• 異世界ファンタジー
  • 現代ファンタジー

いくひ誌。【2471~2480】

※日々、知らぬ間に誰かを虐げている。


2471:【なんもない】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはときどきこうしてほかのいくひしさんに替わって文章を並べるでござるけれども、まいにちはさすがにムリでござる。ときどきでござるけれども、それだってやっぱりムリなものはムリでござる。並べることなんか、なーんも、ないでござる。並べたいことも、なーんも、ないでござるよ。じゃあ並べなきゃいいじゃん、といくひしさんなんかは思うでござるけれども、そうはほかのいくひしさんたちが卸さないでござる。問屋さんでもないのになまいきでござる。問屋さんがなにかも知らないいくひしさんに文章を並べさせようなんて138億年はやいでござる。宇宙誕生からやりなおすがよいでござる。それはそれとして、いくひしさんは思うでござる。だれも読みもしない文章を並べてなにがおもしろいでござるか?って。でも、文章を並べているじぶんはすくなくとも並べながら読んでいるでござる。言語化しているでござる。翻訳しているでござる。脳内のぼんやりとしたモヤをしゅるしゅるって糸につむいで、それを言葉の箱にえいやって詰めこんで、ビーズの首飾りをつくるでござる。いくひしさんにとって文章は、判子遊びや積み木遊びにちかいでござる。その程度のお遊戯なので、ぜひぜひその程度のお遊戯として読んでほしいでござる。お遊戯はおきらいでござるか? 泥んこ遊びとかはいかがでござるか? ご遠慮するでござるか? おもしろいでござるよ。いくひしさんは言いながら泥んこでこねこね、クマさんの顔をつくって、クマさんにおひげはあったかなあ、と悩みながら、いいやって思ってネコにしちゃうでござる。並べることのない日でもこうして適当に、おもしろくないことを、えいやって並べてしまうでござる。やる気のない日でないとつむげない文章もあるでござる。こういう文章こそ貴重でござるよ。やや、そうでもないでござるか? まあよいでござる。よよいのよいでござる。よよいのよいってなんでござるか? 検索したら野球拳でござったでござる。いやらしいでござる。でも本来はじゃんけんで負けても服は脱がなくてよかったらしいでござる。いやらしくないでござる。どっちでもよいでござる。よよいのよいでござる。今宵のよいとは関係ないでござるか? こてんと首をかしげて、きょうはもうおしまいにするでござる。おねむでござる。おやすみーでござるー。


2472:【駄作かどうかはこっちで判断するのでとにかくつくったら載せてほしい派です】
WEB上で見つけた好きな小説家さんのほとんどが寡作というか、とてもていねいに作品に向き合って、言葉を選びぬいて物語を編んでいるからなのか、たくさん読みたいのになかなか新作を更新してくれないので、新作が投稿されていたときの、あの、じぶんのレベルが無条件で上がったかのような感じは、病みつきになるというか、たぶんパチンコとかギャンブルにはまってるひと、もっと言えば釣りに似ているのかな、なんて想像してしまって、もうすこしこうなんだ、かっこうのよろしい、斟酌せずに言えば褒め言葉みたいな形容ができないものかな、と苦笑いをしてしまうが、かといって感想とかこれといっていいね!や評価もしないので、どうあってもいくひしさんがこんなに楽しみにしていてよろこんでいるなんて作者さんは知らないんだろうな、とやや複雑な気持ちになるようで、じゃあじっさいに「こんなに楽しみにしています!」と感想をつづって送ったとしても、その想いの百分の一も伝わる気がしないし、お金にして振り込みたいくらいだけれどもあいにくとお金に余裕がないし、小額をちんまり送るくらいならいっそ、この想いを誤解されないでいたほうが個人的に納得できるので、こっそり楽しみにしつづけているほうがよいのかな、と悩みつつも、そうしてしまう日々なのだが、かといっていくひしさんの所感のいかんを問わずに、新作が投稿されるときは投稿されているし、されないときはぜんぜんされないので、こればかりはしょうがないのだ。待つ楽しみを覚えた、と言い換えてもよいかもしれない。覚えた、というか、ああこれか、みたいなね。


2473:【よわよわのよわ】
すぐに疲れる。たくさん寝ないとダメだし、身体があまり丈夫でない。でも大きな病気とか怪我はしないので、身体のほうはまだいまのところは問題なしの判子を捺してもよい気がする反面、メンタルのほうがいつでもよわよわのよわなので、こればかりはもうもうどうにかしたほうがよいな、うんうん、どうにかしなきゃな、とつねづね思っている。豆腐メンタルどころの話ではない。もうね、空気だよね。エアエアのエアよ。え、そこにあったの、みたいなね。シャボン玉だってもうすこし存在感あるよ、自己主張してるよー、みたいなね。メンタル弱いというか、え、メンタルどこ? ここにある? あ、うしろ? わ、踏んじゃってたよ、ごっめーん、みたいな塩梅で。メンタル、よわよわのよわです。そこのところぜひともよろしくおねがいいたします。(なにを?)


