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いくひ誌。【2291~2300】

※日々、過去の王族より贅沢をしている、突き詰めればアメーバよりかはマシな生活、と思いこみたいカタツムリ。


2291:【いちずになりたい】
長編一本完成させるあいだにストレス解消のための短編や掌編がその倍以上の分量できてしまう現象に苦しむ回数が増えてきた。一気呵成に集中して一本一本をつくれるようにならなきゃ、とは思うものの、年々その意気とは裏腹な創作事情と相成り申してそうらう。真剣にひとつの物語だけを愛する期間をつくらなきゃ、と思うのだけれど、どのコもかわゆくてのう。浮気癖を直さねば。(ぱんちまーく)


2292:【パクられるのがそれほど嫌いではない】
法律上、パクリは著作権侵害として禁止されている。だが、いくひしさんは、パクリそのものをわるいとは思っていない。これは、パクることを積極的に肯定しているのではなく、パクられることに対して寛容だ、という意味だ(この違いは大きいので、ぜひ、ここだけは誤解のないようにお願い申しあげます)。もちろん、いくひしさんのつくったものを他人が「私のオリジナルだ」と偽って、権利を独占しようとする姿勢はいただけない。だが、いくひしさんのつくったものに影響を受けて、そのままにしろ、流用するにせよ、使用する分には、とくに禁止しようとは思わない(無断使用であっても構わない)。繰りかえしになるが、利益を独占するためにオリジナルだと偽って権利を主張されるのは困りものだ。だが、何かしらの創作意欲を満たすために利用される分には、どちらかと言えばよろこばしく感じる(読書もまた、そうしたなんらかの意欲を満たすために他者の成果物を利用しているわけで、こうしてテキストを無料公開している時点で、読書とその他利用の区別をつけるのはむつかしいのではないか、と首をかしげている。これは、いくひしさんが読書もある種の創作行為だと考えていることと無関係ではない)。根本を掘り下げて考えてもみれば、なぜパクリがよろしくない行いだとして広く禁止されているかといえば、何かをつくるという行為には労力と費用がかかっており、鳶に油揚げをさらわれるように、成果だけを他者に掠め取られるような社会になってしまったら、誰も創作者側に回ろうとはしなくなる懸念があるためだ。創作者の権利を守るため、というよりも、そのさきに引き起こるだろう社会的損失を防ぐ目的のほうが大きいのではないか、といくひしさんは想像している。ひるがえって言えば、社会的に利があるならば、創作物や成果物に対して、創作者や生産者が権利を主張せず、独占しない姿勢を示すのは、それほど問題はないのではないか、と考えている(たとえば情報格差を失くすために、誰もが無料で知識を得られるシステムは社会を豊かにする方向に働く。インターネットはその一例と呼べる)。ただし、世のなかにはやはりというべきか、他者の成果物を独占するつもりで無断使用する者もある。「コレは私がつくったものだ、ほかのものが偽物だ」と赤の他人が主張したのでは、元々のオリジナルの創作者はやはり傷つくだろうし、創作意欲を削られるだろう。何かを創作し、生みだした者には、自作をどのように使用するか、或いはさせないのかを決める選択権があったほうが好ましい。ただし、他者の利用を禁止する権利があることと、他者の利用を禁じることはイコールではない。禁止しないかぎりは使用させてもよいのではないか、といくひしさんは考えている。言い換えれば、世のなかの極々一部の「よろしくない使用者」に合わせて、不自由な制限を創作物に課さずともよいのではないか、という疑念がある。基本的には、誰でも好きに利用してもらえたほうが、いくひしさんの創作物にかぎっては、いち創作者として好ましく感じていますよ、という妄言を並べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、これはいくひしさん個人の考えであり、一般化したいわけではありません。誰もがいくひしさんのような考えだったら、それはそれで問題が起きるでしょう。たとえば、現状のコンテンツビジネスはいくらか好ましくない影響を受けることになるはずです。ただ、こうした創作者もいますよ、と知っているだけでも、何かしら考える余地が広がるのではないでしょうか)


