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いくひ誌。【2261~2270】

※日々、至らぬばかりで、果てしない。


2261:【思っているよりもずっと下手】
いろいろな出力の出し方を試していかないことには、どんな出力の出し方だと失敗するのかを学べない。出力の仕方は人それぞれ異なる。こればかりは見て学ぶことができない。じぶんの出力にしても、時と場合で、やはり力の入れ加減が変わる。さまざまな環境下で出力の変化を試しておくと、もっとも好ましいパフォーマンスの仕方を割りだせるはずだ。毎回同じような環境で腕を磨けるならそれに越したことはないのだろう。ただ、環境が変わる可能性があるのならば、やはりどんな状況であっても、一定の出力を保てるように、じぶんの体感と客観の差異を知っておくのは、そうわるい成果には結びつかないように思うしだいだ。


2262:【都合のよい存在】
奴隷がほしいと望むことと、誰かから無条件に愛されたいと望むことの違いはどこにあるのだろう? 或いは、奴隷になりたいと望むことと、誰かを無条件で愛したいと望むことの違いはどこにあるのだろう? 無償の愛は、ひとを奴隷にする。愛は奴隷を生む。じぶんだけの奴隷を。


2263:【ないものねだり】
愛とは自己完結するものであり、相互に享受しあうものと考えてしまうと、それはとたんに呪縛と変わらなくなるのではないか、との疑念が拭えない。愛とはそれほど、ことほどにみなが言うほどありがたいものだろうか。愛の代わりに憎しみや嫌悪が溢れていれば、或いはありがたく感じるのかもしれないが。


2264:【餓鬼】
ひねくれすぎやぞいくひし。そのへんにしとけ。じぶんが手にできないからってひがんでんじゃねぇぞ。


2265:【邪気】
はぁ、息苦しかった。まんちゃんさぁ、任しとけって言っといて、なに負かされてんの。ちゃんとアイツの手綱にぎっとかなきゃダメじゃんよ。しばらく閉じこめてこらしめとかないといい気になって手に負えんくなるよ。ちゃんとその辺考えなきゃ、あたしらみんな暇じゃないんよ。頼むよまんちゃん、ホントもう。


2266:【あき】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いやはや、びっくりでござる。気づいたらえっと、どれくらいでござるか? ひと月ぶりぐらいでござるか? もっとでござるか? やー、いくひしさんはもうもう、疲れちゃったでござる。かんぜんなる夏バテでござったでざるよ。疲れ知らずの困ったちゃんに任しっぱなしにしてたら、ほかのいくひしさんたちに叱られちゃったでござる。いやはや、それにしてももうすっかり秋でござるな。おそとにお出かけするときはマフラーを首にマキマキするでござる。マキマキしないと風邪ひきコンコンでござる。みなのものも気をつけるでござるよ。寝るときもちゃんとお毛布にくるまって、あったかーってして寝るでござる。いくひしさんはおうちにいるあいだもひざ掛け毛布であったかーでござる。風邪ひきコンコンはいやいやでござる。ノーセンキューでござる。英語を使ったらかしこいと思っているでござる。やったーセンキューでござる。肌寒いでござるなぁ、と思ってたら、いま見たお天気予報で、なんか来週からまたアッチくなるみたいでござる。どっちかにしてほしいでござる。優柔不断はいくひしさんだけで間に合っているでござる。いくひしさんに任せてほしいでござる。優柔不断のどっちつかず大臣に任命してほしいでござる。任せるでござる。あ、でもやっぱし自信ないでござる。やめておくでござる。あーでもなー、どうしてもって言うならやってあげてもいいでござる。どうするでござる? いくひしさんはどっちでもいいでござる。優柔不断にすぎるでござる。他人任せに他力本願、責任逃れに罪人咎めて悦にひたるひどいやつでござる。うるさいでござる。自虐はモテないでござる。もうそういう時代じゃないでござる、ウソでも自信満々にしとくがよいでござる。そういうのに騙されてなんかステキって思ってくれるチョロいカモがそこらちゅうにウヨウヨしているでござる。なのにいくひしさんのとこには一匹も捕まりにこないでござる。どうなっているでござるか? ふしぎでござる。ふて腐れてやるでござる。不貞寝でござる。ふてーやつでござる。太っ腹の面の皮が厚いやつでござる。それは単なるおすもうさん! ごっちゃんです! なにが!!! もういいでごわす。おわるでござる。ごわすかござるかどっちかにして! 優柔不断に磨きをかけたところできょうはもうおやすみーでござるー。


2267:【循環はフラクタル】
たとえば地球上でいくら大量にコオロギが生まれようと、地球上の物質は何一つ増えたり減ったりしない。物質は循環しているだけで総量は減らないのだ。視点を変えれば、周期的に連続した化学反応でしかないと見做すことができる。これはコオロギにかぎらず、生命体全般に言える。地球上で誕生し死滅していった生物は、いわば巨大なパンが焼きあがったりカビたり、腐ったりすることと原理上区別がつかない。もっと単純化すれば鉄の塊が酸化することと大差はない。鉄が酸素と結合し、酸化する過程を、原子や分子単位で観測可能であった場合、これは一つの生物が誕生し、死滅するのを地球のそとから観察するのと似たようなものなのではないか。我々人類が宇宙からすれば遥かにちいさな、とるに足りない存在でありながら、それでも宇宙を観測可能なほどの演算能力を有しているように、知能の高さと「それそのものの大きさ」は正比例しない。AIの集積回路が小さくなっても性能が向上しつづけているのと似たようなことが、生命にも当てはまるかもしれない。視点を変えれば、それこそ視点が変わっても、我々がパンを焼いているあいだに起こる原子の変化そのものが、新たな宇宙を形成し、そこに無数の知性を――或いは生命を――生みだしていてもふしぎではない。否、ふしぎな気分に浸るには充分なこれは妄想である。


