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いくひ誌。【2031~2040】

※日々、がんばってるフリをする、ホントは誰より自堕落なのに。


2031:【短所は長所】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりだなぁ。いくひしさんはむかしから運動神経が低くて、スポーツとか苦手だったでござる。バスケットなんてドリブルもまともにできなかったし、シュートなんてゴールにすら届かないでござる。ボールが重いでござるよ。バドミントンなんてミットを振っても羽がすり抜けるし、魔法の競技でござるな。もはや虚偽と言っても過言ではないでござる。競技は虚偽でござる。う抜け者でござる。伝わりにくい言葉遊びでござるな。意味なし定規でござる。一センチ二ミリ! いくひしさんはここ数日、かりんとうが主食でござってな。きなこかりんとうやら、おせんべいみたいに薄いかりんとうやら、べっこう飴でコーティングされたかりんとうやら、このままだと糖尿病になってしまいそうでござる。でもでも、いくひしさんはたいへんよくあたまを使っているでござるから、摂取した糖分は漏れなくブドウ糖になって消費しているでござる。あたまで薪とか割るでござる。ぱっきーん。いくひしさんは語彙力がないでござるが、たとえばきのう新しく知った言葉だと、「矯(た)めつ眇(すが)めつ」があって、これはよくよく目を凝らして、いろんな角度から眺めてみる、みたいなニュアンスでござるが、まあまあ、言葉を知らないでござる。でもいくひしさんは、いくひしさんみたいな人間に向けて物語を編んでいるので、いくひしさんの知らない言葉はもちろん、いくひしさんの想定している読者の方は知らないでござるから、これでよいでござる。背伸びをしたってよいことはないでござる。危ないでござる。足元に注意でござるよ。でもでもフラメンコみたいにかかとの高い靴(なんてったっけ?)で華麗にダンシングするひともいるところにはいるものだから、適度な背伸びもときには極めてみるのもよいかもしれないでござるな。あ、ハイヒールでござる。思いだしたでござる。いくひしさんはいっつもこんな具合で、言葉を思いだしたり、繋いだりするのに時間差があるでござる。しゃべるのが苦手な理由はまさにこの記憶力のなさにあるでござるな。友達がいなくて助かったでござる。みなのものも、あんまりじぶんの短所を気にしないほうがよいでござるよ。短所と長所は表裏一体。いくひしさんの短所は、こうしていくひしさん独自の文章をつむげるという長所になっているでござる。ただそれがおもしろいかどうかはわからないでござるから、本当に長所になってるー?って疑いながら、すこしくらいは、短所を直したいなぁ、と思っているとよいかもしれないでござる。直したいは、嫌だなぁ、とは違うでござるから、工夫したいなぁ、と思いながら短所と向き合えば、それはやっぱり長所になるでござる。直さずとも、そのままでも長所でござる。何かをしたいなぁ、と思えるのは、生きていくうえで、たいへん優れた燃料になるでござる。やっぱり長所なんでござるよ。ていてい!


