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いくひ誌。【2281~2290】

※日々、相手の世界を壊さぬように、塗りつぶさぬようにと怯えている。


2281:【たとえば】
いくひしさんの知能がいまより一万倍高くとも、けっきょくいくひしさんはいまのまま、こうして似たような日々を過ごしていることだろう。他人をどうにかしようとすることそのものへの罪悪感が拭えないかぎりどうしようもないのだ。知能が高ければ罪悪感は消えるのだろうか? あべこべに手を消毒することにすら罪悪感を抱くようになってしまいそうでおそろしい。或いは、罪悪感そのものがなくなり、手を消毒するのと同じ感覚で、他者を損なうことに抵抗がなくなる気もする。そちらの公算のほうが高そうだ。いずれにせよ、いくひしさんの知能が低い現実は変わらない。愚かなまま生き、愚かなまま死ぬ。なんて愚かしい日々だろう。それに比べて、愚かなままでも生きていける世のなかの素晴らしさといったらない。ありがたさと申しわけなさの栗ご飯である。


2282:【誰もがみな自家撞着を抱えている】
目的を達成するためには、その目的のスケールにかかわらず、短期的な手法と長期的な手法の両方が必要となる。そしてその二つの手法は往々にして、相反する性質を帯びるものだ。この場合、手法を思想と言い換えてもそれほど大きく的を外さない。たとえば、暴力のない社会を築くことを目的とした場合。長期的にはじぶんを含めた誰もが暴力を用いないことが前提にたつ。暴力を使わない、という手法(思想)が、長期的には役にたつわけだが、しかしそのためには、短期的には、暴力を用いる者たちから身を守ったり、大切な者たちを庇ったりしなければならない。暴力に対抗する何かがあればよいが、いままさに殺されようとしているときに、悠長にそんなものを探してはいられない。正当防衛や緊急避難的に暴力を用いざるを得ないこともある。警察機構はその代表的組織と言ってもいいだろう。例外的に暴力の行使が社会的に許されている。短期的にはこうした暴力の許容が必要とされるわけだが、しかしいつまでもそれを許容していれば長期的な目的は達成できない。もちろんそもそも達成不可能な目的である場合もあるだろう。この世から暴力をなくし、誰もが暴力を働かない社会を築くことそのものが土台無理な話なのかもしれない。この場合、この思想や目的を大勢に強制したり、布教することそのものが一つの暴力と成り得る。話が脱線したが、ともかく、最終的な目的を達成するためには短期的な目標を段階的に達成していかねばならない。そのときに用いる手法は「最終的な目的を達成するために前提となる手法と矛盾する手法」や「どちらかと言えば好ましくない手法」であることがある。おおむねそうだ、と言ってしまってもあながち間違ってはないだろう。例外を探すほうが骨が折れる。言い換えれば、その場しのぎを繰りかえさなくては、長期的な計画を実行しつづけていくことができない。だが、そうしてその場しのぎを繰りかえすことそのものが、新たな問題を生じさせる因子になっている側面からは目を逸らさないほうが長期的には目的を達成しやすくなるはずだ。可能であれば、短期的な手法も、長期的な手法も、相互に矛盾のない手法であると好ましい。どのような段階であれ、目的そのものを根本から否定する手法をわざわざ用いる必要はない。だが、理想に反した手法をとらざるを得ないのが現状のようだ。人類にはまだまだ余裕はないらしい。


