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いくひ誌。【3351~3360】

※日々、強者になりたがる人が多すぎる、せめてそこはつよさを求めて欲しいところだ。


3351:【2021/12/14*あとはもう延々と衰退】
物語創作家としてのいくひしさんは、おそらくもうすでに全盛期を過ぎていて、いまは過去に蓄えた技量を食いつぶしながらかろうじて創作家をつづけている、みたいな状態です。表現はそのときどきに生じる渦みたいなものですから、どの時期の表現が最も優れているか、という考え方はあまり好まないのですが、そうは言ってもやはり、もう二度とその領域には立てないだろうな、と思える時期もあり、それはもういくひしさんは過ぎてしまったと考えています。ただし、全盛期というのは、生き物でいうところの産卵期や繁殖期のようなもので、ひょっとしたら一生のうちに何度も訪れるようなものなのかもしれませんし、たった一度の産卵で力尽きてしまうこともあるのかもしれません。産んだ卵がその後に孵るのかも分かりませんし、たとえ孵ったところその雛がどれくらい長生きするのかもまた分かりません。ただ、卵の未来に関わらず、いくひしさんはいくひしさんとして生きつづける限り、なんらかの表現をつづけていくのだろうなぁ、というのはぼんやりと予感できています。それが文字を使った表現であるとは限らないのですが、そのときどきに生じる渦を目にしたいがために、きっとそれを何かしらの流れに載せて、五感のいずれかで以って再生できるようにこの世界に刻んでいくのだと思います。刻まれた何かしらは、傷跡とは違います。それとも傷跡ですら何かしらの流れの余韻にすぎず、変化の来歴であり、変遷の過程でしかないのかもしれません。表現とはすなわち、「私」という存在の変化が生みだす、抵抗の余韻であり、異質そのものであり、世界の流れに一瞬現れては消える渦であり、ゆらぎなのでしょう。命そのものがおそらくきっとそうであるのと同じように。それとも物質、或いは宇宙そのものがそうであるのと似たように。(定かではありません)(並べることがない日はちょっと詩的に感傷的な文章を並べるとすらすらいきやすいです)


3352:【2021/12/15*いっぱい衰える】
あ、ちなみにいくひしさんの全盛期は初期作「R2L機関」をつくっていたときなので、いっちばんはじめに大作を手掛けてからずっと衰退しつづけているんですね。初期作の残滓を貪ってなんとか生きながらえている、みたいな感じかもしれません。でも生命なんて本当はどれもみなそんな具合だったりするのかもしれませんね。(新作掌編:「月はマシュマロのように(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429240854273)」「コーヒー眠気退散(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429274177899)」「飼い犬にはご褒美を(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429298891768)」)


3353:【2021/12/15*ほわほわぐーたらぽん】
本日は細胞たちがぐーたらぽんの日なので、同じく文章たちもぐーたらぽんしてたいそうである。いくひしさんはとっても素晴らしくやっさしーので、ぐーたらぽんを許可するでござる。いっしょにぐーたらぽんしちゃう愛嬌まで持ち合わせてしまうので、本当に人気者で困っちゃうでござるな。だーれもいない室内で、人気者のフリをして虚しくないんですか、と思った人はいるでござるか。やめてほしいでござる。非情な現実を突きつけるのはやめてほしいでござる。いくひしさんのメンタルは百年放置したマシュマロ並みにボロボロでござるから、ちょっとの刺激でズタボロでござるから、細心の注意を払って褒めてそやして、うやまいおだてて、崇めたてまつるがよろしい。調子に乗りましたすみません。もうなんか、ふわふわしてたい。みんなももっとふわふわしたらよいのに、と得手勝手に思ってしまうな。みんなちょっと賢くなりすぎだ。もっとあんぽんたんでーす、の気持ちで生きてもいい気がするのだけれど、ダメなんじゃろか。さいきんは気のせいかもしれないけれど、いくひしさん、他者への影響力を持ちすぎている気がして、逃げ回っている気分だ。といっても、いままでゼロだったのが紙きれ一枚分の厚さだけ他者への影響力を持ってしまった、みたいな感じなので、さほど変わらないと言えば変わらないけれども、否応なく歳だけはとるので、気づくと周りに年下が増えていく。本当にずっと雑魚でいたい。道端の小石みたいに、「え、そこにいたんですか」みたいな存在でいたい。透明人間になりたい。風に舞う枯れ葉みたいに、それとも季節外れに彷徨う一匹の蟻みたいに。世界の端っこのほうで誰もいない場所でほそぼそとしているので、どうぞいくひしさんにご遠慮なくみなさんお好きになさってください、の気分だ。優しい人が多いので、気を使ってもらってばかりなので、ありがたいよりも、申し訳ないな、の気持ちがつよくなる。かといって恩返しをしたいわけでもないので、むつかしいな。やっぱり引きこもっているのが正解な気がしてきてしまうな。言うほど他者の気持ちを気にしているわけでもないけれど。わいは好きにするで、の根性である。わがはい、根が傲慢なのである。(新作掌編:「カビの滝」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429320039224


