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いくひ誌。【2481~2490】

※日々、じぶんのことしか考えない。


2481:【大王さま】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはすっかりサボり癖がついてしまってもうダメダメでござる。もうというかいつもダメダメでござる。いっぱいサボってしまったのできょうからまた、おりゃー、ってやっていきたいな、と思ったでござるけれども、なんだかお風呂に浸かっているあいだに、ふにゃー、となってしまってもうダメダメハ大王でござる。どこかに穴があいているでござる。吹いても吹いても膨らまないでござる。燃え尽きなんとやらでござる。でもでも燃えた過去がないので、もとから灰かぶりのサラサラサハラ砂漠でござる。いくひしさんは精神年齢がすごくとてもうんと高いので、三歳ではないので、ほんとにほんとにおさなくはないので、たぶん五十億歳とか、六十億歳とか、もしかしたら三兆歳とか、そんな感じなので、身体のほうがもうすこしがんじょうに育ってくれたらうれしいでござる。脳みちょのほうも記憶力とか計算力とかひとと仲良くできる力とか、赤ちゃんみたいにだれからでも甘やかされる力とか、語彙力はうんとあるのでまとめてかわいい力と言い表すでござるけれども、いくひしさんの身体さんももうちょっとだけ精神さんを見習って、こうなんていうかなー、がんばってほしいでござる。背伸びをするがよいでござる。もうちょっとじょうずにごまかしてほしいでござる。すぐに眠くなるのはなんででござるか? そんなにたくさん寝てまだ寝たりないでござるか? いっそ永遠の眠りについてみてはいかがでござるか? しつれいでござるか? しつれいしましたでござる。いくひしさんは日に日に、あんぽんたんでーす、となっていくでござる。人生に迷子になりすぎてもうすこし経ったらどこからか、ぴんぽんぱんぽーん、って聞こえてきそうでござる。みなさまに迷子のおしらせでござる。恥ずかしいでござる。南の島にでも移住して、まいにち、おてんとさんでーす、と仲良くぽかぽかひなたぼっこをしていたいでござる。ダメダメハ大王はもう飽きたでござる。カメハメハ大王になるでざる。でも大王はなんだか偉そうで、たいへんそうなので、いくひしさんは浜辺でかめはめ波を撃つ練習をするでござる。修行でござる。なんかやる気がでてきたでござる。かめはめ波くらい撃てそうな気がするでござる。でもきっとまた、ダメダメだー、ってなって、おりゃーってなって、お風呂に浸かって、ふにゃー、ってなるでござる。なんだかそれもいい気がしてきたでござる。そんなにダメダメではない気がしてきたでござる。やったーでござる。じゃあもうきょうは寝るでござる。夢のなかでならいつでもどこでも超無敵、いくひしさんはやっぱりきょうもダメダメハ大王だったでござるー。


2482:【覚書き】
現在確認されている世界最大の生き物はキノコである。地表数キロにわたって菌糸を伸ばし、繋がりあっている種が発見されている。妄想でしかないが、おそらく細菌類であっても、地下で増殖して巨大なコロニーを築いているだろう。DNAが同じであればそれらすべてで一個体と判断可能だ。とすると地球上でもっとも巨大な生き物は細菌類となるかもしれない(ただし細菌やウィルスは分裂と死滅のサイクルがはやいので、突然変異を起こしやすい。DNAレベルですべて同じ個体が広い範囲にわたって増殖しつづけられるとは思わないが、しかし環境変化が乏しく、長いあいだ同じ環境がたもたれている場所であれば、自然淘汰によって突然変異種は生存に適さずに、けっきょくのところ同じDNAを持った個体しか増殖できなくとも理屈上では矛盾しないように思うしだいだ)。また、人間のDNAには人体の設計図としてのDNAのほかに、ミトコンドリアのDNAもまじっている。通常人間のDNAは一つの細胞に一つだが、ミトコンドリアDNAは一つの細胞にも複数まじっており、しかもその一つ一つがまったく同じDNAとはかぎらない。ミトコンドリアDNAは人間のDNAと比べるとはるかに変異を帯びやすいようだ。よって個々人によって固有のパターンを有している確率が高く、個人を同定するのにも使えるという。とはいえ、人間のDNAであっても、非コードDNA領域では頻繁に変異が起きているようだから(タンパク質を合成する領域ではないため人体の変異として表れないのでそれら変異の影響を観測するのはむつかしいにしろ)、いまより技術が進めば、人間という種はこれまで考えられていた以上に、個々人によってDNAレベルで異なっているのだ、と判明してくるのではないか。それは一卵性双生児であっても例外ではなく、ともすれば完全なクローンであっても、まったく同じとはならないのかもしれない。(妄想ですので真に受けないでください)


