※日々、周りのひとがすごすぎる。
2461:【よい落とし】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。きょうは2019年の年末大晦日でござる。あしたからは2020年でござる。かといって何もすることがないでござる。変わり映えがないでござる。ことしはまたいちだんとずいぶんサボってしまったので、来年こそはちゃんとしたいでござる。ちゃんとした経験がないので、どうしたらちゃんとできるのかも分からないでござるが、それはそれとして、ちゃんとしたいなあと思っている旨は告げておくでござる。わざとじゃないでござる。ちゃんとはしたいのでござる。でもちゃんとできないのでござる。なぜなら、ちゃんと、がよくわかっていないからでござる。ちゃんと、ってなんでござるか? 早寝早起きをすることでござるか? 挨拶をちゃんとすることでござるか? ひとと仲良くして、おともだちになることでござるか? なー、ぜんぶできてないでござる。ちゃんとしたいでござる。でもでも、ちゃんとしたらたぶんいくひしさんはまいにち死にたい気分になってしまいそうでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。じゃあそれってちゃんとしたくないってことなんじゃないでござるか、と首をこてんとしたくなるけれども、そうじゃないでござる。ちゃんとしても死にたくならずになりたいでござる。そういうことでござる。無敵になりたいでござる。ちゃんとしててもちゃんとしていられるようになりたいのでござる。好きなこと、やりたいことがちゃんとすることでありたいでござる。でもでもそんな都合のよいことは流れ星さんを見るよりすくないでござるし、みんなだっていやいやちゃんとしているでござる。たぶんそうでござる。じゃなきゃもっとひとにやさしくできるはずでござる。ちゃんとするってひょっとしたら、ひとにやさしくすることかもしれないでござるな。や、ひとにやさしいからこそ他人に厳しくて、やさしくしたいひと以外にはひどいことをしてしまうのかもしれないでござるから、やさしいだけじゃ足りない気もするでござる。ちゃんとするってむつかしいでござる。ちゃんとしたいでござるなあ、と来年の無謀を述べて、ことし最後の「いくひ誌。」にするでござる。読んでくださってありがとうございますでござる。そんな珍しいひとがいるとは思ってはいないけれども、いたらびっくりするので、念のためにお礼を述べておくでござる。よいお年をー、でござるー。あ、けっこうちゃんと挨拶できたでござる。やったーでござる。
2462:【無限は途方もないし、果てもない】
無限というのは本当になんでもありの概念なのだなあ、と認識を改めつつある。たとえば真偽のほどは知らないが、「円周率が無限につづくなら、その配列のなかにはゼロが一億回つづく箇所がでてくるだろうし、九が一億回つづく箇所もでてくるだろうと考えられる」とする話を見聞きする。また猿がランダムにキィボードを無限に叩きつづければ、その文字列のなかにはいずれシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」とすっかり同じ文章が現れるし、もちろんこの「いくひ誌。」と同じ文章も現れるとも考えられる(そもそも猿には寿命があり、有限の存在なので、無限にキィボードを叩きつづけるなんてことはあり得ないのだが)。なんとなく、あり得ないだろう、と思えてしまうが、それほど無限というのは途方もないのだ。まず以って、無限に対する認識が甘いじぶん自身を疑ったほうがよいかもしれない。無限はどんな大きい数よりもはるかに大きいのだ。もうなんでもありなのだ。観測可能な宇宙に存在する原子の数をその数で累乗して、さらにその数で累乗してもまだ無限には遠く及ばない。何度累乗しても、どんな数で累乗しても、無限には届かないのだ。数の問題として処理可能であればまず以ってその解は、無限のなかに含まれる。たとえば言語であれば、必ずその組み合わせには限界がある。使う言葉がそもそも有限だからだ(円周率のように同じ繰り返しを許容すれば無限となっても矛盾しないが)。そして何文字の文章か、と外枠のフレームを定めてしまえば、「組み合わせの限界値」と「フレームとしての文字数」を掛け合わせれば、それが考えられ得る文字の組み合わせの解となる。そしてその解は確実に無限には含まれるのだ。無限を甘くみてはいけない。否、無限を甘く見ていました、と打ち明けて本日の「いくひ誌。」とさせてください。(数学どころか算数もまた不得意ですので、真に受けないように注意してください)
2463:【箱根駅伝】