2293:【最終的には】
争ったり競ったりするのが苦手だ。なぜならいちど争ったり、競ったりすれば、もっとも効率のよい勝敗の付け方が、相手を殺したり、抹消したりすることになるからだ。現代人には倫理観が刷りこまれており、滅多に殺すまでいくことはないが、しかし社会的に抹殺したり、或いは間接的に死に追いやったりすることは、まったくないとは言い切れない。そしてやはり、いちど争ったり、競ったりすれば、相手から殺されたり、抹消されたりと、何かしら存在や自由を損なわれる確率が高くなる。そうした不安を払しょくするためには、さきに相手から自由を奪ったり、存在そのものを抹消するのが合理的な判断となる。ただし、社会的にそうした行為は非難されるため、勝敗がついたあとでも自由を確保したくば、相手を可能な限り損なわないようなカタチで負かすことがその後の社会生活を円滑に送るのに優位に働く。だが、その後の生活のことを考える余裕がなくなれば、とりあえず勝つことが優先され、結果的に相手を殺したり、抹消することが合理的な選択として判断される確率が高まってしまう懸念がある。そうなるとやはり、相手をさきに殺したり、抹消したりと、過激な手法をとることが合理的に正しくなってしまい兼ねない。いちどこの疑心暗鬼の悪循環に陥れば、或いは雪だるま式に応酬が過激化すれば、相手を滅ぼす選択肢を避けられなくなる。ゆえに、いくひしさんはどんなことであれ、争いたくはないし、競いたくはない。極端に聞こえるだろうか? だとすればあなたは至極まっとうだ。


2294:【破壊+再生=成果】
利益をだすため、という名目で許容されていたシステムや風習は、当然のことながら利益がだせなくなったら名目を保てない。存在する意味がない。もっと言えば、それらシステムや風習に雑な扱いをされていた者たちは、そうしたシステムや風習がじぶんたちの属する土壌を耕してくれていると思えたからこそ、がまんできていた。だが、土壌を耕すどころか汚染しているとしか思えなくなれば従わなくなるのは道理だろう。多くの場合、利益がでていたころから土壌は汚染されていたのだろうが、それを上回る成果を見せられればトータルで発展して見え、不満や批判を呑みこみやすくなる。だが、見せかけの成果に騙されていない保障はない。不都合な事実から目を逸らすためのアドバルーンが「利益」である。利益が必ずしも、成果をあげるために費やした労力や資源と吊りあっているとは限らない。成長とは破壊を再生が上回っている状態だ。だが、再生を繰りかえすごとに細胞は、再生可能な限度数を減らしていく。本質的には、破壊が優位に進んでいる。成長とは緩やかな死と同義なのである。細胞にかぎらず、世の発展や成長には、どこかしらに見過ごされている損失があるはずだ。利益をあげればそれでいい、という考えは危うい。アドバルーンを飛ばしさえすればみな目を逸らしてくれる、誤魔化せる、マイナスとプラスの偏りをないものとして扱ってくれる、といった短絡に結びついてしまい兼ねない。誰に知られることなく消耗している「犠牲」がないか、或いは再生可能な限度数が目減りしていないかと、周囲に、そして未来に、ときおり目を配っていきたいものである。


2295:【つらいことはしたくない】
仕事はつらいもの、って価値観、はやく終わってくれないかな。ひとむかし前は、技術が足りなかったから他人のやりたくないことを率先してやることが仕事になった。でもいまは技術が発展して、社会が豊かになったから、作業そのものはむかしに比べたらだいぶん楽になったはずだ。このさきどんどん楽になっていく。だのに、仕事はつらいものだから、みたいな価値観があるせいで、わざわざ楽になったところにまたべつの作業を詰めこんで、トータルでつらいままであるように操作されている。仕事はつらくなくてよいはずだ。みんなが楽をして生きていける社会を目指して、むかしのひとたちががんばって、苦労して、その分、いまの社会は楽ができるようになった。先人の努力を無駄にしているのが、いまの社会だ。他人のやりたくないことが仕事になるのではない。やりたいけど時間がないので、代わりにやってくれるひとに頼みたい、そういう需要が仕事になるのだ。つらいか、つらくないかはそれほど関係がない。むしろ、いまだにつらい仕事があるのはおかしいと考えたほうが合理的な判断となっていく。好きなことを仕事にしたらつらくて嫌いになる、なんてことはいまの社会では不適切だ。仕事になるかならないか、の問題があるだけで、そもそも仕事にしてつらいようなものは、はなから需要がなくて仕事になっていないだけなのではないか、と疑ったほうが身のためだ。つらくならないようになんとかしましょう。楽をしながら、これをやってほしいな、と他人が望んでいることを肩代わりする。仕事はそれで充分ではないか。仕事だからなんだというのか。他人につらさを押しつけないでほしい。