2474:【空白の音】
私がさいきん思うのはどうして人間ってやつはこうもぐにゃぐにゃと考えを曲げて、あのときはこう考えていたのに、いまはこうなんだろう、みたいな、水を飲んだらもう喉の渇きを忘れてこんどは甘いものが食べたいだの、たらふく寝たら散歩に出掛けたいだの、あれを買ったからこんどはあれが欲しいだの、欲求の留めどなさ、ひょっとしたらそれは止まることを知らぬピンポン玉のようなもので、あちらにぶつかればこちらに転がり、あちらに転がればそちらに弾みかえすようなちぐはぐさ、ああどうしてこうも脈絡知らずなのだろうね、私が思うのは人間なんてものはどうしようもなくちぐはぐなツギハギのうねうねで、そんなぐねぐねのぐでんぐでんが運よくこうも人型の入れ物に詰まっていられる幸運、ひょっとしたらそれこそが不運であり元凶なのかもしれぬ底なしの旅路、ああこの行く先不安定な足取りはいったいいつになったらまっすぐ歩く作法を身につけるのだろう、考えなる思考の筋道を歩いていたはずがいつの間にか起伏だらけの砂利道ジャングルをコテンコテンと渡り歩いていて、跳ねまわっていて、道などそこにあるのかい、と訊ねて回りたくもなる日々さ、ちょいとそこのきみ、と声をかけてみれば、振り向いたそのひとの姿はもう遠い彼方、留まってはいられぬこの身の中身のぐでんぐでんさにはほとほとよくよくトホホと落とす肩の軽さよ、ピンポン玉がごとく跳ねまわるこの身の宙に浮いている時間、起伏にぶつかっている時間、合わせてどちらが多いのかはさておいて、どちらが人生としてのスポットを浴びているのかと言えばそんなのはそろばんを弾くまでもなく後者の起伏にぶつかっているほんの短い時間でしかなく、ほかの大部分のコテンコテンと宙に弾んでいるあいだの足跡にも残らない思考の筋道は、やはりこうもぐねんぐねんのぐでぐでで、ああどうして私ってやつはこうもぐにゃぐにゃと考えを曲げて、さっきはこう考えていたのに、いまはこうなんだろう、みたいな言葉に落としこんでしまったらもう、それは私の中身ではなく、私ですらなく、コテンコテンのピンポン玉の落とした地図のうえの影なのだ、光がないならコテンコテンと響く合間の空白の音としてもよい。


