※日々、底なしの穴を落ちつづける、ようやく底にぶつかれると思った矢先に、また穴の縁から落下している、誰かに背中を押されるでもなしに、ふしぎなことにどこまでも深く。
2051:【ムテキ】
孤独の何がステキかって、敵がいないのがよいと思うのだ。いくひしさんに味方はいないけれども、敵もいないのだ。ステキだと思わんかね。そうだろう、そうだろう。ステキなのだよ。
2052:【失敗した】
どうしたら××ができるようになりますか、とすごい年下のコに言われて、どうしたらよいだろうね、と焦った結果、散々口出ししておいて、最後に、ごめんさっきのぜんぶ忘れて、という最悪のムーブをかましてしまった。相手のコの、「え!?」って顔が頭から離れない。そりゃ「え!?」ってなりますわ。本当に申し訳ないことをしてしまった。まずは、「何をしたいのか(どうなりたいのか)」と「どこがダメだと思うのか」を訊くべきだった。「目標」と「改善点」を最初に訊いておいて、どこまで理解できているのかの把握をしてから助言なり、指摘なりをするのが相手のコにとってはベストだった気がする。感触としては、相手のコはきちんとじぶんの改善点を把握していたし、むしろ天才とじぶんを比較しすぎていて、なかなか物にならないじぶんに焦りを感じているようだったから、その方向性で間違ってないよ、と背中を押してあげるだけで充分だったように思う。きちんとじぶんで「なぜできないのか」を考えようとしていたし、客観的にじぶんの力量を計れていたようだった。何より「どうすればできるようになるのか」を考えつつ、対策をとっていた。充分すぎるほど、いまできることを実践している。いくひしにできることは何もない。しかし、あまりに素直に周りの人の言うことを真に受けてしまう従順さがあるためにそのコは、人によって助言が違うことに悩んでいる様子だった。きみにはきみの身体に合った方法論があるし、それは色々試しながらじぶんで見つけていくしかないんだよ、ということを短い時間で伝えるにはどうしたらよかっただろう。すくなくとも、「いますぐにできるようにはならないけれど」「きみの進んでいる方向性は間違っていないよ」と伝えられたらよかったな、とじぶんの至らなさに落ちこんでしまった。人に頼られ慣れていないから、こういうときに非力さというか、未熟さを悔やむ。誰とも繋がりたくない。頼られるのがうれしく感じてしまう飢えた自尊心に嫌気がさすし、何より、相手の期待に応えられない己が未熟さを直視したくない。(それはそれとして、いまの若いコ――十代のコ――は感心するほど礼儀正しい。こちらが見習わなきゃいけないほどで、びっくりするほどみんなよいコなのだよなぁ。いくひしはじぶんが恥ずかしい)
2053:【深い意味はない】
イジメについて考えてみよう。イジメにおいて加害者がわるいのは言うまでもない。では被害者にまったく瑕疵がないかと言えば、そんなことはないだろう。とはいえ、仮に瑕疵があったとしても、イジメてよい理由にはならない。どんな場合であれイジメはよろしくない。人を殺してはいけないのと同じ理屈だ(もちろん理屈でよろしくないことでも、ときにはそれを選択し、不承不承、許容しなければならない場面もあるはずだ。杓子定規にならず、臨機応変に考え、対処しよう)。では、その周囲の人間はどうだろう。イジメを見て見ぬ振りをするのはイジメているのと大差ない、という理屈はやや暴論に思える。ただし、見て見ぬ振りをしつづければ、やはりそれはイジメを肯定し、それをよし、と見做していたと判断されても致し方あるまい。これはたとえば大きな組織であれば、自浄作用がない、とのマイナス評価をくだされる。組織内部で権力に物を言わせて、物言えぬ弱者相手に理不尽な仕打ちをしている者があるならば、その周囲の者がどうにかしなければならない。できないのであれば外部の第三者機関に判断を委ねる方法もある。自浄作用のない組織は腐敗する。腐敗しているからこそ自浄作用が働かないのだ、との理屈も成り立つかもしれない。どちらが先かは、これも時と場合によるだろう。ならばどうすればよいのか。そのまま腐り落ちるか、それとも腐った部分を切り落とすか。可能であれば、腐る前にどうにかしたほうがよいのだが、それもむつかしいのだろう。いずれにせよ、気づいた時点でどうにか対処と対策をたて、実行したほうが、長期的に見て大きな損失を免れるはずだ(いたずらに踏みつけた尻尾がオロチのものだったらどうするつもりなのだろう)。健闘(検討)を祈る。
