※日々、間違うことしか選べない、どっちがよりマシかの違いでしかない。
2451:【認めます】
大勢に届ける、という考え方がもうじぶんに合わないのだ、とようやく認められるようになってきた。逃げなのかも、とこれまで思ってきたけれども、たとえそうでも、細々とちんたらやっているほうが気が楽だし、苦しくない。息をしている感じがちゃんとする。性に合っているのだ。すこしほっとした。
2452:【さいきんうれしかったこと】
柿の種のわさび味が好きなのだけれどそれのピーナッツなしバージョンが売られていたのを発見した。しかも百円! あとパラパラ雨が降って、水溜りができない程度に濡れた道路のアスファルトは、夜だと街灯の下を通るたびにキラキラ宝石の道みたいに細かく光っていて、それを追いかけるみたいに自転車を漕いでいるあいだが、いくひしさんは好きなのだ。雪が降ってるときも同じように、同じ映像が繰り返し流れているみたいで、街灯のしたに自転車を止めて、ずっとうえを見上げているのが好きだったりする。あといまは、かっぱえびせんを食べています。夜なのに! かっぱえびせんを食べています。あとは寝るだけなのに!かっぱえびせんを!食べています! しょうが湯も飲んでいて、すごく美味しい。
2453:【ミカさんはお姫さま】
あれほどお姫さまになりたいと言い張っていたミカさんがイモムシになってしまった。私は潰してしまわないようにマッチ箱にミカさんを入れて持ち歩く。ミカさんは日にレタスをひと玉たいらげてしまうので、私は彼女のレタス代を稼ぐために新しくコンビニのバイトをはじめた。いらっしゃいませー、と私が言うと、ミカさんがマッチ箱のなかから、ませー、と復唱する。店内のお客さんがこぞって振り返るので、私は裏声で、ませー、ませー、とエコーを利かせなくてはならず、きょうはそのことで店長にこってりしぼられた。帰り際にスーパーに寄ると、ミカさんがレタスは嫌だと駄々をこねた。イモムシのくせに生意気だ。私は疲れていたのでレタスの代わりにキャベツを買って帰った。翌朝、ミカさんはキャベツの表面にひっついてサナギになっていた。声をかけても返事はなく、サナギのなかでドロドロに融けているミカさんを想像しては中を覗きたい衝動と闘った。一週間ほど闘いつづけているあいだにミカさんは、サナギの背中をぱりぱりと割って現れた。ぷはー、くるちかった、とさっぱりした顔をこちらに向ける。私のよく知るそれはミカさんの姿で、でも背丈だけは親指サイズのままだった。これじゃまるで小人ですね、と私が言うと、ミカさんは、おやゆびひめー、と楽しそうに笑うので、私はしょうがなく指輪を外して、ミカさんの頭に載せてあげた。今夜は葉っぱ以外が食べたい、とミカさんがお腹を鳴らすので、特別にステーキを焼いてあげた。イモムシのときとは違って、小人のミカさんはステーキを一切れだけでお腹をさする。これくらいなら、と私は思う。標本にしてしまわずともずっと手元に置いておけそうだ。買ったばかりの「マチバリと防腐剤と注射器」は押入れの奥深くに仕舞っておくことにする。
2454:【ミカさんはビッグバン】
ミカさんが死ぬとこの宇宙が終わってしまうので、みなミカさんを死なせぬように必死だ。怪我をされると困るので、彼女は身動きを封じられ、それを苦として自殺されても困るので、薬で深く眠らされている。この宇宙はミカさんの寿命と密接に絡みあっていて、がんじがらめで、どうやらミカさんが死ぬと同時に終わるらしい。なぜ、と問われても、そうだから、としか説明できない。世の天才たちがこぞってその謎の解明にいそしんでいるが、明らかになるのはどうやら予測が揺るぎないという事実ばかりだ。つまるところミカさんが死ぬと宇宙が終わるというただそれしきの未来が不動の地位を築きあげる。彼女を凍結処理してしまおうとする案がだされたが、死をどのように定義するかによって、いくつかの派閥ができ、けっきょくミカさんは年々歳を取りながら、確実に死へと近づいている。ミカさんはどんな夢を視ているのだろう。せめて夢と夢を繋ぎあえたらよいのに。私はその技術を開発すべく尽力し、ミカさんの頭に白髪がまじりはじめた時期にようやくその技術を確立させた。私はミカさんと夢で繋がる。しかし夢のさきでもミカさんは、宇宙の存続と一心同体で、現実と同じように深い眠りを課せられている。