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いくひ誌。【3341~3350】

※日々、嫌な記憶だけ引き受ける、明るいあなたはそのお陰、その名は忘却、あなたのための空白余白緩衝材。


3341:【2021/12/08*ずるずる】
ここ二十日間くらいはだいたい二十三時くらいから掌編をつくりはじめて、日付が変わる前にnoteさんにつくりかけのまま更新して、ひとまず毎日更新を継続している格好を保っているけれど、ふつうにズルですよね。そうなんです。わがはい、ズルなんです。もはやズルズルなので、滑り放題なので、いつでもどこでもフィギュアスケートができます。ポーズを決めたらすかさず唱える、「アルミ缶のうえにある機関」「ちっこすぎやろう」のツッコミも不発で、盛大に滑り倒すのです。ズルズルなんですね。それとも深夜なのにラーメンを茹でちゃって、どんぶりに盛っちゃって、塩分濃度などおかまいなしにズルズル啜っちゃったりもしちゃいます。なんて贅沢なんだ。さすがだいくひしさん。やっぴー。いっぱいじぶんを褒めたらちゃんとバランスをとるためにこんどは、そんなんだからまんちゃんは、と苦言を呈し、お腹ぷにぷにがもっとぷにぷにでとってもかわいくなっちゃうんだよ、とやっぱり褒めてずるりとこけて、ズルいズルい、と四方八方から野次が飛ぶ。そこはしかしさすがのいくひしさん、そんなの知ったこっちゃないと野次の嵐も馬耳東風、これっぽっちも気にしない。だってもういっぱいいっぱいなんだもん。かわいこぶって、全方位からの全肯定をもらおうと企む本日のズルズルないくひしさんなのであった。否、べつにズルくはない。だってかわゆいのは本当だから。そうなんです。わがはいかわゆいんです。平然と吐いた嘘で、生地をつくって叩いて伸ばして切って茹で、ズルズルと食べてしまうズルの二乗のいくひしさんであった(ずるずる伸ばしすぎやろう)。


3342:【2021/12/09*活用の幅と著作権違反】
ダンスに音楽は不可欠だ。しかしダンサーが自作の楽曲を使うことは分野全体から見れば極わずかと言える。その点でいえば、インターネット上にダンス動画を投稿している者の大半は著作権者に無許可で楽曲を使用していると言えるだろう。だがダンスという文化は、音楽の使用を禁じられたら即座に弱体化する。その場合、文化が育まれることはないと言えるだろう。とはいえたとえ禁じられたところで、著作権フリーの楽曲を提供するダンス好きの作曲家もでてくるだろうし、現に存在するので、即座に滅ぶことはないはずだ。しかし発展はしづらくなる。それは避けられないだろう。また音楽の分野からしても、まったく見向きもされない楽曲が日の目を見るための一つの手段としてダンス動画に利用されることはメリットがある。ただし、では無断使用を必ずしも黙認せねばならないのか、と言えばそんなことはなく、著作権違反だ、と親告することは作家に認められた権利だ。しかし基本的に著作権(に限らないが、権利と)は、公共の福祉の観点が加味される。総合して社会の文化を損なうような権利の行使は、むしろ認められない場合もある。これまでの社会では技術が未熟だったので、楽曲の無断使用が氾濫すると、直結して音楽の分野の衰退に繋がった。しかし現在は少々趣が異なる。たとえば企業がダンス動画への楽曲の無断使用を厳格に規制したとしよう。そうすれば、ダンス文化はけして浅くないダメージを即座に負う。それを知っているからこそ、企業はある程度のお目こぼしをしていると言えるだろう。ひるがえって、特定のダンサーに対して楽曲の無断使用を理由に著作権違反をつきつけた場合、もうその企業はその楽曲を全世界のほかのダンサーたちにも使わせないと示したも同然と言える(よほど悪質な場合は除くにしろ、一つがダメならほかもダメだろう)。仮に裁判になれば、企業が著作権違反者に負けることはない。しかし勝訴すれば当然、その企業はもう二度と自社の楽曲を、ダンス文化における動画投稿に無断使用されることはなくなるだろう(判決の解釈上、そういう流れができてしまう)。となれば全世界のダンサーがその曲で踊るメリットは激減する(なぜなら踊った動画をネットに投稿し、互いにシェアしあう真似ができなくなるからだ)。そのときに生じる損失を天秤に載せれば企業は、フェアユースとして、或いは引用の範疇として、ダンサーに対する音楽の無断使用をある程度は許容する姿勢を示しても、情報技術が発展しつづける現代社会におかれては、長い目で見れば得をすると言えるのではないか。歌ってみたにしろ、リミックスにしろマッシュアップ作品にしろ同様だ。どれだけ広く長く多く楽曲を聴かれるか。あらゆる動画のトータルでの視聴回数が収益に結びつく時代である。いかにみなに活用してもらえるか否かが、これからの時代におけるコンテンツビジネスの天王山となっていくだろう。商品単体で売れなくともよい(もちろん売れてもよいが)。活用の幅を広げるのである。(我田引水な理屈ですね。無断使用は基本的には著作権違反です。真に受けないように注意してください)