3354:【2021/12/16*理性も感情のうち】
合理的な思考を突き詰めていくと、すくなからずの問題解決の手法には、排除の理屈が妥当となっていく。しかし人間は感情を優先させて行動選択をする性質があるので、合理的な思考による手法だけを選択しつづけることが人間の構造的にむつかしい。そうなってくると、感情を考慮に入れたフレーム内での合理性が追求されていくこととなる。そのときに有効なのが、排除の理屈ではなく、協調性の理屈の採用なのだ。だがそのとき、合理性における正誤ではなく、感情による好悪を判断基準の基盤に置いてしまうがゆえに、感情から派生する排除の理屈が大多数に支持されてしまうことが稀にでてくる。言い換えるならば、排除の理屈を採用しないで済むように感情による判断基準を取り入れたはずが、稀に、不採用であったはずの排除の理屈が採用されてしまうことがでてきてしまうのだ。それを制御するためには、感情優先ではなく、あくまで合理性優先の思考の仕方をしなくてはならず、感情はその合理的思考の方向性を決める舵取りの役割を担うくらいがちょうどよいのかもしれない。べつの言い方をするならば、感情を排除せずに問題解決の筋道を考えるとすると、まず規定されるのが、排除の理屈を極力採用しないようにする、という前提なのである。排除の理屈を採用しないようにしましょう、という合意は本来、合理的な思考から導かれる必然ではなく、あまねく本質的に感情による価値判断なのである。そうでない場合、つまり人間が十割合理的判断による行動選択をとれるというのならば、社会秩序を保ちできるだけ長く個の至福を大多数に及ぼすための最適解は、社会の害となった時点で自ずから排除されることを選択する、となる。だが人間はそれを受け入れることができない。感情があるからだ。本能がそれを許さない。ゆえに、合理的な思考だけによらない、感情を指針とした理屈の構築が、社会秩序を保つためには有効なのである。感情を度外視した理屈は、理性ではない。なぜなら理性もまた感情のうちの一つなのだから。なぜ、と疑問するその心の働きは感情である。そしてその、なぜ、から理性の芽が萌えていく。人間が感情の働きを尊重し、自由に物を考える社会を求めつづけるのならば、どのような問題に対しても、排除の理屈を肯定しないほうが好ましい。ときには致し方なく選択することもあるだろう。しかしそれはやむにやまれずの選択であり、けして肯定できる事柄ではないのだ。人類が感情を切り捨てない判断をしつづける限り、おそらくこれは有効な前提条件となるだろう。定かではない。


