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いくひ誌。【3361~3370】

※日々、わがままばかりで申し訳ない、などと殊勝に胸を痛めつつも、とくにこれといって変わろうと努めるわけでもないけれど。


3361:【2021/12/23*申し訳なく思ってるだけですみません】
いくひしさんは今年、たぶんだけれど百四十作ちかく掌編短編をつくったようだけれども(二〇一八年からの三年間で五百作以上をこさえたようでもあるそうですが)、しかしこれはいくひしさんがアマチュアだからできることであって、好きなときに好きなものを好きなように好きなだけつくることをじぶんに許しているからであり、仮にいくひしさんがプロになれたとして、プロとして創作をしはじめたとしたら楽観的に見積もってもいまの五十分の一くらいしかつくれなくなると思います。それだけプロで活躍するにはプレッシャーがかかりますし、乗り越えなければならない艱難が多いのですよね。いくひしさんは重圧に弱いので、よわよわのよわちゃんなので、かたつむりさんの触覚よりも敏感ちゃんがために、ちょいと圧に触れるだけで、ぎゅぎゅーん、と縮こまって殻に閉じこもり、雨が降るまでもうでん、みんながいなくなるまでこのままや、みんななんか知らん、と鉄壁の引きこもりと化しますので、まあいまも引きこもりという点ではそんなに変わらんと言えば変わらんのですが、本当になんというか、プロで物書きをしていらっしゃる方々の強靭な精神力と経験値の高さ、加えて、重圧をそいやそいやと捌いて、避けて、ときに受け止める器の大きさには、いくひしさん、悔しさのあまりにムッキー!と干し芋を食い千切りながらも感嘆するばかりなのでございます。本当にすごいと思います。真似できませんし、そんなにたいへんな思いしてまでどないしてー、と若干引き気味でごじゃるが、がんばれがんばれ、と遠い星から声援を送ってばかりの益体なし。お役に立てず、かたじけのうござる。しかしそこはさすがのいくひしさん、しょんぼり肩を落としたさきから、もういいかい、とみなみなさまの顔色を窺い、渋々許しをもらい受けたら、うひひ、と反省の色を脱ぎ捨てて、お外に飛びだし、雪遊びをはじめちゃう。雪だるまに雪合戦、カマクラつくって潜って、立って崩して、シャベルで潰して、圧し固める。そしたら最後に滑り台にしてほっかほか。身体が汗ばんできたところで、お風呂に浸かって、はふはふぴゅーん。しゅあわせってこういうことよ。あしたは何して遊んじゃおっかな。わくわくしながらふかふかおふとんにモゾモゾとくるまり、夢のなかでも遊んじゃう。そういう日々を送れたらよいのにな。甘っちょろい妄想を浮かべて、寂しい気持ちに蓋をする。じっくり熟成させたらほぉら、珠玉の孤独のできあがり。これこそ物語の材料だい。ガラクタを宝物みたいに取りだして、矯めつ眇めつ眺めまわして、さあてきょうは何をつくろっかな。舌舐めずりをしたところで、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみー。


3362:【2021/12/24*秘め事ばかりの世の中】
いまは世の賢い人たちはみな、いかに都合のわるいことを表に出さないか、に苦心を割いているので、一見よい世の中になってきたなぁ、と思っていても、それは目に見える範囲に不都合な事実が昇ってきていないだけのことであり、あまり楽観的になりすぎないほうがよいように思うのだ。これから到来する社会は、被害者ほど被害者であることに気づけない社会であるはずだ。むしろ、自ら加害を受け入れ、それによる微々たる利益をありがたがるようになる。搾取されていることに気づかず、自らの手により自らの人生をやせ衰えさせていく。別の言い方をするのならば、牢獄に入れられるのに似た生活を自ら望んで送るようになる。それで満足できるくらいに技術力が発展する、と言い換えてもよく、牢獄との違いはただ、その技術力を享受できるか否かの差があるばかりとなる。そこにきて、では囚人との違いとは何かといえば、それはすなわち、そのときどきにおける標準的な技術を手にできるか否かにあると言える。これからの社会における罰則や不利益とは、いかに社会からの恩恵を受けられないか、にあり、技術力からどれほど切り離された生活を送る羽目になるのか、その度合いこそが罰の重さに直結すると妄想できる。人権の尊重が謳われれば謳われるほどに、この妄想は現実味を増す。現代社会においてすでに自由は幻想だ。言動に自由はなく、あるのはただ牢獄の中での自由のみだ。それですらほとんど妄想を抱く余地しかない。しかしそれで満足できる社会になっていくし、そう仕向けるような社会になっていく。すべての人類がそうなるのではなく、一部のより高度な技術を扱える者たちは、あたかもバリアをまとうかのごとく社会制限を受けることなく、より身体的な自由を満喫するだろう。それを、独占する、と言い換えてもそれほど的を外してはいないのではないか、と妄言を吐いて、本日のあやふやな「いくひ誌。」とさせてください。(新作掌編:「もっとちゃんと吟味して」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429515664337