3343:【2021/12/10*とても平穏】
やっぱり孤独が一番だ。とってもおちちゅく。うれしー。(新作掌編:「庭の下に、いる(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429127846615)」「ピコピコとロクブテ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429149393985)」「ラジカセの怪(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429172391606)」)


3344:【2021/12/10*見て見ぬふり】
ひょっとして世界平和って本気で望めば望むほど日々の安寧からは遠のくのでは? たとえば本当に真実に誰も虐げられず、損なわれず、不公平な扱いのされない環境を目指すとするのならば、この世から一人もそういった困窮者が現れないように目を張り巡らせつづけなければならないし、この世のどこかでは傷ついている者がいるのにそれを差し置いて、日々を幸せに過ごすことは、本当に真実に世界平和を目指している、とは言えなくなってしまうのではないか。飢えで苦しんでいるひとの目のまえでパンを食べるのはダメだが、じぶんの手の届かない、目の触れない遠い場所で苦しんでいる人に対してならば我関せずでパンを頬張ることができてしまう。しかし本当に真実に世界平和を目指すのならば、困窮者との距離に関係なく心を配るべきなのではないか。だがそんな生活は疲れてしまう。本当に真実に世界平和が実現されるまで――つまり誰一人として損なわれることのない世界が訪れるまで――人々は誰一人として日々、本当に真実に幸せになれることはなく、またつねに罪悪感を覚えてしまい兼ねない。否、それを強制することこそが、本当に真実に世界平和を望み、目指すということでもある。裏から言えば、本当に真実に世界平和の実現を目指すのならば、全世界の人間がみな同じように日々罪悪感を覚えながら、この世のどこかにいるだろうじぶんよりも恵まれない相手のことに心を配り、ときに手を差し伸べ、或いは何もできないことに申し訳なく思いながら生きるほかに術はないのかもしれない。むしろどちらかと言えば、ここがスタートと言えるだろう。本当に真実に世界平和を望み、目指そうとするのならば、我々はみな一様に、いまある至福を手放すはめになる。これは、みな一様に不幸になろう、とは違う。たしかに本当に真実に世界平和――みなの至福を望み、目指すのだが、結果的にはみな一時的に罪悪感に囚われるがゆえに、至福に思えたはずの日々を手放すはめになる。しかしそのさきにしか、本当に真実の世界平和なるものは現れないのかもしれない。ともすれば、そうした罪悪感を一時的に一部の人間たちに押しつけ、世界平和のために働いてもらうことで、ゆっくりとではあるが世界平和への実現には近づけるだろう。しかし世界平和が実現されるまでには、そうした者たちの犠牲が嵩むだろう。つまり、世界平和を望んだがゆえにここでも不幸になる者がでてくるということだ。一部の者に破滅級の負担を押しつけるか、みな一様に日々罪悪感に苛まれるか。どちらかを選びとらねばならない、となったとき、あなたは罪悪感に苛まれる日々を選べるだろうか。いくひしさんは、その自信がない。ときには、隣人が苦しんでいるのを知りながら、隣の家のことは知りません、と映画に漫画に小説を無我夢中で貪りたい。本当に真実に、心の底からひどい人である。