私はそこにいるもう一人の私と相談し、ほかの夢でも同じようにミカさんは眠りつづけているのだろうと結論した。私たちは彼女の見る多重の夢のなかに生きており、宇宙はそうした泡のような夢によって膨張しつづけている。どの夢のなかのミカさんが死んでしまっても、すべての宇宙は順々に霧散する。まるでドミノ倒しのように、或いは連なる無数のシャボン玉のように。私はほかの私たちと相談し、共同し、そしてミカさんを起こすことにした。彼女が目覚めると多重の宇宙はひとつに収斂し、私はその手に握ったナイフで寝ぼけたミカさんの胸を突く。おはようミカさん。ナイフを引き抜く。そしておやすみなさい。何が起きたのかも分からぬままにミカさんは血にまみれており、私はそんな彼女の身体を抱きしめる。目を覚ます(眠る)べきは私たちのほうだ。
2455:【お世辞ではなく】
斜線堂有紀さんの「不純文学」は発明だと思う。三十年つづけて一万作つくってほしい。(上記二つの掌編は不純文学に影響されてつくりました)
2456:【堕落の極み】
しょーっく。新作が一個もできてない。なんでやー。ぶーぶー。サボりすぎているのだよね。もっとがんばんなきゃなとは思うものの、遊んでしまうのだ。さいきんは読書がまたおもしろくなってきてそっちに時間を割きがちだ。言ってもそんな何時間も読んだりはしないので、以前に比べたら、くらいの塩梅で。そうそう、スーパーで売ってるミカンヨーグルト味みたいな箱アイスがすごく美味しくてさいきんは毎日食べてる。あとはショーガ湯と紅茶を交互に飲んでいて身体はぽかぽかだし、いっぱい寝ているから身体は軽いし、頭もスッキリしていて、悩みは忘れられる程度の細かいのがたくさんあるけれども、暇つぶしに一つずつ思いだして、あーやだなー、って思ったら、また現実逃避が楽しくなって没頭してしまう。いつか切羽詰まって人生終わってしまいそうだけれども、どうせあっという間に終わってしまうのだろうから、期待通りの人生を送っていると言ってもよいのかもしれない。いまのところの目標がこれといってとくになくて、いま目のまえにある新作やつくりたいものを順次完成させていければな、と思っている。もうそれがやりたいことなのだ。それ以外にはさほどにもなく、それを妨げるようなものはぜんぶ邪魔に思えてしまう。なくしていきたい。よこちょに置いていきたい。でもでも、それだけじゃ生きていけないから悩んでしまうのよね。上手に生きていくのもできていないし、つくりたいものも満足につくれていない。それもまた愉快だなって思うのは、さすがに現実を直視してなさすぎますでしょうか。逃避すべき現実があればあるほど、逃避先が楽園に思えてしまう人間の欠陥に思いを馳せて、本日の「いくひ誌。」としちゃいましょう。あ、まんちゃん。きょうは風がつよいのでおそとを出歩くときはお気をつけてね。
2457:【組み合わせの数だけ面はある】
世のなかには「強者(勝者)と弱者(敗者)」がいるものだが、それは必ずしも固着した属性ではない。というよりも、どちらかと言わずして、極々一部の組み合わせの限りなく狭い範囲での属性にすぎない。ジャンケンのようなものだ。ジャンケンで負けたからといって、では一生あなたが敗者かと言えばそんなことはないし、ジャンケンで勝ったからといって相手を一生敗者として扱う道理もない。勝敗に限らずこれは強者弱者にも言えることだ。一人の人間のなかにも、いろいろな強みや弱みがあり、その強みや弱みですら、誰と比べるのか、いつどんな場面で発揮するのかによって、強みは弱みにもなるし、弱みが強みにもなる。極論、「弱者だから」という理由で反撃されないのをいいことに相手を追い詰めるような真似をすれば、それは「強者の側面がつよくでている」と評価できよう。弱者であることすらときに優位に立ち回る武器となる。武器を持てばそれだけで強者に一歩近づいている。振りかざせばそれはもう強者の側だ。「強者(勝者)と弱者(敗者)」といった一見すると二組しかない属性であっても、いつどんな場面で誰にどのように振る舞うかによっていかようにもその力関係は変化する。誰もが弱者になるし、強者にもなる。弱者でありつつ強者であることもある。というよりも往々にして同時に満たしているものだ。それは自覚してなれることもあるし、意図せずになることもあり、たいがいは望まずしてなる。いじめられっこが家では母親に暴力を振るって泣かせていたり、威圧的な上司が家庭では居場所がなくて爪弾きにされていたり、誰もが誰かを虐げ得るし、虐げられ得る。