• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【61~70】

※日々おもったことをへろへろとつむぐよ。


61:【ゲーム業界の話】
消費の時代は終わり、これからは献上の時代に突入する。見てください、読んでください、聴いてください、遊んでください。すべて提供者から声を大にして需要者へ叫ばなければならない。いかに気前よくサービスをするかが肝要であり、いかに抵抗なく商品を手に取ってもらえるのかが焦点となる。すべて無料ではむろん誰も金など払わなくなる。ゆえにお金を払ってもらえるように、そこにはある種の駆け引きが必要とされ、同時にその駆け引きそのものが楽しめるようなものでなければならない。夢の国やUSJなどのパレードやサービスには見習うべきものがある。たとえばゲームなどは、従来のような参加型のアトラクションじみたものだけでは年々需要者は減る一方だ。なにもせずとも需要者へ訴えかけつづけるような、独自のモジュールが必要となる。それはたとえば独立した人工知能であり、肉体を持たないペットである。人格を有していればなおよい。事実上の奴隷である。昨今の風潮として、ゲーム業界はソーシャルゲームへの対抗策として、また差別化として、映像のリアル指向へと走っているが、ハッキリ言ってその方向性は間違っている(ようにいくひしには映る)。需要者の求めているものは現実ではない。あくまでも仮想の世界である。現実を忘れるために、わざわざ現実っぽさを追求する必要はない。アニメのキャラが生きているように画面の向こうから語りかけてくれるだけで、現在の需要者は満足する。彼らは何かをしたいのではなく、楽に、より多く、満たされたいのである。現在において娯楽とは、消費するものではなく、人生を共に歩むもの、支えとなるものを意味する。ペットのように従順で、情婦のように都合のよい対象を需要者は欲している。


62:【ゲーム業界の話2】
ゲーム業界の話をしよう。ファイナルファンタジーを代表するような重厚な物語を売りにしたゲームは昨今、とんと売り上げを伸ばさない(以前のように爆発的には売れない。開発費を回収できないのが現状だ)。反して手軽に、目をつむってでも遊べるソーシャルゲームが現在、市場の主流である。開発費は、据え置き型ゲームソフトが何十億に対してソーシャルゲームはせいぜい高くても数千万である。元からスマホという機種があるため、ハードの開発をせずともよく、需要者にその分の費用を負担させずに済むという利点がある。また短期間で開発でき、そして当たれば大きい実の入りが期待できるのだからソーシャルゲームの開発に業界が奮起しないはずがない。かといってソーシャルゲームの需要者が増えたから従来のゲームソフトが売れなくなったのかと言えば、ことはそう単純ではない。ゲーム人口が増えたならば必然、コアなファンも増える道理である。が、現状そうはなっていない。なぜか。大きな要因のひとつに、大衆の嗜好の変化、ことさらコンテンツを消費する理由の背景変化があげられる。ひとむかし前までは、純粋なひまつぶしとしての娯楽が、そのまま極上のコンテンツとして人々に受け入れられていた。経済が発展し、化学技術の結晶がそこかしこに溢れた現在、ひまつぶしにお金を払う真似はせずに済むようになった。そこで人々がコンテンツに求めるものは、人との繋がりへと変化していった。もうすこし掘り下げて言えば、承認欲求を手軽に満たせるシステムへの転換である。