3355:【2021/12/17*まいったの巻】
長く芸事をつづけていればいるほど、上手いとか下手とかの区別はなくなって、ただただこれまでになかったかどうか、新鮮かどうか、気持ちよいかどうか、が善し悪しの基準になってきてしまう。同時に、同じことを自在に再現できるようにする、操れるようにする、というある種の現状維持をいかに保つかの工夫そのものが遊びの一つにもなってくるので、飽きないと言えば飽きないし、自己満足と言えば自己満足の世界に否応なく足を突っ込んでしまうのかな、とここ数日は思いはじめている。ただ、新しいことをしたいのなら、それこそ苦手だったことや嫌厭していたことに食指を伸ばせば、それがそのまま新しいことになるので、ではどうしてそうしないのか、については、思考に枷をはめているから、と考えるよりなさそうだ。けっきょく、本当には新しいことをしたいわけではないのだろう。なるべく馴染みのあるもののなかから選んでいる。挑戦するとはいえど、いちど手に取ってみたことのあるもののなかで、との注釈がつくのだ。まったく自由とは程遠い。知らないことが多すぎるというか、もうさいきんはこれまで何かすこしでも知ることができたためしなどあったろうか、というレベルで、じぶんの無知さと非力さと無力さを痛感している。知識はおそらく最弱だ。しかしダークマターがそうかもしれないと考えられているように、いかに微量であろうと大量にあれば、総合して大きなチカラとなり得る。知識は最弱だが、質量という名の物理法則を無視できるがゆえに、(物質に比べれば)大量に蓄え、繋げ、編み、展開することができる。したがって、知識は最弱だが、最強にもなり得る。(えっと、なんの話ですか?)(冒頭の話題はいずこへ?)(もうきょうはこれで勘弁してください)(まあ、いいですけど)(何もかもが定かではない本日の「いくひ誌。」でした)(あびゃびゃ)(おどけて煙に巻こうとすな)(ひひ)


3356:【2021/12/18*トホホのトホホってなんじゃいよ】
もう完全にいまは文章の積み木遊びには飽きちゃったの時期なので、出力低めでお送りします。もうだいぶ長い期間、なんも並べることない、の気持ちで日々を過ごしているのですが、なんでこんなにカツカツのピンピンなのだろうといま数十秒くらい考えこんでみたのですが、たぶん世の事柄に関して、結構な割合で本心の奥底のほうでは、どうでもいいわ、の気持ちがあって、だからすべてがどうでもよいので、言いたいことも並べたいこともとくにこれといって見つからないのかな、と思いつきました。ただ、その本心の奥底を囲うように、さまざまな疑問が分厚く層をなしているので、それらを砕いてみると、ちいさな砂利のようなものになり、それを一粒一粒並べていくと偶然にもこうして文字の羅列になるのかなぁ、といった塩梅がありますが、なにもかもが口から出まかせの定かではないマンの戯言ですので、真に受けないように注意を喚起し、これにてぐっと気温の冷え込んだ夜の日誌とさせてください。どう? 中身のない内容でもこうしてとにかく文字にして並べてみるとけっこうな文字数になるんです。どんな事柄に対しても、ひとまず、「なんで?」「なにゆえ?」「どないして~」と疑問符をぶつけてみますれば、砕けた事象が文字になって、文章の紋様をなす粒子になるのでございますね。ひとまず悩みがあったら、どうしてそう思うのか、なぜ悩みになるのか、何に困っていてどうすればよいのか、を文字にして並べてみたら、それなりに読み物としておもしろい文章になりそうですね。それとなく、わがはいの文章は読み物としておもろいかもよ、と醸しつつ、本日の「いくひ誌。」とさせてください。ではおやすみなさい。(新作掌編:「呪いを祓う呪詛を吐く(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429342545392)」「墓石に華を添える(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429368822479)」)


3357:【2021/12/19*あっぷあっぷ】
ピタゴラスイッチみたいな物語構造の小説が好きなのだけれど、そういう物語構造の小説は基本、中編以上の比較的長い小説でないと表現しにくいので、つくるのも読むのもたいへんだ。でも好きだから、そういうのが好きなんです、とは言っていきたいし、読んでおもしろかったら、これですこれこれ、というのも言っていきたい。とはいえ、なかなか出会えるものではないし、じぶんでもなかなかつくれないので、どうしたもんかなぁ、と悩んでいるうちに時間だけが経過する。掌編や短編でもそういうのがつくれないだろうか、と試行錯誤をしてはいるものの、ピタゴラスイッチというよりかは、ひたすらスイッチを押しているだけ、みたいな単調なつくりになってしまって、惜しいなぁ、の感覚が抜けないのだよね。いちおう、長年温めている物語構造があるものの、力量が明らかに足りないので、ひとまず掌編短編を千作つくってみて自力を培ってから挑戦しようと思っています。とか言いながら単にめんどうなので、簡単に満足感の得られる掌編や短編に逃げているだけなのだよね。でも逃げるのがわるいとは思っていないので、いくらでも逃げちゃう。掌編や短編は、どこでもドアみたいに手軽に旅に出て帰ってこられるので、日々の息抜きにぴったりだ。読むのもつくるのも好きです。さいきんは以前に比べるとわりと頻繁に掌編や短編の詰まった本が出版されているので、書店さんにいくと陳列されているので、とくに文庫本でも目につくようになってきたので、うれしい限りだ。いっぱい読んじゃお。好きな好きがいっぱいで好き好きです、の告白を以って、きょうもきょうとて中身のない本日の「いくひ誌。」とさせてください。します。しました、でした。(新作掌編:「汚れたキミを見ていたい」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429395983310