3363:【2021/12/25*指紋並みに浅い所感】
至極狭い観測範囲での底の浅い所感にすぎない、という但し書きを挿したうえで述べるが、ここ半年あまりのSNS上での変化としては、みな情報を制限して書くようになってきており、以前よりも慎重になったがゆえに、誰であっても簡単に拾えて扱えるようなビッグデータでは、活用するだけ不利になってきた感がある。みなようやく黙ることを覚えはじめたので、表層のデータを見ているだけでは何も分からないどころか、ほとんど判断を間違えるだろう、と言えそうだ。これまでは、ウソツキは平然と嘘を吐き、正直者は慎重な発言をする傾向にあったので、その落差に焦点を当てて観測するだけでも、それなりに情報を篩にかけることができた。しかし現在はウソツキも学習しはじめたので、正直者のような装飾を施し、まっとうなことを言いながら任意の方向に人々を錯誤させる技術を身につけはじめている。すこし前の政治家や著名人たちが行っていた情報偽装技術が、一般人にも浸透してきたと言えるだろう。けっきょく、何を言っているか、ではなく、何をしているのか(してきたのか)、が人物評価としての価値基準となっていく。つまり、そこには他者評価は優先されない。なぜなら、ある人物において「何をしているのか」にしても、「何をしてきたのか」にしても、それは他者の評価に左右されないからだ。エベレストを登頂した人物がいたのならば、その人物がいかに大勢から非難されていようとも、エベレストを登頂した事実は覆らない。事実は事実だ。変わらない。それをみなが認めるか否か、高く評価するか否かに関わらず、エベレストに登った者は、登っただけの経験を重ねている。得ている。積みあげているのだ。みな慎重になってきたがゆえに、他者評価の儚さ――ともすればバブルが弾ける予兆を感じとっているのかもしれない。いいね数も、フォロワー数も、輝かしい経歴も、受賞歴も――しょせんは画面上の数字にすぎない。幼子がノートに貼って満足するシールと変わらないのだとみな薄々気づきはじめている。シールはシールで、楽しいものだ。あればうれしい。もらえたらうれしい。だがそれを日々の行動指針にしてしまうのでは、何かがおかしく、虚しいのだと認めはじめているのではなかろうか。ようやくというか、すこし遅すぎる気もするが、何にせよ、じぶんが何に縛られているのかには自覚的でありたいものである。(定かではありません)(シールがゼロというのも、それはそれで虚しいですけれどね)(シールもなければ事実すらペラペラのいくひしさんみたいな人はどうしたらよいですかね)(虚しい×虚しい=とっても虚しい)(いくひし、虚しいの、好きぃ)(虚しさすら自在に制御できるとよいですね)(新作掌編:「箱と箱と箱」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429537340282


3364:【2021/12/26*指標】
個人的には、その人物が「何をしているのか(してきたのか)」よりも「何をしていないのか(してこなかったのか)」のほうに関心が向く。よくもわるくも、その人物の本質を的確に表すのは、何に興味を示さず、何を重んじないのか、なのだ。(適当な思いつきを言いました。すみません)(例外は多分にあるでしょう)(人間はそんなに単純ではなく、もっと多くの要素が複雑に絡み合って、人格の編成や行動選択を行っています。さらにそこにその人物への人物評価を行う際には、評価者の価値観が反映されますので、よけいに複雑になります。人間は人間を評価した時点で、本質を見失う、と言ったほうがより正確なのかもしれませんね)


