※日々、欲しいけどいらない、が多すぎる。
3311:【2021/11/22*支配・介入・権力】
もし全世界の人間を思うがままに操れるとして、何をしても許されるとして、いったいそのときじぶんは何をするだろうか、と考えるのだけれど、たぶん何もしないのだね。じぶんより立場の下の人間に理不尽なことを仕出かしている人には、それをさせないような何かしらの妨害をするかもしれないけれど、それにしたところで、そもそもいくひしさんのほうで立場が上なのだから、いくひしさんのそうした介入そのものが、立場の下の者たちへの理不尽そのものであり、けっきょくのところ、いずれは何もしないでいるようになるのではないか、と妄想できる。定かではない。(他者に過干渉せずに、場を築きあげ、それを万人に提供できる人こそ、一流の名にふさわしいと思います)(かといって、一流であることにいかほどの価値があるのかは疑問の余地がありますが)
3312:【2021/11/22*自己肯定感なんかいらんわぁ】
きょうはめちゃくちゃ素直になってもいい日なので、いくひしさんの素をお見せしようではないか。いくひしさんは自己肯定感が死ぬほど低いので、びっくりするくらい低いので、本当は世界の覇者を狙えるくらいにすごいのに、産まれてきてすみません、と毎日鍋の後に残るハクサイの一欠けらになりたい、と望んでいる。そうである。願望なのである。ゆえにいくひしさんがいくら、ああいくひしさんってばどうしてこうもどちゃくそに未熟で至らなくて粗忽者なのだろう、おっちょこちょいなのだろう、かわいくないのだろう、と思っていても、本来のいくひしさんがとっても素晴らしくかわゆいので、どれだけお卑下ちゃんしてもよいのである。ドラゴンがどれほど、わいはミミズや、と思っても、ドラゴンはドラゴンなのである。バラの花がどれだけ、わいはチクワや、と思ってもバラの花はバラの花なのである。しかしミミズさんもチクワさんも、それはそれでとっても素晴らしい生き物に食べ物でござるから、なくては困る存在でござるから、べつにドラゴンがミミズでも、バラの花がチクワでも、それはそれでよいのである。いくひしさんがどんなに、わいは本当はとってもかわいいんじゃ、と思いこんだところで、本当のいくひしさんは、びちょだらーん、みたいな見た目に中身に性格をしていたところで、それはそれできっと世の中の何かのお役に立っていてほしい。そうであれ。こうしてなんやかやと言いながら傲慢に望んだところで、いくひしさんが世の中のお役に立つことはほぼほぼないですし、きっとこのさきもほぼほぼないのですが、いくひしさんの自己肯定感は地の果てを突き抜けて宇宙の根源にまで到達してしまっているので、まあしゃあないな、と開き直れるのである。なぜなら自己肯定感がゼロなので。ないものはないのである。致し方ないのである。あっかんべーである。
3313:【2021/11/23*よくない癖がついてしもうた】
ショートショートを手抜きでつくるのに最も都合がよい条件は、登場人物を一人しかださないことだな、とさいきんは自覚しつつある。すべて独白で、しかもセリフも掛け合いもなければ、ものすごく楽だ。というかこの「いくひ誌。」の延長線上なので、そりゃ楽でしょう、と思うのだよね。この日誌はだから本当に楽をしているのですね。ただ単に文字を並べればよいのだ。なんでもよいから余白を埋めればいい。文字数を増やせばいい。そうしてできた文章が面白くなるか否かは別問題であるにしろ、とにかくショートショートを楽してつくろうとすれば、登場人物は主人公だけ、を条件にすればよいのである。おためしあれ。(新作掌編:「絵に描いた俺(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427472965927)」「生やした尻尾は掴めない(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428534372785)」)
3314:【2021/11/23*ウヒ】