2483:【サボるのだってサボっちゃう】
衰えた分を取り戻そうと、元に戻ろうとするよりかは、いっそ変化する契機だと思って、これまでとは違った方向に舵をきってしまうほうが楽だし、わくわくしながらまた目のまえの目標に向かってあーだこーだできるのでむしろときおり変化したいがために敢えて衰える期間をあけたりするし、サボったときには、身体が変化しなさいと言っているのだな、飽きてきているのだな、と思って思いきってサボることにしている。そうは言っても言うほど変化できていない。人間というのはそういうものだ。変化しようと思っても、けっこうあんがいにしっかり自己に縛られている。大きな変化を経られない。ちいさな変化ならまいにち誰であっても経ている。身体は細胞分裂をくりかえしているし、骨ですら七年ですべての細胞が入れ替わると言われている。ちいさな変化は刻一刻と経ているのだ。だが大きな変化はむつかしい。もっとも手軽に変化を経るには、壊れたり、欠けたりすることだ。しかしいくら大きな変化とは言っても、能力が落ちては目的達成を困難にするだけであまりうれしくはない。だが、あいてしまった穴や欠陥を埋めようとして、これまでなかった変化を経ることはある。どうやって穴を埋めようか、衰えた性能で目的を達成しようか、と考えることそのものが大きな変化の礎になっている。要するに、てっとりばやく問題を抱えてしまって、その問題を乗り越えることで大きな変化を経ようとするしょうもない姑息な手段というわけだ。ただし、これが意外にも功を奏することがある。長期的に見ればみるほどあのとき変化しておいてよかった、舵をきっておいてよかった、と思えるのだ。この要因の一つとして、じぶんにとっての必殺技や長所がもっともはやく衰えはじめる点が挙げられる。つまり、もっとも負担のかかっていることほどサボるとすぐに衰えてしまう。そこを極めて行ければ天才にちかづけるが、しかしいくひしさんは天才ではない。いくらそこを突き詰めても天才にはなれないし、絶対に追いつくことができないのだ。ならば天才の辿らなかった方向に舵をきるほうがおもしろいし、負けないし(競わないのだから当然だ)、たとえ誰からも評価されずとも、誰も見たことのない景色を見る確率があがる。もちろん誰も見たことのない景色を見たからといって他者より優れていることにはならないし、とくべつえらくもなんともない。ただ、山をのぼったからこそ望める景色があるように、そこに辿り着いた者だけが得られる満足感があるのはたしかに思われる。そしてできるだけ多くのそうした満足を得たい。とすると、なるべく負担のすくない道を歩きながら、あーだこーだしつづけるほうが満足を得る確率をあげられそうに思うのだ。誰かに勝ったり、称賛されつづけるには必殺技がないと困るのだろう。だがいくひしさんは端からその道を諦めてしまっている。だから飽きてきたらすぐにサボるし、身体が悲鳴をあげてきたらやはりサボって、これ以上の負担を大きくしないようにと変化の転換機として敢えて衰えるようにしている。すぐには衰えないもので、確実に蓄積されつづけていくものだけで得られるちいさな満足をやはり積み重ねていきたいのだ。だからでもないがいくひしさんはサボるのが嫌いではないし、衰えるのも嫌いではない。その分、変化を得られると知っているからだ。もちろんサボったり、衰えたりしたら、その分を補うべく変化しようとまたすこし足場のわるい道をいくこととなるが、アスレチックがそうであるように、多少の起伏があったほうが旅はおもしろいものだ。道が平坦になってきたら起伏の多そうな道へと逸れてみる。そのための指針をみつくろうべく、きょうもいくひしさんは大いにサボって、衰えるのである。