2032:【いくひしのくせにこういうこと言うから】
前から言っているように、いくひしさんのSNS運用はほぼ十割が自作の宣伝のためである。人目につく確率をあげるために「これいいな」と思った他人さまの成果物をリツイートし、いくひしさんのアカウントをタダで飾り付けている。いつか法外な請求書が届くのではないか、と戦々恐々とした日々をすごしている。今月でツイッターをはじめてからちょうど一年が経過した。ひと月のプロフィールへのアクセス数は、平均して10000を超す。先月は15000回のアクセスがあった。まいにち350~400回くらいのアクセスがあることになるが、うち半分はいくひしさん自身のアクセスが反映されているのではないか、と睨んでいる(実感としては多くて50を超すことはない気がするが)。じっさいのところは不明である。以前から繰り返し言っているように、いくひしさんはフォロワーはいてもいなくてもどっちでもよい(どちらかと言えば、ほしくない、にちかい)。プロフィール欄のリンクを踏んでもらうのがいちばんの目的だからだ。フォローされないほうがその確率を高く保つことができる。一般論として、いちどフォローしてしまうともう、そのアカウントのことは気にしなくなってしまう傾向にある気がするが、どうなのだろう。いくひしさんのアカウントを、きょうも覗いてやろう、と思ってくれるひとを増やすほうが、ツイッターの活用法としては、もっともリスクなく利を得るやり方だと思うのだが、小説サイトのPVにはあまり数字として反映されているようには見受けられないので(読んでくださった方、ありがとうございます)、いまのところは、やらないだけマシかもしれない、くらいの成果しかない気がしている。むしろ、この一年でツイッターに費やした時間をすべて読書にあてていれば、いま詰みあがっている本の山はたいがい消化できたはずだ。ようやく肉眼でも、評価経済の終わりが見えてきたことだし(見えてきたとはいえ、まだまだ遠くにぼんやりと、といった具合であるから、フォロワー数やバズ率などは企業はまだとうぶん重視しつづけるだろう)、いまいちど時間の使い方というか、優先順位をつけなおす時期かもしれない。インフルエンサーを目指すのではなく、何かのエキスパートになることを目指すほうがより好ましい結果に結びつきやすいだろうし、もっと言えば、スキルアップの結果として人を惹きつけられるようにならなければ、収益化しようとしても長期的にはうまくいかないのではないか、と思うしだいである。中身のないハリボテは、テーマパークであるのなら有効な策であるが、そこに暮らすとなると、明らかに不足である。そしてこれからの時代は、いかに暮らしに取り入れる価値があるか、がその商品の価値を決めていくようになるのでは、と思うしだいだ。手元に置いておきたいか、否か。スペシャルでないものはマネがしやすく、放っておいても量産され、無料化し、一般化していく。コンテンツビジネスに限っていえば、無料大公開時代のさきにあるのは、いかにスペシャルであるかでしか価値を測れない(語れない)時代の幕開けではないか、と妄想を逞しくするしだいだ。何を以ってスペシャルであるかは、やはりというべきか、それを評価する者の手に委ねられる。いかにスペシャルに思ってもらえるかの工夫がますます重宝されていくだろう。評価経済とは、その足がけであり、ハリボテの名札をデカデカと着飾ることで、仮初の中身を演出する手法は手軽であるがゆえに、間もなく文字通り、形骸化していくはずだ。腕を磨き、中身を磨く。急がば回れである。そのためにもまずは、磨く素材を充実させる必要性があるだろう。何を優先すべきかを、やはりというべきか、見つめ直す時期にあるのかもしれない――と、誰にでも思いつく想像を披露して、本日の「いくひ誌。」の結びとさせていただきたい。


2033:【蟻んこだって】
さいきんのいくひしさんは、この「いくひ誌。」を並べるだけでも、いくつか記事をつくり、気に入らないのでボツにして、ああもうだめだーとなって、しょうもない文章を更新してしまうのを繰りかえしている。3000字くらいは毎回ボツになってしまうので、無駄のアイスクリームやあ。読んだひとが不快になるようなことは全体の三割まで、だいたい、おおむね、そのくらい、と決めているので、まいにちのように語気のつよい文章は載せたくないのだね。でもさ、さいきんはちょっと気がゆるむと、シャキーン、シャキーン、となってしまってよろしくないのだね。どうしたものか。いくひしさんはアホウだし、なまけものだし、不真面目のかがみだし、どうしたって文章なるものを並べたら、文章を並べるだけでも偉そうになってしまうのだよ。だってそうじゃろ。蟻んこが文章を並べたらすごいじゃろ。えらいじゃろ。偉そうになってしまうのも道理というものだ。でもいくひしさんは蟻んこよりもすごくないので、さらに偉そうになってしまうのだね。クズならではの悩みというやつだ。何をしてもすごくなってしまう。偉くなってしまう。ハードルの低さの弊害というものだね。みんなもっと、いくひしさんのこと褒めてもよいのよ。たーんと、お褒めあそばせ。いくひしさんは基本的に他人の揚げ足をとり、功績に泥を塗り、称賛を罵声に変え、他人の努力を嘲る日々に明け暮れているので、どうしたって、性格がゆがんで映るかもしれないけれども、あなたの目は節穴か。とくとよくご覧あそばせ。こんなに性格がまっすぐで、うつくしい心根を持ったクズも珍しいよ。みんなもっといくひしさんを見習ったらよいのに。教科書に載せてくれてもよいのよ。ついでに調子に乗らせて、処刑台にのぼらせ、そのままこの世から葬り去ってしまってもよいのよ。や、よくはないけれども、羽に矢の刺さったカモには同情を寄せるみなみなさまも、台所に忍び込んだ蟻の行列には容赦のなさを発揮する。そういう無情のやさしさもよいけれど、ときには殺虫剤をかけられる蟻の身にもなってみて。そして殺虫剤をつくる工場のひとに思いを馳せてみて。そうしたところで、あなたがたの蟻への容赦のなさは覆らぬけれども、蟻は蟻で生きているし、蟻に似たいくひしさんだって生きている。そしてそんな蟻に似たいくひしさんも、台所に列をなす蟻をみかけたら容赦なく根こそぎ殲滅してしまうのだ。邪魔なものは邪魔だよね。しゃーない、しゃーない。人間みんな悪意の塊。無自覚に無情の悪意の権化。


