※日々、残滓のごとく、しぶきのごとく、限りなくゼロにちかい、ちりあくた。
3331:【2021/12/01*なにしてたっけ】
え、十二月になってる。気づいたら今年終わってた、みたいな感覚になってしまうな。なんかこの感じでいくひしさんの一生も、気づいたら終わってた、になってしまいそうでおそろしい。そのまま死んだことにも気づかずに、いつまでものほほんとしていてほしいと思います。(新作掌編:「カルンのパリパリ結晶発見記」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428951551494)
3332:【2021/12/01*毅然と偽善者】
十一月は、好きな作家さんたちの幾人かが日記をはじめてくださっていて、いまは割と、うれしたのし、の日々です。ほかのひとの人生を覗き見するのも楽しいし、好きなひとたちが日々なんやかんやと楽しい時間を過ごしてくださっていると知れるだけで(仮にそう見えるというだけのことであったにせよ)、生きるのもわるかないな、と思えます。もうもう本当に好きなひとたちには例外なくみなしあわせになってほしいですし、楽しい時間を毎日十六時間は過ごしてほしいです。残りの八時間は睡眠時間に充ててください。もうもうずっとめちゃくちゃしあわせであーれ。あんまり好きでないひとたちも、そこそこしあわせであーれ。ときどきは椅子の角に小指をぶつけて悶絶してくれたら、あはは、と笑っていくひしさんが楽しい気持ちになれますが、こういうことを言うと、なんてやつだ、と好感度が下がるので、思うだけに留めておきます。わがはい差別主義者なので、思ってしまうのは致し方ないのである。こんないくひしさんでも、うんみょろーん、と生きててごめんなさい。すまんね。お詫びにいくひしさんも、そこそこのしあわせで満足しといてあげようと思います。それ以外の、いくひしさんがしゅきしゅき大好きなひとたちには漏れなく、うんととってもめちゃくちゃしあわせになってほしいと思います。なってください。なりましょう。お願いします。お願いしちゃうなんて、なんて謙虚なんだ。えらいぞいくひしさん。どうでしょう無理やり褒め称えて好感度をぐんぐん上げてみました。好きになってください。お願いします。(見て、みんな逃げてく)(どうしてくれんのよねぇ)
3333:【2021/12/02*影と光、結晶と触媒】
物語創作に没頭できているときは、物語世界に流れる時間をささやかながらも体感していたりするので、現実世界ではたった一日しか経過していなくても、何日も経過した、みたいな感覚になることがある。本当に真実体感として物語の世界の出来事を経験したみたいに錯覚しかけるし、物語の世界に旅立って戻ってきた、といった感慨も覚える。ただしどこでもドアではないけれど好きなタイミングで現実に戻ってこられるため、旅につきものの移動時間を度外視できる分、情報量は薄口であり、疲れずに済むがゆえにお手軽で楽ができる。だからこそ虚構の物語は楽しい。がために、それだけを摂取していたのでは補えない体験を、現実の経験は補ってくれる。もちろん虚構の物語でしか味わえない刺激――経験もあり、そこは相互に補完しあえる部分だと思う。というよりも、人間が他者と関わるときには大なり小なり虚構の物語を媒介しあって繋がり、それによって現実なる虚構世界を編みあげている。そこには常識や良識や倫理観や偏見や、様々な視点を基盤とした解釈、が含まれる。そうした現実なる虚構世界によって社会はバラバラにならずにひとまとまりの回路として機能できている。したがって小説なる虚構の物語は――もちろん漫画でも映画でもよいのだが――そうした人間社会における触媒を濃縮し、結晶させた代物と言える。虚構の物語には、他者との会話により生じる効能が凝縮されている。そこには意思疎通だけでなく、会話や対話による他者との現実の擦り合わせが行われ、部分共有を可能とし、同時に社会なる「虚構世界の編みだした現実の回路」の影を見せてくれる。社会は巨大すぎるがゆえにその全貌を目にすることは通常日常生活では適わない。しかし虚構の物語を介することで、一部分であるにせよ社会の影を俯瞰の視点で眺めることができる。