2475:【カモカモうるさいかもしれない】
じぶんに嘘をつかない文章がよい文章なのだそうだ。言葉のありかたについて、そういうニュアンスを述べていた小説家の記事を読んだ。その小説家に限らずこれはたびたび耳にする言説だ。異論はない。そういった、そのひとだからこそつむがれる固有の言葉にはたしかに魅力があるし、肌に合う合わないにかかわらず何かしらの引力めいたものを感じる(気のせいかもしれないが)。ただ、いくひしさん個人としては、これまで嘘の言葉しかつむいでこなかったし、そもそも「真」を並べることができるとも思っていない。どちらかと言えば、いかに上手に偽われるか、にちからをそそいできた気がする。じぶんに嘘しかついてこなかった人生だ。嘘しかついてこなかったからこそ、ありのままでいようとすると嘘しかつむげないのかもしれない。これもまたある側面では「じぶんに嘘をつかない(正直)」の一つのカタチなのかもしれないとは思うものの、さすがにこれは言葉遊びにすぎる気もする。あまり断言しないようにしているのは文責を負いたくないとする自堕落な性根がゆえの保険かもしれないし、嘘は嘘でも「嘘かもよ」と告げるくらいの誠意は持ち合わせているとの懸命なアピールなのかもしれない。またまた、かもしれない、だ。あいまいに言えばいいってもんじゃない。なんにせよ、嘘を吐くのが楽しいし、嘘でーす、と言えば許されるだろう、みたいな投げやりな生き方はそれはそれで心地よい。嘘でーす、では済まされないことももちろんあるけれども、それはそれ、これはこれ、嘘でーす、という態度ででしか明らかにできない言葉もあるだろうし、そんな言葉は嘘でも並べるべきではない、という気もする。もはや「気がする」と語尾につけたらなんでもいける気がする。根元を穿り返してしまうけれど、じぶんに嘘を吐かない言葉をつむげるひとは端からじぶんに嘘を吐かない生き方をしているのだ。正直に生きているひとの文章がつまらないわけがない。正直に生きていられるのは強者だけだからだ。強者の言葉はおもしろい。生き残るヒントがそこに潜んでいる。生の活力に満ちている。その点、偽って生きているいくひしさんのような歩く仮面舞踏会には、嘘で塗り固めた文章がお似合いだ。あ、似合ってしまった。ぴったりだった。これでよかった。なんだ。ふぃっくしょん。よい文章もよいけれども、いくひしさんはいくひしさんにお似合いの文章のほうがお好みだ。お口に合う文章で、物語に馴染んだ文体で、いくひしさんにぴったりの言葉のつらなりに出会えたら、嘘でも真でもどっちでもよいのかもしれない。すくなくとも小説は小説だ。嘘っこだからおもしろい。この感覚だけは、たぶんこのさきも変わることはない気がしている。あ、またまた「気がして」しまった。もしやいくひしさんは「気がする」の天才なのかもしれない。そんなことはないのかもしれない。カモカモきょうはいちだんとうるさいかもしれないけれども、それはそれとして、はっきりとしないどっちつかずの偽物の王、歩く仮面舞踏会こといくひしさんには、これくらいの曖昧模糊さに蒙昧さがお似合いなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。うーん、どうだろうな、なんだかこれもやっぱり気のせいかもしれない。


2476:【高ければいいわけではない】
AIにかぎらないのだろうが、たとえば技術力が発展していくと、それそのものの能力を強化していくのは案外に簡単になる。反面、どちらかと言えば強化された能力を目的に沿って制御することのほうが格段にむつかしい仕事になると言えそうだ。これは妄想でしかないが、インターネットの検索にはAIが用いられている。このさき、性能がどんどんアップしていけば、仮に好きなひとの名前を入れるだけで、そのひとに関連したデータが(SNS上の発言から何まで本人が本名で投稿していなくとも)一挙にタグ付けされ、一覧できたりするかもしれない。というよりも、現状すでにこのレベルの情報解析能力を持ったAIは開発されているはずだ。だが、それを社会に適用はできないだろう。能力を強化したつぎの段階では、それを人間社会に見合ったレベルに落としこまなければならない。そしてこの、人間に見合ったレベルを見繕うのはまだまだAIにはむつかしい作業だ。何が人間にとって都合がよいのかは、新しい技術を使った人間がどのようにそれに反応し、どのようなコミュニケーションへと発展させていくかを高い精度で予測しなければ判らない。言い換えるならこれは、人間とは何かをAIが理解していなければできないことであるし、それが可能となった時点で、AIは仮想空間に人間とまるで同じ電子生命体をつくりだせるくらいの能力を持つことと同義だと言えるかもしれない。そしてそのレベルのAIの開発にはまだ当分かかりそうだ。よって、まずは高い能力を持った道具をつくりだせたときに、それを用いた人間がより快適な生活を営んでいけるのか、は慎重に実験を繰りかえしてデータを集めていかなければ予測するのはむつかしいし、もっと言えば、どのくらい正確なタグ付けであれば、人間は理想的な生活を送れるのかもまた、じっさいに人間に適用してみなければ判らないことであり、やはりこのさきどれほど能力の高いAIが開発されたとしても、人間を再現せしめるほどのAIでないかぎりは、それらAIに類する道具を人間社会に適用運用させるには、人間の持つ能力や思考の介在が必要不可欠である、と言えるだろう。ただし、一部の人間が一般社会に出回っていないそれら能力の高い道具を使って、かつてないほど広域で正確な情報収集や情報解析を行うことができる懸念は覚えていたほうが好ましいのではないか。あなたの名前を入力するだけで、あなたがこれまでインターネットにアクセスし行ってきたあらゆる投稿や反応や買い物、閲覧したサイトなどがビッグデータとして一覧できても、もはやおかしくない世のなかかもしれない。(同名同性くらいは大勢いるだろうから、名前のほかに画像や住所くらいは入り用だろう)