おためしあれ、じゃないが。なぁにじぶんの手抜きの手法を他人に勧めようとしてるの。そういうところやよ。きみのよくないところだと思います。巻き添えにしてやる、みたいな、善意を装っておまえもこっち側に引きずり込んでやる、みたいなそういうの。怖いのでやめたほうがよいと思いますよ。シーっ、じゃないが。下唇突きだして子どものむつけた顔するのやめい。
3315:【2021/11/23*ウヒヒ】
小説つくって何かいいことありましたか、という質問に対しては、いいこともあればよくないこともあります、と答えるしかないのである。いいこととはたとえば、小説をつくれてしまうことだ。わるいことは、そうでない時間が総じて「小説つくれてない……」になることだ。それ以外はすべて、そこはかとなくどちらかと言えばよいこと尽くしである。おためしあれ。(だから適当なこと言って勧めるのやめい)
3316:【2021/11/23*忍法モヘモヘの術】
若いころは調子のよいときとよろしくないときの差がそんなに大きく開いたりしなかったけれど、いまは調子のよいときとよろしくないときの差が、冗談でなく天と地ほど開くので、調子さんが、へんちょろーん、の日であっても難なく行えるくらいにレベルを下げた場合であっても、調子のよい日のパフォーマンスとそう変わらないような誤魔化しの技術を向上させていくと、楽ができていくひしさんにとっては好ましいけれど、そのパフォーマンスが果たして他人から見て好ましいのかは定かではないので、単なるズルやサボりに見えてしまうのかもしれないけれども、そんなのはいくひしさんが、おんどりゃー、の元気ぴんぴんの日でも、ズルやサボりに見えるひとには見えてしまうので、そんなことを考えるだけお疲れちゃんなのかもしれぬのだね。へんちょろーん、の日がだんだん増えてきちゃって、へっぽこへっぽこウニウニでござるが、そこはさすがのいくひしさん、うんじょろうんじょろモヘモヘするでござるよ。ニンニン。(新作掌編:「与作は鬼を斬る」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428579491772)
3317:【2021/11/24*小説ってなんぞ?】
ずっと違和感があって、なんだろうななんだろうな、と思っていたのだけれど、いくひしさんは文芸をしているし創作をしているけれど、ひょっとしたら小説をつくっているわけではないのかもしれない。小説とはなんぞや、と考えてみると、やっぱり文学とか古典とか、そういういわゆる「THE小説」みたいなのがあるような気がする。たとえばアンデルセンの著作にあるような童話とかは小説とは言わない気がするし、みなも小説として扱ってはいない気がする。でもいくひしさんの文芸は、どちらかと言えばアンデルセンの著作にあるような童話にちかい気がする。お話であり、物語なのだ。けして小説をつくろうとは思っていない。もっと言えば、架空の人の日記とか日誌を、本当にそれが現実につむがれたみたいに表現できたら楽しいだろうな、と感じる。あと語りだ。本当にその人が体験したことを語っているみたいに架空の人物の記憶を表現できたら楽しいと思う。けして「THE小説」をつくりたいわけではないのだ。ここではないしかしどこかにはあるだろう世界を、じぶんの五感で以って追体験してみたい。再現してみたい。表現してみたい。できたら楽しいだろうなぁ、というこれがおそらく初期衝動であり、初心であるような気がする。言い換えるなら、妄想の具現化なのですね。なんとなく、べつに小説がつくれなくてもいいや、というのはずっと感じていて、でもじぶんでは小説をつくっているつもりでいたのに喉につかえた魚の骨みたいな違和感を拭えなくて、なんでだろな、といまざっと三秒くらい考えてみたら、ああそうかも、と思ったので、並べてみました。さしてしっくりもこないので、お門違いな分析かもしれません。定かではありませんが、べつに定まってもこれは困らない類のつれづれなるままに、ですので、きょうはこのままこれを以って本日の「いくひ誌。」とさせてください。んじゃぱ。
3318:【2021/11/25*立ち止まらなければ分からないこともある】