2034:【泥んこだって】
いくひしさんがこれを並べてからいったい何年経過しているかは知らないが、いまあなたはこれを読んでいるわけで、まあまあ、よろこばしいことである。いくひしさんはあなたのために言葉を、文章を、物語を編みつづけてきたわけであるが、しかし勘違いしてはいけない。いくひしさんはけっしてあなたの味方などではない。ファンなどいらぬ。慣れあいは殺す。世は空前の、身内びいきに、権威主義、村社会に村八分。あっちに、こっちに、蟻の巣ができては、冬を越えることなく穴だけ残して、いずこへと消え去る。かつて巣に蟻が何匹いたのかとの数字だけが、きれいに残って、いつまでも見栄えのよい表札を演じつづける。いくひしさんは群れなさぬ蟻、一匹のただの虫ケラにすぎぬ。群れをなさぬのか、それとも群れに馴染めぬのか、はたまたただただ追放されて、つまはじきにされているのかは定かではない。関係がない。いくひしさんはいくひしさんだ。誰に認められんでも、ここにいる。一匹の蟻のように。群れからはぐれた蟻のように。


2035:【ていていってなんやねん】
書くことなさすぎたので、抹茶アイスおいしー、という感想を並べていこうと思います。まずね。アイスっておいしいじゃないですか。アイスはおいしいんですよ。で、抹茶ってそんなにおいしくはないじゃないですか。や、おいしいはおいしいけれども、抹茶ってまいにち飲みたい? そうでもないよね。でもさ、抹茶アイスにしたらこれ、まいにちでも食べたくなっちゃうんだよねー。すごいよねー。アイスの魅力で抹茶のマイナスを埋めているわけじゃないんだよ。プラスアルファで掛け算なんだよ。もっとすごくおいしくなるんだよ。抹茶とアイスをかけあわせようと思ったやつ、天才くね? 天才じゃんね。天才だよ。ノーベル抹茶アイスはおいしいで賞をあげたくなっちゃうよ。あげちゃうよ。抹茶アイスおいしいよね。……終わっちゃったよ! もっと長くいけるかなって思ったけど、すぐに終わっちゃったよ! 抹茶アイスおいしいって、抹茶アイスおいしい以外に言いようがなくない!? ないよね? ないよ!!! おいしいものはおいしいのだ。たのしいものはたのしいし、よかったものはよかったよ。小学生の作文は正しいよ。そう思ったのなら、そう感じたのなら、そう書くよりほかはないだろい! なーんて逆切れして字数を稼いでみたけれども、それでも千字まではほどとおい。これで五百文字くらいかな。きれいな言葉とかうつくしい文章とか、そういうのが分からないと豪語しきりのいくひしさんだけれども、おもしろい文章なら分かるんだなー。おもしろい文章が読みたいよ。おもしろい文章、並べられるようになりたいよ。どうしたらよいじゃろ。うーん、うーん、悩みながら、こうして字数を水増しして、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。ていてい!(抹茶栽培農家の方がこれを読んだら、そっか抹茶はまいにち飲みたくはないのか、あんまりおいしいわけじゃないのか、と哀しい気持ちになってしまうかもしれないのじゃが、ちょっち待ってね。いくひしさんの舌は、オコチャマ味なの。そんで抹茶はおとな味なの。いくひしさんにおいちくないって言われたからって哀しくなる必要はナッシングだよ、ってことはぜひとも言い残しておきたいよね。ていてい!)