2477:【ジュンク堂ロフト名古屋店さんにはお世話になりました】
書店には本との偶然の出会いがある、よって書店がなくなると出版文化がますます衰退してしまう、との理屈を目にする機会がある。間違ってはいないが、正しいとも思えない。偶然の出会いというのならばいまはSNS上で見かける書籍情報のよほど偶然に満ちているし、購買意欲に繋がっているのではないか。書店がなくなると本の売り場が消えるので、本の売上は下がるだろうが、それは本との偶然の出会いとはあまり相関関係はないように思う。売り場が消えるのだから本の売り上げが減るのは当然だ。誤解がないように注釈を挿しておくが、いくひしさんは書店が好きだし、外出したときはたいがい書店に寄っている。やはり、何かおもしろそうな新刊がでていないかな、と何の気なしに立ち寄って偶然の出会いで本を購入することもある(注目作やコーナーを設けてあるとやはり目が留まる)。そうして購入する本が大半かもしれないが、これはそもそも新刊発売日を調べるのが面倒だからであり、書店に足を向けずともあなた好みの書籍が発売されていますよ、とひと目で判るサービスがあるのならそちらを利用する。いくひしさんにとってじぶんでネットで検索して調べるよりも、書店に足を運んだほうが楽だからそうしているのであり、世の大半のひとはおそらくは書店に足を運ぶほうが面倒に思うのではないか。言うほど本を買ってはいないし、読んでいるわけでもないので、あまり売り上げに貢献できていないので言えた口ではないが、書店がなくなると困るのはたしかだ。何にせよ、出版業界のツケをまっさきに払わされるのが書店だというのは哀しく思います。


2478:【暗い話がつづきます】
ビジネスについて考える。ビジネスはお金を稼ぐことだ。ただお金を稼ぐのではなく、お金をやりとりするなかでお互いに必要なものを交換することが目的にあるはずだ。言い換えるなら、お金を稼ぐ以前にそもそもお金を使ってなしたいことがあるからお金を稼ぐのだ、と解釈できる。お金を稼ぐのは飽くまで手段であり、目的ではないはずだ。限定的な話になるが、たとえばある分野を盛り上げたいと目的を定めたとする。なぜその分野が盛り上がってほしいかと言えば、おそらくはそれを生業とする者たちがその分野に携わるだけで食べていけるシステムを構築しやすくなるからだろう。つまり需要が生まれるので、供給することに集中しやすくなる。そのなかで、一流を育てるためには、すそ野を広く保つ必要がある。素人が素人のままでいても競争原理に振り落とされず、食いついていけるコミュニティが築かれれば、それは一流が誕生しやすく、一流同士での切磋琢磨も盛んになり、分野全体の発展に貢献する。だがお金をまっとうに稼げるのは一部の実力者だけだ。ではそのほかの実力のない者たちを切り捨てていくとどうなるかと言えば、これは人口減少の問題と同じく、その分野は緩やかに衰退していく。人口の問題であれば、ある一定のラインに達すれば、人口ピラミッドは一回りちいさくなってまた三角形のカタチに復活し、バランスよく回路を機能させることが可能となるが、分野の場合はそうもいかない。いちど実力のない者を切り捨てる仕組みができてしまうと、あとはもうどん底に達するまで、すそ野は狭まっていく。たとえば才能取扱い事業では、まだ売れていないが見込みのある者に投資をすることで、将来的に実力者となってもらって投資した分以上の利益を回収する仕組みがとられている。投資した分を回収する前に才能に去られてしまうと困るので、それを阻止するような罰則がとられることもある。じぶんたちの元を去ればもう二度と支援しないどころか、仕事を回さないように根回してやる、といった具合だろうか(まずは投資しただけの成果を確実にあげて、付加価値をつくってから言ったらどうか、とは思うが、話がずれるので触れずにおこう)。だがそもそも何のためにそのビジネスをしているのか、を忘れてはいないだろうか。分野を発展させるためであるはずが、お金を稼ぐことが目的となってしまって、みずから墓穴を掘る真似をしてはいないだろうか。しかも、その理屈であれば大御所や実力者ほど罰は重くなるはずだ。にもかかわらず、現状はむしろ、大御所や実力者には甘く、付加価値のついていない者ほど厳しい罰を科せられる傾向にないだろうか。分野の発展を目的とするのならむしろそこは逆だろう(逆であっても問題に思えるが)。けっきょく分野の発展という大義名分を掲げて、じぶんたちがお金を儲けて、名声や権力を得たいというのが正直なところなのではないか。そういう生き方もあってよいが、だったらもうすこしそうした欲求に忠実な生き方に正直になったらよいのではないか、と思うのだが、本人たちがそのことに気づいていない以上、傍からどうこう言ったところでどうしようもないのだ。お金を稼ぐのはむつかしい。経営者の苦労は理解できる。だからといって、目先の利益を追求して分野のすそ野を狭めるような真似をされると、さすがに苦言の一つも呈したくなる。呈したところでどうにかなるわけでもないので、こうして日誌に漏らす程度に留めておこう。(なぜその分野を発展させたいのか、にも目的があるだろう。優先すべきは本来、こちらのより上部層に位置する目的のはずだ。なぜその分野を発展させたいのだろう。答えはおのおのあるはずだ。ときおり、なんでだっけ?と思いだしてみる習慣をつくるのもわるくないのではないか。知らぬ間に目的が変わっていることもあるだろうし、それはそれで貴重な変化であるかもしれない。目的が変われば手段も変わる。やはりときおり、なんでだっけ?と振り返ってみるのはそうわるい習慣ではないように思う。目的が社会のためでなくたってむろん構わない。社会が発展してほしいと望むのもまたけっきょくのところじぶんのしあわせのために行き着くのだろうから。とすると、その分野が発展しなくともじぶんがしあわせになれるのならとくに分野に発展してほしいとも思わなくなるのかもしれない。そういう個人がこれからはきっと増加していくだろうとの妄想を蛇足として並べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください)