一面的に世界を眺めるのではなく、なるべく多くの視点があると前提して考える癖をつけておくと、知らぬ間に誰かを踏みつぶしていたり、踏みつぶされていたりする未来をすこしでも回避できるようになるかもしれない。多様な視点を想像する癖をつけたところでいますぐに「不毛な未来」を回避できるようになるわけではないが、すくなくとも想定しないでいるよりかは回避する確率はあがるはずだ。見えていない場所があるかもしれない、ではなく、あるのだ、と断定しているくらいがちょうどよいのかもしれない。(いい加減なことを述べました。申しわけありません)
2458:【重心移動】
本なんか読んでいても目のまえに人が倒れていたときにどうすればいいのかなんてまるで解からなくて、だったら本を読む時間で救命処置の訓練をじっさいに体験したほうが有意義な気もする。ただ、こういう問題は往々にして二者択一ではなく、どちらとも選択すればよいだけで、そもそもが比べるようなものではないのだ。実体験と知識は双方に互いを強化しあう。どちらかいっぽうだけ摂取するよりかは、両方まんべんなく摂ろうとしたほうがよいのかもしれない。ただ、言を俟つまでもなく過不足なく、偏りなく、体験も知識もバランスよく摂るなんて真似はなかなかできるものではない。食事ですらそうなのだから、計量化しにくい「体験と知識」ともなればどちらかが不足してあたりまえであるし、偏りができておかしくはない。反面、どの程度の不足があり、偏りがあるのかは自覚できると好ましい。足りなければ補えるし、偏っているならば補完し、ときに修正できるはずだ。もちろん不足していてダメだ、なんてことはないし、偏っているのが間違っている、なんてこともない。不足や偏りを感じるときには、何かしらの基準があるはずだ。その基準をまずは自身にとって好ましいカタチに近づけるほうがより優先される事項だろう。他人から見て不足して見えたところで、あなた自身が満足しているならそれはそれでよいはずだ。偏っていると指弾されたところで、じぶんがそれで困っていないならそれもまたよいだろう。ただし、現状それでよいからといってそのままにしていれば、未来において本来ならば対応できてしかるべき隘路に対して予想外に手こずるかもしれない。ときには足をすくわれるだろう。誰かから見て不足しているのならば、それはやはりその誰かにとっては何かが欠けているのだ。じぶんには視えていない、気づけない何かが欠けているのならば、それが何であるのかくらいの関心は向けても損はしないのではないか。偏りにしても同様だ。誰かから見て偏っているのならば、その誰かが安定している場合にかぎり、じぶんのほうはより不安定になっていると呼べるはずだ。もちろん不安定であってわるいというわけでもない。自由であるならば基本的には不安定なのだから、偏りはあってむしろしぜんだ。欠けているからこそ動き回る余地があるとも言える。ぎちぎちに満ちていれば、動き回るのはむつかしい。動きまわる余地があるというのは言い換えれば、欠けているものに囲まれているということだ。間隙が広ければ広いほど、動き回る余地ができる。大きな岩も、細かく砕けて欠けてしまえば、砂のように流動しやすくなる。さらに細かく砕ければ、風にさえ舞うだろう。あべこべに、自由すぎれば不安定ゆえに、融通がきかなくなることもある。重力に縛られているからこそひとは地上を駆け回れる。無重力空間ではそうもいかない。ある程度の不自由さは、安定に繋がり、より「自在」に繋がるはずだ。何にせよ、自由よりも自在であるほうが求める価値は高そうだ。自在はしかし、自由の余地がなければ得られず、同時にある種の制限も欠かせない。自在を獲得したければまずは許容できる制限が何で、どんな不足や偏りがじぶんにとって好ましいかを知っておくのがよさそうだ。本来であれば拒むべき「不足」や「偏り」であろうとも、使いこなせばそれは「自在」に繋がる。善悪や美醜にも同じことが言えるだろう。何を選び、どのように用いるか。どれを選びとり、どのように工夫するか、そして何よりどんな自在を思い描くかという理想がさきだってカタチづくられていなければ、いかに満ちて平らであろうとも、そこに自在は宿らないものなのかもしれない。(またそれっぽいことを並べてしまいました。真に受ける余地が微塵にもありますか?)
