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いくひ誌。【2041~2050】

※日々、他人の労力を貪っている。


2041:【無心とは無ではない】
考えないようにすることと、考えを深めることは矛盾しない。考えを深めるためにはむしろ、考えすぎないようにする必要すらある。と、いうよりも、考えを深めるとは、これまでの筋道の枠外へと飛びだしたり、掘り進めたりする冒険に似ており、これまで培っていた考え方に囚われないようにしなければならない。同時に、これまで辿ってきた考え方を助走として加速をつけたり、進行方向を定めたりしなくてはならず、内に構築した回路を放棄することとはまた違っている。考えないようにするとは、振りかえらないようにするという意味でもあり、振りかえらずともしぜんと身体に滲みだすくらいに馴染ませておきましょうといった文脈がそこには省略されている。考えずに済むくらいに極めておく。だからこそ、つぎの段階へと旅立つことができる。考えないようにすることと、考えを深めることは矛盾しないのである。


2042:【意味をつける意味とは】
あらゆる分野の表現において、神は細部に宿る、が基本であり極意である、といったニュアンスの言説を目にする機会が比較的多く感じられる。否定はしない。そのとおりだとも思う。だいたい八割はそこを大枠(フレーム)として定めておけば、どんな失敗もつぎへの糧となるように思われる。反面、意味を付与することに囚われすぎて却って不自由さにがんじがらめになってしまう懸念は挿しておくのが親切心というものであるような気がしている。テーマを定めよ、といった言説も同様の文脈で語られがちであるが、そもそも風や山や川や海に意味などはない。自然をテーマにするとなれば、必然、意味などない、といった「無」へと行き着く。そこに意味を見出すのは人間であり、それを観測する者たちであり、ひるがえっては、テーマや意味とは人間というフィルターを通して歪曲された世界観のことと言えるはずだ。風をモチーフにした、といったとき、おおむねその真意は、風を観察して受けた印象をカタチにしてみました、といったところであり、風そのものを表していることは極めて稀だと言っていい。仮に、真実「風」を表現しようとした者があったならば、そこには何の意味も読み取れないだろう(汲みとることは可能だろうが)。日々の生活で人が「風」を認識する瞬間などそう多くはない。世に有り触れた風なる現象のほぼ十割は、意識されることなく、人々の認知世界のそとをただ流れている。だからといって、意味はなくていい、と主張したいわけではない。表現が人間の営みの一つであるかぎり、そして意味が人間の見いだせる【世界】との境界線であるかぎり、表現や意味もまた、人間それ自体を浮き彫りにする輪郭として、薄膜として、世界観として、個々の差異を越えて、人々を『ひとつの世界』に繋ぎとめていくはずだ。ただし、表現や意味そのものに、価値があると驕らない(錯覚しない)ようにするのは、これもまた一つのフレーム(視点)として意識しておいて損はないように思われる。得をするか否かは定かではないが、すくなくとも、取り返しのつかない失敗をいくつか回避することに繋がるのではないか、とこれもまた意味ありげに着飾って、とくに意味のない文章を並べておこう。補足として――定める視点(フレーム)は常に一つでなくてよい(ときにはひとつに絞ったほうがよいこともあり、だからこそ、視点を自在にしぼったりひろげたりできるようになる術を求めたいところではあるのだが)。主観、俯瞰、宇宙観、宗教観、学問や文化、そのほかにも、一人の人間のなかに多様な視点が埋もれ、重なっており、そのときどき、場面場面によって、世界観の色合いを変えている。そして、何かを表現するとき、考えを深めるときには、その色合いが重なりあうことなく、独立して、かつ同時に散在し、個を世界へと回帰させ、同調させ得る。そこのところへ何度も旅立てる者が、表現にとり憑かれ、表現を喰らい、人々の形成する『ひとつの世界』から乖離しては、何度も潜ることで、かろうじて浮世と繋がりつづけていくのだろう。それがしあわせなことかどうかは、当人にしか判断つかないことであり、ともすれば、当人にすら与り知れない不毛そのものなのかもしれない。不毛は無意味とよく似ている。似ているからといって、何がどうなるわけでもないのだが。