2484:【差異の才】
空想に現実が侵出してくると途端につまらなくなって感じられるけれども、現実から空想へと羽ばたけるとそれはおもしろくなって感じられる。この違いは大きい。


2485:【おもわん】
自己肯定感が底をついてしまうと楽なのだが、中途半端に、もっとできるはずなのに、となってしまうと苦しくなる。なので、もっとできるはずなのに、となる前に、いやいやきみの実力はそれだから、むしろそれだけできたらじょうできだから、おまえのデキソコナイ具合はそんなもんじゃないから、舐めちゃいかんから、じぶんのクズさに自信を持つんだ、とやって、そっかそっか、そうだったわー、わいがこれだけできたらすごいんや、赤ちゃんがエベレストのぼったようなもんなんや、すっごいなぁー、やったやった、えへへー、となって、自己肯定感をどん底に突き落とすようにしている。めっちゃ楽。くるしいときは真似してみ? じぶんで思ってるほどじぶんはすごいやつじゃないし、たいしたことないんやで。それでもそこまでできてるんやで。すごいやん。きみはめっちゃすごいねんで。いくひしさんは知ってるんやで。安心してやりたいことをやって失敗して、また何度でも挑戦したらええんやで。自己肯定感なんかあったらもうけもん、くらいなもので、なくても困らんで。むしろ両手がふさがって、あっぷあっぷになってるときほど自己肯定感を持つと重荷になってくるしない? くるしいくるしい。捨ててしまえばええんやで。必要ならどこからでも取りだせるんやで。拾い直せばええんやで。けどもいくひしさんは自己肯定感なんかいらんので、気づいたら生えてるカビみたいなもんだと思ってるから、シュッシュって見つけしだい、根こそぎ除菌してまうで。自己肯定感ゼロや。肯定しなきゃ生きていかれないなんてそんな世界はイヤじゃもん。ね。そう思わん?


2486:【野望の対義語は?】
いくひしさんにはとくに成したいこともなければ野望もない。できるだけ好きなことを好きなときに好きなだけ「独り」で没頭できる環境があればそれで充分至極である。だいじなのは、独りで没頭できる環境がほしい点だ。中断されたり、邪魔をされたり、干渉されたりしたくはない。だが、いくひしさんは独りでは生きてはいけない。他者からの恩恵をたくさん受けており、それにはたいへん感謝しているが、だからといっていくひしさんがその恩に報いているかと言えば、否である。そういう意味では現時点においていくひしさんの希望は叶っていると呼べる。おおむね、客観的には引きこもりの社会的おちこぼれであるが、主観的にはエジプトの王妃さまきどりである。王さまでないのは、王は何かを統治する存在であり、その点、いくひしさんは何も支配していない。自由気ままにその日暮らしを送っているだけであるので、王さまではないし、王妃さまは王妃さまでたいへんそうなので、それもまた違っているかもしれない。お嬢さま、或いは、おぼっちゃま、それかペットの猫か犬でもよいかもしれない。ペットの猫、いいですね。なってみたいものです。誰かいくひしさんを飼ってみたいひとはいませんか? いってらっしゃいと、おかえりなさいと、ごちそうさまと、おつかれさまが言えます。


2487:【情報と知識の違い】
光速の求め方も、証明の仕方も知らない。光がおおよそ秒速三十万キロだとされていることは知っていても、本当にそうなのかは知らないままだ。ほかの情報にしても同様で、本当にそうなのか、と確かめたり証明したりすることがいくひしさんにはできない。情報を使って何かを新しくつくることもほとんどしていない。どれほど情報を溜めたところで、知識を溜めていることにはならない。情報を記録しているだけなら辞書やハードディスクと同じだ。そこに知識はない。知能はない。無知とほとんど同義と呼べる。役に立つことが知識だ、と言いたいわけではない。正しいことが知識だ、と言うつもりもない。ただ、情報をたくさん蓄えていることと知識を蓄えることは同じではないことを知っていても損はないはずだ。料理の名前をたくさん知っていても料理ができないなら、料理をすこしでもつくれた者のほうが調理に関する知識はあると呼べる。だが、多くの料理の名前をどうすれば知ることができるかを知っていることもまた知識となる。情報を集める手法そのものが知識となる点は強調しておきたい。集めるだけでなく広く伝える手法もまた知識であろう。情報量の多寡だけでは知識の量や質を測れない。情報は使い方や視点によって、知識にも雑音にもなる。情報をどうすれば知識にすることができるのか。これは知恵や知能の介在が鍵となりそうだ。つまり知識があるとは、情報を解凍し、必要な用途に適用したり応用したりできることを言うのかもしれない。ものすごく根本的な話をしているが、脳内でもうひとりのいくひしさんと話していると共通認識として成立していない気がしたので、並べておきました。


