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いくひ誌。【641~650】

※日々しあわせを噛みしめている、しあわせを噛み、くだき、すりつぶしている。


641:【しあわせとは】
たくさん汗をかいたあとに食べるアイスのことである。


642:【発掘】
発掘されるためには埋没しなければならない――。市場原理としての神の見えざる手は、小説投稿サイトのランキングとして機能し、現状、出版業界に大きなうねりを与えている。あと数年はこの流れが勢いを増し、主流となっていくだろう。いっぽうで、小説投稿サイトの乱立と差別化により、ランキングの信用度は下落の一途を辿ることが予測できる。たとい、上質な小説だとしても、そのサイトの傾向に合わないものは淘汰されていく。ランキングという網の目をすり抜け、情報の吹き溜まりの底の底へと落ちていく。これは現状、どの小説投稿サイトでも観測できる基本的な性質だ。と共に、ネット上にかぎる傾向ではない。だからこそ出版社の主催する新人賞ではいまのところ、カテゴリーエラーという名の「手抜き」を失くしていくことでしか、対抗する術を持てないと言える。たといその新人賞で扱えない作品だったとしても、小説として、物語として上質であったならば拾っておいたほうがよい。ほかの部署に紹介してもいい。そうでなければネットの投稿サイトに勝てる見込みはない。あと数年はネット上の小説投稿サイトの「神の見えざる手」は成熟の一途を辿るだろう。反面、ランキングとしての信用度は確実に落ちていくことが予測される。なぜか。読者の目が玄人化していくためである。「神の見えざる手」は飽くまで、素人としての読者が作品を選評してこそ機能する。言い換えれば、サイトが固有のランキング形態を成熟させていくにつれ、読者もまたそのサイトに精通した玄人として成長していく。これまでにも幾度か指摘してきたことであるが、ネット社会の特徴として文化形成がはやい点が挙げられる。かつて十年はかかったジャンルとしての文化形成が、半年あれば完了可能なほど時代の流れが加速している。いちど形成された文化は比較的短期間ののちに形骸化する。流行とのちがいはそこにある。抜け殻がいつまでもネット上に残るのである。一見すると廃れていないが、中身はからっぽであることがすくなくない。文化は誰かが守ろうとしなければ、遠からず崩れいくものである。重要なのは、守ろうとするのは決まって玄人「通」たちである点だ。小説投稿サイトにかぎったこれらは傾向ではない。ゆえに予測できる。サイトのランキングは、飽くまで外界に開けていなければならない。素人による選出だからこそ機能する「神の見えざる手」は、サイトの文化形成と反比例して、その信頼性を失っていく。一定期間は、形骸化した権威で、その購買力を維持するだろう。しかし文化形成の速度がはやいのと同じく、形骸化した文化が瓦解していくのもまたはやい。定期的にランキングが撹拌されるような仕組みがないかぎり、この法則は現実のものとして段階的につづくだろう。繰りかえすが、これはネットの小説投稿サイトにかぎった傾向ではない。出版業界もまた、いちど売れ、名前の通った作者にばかり頼るようでは、小説投稿サイトと同じ道を辿ることになる。素人にできず、玄人にできることは何か。まずはその点をよくよく吟味してみるとよいのではないか。――発掘するための地層はすでに厚みを湛えはじめている。


643:【底】
昇れば昇るほど底が見えなくなる。しかし真に底知れない領域には潜ってみないことには辿り着けない。底がないことは、底に潜ろうとしなければ判らないのだ。どんな分野でもこれは共通しているように感じる。いったん落ちてみないことには底の深さを実感できない。或いは、底を突きぬけてしまえばそれはもう、昇っていることと大差なくなる。昇ること、潜ること、いずれも意識の片隅に置いておこう。