3345:【2021/12/11*休み休み、進み進め】
休み休みの重要性たるや。要は、代わりばんこであり、穴埋めであり、火の番であり、バケツリレーなのだね。(新作掌編:「ギリーチュの刺身」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429176948212


3346:【2021/12/11*言うだけならこんなに簡単】
基本的に人類社会はつぎのルールを守れば、ひとまずの急場は凌げる気がする。「1:じぶんより弱い立場の相手には配慮する(弱い者いじめをしない)」「2:じぶんがどのような場面だと強者になってしまうのかを知る(じぶんが弱い者いじめをしていないかをつど周りを見渡し、確認する)」「3:そのための視点を増やす仕組みを築く(弱い者いじめを防げた成功例や、或いは防げなかった失敗例を、みなが広く学べる技術があるとよい)」 ルールの1と2はとくに説明はいらないだろう。じぶんよりも弱い立場の者に目を向け、虐げないようにすればいい。そしてそのためにはじぶんがどのような場面で虐げる側に回ってしまうのかを知れるとよさそうだ。最初は虐げられていた側だったのにいつの間にか虐げている側に回っていた、なんてことは人間、生活していれば往々にしてあるものだ(たいがいは、誰かに虐げられながらほかの誰かを虐げているものだ)。その分岐点を知るためにも、どのような条件下であるとじぶんが強者になってしまうのかを知れるとよい。そのためには、さまざまな視点がいる。そしてそれを広く自由に見聞きできる環境があるとよさそうだ。情報社会の発展は基本的に、視点と解釈を生みだし広げるために促されてきたと言えるのではないか。だが、それでも防ぎきれない衝突もある。問題もある。諍いがある。ルールを守ってなどいられるか、と人々を掻き立てるものがなんであるのか。それは果たして真実に、資源や土地や価値観の相違によるものなのか。まだまだ掘り下げ、培い、広げ、残していくものはありそうですね。(定かではありません)(新作掌編:「マスクの灰が降る」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429225252415


3347:【2021/12/12*群れなさぬ蟻でいたい】
役に立つか立たないか、とか、利になるかならないか、とか、そういう視点でしか物事の善し悪しを測ることのできない社会にはなってほしくないと本日のいくひしさんは思ったのだそうな。(誰の役にも立ちたくないです)(いくひしさんごときが人の役に立たずに済むような社会に早くなってほしいと望みます)


3348:【2021/12/12*当意即妙自由自在につむぎたい】
理想の世界を描こうと思ったことはない。頭のなかにある物語を理想通りにつむぎたいとは思っている。つまり、いくひしさんのつむぎだす物語のなかに理想の世界は一つたりともないと呼べる。現実がそうであるように、いくひしさんのつむぎだす物語のなかでは、誰かが誰かを傷つけているし、差別をしている。常に何かが破壊され、ときに誰かしらが損なわれている。おおよそすべての主人公たちは誰かしらを意識的無意識的にかかわらず傷つけているし、損なっているし、他者の存在を脅かしている。そういう世界が理想なわけがない。しかし、そうした理想でない「ここではないしかしどこかにはあるだろう世界」の断片を、思い通りに自在につむぎだしたい、とは思っている。繰り返しになるが、いくひしさんのつむぐ物語は、けして理想の世界ではありません。この現実がそうであるように。しかしそれがけして絶望だけでも、悲劇だけでもないように。