2283:【還元、因子、創発、回路】
ちいさな善意が集合することで、善意とはべつの性質が創発して、全体として悪果をまき散らす、という現象は社会的に珍しくないように感じている(あべこべに、悪意の集合が組織や社会にとって好ましく振る舞い、結果としてプラスに働くこともないとは言い切れないが、確率は低いだろう。破壊が創造を生むよりも、創造が破壊を促すほうが、熱力学第二法則であるエントロピー増大の法則に矛盾しない)。派遣会社の問題も、ブラック企業の問題も、利権やエネルギィ資源の問題も、戦争も、紛争も、貧富の差も、差別問題も、気候変動の問題も、おおむねそうした「創発の作用」が問題の認識を困難にしている一つの因子として働いているのではないか、といくひしさんは考えている。個々人に悪意はない。だが、集合することで大きな流れを生み、気体が水となり氷となるように、本来はそこになかった性質が表れ、隘路として社会に顕現する。したがって個々人の意識をどうにかしようとする道徳的な対策は、根本のところで高い効果をあげない。組織のリーダーに責任を問うような真似も大きな効果は期待できないだろう。問題をどのように捉えるか、どこに問題があるのかといったそもそもの視点に難がある。これは還元主義的なモノの見方を基本として習う現代の義務教育があだとなっている側面がある。還元主義的な、或いは三段論法に代表されるような演繹法的なモノの見方、考え方は、事象を単純化して考えるには都合がよろしいが、そのさきに、相互に関連して、総合して、システマチックに複雑に捉える分には、不足である。そして社会や自然現象のすくなからずは、システマチックであり、複雑系に属している。還元主義的なモノの見方では、そもそも扱えないのである。だが、現代では、いまなお階層を意識せずに、還元主義的に問題を処理する傾向が根強い。何か組織で問題があったときは、そのきっかけである個人に責任を負わせ、対策としては、同類のきっかけが起きないように、根本的な因子にのみ制限や変更を課す。だが複雑系において、根本の因子というものは滅多に存在しない。相互に関係し、ときにはまったく問題のないむしろ組織を正常に生かすための因子が、増えすぎたために悪因と化し、組織全体を蝕む、といったこともとりたてて珍しくはない。バランスの問題であるとも呼べるし、組み合わせの問題であるとも呼べる。ときにはタイミングの問題であったり、偶然の作用であったりする。言い換えれば、問題の種を辿っていき、根本の因子を突き止める、といったことが原理的にむつかしい。液体としての水と水蒸気の違いを突き止めるにしても、その境を明確に見極めるのは困難だ。どちらも水分子によって構成されていることに違いはない。だが、我々人類には、液体としての水と水蒸気は別個の事象として認識され、実際にそのように扱っている。だが根本的にはどちらも水分子であり、問題の種を還元主義的に見出そうとすれば、水分子にその責任の矛先が向かうことになる。だが、液体としての水の性質と水蒸気の性質は異なる。そしてその異なる理由は、水分子そのものにあるのではなく、水分子の数や密度、相互の関わり方や、運動の仕方に依存する。言い換えれば、なぜ液体の水が水蒸気になってしまったのか、と問題視した場合に、根本を辿って要素を分解し、還元していく考え方では、本質的な解決策に結びつかない。液体の水分子よりも水蒸気の水分子のほうが激しく振動している。ならば自由に動けないように制限をかけよう。しかしたった一つの水分子を固定したところで水蒸気は水蒸気のままだし、よしんばすべての水分子に制限をかけたところで、動けないようにしてしまったらこんどは、液体にすらならずに、凍ってしまう。液体の状態を基本形として捉えるならば、固体である氷になるのはむしろ余計にまずいだろう。だが、こうした錯誤が現実の社会問題では頻繁に起こっているのではないか、といくひしさんは想像している。単純化して並べたが、本来はもっと複雑だ。いわば、回路そのものが創発の一面を持つ。たとえば、創発した事象を一つの単位として無数の創発がシステムを支えていたり、創発の集合がさらにべつの創発を生んだり(物質や事象の大半はこの「繰り込み」で輪郭を保っているわけだが)、創発した事象同士が相殺しあって均衡を保っていたり、その均衡そのものが一つの因子として回路を機能させていたりと、とかくあちらを崩せばこちらも崩れるといった微妙な秩序のうえに成り立っている。事象とはおおむねそういうものだ、と言ってしまいたくなるほどである。そんななかで、かろうじて独立して回路を維持でき(ているように視え)る事象を、我々人類は原子や分子と名付け、物体や事象を還元して考える手法を煮詰めてきた。だが、それだけでは解釈しきれないほど、世には多くの相互に関連した事象が存在する。人間の関わる事象のすくなからずはそれである。社会とはそういうものである、と言っても大きな齟齬はないだろう。個々人の生き方や在り方だけでは原理的に解決できない問題というものがある。解決可能な問題はおおむね、その対処法を人類は編みだしてきた。残されているのは、解決できない複雑な問題ばかりだ。諸問題の悪因を個々人に還元できない事例もあることをまずは認め、そのうえで、どのような仕組みのうえに問題が創発しているのかを考える視点が、これからの時代には欠かせなくなっていくのではないか、とぼんやりとした妄想をまき散らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(還元主義の代わりに新たな考え方を、という話ではなく、還元主義を使いながら、それを踏まえたうえで、新たな視点でのモノの見方、考え方がもっと多くの分野で必要とされていくのではないか、という趣旨のこれは妄言です)