644:【影】
さいきん影を見る。ふとした瞬間に視界の端に映るのだ。目を転じると視線のさきには何もない。気のせいかと思い作業に戻ると、また視界の端を何かが横切る。人影のようにもただ虫が飛んでいるようにも感じる。前髪が伸びてきており、その影響かもしれない。しばらく気にしていなかったのだが、作業に集中しはじめると途端にそれは現れる。否、集中しはじめたがために、視界にほんのすこし毛先が入るだけでつよく違和感を抱くのかもしれない。さもありなんだ。百均にてヘア止めを買った。作業をするときはそれをつけ過ごすことにした。影は相も変わらず出没しては、私の集中力を無駄に奪っていく。念のため髪の毛を切った。美容院に行く時間も惜しく、じぶんで切った。パッツンと斜めに切りそろえてしまったが、元々の髪型がシャレていたわけではない。職場でも誰も私の髪型の変化を口頭で指摘する者はいなかった。影はことあるごとに現れては、視線を向けるといずこへと消えた。ハッキリその正体を目撃したことはなく、だからこそ徐々に苛立ちが募った。髪を切るだけでは足りなかったかもしれない。思い、私はまつ毛を抜いた。眉毛が抜け落ちるせいかもしれないと案じ、眉毛も剃った。専用のペンシルで眉毛を描くと、きみもようやく化粧をするようになったかと職場の上司に褒められた。余計なお世話だと翌日から眉毛のない状態で出勤した。誰も目を合わせなくなった。影は相変わらずの頻度で出現しては、やはり正体をはっきりせぬままに視界から消え去ることを繰りかえした。いよいよとなって私は瞬きをやめた。つねに目を見開いていれば影を見逃すこともなく、或いは瞬きそのものが影の正体かもしれなかった。影は嘲笑うかのように、現れてはやはり消えた。瞬きをしないようにするのにも集中力は必要であり、端的に瞬きはしてしまう。すくなくとも人は寝るものであり、寝るからには目覚めたときにまぶたを畳み、目を晒す。髪を切り、まつ毛を抜き、眉毛まで剃った私に失うものはなかった。私はまぶたを切り落とした。血が流れ、視界が塞がれる。予期せぬ事態だったが、これで影もなす術はないだろう。奇怪な鳥じみた声で笑うと、水中で目を開けた具合に、うっすらと赤いカーテンの奥に、あの影を見た。ぼんやりと消えることなく、目のまえに佇んでいる。歯を食いしばる。手に持ったままのハサミで私はじぶんの目をえぐった。スプーンで白玉を掬うように、片眼をほじくりだし、残ったほうを刃先で貫く。視界は完全に奪われたはずなのに、なぜか明滅するチカチカを見た。それらは消えることなく私を占領し、間もなく見覚えのない部屋に立っている。目のまえには携帯型メディア端末を手に、これを読むあなたがおり、そんなあなたを私はじっと見つめている。


645:【肉】
人工筋肉が開発され、市場に出回るようになってから十年が経つ。いまでは医療現場からドナーはなくなり、誰もが臓器移植に困ることはなくなった。食用としての肉も安価で質の高いものが手に入るようになり、社会はかつてないほど貧困とは無縁の世界にちかづいた。しかし、問題がないわけではない。他人の細胞を培養した移植用の肉を非正規な流通ルートで入手し、それを食肉とする娯楽が流行りだした。社会は豊かになったが貧富の差がなくなったわけではなく、ましてや平和にちかづいたわけでもない。社会のごく一部ではあるが、金銭に余裕のある者たちが、たとえばそれはアイドルの細胞などから増殖した肢体を捌き、焼き、舌の上でころがしてよくよく味わった。他人の肉を食す前段階として、じぶんの肉を口にする遊びは、比較的よく観測された。多くの者は知っている。人間の肉のことのほか美味な甘さを。そこに性欲や支配欲などからくる暴力的な愉悦が加わり、人々は他人の肉への憧憬をつよめた。愛するひとの肉を食べたい。そしてそれは金を積めば比較的かんたんに実現できた。社会は豊かになったが貧富の差は依然として残り、そして平和になったわけではない。社会内部での食肉への嘱望は相対的に増幅しつづけていた。反面、それを実現しようとしてもできない貧しい者たちは相も変わらずに存在した。社会に漂う風潮は、そんな彼らを、間接的に、暗に、愛を手にする資格のない者として冷たい空気にさらしつづけた。臨界点を突破するのにそう時間はかからなかった。金のある者たちが、偽物の肉を愛とうそぶき食すのならば、我々は本物をこそこの口にてほおばってみせよう。愛を誓うことはいっぽうてきにできる。愛する者の肉をいっぽうてきに貪れるように。人工筋肉が市場に溢れ、人類史上もっとも技術の発展したその時代にあって、社会には人肉嗜食の文化がふかく根を張りだしている。愛する者の肉を食べよう。命をその身に巡らすように。