箱根駅伝の二区で区間新がでたようだ。二区は23,1キロメートルだから、区間新の1時間5分57秒は1キロ換算で、だいたい2分51秒で走りきった計算になる。公道でこのスピードはかなり速い。ちなみに自作のショートショートで「箱根の道をいま」というのを去年つくったが、それで箱根駅伝の選手は1キロ2分30秒をきることもあると記述してしまったが、これは誤りだ。すでに修正済みだが、こういった誤謬は自作によくあるので、気づいたら順次修正している。基本的にいくひしさんの記述する数字は信用ならない。どんぶり勘定だし、計算式も間違っている確率が高い。正確な情報というものをつむげないので、これは時間をかけてじっくり修正していくつもりで並べていくより術はなさそうだ。しかしそれだといつまで経ってもネット上に更新できないので、文章を並べて推敲したら、ひとまず載せてしまうことにしている。読者に失礼だ、という感覚を否定はしないし、それはとても真摯な姿勢なのでそうした信念を以って文章をつむいでいる方はそのまま貫いてほしいと思ういっぽうで、いくひしさんには真似できないので、そこはご寛恕ねがいたい。年明け早々じぶんのふがいなさを自己肯定して、開き直ってしまったが、元来こういう性格なので致し方ない。じぶんにはいつでも甘いのだ。これもしょうがない。タイトルに箱根駅伝と並べてみたが、まだ選手たちは往路の三区を走っていて結果はでていない。しょうじきなところ数日後にダイジェストだけを見れば充分だし、見なくともそれはそれで構わない。しかしいざTV中継を眺めていると、それなりに見入っているじぶんに気づく。選手たちのこの日のために積んできた日々を想像すると、何かこう琴線を揺るがせるものがある。興味はないが、関心がないわけではないのだ。冷めた目で見てしまうが、だからといって熱いものが嫌いなわけではない。冷えていればこそ、湯船に浸かれば身体は喜ぶ。温度差があってわるいということはないのではないか、むしろあってしぜんだし、あったほうが物事を楽しめるのではないか、と思った本日のいくひしさんであった。(温度差がない状態に身を置いたら、おそらく刺激がなくて退屈しそうだ。じぶんより熱量の高いものに寄り添いたい日々である。根が他力本願なのだ)
2464:【根が腐っている】
完全なる寝正月になってしまいました。ですが、白状いたしますとふだんとそれほど変わりがありません。ことし一年も似たような一年になることでしょう。たくさん寝ても見る夢の数はそれほど多くはなりません。これには、本当はたくさん見ているのに憶えていないだけなのか、それとも本当に見ていないのかの二つの可能性があります。何か見ていた気がする、がもっとも多い寝起きの感覚ですから、何かしらの夢は見ているようです。ただこれも、起きた直後には憶えていた夢を起床後に忘れてしまうのか、それとも起きたときには忘れてしまっているのかの区別がつきません。おそらく両方のケースがあるもの、と見立てています。ときどき創作が煮詰まってくると明晰夢を見ます。夢のなかで創作のつづきを映像として見て、起床したらそのままその夢を出力します。かなり細部まで、物語の結末までを見るので、こういうときは楽に創作が進みます。ただ、夢は夢ですので、じっさいに出力するうえで、やっぱりここはこうだな、と変更することは多々あります。明晰夢を用いない創作においても、当初に予定していた筋道を外れるのはしょっちゅうです。骨組み(プロット)どおりにつくり終えたことのほうがすくないように思います。さいきんでは、最初と最後だけ点を打っておいて中間は自由に、という創作法が多くなってきている気がします。或いは必ずとおるべき点をあらかじめ決めておく手法もとりますが、この場合、打つ点が必ずしも物語にとって重要ではない傾向にあるのが、我ながらよろしくない気がしております。とはいえ、何が重要なのかはやはりできあがってからでないと評価できないのではないでしょうか、といった所感をつよく覚えておりますから、あまりこだわらずにやっていけたらな、と思っております。神は細部に宿るものなのかもしれませんが、しかしその細部を意図してつくりあげることは人間にはできないようにも思うのです。考えて、考えて、工夫したさきに偶然できた細部に神のほうから舞い降りてくれるのではないか、といった印象でしょうか。ここでもやはりある種の投げやり感、他力本願ぶりが発揮されておりますね。根が腐っているのです。腐り落ちてしまわないようにつねに腐る部位を萌やしつづけていられたらな、と願望を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。
2465:【誤謬はないほうが好ましい】