2043:【へたっぴ】
物語の圧縮の仕方をいろいろ試してきたのだけれど、手抜きとの違いが分からないのが大半で、要するにヘタクソなのだなぁ。削った分の情報でできた空白でリズムをとりたいんだけど、それがむつかしい。いったん圧縮するのはストップして、空白でリズムをつくるのもやめて、ちゃんとメロディをていねいに拾う練習をしたほうがよいのかもしれない。でも退屈なんだよなぁ。まるで既製品の焼き増しみたいになってしまう。文芸でダブステップ(ノイズミュージック系)は奏でられんのかなぁ。情報量の濃淡でもリズムをとりたいし、でもいまはただのデコボコで、違和感しかない。むつかしい。贅沢な悩みだ。


2044:【結果とはいつの時点の?】
SNSを眺めているとおおよそ六割方の人間が、「結果がだいじ、結果がだいじ」と唱えているように概観できる。結果の内訳は人それぞれで、お金だったり、フォロワー数だったり、売上だったり、反響だったり、感想だったり、人の役にたてるか否かだったり、とかく目的を達成できるかどうかが重要だと考え、そのことに囚われているように見受けられる。まず抜けている視点として、いったいそれはいつの時点の結果を示していますか、ということはいちど訊ねてみたい気もする。目的を達成できたからといって成功するわけではないし、しあわせになれるともかぎらない。目のまえの一時的な利益を得たがために不幸になった話など世に有り触れていて、さっこん、虚構でもとんと見かけなくなった題材だ。目的を達成するために尽力する。よろしいのではないでしょうか。ただ、なんのためにその目的を達成するのか、目的の目的くらいは定めておいたほうが身のためだと思うのだが、あなたはどう思いますか? 重視すべきは、より大枠の目的であり、そのためにはよりちいさな目的を諦めざるを得なくなるときもあるはずだ。この場合、ちいさいほうの目的を目標と言い換えるとしっくりくる。大枠のほうは理念と言い換えてもよい。信念とすると、やや弱いが、目のまえの利益よりも理想を優先する姿勢を信念と呼ぶのであれば、信念でもよいだろう。結果はだいじかもしれないが、なんのための結果なのかは、じぶんがどの方角に進んでいるのかを確認する意味合いも兼ねて、ときおり自問する習慣をつけておくとより大きな目的に近づけるのでは、という気がしている。目のまえの目的を達成したところで人生はつづくのだ(死なぬかぎり)。結果を優先したがために失ってしまう何かを見落とさず、終わらぬ人生のさきに現れる、無数のほかの目的と見比べ、目のまえの利益が「トータルでの損失」と本当に釣りあうのか、ははやりというべきか、ときおり想像でもよいので計っておくとより好ましい結果を得られる確率をあげられるのではないだろうか。SNSを眺めていると、まるでみなじぶんに呪いをかけるみたいに「結果がだいじ、結果がだいじ」と口を揃え、唱えて映り、なんだか余裕がないのだなぁ、と可哀そうに思ってしまう。結果はすでにでているし、その積み重ねがいまであるのだから、ひとまずだいじな結果であるところのいまを、もっとだいじにしてあげたらよいのにな、それともいまをだいじにできないから、もっとよい「いま」を求めて、そう言っているのかな、だとしたら余計に可哀そうだな、と他人事のように漏らして、本日はここで打鍵をやめておこう。もちろんいくひしさんに余裕なんてないし、満足した結果など得られたためしはいちどもないが、それはそれとして、だいじでない「いま」をそれなりに贅沢に、無駄に浪費し、味わっている。結果よりもだいじなものなどいくらでもある。なぜなら人は、正しく目的を設定できていることのほうが稀だからだ。あなたが目のまえに掲げた目的はどれだけしあわせにちかいですか?