2284:【揚げ足取り】
むかしできていたことを再習得しようとするのだが、もはや肉体(器)が別物となってしまっていて、それを再習得してしまうと、いまできていることができなくなる不安に駆られることがある。だが、それは錯覚だ。そもそも、むかしできていた、ということからして錯覚だとしてしまったほうがよりそれらしく聞こえる。いま存在するこの肉体、この頭脳は、いま発揮できる技術しか習得していない(記憶はしているかもしれないが、情報として引きだせなければ技術として昇華しようもない。また、運動の記憶が肉体に刻まれるといった仮説も耳にする。マッスルメモリーがそれだ。運動の記憶が肉体に残り、いちど衰えてもまた同じような負荷をかければ、一度目よりも比較的短期間で身体の機能を向上させることができる、とする説だ。肉体の理想的な状態を身体は憶えている、といった説明を耳にする機会があるが、いくひしさんはあまり信じていない。どちらかと言えば、運動の記憶ではなく、免疫系の自己修繕機能の記憶を肉体が覚えるといったほうが正確だろう。不謹慎な喩えとなるが、自然災害が起きたことで、その対処の仕方が学習され、国の復興速度があがるのと似た理屈が、肉体にも備わっていると言えそうだ。よって、肉体の理想的な状態が身体に刻まれるわけではない。学習することで、回復の技術を高めているのである)。言い換えれば、再習得という言葉そのものが現象としてあり得ないのである。習得は、しているか、していないかであり、習得する場合はつねに、習得する、なのである。ただし、十秒前にできていたことがなぜかいまできなくなっていた場合には、これは再習得と言っても矛盾はしないように思われる。記憶が抜けているだけで、肉体たる器に大きな変異はない。言い換えれば、コンピューターのような恒常的に同一の規格でありつづける構造物においては、再習得という言葉を適用しても不自然ではない。人間の肉体は日々変遷しつづけている。赤ちゃんのころは(足があれば)誰もがじぶんの足の親指を噛むことができるが、成人するにつれてできなくなっていく。足の親指を噛めるくらいに身体をやわらかくしようとしても、それは再習得するとは呼ばないだろう。思考形態の場合も同様だ。むかしできた数学の問題をいま解けないのならば、それは再習得するのではなく、いまの「私」が習得するのである。極論であるが、そういう趣旨のこれは「揚げ足取り」である。足を揚げたところで親指は噛めない。噛むためには赤ちゃんを見習うか、或いは足を取るしかないのかもしれない。


2285:【嫉妬、憧憬】
思いついたので並べるだけで、とくに信じているわけではないが、嫉妬と憧れの違いは、対象となる相手を「じぶんより下に見ているか」「上に見ているか」で決まるのではないか、との疑いがある。たとえば二人の人物が同じ成果をあげていたとして、いっぽうは長年じぶんといっしょに育ってきた友人、もういっぽうは実績も肩書きも何もかもが煌びやかな著名人であれば、同じ成果であっても友人には嫉妬し、著名人であれば憧れるようになるのではないか。しかし友人であっても素晴らしい成果をあげたならば憧れることもあるし、著名人であろうと嫉妬するときは嫉妬するのだろう。言い換えれば、友人であろうと「上に見る者」はあるし、著名人であろうと「バカにしている者」もいる。そういう意味では、嫉妬しやすいひとは他者を尊敬していない傾向にあり、嫉妬しにくいひとは他者を尊敬しやすい傾向にあるのかも分からない。ただし、憧れの場合は嫉妬ほど一般化はできない。いくら憧れやすくとも、その視線の向かう対象が一部の花形に限られてしまえば(そして憧れはたいがい一部の者に向けられる感情であるから)、憧れやすいことが他者を尊敬しやすいか否かと結びつけて考えることができない。べつの見方をすれば、嫉妬は万人に向けられ得るのに対し、憧れは限定的だと言えそうだ。


