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いくひ誌。【31~40】

※日々おもったことをパチパチとメモるよ。


31:【中身が先か、器が先か】
現在は新規のユーザーが大量にサブカルに流れ込んできている状態で、いわばスマホが流行りだしたときと似た状況と呼べる。アニメからライトノベルへと流れてきたユーザーは、過去のコンテンツを漁りだし、その懐の深さにめまいにも似た衝撃を覚えるだろう。そこで直面する問題が主として二つあり、一つはコンテンツの数が多すぎて跡を追えないという点。二つ目は、新しいと思っていた作品がじつは卑近なものであったという現実を知り幻滅してしまう点である(便宜上、多くの作品に触れ、食傷気味になることもこれに入れる)。コンテンツの多さは、作品がつぎつぎに発表され、蓄積されていくかぎり、これからさらに増えていく。そのためジャンルや内容よりも、「人気が高い」という点で多くのユーザーが食指を動かしていく。ランキングがあるならば、多くてもその上位十位までしか俎上にのぼらない。また、新しいものがじつは古き良き作品の焼き増しであると知り、巷にあふれる有象無象のコンテンツもまたその限りではないと幻滅し、見切りをつけてしまうユーザーたちは、需要者の立場をとりつつも、量産型のコンテンツには金を落とさなくなる。掃いて捨てるほどに蓄積されていく作品を無料で視聴し、そして売り上げにはけして加担しないゴーストユーザーとなり果てる。彼らは常に新しい刺激を求めており、そうしたコアな層の支持を集めることができれば流行り廃りに関係のない根強い顧客を得ることにつながる。やがてそれはランキングでしか食指を動かさなかった層にも影響を与え、広く話題にのぼり、本来ユーザー層から外れた一般層にまで影響を及ぼしはじめる。かつてのアップルがそうであったように、これからは既存の一辺倒な流行りを狙うだけではヒットを狙うのがむずかしくなっていく(たとえば、物語では主人公たちが何かしら「戦う」わけであるが、「個人同士の闘い」→「組織同士の闘い」→「社会への抵抗」といったふうに物語の流行りが循環すると考えた場合、これからはこうした予測が成り立たなくなっていく。あるいは一つの物語にこれらすべてが含まれていなければならなくなる)。繰り返しになるが、多様化が進むにつれ、ユーザーはその多様性についていけなくなり、作品を発掘する手間をランキングに依存していくこととなる。そうすると表面上、多様性は失われ、流行りのようなものが市場を独占しているかのような錯覚に陥るが、じつのところそれは灰汁のようなものであり、ランキングの下層には良質な出汁が埋もれている。そうした良質な出汁を需要者に届けることができれば、それは極上の珍味として人口に膾炙し、人々の心を揺さぶるに値する商品となる。国民がおなじ規格品に触れたとき、それが日常と化したとき、そこから生まれるのはまた新たな市場の開拓である。スマホを手にした現代人は、端末ではなく、その中身の充実を求めはじめている。現代人の多くがサブカルに触れ、やがてサブカルが「サブ」ではなくなったとき、必然的にそこには新たなサブカルが誕生する。多様化し、選別され、洗練されたコンテンツは、一つの規格に多様性を内包する。スマホが多様なアプリを使用するための道具と化しているように。かつてコンテンツとして売り出されたスマホは、いまやそのソフト自体がツールと化している。サブカルにも同じことが言える。かつてコンテンツだったライトノベルというジャンルは、多様性を孕み、現在では一つのツールとして機能しだした。多機能型携帯電話として登場したスマホが現在、携帯電話型アプリ起動端末に進化したのと同様に、文芸の一形態でしかなかったライトノベルは、文芸の垣根を越え、物語を配信するツールとして機能しだす。すでにツールは国民に行きわたりつつある。ライトノベルを装うことに意味はなくなった。これからはライトノベルにおけるコンテンツの開拓が、真新しい時代をカタチづくっていく。そこに流行りはあり得ない。新しいものだけが辿り着く。――単純にまとめれば、画期的でおもしろいモノが売れる、というなんとも中身のない主張に収斂する。が、だいじなのは中身ではなく器である(矛盾しているように聞こえるかもしれないが、中身は黙っていても洗練されていく。が、器がなくてはそうした中身もとり溢されていく。スマホやライトノベルのような、つぎの時代の器が必要になってくる)。新しいコンテンツの受け皿となるべく器が、今はどこにも見当たらない。