自作の文章において誤謬が多分に含まれている、と上記で述べました。しかし小説は小説です。飽くまで妄想ですので、たとえば主人公の身長を間違って175メートルとしてしまっても、それはそれで物語として成立します。周囲のひとと何不自由なく生活していても、そういう環境が整っているのだと解釈すればとくに違和感はないはずです。物語の核に175メートルの身長がいっさいかかわらずに幕を閉じたとしたらさすがに、それって必要な設定でしたか、となるかと思いますが、そのときは単純におもしろくない物語だったなあ、で済みます。いくひしさんは小説に間違いはないと思っています。なんでもありです。ただじぶんの口に合うか否かの違いがあるだけです。そこが小説のよいところであり、まどろっこしいところでもあると思います。何が誤謬であるのかは作者のみぞ知ります。作者が意図せずに並べた文章や描写は総じて誤謬と言ってもいいでしょう。しかし作者は何から何まで意図通りに並べることはできません。そうしようと工夫することしかできないのです。ですから誤謬はそもそも含まれて当然です。ただ、それに気づいたときにどうするのか、に作家としての姿勢が表れるのかな、といった印象もありますが、定かではありません。いずれにせよ、小説から作家本人のことなど何も解かりはしませんし、作家は単に思いついた妄想を並べているだけです。妄想や見る夢は、それを見る人物があってこそつむがれるものですが、だからといってその人物の映し鏡ではあり得ません。あなたのDNAから判るのは、飽くまであなたの人体の形質です。あなたの人格まですっかり判ることはないのです。あなたの人格はおにぎりのようなものです。「具(ときにうめぼしであり、シャケであり)」といった先天的な性質に、後天的な産まれてから培われてきた種々相な「お米(来歴――経験や記憶や知識)」が肉付けされることによってかたちづくられています。それはDNAから逆算できるような代物ではありません。小説にも同じことが言えるでしょう。あなたという人格があってこそつむがれた妄想や夢であっても、そこからあなた自身を理解することなどできはしないのです。理解したつもりにならなれるでしょう。おおむね理解とはその程度のものです。どの程度の深度で理解したつもりになれるのか。極論、名前を知ったり付けたりするだけでも、ああなるほどね、となることも可能です。理解にもレベルがあるということですね。すくなくとも小説から判る作者像は、かなり浅い階層の理解と言ってよいでしょう。裏から言えば、小説はそれほど作者とかけ離れた物語をつむげる、ということを示唆しています。だからこそおもしろいと思うのですが、これは浅い所感でしょうか。誤謬はないほうが好ましいのですが、あってもおもしろければ文句はありません。論文やニュースはそうもいかないのですが、小説ですからね。そこは大いに甘えていこうと思います。だからおまえはうだつがあがらないのだ、といった正論はさらりと受け流して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。
2466:【浅薄です】
いったん理解したつもりで、改めて自力で考えてみると「正しいとされている情報」に辿り着けないことがすくなくない。たとえば宇宙は膨張している。これは銀河と銀河の距離を測れば徐々に遠ざかっていると判るので、その速度から物理的に銀河が遠ざかっているのか、それとも宇宙の時空そのものが膨張しているのかが判るはずだ。ほかにも宇宙には、宇宙開闢時に放たれた微弱な電磁波が満ちているから、それを観測することでどの方向にも均等に膨張していると予想することができる。だがたとえば解からなくなってしまうのは、地球から観測可能な宇宙はおおざっぱに140億光年だ。しかし宇宙は膨張しているのでざっとその3.5倍の490億光年くらいは見通せると考えられている(数字はだいぶどんぶり勘定ですので信用なさらないでください)。だがここでいくひしさんは、ん?となってしまう。宇宙の膨張がもし光速よりも速いのであれば、むしろ膨張すればするほど観測可能な宇宙は狭まっていくのではないか、と考えてしまうのだ。それはたとえば音速よりも速く物体が遠ざかれば、音は置き去りにされて、じっさいの音源よりも手前の音しか聞こえなくなるのではないか(遅延が生じるのではないか)。どうして宇宙が膨張すると観測可能な領域が広がるのだろう。逆ではないのか。もし逆ではないとするのなら宇宙の膨張速度は光よりも遅いと言えるのではないか。この辺で思考停止してしまう。まずこの混乱の要因には知識不足が挙げられる。前提とされる宇宙膨張の速度や、宇宙を観測するとはどういうことか、といった知識が足りていないので、そもそも「観測可能な宇宙」というものを充分に理解していないために引き起こされる混乱と判断できる。また、思考のなかに「同時性」を取り入れているのか否かで、疑問の解釈が変わってきてしまうのも大きな理由の一つだ。