2286:【理屈は役立たず?】
単純な話として、頭のよいとされている者たちがこぞって考えを煮詰め、何かしらの行動に移してきた結果が現状であるのだから、考えることの優先順位、もっと率直に言えば「価値」が低く映っても致し方ないのではないか。理屈で世のなかは動かない、ということを若い世代のみならず、世のなかを動かしている者たちですら、体現し、無自覚のうちから肯定してしまっている。より正しい考えや道理よりも、より多くの資本や他者からの高い評価を得ることのほうが、「社会を動かすためのリモコン」として使い勝手がよいとされるのならば、考えることを放棄し、「社会を動かすためのリモコン」と似て非なる「まがい物の資本」や「一過性の他者からの高い評価」を得ることに躍起になるのはそれこそ致し方ないのではないか。もうそろそろ、「まがい物の資本」や「一過性の他者からの高い評価」を重宝する姿勢を見詰め直してみてもよろしいのではないだろうか(資本と貨幣は必ずしもイコールではない)。話を変えよう。考えの正しさもたいせつだが、誰であれ、じぶんで考え、その考えを発信することに抵抗を感じない世のなかを築いていくほうが、社会をより好ましいシステムに導いていくように思うのだ。デマを広げるのはよろしくないが、間違った考えを述べることを批判したり、厳しく誤謬を指摘したりする社会は、長期的にはマイナスの面が強化されるのではないか。間違った考えにも無数の組み合わせがある。「たしかにその考えは間違っているが、その間違え方は新鮮だね」と言えるくらい、みな、もっとあらゆる可能性に目を向ける懐の深さ、言い換えれば余裕を持ってもよろしいのではないか。「頭のよいはずの者たち」の極一部ではあるが、あまりに狭量な言動をインターネット上で撒き散らして映るので、もうすこし「言い方に気を回してみてはいかがですか、あなた方は賢いのでしょ」と言いたくなってしまう。その点、いくひしさんは端から賢くはないので、狭量な言動を今後も繰り返していくことであろう。じぶんだけは許される、といった傲慢さが愚かしい者となるための一つの条件であると言えそうだ。


2287:【損をするのは誰かを考えよう】
大勢(社会)に認知されなければ存在しないのといっしょ、みたいな理屈を目にする機会がある。しかし、存在するものは存在するわけで、むしろ損をしているのは、あるものをないものとして扱っている大勢のほうだろう。量子物理学では、重ねあわせを認めている。あるものがない状態というのは現象としてまだ発見されていない。むしろ、あらゆる可能性が同時に存在しているといった、いまここにはないものがある、ことのほうが理屈としてより妥当だ(正しいという意味ではなく)。大勢に認められなければ存在しないのといっしょ、という理屈は、飽くまで大勢から見た視点(錯誤)であり、認められようと認められなかろうと、存在する者は存在している。そして、存在する者にとって、大勢からの認知は、存在することの必要条件ではない。他者から認められないとじぶんは存在することもできないのか、と自己を否定してしまうような「認知のゆがみを促す言動」は慎んだほうがよろしいのではないだろうか。(大勢に知られることで得られるメリットがあるのも確かである。だが、大勢に知られないことのメリットもまた同様にしてある。加えて、大勢に知られることのデメリットがないわけではない点にも留意されたい)


2288:【透明な王冠】
権力、と検索すると、「他人を強制し服従させる力」とでる。これは言い換えれば、何らかの組織だったりせずとも、誰もが権力を得る可能性があることを示唆する。絶対的な構図ではなく、相対的な構図によって「権力を持つ者」と「権力を行使される側」とに分かれるのだ。言ってしまえば、こんなにヨワヨワないくひしさんであっても、誰かにとっては権力を持っていることになり得る。じぶんは権力を持っていない、どちらかと言えば虐げられているのだ、と思っている人物であっても、ある一面、ある局面では、誰かを虐げる立場にいておかしくはない。じぶんはどんな場面で権力を持つのかを、いちど想像してみると、思わぬかたちで誰かを理不尽に扱ったり、損なったりせずに済むかもしれない。一方的に利益を享受していたり、いつも雑用や後始末ばかりを他人にさせていたり、正当な報酬を払っていなかったり、断る選択肢を与えずに頼みごとをしていたり。そういうことを日常生活のなかでしていないか、とじぶんを省みる姿勢は、回り回ってじぶんを助けることになるのではないだろうか。言うや易し、行うは難し。いくひしさんにもいくつか心当たりがある。やはり優位な立場に甘えてしまっているところがある。ときには、じぶんのほうが相手に譲っているのだ、遠慮しているのだ、と被害者面をしてしまいたくなることもあるが、じっさいのところ、客観的には、いくひしさんが得をしている構図として成立してしまう点からは目を逸らさずにいたいものだ。たとえ追いやられたさきで楽園を築いた者であっても、楽園を独占すれば権力者なのである。