YOUTUBEやニコニコ動画がTVを駆逐する勢いで成長した背景には、この承認欲求を満たすシステムの介在が見え隠れする。ゲームに限らず、あらゆるコンテンツが、いまや、需要者同士を繋ぎ、相互に関連しあうシステムの強化へとその働きを(意識的無意識的にかぎらず)打って出ている。ツイッターのファボやフェイスブックのイイネ機能を筆頭に、需要者がコンテンツを発信し、提供者となり、同時にコンテンツを批評する運営への参加が可能となっている。ゲームの話に戻ろう。従来の据え置き型ゲームのソフトでは、需要者はプレイヤーとして単なる消費者の位置に留まった。重厚な物語は、複数人でわいわい騒ぎながら楽しむよりも、独りで物語に没頭するのに適している。反してソーシャルゲームでは、プレイヤーはYOUTUBEなどのほかのコンテンツをまたぎ、そのままコンテンツの提供者として昇華される。ゲームの内容とは関係のないところでゲームを楽しむ、といった仕組みは、過去、ゲームセンターが繁盛していた時代にはしごく当然のようにゲームに組みこまれていた。格闘ゲームなどがその典型である。ネットワークを介して全国の猛者たちの成績を共有し、ゲームの内容そのものを楽しむよりも、誰よりもよい成績を叩きだし、そして称賛を得ることにその主眼を置いた。ダンスダンスレボリューションや楽器系のゲームもその系譜である(本当に中身を楽しみたい人間は、ゲームではなく本物に手をだすはずである)。ソーシャルゲームはさらにゲームの内容から乖離した方法論でそのシェアを広げている。たとえばパチンコの依存原理であり、また、費やした時間や金銭を回収しようとする消費者心理(コンコルド効果)である。無料でゲームを提供し、まずは顧客の層を厚くするという手法が有効なのは、こうした泥沼を、運営側が意図的に、非情なまでに徹底してゲームに組みこんでいるからである。大手のゲーム会社はしかし、そうしたソーシャルゲームよりも従来のゲームソフトの開発にちからをそそいでいる。矜持があるからだろう。よりリアルな映像を追求し、より没頭しやすい物語世界をつくりあげることに尽力している。真実に顧客がゲームにリアルさを求めているのかはこの際措いておくとして、ゲームはこれから、ゲームを越えた何かに進化しようとしている。そして時代がそれを後押ししているように個人的には感じる。VRの実用化、そして販売がその一例である。ゲームは映画を凌駕した新たな体験として数年以内に現代社会に膾炙し、溶け込んでいくだろう。或いはそれは、従来のゲームソフトの終焉を意味するかもしれない。もしくは、情報量の過剰なVRに疲れ果てた需要者たちが、こぞって懐古主義に走るかもしれない。いずれにせよ、VRの出現により、物語に没頭することと、他者と繋がることが同時に果たされるようになる。これは、現在ある、どんなコンテンツにも適えられなかった「新しさ」である。仮想世界、ことさら虚構の共有は、まさに他人の夢へと集団で旅立つのに似た魅力に満ちている。これからの人類は、宇宙だけでなく、天国にも地獄にも気軽に旅行にいけるようになる。最後に小説の話をしよう――。このさき、どんなに技術が発展したとしても、たとえどんなに他者と繋がりあった社会になったとしても、ひとたび文字の羅列に目を落とせば孤独に陥られるという圧倒的な枷が――美点が、小説には残りつづける。小説はこのさき、ますます時代遅れになる。が、行き過ぎた遅延は、やがて最先端を凌駕する……こともある、と、いいね。


