※日々、じぶんのいない世界を眺めている。
2271:【一番にはなれないので】
あとはもう体力は衰えるいっぽうだ。人と競っている場合ではない。人と競えば、相手がやっていることをじぶんもしなくてはならない。すくなくとも同じ土俵にあがらなくてはならない。まったく共通項のない分野同士では競うことはできない。だが、相手の分野を応用したり、転用したりはできる。要するに、利用するのである。競うくらいなら利用したい。学びたい。優れた成果は他人に任せて、美味しいところだけをつまみ食い。体力も才能もないなら、競わないのが最適だ。
2272:【きっかけ、人の生、ドミノ】
怪我をすると、それまでできていたことができなくなる。否応なく出力を低下させなければならないため、見方を変えれば問答無用で楽ができる。もちろん怪我はしないに越したことはないのだが、怪我をしたからといってそう悲嘆する道理もない。ときには怪我をしたことで得意な技術を発揮できなくなることもあるだろう。そういうときは新しい技術を身につける期間だと割り切って、できる範囲で新しい領域に踏みだせると好ましい。怪我そのものは可能であれば回避したい「好ましくないこと」であるが、そのきっかけによって「より好ましい環境やじぶんを求めること」はできる。怪我にかぎらず病気でも同様だ。病気自体は肯定するにはいささか気が重たい、斟酌せずに言えば避けたい事柄であるが、病気になったことがきっかけで新しい出会いや新しい環境、知らなかったことや知り得なかったじぶんの側面、或いは病気にならなければ得ることのできなかった経験値が手に入る。繰り返しになるが、病気そのものは拒絶したい事柄だ。だが、病気がきっかけで得られる好ましい影響もまたあるはずだ。ひるがえっては、どれほど幸運なできごとであっても、それがきっかけで好ましくない影響を受けることもある。宝くじが当たったことで人生が大きく狂い、不幸だ、と嘆きたくなるような日々を送ってしまった者だっていないわけではないだろう。きっかけそのものの評価と、それを経たことで変質したじぶんの環境はまたべつである。極論、死神と出会ってしあわせになる者だっているだろう。どんな石につまずくかは誰にも判らない。だが、石につまづいたあとで、どのように立ち直るかはじぶんで選べるのである。よくないこともあればいいこともある、といった単純な話ではない。きっかけはきっかけである。ドミノを倒す最初の一手がどんなものであれ、ドミノの魅力は全体のドミノの並び方のほうにこそある。どんなドミノをどのように並べていくか。或いは、並べてきたか。きっかけは、そうしたあなたの歩みを浮き彫りにする一手にすぎない。ときには、野犬やダンプカーが飛びこんできて、ドミノの海をダイナシにしてしまうこともあるだろう。それでも並び直せる時間があなたに許されているのなら、一つ一つ、一歩一歩、また最初から(或いは途中から)着実に並べていくのがよいのではないか。もちろん、素晴らしい細工の施された、イリュージョンじみたドミノでなくたって構わない。ドミノである必要すらない。人の生でなくたっていい。あなたの生はあなたのものだ。人生なる抽象化されたレールを辿らなくてはならない、なんてことはない。ただ、人の生でない生き方は、困難を極める。人は、人以外には手厳しい。よしんば同族であろうとやさしくはない。楽をしたければ、ドミノを並べ、人の生を歩むのがよさそうだ。まとめよう。きっかけはきっかけにすぎない。その後にどのような生き方をするかはじぶんで決められる。きっかけに惑わされぬよう、ときおりでよいので、じぶんの描こうとしているドミノの完成図を、思い浮かべる習慣をつけておくと、いざこれまでのドミノがダイナシにされても、比較的短時間で修正し、ドミノを立て直すことができるだろう。きっかけによって日々が変質してしまうことはある。だが日々をかたちづくるのはじぶんである。環境によって自由に生きられないことはある。それでも自由に生きようとすることはできるはずだ。
2273:【虫の音、リズム、プリズム】