2054:【超短編16『非がなくとも煙は』】
明らかな異常だった。最初に思ったのは、見間違いか、勘違いかもしれない、でじぶんの認知能力よりも、施設内の検知システムの性能の高さを信用しようとした。じぶんがこうして異常に気づく前の段階で、精密機械であるところの3Dで厳格な測定が行われているはずだ。だから目のまえのこのエンジン部品に異常があるはずがないのだ。しかし部品は、僅かに穴の位置がずれていた。一つではない。すべての穴の位置が、通常よりコンマ何ミリか右にずれている。おそらくじぶんでなければ気づけなかっただろう、とアスカは徐々に動悸が大きくなっていくのを感じた。まずは直属の上司に通達した。上司は半信半疑といった表情で話を聞いていたが、3D計測器の数値に異常があることを確認するとすぐさま現場の最高責任者を引き連れ戻ってきた。ラインは異常を知らせた段階でストップしており、つぎつぎに各セクターの管理者たちが集まってくる。(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889848106)
2055:【無視推奨】
いくひしさんに正義などはない。いつでも悪の側に足を一歩踏み入れている。成敗してくれて構わない。罰を与えて至極当然。関わらないのが賢明だ。
2056:【ブラシの未来】
妄想でしかないが、あと二十年もしないうちに、「マンガ」と「小説」なら「マンガ」のほうが描きやすい時代がやってくると想像している。お絵描きソフトのブラシ機能が充実していけば、判子を捺して遊ぶように誰でも手軽に高品質な「ひとコマ」をつくれるようになる。絵のオリジナル性は発揮できないが、ストーリーさえおもしろければ、「高品質な判子絵」で十二分におもしろいマンガがつくれるようになるはずだ(マンガを描くのは簡単だ、という意味ではないですよ)。とすると、マンガの描き手は増加し、並行してオリジナルのストーリーの需要が拡大していくことが予想できる。絵の質で勝負ができなくなればストーリーの質や特異性で勝負するよりほかはなくなる。そうしたときに需要が高くなるのは、ほかに類のない型破りな作品であり、似たような作品が大量にある「ジャンルモノ」は相対的に需要がさがっていくのではないか、とまったくのトンチンカンなことを言って、きょうの「いくひ誌。」としておこう。いくひしさんはだいたい何もせずとも五年後くらいに流行るものを先取りしている傾向にあり、また意識的に二十年後の社会を想定して物語をつむいでいる。そしてつねに百年後の読者にも届くように工夫しているので(たとえば時代が経過するにしたがい説明がいらなくなるだろうと思われる文脈は省略するし、あべこべにいまは説明せずとも固有名詞一つで伝わる単語も、敢えて言葉を費やして表現したりしている。とはいえ充分ではないが)、いま読まれないのも仕方ないな、と思っている。
2057:【仕方ない?】
ぷぷ。そう思いこまないと心が折れちゃいそうなんだね、かわいそ。
2058:【超短編17『椎名さんのヌイグルミ』】
違法なことだとは承知していた。けれどどうしても表沙汰にできなかった。彼女は心療内科の患者さんで、一週間ごとに処方箋をもらいにやってくる。ぼくは彼女から保険証を受け取り、勘定をして、お釣りといっしょに処方箋を差しだすのだが、問題は彼女の保険証がおそらく彼女自身のものではない点にある。身分詐称は犯罪だ。それはぼくも理解している。しかし彼女、椎名(しいな)マズさんは、保険に入れないほど貧しい生活を送っているだろうことは、そのみすぼらしい装いから容易に窺い知ることができた。歳はぼくの兄と同じくらいだろうか。ぼくは兄とそんなに歳が離れていないので、椎名さんとはほとんど同い年と言ってよいのかもしれない。ひょっとしたら彼女はもっと若いのかもしれないが、細い指とカサカサの肌はそれなりの齢を感じさせた。