32:【ひがみ2】
「30」の繰り返しになるが、特定の誰かを特別視することは差別ではない。たとえばレディースデーなど、女性ばかりが得をするのはおかしい、逆差別だとする主張があるが、男性に対する値段設定が不当でないならば、それを言うのはひがみでしかない。また、なぜ女性ばかりにそうした計らいがあるのかと言えば、そうした売り文句に飛びつくのが統計的に女性のほうが多いからで、言い換えればカモにされているだけである。それを果たして特別視と言えるのか。たとえ意図的でないとしても、未だ現代社会では女性が統計的差別を受けている事実は否定できない(とはいえ、たといカモにされようがWIN:WINの関係性が維持されているならば、問題はないのかもしれない)。だいじなのは、どんなことであっても、まず負の感情を自覚し、それを他者へ向けないことである。


33:【多重物語】
物語は樹で譬えられる。大きな幹があり、それを軸にエピソードという枝葉で物語を肉付けしていく。しかしこの場合の「樹」とは平面である。まさに「木」で代用していいくらいに平面的な構造である。目をつむってもゴールに辿り着けるような単純さである。洗練されていると言い換えてもいいが、すでに洗練されているものに興味はない。もっと立体的な構造を有した物語があってもよいはずである。すくなくともマンガやアニメ映画にはそういったものがすくなからずある。だのになにゆえ文芸にはそういったものが少ないのか。否、あるにはあるが、それは大巨編とも呼ぶべき膨張をみせており、なかなかお近づきになりたいとは思えない。もっと短くてよい。短めの長編で、多重構造を成した物語が紡げないものか。


