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いくひ誌。【1781~1790】

※日々、死にたいと眠たいの区別がつかなくなっていく。


1781:【すごい才能】
WEBに小説を発表している九灯小膳さんという作家さんがすごい(ここで読めます→https://note.mu/kutokozen)。SF風味のBLを主に載せている。九灯小膳さんはいますぐにプロとして活躍できるくらいのポテンシャルがあると感じる。新人賞に投稿してほしい。そして出版社は絶対にそのチャンスを逃さないでほしい。世のなかにはこうした才能が、ネットの底に埋没している。王座にふんぞり返って、集え! と号令を発して勇者が集まるような時代はもう終わった。出版社は総力を挙げて、地方の村々に視察団を放つ必要性に迫られている。それはそれとして勇者は村の片隅でひっそりと暮らさずに、魔王を倒しに現れてほしい。


1782:【繋がりはだいじ?】
他者と関わろう、所属するコミュニティを増やそう、友達をつくろう、知り合いのツテを頼ろう。そういう言葉をよく目にするようになった。なぜそんなに必死に唱えるのか、と考えた。明確な理由は解からなかったが、考えついたことの一つは、繋がりが価値を生む社会になっていくほど、繋がりを尊ぶ彼ら彼女らの価値が相対的に上がっていくからだ、というものだ。いいものをつくるだけでは売れない、いいものをつくるだけでは金にならない。そうした言説が正論のごとく飛び交う現代社会であるが、だったらいいものをつくるだけでも必要としている者たちに届くような仕組みをつくればいいだけの話ではないか、と思うのだが、なぜか繋がりを重宝する者たちからはそうした意見を耳にすることはない。なぜなら、彼ら彼女らにとって、他者同士の密な繋がりがなくなってしまっては、自分たちの存在意義が根底から揺らいでしまうからだ。人と人とが直接繋がらずとも、モノだけを、生産者と需要者のあいだで直接流通させればよい。そして今後、この社会はそうした方向に発展していくだろう。他者と関わらずとも、コミュニティに属さなくとも、友達がいなくとも、知り合いのツテなど頼らずとも、よりよいものをつくるだけで、生活を営むことが可能な社会になっていく。むろん市場競争はあるだろう。需要者は無限にいるわけではない。モノをつくっているだけでは生活に充分な金銭を得ることはできない。だが、すくなくともこれまでのように中間業者を介さずとも、誰もが自由に需要者へとモノやサービスを提供できるようになっていく。そこで損をするのは、じぶんで何かをつくりだすことのできない、他者との繋がりばかりが自身の誇りになっている者たちだ。人と繋がることがわるいと言っているのではない。ただ、なぜそこまで、生きるうえでの必須条件のように、人との繋がりの重要性を声高々と唱えるのかが解からない。これまでは、他者とより多く繋がることが生きるうえで有利に働くように社会が発展してきた。しかし、それはもう間もなく、それこそあと五年もすれば頭打ちになるだろう。そしてその後に大きく発展していくのは、誰とも繋がらずとも、ただモノをつくりつねに新しい発想(サービス)を生み、提供しつづけることのできる根っからの作り手たちの社会である(人と人とが直接に関わる必要はない。やりとりされるのは、モノやサービスだけで充分ではないか)。人と繋がることの優位性は、相対的に薄まっていくだろうと妄想するものである。(他者と関わりあいたい人間は関わればよい。ただ、そうしたくない人間にまで、それができないとダメだ、生きていけない、といった強迫観念を植えつけるのはいかがなものか、と思うのだ)(何かをつくる者が偉い、立ち場が上だ、という話ではないので誤解なきようお願いします)