2036:【ふん!】
セルフブランディングでじぶんを魅力的に見せたければ「弱みを見せるとよいよ」と挙げている文章を比較的よく見かける。あーそうかもしれないな、と思う反面、弱みを見せて寄ってくるような輩にろくなやつはいないのでは?と疑問にも思う。ただし、ビジネスにおいては、ファンとはイコール搾取してもよいカモだと言って、現代社会をざっと見回してみればあながち間違ってはいないように思われる。アイドルやら課金ゲームやらコンテンツ事業やら、そういったものに疎いいくひしさんであるから、生半可な知識でしゃべっていることを念頭において聞いてほしいのだが、あーうーん、いや、やめておこう。危ない橋は渡らないのがいくひしさんの信条である。ただ、信条なんてものは犬にでも食わせておけばよろしい、と幼いころに近所の和尚さんに言われたような、言われなかったような、すくなくとも近所にお寺はなかったはずだが、ともかく、危ない話題であることに異存はなく、弱みを見せて寄ってくるようなクズからは搾れるだけ搾り取っても良心は痛まないのかもしれないね、なんて暴論はここでは指摘せずにおこう。それが聡明な者の賢明な判断というものだ。それはそうと、いくひしさんに弱みは何かあるのか、と言われると困ってしまうのだが、いくひしさんには弱みしかないので、どこを取り上げても、ごめんちゃい、とその場にうずくまって、遊び疲れてころんと丸まって眠ってしまった赤ん坊みたいな恰好をとってしまうけれども、それをして土下座と呼ぶひともいるところにはいるらしい。あべこべに、では強みは何かあるのかい、と訊きたい方もおられるかもしれないので、万に一つの可能性にかけてここで述べておくけれども、いくひしさんに強みなどはないよ。何を期待していたのかはしらないけれども、ないものはないよ。ゼロなの。ないです。ないの。ないんだってば。何度も言わせないでほしい、恥ずかしいでしょ。強みなんてないよ。いくひしさんは弱みの塊、あーなるほどだからかぁ、と鋭い方はそこで思ったことでしょう。だからいくひしさんはそんなに魅力があって、たくさんのファンに恵まれてるんだね、へー、そー、ふーん。虚しくないんですかって思った? 虚しくはないよ。ぜんぜん。これっぽっちも。ほんとに。うそじゃないよ。ほんとほんと。もういいでしょ、聞かないでってば、ふん!


2037:【ちがってもよいけれど】
芸術は最高のエンタメだって、誰もがホントは知っているはずなのに、どうしてアートとエンタメを分けて考えるんだろ。名立たる芸術家はみな最高のエンターテイナーだし、最高のエンターテイナーはみな例外なく芸術家ではないの? 結果論と言えばそうかもしれないけれども、何かを突き詰めて、突き詰めて、それでも掴みきれずに、辿りつけない何かを追い求める姿勢がそもそも「芸」であり「術」であるのだから、研究だって学問だってデザインだってビジネスだって、なんだって広義の芸術なのでは? ただし本気でそれを追い求め、極めんとする姿勢があればの話だけれども。一生それで遊んでいられるか否か、と言い換えてもよいかもしれないね。誰かのためとかそんなの後付けでしょ。みんなホントは、ただそれにとり憑かれて、夢中になっていたいだけなんじゃないの? ちがう?


2038:【我、義を失いし蟻なりき】
何がしたいんだろ? 目的を定めた瞬間、歩みが止まる。たぶんいくひしは、何もしたくないのだ。何もしたくないことすら。だからつねに何かをしつづけて、夢をさまよう蛾のごとく、ふらふらと安定しないモヤを舞いつづける。


2039:【わかんない】
いまはどんな表現であれ誰かを傷つけ得る、ということが肌感覚として以前よりもずっと身近に感じられるようになってしまったために、おもしろいことや笑ってしまうことですら、そこに悪意を幻視せずにはいられない。やさしい世界を目指すのは正しいことのはずなのに、やさしすぎる世界は窮屈なのだ。それは、誰かにやさしさを押しつける押しつけないに拘わらず押し寄せる真綿の津波であり、それが視えない人間には、なぜ息苦しいのかとそれにすら気づくことなく、溺れて息を詰まらせている。つよさ(やさしさ、或いは、清らかさ)を他人に期待し、押しつけるのはそれはそれで正しくはないのだろうが、傷つく者のほうに悪因があり劣っていると見做す社会よりかはいくぶん好ましくはあるだろう。ただ、果たして、ひとつまみの悪意を槍玉にあげ屈託なく笑えぬ社会は、やさしい社会と呼べるのだろうか。誰とも関わらず、ゆえに誰も傷つけず、ひっそりと暮らす以外にやさしい社会が矛盾なく成立することはあり得ないように思うのだが、そうは言っても、この誰とも関わらずにいる生活そのものが誰かにとっての傷となり得るのならば、やはりというべきか、どうあっても誰かに犠牲を強いなければならなくなるのではないかと、めまいを覚えそうにもなる。人間は傷つく生き物である。いいや、生きるとは傷つくことであると言ってしまってもこの場合はけして言いすぎとはならないのかもしれない。ただ、どのような傷を受けるのか、どんな傷なら受け入れられるのかを個々人が各々に判断できるようになれば、そしてそれを他者と共有できるのならば、これこそ人類の求める共存に似つかわしい姿と呼べるのかも分からない。みな、好きに傷つけあえばよいのだ。心地よく傷つけあっていけるのならば。心地よく生きたいとはすなわち、心地よく傷つけあっていきたいとの言い換えにすぎないのかもしれない。否、何も定かではない。何もかもではないのがせめてもの救いか。いや、ともすれば何もかも定かではないのかもしれない、そのことにみな一様に無自覚であるだけで。やさしさとは何か? 思いやりとは? 悪意なき愛などこの世に存在するのですか? 悪意は果たして悪なりや?