2479:【知らぬが仏】
真実本当に救われているときにひとは、救われていることを自覚できない。水を飲めなくなって水のありがたみに気づき、空気を吸えなくなって大気の存在に気づく。


2480:【下等生物】
連絡がきても無視するし、ろくに挨拶もしないし、礼儀はなっていないし、こうして陰口ばっかりを叩いているし、ひとからもらった恩を仇で返すし、ルールは守らないし、約束も破るし、ふざけているし、なまけているし、すぐに嘘をつくし、投げだすし、メンタルよわよわだし、本当のことを言わないし、ひねくれているし、かたよっているし、無知だし、実力もないし、実績もないし、好き嫌いが激しいし、差別的だし、ひとに厳しくてじぶんに甘いし、良識がないし、常識もないし、教養ってなに?ってレベルだし、幼稚だし、口下手だし、人見知りだし、引きこもりだし、整理整頓が苦手だし、勉強ができないし、知能が低いし、友達がいないし、恋人もいたことないし、未経験なことがたくさんあるし、ひとに自慢できることが何一つとしてないいくひしさんではあるけれども、それでもそれなりに楽しく日々を生きていけるのだから世の中なかなか捨てたもんじゃない。いくひしさんは運だけはよいらしい。いつか天罰が当たりそうでこわいけれども、いつかはどうせひとは死ぬのだから、誰だって同じという気もする。いくひしさんよりたくさん優れているひとが毎日死にそうな顔で生きていることもあるし、いくひしさんよりもっと選択肢のすくなくみえるひとがいくひしさんよりも伸び伸び日々を楽しんでいたりするし、本当に、何がじぶんにとってためになるのかは分からないものだ。いくひしさんはいくひしさんでよかった、と思ったことはないけれど、いくひしさんは恵まれているなあ、とはしょっちゅう思うのだ。創作活動にしても、これほど才能がないにもかかわらず「あはははー」と暢気につづけていられるのは、これはもう環境に恵まれているとしか思えない。というか、恵まれているのだ。いくひしさんはじぶんでじぶんがうらやましい。なんてやつだ、ずるい、とすら思う。あ、そうそう。いくひしさんはずるいのだった。それも付け加えておかなければ。いくひしさんはほとほとほ下等な生き物だ。でも下等なことの何がよくないのだろう。下等でも上等でも、それぞれ得意不得意な面があるはずだ。細菌と哺乳類とでどちらが下等かと言えば(仮に人間を高等と位置づけるのならば)、細菌だろうけれども、この世から細菌がいなくなったら哺乳類は生きていかれない。下等も上等もどっちも相応に互いの至らぬところを補完しあっている。まずはそのことに気づくことがたいせつなのではないかな、と偉そうなことを言いながら、そこで躍起になったひとたちの頑張りにどうやったらタダノリできるかな、とあくどい考えを巡らせて、いつまでも下等なままでいつづけようとする姑息な生き物、いくひしまんでした。


______
参照:いくひ誌。【1791~1800】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887957688

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する