たとえば太陽から地球までは光が届くのにおおよそ八分かかる。いま目にしている太陽の光は八分前の太陽の光だ。だからして、仮に太陽が地球から遠ざかりはじめたとして、いま太陽を目にしても、そのとき太陽は八分ぶんの距離を移動していることになる。これを拡大して考えると、百億光年の距離にある銀河を観測したとき、その銀河はすでに宇宙膨張によって百億年分、地球から離れていると考えられる。とすると、いま目にしている銀河は、現時点ではさらに広域な宇宙に属していると呼べる。このとき観測可能な宇宙は百億光年よりも広いと言うことが可能だ。同時性を取り入れて考えるとこうして詭弁的な解釈が成り立つわけだが、これは正しい表現ではないように感じる。なぜならいま目にしている銀河は飽くまで、百億年前のものであり、その時点ではその銀河は百億年分の宇宙膨張を経ていないからだ。つまり、見えている銀河は百億光年の距離の範囲に属しており、観測範囲はその時点ではまだ百億光年ということになる。あたりまえの話をしているが、だとすると、やはり観測可能な宇宙の範囲が、宇宙開闢とされる140億光年(どんぶり勘定です)よりも何倍も広いと考えるのは腑に落ちない。繰りかえすが、これはいくひしさんの足りない知識、そしてお粗末な思考だからこそ引き起こされる誤謬だ。ちゃんと知識を経て、順当に考えればこんな基本的な事項で混乱したりはしないだろう。いくひしさんも本を読んでいたときは、ふんふんなるほど、となったが改めて素で考えなおしてみると、あれ?となってしまったので、いくひしさんの拙さを披露すべく、いまふと浮かんだ疑問を並べてみた。もちろん賢明なあなたなら、何言ってんだこいつ、と笑ってくれることだろう。しばらく疑問を楽しんで、いくつかの仮説を立てたのちに、もういちど本を読みなおして疑問を解消しようと思うしだいだ。
2467:【ことしの運を使い果たしてしまった】
「贖罪を歌いました / rei sirose」
https://www.youtube.com/watch?v=j1ArobXFdyQ「POISONED - EMA」
https://www.youtube.com/watch?v=HTEUQz-duJ8&feature=youtu.be「DUSTCELL - LAZY」
https://www.youtube.com/watch?v=F6KgJox-NmM&feature=youtu.be「Tómur 歌った 【ろん】」
https://www.youtube.com/watch?v=W3ryD4KCyoE2468:【何を比べるか】
周りのひととじぶんを比べるな、といった言説を見掛ける機会がある。言わんとしている内容はぼんやりと伝わるが、いかんせん言葉足らずに感じる。いくひしさんはよく他人とじぶんを比べている。比較しないことにはじぶんの立ち位置がよく分からないし、力量も精確に測れない。これは他人との比較だけでなく、過去のじぶんとの比較も含まれる。比べることそのものは足りない何かを補いたいと欲する者には不可欠に思えるし、そもそも発想や閃きというものが、類推という名の比較によって得られる。目を留めるべきは何を比較するのか、であって、比べることそのものの是非ではないはずだ。たとえば単純な結果を比較するのか、それともそこに至るまでの過程を比較するのかでは、得られる知見に差が生じる。比べるものが違うので得られる情報も違って当然だ。他人がどの山に登ったのかばかりに目を留めていては、たしかに得られる情報を活かそうにもなかなかむつかしいものがありそうだ。その点、あの山を登るためにそのひとは何をして、じぶんはそのうちの何をしていないのか、に目を留めれば、足りない何かを埋めることに繋がるはずだ。もちろん、ほかのひとが山に登ったからといって、ではじぶんも登らなければならないのか、と言えば否だろう。だがもしも同じ山に登りたいのであれば、可能なかぎりそれを楽々こなしている者がしていて、じぶんがしていないことを把握しておくと好ましい。登山にかぎらずこれは技術を要とする分野では共通して用いられる比較だろう。できている人の真似をする。じぶんと比べることで何が足りないのかを推し量る。目が肥える、というのはおおむねこの「何が足りないのか」が判ることを言うはずだ(何を加えたら理想に近づくかを想像できるため)。比較が物をいうのである。たほうで、技術のある者ほど無駄な動きや労力を削ぎ落している。ここでも「何がないのか」に注視することで、効率的に成果へと結びつく過程を幻視することができるはずだ。ただし、幻視できたそれが真実正しい道かはやはりいちどじぶんでやってみるよりない。他人にとって最適だからといって、ではじぶんにとっても最適かと言えば、これは九割くらいの確率で、否である。