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いくひ誌。【41~50】

※日々おもうことは基本的にぶれるよ。


41:【流行り】
流行りというのは確実にある。流行と言って抵抗があるならば、時代の渦と言い換えてもいい。その時期、その時代にあって、みなが曖昧模糊としながらも存在を知覚し、けれどよく解らないのでお近づきになりたくないと思っているもの。一見興味はなさそうなのだけれど、それは未知への嫌悪感でコーティングされているからであり、中身はパンパンに興味関心が詰まっている。そうしたものに、切り口を与えてやれば、溢れんばかりの魅力となって上質な蜜がしたたり落ちてくる。みながこぞって蜜を啜りに集まり、そしてその大衆そのものが蜜をより上質な代物へと変化させていく。データでは観測できない代物である。すでに膾炙したものでは意味がない。いかに未知の領域を切り広げていくかが肝要である。サーファーは波がくる前から波を予測し、棋士は百手先を読む。では作家はなにを読めばいいのか。本だけでないことは確かだ。


42:【我でなくゆえに割増し】
共感を得たいと思ったことがない。共感されたくないとすら思う。ぼくはぼくで、おれはおれで、わたしはわたしだし、あたしはあたしさ。ほかの誰でもない。誰にもなれない。だからこそほかの誰かになってみたい。誰かの視点で世界を覗き見たい。物語を貪る理由はそれしかない。他者の視点で物事を見る。世界を感じる。これほどまでに刺激に満ちた娯楽がほかにあるだろうか。


43:【一歩間違えれば廃人】
小説に、マンガに、アニメに、映画、ともかくとして多種多様な物語、虚構を必要とせずにいられる人生は最高だと思うし、できればそうした人生を歩みたかったとも思う。小説に出会えたことを後悔した覚えはないし、感謝しきりの日々ではあるのだが、それがなくては生きられない、というのは果たしてそれほど幸福なことだろうか。


44:【冗談半分】
むかしの話である。陸上の百メートル走で予選をあがったことがある。本戦に出場できるとなった折に、じつは予選の記録が間違いだったと訂正されてしまった。しかし本戦には出場していいという。いくひしはそのとき、その話を断った。予選の結果が間違っていたのになぜ本戦にあがれるのか。そんなのはズルではないか。よってもういちど予選を突破するから、ゼロから這いあがらせてほしいと頼み、果たしてその申し出は受理された。けっか、未だに予選を突破できていない。そのストップウォッチ、壊れてない?


45:【バトルと小説】
一流のダンサーはどんな曲でも踊れなければならない。プロはたといインフルエンザにかかってもベストパフォーマンスを出しつづけなければならない。だがバトルだけは例外だ。バトルは生ものだ。そのつど、ドラマがあり、生死がある。ダンスバトルはDJのまわす曲を舞台に命をぶつけあう、正真正銘、一期一会の、正念場だ。人生の、正念場だ。だからこそバトルでクソな曲がかかったらぜったいにいいバトルにはならない。バトルは心で踊るものだ。小手先のスキルでは観る者の心は揺さぶれない。小説も同じだ。誰も聴いたことのない、その場限りの熱い曲を。