1783:【自暴自期】
やあやあ、いくひしさんだ。さいきんは今年最高のダメダメ期でな。ホント、なんもできんくなってしまった。きのうとか寝たの十九時で起きたの、さっき何時だったと思う? 朝の九時ですよ。十四時間睡眠でした。一回も起きんかった。なんもしてないのに身体が、脳みちょが、腐ってしまっておるのかな。やんだくなっちゃった。なんもしたくなーい。死ぬまで夢のなかで過ごしたーい。身体が痛くなんないなら、いますぐにでも夢のなかで生きていきたい。現実なんかクソ。制限が多すぎて、なんもできない。そらも飛べないとかなんやねん。くそ仕様か。鳥を見習えと。無重力空間を見習えと。重力はクソ。でもただぷかぷか浮かんでるだけも意味ないから、無重力空間もクソ。宇宙はクソ。なんもできん。思いどおりにならん。思いどおりになったらなったで、すぐに飽きて刺激を求めて、思いどおりにならないことに首をつっこみたくなるから、思いどおりになることもクソ。じゃあクソじゃないことなんかあるのって言ったら、なんもない。現実はクソ。クソはクソ。みんなクソ。ここはもう誰かのクソのなかじゃないのかって、人間なんてクソのなかの腸内細菌みたいなもんじゃんかって、思ったら、それはそれでなんかクソ。いくひしの小説もクソだし、クソしか生みだせないこの肉体もクソ。クソにまみれた人生もクソだし、クソしかねぇじゃねぇか。もうやだやだ。なんもしたくなーい。大の字になって足をばたばたさせちゃうもんね。でもね、そうね。クソしかないなら、ないなりに、そのクソをこねて、練って、なんかおもちろいものをつくってかなきゃいけないのかなって。クソをクソじゃないものに思いこんで、おもちろいと思いこんでいかなきゃいけないのかなって。もうその時点でクソだけど、そういうことをおもちろいと思うようにじぶんを変えていくしかないのかなって。あー、もー、わいがいっちゃんクソやないかーい。世界がクソにまみれてるのは、いくひしさんがクソの塊やからや。もうやだ。なんもしたくない。クソになんかなりたくない。でもクソ。いくひしさんはクソ。なんかここまでクソクソ言ってたら、なんかこう、愛着がさ、湧いてきたりするわきゃないだろーい。あークソ。わいはクソ。クソ製造機とかでなく、アイアムクソ。わいがクソ。わいこそがクソ。クソオブクソ。キングオブクソ。なんかすごい。王のなかの王じみて、クソのなかのクソ。なんかいい。よしよし、あがってきた。わいはクソ。だからなんだ、おみゃいらの腹の中にもおわすもの。わいこそがクソ。世界がクソならわいこそ世界じゃ。げんきでてきた!!! うおー! でも眠いからもっかい寝よ。まさにクソ。おやすみー。ぐー。


1784:【見る目がない】
(※以下、わるぐちです)九灯小膳さんという作家さんがすごい、と上記「1781」にて述べた。九灯小膳さんはどうやらこれまでいくつかの新人賞に応募しつづけて、落選つづきであったようだ。それでも才能があると思って連絡してきたレーベルがあり、それが講談社の文芸第三出版部であったようだ。しかし、それも一度の連絡があったきりで、その後は音沙汰がないそうだ。ロバじゃないの? こんだけの才能をまえにして、あんた、えぇあんたさー。はぁ。こんなんだから、ってぼやきたくもなるっしょ。九灯小膳さんはこのさき、物語をつくりつづけて、いずれ出版社のほうから声をかけざるを得ない作家になるでしょう。なってほしい。なって!!!


1785:【絵画バトル】
二十分間という時間制限のなかで、同じテーマを題材に、絵描きたちがバトルを繰り広げる。三年連続の王者は、一発描きのクイーンと呼ばれる経歴不詳の若き絵描きだ。無敗の彼女に立ち向かうのは、騙し絵のエツサ、モザイク画のステンド、そしてデジタル画に馴染みのなかった主人公こと、エンピツ描きの花子が繰り広げる、二十分間の世界創造バトル劇――「リミッツ」――公開予定はありません。


1786:【ぼやき連打】
ぼやき口調がつづいてすみません。ぼやきます。ツイッターでバズっていたツイートで、宮崎駿監督のジブリ映画にはストーリーがない、という記事が話題になっていて、えーー!!!!???? あるでしょ、ストーリーあるでしょ、ありまくりでしょ、あんなに緻密に、主軸の裏の裏まで物語を編んでるひとなんてほかにいるーーーー!!???? びっくらこいた。おら、びっくらこいただ。視えないひとにはそう視えるのかぁ、なるほどなぁ、と勉強になった。はぁ、へぇ、ほう。もののけ姫にストーリーがない? へぇー。ありゃ、エボシを中心につむがれた大きな物語を、アシタカとサンという脇役に視点を添えてつむぎ直された多重構造なのだぞーー。本来ならエボシは神狩りに失敗して、でも怒り狂った神が自爆して、大団円となる裏側を描いた話なのだぞーーー。エボシはだからアシタカとサンがしたことを知らないのだ。でも、じぶんがしようとしていたことも正しくはないと気づき、アシタカが守ろうとしていたもの、訴えていたことにも耳を傾けるようになったという、王道をこれまでにない描き方でつむいだ物語なのだぞーー。ストーリーが入り組んでるだけで、通常の物語よりもよっぽど物語しているのだぞーーー。あー、まじかー。かぁー。おら、びっくらこいた。びっくらこいただ。はぁ、おせんべぇ食べて、もちちゅこ。


