• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【51~60】

※日々おもったことをくれぐれもてにはを。


51:【情報】
DNAに刻まれている情報量は現在存在するあらゆるメディアデバイスをはるかにしのぐ容量がある。研究段階ではあるが、現在そうしたDNAを基にした記録媒体の開発が進められている。ともすれば逆説的に、DNAのような極小の物質に刻まれた情報を人類はやがて引きだせるようになるかもしれない。それはたとえば物質に刻まれた時間の経過そのものであり、過去そこにあった情景を、映画を再生させるように再現できるようになるかもしれない。或いはこの世界という媒体そのものに刻まれている巨大な情報を引きだし、宇宙誕生以前の世界の姿を呼び覚ますことも不可能ではないのかもしれない。けっきょくのところ情報とは、変化の軌跡であり、常にこの世に蓄えられつづけている真の意味での永久機関である。情報には限りがない。質量保存の法則から、エネルギー保存の法則など、あらゆる物理法則から解き放たれている。正真正銘、摩訶不思議な「この世のものではないナニカシラ」なのである。


52:【愛するゆえに殺す】
デザインとは問題を解決するためのよりよい変形を示す。ならば新しさとは問題を解決するためのよりよい進化でなければならない。そこには過去という名の足場があり、そして常識という名の隘路が立ちはだかっている。ただ珍しいだけではなく、今ここにないものだけを求めるのも違っている。現状を打破し、そして未来をつくるための礎になるものでなければ意味がない。否、意味はなくてよい。最初だけは。意味はあとから従属し、のちに付与されるものである。新しさは何かをことごとく否定する。その意思がそれそのものにはなかったとしても。或いは、いったいそれがなんであるのかの理解が広く及ばない例もあるだろう。ひとは己の知見でしか物事を測れない。見られない、とそれを言い換えてもいい。問題を認識できない人間にとって、問題を解決するための手法は、目のまえのカラのペットボトル飲料ほどに意識されない。今、我々が直面している問題とは何か。小説の乗り越えるべき隘路とはなんなのか。いまいちど直視すべきときではなかろうか。新しさは常に、なにかを守ろうとする者のまえに現れる。古き基盤に最大級の敬意を。そして殺意を。


53:【女々しいとどもり】
怯えているわけじゃないの。ホント。あなただってそうでしょ。か弱い子猫みたいなのが好きなくせに。嫌いなわけじゃないの。当たりまえでしょ。目を逸らしたことなんてないもの。うそ。ちょっとくらいはあるけど、それだって瞬きくらいのあいだだもの。演技だって分かってほしくて。うそ。見抜いてほしいわけじゃないの、だってかわいいでしょ。知っているもの。本当はかわいくないなんてこと。いちどくらい騙されてくれたっていいじゃない。騙されたフリでもいいけど、私にそれを悟らせないで。束縛したいわけじゃないの。それもうそ。だって偽りでもしないと見つづけてくれないでしょ。中身なんて見ないで、うわっ面だけを見ていて。そう。それもうそ。ぜんぶを見てほしくて、でもなにも見てほしくもなくて。だってこわいでしょ。知っているもの。本当はかわいくないなんてこと。


54:【メメントモリ】
なぜ私は私なのだろう。なぜ私は、私が私しかいないと思うのだろう。私は無数にいて、私は複製可能な存在で、私はありふれていて、ゆえに私なのかもしれない。私は私たちで私であり、しかしそれを自覚できないことが私をある一定の範囲に押し留め、私を私として圧し留めているのではないか。死はその枠組みの崩壊であり、私は私たちに取りこまれ、そしてまた私は私たちからはぐれるときを待つのではないか。私たちからはぐれた私は今、どこで何をしているのだろう。私はいったいどこで何をしているのだろう。私は私でありつづけたい。孤独で、ありつづけたい。死は、とても騒がしい。繋がることが、おそろしい。


55:【そしてつねに疑え】
人間一人にできることなど高が知れている。周囲の環境を観察し、その流れを読み、先を見通し、そしてなにより学ぶこと。学ぶためには失敗しなければならない。他人の助言を真に受けて、無駄だからとせっかくの失敗する機会を失うのは明らかに損失だ。失敗もはっきりとしたひとつの成果である。なぜ失敗したのかを考える契機は、ひとつの成功よりも大きな成長をもたらす。成功したいのか、成長したいのか。こればかりは堂々巡りだろう。どちらが先でも、自ずと途中で入れ替わる。敢えて言おう。他人の助言になど耳を貸すな。じぶんだけを信じろ。しょせん他人も周囲にあふれる有象無象の事象の一つにすぎない。足元の小石や、きのう見た夢と寸分のちがいもありはしない。夢で見た蝶のはばたきにひらめきを得るのも、忘却するのもひとえにじぶんの判断である。もっとも、こうした助言もまたあまたある他人の戯言の一つである。繰り返すが、じぶんだけを信じろ。


56:【おれさまはあからさまに王様】
おまえはいったい何様だと言いたそうな目で見られることが少なくない。面と向かって言ってくれたならばぜひともこう答えてしんぜよう。無様である、と!