46:【物語とキャラクター】
物語がキャラクターを動かすのではなく、そのキャラクターがいたから物語が大きく転がる。だから基本的な物語構造では、主人公が物語を牽引しているように映るが、じつはもともと軸となる物語があり、異物である主人公がそこに加わることで大きく流れを変えてしまう。言い換えると、本来辿り着くべき未来から逸脱する契機を与える人物を主人公にしなければならない。桃太郎ではもともと鬼という強力なキャラクターがその世界の物語を動かしていた。しかし桃太郎という主人公が介入することで、大きく未来が変わってしまう。そういうことだと思ってくれていい。だから、それゆえに。いくひしの提唱する多重物語の構造では、そこにメタ視点を取り入れ、構造をいくぶんか複雑化させる。ふたたび桃太郎を例にとろう。桃太郎は鬼を退治した。本筋はその後の話、或いは、それ以前の話とリンクしていく。鬼という存在そのものがじつはほかの大きな物語を変える契機となっていたのである。鬼という存在を失った世界は、桃太郎のせいで本来の、より劣悪な物語に回帰してしまう――といういささか入れ子状の構造になる。これはもっとも単純な多重構造である。層の枚数でいえば二層であり、多重というほどでもない。が、より奥行きのある物語になっているのではなかろうか。閑話休題。基本形にしろ多重型にしろ、だいじなのは、キャラクターが物語の流れを変える契機にならなければならない点である。そしてそれはどんなキャラクターでもいいというものではない。そのキャラクターだからこそ、結果として流れが変わったのである。ほかのキャラでは、その結末にはけっしてならなかった。そういうキャラクターを選ばなければならない。ただし、キャラクターが介入してくる以前から、その世界にはもともと大きな物語が流れている(いわゆる世界観というのとはすこし違う。設定とも違っている)。そういう意味では、物語があり、ゆえにキャラクターがあると言っても過言ではない。結果論(目的論)か原因論かの違いである。


47:【おべんとばこ】
複雑な物語が好きなわけじゃないの。できるだけシンプルでおもしろいものが好きだよ。だってできるだけながーくたんじゅんな物語を味わっていたいでしょ。その想いが募ってなのかな。多重物語なる構造をいくひしは推してるよ。一粒でたくさんおいしい物語があればいいなぁって思わない? いくひしはとてもよいと思う。おんなじ時間内で、カレーしか食べられないのと、ハンバーグにコーンスープ、パフェにサラダと、すこしずつかもしれなけれどもたくさんのおいしいものを食べられるのと、どっちがいいと思う? いくひしはたくさん食べれたほうがよいと思う。多重構造の物語はだから、お弁当箱と言ってもいいかもしれないからそう言っちゃう。お弁当箱だよ。カレーにだってたくさんの材料は入っているものだけれども、単品だけよりはいくつもおいしいものを食べたいでしょ。いくひしはよくばりさんだから。甘いのを食べたらしょっぱいのを食べたいし、でもでもたくさんのなかの一つは、ただそれだけを食べてもすっごくおいしいの。むりだと思う? でも、そういう極上のお弁当箱が、小説にもあったらいいなぁって思わない? いくひしはすごくよいと思う。


48:【SICK】
病気なんだ。病気なんだ。みんながそういう目でぼくを見るんだ。だけどぼくは病気ではなくて、病気なら治ることもあるのに、どうすればいいかなんてわからないんだ。なにかを伝えようとするんだ。伝わらないだけならいいんだ。ぼくがぼくであることの証でもあるから。なにかを伝えたいんだ。伝えあいたいんだ。だけどぼくの言葉はきみを悩ませて、きみの戸惑いだけが伝わるんだ。一方的なんだ。それはもう、すばらしいくらいに。いっそのこと絶望的なくらいに解りあえないならいいのに、ぼくにはきみの戸惑いばかりが伝わって、ぼくばかりが傷つくんだ。そう、傷ついているんだ。ぼくに見えるこの世界が、きみたちの見る世界とは違うのだと、きみたちばかりが知らせてくる。ずるいじゃないか。ずるっこなんだ。困った顔でぼくを傷つけて、いや、或いはぼくが傷つけているのかな。わかった。わかったよ。もうやめよう。この言葉だって伝わらないんだ。そうだろ。きみは或いは、ぼくを拒んでいるのだとばかり思っていた。ぼくはきみに解ってほしくて、そればかりで、きみのことならなんでも解っているつもりだった。きみは、きみたちは、ひょっとしたらぼくとおなじで、ぼくが傷つくことをおそれてわざとそうしてくれていたのかな。そう思うことにするよ。それがいいのだときみもうなずく。いやになっちゃうよ。都合のいいことばかり伝わるんだ。