ほとんど十割と言いたいくらいだが、何事にも技術として認められたものには「基本」があるので、それを身につける利がある点を考慮して、九割に留めておく。人以外のものと比較できるようになると、やや進歩していると言えるかもしれない。お手本の幅をどんどん広げていけると好ましい。きょうもいちにち誰の何の役にもたたなかったので、むしろひとの足を引っ張ってばかりのじぶんがふがいなくて、憂さ晴らしに底の浅い所感を偉そうに述べた。こうでもしないとやってられないのである。偉そうなことを言っている者の九割はいくひしさんと似たような、ろくでなしである。残りの一割は詐欺師なので注意が必要だ。偉そうな言動を真に受けないようにつねに「よりらしいもの」と比較する癖をつけていきたいものである。
2469:【悪鬼って字面はかっこよいのだけど】
役立たずでろくでなしでも生きていてよい世のなかなので、大いに役立たずでろくでなしの日々を生きていこうと思うのだけれど、それはそれで開き直りすぎると他人の足を引っ張る悪鬼になってしまうのでむつかしいところだ。ろくでなしは、ろくでなしでいることに呵責の念を抱かないからこそろくでなしなのだが、たまにはひとの役に立ってやっかな、と思うくらいの酔狂を持ち合わせていないとすぐにクズ以下に堕ちてしまうので、悪鬼にならずに済むようにときには、誰かの何かの役に立ちてーなー、とぼやくくらいの欲求は持ち合わせていたいものだ――と、並べてはみたものの、それほどでもないな。
2470:【豊かさ=ろくでなしでいる余地】
いくひしさんはろくでなしだけれども、ろくでなしでいることの何が問題なの、と思っている。開き直っているからこそのろくでなしであるので、これはぐるぐる回ってどんどん濃く固く凝縮していく。ろくでなしというのはつまるところ、社会にとっての善に馴染んでいない存在という意味だ。社会の役に立っていない。だからろくでなしと評価される。しかしながらでは、「社会にとってわるいことだけれども善」なる事象など存在するのかと考えて、これはなかなか思い浮かばない。そうなのだ。善悪とは突き詰めれば「社会にとって」という枠組みの極限をさまようことになる。もちろんじぶんにとっての善悪はあるだろう。ただそれは概念としての善悪というよりも、本能や衝動や快楽に依存する。善悪ではなく好悪にちかい。ろくでなしは、この好悪を優先して日々を送ってしまいがちなのだが、では社会にとっての善悪を基準にして生活することが果たして本当に「善」なのかについては、さらに大きな枠組みでの基準が必要となる。もうすこし突っこんで言えば、いまの社会にとって善であっても、ではほかの時間軸上の社会にとってはどうなのか、そもそも社会は一つきりではないが、そこのところの折り合いはどのようにつけるべきで、その基準はいったいどの社会にとっての善悪に合わせるべきなのか、と考える事項は雪だるま式に増えていく。善悪と言ったときに、それはいったいどの階層における枠組みの話なのかの焦点が合わないうちに、比較的身近な善悪にばかりこだわって生活していると、長期的な視野での善悪を置き去りにして看過しかねる問題を誘発する事態を招く。環境変動や、資源問題はそのほんの一例だ。善悪は便利だが万能ではない。ほかの基準よりも汎用性が高いだけで、正確ではないし、例外を多分に含んでいる。そしてその例外はたいがい、放置しておくと大きな奇禍に発展する。ろくでなしは社会のお荷物かもしれない。しかしそうした重荷があることで、善悪の暴走を止めるブレーキの役割を果たすこともあるかもしれない。定かではない。定める必要もない。ろくでなしには関係がないのだ。回り回って社会のためになっていようが、人類のためになっていようが、ろくでなしなので、興味がない。日々楽しく暮らし、そのまま好きなことをしてやがて死ぬ。そういう人生を送れたら言うことがない。ただし、楽しく日々を過ごすためには、できるだけ嫌なものは目にしたくない。好きなひとが困っていたり、傷ついたり、好きなひとの好きなひとが困っていたり、傷ついていたり、或いはまったくの他人であっても、大勢が困り果てていたら社会はうまく機能せずに、ろくでなしでいることすら法律で禁じられてしまうような貧しい世の中になってしまう懸念がある。勘弁してほしい。そういう意味で、いくひしさんはろくでなしだが、ろくでなしではない善悪に忠実な人々を尊敬しているし、偉いなあ、と感謝している。ろくでなしはすくないほうがよい。いくひしさんがろくでなしでいる余地がなくなってしまうからね。
______
参照:いくひ誌。【581~590】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883414153