63:【そろそろのはず】
あらかじめ告げておくと、そろそろいくひしの仕掛けた時限装置が作動する頃合いである。半年~一年後に起こりそうなムーブメントは、時流を追っていけば自ずと合致するので、さほど誇示するほどのことでもないのだが、五年後、十年後の動向を予測して、布石を打っておくのはなかなかに困難なものがある。基本的にいくひしの作品群は多重構造をなしており、それは未来予測においても同様である。連鎖的に反応するような仕組みを組みこんできたのだが、うまく機能するだろうか。楽しみである。


64:【予測する意味】
腰パンの起源には囚人の服装を真似たものだとする説がネット内では有力視されている。が、じつはもっと実用的な面で腰パンはアメリカ不良文化に風靡した背景がある。それは万引きである。ご存じの方も多いかもしれないが、HIP-HOP文化には主として四つの要素がある。ラップ、ダンス、DJ、そしてグラフィティである。中でもグラフィティは、タグと呼ばれる個人を示すサインじみた描き方があり、それは比較的誰であってもスプレーさえあれば描けてしまえるため、ほかのラップ、ダンス、DJなどと比べて容易に参加しやすい特徴がある。いわゆる壁の落書きと聞いて思い浮かべるような、芸術的な感応のいっさいを喚起されない、ミミズの這ったような、まさしくサインである。基本的にそうしたタグは、より熟練されたグラフィティ――芸術性さえある作品(ピース)のうえに重ね描きしてはならず、そこにはある程度の秩序、ルールが尊重されている(伊坂幸太郎氏の「重力ピエロ」でも出た話なので意外と知っている者は多いのではないか)。なぜグラフィティという行為に若者たちが走るかについては、単純な話として、おれはここにいるぞ、という自己主張のほかに意味はない。縄張り争いだとかそういった意味合いはほとんど後付けであり、存在を誇示したいという青臭い動機がその行動原理の奥底に鎮座している。芸術もまた或いはそういった青臭さからくる行動なのかもしれない可能性は、ここでは敢えて否定しない。ほかの主要素、ラップやダンスやDJにも言えることではあるのだが、グラフィティにおける自己主張のつよさ、ことその純粋性はほかの追随を許さない。なんといってもグラフィティだけは完全なる犯罪なのである。自分のものではない建造物(本場のアメリカでは店の外壁や電車にするのが一般的だ)に、盗んだスプレーで作品をこさえる。器物破損に窃盗である。ここで話は冒頭に戻る。なぜアメリカ不良文化で腰パンが流行ったのかである。基本的にヒップホップ文化の出自はその当時の貧困層だとされている。ヒップホップに染まった若者たちも金に余裕のある生活は送っていなかった。そこで生活必需品からヒップホップ活動に必要な道具、たとえば大量のスプレー缶などは、万引きをして調達していた。その際に役に立つのが腰パンである。ダルダルのズボンは、放り投げた大量の物品を入れる袋代わりであり、足首をズボンの裾ごと縛っておけば物品がこぼれおちてくることもない。端から手ぶらであれば疑われることはないし、ウエスト部を下げておくことで物品を放り入れやすくなる。また、複数人でことに及べば、ひと目を避けつつ、大量に、素早く物品をせしめられるという寸法である。なにごともそうであるが、何かが流行るのには合理的な理由がつきものである。腰パンにすら実用性という面での合理的な理由があった。流行り物を一過性のものだと蔑ろにするのではなく、そこに潜む合理的な理由を分析できるようになるといい。当たっているかどうかはさほど重要ではない。分析するくせをつけるだけでいい。するとなにもしないでいるよりかはいくぶんか世の中の動向が見通せるようになってくる。これもまた当たっているかはさほど重要ではない。むしろ、予測した事態にならないように行動することにこそ未来を予測する意味合いがあると言ってもこの場合は、そう的を外してはいないだろう。予測とは外すためにするものである。と、すこしはまともな意見も言っておこう。(もっとも当てようとするからこそ予測の精度は高まるのであり、けっきょくのところ外すための予測というのは自家撞着にまみれた理想論でしかないのかもしれない。とはいえ、対策はできるだけ早く立てておくことに越したことはなく、或いはホンモノの警鐘とはそういった二律背反を越えたところで鳴らされる啓示にちかいものなのかもしれない)


65:【苦悶は呪文】
「スキって言葉の威力ハンパない。いやホントすごいから。耳元で言われてみ? 真っ暗闇で身体の自由奪われて、ほのかにいい匂いがして、吐息の振動まで伝わるくらいの至近距離で、唇のぬくもりが伝わるくらいの微妙なさじ加減で、スキ、スキ、ダイスキ、ってそれが言葉なのか息なのか、それとも単に喘ぎ声なのかの区別も曖昧な状況で、それをずっとつづけられてみ? いや最初はもう恐怖だよ。こわいこわい、なにそれもうやめてってなるよでも、つづけられてみ? もう一発で理性とか吹っ飛んで、洗脳されて、その瞬間だけでも声のぬしを好きになっちゃうから。性別とか年齢とか種族とかそういうの関係ないから。スキスキって本能百パーセントで、声だけで、苦しそうに、こちらの同意を得た瞬間に貪るような熱気につつまれて、それでもやっぱり声だけで、スキスキダイスキって執拗に、必死に、くりかえし迫られてみ? ちょっとした麻薬より効果あるから。脳髄溶けてその場の空気に流されちゃうから。ホント冗談抜きで。いや、やられてみたことないけど」