2296:【霊魔怪シリーズ「窪地のヌシ」】
財布の中身が葉っぱになっていた。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891490574


2297:【物語の多重構造】
物語の構造はつぎの段階に入っている。現に世界的なヒット作は媒体の差異に拘わらず、いずれも意図するにしろされないにしろ、複雑系を模した多重構造となっている。というよりも、古典と呼ばれる名作はたいがい「階層の多重化(多重構造)」を帯びている(むろん例外はある。たとえば「ローマの休日」や「タイタニック」、「スピード」や「白雪姫」は、多重構造ではない)。いくひしさん独自の単語を使ったが、言い換えれば、いくつかの物語(リボン)を多重に練り込み、ひとつの大きな物語(ドレス)を編んでいるものが次世代型の物語構造であり、多重構造であると呼べる(たとえば近年の海外ドラマやディズニー映画のすくなからずは、多重構造である。代表的なのは「スーツ」や「アベンジャーズ・インフィニティウォー」だ。マンガであれば遠藤達哉さんの「SPY×FAMILY」が該当する)。どの物語(リボン)が抜けても大きな物語(ドレス)はちがう顛末(カタチ)を辿るし、どの物語に異物が加わっても、大きな物語(ドレス)の結末(デザイン)は変わってしまう。複雑系におけるカオス理論の初期値鋭敏性が観測できるのだが、これがプロット重視の、いわゆる三幕八部構成や起承転結によってつくられる作品となると、ある程度の影響は、本筋を通すチカラによってかき消される(いわば、多重構造におけるドレスを編むいくつかのリボンの一つ一つが、従来の基本形の物語であると呼べる。ただし、映画を三本繋げただけでは、ただの三部作である。これを編集し、短縮し、編みこみながら、ひとつの作品をつくるのが多重構造であると呼べる。2019年現在においてもっとも多く観測できるのが、三本のリボンをつかって一つの物語を編む、三本リボン構造である)。たとえばむかしばなしの「桃太郎」はむかしながらの基本形の物語だ。桃太郎のお供であるサル、キジ、イヌがそれぞれべつの動物であっても、物語そのものに大きな影響はない。もっといえば、桃太郎が女の子であっても、人間でなくたって大筋は変わらないだろう。だが、多重物語であると、登場人物が一人変わったり、減ったり、或いは新たに加わるだけで、物語の結末は大きく変わる。いまは、そういう物語が広く、そして人々の心の奥深くに、求められているように思われてならない。と、いうよりも、複雑化した社会において、これまでのような単純化された物語では、世界を解釈するための「地図」としては不足なのではないだろうか。むろんこれもまた、本日のいくひしさんの妄想であるので、真に受けないように申しあげて、2019年10月5日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2298:【人間は愚かだが、そのことに気づける点でほかの動物より賢いと呼べる。或いはそれゆえに、もっとも愚かな存在なのかもしれない】
他者を批判したときに用いた理屈を自身に当てはめて考える、といったメタ認知は、自家撞着を抱いているかどうかを見詰め直すにあたって役にたつ。或いはそれを自己言及と言い直してもよい。たとえば表現の自由を守れ、と謳っている人々が、特定の思想や表現を糾弾し、排除しようとする姿勢には何か、表現の自由を脅かすもの以上の歯止めのきかなさ、言い換えればおそろしさを感じる。差別表現やヘイトはたしかに褒められたものではなく、社会的にないほうが好ましいが、そもそも本質的にすっかり失くせるようなものなのかがまず疑問であり、何を以って差別表現とするのか、誰がそれを決めるのか、について未だ茫洋としており、掴みどころがない。もっと言えば、理想的な社会を目指すのならば、そうした差別的でヘイトじみた過激な表現が比較的身近に目に触れるような社会であっても、誰もがそうした表現に感化されることなく、より好ましい共生社会を築いていこうとしていける社会を目指すほうが理想とすべき未来の在り方として、より妥当と言えるのではないだろうか。もうすこしおおざっぱなことを言えば、臭いものには蓋をの精神を過剰にもてはやしては、いざそうした微量の「毒素」が社会に漏れたとき、免疫のない者たちはたやすく毒に染まるようになってしまうのではないか、との懸念がある。