3365:【2021/12/26*所感詰め合わせ】
「日誌で書いたことに後日、本気で反論してみる。これが思考を鍛える最も容易で効果的な手法である(という意見に本気で反論してみよう)」「小説家は小説を書く技術を極め得るが、ただそれだけである。どれほどの文豪であれ、例外はない。勘違いしてはいけない。小説家はそれ以上でもそれ以下でもないのだ。人間がそうであるのと同じように」「なんでもかでもじぶんと直接に繋がって関係しているように感じはじめたら危険信号だ。間接的には繋がっていることはあっても、基本的に人間が直接に関われる事柄はすくない。何かよいことがあっても、わるいことがあっても、それは往々にしてじぶんと関わりがあったからそうなったわけではないのである。思い詰めないように(勘違いしないように)」「うわーん、なんも終わらんまま今年が終わる。人生も終わる」「終わっとけ、終わっとけ」「どこかにゴールとか答えがあると思うから苦しくなるし、焦るのだ。ゴールなどはない。答えなどはない。否、それを言ったら、ゴールがないがゆえにどこがゴールでもよくなってしまうし、答えがないことが一つの答えになってしまう。そうではないのだ。ゴールはまだ見えていないだけであり、答えもまだ導きだせていないだけで、どこかにはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。辿り着くのかもしれないし、編みだせるのかもしれない。分からないけれども、その分からないままでも求めることはできますよね、という態度が最も気の安らぐ日々を歩める気がする。分からないままでもよいのだ。ぼんやりとであれ、求めつづけていられるのなら。無欲でも無心でもなく、ときどき夢中になれるのなら」「人生、ほとんど夢の中」「強欲でもなく、貪欲でもなく、我欲でもなく、無欲でもなく」「定かではありません」(新作掌編:「足跡の怪」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429580158743


3366:【2021/12/27*変化はつどそのときどきで】
死にかけの状態でつむいだ小説はおそらく小説の体裁を保てないほどにボロボロのスカスカな物語と文字の羅列になるが、しかし同時にその状態にならなければつむげない物語に文字の羅列になっているはずだ。これは死にかけに限らず、そのときどきのじぶんにはもう二度と戻れないのと同じレベルで、日常的に訪れている一期一会である。小説の出来とは関係なく、物語はそのときどきのじぶんにしか宿らないある種の制限を受けながら姿を現す一粒の雪の結晶なのである。どうだろう。なんとなく文学的なことを言ったように読めないだろうか。ダメか。ダメだな。じゃあいまのナシで。(新作掌編:「お腹空かして待っています」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429590189473


3367:【2021/12/27*すかんぴん】
もうだいぶ長いこと、なんもでてこない、駄作ばっかりや、の気分で文字を並べているけれども、いくひしさんじつは駄作が嫌いではないし、わがはい駄作づくりの天才では、みたいなノリであたかも、駄菓子づくりの天才では、みたいに曲解しつつ毎日かろうじて、ふーふー、言いながらもしどろもどろに満身創痍でごじゃるけれども、あーえっと何を並べようとしたのだっけ、もうほんと数秒前の記憶すら曖昧模糊にモコモコベルトコンベアーでござるけれども、つぎからつぎに羊が一匹、羊が二匹、キツい自我が三匹、と段々と自我が崩壊してきおるが、もう誰かなんとかしてフシャー、と全方位に唸り声をあげながらも、なんとかかんとか、手を抜き、腰を引き、その場に大の字になって、おらもう寝るだ、夢の中にダイブじゃ、だいじょうぶじゃ、の三段論法を駆使して、じぶんになんの根拠もない、だいじょうぶだじょ、を突きつけて、そっかだいじょうぶなんだね、とほっこりしながら、何の解決も見せない日々を、のほほんと真後ろに忍び寄る危機に気づかぬふりをしつつ過ごしていく本日のいくひしまんでござった。(ござったじゃないです)(うひひ)