1787:【よいこになりたい】
いくひしもみんなみたいに性格がよろしくなりたい。サンタさんがきますようにってお願いしたいわるい子のもとにはサンタさんはこないので、そのお願いはどこにも届かずに、ロウソクの火みたいにいつの間にか消えてしまうのだ。誰かを傷つけることに傷ついているひとのトゲトゲした何かをほわほわに変えられるような言葉をいくひしも並べられるようになりたい。いくひしがよく眺めているツイッターのひとたちはみんなそういう、ほわほわの言葉を使えるのに、なんでいくひしには使えんのじゃろ。人を傷つけると判っていても言葉にすべき正しさってなんだろう。正しくありたいだなんて思っていないはずなのに。正しさを求めるいやしさを失くしたい。やさしくなりたい。でもそれもホントはそんなこと思ってやしないのだ。


1788:【短編の時代】
短編でなければ売れない時代がすぐそこに迫っているように感じる。小説が売れないのではない。長編小説が売れないのだ。これまでの小説の叙述の仕方では、新規の読者を獲得するのはむつかしいのではないか、と数年前から考えてきた。あながち間違ってはいなかったかもしれない。文体を工夫するだけでは足りない。情報の圧縮である。小説とて、映画や漫画並に物語を圧縮できるはずなのだ。そんなものは小説ではない、と通たちから指弾されるくらいに圧縮したほうが、小説に馴染みのない読者にとっては読みやすいはずだ。短編であればよいというわけではない。長編並の濃さで、短編や中編を編んでいくべきいまは時期なのではないか。まさしく「小説」でよいのだ。そう遠くない未来、電子書籍が紙の本の売り上げを超すようになったとき、小説イコール長編という図式は崩れるであろう、とここに妄想を逞しくするものである。


1789:【輝きたいのはなぜだろう?】
身近な十代や二十代前半のコたちを眺めていて思うことがある。みな、何かに熱中したがっている、ということだ。がんばっているじぶん、夢中になっているじぶん、夢を叶えようとひたむきなじぶん、そういうものをつよく求めているように感じられる。以前の若者たちがどうであったのかを、体感として(もしくは統計として)知っているわけではないから、これがいまの時代に特有の傾向なのか、それとも若者とはいつの時代もそういう性質を帯びているのかは判然としない(そもそもが若者に固有の傾向とはかぎらない)。じぶんの十代を思い起こしてみれば、たいして変わらなかったようにも思う。ただ、十年前よりかはいまのほうが、輝いているじぶん、というものへの距離感が近いのはある気がするのだ。アイドルたちが素人感を隠そうとせず、より身近な存在であるかのように演出しだし、ユーチューバーやSNSのインフルエンサーなど、素人からスターが登場しやすい環境が整っている時代にあって、若者はどこかで、輝かなければ生きている意味がない、といった焦燥感を抱いているように見受けられる。やりたいことがあり、目的を達成したいのではなく、まずありきなのが、輝いているじぶんなのだ。そのためにやりたいことを探しだそうとし、一見すれば輝きから遠そうなコトやモノからは距離を置くような行動原理を発揮しているコたちが増えた気がする。輝ければなんでもよく、鶏口牛後ではないが、てっとりばやくちいさなコミュニティのなかで目立つ存在になろうとわざわざ劣悪な環境に飛びこんでいく。或いは、一見すれば権威のあるふうの組織に入ろうとする動きも顕著だ。そのコミュニティのなかで輝こうとするがあまり、せっかくあった輝きを失くしていく様を目にするのは物寂しいものがある。かといってそうしたコたちに、こちらの物差しを押しつけるわけにもいかない。彼ら彼女らにはそれぞれの価値観があり、自由意思がある。こちらの目から見て、輝いていないからといって、彼ら彼女らの行動を否定するのは、それこそ若い芽を摘む行為だと指弾されても致し方あるまい。いずれにせよ、どういった結果になろうとも、輝かなければならない、ということはない。輝かずとも人生はいくらでも豊かにできる。むしろ、輝くというのは、エネルギィを無駄に放出している状態だと呼べる。光を発するものの寿命は短いと相場は決まっている。例外は太陽などの恒星(と活動銀河核)くらいなものであるが、そこまで激しく輝いてしまっては誰も近づけなくなってしまうだろう。孤独がよいなら、そもそも輝く必要はない。輝きに憧憬を抱き、集まるのは往々にして虫やイカなど、捕食される側の存在だ。ときおりでよいので、周囲を見渡してみるとよい。知らぬ間に、餌や、燃料代わりにされているかもしれない。