2488:【すべて嘘が理想】
この「いくひ誌。」に並べるような文章を、いくひしさんは極力小説には並べない。新書や小論文もどきをつくりたいわけではないからだ。具体的な情報はすくなくてよい。いくひしさんは小説を通してお勉強をしたいわけではない。虚構を、物語を、楽しみたいのである。


2489:【遅延(ラグ)】
ものすごく単純な話として、物理法則の結果として生命は誕生している。物理法則にはそもそもそれくらいの能力というか可能性が含まれているのだ。ある環境が整えば人間のような生命体が誕生し得るし、もっと言えば環境さえ整えば、物理法則の結果として人間よりも高次の思考形態を有する生命体だって誕生しておかしくはない。人間がコンピューターを生みだしているのもある意味では物理法則の結果であり、宇宙を漂う無数の揺らぎの結果と言える。人間の思考がゼロからそれを生みだしているのではなく、その前段階として宇宙に漂う無数の揺らぎがそれを可能とする余地を与えている。そこに人間のイメージする意思のようなものはないだろうが、すくなくとも人間というものをカタチづくるだけの潜在能力のようなものがこの宇宙には漂っているようだ。人間は飽くまで物理法則によって誕生し、その物理法則は宇宙に漂う無数の揺らぎから生じている。何かができるようになるには、何かを禁止する制約が欠かせない。不自由や不平等といった偏った均衡が、一律の揺るぎない結末へと無数の筋道を、可能性を、与える。波が干渉するにはまず波を妨げる障害物がなければならない。波と波が干渉しあうのですら、互いに自由な動きを妨げあっている。なにをさせないか、の連続によって宇宙には物理法則が生じ、さらに無数の制限によって多種多様な物質ができ、構造が編まれ、生命体へとその枠組みを細部に緻密に多重にひろげつづけてきた。あたかも波が遅延によって生じるように、変化の軌跡を蓄積し、階層構造をそこここに重ねてきた。波とは連続した密度の変化だ。濃いと薄いの連続が、宇宙に漂う無数の揺らぎの根幹だ。それを遅延(ラグ)と言い換えてもそうそう的を外してはいないだろう。時間は相対的であり、空間とセットで伸び縮みを繰りかえす。そこにもやはり波があり、かたや重力波と呼ばれ、かたやチカラを物質へと組みあげるちいさなちいさな枠組み、境界として機能する。我々は無数の遅延(ラグ)でできている。ズレているからこそ個の枠組みを保てるのだ。ズレているからこそ集合しても粒としてその枠組みを保ち、他者と同化せずにいられるのである。遅延(ラグ)を意識しよう。ズレていることの本質に目を向けるのだ。(いい加減なことを並べました。真に受けないでください)


2490:【基本が何かすら分かっていないかも】
行き詰まるときは経験上、基本が足りていない傾向にある。基本は足場であり、柱であり、はしごでもある。いまそれが必要でなくともいずれ川や崖や谷を越えるのに必要となる。というよりも、先人がすでにそういった隘路にぶつかったときに楽に越えられるように編みだしてくれたものが基本なのだ。よって基本をおろそかにしていても問題ない状態というのはたいがい、先人が歩んだ道すらまだ辿れていない状態と言うこともできる。ただし、先人の辿った道以外の、まったく異なった領域へと歩を向けている場合にはこの限りではない。とはいえ、足場や柱やはしごを持っていれば選択肢が増えるので基本を身につけておいて損はないはずだ。ただし、基本を両手で抱えてしまっては目のまえの隘路を越えるどころか、足取りすら重くなりかねない。基本はいちど身に着けたらよこに置いておいてもよい。影のようにかってについて回る。そして必要に駆られたらまた手にすればよいのだ。


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参照:いくひ誌。【2291~2300】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054891455752

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