影は影ゆえにそれそのものを映しとってはいないが、それそのものの輪郭は反映されている。影そのものは立体ではないが、影があるからこそ社会なる「現実の編みだす回路(虚構世界の創造物)」に、立体感が宿る。虚構の物語を摂取することで我々は、現実に流れる時間とはべつのスケールで、社会の変遷の軌跡を肌で感じることができる。体感できる。経験を重ねることができる。それはけして事実ではなく、また真実ではない。だが社会そのものが「現実なる虚構世界の創造物」である以上、そうした虚構の経験を通してでしか得られない質感があることは誤魔化しようのないリアルであるように思われる。現実は虚構だ。しかし事実を土台とし、真実を含有する。それら土台と含有物を見極めるためには、何が虚構かを知っておかねばならず、そのためにも現実がどのような虚構によって結実しているのかを、俯瞰の視点で確認できると好ましい。小説や漫画や映画に代表される虚構の物語に効能があるとすれば、こうした俯瞰の視点に対して「より高い視座」を与え、社会そのものに影をつくることで「より立体的」に見渡せるようにすること、と言えるのかもしれない。すなわち虚構の物語とは、社会を照らす光そのものなのである。定かではない。(新作掌編:「祓い漁」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428965596988)
3334:【2021/12/03*犬の散歩のように】
たかが妄想を文字に置き換えて並べるだけのことがなぜこんなにもたいへんに思えるのだろう。毎日ヒーヒー言ってる。もうこれでわいは終わりなんや、もうなんもでん、からっぽのキンキンや、の気分である。泣きながら文字を並べている気分です。気分なのでもちろん、本当は泣いてないし、ふっつうに、ああもう、とインスタントコーヒーをがぶ飲みしながら、おいちー、と感動し、おんだらぁ、な心地と、しゅわわせー、の心地に同時に浸る器用貧乏でござるが、本当にもうもう、なんもないよー、としか言えん。なんもないです。思い浮かばん。でもこうして、なんもないんじゃい、の気分ですら文字にしたらかってに文章になるので、文章って魔法かよ、の驚きに見舞われます。この感動はいつでもそのときどきで新鮮です。毎回のように、なんでなんとなく意味があるような文字の羅列になるのだろう、とふしぎに思います。本当にふしぎです。最初から「これ並べよ」と完成形が頭に浮かんでいるときもあれば、そうでないときもあり、たいがいは「これ並べよ」からの、なんか分からんけどこんなんできました、みたいな感じで、本当にガチャガチャを回している気分である。ガチャガチャと言って伝わらないのなら、ガチャポンでもよいです。百円入れて回すとカプセルに入ったオモチャがでてくる装置が、スーパーのまえとかにありますよね。あんな感じでいくひしさんも、「なんか楽しいのくれ」のお願いを入れると、「あいよ」とかってにポンと文章の羅列がでてきます。妄想のときもあれば物語のときもあり、こうして中身のないあんぽんたんでーす、がでてくるときもあります。そこは完全にでてきてからのお楽しみなのである。偶然の神秘に身を委ね、それとなく枠組みだけを定めて、骨組みだけを決めて、水の流れる溝だけ引いて川と呼ぶ、みたいな他力本願に忠実に、えーそっちを流れちゃうんですか、と驚きに見舞われながらも、その意外性を味わいながら、飽きたらほかのことで遊びつつ、サボリつつ、なんもしない時間を要所要所で挟み挟み、文字の積み木遊びを楽しんでいきたいと思います。来年の抱負をおおまかーに並べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おちまい。(新作掌編:「かってにすればいいけれど」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428996541272)
3335:【2021/12/04*予測の真価】