フェイクニュースは、真実に嘘が混じっているからこそ害であり、そもそもニュースは真実など報じない、よりらしい現実を見せているだけだ、と誰もが身構えるような社会のほうが、以前のマスメディアに扇動されてきた社会よりかは、いくらかマシと呼べるのではないか。むろん、いちがいに比べられるようなものではなかろうし、フェイクニュースが有り触れた存在となった現代においても、マスメディアによる扇動は、いまなお容易く行われて見える(より正しい情報を媒介するといった社会的役割を担っている点には留意しておきたいところではあるが、それもしかし充分ではない)。ハロー効果に見られるような、肩書きや誰がそれを高く評価しているのか、といった権威主義は、現代でも人々の行動原理の中枢に根を張っており、大勢をひとつの方向に扇動するにあたって用いられる常套手段と呼べるだろう。理屈よりも感情が人を動かす、と謳われはじめて久しいが、どういった刺激が人々の感情を喚起するのか、といった手法は、これもまた理屈によって解析可能だ。感情という概念そのものが明確に定義されておらず、また感情とは行動に対する後付けの解釈だとする説が、2019年現在では有力とされつつある。なぜそうした行動をとったのか、はさまざまな欲求や本能、外部情報や記憶との照合によってなされる偶発的な選択の積み重ねでしかないが、それでも人間は、一つの動機を見繕うことで、情報の圧縮を試みる。次に似た状況に陥ったときに記憶を照合しやすくするためであり、場合分けをしておくことで、さらに情報を統合しやすくなる利点がある。場合分けである以上、感情や、それらを統合した記憶は、総じて後付けである。「瞬時」「短期」「長期」と後付けするまでのスパンにばらつきはあるものの、いずれも行動そのもののきっかけとはべつであり、極端な話、人は必ずしも楽しいから笑うわけではない。笑ったあとに、これは楽しいときの身体反応だと頭脳が過去の記憶と照合し、そのような後付けの解釈をする。むろん、身体が笑うときには、それ相応の外部刺激があり、それを処理したときに、過去の体験が引っ張りだされるわけであるから、ある時期においては、たしかに「楽しい」に類する脳内物質が分泌されていたのだろう。それは比較的本能にちかい生理現象であり、そうした体験の蓄積が、人に記憶を形成させ、さらにそうした記憶が、のちのちに反射的な行動選択と、その後に施される後付けの解釈――つまり行動がさきで、感情や意思があと――という、ねじれ構造を生みだす。これはおそらく、現在進行形の時間軸以外に、未来を想像し、いくつかの報酬(未来)を天秤にかけるといった人間の習性が、思考の遅延(ラグ)を埋めるために獲得した能力であるのだろう。思考を巡らせるあいだにも、人間は過去の記憶を、「現在進行形で処理しつつある外部情報」と照合し、半ば反射的な行動選択を行っている。そのときに選択された行動を、どのように場合分けするかを、人間は、感情や意思といった後付けの解釈によって効率よくこなしていく。たとえ間違った後付けの解釈であろうと、ひとまず「そういうこと」にしておけば、つぎからは正しい行動選択として昇華される。つじつまがあっていればよく、そのつじつまが、じぶんにとって好ましくあればそれでよいのだ(さいあく、生存しつづけられれば、それは生物として正解だ)。つまり、じぶんにより都合のよいように解釈するシステムが、そもそも人間には備わっていると言えそうだ。だからこそ、メタ認知や自己言及といった、じぶんを客観的に見つめ、評価し、疑いつづける視点は、長期的な視野において、後付けの解釈をよりズレのない方向に是正するツールとして機能するのではないか、と妄想できる。人間はじぶんがなぜそうした行動をとったのか、なぜそのような選択をしたのか、を正しく理解できるようにはつくられていない(そして原始時代ではそれでもよかったが、社会を高度にかつ複雑に築き、そうした複雑さを増した共同体のなかで生き抜いていくにあたって、自己認識と客観的な事実のズレは、致命的なバグとして、個の生存を脅かす)。まずはそのことを自覚し、本当はどうしてそうしたのか、を記憶の奥底にある本能と結びつけて考えるようにすると、すこしばかり、じぶんの愚かさに気づきやすくなるのではないか。人間は理屈で物を考えたりはしていない。だからこそ、理屈で考えようとすることが、じぶんを知り、制御するという意味で、欠かせないのではないだろうか。


