ドラマといった塩梅で、これといって同性愛に拘っていると感じないところが個人的には好印象でした(いくひしがそう感じないと思っただけであり、作者の大沢やよいさんからすれば、大いに拘って描かれているはずだ、と想像します)。最終巻ということで、本を開く前から物寂しい気持ちがあったのですが、読み終わるころには、いいぞもっとだ!!!となったので、やっぱりこれで終わりは、うわーん!みたいになってしまいます。せっかく結ばれたのだからイチャイチャ編だけでも山盛りいっぱいお代わりしたい!!! でもそうなるとひとつの作品としてテーマから構成から、ほとんど別の物語になってしまって、商業マンガとしてはどうしても一区切りつかざるを得ないのかな、としぶしぶじぶんを納得させました。でもホントにホントに、ただ主人公たちがイチャイチャしているだけでも(物語としていっさい山場もオチもなくとも)三巻くらいなら読者は無条件で購入するのでは、と無責任ではありますが、思います。単にいくひしが読みたいだけでは?とツッコミが入ってしまいそうですが、そのとおりなので何も言い返そうとは思いません。読みたい、読みたーい!!!(小冊子のルー子さんには苦笑い。作中ゆいいつ最後までじぶんの世界観を貫き通していた孤独のスペシャリストです。作者の愛が伝わります)。じぶんを落ち着かせるためにヤマシタトモコさんの「違国日記1~3巻」を読み直しました。再読するつもりはなかったのですが、掃除がてら手にとったら、するすると読み終わっていました。やはり、神が宿って感じられます。どんな物の見方、考え方をしたらこんなセリフや描写を思いつくのかと、その思考を(たとえ仮説であっても)トレースできません。いくら咀嚼してもまったく噛みきれないのに、味だけはしっかりと濃厚で、食べ物であるはずなのに食べ物ではない、みたいな、だから調理過程を想像しても意味がない、みたいなそういう矛盾した思いを抱きます。漫画であって漫画でなく、しかし漫画でなければ表現できない作品です。あとはついさきほど、ツイッターを眺めていて知ったのですが、ことし2018年の9月から、天原さんのマンガ「平穏世代の韋駄天達」が商業連載されていたのですね。原作扱いで、作画はクール教信者さんです。いくひしがつよく影響を受けているWEBマンガがいくつかあり、そのうちの一つがHEROさんの「掘さんと宮村くん
http://dka-hero.com/top.html」で、もう一つが天原さんの「平穏世代の韋駄天達
http://amahara.bob.buttobi.net/」です。どちらもセリフ、展開、物語の圧縮、複数のストーリーラインの融合と、既存の物語群が放棄してきた要素が特化しています。いくひしがそれら要素こそ、次世代型の物語に必要だと考察するようになったきっかけを与えてくれた作品ですので、ほとんど師匠のようなものです。増殖する細胞のように、見境なく増えていく展開が、ある場面から総体としての巨大な全貌を顕わにしはじめる様相は、なにか生命の誕生を目の当たりにしたかのような衝撃があります。HEROさん、天原さん共に、どちらも原作はWEB上で公開されたままです。読もうと思えばいつでも読める環境が整備されてはおりますが、書籍化され、手元に置けることをうれしく思います。ありがとうございます。とはいえ、「平穏世代の韋駄天達1巻」の発売日は2019年の1月29日ですので、まだ2か月ちょっとあります。待ち遠しい日々になりそうです。買って、読んで、待ち遠しい。このサイクルはとうぶん崩れることはないでしょう。
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参照:いくひ誌。【441~450】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883045527