3368:【2021/12/28*日誌詰め合わせ】
「あしたから来年の三日までの六日間、遊び場が休みなので、お家でゆっくりできるけれども、ほかの遊び場に遊びにでる予定もあるので、たぶん毎日お家のそとにはでるはず。思ったよりこいつ動きよる、と、ぎょっとされるタイプのナマケモノなんですね。わがはい、そうなんです。思ったより歩くの速いナマケモノなんです(引きこもりだっておそとでるよ)」「むかしのじぶんの小説読み返したら、いまの自作より面白いかも、の驚きに見舞われ、わなわなと腕が震えてしまったな。過去のじぶんにも負けっぱなしなんて、いくひしさんってばよっぽど負けるのの達人なんですね。ザコザコだぜ」「前にも述べたことがあるけれど、いくひしさんのつむぐ物語にたびたび登場する、主人公の相方こと「ミカさん」の掌編は、小説家「斜線堂有紀」さんの「不純文学」に影響されてつくっています。あれはドラえもん並みの発明だと思います。ショートショートのつくり方のお手本として未来永劫語り継げるほどの発明です。あれはすごい。パンのつくり方、くらいの発明です。誰であってもこれさえあれば美味しいショートショートがつくれます、くらいの発明です。ちなみになんでパンがこれほど現代社会に普及したかと言えば、作り方が簡単で、材料が手に入りやすく、誰でも美味しく作れるからです。優れたアイディアほど、比較的簡単に再現でき、高品質の品を完成させられます。そこにきて、斜線堂有紀さんの「不純文学」ですが、先輩と後輩の関係を、姉妹にも恋人にも友達にもライバルにも、上司部下、探偵助手、敵味方、師弟、愛憎、運命、同士、親子、未来人現代人、地球人宇宙人、分身、赤の他人、なんにでも代替可能で、おおむねの人間関係がじつは「先輩と後輩」で表現可能なのだと気づいたその着眼点、発想の妙は、ノーベル文学賞級です。いままでそんな作家いたのか? いたらすまんね。知らんけど。ホントなんでもっとみんな話題にせんの? ぜひ斜線堂有紀さんには「不純文学」にでてくるお二人、「先輩と後輩」を主人公にした長編を書いて欲しいと思います。いやマジでショートショートの教科書に載せたほうがいいレベルの発明です。駄作製造機のいくひしさんが言うのだから間違いない。世界一の味音痴でもこのレシピを参考にしたらおいちいお料理がつくれます、みたいな具合です。おもちろい掌編つくれるようになりたい方はみなさん、参考にしてみてはいかがでしょう。いくひしさんはしました」


3369:【2021/12/28*点点点←シャワーに見える(蛍光灯でも可)】
視点について述べてみます。虹彩を絞ったり緩めたりすることで光量を調節するように、或いはカメラのレンズを拡張したり収縮させたりすることで焦点を合わせるように、時間に対する認識もそのつどそのつどで、伸ばしたり縮めたりできると、いろいろな問題を扱う際に、何が最も重要視すべきかの優先順位をつけやすくなると言えそうです。俯瞰の視点が、長期的な視野を保ち得るように、どれほど長い時間の流れを一連の歴史として捉えられるのかによって、問題に対する認識は自ずと変わってくるものです。たとえば、現代人にとっては百年前から二百年前がせいぜい扱える人類史であり、だいたいの人間は生きてきた範囲の時間感覚で物事を判断していると言えるでしょう。それ以前の人類がどのような生活を送り、人口がどのくらいいて、そしてそのときどきの社会では命に対する扱いがどうだったのか、言い換えるのならば、倫理や常識がいまとどのくらい違っていたのか、を把握できている者は全体に比して極少数と言えるはずです。極々短期間の社会構造を基準としてしまえば、往々にして、過去の過ちを繰り返したり、目前に迫った危機に気づけなかったりするものです。それは人間社会にのみ言えることではなく、自然環境でも同様です。気温の平均がどうだったのか、動植物の群生はどうだったのか。技術の発展と自然環境の変遷のデータとて、観測しはじめたのは比較的近代に入ってからであり、それ以前の環境に関しては、地層や氷層、化石などの遺物から類推するしか術がいまのところはないのではないでしょうか。現代人が基準として考える「これまで」や「普通」というものはけして基準足り得るほどには不変ではなく、ましてや普遍でもありません。にもかかわらず、たかだか数百年(長く見積もっても数千年)の歴史しかない文芸におかれては、普遍性、などとたわごとをのたまっている実情があるようです。いくひしさんは歴史に明るくはありませんが、それでも現代人に扱える普遍性などというものが極々微々たるものであり、ひょっとしたらそんなものは一つもないのかもしれない可能性を考慮するように努めています。もちろん形而上学的な、概念上の可能性や、いまここに触れられない遠い未来や過去についてをいちいち私生活のうえで吟味していては日々を健やかに送ることのむつかしい社会情勢は承知しておりますが、いささか視野が狭すぎるのではないか、と思わないわけでもありません。愚痴のようになってしまいましたが、ともかくとして、いくひしさんを含め、いくらか視野の狭い人間が多すぎるのではないでしょうか。というよりも、人間にはどうあっても視野の限界があると言えそうです。そのために、より多彩な物の見方のできる人間を多様に育み、共存していく仕組みが欠かせないのではないでしょうか。人間は視野狭窄です。しかし人類は地球を一つの眼球と見立てることのできるほどに巨大な視野を持ち得ます。いまや天体観測は、地球の直径を超えた電波望遠鏡により、より遠くの(昔の)宇宙の姿を捉えることが可能となりつつあります。人工衛星同士を結べば、その直径を延ばしていくことは技術的に可能です。比喩ではなく、物理的に人類は視野を拡張し、自在に操る術を編みだしつつあるのです。個々にそれほどの視野の獲得を期待するのはむつかしいですが、しかしせめてどの程度の大きさの視野を人類が獲得し、どのくらい微細な世界を覗けるのか。視野の限界についてくらいは、そのときどきで知れるくらいには、視野の広さを保ち、視点を自在に、俯瞰にも仰望にも、鳥の目(マクロ)にも蟻の目(ミクロ)にもそそげるようになれたらうれしいですね。はい。いくひしさんはうれしいと思います。(以上です)(本日も定かではないことばかり、好き勝手並べた文章をお読みいただき、ありがとうございました)(まったくだよ)(ホントホント)(読むほうの身にもなれ)(なんか叱られたんじゃが)(褒められてもよい場面だったのでは?)(駄文ばっかりつむいで、いくひしさんはえらいですね!)(蔑むか慰めるかどっちかにして……)(ふひひ)


