※日々、搾りだすように言葉を並べる、とっくにすっからかんでからっぽなのに、虚無を砕いて、ふりかけにする。
2731:【ふと我に返る日】
自意識の滲んでない、さらさらの文章を並べてみたい。わいを見てくれ!みたいな声なき声が染みついている文章ばかりを並べてきてしまったんじゃ。万年孤独ウェルカムマンとか自称しておいて、めっちゃ、さびしいー、って顔に書いとるよきみ、みたいな叫んでることにすら気づいていない文章を長々と、本当に長々と並べてきてしまっていたのだね。はずかしい。
2732:【キャラつくるのすこし疲れた】
けっこう前からの悩みというか、引っかかってるじぶんの、それでいいのかなあ、の話をするね。もうこの「いくひ誌。」ですら記事が2700項を超えていて、けっこうな文章量にもなっていて、それなりに日々の積み重ねを否応なく、ぼんやりとではあるものの、実感できてしまえるくらいに言葉を点々と残してきていたのだなあって、ああじぶんはこんなに文章を並べてきたんだなあ、の自己満足を得られそうになる。というか、どことなく得ている部分がある。満足はしていないけれど、不満の穴は徐々に萎んできていて、飢餓感が薄れてきている感じがなくはない。いつでもきょうが初めまして、よーしきょうからゼロから言葉を並べるぞ、の気持ちにはなかなかなれない。いままでやってきたちまちまのうえにあぐらを組んで鼻の穴を大きくしている気がして、嫌な感じがしちゃうのね。理想とは違った方向に自信がついちゃってる気がして、気に食わないと言えば端的で、慢心していると言ってもいいくらいで、ああどうしようね、と思っても、じゃあきょうからまたちゃんと文章のお勉強をしましょうね、文法とはなんぞやから叩きこみましょうね、文学を学びましょうね、とはなかなかならなくて、なぜってだって、そんな真似をしたことはこれまでだっていちどもないからで、なんとなく手に取った小説を読んだら、なんかわからんけど、おもしろー、ってなって、気づいたら見よう見まねで詩をつくって、それが掌編になって、短編になって、気づいたら大巨編になっていて、小説っぽいものをつくるようになっていて、で、いまはこうしてそれ以外の文章も並べていて。何も得ていないのに、何かを得た気になって、いい気になって、満足しはじめちゃってるのが、それでいいのかなあ、とここ数年のあいだにしばしば思うのね。自己満足のために物を語って、言葉を並べてきたはずなのに、いざ満足しそうになってるじぶんに気づいて、ちょっと待てい、となるじぶんの、きみいったい何がしたいん、の気持ちわるさが、こう、なんだろうね、たぶん何かを見失ってしまっている焦燥感にも似ていて、そこが引っかかってしまっているのだと思うのね。で、いま考えついたのが、満足しようとしても満足できなかった時期をいまはとっくに抜けてしまっていて、満足しようとしたらできてしまうからムリヤリに手を抜いて、満足しないようにしよう、とブレーキをかけている時期にこんどは迷いこんでしまっていて、だったらいちど満足しちゃったら?の時期へと突入するのも一つじゃないのかなって思うんだけど、そこんところどう思う? たぶんだけど、本気をだしていないんだと思うのね。そこがいちばんよくないところだと思う。なまけるならなまけるで本気でなまけたらいいんじゃないかな。いっそ五年くらい小説つくるのやめてみたら? もうね、中途半端というか、惰性でつづけてる気がしてる。そう、それ、惰性だよね。なんとなくでもつくれちゃうし、言葉を並べられちゃうから、満足もできず達成感も薄く、どっちつかずのなあなあに陥ってしまっているのじゃないかな。どう、ちがう? いったん日々のノルマとか、まいにち続けるとかやめてみて、ひとつの物語にかかりきりになって、とことん没頭してみるのがよい気がする。没頭できるだけの物語、世界観、そういうものが見つからないから、焦って、隙間の時間を、空いた時間を、なんとなーくの言葉の羅列で埋めて、一時しのぎで、惰性で、過ごしているだけなんじゃないのかなって。違うなら違うでよいけれど、どっちにしても、新作、つくりかけばかり溜めないで、もっと一つずつの物語を楽しみながらつくろうよ。義務感からでも、焦燥感からでもなくてさ。つくりたいからつくろうよ。ね。
2733:【はぁ?】
つくりたいからつくってますけど?怒怒怒
2734:【いまさらだけど】
歴史ってむつかしくない??? ぜんぜん解らんのだけど。
2735:【Qと】