林の奥からコオロギの鳴き声が津波となって聴こえていた。通常、コオロギは律動よく、リリリリ、と鳴く。それが、リーーーーーーー、と大音量で鳴りつづけていた。まるで、リリリリ、の合間をたくさんのリリリリが埋め尽くしているようで、耳で聴いていたはずが、目で見ているようなふしぎな感覚を覚えた。合唱ではなかった。空間を埋め尽くしていた。まるで一匹一匹のリリリリがそれで一つのブロックと化したように、隙間なくびっちりと並べられ、壁となって押し寄せていた。毎年繰り返し訪れる秋であるが、こうして足を止め、空間を埋め尽くす虫の音に耳をそばだてたのは初めてのことだと記憶している。どんな虫が鳴いているのかと、一つ一つの鳴き声に意識を差し向けることはたびたびあったが、虫の音から律動が失われるくらいに、全体が一つの、リーーーーとなっていることに気を留めたのは初めてである。だからどうしたというわけでもないが、音も色のように塗りつぶすことがあるのだと思うと、なんだか現象と物質の垣根が崩れたようで、やはりふしぎな心地になる。思えば、物質もまた現象のうちの一つなのだ。さまざまな現象の組み合わせ、干渉によってその輪郭を保っている。一つ一つ、干渉しあう現象を取り除いていけば、最後にはひとつの、リリリリが現れるのかもしれない。それを律動と言い換えてもよい。或いは、波形と。
2274:【自我、意識、虚構】
人類以上の知能を有する何かしらが現れたら、それにとっての意識は、我々人類が思うような意識とはべつの何かへと昇華されるだろう。とすると、その高次な知能を有する何かしらからすると人類は総じて意識を持たないように映るはずだ。我々がほかの生物を眺め、自我や意識を持たないように見えるのと似た現象と言えそうだ。人間の行動原理は、高次な知能を有する者から見れば、獣や植物、或いはバクテリアやウィルスとそう変わらないのかもしれない。そこに自我や意識の介在を幻視するよりも、そんなものはないと考えたほうがより正確な解釈として成立しそうだ。すくなくとも我々人類には、人類以上の知能はなく、それ以上の高次な自我や意識もまた有していないのだから。自我や意識は神や魂のようなものなのだろう。人類がそれを存在するものとして認識しているだけであり、実存とはまたべつなのだ。自我や意識があると見做す機構そのものが自我や意識の正体とも言えるかもしれない。だとすると、自己と非自己を識別し、増殖するバクテリアやウィルスには、低次の自我や意識が芽生えていてふしぎではない。それら自我や意識が、我々人類にとっての自我や意識とは相容れないだけで。或いはこうも言い換えられる。あらゆる低次の自我や意識が複合され、高次の自我や意識は合成されるのだと。細胞が人体を構成するのに似た仕組みが、自我や意識にも当てはまるのかもしれない。定かではない。
2275:【否定の否定】
否定はしないよ、と口で言いながら嫌悪を示し、相手から学ぼうとしない姿勢を貫く者がいる。否定をしないのなら、よいところはよいと認め、取り入れようとする姿勢くらいは示したらどうなのか、と思うのだが、おかしなことを言っているだろうか? 否定はしないよ、と言いながら拒絶していたらそれは、ただ否定するより性質がわるい。否定は解釈や判断の一つだが、拒絶は行為である。否定を具体的に体現したものが拒絶だ。単なる否定よりもつよい否定の意を含んでいる。排除の意思がそこには加わっているからだ。否定をしないのならば、理解しあう姿勢を保つこと、学びあう姿勢を示すことくらいは維持したほうが好ましいのではないか。真実に否定をしないのならば、そうあってほしいと望むものだ。否定することはわるいことではない。拒絶だってときにはじぶんを守るためにはしなくてはならないだろう。否定したいなら否定すればいい(しないほうが好ましくはあるが)。拒絶するのも必ずしもわるいことではない。ただ、否定をしているのにしていないと言ったり、拒絶しているのにそのことに無自覚なのは、議論を交わすうえではやや不便だろう。すくなくとも否定したり拒絶したりした対象に嘘を吐いている、と言えそうだ。傷つけているのに傷つけていないと言い張っているようなもので、そこはかとない暴力を感じる。いくひしさんも気をつけたいものである。
2276:【理想が単なる現状維持】
