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いくひ誌:【71~80】

※日々おもったことをくねくねとまげるよ。


71:【無責任】
――なことを言うのはたのしい。これだけでアマチュアでいつづけることの価値がある。ただし無責任であるからといって自由だとはかぎらない。自由なのはきっと、もっとたのしい。


72:【まえがき】
小説にまえがきをつけてみた。ないほうがいいという意見には耳を貸さない。ウザいという声には傷ついている。興味のある方は、小説の作品紹介をおのおの参照してもらいたい。本編よりもむしろそっちを読んでほしい。いくひしの最新作、まえがき。読者層を意識して、加藤はいね氏の文体を意識した。加藤はいね氏はブログ「私の時代は終わった。」の作者である。すばらしい感性の持ち主であり、近代を代表するすぐれた作家のひとりである。文章全体のデコボコ加減が絶妙であり、それそのものの文章の特徴は、文体にとってさほど重要ではない。仮に加藤はいね氏が、いわゆる一般的な小説の文章作法を用い、何らかの事象を表現したとして、そこで加藤はいね氏の文体の魅力が落ちるかと言えば、いくひしはそうは思わない。多少の訓練は必要かもしれないが、あきらかに加藤はいね氏の文体には、いまの小説業界に必要とされている文章の飛躍、或いは圧縮、それともある種の欠落、それによる回りくどさが、備わっている。いくひしは思う。それほしい。


73:【文章力】
ほんとうの文才とは、文章を文章と認識させない能力をいう。誰であっても経験があるのではないか。たとえば、文字を読んでいるはずがいつの間にか物語の世界に旅立っていたり、或いは説明書きや解説を読んでいたはずが、何かを自力で閃いたり、創作しているかのような感覚を覚えたりする。そのときひとは、文章を文章として認識しておらず、ある種の体感を得ている。ひとは文字をとおして、文章の向こう側に、言葉以外の何かを見ている。優れた文章は読むのではなく、視るのである。だからして本質的にうつくしい文章とは存在し得ない。あなたが文章を読んでうつくしいと感じるとき、それはけっして文章をうつくしいと感じているわけではない。文章を通して受信した何かしらが、あなたのうちで火花を散らし、あなた自身があなた自身のちからでうつくしさを手にしているのである。ただし例外がひとつある。それは「書」である。文字としての造形そのものにうつくしさを宿す「書」は、文章としての連なりを帯びたとき、まごうことなき、うつくしい文章として確立され得る。ともすれば、物語を紡ぐ小説家にとってうつくしい文章とは、自ら率先して求めるべきものではないのかもしれない。


74:【いくひしを知らないすべてのひとへ】
アイドルはけっしてファンに向かってパフォーマンスをしているわけではない。ファンサービスという言葉があるくらいなのだから、ふだんのパフォーマンスはむしろそれ以外の、手中にない者、信者ではない大多数に向かって行われている。身内ノリに走った時点で、声は内側にしか届かない。波紋はそとへ向かわないかぎり、対消滅しあい、徐々にその外円(外径)を収斂させていく。もっとも、一滴のシズクを水面に落とさないことには波紋そのものが生じない点は押さえておく必要がある。シズクは円周を持たず、ただただ一点に集中する。たったひとりのファンのために向けてささげるなにかしらが、その後に大きな波紋を広げていく。世に問うその一滴が、果たしてつぎに起こる波紋に足るシズクなのか、よくよく考えて繰りだしていきたいものである。


75:【他人の機微】
ひとの気持ちがわからない。そんなのはあたりまえだとひとは言うが、しかしいくひしの場合、本当に、なんでそんなこともわからないの、というレベルで他人のきもちが推し量れなかった。むろんいくひしにも知能というものはあるわけで、それなりの場数を経ることで、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と他人の行動とそれにともなう心理状態を分析し、他人のきもちを類推することが可能になった。ともすれば、他人よりも注意深く(ときに臆病なほどに)身近なひとびとを観察しつづけてきた習慣が、物語を紡ぐ手助けになっているのかもわからない。いくひしは未だに新しい人間関係を構築するのが苦手であり、並大抵以上の努力を要する(そして大概はしっぱいする)。他人のつけている仮面が、いったいどういった模様なのかがぱっと見で判断つけられない(ぱっと見というかじっと見ても判らない)。すべてがすべてモザイク柄なのである。すこしずつすこしずつ、殻を剥がすように、いくひしは他人というものを可視化させていく。じつに疲れる作業である。やはりというべきか、物語を紡ぐ作業にそれはどこか似通っている。


76:【いいひと】
この世にいいひとなんていない。いいひとであろうとする人間がいるだけである。なぜいいひとであろうとするのかについての差はあるだろうし、そこが偽善や腹黒などの蔑称に結びつくか否かの境目であろうが、みないずれにせよ腹にイチモツを抱えて生きている。もし何も抱えておらず、しぜんといいひとに見える行動をとってしまう人間がいるとしたら、そのひとは人としてどこか狂っている。近づかないほうが身のためだ(じつにかわいそうなことである)。


77:【万人の生地】
他人の行動原理が解りすぎる。なぜそんなことを言うのか、なぜそんな行動をとるのかといったその人物の感情線とも呼ぶべき微妙な波紋の揺らぎがつよく伝わるのである。そんなのは勘違いだ、自信過剰野郎と野次のひとつでも飛んできそうなきらいがあるが、いくひしにはわかるんだもん。それはちょうど、犬や猫を眺めるのに似ている。犬や猫のきもちは解らないが、しかしなぜそのような態度をとるのか、或いはなぜそのような仕草をするのかといった行動原理は理解できる。どんな犬や猫にでも共通する仕草や態度というものがあり、それは犬や猫だけにかぎらず人間にも当てはまる単純さ、言い換えれば習性なのかもわからない。いくひしにはどの人間も同じに感じる。同じに見えるわけではないが、どうも犬や猫のように、個々を識別するなにかしらをつよく把握できないようなのである。人間は、人間が思っているほど複雑ではない。ともすればいくひしが単純なだけなのかもわからない。


78:【プロだろ? ねじふせてみろよ】
私の話をしているのだよ、私の。そういう態度はプロとしていただけない。プロはいかなる場であれども相手の土俵に下りていき、そして最高のパフォーマンスを披露せねばなるまい。ただ発揮するだけでは充分ではなく、それを魅せものとして、或いは商品として昇華せねばならないためいつだって四苦八苦するはめになる。王者の貫録など微塵もない。挑戦者たれ。甘ったれるな。と、いくひしは赤玉ポートワインを飲みながらグラスをどんとテーブルに置いた。


79:【答え】
答えがないことを答えにするのは姑息である。今そこにないかもしれないが、ないからこそ、だったらじぶんでひねくりだすしかあるまい。


80:【正義】
触れ、掴み、掲げた瞬間に正義はシャボン玉のようにその枠組みを失う。ならばどうすればいいのか。いくひしは悩んでいる。

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