57:【ボツ台詞集-1】
天然殺人鬼のセリフ。
「なんでこんなことするのかって? さあね。考えたらできねぇんじゃねえの」
ヤリチンモテ男のセリフ。
「僕は差別主義者だからね。ガキやメスにはとくべつ甘く接するんだ」
殺人鬼を追う記者の独白。
「悪意を眺めるのは楽しい。最高の悪趣味である」


58:【オリジナリティ】
どんな分野でもプロを目指すならばオリジナリティの探究は必須である。しかし何に対してのオリジナルなのかはよくよく吟味し、見極めなければならない。求められるオリジナリティには必ず深度というものがある。たとえば団子屋にて新しい商品を開発しようとする場合、基本的にそれは団子である。まったく新しいオリジナルの商品を提供しようとして団子屋でシャベルを売っても仕方がない。客はなんでこんなものがここに、と思うだろうし、団子だと思って注文してみたところシャベルがでてきたら裏切られたとすら思うだろう。だからして、一般にいうオリジナリティとは、真新しさとは違っている。人気商品のみたらし団子を三つ繋げて串団子にし、値段を単品で三つ買うよりもお得にすれば、客は串状のみたらし団子のほうを買うだろう。客のためを思えばこそのオリジナリティである。すなわち、オリジナリティとは工夫の言い換えであり、既存のものをよりよくすることを意味する。しかし、それは団子屋にある団子に需要がある場合にかぎられる。いずれ団子そのもののブームが去り、団子が売れなくなる時期がやってくる。そうしたとき、深度の浅いオリジナリティを追及しても、現状の打破には繋がらない。そこで必要となるオリジナリティとは、既存の焼き増しじみた工夫ではなく、まさしく新しい目玉の発明なのである。ぶり返すが、団子屋でシャベルが売ってあったらおかしい。誰だってそう思うだろう。だからこそ、シャベル型のスプーンを開発し、そして巨大な団子を採掘するように掬って食するタイプの、まったく新しい商品が必要となってくる。巨大団子の中にはいくつか味の異なる種が入っており、それはたとえばパフェを団子でつつんだような有様である。光る団子ブームにあやかって、光る団子作成セットをおまけでつけてもいいかもしれない。泥と作り方さえあればいいのでほとんどタダのようなものである。付加価値をつけ、オリジナリティにさらなる磨きをかける。光る団子だけに磨けば磨くほど輝きが増す。オリジナリティにはまさにそういった性質があり、いくらでも付加価値がつけられる。通例がないために、やることなすことすべて新鮮なのである。閑話休題。ここで言いたいのは、まさしくいま、小説業界に必要とされているのは、そうした今までにない真の意味でのオリジナルな小説である。それは一見すれば小説ではないようなものかもしれない。すくなくともいくひしにはまだつくれていないし、読んだこともない。やったもの勝ちである。見つけた者勝ちでもある。光る団子が転がっていないか、注意深く眺めてみよう。


59:【承認欲求おばけ】
承認欲求が低俗な動機であるかのように捉えているおとながすくなくない。確固とした個として確立されたいと望むのは、不完全な人間という種にとって根源的な欲求である。ひるがえっては世界に流れる事象の多くもまた不安定であるがゆえに常に、より安定した状態へ移行しようとする働きをみせている(水が氷になったり、気体になったりするのも環境の変化によって安定した状態になろうと変遷の経過に身を委ねているためである)。他者から認められたい、とする欲求は、ある種の確認作業である。ほかの多くの視点から見ても自分は安定した状態にのぼりつめているのだと安心したいのである。ひるがえっては自分が不安定な存在なのかもしれないとする不安の表れでもあり、真実不安定な種である人間にとって、この不安はけっして払しょくされることはない。だからこそ他者からの承認を求め、そこにしあわせを見出そうとする者は得てして中毒者じみた承認への渇望に囚われがちである。なぜなら承認にはかぎりがないからである。たとい人類すべてから崇められようと、人はさらに後世からの承認までをも求めるようになる。名を残したいというのはまさにその典型である。国を動かす仕事をしたい、時代を変える仕事をしたい、他人の役にたちたい、もまた大なり小なり同じである。まったくもってわるいことではない。そして重要なのは、しあわせもまた承認と同様にして際限がなく、それを求めはじめるときりがなく、蟻地獄じみた迷宮--虚無にはまってしまう点にある。けっきょくのところしあわせを求めるのも承認を求めるのも、ほとんど同じ顛末を辿る。それそのものを手に入れることを目的にしてしまうと、やがて中毒化し、かえって満たされなくなってしまう。だからといってそれを拒絶し、手放す必要はない。求めるのが人間である。明確な目標を以って、それに励もう。しあわせも、承認も、何かをなそうとした結果にたまたまついてくる影のようなものである。ときおりでいい。足元を見て、じぶんはたしかにここに存在するのだと感じよう。


60:【虚構現実】
現実は厳しいから虚構のなかでくらいいい夢みさせてよ、という声がある。ひとむかし前、それこそフェイスブックやツイッターがなかった時代はそれでよかったと思う。けれど現在では、本当は厳しい現実にあえいでいながら、しれっと成功と活躍を誇張して提示できる「場」がそこらちゅうに溢れている。現実のなかに虚構が溢れ、侵食し、それを以っていまは、「現実」と呼ぶ。虚構のなかでくらい「真実」を描いてほしいと望む声は、そうすくなくはないはずだ(みな、自分だけじゃなかったんだ、と安心したいのである)。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する