3349:【2021/12/12*傲慢でごめんなさい】
つねに他者に救われている。人を殺さずにいられるのは周りの人たちのお陰だし、命の危機に怯えずに過ごしていられるのは見も知らぬ人たちを含めたもっと多くの者たちのお陰だ。健康な身体も、温かいお風呂に浸かれるのも、体調を崩すほどの飢えに苛まずに済むのも、全部全部いくひしさん以外のみなみなさまのお陰なのである。いくひしさんはそうしたたくさんの配慮に支えられて安全に日々を過ごせている。本当にありがとうございますですし、みなみなさまのお役に立てず、何も返せないことを日々心苦しく思っておりますが、それはそれとして、とってもかわいいわがはいが毎日のほほんとなまけながら生きている姿を以って、対価と思っていただけたらさいわいです。(ダメですか?)(ダメに決まってんだろクズヤロー)(うひひ)


3350:【2021/12/13*害悪】
干渉せずにいれば遠からず滅ぶだろうな、と丸分かりの群れに対してしてあげられることは存外にすくない。第一に、じぶんにとって大きな損である。手を出して、もしそのまま助力が足りずに群れが滅んでしまえば、じぶんのせいだと周囲に思われる。滅びのきっかけをつくったと思われてしまうのだ。本来ならば何もせずとも滅んだにも拘わらず。延命処置には成功していたにも拘わらず。また、滅びへの予感は群れのなかには閉塞感として充満している。危機感すら麻痺し、ただただ険悪な雰囲気が増していく。荒んでいるのだが、それにすら無自覚だ。比較対象がないからである。ほかの繁栄している群れとの接点がなさすぎる。そうした滅びの危機に瀕した群れを救うには、ほかの群れとの交流が欠かせない。だが険悪な空気が充満した群れと誰が関わりたがるだろう。中には敢えて部外者を遠ざけるために、そうした偽装を施す群れもある。そうした群れはむしろほかの群れに縋られるのを拒むために敢えてそうしているのだ。だが多くの群れは違う。そのまま滅ぶのだ。単なる個へと回帰し、散り散りになる。群れの中にあった秩序は瓦解し、霧散する。滅びへの対処は二つだ。外部の群れと交流し、支援を受けるか、そうでなければ世代がすっかり変わって内部の流れが変化するかを待つしかない。そうでなければ徐々に衰退しながらやはり滅ぶ。だが群れの内部に変化をもたらすには、相応の覚悟と負担がいる。それをする者にとってはむしろ損であり害だ。ほとんど自殺行為と言っていい。ゆえに多くの部外者は、滅びゆく群れを目の端に捉えながらも干渉せずに、滅ぶのをただ待つのである。利口な選択である。だがときとして荒廃した群れが暴走し、よその群れを襲うこともある。そうならないようにやはり距離を置いて様子見しておくのが賢明だ。だがここで、ふと思う。それが果たして人としての最善だろうか、と。それを善しとしつづけてしまうのは何かが根本的に歪んでいるように思うのだ。目のまえの滅びゆく群れは救えないかもしれない。だがまだ滅びへの道を転がりはじめたばかりの、傾きはじめたばかりの、比較的すくない支援や交流で立て直せる群れもある。そういった群れに対してならば最悪の事態を回避するための術を授けられるかもしれない。だがやはりここでも、感謝はされないだろう。それをしなかったところで滅びの道へと突き進んだかどうかは分からないのだ。基本的に、予測による救済は感謝されず、恩と見做されない。余計なお節介であり、介入であり、自由の侵害だ。そうした害になってでも手を差し伸べたい、と思えるような群れに対してのみ、人はおそらく肩入れするのだろう。干渉するのだろう。干渉しなければ遠からず滅ぶからだ。だがべつに滅んでも、それがじぶんの属する群れでなければ悪果が一つ消えてくれたと解釈することも可能だ。荒んだ環境が目のまえから消えてくれる。わざわざ燃え盛る森に飛びこみ、水を浴びせて回らずともよい。だが、そうせざるを得なくなる思いに衝き動かされるときが、生きていれば一度くらいはありそうだ。そのときはじぶんが害悪となり、なんの利もなくただ動くことになるだろう。損である。しかし損ではない。矛盾した行動のなかにしか真に人間らしい働きは宿らないのかもしれない。定かではない。


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参照:いくひ誌。【531~540】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883262976

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