34:【線から面へ、そして立体】
プロットを線で捉える時代はもうずいぶん前に隆盛を極め終えた。線で捉えるという概念を普及させたのは手塚治虫氏である。終わらせたのは宮崎駿氏だろう。たとえばもののけ姫の物語構造は一見すればハチャメチャだが、アシタカ、サン、モロ、エボシ、ジコ坊、各登場人物ごとに明確な太い物語があると捉えると、途端に立体的な構造として浮きあがって見えてくる。もののけ姫は一つの作品ではない。あれは複合された多重物語なのである。もののけ姫において重要な核を成す物語は、じつはアシタカとサンにはない。エボシと森の神々との闘いである。そこで破れたイノシシの神が祟り神となり、映画の冒頭でアシタカを襲い、呪いをかけ、そして旅にでる動機を与える。その反面、エボシは都の人間たちとも土地をかけた駆け引きを行っている。はっきり言ってエボシを主人公にしたほうが一般的だ。アシタカとサンは、本来物語の構成上、脇役であるべき人物だ。この方法論は、もののけ姫よりもはやく有名なところでは「新世紀エヴァンゲリオン」が取りいれており、そして「涼宮ハルヒの憂鬱」などのモブ系主人公のはしりとして風靡していく。風の谷のナウシカにもこの多重構造は見てとれるが、主人公がナウシカである点で、より一般的な物語構造となっている。ナウシカでは終始太い幹を中心に物語が展開されていく。だからなのか、ナウシカの構造は、本物の立体ではなく、パースの置かれた絵のように感じる。言い換えれば、多重構造の基本は、主人公ではない者にスポットを当て、サブストーリーから物語を転がしていくことにあると言える。これは連作短編によく見られる構造である(たとえば一遍ごとに物語が完結し、最終的にそれら物語の背後に隠されていた大きな物語が顕わになるといった具合に)。が、連作短編と多重物語との違いは、その構造の複雑さにある。連作短編はあくまで、団子のように点を連ね、それを最終的に大きな串で貫くといった手法が用いられる。しかし多重物語は、緻密なからくり玩具のように、連なる点同士が連携し、繋がり、回路として機能する。それはたとえば、串団子そのものを歯車とするような、完全なる上位互換なのである。物語に物語が多重に内包されるこの手法は、ふつうにつくったのでは、膨大に膨れあがり、それこそ大巨編になり兼ねない。目を通すだけでも一苦労だ。ゆえに、多重物語では、通常よりも過剰な、物語の圧縮作業が必要となってくる。もののけ姫ではエボシの経歴はほとんど明らかにならない。エボシが女たちに慕われ、そして鉄採掘場たるタタラ城を束ねている長であること以外はすべて謎に包まれている。なんとなく映画を観ているだけでは、なぜタタラ城が侍たちに襲われているのかも、ピンとこない視聴者は多いのではないか。だが宮崎駿氏はエボシの行っていた数々の裏工作を、解説なしに断片的な描写に散りばめることで、極力省略してみせた。物語に必要な描写のはずであるのになぜ圧縮しなければならなかったのか。単純な話として、もののけ姫はエボシの話ではないからである。しかし確実にもののけ姫は、エボシを中心として動いている。物語が流れている。ここに、多重構造の厄介さ、言い換えれば欠点となり得る複雑さがある。宮崎駿氏は、その解決策として、主人公をアシタカだけでなくサンというヒロインを用意することで、立体的な奥行きを映画に与えた。さも人間が両目を駆使することで視野を立体的にしているように。この手法は、細田守監督の「バケモノの子」にも見てとれる。ただし、細田守監督のほうがより平面的だ(ナウシカと共通するものがある)。物語を構成するブロックが大きく、繋ぎ目が明確だという粗が(ときにそれは長所でもあるのだが)目立つ。その要因は、主人公にある。もののけ姫ではアシタカとサンという二人の主人公を、双方共に、モブ系にした。反して「バケモノの子」では、双方共に主人公格とすることで、より明快なストーリーラインを構築した。先述したとおり、多重構造では、基本的に主人公はモブ系でなくてはならない。太い幹は別個に用意せねばならず、主人公格を主人公にするのでは本末転倒なのである。そこで細田守監督は、よりモブらしいほうの主役を、物語の軸とした(ここよりさきは、「バケモノの子」を観た者にしか伝わらないので解説を割合いする)。物語の構造は進化しなければならない。現に、物語を「樹」で捉える手法はすでにつぎの段階へと進んでいる。四コマ漫画が、漫画の基本であるように、飽くまでも「樹」は基本的な構造でしかない。それをいくつも組み合わせ、より立体的な物語をクリエイターは、すくなくともいくひしは、つくっていかねばならない。いまを生きる者として、未来をつくる者として。文芸だけである。アニメや漫画ではそうした物語が数多くある。文芸だけが百年前から進歩していない。入口のあたりで右往左往している。入口を出口だと勘違いしている。いくひしは、いい加減にしろと言いたい。でも言わないいくひしはえらいとおもう。(革新的な作品を発表している作家さんはもちろんいるさ。そりゃもう、すばらしいくらいに! ただ、あまりにその発現を、或いは発掘を、偶然に頼りすぎている。もっと全体的に、そういうことを意識して、こうこうこういうものをつくってみたのですが、いかが? と世に問うていかねばならない時期なのでは? といくひしは言いたいのである)


35:【構造改革、王道打開策】
平面的なプロットではどうしても映像メディアには敵わない(シンプルであればあるほど、映像の強みが増す傾向にある)。だとすればどうすべきか。立体的な構造をともなったプロットで対抗するよりない。縦軸と横軸のプロットは基本形として確立された。あとはそれを複数組み合わせ、複合的に機能する物語をつくるのがよろしいのではないか。或いは、複数組み合わせたことで空洞化した一本の筋を浮き彫りにする手法などはどうか。一見すれば従来の基本形を模した構造に映るが、しかし感じられる奥行きは段違いであるはずだ。いずれにせよ挑戦、もとより、調整していくよりない。工夫こそオリジナリティとはよく言ったものである。