や、言うても簡単なことなんてなんもないので、いくひしさんにとってはもうもう息をするだけでもいっぱいいっぱいで、これは本当に嘘偽りなくときどき、息ってどうやってするのだっけ、と混乱する。コンビニとかお店のお会計のときとか、「あれ? いまじぶん息してる?」ってなる。呼吸すらむつかしいのに勉強のあれやこれやがむつかしくないわけがない。料理だって、「お塩小さじ三杯かなるほどなぁ(どさー)」って具合だし、ひととしゃべるのだって、「あ、あ、あ、ちゃす(やあやあ、我こそはいくびしまんでござる!)」てな具合で、頭のなかと現実がリンクしない。ちぐはぐすぎて、噛みあわなくて、なんでうまくいかないのか解らない。学問うんぬんの次元の話ではなく、生きるのがむつかしすぎる。ぜんぜん話変わるけど、いくひしさんぬいぐるみが好きなんだよね。でも持ってなくて、お店とか、ツイッターとかで、ぬいぐるみ見ると、いいなー、かわいいなー、ほしいなー、ってなる。そう、かわいいものがじつは好きなのだ。でもたぶん、ぬいぐるみさんのほうでは、「いくひしさんは嫌だ、いくひしさんは嫌だ、いくひしさんは嫌だ、グリフェンドール!!!」みたいにもっとかわいいのが似合うひとにもらわれたいと思っていそうだし、じっさいかわいいひとにもらわれたほうがいい気がするので、おまえかわいいな、と心のなかで唱えて、かわいいぞ、の頷きを一つ置いて別れるのだ。かわいいのが好きだけど、かわいくなりたいわけではないんだな。なるならかっこよくなりたい。でもかわいいのも好きだ。ルッキズムとか見た目の差別との兼ね合いで、ときどきだけれども、かわいいのを好き、という感情に何かこう、よこしまなヨドミのようなもの、罪悪感みたいなのを覚えるのだけれど、これはいくひしさんだけじゃろか。かわいいのは好きだけれども、かわいいひとは、じつはそんなに好きではない。というか、ひとがそんなに好きではない。写真とか動画とか、そういう間接的なのはよいのだけれど、リアルがなんかダメなんだよね。リアルはちょっとリアルすぎる。情報量が多い。獣との違いがしょうじきよく解からない。差別主義者でしょ? 話がまた逸れてしまうのだけれど、情報量を落とすと、獣みが薄れるから、デフォルメされた絵とかすごい落ち着くんだよね。完成された絵よりも、途中の絵のほうが好きだったりするのも、そこに関係しているのかもしれない。それがよいわるいの話ではなくね。いくひしさんの感性が乏しくて、情報処理能力が低い、という話です(それがわるいとは思っていない)。今宵も懲りずに長々ととりとめのないことを並べてしまった。要点をまとめれば、生きるのはむつかしいってことと、かわいいのが好きってことになるのかな。美しいものにもかわいいはあるし、醜いものにもかわいいはある。かわいいがないものはないと言ってもよいかもしれない。何を見たらかわいいの気持ちを抱けるのかがひとそれぞれ違っているだけの話でね。人間とは何か、という問いに答えがもしあるとすれば、何かを知覚してかわいいと思えるもの、としてもよいかもしれない。好きとかわいいは似ているけれども、かわいいから嫌いは矛盾しないので、好きとかわいいは同じではない。かわいいけど汚いと、汚いけどかわいい、も同じではないから、ややこしい。かわいいとは何か、を論じるだけでもたぶん一つの学問を築けるくらいの知識が必要な気がする。いくひしさんが知らないだけで、かわいいを研究しているひとは世界中でざっと一万人くらいはいるんじゃないかな。もっといるかな。いるだろうな。ちいさい子供が母親のことを、かわいい、と言っているのを稀に見掛ける。あれは、母親が子供にかわいいと言っているから学習したのか、それとも人間は生まれたときからかわいいが何かを知っているのか、どっちだろうね。無垢な子どもは残酷だけれど、いったいいつから「かわいい」の概念を獲得するのだろう。元からある本能に、かわいいの概念を上書きしているだけな気もするけれど、定かではない。赤子はどうして母親の乳首を吸いたがるのか、にも通じていそうだし、まったく関係ないかもしれない。乳首はかわいいかというと、あんまりかわいくはない。じっくり見れば見るほどかわいくない。でも、ちくび、という言葉の響きはかわいい気がする。言葉は情報が、ざっくり切り落とされているから好きだ。飛び飛びなので、言葉はきっとデジタルなのだろうね。でも言葉はあまねくかわいいかというと、そうでもない。かわいいは、好きよりも汎用性が高いのに、局所的なのだ。例外はないのに限定されている。矛盾があるから、いくひしさんは「かわいい」が好きなのかもしれない。定かではない。
2736:【いいひとのフリをするのなんて簡単】