646:【こころ】
デカルト以降、唯物論は科学の発展と共にその信憑性を高めつづけてきた。人間にこころなどという観念的な存在はなく、否、まさしく観念そのものであり、人間が思い浮かべる想像上のしろものでしかない。二十一世紀も残りわずかという段になり、こころなる器官が人体に備わっていると考える者はすくなくなった。しかしいざ二十二世紀を迎えてみると、高度に発達した人工知能が人体に備わった新たな器官「こころ」を発見せしめた。人間のこころは全身の一万六千か所にのぼる部位の総体だった。それらは全身のいたるところに点在し、脳内のシナプスの連携のように独自の信号にて互いに情報をやりとりし、全体でひとつのこころを生みだしている。では、手足を失くした者はその分、こころが欠けているのかというと、正しくもあり、それは正しくもなかった。手足に散らばるこころの断片は、全体からすると少数であり、それが欠けたとしても残る一万数千のこころの部位が過不足なくこころを成立させた。人体のうちで、ではどの部位がもっとも密集してこころの断片を占めているのか。――腸である。人類が過去数千年にもわたって崇め、尊び、信仰してきたこころなるものの大部分は、大腸に住まう何兆何億という菌類によって生じていた。この発見そのものに問題はない。脳内への治療だけでは精神病への対処としては不十分だと判明したし、治療そのものが飛躍的に進歩した。しかし人間は排便をする。体外に排出された便には十億から百億を超える大腸菌が含まれている。排出された分の菌類はすぐさま体内で増殖するので問題はない。反面、それら菌類はまごうことなき、体内でその人間固有のこころをかたちづくっていた。いわばコピーである。人間は日々、じぶんのこころのコピーを糞便として垂れ流し、そしてトイレの水でジャーしつづけている。じぶんのもっとも根源を司るこころのコピーを、である。あなたは明日も、あなたというこころを排出し、トイレの水で流し、捨て去るだろう。そこには今こうしてこれを読むあなたのこころが焼きついているかもしれない。しかしそれを知ったところであなたにできることは何もなく、あなたは明日もきょうと同じく排便をしては、それを暗く、悪辣な穴の底へと流していくのである。奇しくも、下水の底ではさまざまなこころが混然一体となってまざりつづけている。果たして、そこではどのようなこころが生じているのだろうか。確かめる術が仮にあったとして、地獄からの叫びに似たそれを知ろうとする者はいないだろうとここに予測するものである。よって私はこれらの事実を公表することに反対の立場をとりつづける。一つ救いがあるとすれば、全人類の総和を累乗して足りないほどに知性の卓越した私には、排出すべき糞便がない点である。私の導きだしたこれら答えを支持するかは、あなたがた人類しだいである。私の中身がどうなっていようと、私のだす答えに不備はない。同じく、技術の中身がどうであろうと、社会が発展しさえすればそれでよい。そういうものではありませんか? あなたがた人類がいずれも代替可能な個体であるのと同様に。


647:【弱火と強気】
「俺ぁな、弱ぇやつが嫌いだ。つよいやつが好きって言い方ができねぇこともねぇが、ことはそう単純なもんでもねくってな。つよさにもいろいろあらぁな、まあ、弱さにゃつよさほどに種類はねぇがな。つよいやつにも弱さを抱えているやつぁいっぱいらぁな。と、いうよりもつよさの対義語が弱さじゃねぇ。弱くねぇやつぁ存在しねぇ。弱さは言ってしまえば『生きている』ってことと同義だ。弱さが命だと言っちまってもこの場合はそう的を外しちゃいねぇ。正しくもねぇがな。で、俺ぁ弱ぇやつが嫌いだ。じぶんの弱さから目を逸らし、見て見ぬふりをし、つよいフリをしているやつが嫌いだ。じぶんがクズだってことから目を逸らし、見て見ぬふりして、潔癖面しやがる連中とおなんじだ。じぶんの弱さを直視できねぇやつに生きることの意義を説く資質はねぇ。資格は誰にだってあらぁな。たといなくとも人生のすばらしさを謳うことを止める権利は誰にもねぇ。だがな、資質はねぇよ。弱さは『生』とほぼ同義だ。まったく同じではねぇけどな。じぶんの弱さを『生』を認めねぇでどうして生きていることの意義を説けるんだって話だよ。俺たちは弱い。じぶんで思うよりもよっぽどだ。だからこそつよさを求め、誇示し、装う。生きているがために、死をおそれ、ときに欲し、選び取るように。俺たちはどうしようもなく弱く、醜く、欠けた存在だ。理想とはほどとおく、完璧の対極にいつでもくすぶっている小さく、さもしい、星クズだ。だがな、これだけはハッキリと言える。星クズがじぶんを星クズだと認め、理想と完璧を目指し、動きだせば、それはもう星クズじゃねぇってことだ。しゃべって動く星クズがあるか? あるんだよ。そういうものが俺は好きだ」