未来予測の手法はじつは単純だ。第一に、予測の精度を高めたければ情報の「量」と「質」と「視点」を増やしたり、高めたりすることが欠かせない。第二に、解っていることと解っていないことを厳密に区別すること。そして最後に、解っていないことについてのいくつかの解釈において、現時点で得ている情報と比較することで確率の高さごとに場合分けして把握しておくこと。この三つを思考の基盤に組み込んでおけば、未来予測の精度はおのずと高まっていく。基本的に予測はハズれるものだ。ハズれたときに、結果とじぶんの予測との差を分析し、見落としていた情報が何なのかを確かめることがつぎの予測の精度を高める貴重な情報になる。何度か予測をハズしてみると、似たような思考の癖をじぶんが持っていたことに気づくはずだ。まずはその思考の癖を修正し、見落としている視点がないかを知ることが、未来予測の精度を高めつづけるための帆となるだろう。帆を広げれば、風を受けて船は進む。どの方向に船を進めたいのかは、やはり風の流れを予測しなければならない。未来予測の真価とは、一つ一つの予測のアタリハズレにあるのではなく、予測の精度を高めつづけ、いかに想定外を失くすことができるのか、にあると言える。予測できていれば対処が打てる。対策を立てられる。予測はハズれてもいい。予測を当てようとすることよりも、むしろどちらかと言えば、想定外のハズレを失くすことのほうが優先される。なぜハズれたのかを分析する習慣をつくってみると予測の精度を高めることに繋がるのかもしれない。定かではない。(それっぽいことをかっこうをつけて並べました。すみません。真に受けないように注意してください)(新作掌編:「クモツ」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429053952745)
3336:【2021/12/05*物語のタネ】
掌編のネタを探すときってほかの作家さんたちってどうしているのだろう、と気になる。いくひしさんの場合、長編は割と一貫していて構造から考える。立体的に構造物として物語の骨組みを思い浮かべるのだ。今回はじゃあクラウンの壺型にしてみるか、とか、三本の糸を編みこんだ螺旋型にしてみるか、といった具合だ。騙し絵みたいに現実には存在しない構造物を妄想して、それを物語の骨組みに当てはめてみることもある。でも構造が思いつくとそこにぴったりの物語の中身がかってに付随しているので、構造を思いつく過程で物語の中身も同時に考えているのだろうと推測される。それとも物語のタネが最初にあり、構造を立体的に展開できるものだけを長編に育てようと思考の指針を築いているのかもしれない。つまり長編に育てられそうにない物語のタネを短編や掌編に充てているのだ。ではそういった物語のタネはどうやって見つけるのか、生みだすのか、と言えば、それがけっこうよく分からんのだ。何個か手法がある気がする。けして閃くのを待つ、という感覚ではない。偶然ぽんと閃くことはそんなに多くない。どちらかと言えば、たくさんの却下案をつくって、それを下地に、同時かつ大量にそれら却下案を組み合わせて、なんとかカタチになりそうな物語のタネを見つけている気がする。これはたぶん、物語のタネを文字に変換して並べていくときにも取り入れている手法だ。いくつかの物語展開を同時に並行して考えて、分岐点ごとにこの場合はこういう結末になるから、じゃあ今回はこっちを選んでおくか、という作業を、一つの掌編をつくるあいだに何度も行っている。つねに選択肢が複数あるあみだくじを辿るような感覚にちかい。どこに行き着くかは分からないけれど、方向はある程度決められるし、どの道を進むかも選べる。選択肢をじぶんで増やすことも可能だ。そしてどの道を選ぼうとも、どこかには行き着く。いくひしさんの物語のつくり方はだいたいこんな感じだ。みなさんはどうやって物語のタネを見つけて、編みだし、物語に育て、文字に変換していますか? 気になります。(新作掌編:「段ボール箱の都市の底で」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429074183938)
3337:【2021/12/06*よわよわのよわでごめんなさい】