3370:【2021/12/29*助けない言い訳に使わないでほしい】
温情主義と訳されることもあるパターナリズムの批判を、ここのところ見聞きすることが増えた。よくは知らないが、立場の上の者が、立場の下の者のために、立場の下の者たちの意思に関係なく過干渉することをパターナリズムと言うらしい。だがパターナリズム批判は、自己責任論と相性がよい。困難や災難に直面した者があったとしても、助けを求められなければ放置したり、或いはそもそも周囲の余裕のある者たちが他者へ干渉して助ける余地を失くすからだ。パターナリズムにもむろん欠点はある。たとえば、立場の弱い者への干渉が必ずしもよい結果を生みだすとは限らない点だ。また干渉した結果にミスをしたとき、立場の強さを利用してそのミスをなかったことにしてしまう隠ぺい工作がまかり通る余地もある。だがこれらは立場の上下が極めてシンプルであり、一面的な物の見方がされていることが問題の因子となっている。本来、立場の上下とはそのときどきの環境で変わっていくものだ。会社の役員も一歩外にでればただの人だ。父親にしろ母親にしろ、その者にも親があり、誰かの子供であることに変わりはない。若者とていつかは老いる。どんなに体力のある者とて、いつどこで怪我を負い、病気になるかは分からない。そのときどきに立場の上の者や余裕のある者が、立場の弱い者や、余裕のない者を支援すればいい。肩入れすればいい。これらをパターナリズムとしてくくり、さも権威主義の宿痾が巣食っていると見做すのは、短絡的ではなかろうか。パターナリズムの問題点は突き詰めれば、立場の上下が固定されており、一方通行であり、かつ一面的な点にある。本来、立場の上下は、もっと相対的で流動的で多面的であるはずだ。至極単純な話に思うが、違うのだろうか。弱い者いじめをしない、困っている人がいたら余裕のあるときは援助する。これをパターナリズムと関連付けて批判するのは妙に思える。もっともらしい学術用語を使えば、雑な批判も正当性を帯びて感じられるが、理屈に合っていなければ批判としてはやはりお粗末だ。批判をするなら最初に場合分けをして、限定条件(フレーム)を決めてからしてみるとよいのではなかろうか、とこれまたお粗末な所感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ちなみに現時点でのいくひしさんは、パターナリズム自体には批判的です。パターナリズムで扱う「立場の上下」においては、権威が固定されており、独裁との区別がつかないからです。これもまた視点の少なさが問題の根っこにありそうですね)(助けの手を差し伸べたことで、立場の上の者の権威がさらに強まってしまうのも問題の因子の一つかもしれません)(パターナリズムのもうすこし限定された意味合いでは、「他者の権利を侵害しておらず、公共の福祉にも反していない行為に対し、あなたのためだよ、と言ってそれら他者の行動を制限するような態度」を示すそうだが、詳しくは知りません)(新作掌編:「大地は何を奪われて?」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429603922060


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参照:いくひ誌。【2451~2460】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054893277360

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