2045:【美学に穴をあけましょう】
いくひしに美学なんてものはないし、信念なんてものもない。損をしないと解かれば人を傷つけることも厭わないクズである。ただし人を傷つけることはどんな場合であれ、損をすると決まっているので極力、人や物を傷つけたくないなぁ、と思っているだけの話だ。じっさい、いまこうしていくひしが孤独ゴッコに興じているのも、元を辿れば、誰かを傷つけてしまった過去があるからかもしれない。他人ばかりに苦労を強い、じぶんは高みの見物で、大上段から偉そうに説教を垂れては悦に浸っている。そこに美学などあるはずもないし、あると言い張るのならば、その瞬間にこの世の美学の総じては汚泥と化すだろう。いくひしはクズの鑑であり、醜く、ゆがみ、あさましい。仮に長所があるとすれば、クズの鑑が高じて、醜悪の生き字引きとして、七つの大罪の見本として、さまざまな悪意の目録として、活用可能な一点のみを挙げられる。とうぜんのごとく怠け者であるいくひしであるが、ときおり目を丸くするほどの生真面目さを発揮することもある。なぜがんばるのか、と褒める準備をしながら訊ねれば、クズを量産したいのです、とせっせとシャベルで土を掘り進める。「ごぼう抜きがすきなのです。最下層の底の底にいて、名実ともにクズの名を不動のものとしておいてから、ときおり気泡のように浮上すれば、クズのなかのクズ以下をたくさん量産できるのです」いくひしは歌うように口にする。世界中をクズで埋め尽くしてやるのです、と積み木に夢中な幼子のような口ぶりで、せっせとシャベルを土に突き立てる。なぜ土を掘っているの、と水を向ければ、地球に穴をあけてやるのです、と一向に手を止める様子もなく、素朴に、淡々と、口ずさむ。地球に穴をあけてやるのです。クズでこの世を埋め尽くすのです。まるで、いまはまだクズがじぶん一人きりしかないかのように、あたかも仲間がほしくて癇癪を起こすガキンチョのように、いくひしはせっせと土を掘りおこす。誰より下層にいられるように。誰より高い山をこさえるかのごとく。汗を拭うことも忘れ、一心不乱に、腐ることなくひたむきに。しかしいくひしに、美学なんてものはなく、そこにあるのは底なしの――。


2046:【根を張る因子は深く眠る】
一時期、インフルエンザの薬の副作用で患者さんが部屋の窓から飛びだして亡くなったり、奇怪な行動をとる可能性が指摘されていたのを憶えておられる方はいらっしゃるだろうか。薬の副作用には気をつけましょうね、との啓蒙がずいぶんTVを通じてなされていたように記憶している。が、さいきんでは、どうやらインフルエンザ患者の奇怪な行動は、件の薬が原因ではなく、インフルエンザという病状の一種である可能性が高いことが指摘されている。2019年現在において、通説としてはむしろそちらが主流だという話だ(じっさいがどうかは不明であり、いまなお断定されてはいない)。こうした誤解は、相関関係と因果関係が一見しただけでは区別のつかないことが要因として挙げられる。極論、死亡した人間のほぼ百パーセントが一週間以内に水分を摂っていた、みたいな話になる(なかには真実、水を飲んだことが死因となる者もいるだろうが)。何が因子であるかの断定には、念入りな調査と比較が欠かせない。これはたとえば、人間関係にもあてはまる。誰かと険悪な関係になってしまった瞬間に、急に私生活の何もかもがうまくいかなくなった。きっとアイツが裏で何かやったに違いない。そう思いこみたい気持ちは理解できるが、ことはそう単純ではないし、証拠がなければ断定もできない。裁判において、疑わしきは罰せずの原則が定着した背景には、人間の根本的な性質が関係している。人間は往々にして因果関係を見誤り、判断を間違ってしまう。そういった欠陥が備わっていることをまずは認め、揺るがぬ証拠を集めてから、判断をくだしましょう、それがもっとも禍根を残さずに問題を処理できる術だ、とむかしの人々は数々の失敗から学び、結論づけてきた。とはいえこれは裁判などの厳格なルールの敷かれた上でのとり決めであり、私生活ではこうもいかない。安易な「それっぽさ」に食いつき、人々はいともたやすく、因果関係を見誤る。何かを「問題の因子」と見做す前に、まずはよく観察してみることがだいじだろう。長期的に眺めることでしか浮き上がってこない線があるものだ。その線が、自身の死活問題の因子となり果てるようであるならば、これは何かしら対処をせねばならぬだろう。ただ、対処することで余計に状況が悪化してしまうこともあり得る。そうならぬように、そもそも悪因を抱えこまないようにすることが優先されるが、これはほとんど不可能だ。人はいずれ死ぬ、と同じくらいの普遍性がある。であるならば、問題の因子を見つけたら放置せず、その因子が深く根を張る前に対処しておくのが有効であると言えそうだ。