66:【電子書籍】
電子書籍はもうからない。これは事実である。だが付け足しておくべきことが一つある。それはそもそも作家という職業が職業として極めて不安定な土台に立っているという事実である。食べていけている作家はもちろんいる。ただし三十代にデビューして世間一般の定年退職時、六十歳まで執筆一本で食べていける作家は、新人賞でデビューした全体のおよそ0.5パーセントもいないだろう。憶測で物を言っているが、かなり楽観的な数値である。実際には0.01パーセントもいないのではないかと個人的には思っている(これでもまだ楽観的な数値だ)。いま最前線で輝いている売れっ子作家たちがあと三十年先でも現役で出版しつづけていられるかはしょうじき怪しい。とはいえ、作家という職業は宝くじの券を自作できるという特殊な技能を生業としている。一発大きなヒットがあれば、或いはコンスタントにヒットをつづけていれば、短期間で世間一般の生涯賃金以上の資本を得ることができる。その点が博打と似ていると言われる所以だろう。基本的な話でもうしわけないが、紙の本は大手の出版社であるならば実売数ではなく発行部数での印税が配分される。最初に五千部刷ってもらったならば、極端な話たとえ一冊しか売れなくとも作家の懐には五千部分の印税が入ってくる手筈になっている。が、電子書籍ではこうはいかない。端から発行部数という概念がないため実売数での印税である。電子書籍化するにあたって、映画化する際のようにその著作権を譲渡するといった名目でかわされる金銭のやりとりもあるようだが、その金額はやはり紙の本で得られる金額よりもすくないようである。では電子書籍化するうえでのメリットとは何なのか。ここではそのメリットについては深く触れないでおこう。検索すれば容易にヒットするので、ここではさわりだけの言及にとどめる。電子書籍化するメリットとは――一つに誰であっても出版できること。また絶版がなく、在庫を抱える心配がないことである。そしてなにより技術の発展と共に電子書籍化するためにかかる費用は減り、いっぽうでは電子書籍を需要する顧客の満足度が向上する点にある。現段階では電子書籍の一般への普及は、期待されていたときよりも遥かに規模がちいさい。電子書籍を閲覧するためのデバイスがうまく普及していないとする背景は、そう無関係ではないが、そこに本質はないといくひしは考える。では主とした要因はなんなのか。それは、需要者が紙の本と電子書籍、双方に期待する利用価値が明確に分岐しはじめている点にある。電子書籍はデータである。データはタダだという感性がいまの世の中には流れている。だからして、電子書籍は、ネット上に溢れる様々な無料コンテンツを蓄積するためのツールとして多くは利用されている。そこにはむろん、違法な海賊版も含まれる。有料で電子書籍化しても、そのデータがすぐに海賊版として流れ、無料で多くの者たちの手に行き渡る。そうした悪循環が今まさにこの社会の暗部で、否、表世界で堂々とまかりとおっている。大手の出版社はこれに対して厳しく対処に当たっているが、依然としてその成果は面には表れていない。たとい海賊版が根絶されたとしてもネット上にはプロアマ問わず、真実、無数の作品が、それこそ世界で自分しかそれを楽しめないだろうというニッチな作品が、手を伸ばせばすぐにでも受動できる距離に転がっている。果たしてこれからの時代、そうした野良プロの作品に慣れ親しんだ世代が、かつてのように金のかかるコンテンツに食いつくだろうか。人工知能の発展と共に、インターネットの検索精度もあがっていく。玉石混淆などと言わずして、玉石石石石石石石……石混交の無数の作品群からであっても、ずばりあなたのための作品です、とネットのほうから適切な作品を見繕ってくれるサービスがそのうちはじまるはずである。そうでなくとも、おもしろい作品であれば誰かが確実に発掘し、そしてそれは真実におもしろいのであれば、必ずや多くの者の目の留まる場所に浮上してくる。これは物理的な市場でも、虚構のインターネット上でも同様に働く原理である。芸術性のある作品は埋もれてしまうかもしれない。が、芸術性に価値のあった時代は疾うに去って久しい。或いはこうも言い換えられる。現代にある芸術性とは、より多くの者の目に留まり、そしてその目を輝かせるものでなければならないと。理解されないのが芸術だとする風潮は、単なる逃げ口上である。理解されなくとも、山や川や海のように人々をとりこにするようなものでなければ芸術ではない。そして基本的に山や川や海は誰のものでもない。そこが電子書籍と似ている点である。これからの時代、ますます電子書籍は無法化していく。そこに秩序を生むのは、いちど荒廃した世界にて生き残った版元だけである。或いは、敢えて無秩序を助長し、そうした淘汰の末に、甘い汁だけ根こそぎ奪い取ろうとする流れがうっすらと、つよく、市場を混沌に導いているのかもしれない。が、重要なのは、そうした内部の変化は、需要者にとってはどうでもいい点である。無料で、手間なく、楽しく、コンテンツを消費できれば文句はない。金をださなければ今あるコンテンツが味わえなくなるぞ、と脅されても、ならほかのもっと無料で手間なく楽しいコンテンツを味わうよ、とそっぽを向かれてお終いである。電子書籍はもうからない。書籍をもうからなくさせるための装置なのだから当然である。だが、現在の作家がそうであるように、一部の才能ある者にとってはこのうえない金の採掘場である。山や川や海に、各々、油田や金脈が眠っているように。