じぶんが考えたところで世のなか何も変わらない、どうせこうなるから意味がない、どうせ世のなかはこうだからよくもわるくも大きく社会は変わったりしない、といった諦観が、いくひしさんの思っていた以上に身近なおとなにも馴染んでいて(巣食っていて)、すこし以上に驚いてしまった。ものすごく考えているようで、考えることを放棄している。トートロジーを頻繁に使うのだが、そのことに当人は無自覚だ。仕組みやシステムに不備があるなら改善すればいい。だが、そもそも改善できるようなものだとの認識がないため、欠陥のあるシステム内でどうやって生き抜いていくか、という方向にしか目が向かない。だっていまがこうだし、どうせこのさきもこのままでしょ、だからこうなんだよ、といった具合だ。諦めてしまっているのだ。大きな枠組みの仕組みやシステムはすぐには変更したり、改善したりはできない。だからこそ、長期的な視野で、すこしずつ改善していこうとしなければ、やはりいつまで経っても現状維持がつづくだけだ(現状維持をしようとしなければしぜんと衰退していく。言い換えれば、現状維持そのものにも労力がかかる。現代は、現状維持ですらむつかしく映りがちなのだろう)。将来的にどうしていきたいのか、どういう未来を手にしたいのか。その理想すら、現状の枠組み内でしか思い描けていない。想像力の翼が折れてしまっている。どうしてそうなってしまったのか。日々の生活が苦しいからかもしれない。貧すれば鈍する。まずは想像力からひとは鈍くなっていく、のかも分からない。
2277:【批判は否定とちがう】
じぶんよりも格下を批判するのも、じぶんより格上を批判するのも、どちらもするだけなら簡単だ。だが、ただするだけでも、それを批判したらじぶんの底が割れるかもしれない、と畏怖するような、じぶんの鏡像のような存在を批判することは誰もが躊躇する。だからこそ、そこをこそ批判できる者が評論家となるのだろう。客観的な評価は、じぶんを棚にあげることでしか成し得ない。だからこそ、その自家撞着に無自覚である人間は、対象を客観視する資質に欠けていると呼べる。主観を棚上げするためには、誰より主観を理解していなければならない。ゆえに、じぶんの鏡像から目を背けず批判できる者こそが、評論家の資質を有するのではないか、といくひしさんは考えております。
2278:【頭が固い】
じぶんを信じられない理由の一つに、ビジョンがそれほど大きくぶれない点がある。どれほど知識を得ても、それ以前に思い描いていたビジョンが肉付けされるだけで、その骨子はおおむね揺るがない。本来であれば、誤った知識が是正されたり、未知の分野の知見を得れば、ビジョンは修正する方向に動くはずだ。だが、ほとんど微動だにしない。だからこそ、じぶんの判断力や考えを疑うのである。ビジョンは修正するものであるし、ときには大きく骨子を入れ替えることも必要となる。原型からほとんど変わらないというのは、根本的に、それをいじくる者の腕に瑕疵があると考えるのが妥当だ。DNAではあるまいし。最初から完成図が決まっているなんてことは、ほとんどあり得ない。それこそ、生物が新たに無から誕生するような確率の低さだと言えそうだ。いくひしさんの言うことを真に受けてはいけない。
2279:【限りなく零にちかい】
たくさんの「ない」でいくひしさんはできあがっている。したことないこと、持ってないもの、そういうものでできている。限りなく零にちかいチリアクタ。
2280:【きみはすぐいい加減なことを言う】
物質は、存在は、あるものが組み合わさり、相互に干渉しあってできている。ないものはない。ないものでできあがるものなどは、ないのである。無はできあがるものではなく、ただそこにない。ないものはない。ゆえに無なのだ。ないものが組み合わさってできたりはしない。生じたりはしない。ないものはない。ただ、無なのだ。裏から言えば、ないものでできあがっているなんて言い方は過分に誤謬を含んでいる。たとえば穴は、ぽっかりと物質のない部分が目につくが、それは空間をほかの物質が囲んでいるからできている。ないからあるのではない。あるものが相互に干渉しあって、穴を囲んでいるから、穴は穴としてそこに生じる。ないからあるのではない。あるもので「穴」をつくっている。この場合、「穴」を「マイナス」に言い換えても成立する。ないものでできあがるものなどはない。それは無であり、できあがるものでも、組みあがるものでもないのである。いい加減なことを言わないようにしてくださいね。いいですか、いくひしさん。
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参照:いくひ誌。【1671~1680】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887361413