1790:【教育する余裕があるのか?】
ずいぶん前のことだ。小学校に不審者が侵入し、児童が殺されるといった事件があった。犯人がわるいのは言うまでもないが、当時、学校の対応やセキュリティの杜撰さが問題視された。同じ過ちを繰り返さぬようにと行政からも指導が入ったようだが、果たして教員たちにいったい何を期待しているのだろう。定期的に防犯に関する啓蒙が学校側に対してなされるわけだが、そもそもの話として、セキュリティを固めるのは教員たちの役割なのだろうか。事件があったとき、不審者を目撃した教員は、生徒を逃がすよりもさきに職員室にその報告をしに走ってしまった。たしかに優先順位が間違っていたかもしれない。何か危険な事態が発生したならば、まずは生徒たちの安全確保(避難)を優先してほしいと希求する保護者たちの気持ちは理解できる。とはいえ、その対策として実施されたのが、全国の教員たちへの不審者対策のマニュアル配布というのは、いささかお粗末にすぎないだろうか。不審者を見かけたらすぐさま、校舎内に警報が行きわたり、かつ警察に通報されるような仕組みを国が学校に備えてもよいのではないか。門のまえにボディガードをつけてもいい。果たして教員たちに、登下校中の子どもたちの安全を守る義務があるのだろうか? いっぽうでは、教員たちの対応にも問題がないわけではない。たとえば、事件があった日、負傷した子どもたちを乗せた救急車がどの病院に運び込まれたかを教員たちは把握できなかった。我が子の最期を看取れなかった親の心境は想像するだに痛ましい。しかし、いま同じような状況になれば、学校側にそれらの情報網を迅速に把握する術は整っていない。ハッキリ言ってしまえば、学校で発生した事件の多くは、そのほとんどが充分な対策がとれずに、なあなあのままで、現状維持がつづいているのが実際のところだ。教員たちにもできることはあるだろう。しかし、いささか負担が大きすぎる。職員の数が足りていない、というのもある。担当する児童が多ければそれだけ、割ける時間も労力も分散するのが道理である。ひとクラス三十人でも多いくらいだ。端から、事件の対策や改善作業は、教員たちの仕事の範疇を越えているのである。国が率先して、資本を投じて設備から整えていかなければ、また同じような事件がどこかで発生する確率は下がらないままであるだろう。にも拘らず、学校で何か事件が起こるたびに、全国の教員たちへ指導や注文が入るのだ。想像してみるとよい。残業代はでず、授業に必要だと判断して購入した雑貨の多くは経費がおりず、自腹である。保護者からの苦情や相談が突発的に入り、その対応をすれば、その日こなすべき仕事はつぎの日以降に持ち越しとなる。教員は児童だけでなくその保護者への対応もこなしている。仮に児童すべてに父母がいるとして計算すれば、百人ちかい人間の性格や生活を考慮しながら仕事を進めていくこととなる。新人教員へのサポートはなく、学級崩壊してもベテランの教員が支援することは稀だ。新人教員を育成するカリキュラム自体がないのだ。残業代がないがためにサービス残業が常態化している。教育においてはここまでやれば充分という線引きがむつかしく、教員によって仕事量にバラツキがある。定時で帰るな、必要なら休日返上してでも職場に顔をだせ。そういった誤った慣習が、いまだにベテラン教員たちのあいだでは根強く漂っている。いまにはじまったことではないが、この国の教育現場にこそ教育が必要であるレベルだ、と指弾されてもおかしくない実態があるようだ。いずれも他人から聞いた話であるので、真に受けないでいただきたいが、真偽をたしかめようとするくらいのことはしてもよいかもしれない。社会に氾濫する問題の多くは、その解決策を突き詰めて考えていくと、おおむね教育のあり方にいきつく。国防やエネルギィ問題は熱心に議論されがちな世のなかであるが、もうすこし教育についても関心を寄せてみるのもよいのではないだろうか。


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参照:いくひ誌。【31~40】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262191

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