67:【競いあうのは三流】
常勝するのが二流。一流は場を提供する。


68:【宣戦布告】
模倣は最上級の称揚であり、最大級の侮辱である。真似されるようなものを。真似できないことを。真似されれば怒り、それ以上のものを新たに。


69:【分水嶺】
イギリスがEUを離脱してなにがし、と話題になっている2016年6月25日現在、問題の焦点は世界経済どうこうよりも、グローバル経済を謳って結成された組織が、却ってグローバルな活動を妨げているのではないかと思わざるを得ない点にある。EUに加盟せずともインターネットが世界を網の目のごとく覆い尽くさんとしている現在、言い換えれば人間が地球を覆いつくし、個人個人がひとつの国家のように振る舞い、各々が自由な貿易を可能としはじめたいまこのとき、大きな組織に囲われることが却って自由を束縛されてしまうという本末転倒な事態がそこかしこで起こりはじめている影響なのではないかと個人的には感じている。何かを我慢し、何かを享受する。組織にかぎらず、人類は、かような利己追及的な合理性によって発展してきた背景がある。より多くの自利をより長く得るために、目先の損を選び、堪えることが人類をより高度に発展させてきた。ひるがえっては、これまで得られていた利益がもたらされなくなれば、目のまえの苦難をわざわざ我慢する必要はないと判断するのに事欠くことはない。或いは、もたらされる利益よりも、強いられた苦痛からの解放のほうが、結果的に大きな益だと認識される場合も多々あるだろう。個人個人のあいだで起こっていた時代の変化が、その弊害が、たまりにたまり、結果として個人の集合体である国家にまでその影響をひろげた。今回のできごとは、まさにこのさきに起こるだろう時代の変化を象徴する、じつに解りやすいできごとである。


70:【移民問題】
安い賃金で労働力を得られるという点で、企業などの資本家は移民の流入を歓迎する傾向にあるというのは広く一般に使われる口上である。と同時に、移民の流入によって仕事を奪われるといった危機感を、労働者階級が募らせているという主張もまたひかくてきよく耳にする。今回のイギリスEU離脱の背景には、この二項対立の結果、労働者側の不満がEU離脱派の後押しをしたという論調が、ネットのニュースサイトなどを眺めているとつよく推されているように観測される。だが待ってほしい。本当にそうだろうか。投票結果を眺めてみると、若い世代ほどEU残留を支持しており、世代が高くなっていくにつれ、EU離脱派が多くなっていく。失業の危機感を募らせている労働者の多くは若い世代であろう。にも拘わらず、若者の投票者層はEUからの離脱を拒んでいる。これの示すことはなにか。若い世代の多くは、ここ十余年に起きた時代の変化、その加速度的な技術革新を俯瞰的に実感できていない。渦中に身を投じすぎており、それがふつうのこととして、まさしく浸透してしまっている。反して、そのうえの世代は、時代の変遷だけでなくEU加盟国としてのメリットとデメリットの多寡を、その移り変わりを過去のものとして眺めてきた。ちょうど絵巻物を眺めるのに似た俯瞰の視点で、時代の移り変わりを実感している。グローバル経済、ことEUはある種の世界統一の局所的な実現に向けて発足された制度にちかい。国の違いがあるから争いが起こる。ならば国をひとつにまとめてしまえばいいのではないか。過去の失敗から学び、そして実現したのがEU、ヨーロッパ連合である。しかしけっきょくのところEUもまた、世界の無数にあるひとつのパーツでしかなく、規模のちがいはあるにせよ、国と国との軋轢がなくなったわけではない。むしろ規模が大きなってしまったがゆえに、ほかの連合国や他国との摩擦が増してしまった傾向は無視できない。その摩擦をなんとかしようと、EUのなかでさらなるルールが増え、自分たちの首を絞めるような息苦しさを増長させてきた。イギリスだけではない。その息苦しさはほかのEU加盟国もまたつよく痛感しているはずである。イギリスEU離脱による今回の世界経済の混乱はまさしくその点が関係しており、ヨーロッパ連合そのものがこのさき瓦解するのではないか、という懸念が、多くの資本家や国を不安にさせている。世界のパワーバランスが崩れるときはちかいのかもしれず、或いはみながそのような危機感を募らせているいま、ふたたび世界のパワーバランスは見直され、より強固に補われるのかもわからない。重要なのは、これからさき、EU残留派だった若い世代が、時代の変遷を絵巻物のように俯瞰できる時期がやってくるという点であり、そうなったとき、現在この社会に漫然と漂っている常識や論調というものが、大きく揺らぐことになる。するとそう遠くない未来、それこそ十年以内に、これまで以上の思想の総入れ替えが行われる。それはたとえば民主主義への不信感であり、これまで人類が培かってきた知性への反感であるかもわからない。急激な変化は、その後の社会がどのように改善されようとも、そのとき生きている者たちにとってはつよすぎる毒をはらんでいる。その点を我々は今から前以って考慮し、対策を練っていかねばならないのではないか。EUってなんだ? とさいきんになってグーグルポチポチしながらいくひしはそう思ったよ。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する