3358:【2021/12/20*だってモテないんだもん】
いくひしさんは生まれてこの方、恋人がいなかった人なので、もちろん誰とも恋人らしいことをしたことがないのですが、いくひしさんがモテないのはいったんよこちょにおいとくとして、そもそも恋人とか伴侶とか、そういう相手を一生に一人にしか決めちゃいけませんよ、というのは、単純な話として、なんか変じゃない?と直感で、第一印象で、まず何よりさきに思ってしまうタイプなのですが、たとえばお友達はたくさんいたほうがよいよ、みたいな風潮がありますが、これはこれでどうよ、とは思うものの、まあ別に禁止するほどのことじゃあないよな、という点ではそうですね、と納得できるのですが、じゃあ何ゆえに恋人はたくさんつくっちゃああかんのよ、という点では、なんでなの、とどうしても思ってしまうのよね。ただいくひしさんは、一途なひとのほうが好きですし、いっぽうで浮気とか不倫は、関係者すべてが合意のうえでならよいと思うのですが、それはたとえば不倫相手の配偶者とか子どもに内緒でそれをするのなら、それはしちゃあかんくないか、とは思います。話がとっちらかってきたので脈絡を正しますが、そもそも友達と恋人の違いってなんなんよ、の疑問はけっこういつも頭の表層のどこかしらにピリリとあって、いわゆる恋人にはしてよくて友達にはできない、という行為の有無を以って双方を線引きできそうなものの、じゃあ恋人にしかできない行為を友人関係の範囲でしちゃいましょう、みたいないわゆるふにゃららフレンドみたいな関係性もあり、反対に恋人同士でもほとんどお友達と変わらんやん、それもうほとんどきょうだいやん、家族やん、みたいな関係性もあり、もうもういくひしさん、わけわからんのですよ。世の中、どないなっとんねん、の大合唱でございます。恋人ってなんなんよ。お友達ってなんなんよ。ああもう、おまえらみんなわがはいの恋人でありお友達や、それがいやならもう知らん、あっちむいてほいや、の気分でござるけれども、まあまあふつうにいくひしさんの癇癪に付き合わせるのもわるいので、いくひしさんとお付き合いさせるのもわるいので、そこはもうもういくひしさんのほうで世の果てにて、引きこもっているのが筋なのかな、というか、ホントわからんことばかりで、あばばばー、となってしまうので、ホントにホントに独りがホっとします。みなさん、よく耐えられますね。その頭の良さと忍耐力をいくひしさんにも分けて欲しいです、と願望を吐露して、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。