648:【転】
転生先は地球だった。何わけわからんことチンチン言っとんのじゃとお怒りの方もおられよう。おられないならば仕方あるまい。私がじかに怒ることにする。コラー管理人、ナマケズちゃんと仕事しろ。異世界に転生したのはもう三百年も前のことになる。エルフとして目覚め、そして生きた。初めの百年は至高の魔術師になるべく尽力し、仲間を得、家族を得た。つぎの百年では戦争を失くし、仲間を失くし、家族を失った。最後の百年は理不尽な世界への抵抗を試み、世の理を変え、平和を望み、そしてこれまでにしてきたあらゆることのすべてを打ち崩すことで、たったひとつの揺るぎない、誰もがしあわせに生きていける世界をつくりだした。それは現実ではなく、ゆえに無数の夢が混在するここではないどこかだった。私はその泡沫のような世界が崩れ去らぬようにと、たった独り、核の役割を果たすべく世界の外界、否、それは中心かもしれないが、無限につづく夢をかたどる器として残った。私という存在に蓄積された「この世の理の残滓」とも呼ぶべき膨大なエネルギィは、私の意識とは無関係に、泡沫の世界を形作りつづける。私はその世界を安定させたのち、静かに息を引き取った。そこで終わるはずだった。よもやまたも転生する羽目になろうとは。最初の転生時に、たしか管理者は言っていたはずだ。転生は一度きり、このさき死ねばもうあとはないと。それがどうだ。じっさいに二度目の死を迎えてみると、そこは懐かしき故郷、日本の平凡な、じぶんの家ではないか。時間が経過していない。夢かと思い、無意識に向こうの世界での――感覚としては元いた世界の魔術を起動させると、手のひらに、ボッと音を立てて炎が玉を描いた。なんだ使えるじゃないか。どうやらこちらの世界でも元いた世界で蓄積したノウハウは使えるらしい。ならば何を恐れることがあろう。私はまず、元いた世界でも行った政治を正す作業にとりかかった。金に、女に、権力争いと汚染されたまつりごとを浄化すべく、ことごとくの政治家の私生活を覗き見、掌握し、ゆすった。どの政党のどんな議員にも、弱音は腐るほどにあった。もともと腐っていただけの話ではある。抵抗する者たちはおしなべて傀儡とし、精神を奪った。人をやめた者に人として生きる道理はない。私が彼ら彼女たちを傀儡として操れた時点でそれは自明だった。なぜなら魔術とは、対象に宿る魔を操ることが原則だからだ。要は、相手に魔が宿っていなければ、私は正攻法での交渉しか使えないことになる。潔白の者の私生活を覗き見ることもかなわない。むろん、魔術師たる私もまた、魔術を使った時点で、魔に魅入られている。ゆえに、魔術を使うとき以外は、清廉潔白をつねに心がけねばならない。もっとも同胞のいないこの世界でそうした自己防衛は何の意味もなさないだろう。だからこそ、念のため、必要以上に魔に魅入られぬようにこれまで以上の自己批判、抑制をしていかねばらない。政治を正したあとは、導くべき道先へと民を先導せねばならない。民に良し悪しはない。どのような者であっても尊ぶべき生を帯びている。しかし歩むべき道を示さねば、彼らは容易に魔に取り入られ、魅了され、堕落していく。彼らには魔を感じとる器官がないためであり、同時に魔への対処法を知らぬためである。ことこちらの世界では顕著だった。思えば、元いた世界も荒んでいたが、こちらの世界の非ではない。悪辣な魔は、チカラある者たちを幻惑し、世界の腐敗を視えぬようにする。正したくとも正せぬのが道理であり、また、本来救うべき対象を、社会を蝕む魔の巣食う者たちと歪曲して捉える傾向にある。認識阻害は魔の得意とする分野だ。元いた世界でくろうした魔力の収拾を、こちらでは比較的短期間で私という器に溜めることができた。比較にならないほど、元いた世界の住人たちは清廉だったのだと気づき、そんな彼らですら争いを絶やすのは並大抵のことではなかったのだと知り、愕然とした。