2289:【なんもわからん】
2019年10月現在において物価は上がっているのか、下がっているのか、どちらなのだろう。値段はそのままに内容量の減った商品をときおり目にする。この場合は、物価が上がっていると言える。しかしたとえば、いくひしさんが幼いころは、近所にコンビニなんてなかったし、百円でから揚げや肉まんは食べられなかった。パソコンだって何十万円もした。十年単位で見渡してみれば、過去よりも安価でできることが増えている事実は否めないのではないか。反面、ガソリンや電気料金はここ二十年では値上がりしつづけているが、五十年単位で眺めてみれば値下がりしていると呼べそうだ(どんな技術であれ、開発当初がもっとも費用がかかるのだからあたりまえと言えば、あたりまえだ。メモリーカードやハードディスクを持ちだすまでもなく、技術力が高まれば、安価に大量に同一の製品をつくりだすことができる。技術力が高まっていくかぎり――そして材料の値段が高騰しないかぎりは――時間の経過と相関して工業製品は安くなる)。また、物理的にカタチを帯びない成果物の需要は年々増加傾向にある。サービスはその典型だ。感情労働もその範疇である。加えて、インターネット上における成果物、たとえばアプリやデジタルコンテンツは、コピーを重ねることで安価に、大量生産大量流通を可能とする。反面、質の高い無料の成果物も蓄積されつづけていくため、市場価値の暴落を招きやすい。ときに、商品価値がなくなるほどに需要を供給が上回る例もでてくるだろう。データのおそろしいところは、蓄積されつづけていくことだ。そしてそれをまとめ、検索することが容易である点も、物理経済とは性質を異としている。そのため、新しい市場を開拓し、開拓した市場を独占する動きが活発化しつつある。ネット上における市場は、概念を変え、需要者と供給者を結ぶ「導線」と呼ばれるようになってきて映る。「導線」は、自力で開拓した独占可能な独自の市場と言えそうだ。裏から言えば、次世代のビジネスにおかれては、個々人が、独自の市場を持たなければ商業として成り立たせることは極めて困難であろう。次世代の経済はそうした、個々の「導線」をいかに需要者と結びつけていくかの模索によって流れを生み、そしてその流れ自体を支配する「場」が社会をひとつの船として扱い、舵をとるようになっていくのではないだろうか。「導線」を人々はいったい何を使って結んでいくのか。新たな「場」の登場に注目しておきたい。


2290:【デタラメを並べます】
仕事をつくるのが仕事となる者たちが、何のために仕事をつくるかを言語化し、その言語化された目的と実体とのあいだにズレがないようにしないかぎり、労働によって経済が築かれる社会では、仕組みの合理化が進まず、技術がいくら高まっても労働時間は減らずに、あいた余裕に「仕事のための仕事」を詰めこまれ、社会は豊かになっているはずなのに、いつまでも人々に余裕は生まれない、といった悪循環が生じてしまいそうだ。仕事をつくることが仕事となる者たちは、言い換えれば、どんなに無駄なことにも対価を払うように指示することのできる立場にある者だ。穴を掘り、掘った穴を埋め、といった単純作業を延々とさせるだけでもそこに報酬が発生すればそれが仕事となってしまうのが現代社会だ。誰の、何のためになっていなくとも、とりあえずお金が動けば、経済は循環する、と考えられがちだが、お金だけ動いても仕方がない。何かしら、労働以前と以後とでは、社会全体の資本が増えていなければならない。穴を掘って埋めただけでは、社会は何も豊かになっていない、むしろ本来生じたはずの資本が得られなかった点で、損をしていると考えられる。こうした無意義な仕事が現代社会には溢れていないだろうか。無意義な仕事を無意義にしないためにまた仕事をつくり、さらにつくりと、一見すると経済は順調に発展しているかのように映るが、元の仕事が本質的に社会を豊かにしないのならば、どれだけ複雑な回路を築いたところで、「無意義」になる時間を先延ばしにしているだけだ。いわば、穴を掘って埋める過程に、ピタゴラスイッチさながらの段階をつくって、それを以って経済と呼ぶ、みたいな滑稽さがある。社会にとって何が無意義か、は議論の余地があり、それぞれの立場からの見解の相違があって当然だとは思うが、公共事業にかぎらず、いち民間企業の代表取締役ですら、いっときの金のやりとりをするためだけにそれほど必要でない仕事をつくりだし、その場しのぎに労働力を投入する風習が、一般化してはいないだろうか。これからの時代は、ときには敢えて発展しない、敢えてこれ以上儲けない、という姿勢をとることも、仕事をつくることが仕事の者たちにとって欠かせない資質となっていくのではないだろうか。自転車操業に陥った時点で、破滅までの秒読みがはじまるものとして考えていたほうが、これからさきの社会を生き抜いていくにあたって、有利になるかもしれない。


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参照:いくひ誌。【1501~1510】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886633113

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