2047:【読者としてだとそこそこ謙虚?】
さいきんは途中で読むのがやめられなくなるほどおもしろい本を立てつづけに読んでいて、充実した日々をすごしております。渡辺佑基さんの「進化の法則は北極のサメが知っていた」はマクドナルドで読みはじめたら、読み終わるまで席を立てなくなってしまったくらいで、迷惑なお客さんになってしまったかもしれなくて、店員さん、ほかのお客さん、ごめんなさい。でも多めに注文(800円くらいだけど)してたので大目に見てください。「進化の法則~~」は、エッセイと小論のあいだみたいな生物学の話ではあるけれど、やさしく噛み砕いた表現が多く、堅苦しくならないようにクスッとくるエピソードが適度にちりばめられていて、短編小説として読んでも十二分に楽しめる「物の語り」になっています。読んでいるあいだに連想していたのは、筒井康隆さんの連作短編小説「旅のラゴス」です。久しぶりに、こんな小説をつくれたらなぁ、と(小説ではないのですが)思える物語でした。渡辺佑基さん、おもしろい物語をありがとうございます。それから初めましての作家さんの本で、千早茜さんの「夜に啼く鳥は」が、ものすごくいくひしにしっくりくる文体で、恒川光太郎さん以来の、これ欲しいーーー!!!がありました。いくひし、あんな文章で物語を切り取ってみたいです。ほかにも小説を発表されているようなので、文庫化してある分は書店さんで探してまとめて買ってこようと思います。買います。決定事項です。作家買いしたくなる作家さんに出会えるのは本当にうれしいです。小説にかぎっては、誰にお礼を言えばよいのか分からないのですが、分からないので、森羅万象に向けてお礼を言っておきますね。森羅万象、この世のすべてにありがとう。すばらしい表現を届けてくれてありがとう。生んでくれてありがとう。ありがとう、ありがとう、そしてありがとう。よき出会いは、よき環境があってこそだと思います。もし劣悪な環境でもよき出会いがあったとすれば、それは出会った相手の方そのものが、よき環境として、あなたの世界を押し広げてくれることでしょう。そしていくひしにとって、そういう出会いは、物語を通してであることが多いです。一食分のお値段で、ステキな出会いを体験できるなんてこんなにも恐縮で、ラッキーなことはそうそう滅多にあるものではありません。本当にありがたいです。ほかにも新しく五千円分、本を購入してきたので、まずはそちらのほうを読み進めていこうと思います(読了していない本がすでに山盛りですが、まずは冒頭だけでも読んで、新しい息吹を感じるのです。贅沢なひとときです。テーブルに並べられたご馳走をぜんぶひと口ずつ食べる、みたいな)。以上、2019年5月31日、読者としてのいくひしまんでした。