2299:【自虐ではなく自己分析です】
理屈で考えることのできない人間なので、理屈のたいせつさをせつに感じている。いくひしさんはどちらかと言うまでもなく、明らかに感情的で、本能に忠実であり、お腹が減れば食べ、眠くなれば寝、そしてなんだかちょっとムラムラしてきたら部屋にこもって性感帯をイジイジするくらいのことはする。人間だもの、するものはする。怒るときは割と段階を踏まずにカッとなるし、それで過去に幾千の失敗を重ねてきた。似た失敗を二度以上重ねたこともある。対策が充分でなく、けっきょくのところ軋轢の生じそうな相手とは極力関わらないようにする、といった距離を置くこと以外では有効な対策を講じられずにいる。感情の高ぶりは、いくら理屈で考えたところで制御しきれるものではない。高ぶらないようにするのは生きている以上不可能にちかく、高ぶりそうな要因から遠ざかる以外には、薬物投与のちからを借りるより術がない。脳神経を切断するといった術もないわけではないだろうが、生活するうえでできることの幅が極端に狭まってしまうので、有効な策とは呼べないだろう。人間はどれほど気をつけていても、空腹や寝不足、ストレスの多寡など、体調や環境の影響を知らず知らずのうちに受けている。感情を意思のちからでどうにかできると考えることそのものが理屈にあってはおらず、まずはじぶんが感情に支配されうる性質を帯びているのだ、と自覚することが、感情的に物事を判断しないようにするための前提条件となりそうだ。或いはこうも言い換えられる。「感情の高ぶりスイッチ」は、人間の内側にあるのではなく、外側に溢れており、誤って触れてスイッチを押してしまわないように注意するよりない。あそこにスイッチがあるぞ、と判っていれば、もし不用意に触れてしまってもスイッチを完全に押してしまうことなく、距離を置くことができる。そして見逃してならないのは、「感情高ぶりスイッチ」は個々人によって異なるということだ。「私」にとっての「感情高ぶりスイッチ」が、あなたにとっての「感情高ぶりスイッチ」とはかぎらない。あべこべに、「私」にとって「感情高ぶりスイッチ」でないものが、あなたにとっての「感情高ぶりスイッチ」となることもある。さきにも述べたが、じぶんにとっての「感情高ぶりスイッチ」であっても、時と場合によっては、スイッチの電源そのものがOFFになっていることもあり、以前はだいじょうぶだったのに、今回は電源がONになっていたために感情が高ぶってしまった、といった失態もでてくるだろう。そこは、ちいさな失敗を重ね、何が「感情高ぶりスイッチ」となっているのか、どういう状況下だとONになってしまうのか、その兆候を捉えらられると好ましい(電源そのものはスイッチにではなく、「私」の側に属するのだろう。ただし、電源のON/OFFはじぶんの外側にどれほど「感情高ぶりスイッチ」が溢れているのかに左右されるので、まずは「感情高ぶりスイッチ」に囲まれないような環境をつくるのが優先されよう)。そのためには自身の行動の変化に目を配り、なぜそうした行動をとったのか、なぜいつまでもそのことについて考えてしまうのか、を他者を眺めるように分析できると、大きな失敗をする前に、じぶんの行動を修正できるようになるのではないだろうか。いくひしさんはこれがとても苦手なので、いつも大きな失敗をしてから、なるほどまたアレか、と気づくのだが、とくに損はしないので、まあいっか、で済ませてしまう。失敗を学ばないのは愚か者の証である。いくひしさんと関わるひとはたいへんだ。


2300:【願望】
時代が変わるにしても、変化は段階的に進みます。価値観の変容もまた水が浸透するようにはいきません。これからは、情報の更新速度が増していくことが予想されます。つぎつぎに更新されていくそれらはしかし、伝播速度まで正比例してあがるわけではありません。波が渋滞を起こすように、刷新された集団とそうでない集団の境界線にて、頻繁に諍いが起こるようになるのではないか、との懸念を覚えます。諍いを起こさないようにするためには、新旧に優劣をつくらないような環境を並行して築いていくのが好ましいのではないでしょうか。新しいことにも、古きことにも、どちらにもメリットとデメリットがあるのです(もちろん、利点と欠点の割合には差異があるでしょう)。お互いに尊重しあい、補いあえる社会であると、いくひしさんには好ましく映ります。


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参照:いくひ誌。【331~340】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882637401

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