これは数年日誌をつづけてきたいくひしさんの個人的な実感でしかないので、誰にでもあてはまることではないし単なる錯覚かもしれません、と注釈を挟んだうえで並べておきますが、毎日どんなに拙い日記でもよいので何かしら文字を並べる、という習慣をつくっておくと、文章をつむぐ、という行為への抵抗が低くなって、文芸での創作をしやすくなる傾向にあるようです。たとえば脳内に浮かんだ物語を文字で編もうとしたときに、毎日何も文字を並べずにいた場合と比べて、駄文でもいいから何かしら文字を並べる習慣をつくっておくと、多少は物語を文字で編みやすくなります。あまりこういう創作に関しての妄言は並べたくはないのですが、文芸歴が長くなるにつれて、そういう一面はあるかもな、という気にもなってきたので、一つの区切りとして記録しておきますね(一文が長くなってしまったけれど大丈夫でしょうか。内容は伝わりましたでしょうか)。いくひしさんにも創作をするうえでの信条みたいなものがあります。それはたとえば、「物語を文字で編むというのはどの道その時々のじぶんだからこそつむがれるまたとない文字の配列になるのだから、毎日つづけていようがそうでなかろうが、唯一無二の文字の並びになりますよ」といった考え方です。いまのところはひとまずこれをじぶんの創作の指針として取り入れています。したがって継続することも休止することもどの道、その選択をしたからこそ編むことのできる偶然の神秘に出会えるので、好きにしたらよいのでは、と思っております。ならばなにゆえいまさら上記のような、「習慣が大事」「継続が大事」みたいな説教臭いことを言いだしたのかと申しますと、去年十か月くらいこの日誌を休んだことがあったんですね。去年の九月くらいから今年の六月くらいまでです。それ以前にもすでに日誌の代わりに毎日掌編を更新していたので実質一年ちかく日誌を休止していたことになります。そうしたら、そのあいだに段々と物語を文字で編もうとしてもなかなか着手できない状態に陥ってしまい、こりゃいかんな、と思って、途中からまた日誌を並べはじめました。そしたらまた調子が戻ってきました。それゆえに、こうして敢えて駄文を並べてみる、という習慣は、文字を並べる抵抗(ハードル)を下げる役割があったのかもなぁ、との所感を覚えたわけであります。ただこれは個人的な体験でしかなく、ひょっとしたらほかに影響のあった因子があったのかもしれませんし、断言はできないのですが、こうした駄文を敢えてつむいでみる、というのも、そうそうわるい結果には繋がらないのかもな、と思いました。とはいえ、予想もしていなかった好ましくない癖もついてしまいますし、そこはケースバイケースというか、等価交換なのかもしれません。まずは何でもよいので、文字を並べて、じぶんの妄想を出力(カタチに)してみる、という習慣は、文芸の分野では一定の効果がある気が致します。(どちらかと言うと、じぶんの並べた文章を何度も読み返す習慣をつくる、のほうが効果が大きい気がします)(日誌を再開してみて気づいたのですが、いくひしさんはけっこうじぶんの日誌を読み返しているみたいです。誤字脱字や文章のもつれに気づけば直すこともあります)(文字を並べる→読み返す→違和感を見つける→修正する→読み返す。この一連の流れを習慣化できていたことが、物語を文字で編むうえでも多少なりともプラスに働いていたのかな、と妄想できます)(定かではありません)
3319:【2021/11/26*もう諦めてもいいじゃろか】
毎日掌編をつくろう、と仮にしたとする。おそらくつくろうとすれば百日でも千日でもつくれるひとはつくれると思う。でも飽くまでそれを、本腰の創作の片手間の筋トレみたいな感じでつづけてしまうと、結構つらくなってくる気がする。というのも、筋トレは基本的に筋力がつけば負担を増やしていくからだ。つまり、毎日掌編創作を筋トレ代わりに継続していれば必然、あるときを境につくる品が掌編ではなくなってきてしまう。短編や中編に手が伸びてしまうのだ。しかも本腰の創作は別途に行っていたりする。とすると、一日は二十四時間で限られているので、毎日一作ずつつくりつづけるためには、必ず一日でつくり終える分量に作品の文字数を納めなければならない。これにはしかし例外がある。