メンタルよわよわのよわなので、人からわるく思われていると知ると、うわーんちぬ、となるが、かといって人からよく思われても、うわーんうれちしゅぎてちぬ、となるので、どっちに転んでもちんでしまう。ちぬって何?と思ったそこのあなたは国語の成績がよいでしょう。そうよね。一字違えば違う言葉なのであって、たとえばイルカをミルカと言ったらそれはもはやイルカではない別の何かだ。なのに、赤ちゃん言葉とかかわいいかわいい言葉とかは、一字違っていてもなんとなく意味が通じる。おもしろいですよね。言い間違えとかも同じで、通じるときもあれば全然通じないときもあり、それでもそれは言い間違うシチュエーションとか、相手とか、場所の差によって通じたりしなかったりする。言葉はたぶん、みなが思っている以上に、上辺のそれそのものではない、行間というか文脈というか、文字の羅列以外の要素が情報となって意味の枠組みとか細かなニュアンスの違いを生んでいるのではないかな。そしてそれら細かな緩急や奥行きや装飾に気づけるか否かによって、同じ文章でも読み手が読み取る意味合いは違ってくる。これは文章の性質上致し方ないことである。もうすこし言えば、人間に備わった性質であり、欠点でもあり、また同時に進化のうえで獲得してきた形質でもあるのだろう。古文にしたところで、当時の人間が読んだときに得ていた質感を、現代人が掴み取るのはかなり至難に思える。文章にどんな内容が仕舞われているのかを読み解くことはできても、執筆当時に漂っていた文章の外側を流れる文脈や行間を拾いあげるのは相当に困難だ。これは外国語でも同様だし、文章以外の表現でも似たようなものに思える。畢竟、じぶんに馴染みある文章にしたところで似たような問題はつねに付きまとうものだ。作者と読者のあいだで共有可能な世界観がどれだけあるのか。或いは、どれだけかけ離れているのか。表現について考えはじめたらキリがない。しかしそれでも、それゆえに、どれだけ多くの異なる世界観や視点や解釈を備えていけるのかが、異質でありながらも文章をつむぎ、それを介して誰かしらに、「ここではないしかしどこかにはあるだろう世界の断片」を展開してもらえる余地を築けるか否かの分かれ目になるのではないか。重点になってくるのではないか。きょうのいくひしさんはそう思ったのだそうだ。定かではありません。(新作掌編:「ルンルンランラン低評価」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429094053008)
3338:【2021/12/07*眠い眠いの日】
世のなか天才ばっかりだ。次から次に見たことのないすごい人やすごいモノ、とかく魅力の塊がでてくる。でてくるというか、見ていなかっただけなのだろう。偶然に目にできただけの人やモノだけでこれほどまでに圧倒されるのだから、世界は思っていた以上に広いのだよね。世界は狭いとは稀に聞くけれど、単に視野が狭いだけなのだ。知覚できたことを事実として扱う態度はより正しいことを求めていく上では欠かせない基準ではあるけれど、しかしそもそもの話として、人間一人に知覚できる範囲は限られる。世界は広い。人間はその広い世界の極々一部しか知覚できない。触れることができない。知ることは適わないのだ。技術が進歩すれば知覚可能な範囲がすこしずつではあるけれど広がっていく。よい時代に生まれているな、と心底に思う。まだまだ世界は余白に溢れている。どれだけ目を凝らしても果てしない。探そうと思えばいくらでも楽しいがいっぱいなのである。やっぴーである。
3339:【2021/12/07*まるで分身のよう】