2040:【メモ】
抑うつは人間の進化の過程で獲得した形質かもしれないという説をさいきんどこかで、ちらっと見聞きした。信憑性の有無は判断つかないが、理屈としては筋が通っているように思える。たとえば、何か脳神経に負荷がかかるような外部刺激があった場合――便宜上ここでは大事な試合で大きなミスをしてしまったケースを考えてみよう――この場合、脳のほうで処理を仕切れずに、これ以上負荷がかからないようにと、外部情報を抑制しようとする働きが、すなわち抑うつの状態である、と仮説できる。抑うつの基本的な症状に、意欲減退があげられる。言い換えれば、活発な行動がとれなくなり、勝負事にも触手が伸びなくなる。これまでできていたことができなくなり、なるべく刺激のないように、その場からじっと動かずにいるようにと、脳のほうで制御をかける。勝負をしなければ負けることはないし、行動しなければ失敗することもない。脳に負荷がかからないのが道理である。心身に損傷を負った者にとって抑うつは危険を遠ざける役割を果たす(もちろん社会的かつ長期的には生きづらさが増すだけではあるが、身の危険という意味では、短期的なリスクを負わずに済むようになる)。似た話として、糖尿病があげられる。真偽のほどは定かではないが、糖尿病は、人類の祖先が獲得した自己防衛機能であるそうだ。氷河期や低温の高山地帯で暮らしていた人類が、血液を凍りにくくするために敢えて血中の糖度を高くしていた名残りであるとの説をどこかで目(耳?)にした覚えがある。この説からすると、糖尿病で死ぬリスクよりも凍傷になるリスクのほうが高かった時代は、糖尿病は人類にとってプラスに働く生理現象であり、病気ではなかったと考えられる。繰りかえすが、真偽のほどをいくひしさんは知らないので、真に受けないようにお願いします。ほかにさいきんどこかで見聞きして(おそらくはツイッターか本だと思うのだが)記憶に引っかかっているのは、コンピューターの消費電力についてだ。従来のコンピューターの消費電力は、おおむね半分ほどは冷却機能に費やされており、最新のスーパーコンピューターになると、その電力は膨大だという話だった。この話からすると、ムーアの法則に従うならば、消費電力は指数関数的に増加しつづけることになる(たとえるならば、同じ体積の箱に詰めこめるスマホの数が年々増えていくようなものだ)。スーパーコンピューターを一台起動させるだけで原子力発電所が一つ必要になる日がいずれ訪れるかもしれない。その点、量子コンピューターは消費電力を従来のコンピューターに比べればはるかに抑えることができるため、人類の隘路であるエネルギィ問題の打開策となることが期待できる。ただし、量子コンピューターが実用化されれば、いまある社会システムの総じては、セキュリティ面でほとんど安全性が担保されなくなるので(いまの技術レベルでも十二分に担保しきれていないのではないか、といくひしさんは疑っているが、それはそれとして)、量子コンピューターが開発されればめでたし、めでたし、となるわけではない点は留意しておいたほうがのちのちの人類にとっては好ましいだろう。どんなものにでもメリットはあるし、デメリットがあるものだ、というなんだかありがたいようなそうでもないようなお茶を濁したふんわりした話をして、本日の「いくひ誌。」の結びとしてしまうことにする。


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参照:いくひ誌。【641~650】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883601693

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