2459:【便利なものに巻かれる社会】
ワイヤレス化の急速な普及は目覚ましいものがある。充電もそうだし、イヤホンを含めたスピーカーはもうほとんどワイヤレスだ。線で繋いで音楽を聴く、という感覚はもう若い世代には通じないだろう。ワイヤレスではないイヤホンをしていたら、その耳から垂れてる線はなんですかオシャレですか、なんて素朴に言われてしまいそうだ。ワイヤレスの大きな利点は、共有できる点だ。同じ楽曲を同時に聴くことができるし、複数のスピーカーを同期すれば、音を爆音でかけられるし、立体音響にもできる。スマホさえあれば、あとはスピーカーを部屋の四隅に置くだけでちょっとした映画館気分を味わえる。スピーカーもどんどん値段が下がってきていて一万円あればかなり大音量で音質のよいワイヤレススピーカーを購入できる。ものすごい時代だ。いくひしさんの感覚だとここ数年で線で繋ぐタイプのワイヤレスではないスピーカーは見掛けなくなった。ラジカセを知らない若い子もすくなくないだろうし、ワイヤレス機能のついていないスピーカーはもはや売ってもいないのではないか。いや売ってはいるのだろうが、それにしても、スマホを中心として世のなかの技術がどんどん洗練されていく様は、何かこう、目という機能を獲得した生命の進化を彷彿とさせる。どうやら社会というものは、もっとも便利な道具を中心に発展していくようだ。このさき、いま以上に、情報を共有することの社会的価値はあがっていくだろう。一つの「端末(窓口)」さえあれば、あとは情報を拡張するためのスピーカーのような補助具があるだけで誰もが満足に用を足すことができる。スピーカーを所有することもなくなっていくだろう。施設なら施設、部屋になら部屋にそうした機能が電灯のように端から付属するのがあたりまえの世のなかになっていく。IoTなんて言葉もあるが、社会にとってあたりまえになりすぎてその言葉そのものがなくなるかもしれない。ワイヤレスなんて言い方も通じるのはいまだけだろう。むしろワイヤレスではない機器なんてあったんですか、という社会になりつつある。便利なものはとくに宣伝しなくとも普及するようだ。現物を使ってそれが好ましければ口コミであっという間に広がる。情報もおそらく似たようなものだろう。本当におもしろいものであれば黙っていても売れる社会が近づきつつある(本当におもしろい、と思うような人の元に適切に商品が届く社会が、と言い直したほうがより正確かもしれない)。宣伝をするものはむしろ売れていないし不便だ、と錯覚されるようになるのも時間の問題だ。(希望的観測にすぎる文章ですので、真に受けないように気をつけてください。宣伝しなくとも売れるくらいに便利な商品なら、宣伝すればもっと売れるのが一般的な感覚なのではないでしょうか。ただし、よりたくさん売れることにいかほどの価値があるのか、と疑問に思うひとが、むかしよりもいまは増えてきているのかな、との印象もあります。発展するには売れなければならない、という強迫観念は今後、薄れていくと妄想しています)
2460:【またサボってしまった】
けっきょく新作が終わらずに新年を迎えてしまいそうだ。さいあくだ。さいていだ。好きなことも満足にやり遂げることもできない。何者にもならずともよいというか、どちらかと言えば何者にもなりたくないからいまのままがよいけれど、なにもできなくなるのだけはいやだなあ。せめて好きなこと、やりたいことくらいはやれるようになりたい。やり遂げられるようになりたい。でも、なりたい、と言っているようじゃたぶんなれなくて、なりたい、なんて言ってないでまずはやってしまうくらいでないといけないのだよな。こんなつまらない、くだらない、憂さ晴らしの日誌なんかつむいでいないで、その分を新作にあてていればいまごろ十冊分以上の新作がつむげていたはずなのだ。なあんてこんなとらぬぽんぽこりんの皮算用をしてしまう時点でダメダメなのだ。そして来年もこのままダメダメなままの一年を過ごしていくことだろう。それもまたよしと思ってしまう自堕落な我が身を振り返り、ダメダメなままでも生きていける日々に感謝をして本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。
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参照:いくひ誌。【991~1000】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884688593