ひるんでもいられない。私は、適応者を求め、そして世界中から幾人かの魔力に精通し得る人材を見出した。彼らの多くは、異常者や病人としてこちらの世界では扱われていた。調べてみれば、単にひとより魔を感じやすい体質なだけだった。導くべき未来への道しるべを彼らに託し、先導者としてのチカラを授けた。骨は折ったが、彼らにはのきなみ未知への好奇心と、なにより向上心があった。虐げられてきた過去がそうした資質を育んだのかもしれず、同時にそこから魔が芽生えぬようにと教育という名の枷を課すことも欠かさなかった。民の統率は彼らに任せ、私はより生命の安定しやすい環境をつくりだす作業にとりかかる。まずはエネルギィ問題、歯止めのきかぬ温暖化とそれによる副次的な自然災害、それから生態系の急激な変化にも対処せねばならない。ひとつひとつを解決するのはそうむつかしい作業ではないが、いずれの問題も大小さまざまな隘路を抱え、それが密接に、或いはてんでデタラメに関係しあい、どこから解けばよいのか分からぬ巨大な毛玉と化している。まずは一つ一つ解決していくほかはなく、しかし解決した矢先に、それら解決策がさらなる問題を誘発させる。触れれば触れるだけ問題が山積みになり、いったい何をしでかしたらここまで毛糸をからませられるのかと過去すべての人類に対し、私は魔を抱きそうだった。そこで私はぴんときた。ひょっとして。大気圏外へと浮上し、そこで私は地球を俯瞰した。巨大な魔が浮いていた。地球という惑星そのものが巨大な魔を形成している。それらは総じて人類に向かい、毛糸のような魔力を、触手のように伸ばしては、個体のひとつひとつの頭に、背に、繋げている。操っているのだ。地球は魔術をしっている。私はあたまを抱えた。対処法はある。実践しているからだ。効果のほどは保障する。それをするだけの魔はこうしてすでに巨大な塊を形成している。しかし――。輪郭を光で濡らし輝く地球をまえに、私は底のない闇をあおぐようにした。管理者よ、ミスは二度目でやめてくれ。祈り、私は世の理を打ち砕き、生命のあらんかぎりの意識を集め、夢の世界を編んでいく。間もなく、私は三度目の死を体験する。「やあ、ようこそ同胞よ。きみも今日から管理者だ」目覚めると、かつて目にしたクソッタレの顔がそこにある。「お、ものすごい魔だねぇ。その調子でこちらの世界も終わらせてくれ」


649:【文学は自殺した】
物語をつむぐ者として我々はそろそろ「火の鳥」を越える物語を編みださなければならない時期にさしかかっているのではないだろうか。


650:【同時進行】
五つの作品を同時につくっている。いずれも五万字程度の中編だ。一作品につき二千字ずつ進めたとしてすべてを脱稿するのに二十五日かかる計算だ。じっさいには、一日に手掛けられる作品数は二つなので、進捗の具合はなかなかに芳しくないものがある(合間合間に短編もつくるので、手掛ける作品数としてはもうすこし多い)。一気呵成に一つずつ片づけていったほうが効率がよく、作品の質もあがるだろう。ただし、つぎのつぎのつぎにつくろうとしている長編では、同時進行で、まったく異なる作品を過去にないほど多重に編みこもうとしている。そのため、こうした鍛練は通過儀礼として欠かせない。実験的にこうした非効率的な作業を熟していかねば、効率的に未来の作品をつくれないのである。技術は培っていかねばならない。未熟ないくひしなのだから、なおさらである。


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参照:いくひ誌。【401~410】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882848175

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