2048:【超短編15『薔薇の香りはいっそう甘く、面影』】
驚いたことに、年々、歳を重ねるごとに我が子はアカネさんに似てきた。アカネさんの弟と結婚し、そのあいだにできた我が子であるのだから、必然、あの娘はアカネさんと血縁関係にあり、端的にアカネさんの姪にあたるのだから、似ていてふしぎではないのだが、あの娘は明らかに、母である私よりもアカネさんに似ていた。夫にそれとなく水を向けてみると、そうかな、となんともにべもない返事があるだけで、まあ俺も姉さんもお父さん似だからな、とこの話はぶつ切りに終わった。あの娘はアカネさんと会ったことはないはずで、なにしろアカネさんはいまの私よりもずっと若い年齢のときに亡くなっていて、だから私の記憶にあるアカネさんと思春期を脱して色気づいてきた我が娘の歳格好が似通っていても、それは世の少女たちを眺めてみればしぜんなことで、アカネさんにのみ似ていると思いあがっている私の感覚がまず以って的外れなのかもしれなかった。じぶんにそう言い聞かせてはみるものの、日増しに我が娘は、あの当時のアカネさんに、私にとって特別だったあのひとに、二つの影をぴたりと重ねあわせるみたいに似てくるのだった。面影、と私はつぶやく。あの娘は、しずかに本を読んでいたのに、わざわざ顔をあげて、こちらを見た。「なに?」撫でられる寸前の猫みたいな眼差しが私の仮面にヒビを走らせる。ううん、と何でもないように言いつくろい、彼女の読んでいる古典の部類に入るだろう、ひとむかし前の大衆小説に視軸をあてる。「それどうしたの。お父さんの?」また書斎に忍び込んだのか、とおもしろ半分に咎める。「かってにいじくり回すと怒られるよ」「許可はとってますよー」ひざを抱えて座り直し、彼女はちいさなうさぎの置物のようになって、またしずかに本の世界へと旅立っていく。アカネさんも本が好きなひとだった。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889809815


2049:【凪を受けて飛ぶ】
いくひしさんは小説が上手ではないのだが、つくれてしまうのでつくっている。それはたとえば、飛ぶのが上手でない鳥がそれでも飛べてしまうから、地面を歩くよりはまあ、飛んでおくか、みたいな感じだ。だからとくべつ、「飛ぶの上手じゃないね」と言われても、「そうじゃが?」となんでそんなことをわざわざ教えてくれるのだろう、親切なひとがいたものだ、とありがたく思うよりほかはない。ただときおり、それは鳥の飛び方じゃないね、みたいに言ってくるひともいて、そういうときは、ふうん、じゃあいくひしは鳥じゃないのかもしれないですね、とうなずいておく。いくひしさんはいくひしさんだ。べつに鳥じゃなくていいし、そもそも上手に飛びたいと思ったことはない。ただ、じぶんの思いどおりに自由自在に飛びたいとは思っていて、だから飛ぶことをやめたりはしないのだ。ときどき、飛行レースみたいのに参加したりもするけれど、それは単にお祭りを覗いてみるかな、といった感覚で、どうしても優勝したい、と思うわけではない。ただ、でるからには優勝を狙いはするけれども、優勝しなくてもだからどうなるわけでもなく、それは裏から言えば、優勝したところで、それもまただからどうなるわけでもないのだ。いくひしさんはいくひしさんの思うように、飛びたいように飛ぶ。いまのところいくひしさんは順調に飛びつづけている。それは、上手だとか下手だとか、ひとからどう評価されるかとか、そういう上昇気流とはまたべつの風を受けて、凪のように、ながく、ひゅるひゅると飛んでいる。もっともっと、まだまだ自由自在、融通無碍には程遠いが、それはそれで旅が終わらずにいられるのは、ありがたいことである。死ぬまで飛びつづけて、そのまま死んでいく。そういう人生であれたら感慨無量である。


2050:【将来が楽しみ】
二十年後がたのしみだなぁ。いくひしさんはそのときもいくひしさんでいられるだろうか。変わらずに、変わりつづけていられるだろうか。いまよりさらに落ちぶれていたら、それはとても愉快だなって。


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参照:いくひ誌。【1251~1260】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885623277

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