先輩の事務員さんからは飲み会の席などで、患者さんのなかにはいろんなひとがいることを聞いていた。たとえば、定期的にトイレからトイレットペーパーをごっそり持ち帰って病院の財政を圧迫してしまうひと、明らかに刃物で切断された小指を持って「縫ってくれ」の一点張りで言うことを聞いてくれないひと、お金が払えないと言って自家栽培の野菜を風呂敷につつみ抱えてやってくるひと、なぜか腕に(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889863204)
2059:【中身のない戯言】
親がクズでも子に責任はないのだ。なのに、子がクズだと親の責任になるのだ。しかしどんな親でも誰かの子であり、ならば責任はどこまでも上部にさかのぼり、けっきょくどこにも責任を求めることはできなくなる。責任とはけっきょく、その場をなあなあにおさめるための、椅子取りゲームのようなものなのだろう。椅子に座れなかった者に責任を押しつけ、ほかのものはのうのうと日々を過ごしていく。責任の所在を求める行為そのものが、理不尽であり、不公平だと呼べそうだ。しかし、責任を追及せずにはいられないのが人間であるようだ。じぶん一人だけ損をしたくない、という強迫観念にとり憑かれている、と分析できる。死への恐怖、或いは生への執着が根底にあるとも言えそうだ。
2060:【※妄想(デタラメ)です】
DNAはタンパク質を合成するが、タンパク質の変異がDNAに変質を加えることはない、という理屈をセントラルドグマと呼ぶ。生命体の変質(進化)はDNAからタンパク質(細胞)への一方通行で、ゆえに獲得形質、すなわち生きているあいだに培われる体験や技能といったものは子孫に引き継がれない、と一般的には考えられている。しかし、仮にセントラルドグマが正しいとしても、それは飽くまでタンパク質の変質がDNAへ影響を与えない、という部分的な否定を認めているだけであり、タンパク質以外の変質がDNAの変異を促す可能性は残されている。獲得形質はDNAを変質させにくいし、ゆえに子孫へと引き継がれにくいかもしれないが、そうした作用がまったくあり得ない、と考えるにはいささか早計であるように思われる。もっといえば、DNAは自然界に存在する紫外線や放射線を受け、絶えず傷を負い、変質しつづけている(DNAには修復能力が備わっているので、大概の損傷は元通りになってしまい、変異として定着するまでには至らない。稀に変異したままになったものの一部がガン細胞となる)。その変質が生殖細胞に起こったときのみ(そしてそれが授精に影響したときのみ)、子孫へと引き継がれるわけであるから(とはいえ肉体に顕著な変異を及ぼす確率は極めて低いが)、確率の問題として、おそらくは生きているあいだに蓄積した外部刺激のすくなからずは、DNAへと何らかの変質を加えているとみて矛盾はしないだろう。ただ、その変質が観察可能な変異として肉体に顕現するか否か、そして子孫に踏襲されるか否か(つまり生殖細胞のDNAにピンポイントで変異が起こるかどうか)が、極めて偶発的にしか発生し得ない(言い換えれば現段階の科学技術では再現性を確立できない)ので、なかなか観測されにくい、という背景があるのではないか、と妄想できる。科学的根拠のない妄想であるが、以前から繰り返し述べているように、獲得形質の遺伝は、なんらかのカタチで生命の進化を促すイチ因子として、無視できない規模で生命体へと影響を与えているのではないか、といくひしさんは妄想を逞しくしている。(念を押しておきますが、2019年現在の生物学では、セントラルドグマが妥当であるとする考え方が主流のようです。獲得形質の遺伝は起こらないと考えられていますので、いくひしさんの妄想を真に受けないようにお願いいたします)
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参照:いくひ誌。【141~150】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881584468