36:【立体視】
見方を知らなければ見えてこないものがある。立体視はその典型だ。寄り目をつくらなければ、そこにはただモザイク然とした紋様があるばかりで、それそのものの良さは微塵も見えてこない。見方とは「技」である。訓練なしには身につかない。小説にも同じことが言える。読者に「技」の習得を期待してはいけない。新たな「技」の発明なしに小説の未来はない。ならばどうすればよいか。作者と読者の溝を埋めるような、足がかり的な作品をつくっていくほかないのである。中途半端ではいけない。過去と未来を繋げる絶妙な塩梅を体現せねばならない。想像するだに面倒である。いつの世も先駆者がいちばん頭を使う。だから余計に成長するのかもしれない。見習いたいものである。


37:【あたらしさ】
現代に恐竜を蘇えらせたらそれはいくら過去の遺物だとてやはり「新しい」のである。新しさとは、解りやすいなにかしらではない。大概は目に見えない技術力である。


38:【ガンダムが流行らない理由】
いまの若者たちにとってモビルスーツはいわば車や家のようなものであり、「じぶんがすごい」という承認欲求を満たすものとはなり得ない。能力系のライトノベルが流行る理由にも繋がるが、若者たちはみな「じぶんがすごい」ことを前提に生きている。ゆえに間接的なつよさを求めていない。マンガ「ガンツ」がヒットを記録した背景には、ガンツスーツが内に秘められたチカラを覚醒させる、といったある種の「才能の開花」を暗喩しているからであり、あれが単純にロボットであったならば、あそこまでのヒットを飛ばすことはできなかっただろう。ゆえに、仮にロボット系の物語を流行らせたければ、もっとエヴァのような、主人公のチカラをそのまま反映させるようなつくりにしなければならない。潜在能力に呼応してつよさが決定されるようなものでなければ、いまの若者たちに受け入れられる作品はつくれない。


39:【技と幅】
誰が見てもスゴイと思わせる「技」は、極めるのに時間がかかるうえ、劣化するまでの時間が短い。鍛練を怠ればすぐさま腕は錆びついていき、基本的にいちど披露したあとは徐々に興味を向けられなくなる。熱しにくく冷めやすいというデメリットがある。また、型として定着するので自由を限定される。安定するというメリットもあるが、デメリットもあるという話である。つぎからつぎへと超絶技巧を身につけられるほどの天才であれば「技」を極めつづけていればそれでよいが、常人であるならば、ひとつの「技」を極めるよりもいろんなものに手を出して「幅」を広げるほうに力を入れたほうが得策である。一般にそれは器用貧乏と呼ばれ、あまりよい評価を受けないが、つづけていけば確実に芽のでるやり方である(もっとも、どんな分野であれつづけていくことが最上級にむつかしいのだが)。長い目で見れば「幅の広さ」は、そのままその者の持つ地力に繋がり、創作者に限定して言うならば、それは材料の豊富さに繋がる。すこしずつでいい。じぶんだけの四次元ポケットをこさえよう。


40:【でもイチゴはあったほうが好き】
挨拶をしないからといってその相手に対して負の評価を与えるのは、本来正しくはない。挨拶とは、相手と友好な関係を築こうとするための努力である。ゼロをプラスにするための行動であり、それをしないからといってマイナスにはならない。にもかかわらず、世間にある大きな流れでは、挨拶をしないだけで、あいつはダメだ、或いは、嫌なやつだ、とのマイナスの評価をつけてしまう傾向がつよい。友好な関係を築くための道具であったはずの挨拶が、相手を攻撃するための材料になってしまっている。本末転倒である。ショートケーキからイチゴが消えたからといってケーキでなくなるわけではない。イチゴのついていないケーキはケーキであらず、すべて破棄する、といった制約が世の中にはびこるくらいならばいっそ、ケーキにイチゴをつけるのは禁止、としたほうがよほど美味しいケーキを食べられる。極端だろうか? そう、それくらい極端な話なのである。

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