3359:【2021/12/21*人望も人脈も学びとは関係ない】
土を耕し、種を蒔き、萌えた芽がある程度育てば、あとは好きにしてください、とほかの土地を耕しに行く。そういう行動原理を持つ人間は、他者と他者を繋げる接点にもなるが、しかし仲介者ほどには直接に表立って動かないので、おおむねその環境のなかでは高く評価されることはない。というよりも、高く評価されるような人間では、そうした陰に回って土地を耕し、芽を萌やし、放置していても豊かに自在に草花の育つ環境を築く真似はできないのだ。過干渉せずに、雑草を抜き、水をやり、ときに枯れそうな芽には栄養をやり、自ずから暴風雨に襲われても全滅しないような堅牢な盾となる。あくまで環境を整えるだけなのだ。個々に過干渉はしない。だがすくなからずの玄人は、素人を育てるときに過干渉しすぎる。手取り足取り教え、何がダメで何がよくないのかまで教えこもうとする。それでは技術しか育まれない。閃きや、試行錯誤の楽しみを培えない。だから一定以上までは短期間で上達するが、先輩や師の器を越えることができない。壁にぶつかり、やめてしまう。学ぶことと習うことは違う。習ってばかりでは、じぶんで新しい何かを創造するチカラが培われない。どんなに時間がかかってもよいから、自力で問題点を見繕い、改善し、発想し、試行錯誤し、壁を突破する経験を積みあげていかないことには、そういった学ぶ技術は身につかない。学ぶ技術は教えることができない。学ぶ楽しさを知ってもらうよりないのである。そのためには、習うだけでは足りない。むろん、習うことで、学ぶための基盤を敷くことはできる。ゆえに学ぶためには、習うことも欠かせない。しかし、学ぶことを抜きに、既存の技術を体得することを目的にしてしまうと、短期間で周囲からの高評価は得られるようになるかもしれないが、そこそこの高評価で、しだいに評価されなくなり、やがてはその分野から離れることになるだろう(評価されることを目的にしてしまうから、見抜きもされなくなっただけのことでやめてしまう)。そういう、才能やセンスのある人物をすくなからず目にしてきた。共通しているのは、みな習うことばかりに集中して、学ぶ姿勢が欠けていた点だ。学びは、万物から得られる。この世のあらゆる事象が学びの源泉だ。同じ分野にしか目を向けなければ、それは習いごとでしかない。書初めと同じだ。お手本をなぞっているだけなのだ。そのことに気づけるか否かが、学びつづける者とそうでない者との決定的な差となって表れるのではなかろうか。いくひしさんはその差があることは理解しているが、学ぶことが苦手なので、なるべく学んでいきたいな、と思っているばかりの、お手本なぞりちゃんである。それはそれで楽しいので、飽きるまでは、あれやこれやと試しつつ、微々たる学びであれ体現できたら御の字である。(定かではありません)(新作掌編:「手から納豆の糸がでる」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429446297968



3360:【2021/12/22*朝じゃん】
今年つくった分の物語、ほとんど推敲できていないので、初稿のままWEB上に載せてしまっており、読者さんに誠実でなくて申し訳ないな、と思いながらも、そんなこと言ったっていくひしさんの肉体は一つしかないのだから、いっぱい遊ぶ時間を確保するには、そうしなくちゃだししょうがないじゃんね、の開き直り具合で、いくひしさんのかわいさに免じてご容赦いただけると恐悦至極でございます。ありがとうございます。ありがとうございます。つくりかけばかりが溜まっていくいくひしさんでございますが、宇宙のように広く豊かで深淵なるお心をお持ちの読者さまばかりでいらっしゃるので、いくひしさんはその神さまのような慈愛に思う存分甘え放題で、日々をのほほんとほんわかとときに激しく美しく過ごさせていただいております。ありがとうございます。ありがとうございます。わがはい、生きるのへたくそでござるけれども、読者さんにだけは恵まれておるので、本当に運がよいでござる。いくひしさんはべつにあなたがおらずともかってに物語を、うんうん呻りながらもひねくりだせてしまいますが、それはそれ、これはこれ、読者さんのお陰で画竜点睛、物語が作品として完成いたしますので、真実嘘偽りなく、とってもサンキューなのでござるよ。うは。いくひしさんの関係ないところでどうぞ、好きなだけしあわせになってください。なりましょう。よろしくお願いします。お願いしちゃうなんてなんて謙虚なんだ。さすがだいくひしさん。きょうもとってもかわいいね。おはよう。寝ぼけたこと言わせたらこの上なし。本日もよいお日柄で。朝から厚かましい、いくひしまんでした。(新作掌編:「怖いことすんな(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429466902366)」「瞋恚の息吹(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429491466049)」)


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参照:いくひ誌。【401~410】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882848175

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