49:【自動運転車】
製造業関係の大企業は今、正社員を増やそうという働きを活発化させている。派遣社員や期間従業員を雇いイチから教育していくコストを考えると、教育して使えるようになった手駒を手放すリスクを冒すよりも、まずは手元に確保しておくことを優先したほうが将来的なコストを削減できると考えているからである。が、そんなことはとうのむかしから百も承知だったはずで、ではなぜいまさらそうした対応にちからを入れはじめたのかと言えば、大きく分けてふたつの因子が関係している。一つは製品そのものの需要が減ってきているという業界全体の斜陽化にある。不景気の一言では片づけられない現象として、需要の減少が誰の目にも明らかなかたちで顕在化してきている。これは将来的に継続していく現象であるだろう。こと自動車産業などは顕著で、仮に自動運転システムが実用化されれば事実上、市場には全自動タクシーが半ば公共バスのようにそこらちゅうを走りまわり、一般市民は自家用車を持たずに済むようになる。そうなれば今のような出荷台数にはとうてい及ばなくなる。これを踏まえての二つ目の因子であるが、それは工場の機械化である。現在すでに製品製造ラインの全自動化は技術的には可能である。コストの面でいまはまだ人件費をかけたほうが安上がりだというだけのことであり、ただそれだけの理由で大企業は派遣社員や期間従業員を大量に雇用し、使い捨て、或いは使いまわしている。しかしこれも昨今の急激な技術革新により、そう遠くない将来、それこそ二十年やそこらで工場の全自動化が可能となってくる。すると相対的に従業員を確保しなくても済むようになる。イチから教育して人材を使い捨てにしていくよりかは、二十年後という期日まで有能な手駒を長く使っていったほうが合理的だとする考えをようやく企業が持つようになったと呼べる。いま二十代から三十代にかけての社員は、あと三十年もすれば定年である。ちょうど工場の全自動化が全国に行き渡りはじめる時期と合致する。工場から人間の作業者が消え去るとき、定年退職という大義名分を得て企業は大量解雇する必要はなくなった。社会からの非難の声もあがらないという寸法である。いささか穿った見方に映るかもしれない。じじつ穿っているので正しい映り方である。


50:【同志よ】
頭をからっぽにしても楽しめる作品はすばらしい。同時にそうしたコンテンツはインターネット上に無数に溢れ、無料で貪ることが可能だ。その点、重厚な物語はハズレを引いたときの「時間の無駄」感をおそれてなかなか手をだしづらいのが現状だ。だからこそいまこのとき、商品として提供するに値するのはそうした重厚な、手をだしづらい物語なのである。時間の無駄にはさせません、という保証を、担保を、提供元は全身全霊で示していかねばならない。矜持と言い換えてもいい。無料のコンテンツが溢れた現在、お金を払う価値のある物語は、けっしてたやすくコピーできる類の代物ではありえない。矜持とはある種の傲慢さである。勇気とは失敗するかもしれない未来を直視し、それでもまえを進もうとする愚かしさのことである。需要者が自ら選び、コンテンツを手にする時代はすでに過去のものとなった。否、それはますます過剰化し、無料化し、そして無法化する。あらゆる自由は無料である。金を払う意味はない。だからこそ我々は、これがおもしろいのだと、プロの視点で、傲慢さと愚かさを胸に、ある種の押しつけを強行するときではないのか。市場原理は崩壊した。無料大公開時代に対抗するために我々にできることはなにか。私たちの提供するものこそがホンモノだと胡散臭いほどの自信を前面に打ちだし、これこそがおもしろいのだと、未知との遭遇を提供しつづけていくことにあるのではないか。新しさはときに拒絶反応を引き起こす。だからといって避けていたのでは時代の波を乗りこなすことはできない。ましてや時代の壁を乗り越えるなんて芸当はとうてい適わないだろう。足場は用意した。駆け抜けよ。

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