経験上、傷ついてるときにひとはじぶんが傷ついているとは気づけないので、何か環境が大きく変わったのに、のほほんと日々を過ごしているな、と感じるときは、どこか大きくじぶんが傷ついているかもしれない、とすこしだけじぶんを労わるように、負担を軽くするように、休むようにするとよいと思う。誰かが困っているときにたいへんな思いをしながらその誰かのために動けるひとは、それはそれでつらいだろうし、しんどいが、それとはまた違ったしんどさが、何もできないひとにも蓄積されていく。誰かが困っているのにじぶんは何もできない、という無力感は、けっこうにひとの心を蝕んでいく。だからときには、祈りとか、感謝とか、そういうなにかしらのカタチで、無力ではないのだ、とじぶんを誤魔化すことは、一時的には精神の安定という意味で、有効に思える。ただし、そこに依存してしまうとやっぱりすこし危うくて、ある側面ではじぶんは無力であり非力である事実、は認めたほうが好ましい。傷ついているじぶんを認めなければ、傷を癒すことができないこととそれは似た理屈を伴っている。なにより、この原理を知っていてもどうしようもない傷というのもあって、ただただ日々傷つきつづけるしかない時期というのもある。そういうときに、虚構や娯楽に身を投じ、現実から目を背けていられれば、傷の悪化や進行をゆっくりにできる。しかしこれもまた一時しのぎでしかない点には留意されたい。けっきょくのところ、傷つくというのは、変化しているということなのだ。その変化に適応していくしかない。それは迎合するという意味ではない。傷つくかもしれないことを前提として過ごしていくしかない、という意味だ。ときには乗り越えて、元の状態に戻ることも可能だろう。それでもまた似たような傷を受けてしまえば、やはりひとは傷つくのだ。避けられるようならば避ければよいが、できれば対策を打っておきたいものだ。一度あることは三度ある。確率の問題としてやはり野放しにしておくのは利口とは呼べない。閑話休題。抽象的な言葉の羅列はこのように、個人の内面に言及しているようで、どことなく社会全体のことにもあてはまって聞こえたりする。ぼんやりと、なんとなくの、どうとでも捉えられる言動には注意しておきたいものである。往々にして便利なものには毒がある。かといって毒があるから便利とはかぎらない。何か、深いことを言っているなあ、と思ったりしていないでしょうね。ぜんぜんだよ。金魚も溺れる浅さだよ。騙されたらいかんよ。(ちょっと弱音を吐いてみせたくらいで気を許すんじゃないよ。演技に決まってるだろ)
2737:【わるぶるのはもっと簡単】
どっちにしてもつづけるのが一番むつかしい。それは、生き残りつづけるのがむつかしいのと似た理屈を伴っている。(この言い回し、気に入ってしまった。もう使わんけど)
2738:【スイカに塩にはなれなくて】
私の言葉は誰も救わない。傷つける余白ばかりを広げつづけて、黙っていられればそれがいいのに、どうしてだろうね、無駄だと判っていても、誰かの何かにあいた間隙にぴったりの破片がないかと、無数のガラクタを並べつづける、傷口にぬったくった塩や辛子にならないとよいけど。
2739:【悲しくないのは冷たいの?】
身内が亡くなっても悲しくはないのだけど、残されたひとたちがその死別を悲しんでいる姿を見ると悲しくなる。たぶんだけど、人そのものや、命そのものを尊いとは心の底では思っていないのだ。そのひとが何を感じ、何を尊び、何を考え、行うのか、或いは行わないのか、に琴線が触れ、感情が動かされる。当たりまえと言えば当たりまえかもしれない。人が死んで悲しいのは、そのひとの生みだしただろう影響の波紋が、未来が、金輪際途切れてしまうからなのだろうね。だから影響を感じつづけていられると、悲しさが薄れるのだ。たぶん、そのひとが死んで悲しくなれないのは、そのひとの残した影響が消えてなくなったわけではないと心のどこかで考えているからかもしれない。影響さえ残ればそれでいいと考えているのかな。そう考えることは、命を軽んじることと同じなのかな。本当のところがどうなのかは解らない。自信がない。本当はほかのひとたちみたいに悲しめたほうがよいのかな。それがよいのかも、よくは解らないんだ。
2740:【め】
ひとを傷つけてはいけないと言った口で、そんなにいともたやすくひとを傷つけていて、どうして平気なの、と思うこの口ですら、平然とひとを傷つけている現実に、嫌気がさして、魔がさして、堂々巡りで、逃げだしたくなるじぶんだけの静かなる部屋に、孤独の殻に。誰も傷つけないとか無理じゃない? ひとを傷つけたいわけではないし、ときどきは傷つけたくもなるこのどうしようもない自家撞着の塊である事実から目を逸らしたくなる、孤独が好きなのはきっと、誰かを傷つけてしまうからとか、じぶんが傷つきたくないからとかじゃなく、単に見たくないものから目を背けていたいだけなのだ、いいや、それすら嘘で、ただ一方的に覗き見ていたいだけなのだ、あなたが傷ついている姿を、そして私が傷つけている事実を、或いは、じぶんが傷ついている現実、それともそこから目を背けている現実を、ただ一方的に覗き見ていたいだけなのだ。
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参照:いくひ誌。【1251~1260】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885623277