必ずしも一日に一作のみ手掛けなければならない、との制約はついていない。つまり掌編をつくる傍らでほかにもプラス短編や中編や長編を毎日すこしずつ、つくっていけばよいのだ。ただし、すでに本腰の創作が別途にある場合、つまり飽くまで毎日掌編創作が筋トレ代わりのおまけに過ぎない場合、この掌編をつくりがてら複数作をちょっとずつ進めていく手法は、かなり負担の高い、根気のいる作業となる。もっとも、掌編は百字から千文字程度の短いものであれば一日に複数作をつくろうとすればつくれるだろうから、たとえば一日に十作品ずつつくれば十日後には九十作分のストックができる。そうして楽をしつつ、数日を要しなければ結べない作品を手掛けながら、本腰の創作をすることも可能だろう。しかしいくひしさんにはそこまでの能力も才もないので、こうして捕らぬぽんぽこりんの皮算用をして、ぽんぽこりんを狩るなんてなんて非道な、とお門違いに激怒してお茶を濁しつつ、毎日掌編つくるなんてバカじゃないの、と八つ当たりにも似た自己弁護を講じて、いじけながらの華麗なるふて寝を披露するのである。ぐー。(新作掌編:「眠れる森の姫たち」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428653818605)
3320:【2021/11/27*眠たいんじゃ】
文学の素養がないので、たとえば俳句を読んでみても、そもそも読める漢字がすくなかったり、言葉の意味の分からない単語が多かったりと、とかく俳句の良し悪し以前にまともに文章の意味を読み取ることができない。これは古文でも短歌でも同様だ。そしておそらく小説の場合であっても例外ではない。波長の合う文章形態があるのはたしかに思われる。具体的な固有名詞はすくないほうが好ましいし、日付や年月日もなければないほうがよい。あってもたいがいは読み飛ばしてしまう。現在を起点にして、ものすごい昔かすこし昔かが分かればよいし、ものすごい未来かすこし先の未来かが分かっていればよいと思ってしまう。量にしても似たようなものだ。基準の対象を支点に、それよりもいっぱい多いのかいっぱい少ないのか、それともすこし多いのかすこし少ないのかが分かればひとまずよしとしてしまう傾向にある。どんぶり勘定でしか情報を扱えないのだ(扱えないというか負担が大きい)。演算するための容量がすくない。記憶しておけない。そのため一ページを丸々読み飛ばしてしまうくらいに具体的な固有名詞や情報ばかりが載っていたら、そもそも読むべき脈絡を繋げなくなってしまう。そうなればもう目が滑るどころの話ではなく、文面を目で追うだけでも一苦労だ。しかしでは、すべてがすべてぼんやりと曖昧に記述されていればよいのか、と言えばそうとも言えず、情報をぼかされていてもなんとなく雰囲気が伝わるような工夫はしておいてほしい。だがそういう工夫は飽くまで、作者読者共に共有しあえる認識事項や抽象化された情報があってこそ成立する暗号、謂わばツーカーの関係があってこそ適う橋渡しでもあるので、やはりというべきか文章形態における波長――世界をどのように解釈し、言語化してきたのか、の来歴や手法がある程度似通っていなければ、読了することも適わないのかもしれない。或いはあべこべに、一を知って十を知るではないが、数行を読んだだけでこのさきにはだいたいこんなことが書かれているのだろうな、と幻視できるくらいに馴染んでしまった文章形態の場合であっても、あまり読みたいとは思わないものなのかもしれない。定かではない。(いつもの日誌と比べてどうでしょう。これがいくひしさんの、とってもお眠のときの文章である)(新作掌編:「ファミレスの花子さん」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428733423853)
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参照:いくひ誌。【1421~1430】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886372702