さいきんのガチの悩みである。本当に頭が痛い。それはたとえばこのような内容だ。私より年下の長い付き合いのある人物が、強者の理屈を振りかざしてじぶんよりも弱い立場の者たちに対して横暴に振舞う場合に、弱い立場の者の側に肩入れすると必然私がある種の権力を振るってしまい兼ねないとき(強者になってしまうとき)、どのような所作が最も好ましいのか、についてである。たいへんに悩ましい。じぶんが強者である自覚すらなくただただ寂しさが根幹にあってそれを直視できずになんだかんだと言い訳を見繕って、仲良く活動しようとしている自身よりも立場の弱い者たちを、気持ちわるい、と言って非難する者がある。のみならず、ここにきたくないやつはこなければいい、と強者の理屈を振りかざす。自身が威圧的である自覚すらない。こちらは、立場の弱い者たちが、不満に思っていることや嫌だと思うことを遠慮なく言える環境を築こうとしているだけのつもりなのだが、なんでいまさらそんな真似をするのか(いままで放置してきた癖に)、とやはりこちらにも、気持ちわるい、と非難してくるので、放置していたことを後悔しているからいまできることをできる範囲でしようとしているのだ、と言っても、そのやり方は間違っている、と反論があがるので、ではどうすればよいのか(私のしていることはただほかの人たちに話しかけてその人の得意とする技術の勘所をすこしばかり教えてもらっているだけなのだが、ではコミュニケーションを誰ともとるなと言いたいのか)、と訊ねてはみるのだが、おまえの話は矛盾ばかりだ、と相手は言い張ってばかりで埒が明かない(私の言動が矛盾ばかりに聞こえてしまったかもしれない点は否定しないが。それはそれとして、私への細かな批判はすべてじぶんにも返ってきていることを自覚しているのだろうか。していないのだろうな)。じぶんが恵まれた環境を独占している自覚もなく、他者を貶めるようなことばかり口にしている自覚もなく、本当はじぶんがしてほしかったことを、あたかもそれをみなにしないおまえがわるいのだ、と論点をすり替えて話すので(むろん私ができる限り他者に干渉しようとしてこなかった過去は事実なので、相手の主張にも一理あることは確かだが)、話し合いがそも成り立たない(私を非難することそのものが目的になっているかのようだ)。立場の弱いコたちからこちらが直接にしろ間接的にしろ、やめてくださいあなたの態度は不快です、と言われたのならまだしも、単にいつも不機嫌そうなので邪魔をしないようにそっとしておいた相手から、「さいきん気持ちわるいよ(人に話しかけるのやめたら)」と言われてしまうので、本当になんというか、どうすればよいのか分からんな。不快にさせていたら申し訳ないので、不快にさせてごめんなさい、と謝るのだが、挨拶すら無視されるので、本当にもう意味が分からん。寂しいなら寂しいとちゃんと自覚してほしい。私があなたを特別扱いしないのは、対等な存在だと認めているからだ。いまさら後輩扱いしたくないし、すでにあなたは私より優れている。むしろ下の世代の手本となるように相応の態度を心掛けてほしいと長年思いつづけてきたのだ。その思いが上手く伝わらなかったのは、けっきょくのところコミュニケーションを満足にとろうとしてこなかった私の過失だ。じぶん自身を甘やかしてきてしまったツケだと思い、呑み込むしかないのだろう。それはそれとしてあなたには自由に、好きに生きて欲しい。ただしそれは、じぶんよりも立場の弱い者たちを虐げなければ、の話だ。横暴であることに気づいてほしい。その代わりと言ってはなんだが、満足するまで私のことを、気持ちわるい、と思っていてください。謹んで受け入れましょう。以上、本日の愚痴でした。(というテイの妄想です)
3340:【2021/12/08*ごめんなさいの気分だ】
極々身近な比較的狭い範囲の観測事項でしかないが、ここ数年、よくよく思うのが、いまの十代とかそれ以下の子どもたちのほうがよっぽどおとなだ、ということだ。年齢が上になるほど幼稚(横暴で我がまま)になっていく。下のコたちは年上を敬ってくれるのに、どうして年上は年下のコたちを敬わないのだろう。そこは構図が逆だろう。優しい人ほどいなくなる。ともすれば、他者を蹴落としても心の痛まないような人間が生き残りやすい土壌が築かれているのかもしれない。そんななかで活動しつづけていられるいくひしさんも十二分に幼稚で、狡猾で、汚い、歳だけを重ねた餓鬼にすぎないのだろう。哀しい。
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参照:いくひ誌。【1741~1750】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887704721