2268:【ミラーテスト、自己認識】
自己認識可能な生物は、生き物全体の一部だとされている。たとえば霊長類、それこそボノボやオラウータン、ゴリラ、ヒト、あとは個体差によってはクジラや鳥、ゾウにも自己認識はできるようだ。どうやって自己認識の有無を確かめるかと言えば、代表的なのは鏡像テストだ。鏡に映った像をじぶんと見做せるか、である。たとえば顔に異物や汚れをつけておいて、鏡を見てそれを取り除こうとするかどうか、や、死角につけた食べ物に気づき食べようとするか否かで自己認識の有無を判定する。しかしこれは飽くまで、外界認識に視覚を用いる生物に限定されるテストだ。視覚よりもほかの知覚に頼って外界を認識する生物には適用できない。目の見えない人間を鏡のまえにたたせ反応を見るようなものだ。たとえばヘビの自己認識の有無をたしかめるなら、まったく同じ動きをする同じ体格の同じ体温分布を宿したモデルを用意しなくては、虚像テストの代わりにはならないはずだ。嗅覚を頼りに外界を認識する犬やサメも同様だ。鏡像テストでは生物全般の自己認識の有無を確かめるのには不足と言えそうだ。おそらく自己認識可能な生物はもうすこし多いはずだ。テストの工夫が期待される。(ひょっとしたら自己認識を獲得するためには可視光線の受容体、すなわち目に頼った外界認識器官が必要なのかもしれない。目そのもののというよりも、視覚を司る脳の部位が自己認識をする際に重要である可能性がある。とすると目の見えない人間であっても、自己認識可能なことが矛盾しない。が、これはやや強引な理屈と言えそうだ。この理屈だと、ニホンザルが鏡像テストをパスできない理由が説明できない)


2269:【同じことをくどくどと】
「悪」の厄介なところは、悪人だけでなく、善人もまたそれをするところにある。たとえば神が人を傷つけても、みなそこに意味を見出し、傷つけられたほうに何らかの瑕疵があり、ただ罰を受けているのだ、と思いこむ。神が行うのは悪ではなく、罰であり、善行であると解釈されてしまうのだ。そしてこうした誤謬は、それが神でなく、善人であっても成立してしまうところに、「悪」の厄介さがあると言えよう。悪は悪だ。往々にして善行とは悪を以ってなされるのである。完全無欠の善などめったにお目にかかれない。愛もまたそうであるように。悪を倒すのは悪にしかできない。だからこそ、悪に染まらずに済むためには、悪を倒さず、悪を敵視せず、悪を排除しようとしないことに尽きる。倒し、敵視し、排除することそのものが悪であることをまずは自覚できると好ましい。


2270:【属性で判断することを偏見と言うのでは?】
自己肯定感は低かろうが高かろうが、行動の結果には大した影響はないといくひしさんは捉えている。どちらかと言えば、自己肯定感が低いのはよくないことだ、といった風潮こそが、好ましくない結果を生む悪循環を形成しているように感じている。これは根明(陽キャ)や根暗(陰キャ)といった分類にも当てはまる。詰まるところ偏見なのである。偏見の何がよろしくないかと言えば、まさに前述したとおり、悪循環を形成してしまう点である。属性によって差別が発生し、そのせいで少数派(よくないと評価されてしまった属性を持つ者たち)が、じぶんたちはよくないのだ、と自己暗示をかけてしまい、そのせいで行動選択が狭まり、余計に属性による行動や結果の偏りが観測されるようになり、差別が助長されてしまう。まさに悪循環である(この場合、統計としておおざっぱな傾向は表れるが、その要因が真実に属性にあるのか、それとも環境要因による一時的な相関関係なのかは区別しておく必要がある。属性をおおざっぱにくくって「そういう結果になりやすい」と考えることは、物事を単純化して考えるのにあたっては有効な手法だ。しかし、飽くまでそれは傾向であり、例外が多分に含まれている点からは目を逸らさずにいたい。繰り返しになるが、因果関係でなく相関関係であっても、傾向は抽出可能だ。傾向が単なる偏見でない保証はない)。これは人種差別でも性差別でも職業(身分)差別でも同じような悪循環が形成されていたと想像している。自己肯定感が低かろうが、高かろうが、陽キャだろうが陰キャだろうが、そんなことに関係なく、好きだと思うことは好きでいつづければよい。また、やりたいことがあるならばいちどやってみればよいのだ。可能であれば他人を傷つけてしまわないか、見通しを立ててから実行する癖をつけておくと好ましいが、人間生きていれば大なり小なり誰かを傷つけるものであるから、すこしでも傷つける可能性があったらやるな、とはいくひしさんは言えない。ただし、慎重に考えることは損を回避することに繋がる。加えて、慎重であると、他人であるいくひしさんにとっても好ましく映る。ただ、やはり、他人であるいくひしさんが好ましく思うだけであって、それを理由に誰かの「これが好きだ」「これをやりたい」と思う気持ちや行動を咎めたり、禁止したりはできないのである。あなたがどんな属性を帯びていようと、その属性があなたの行動やあなた自身を否定する理由にはなり得ない(たとえばその属性が殺人鬼だったり疫病感染者だったりすれば、これはすこしだけ話が変わってくるが、それでもあなた自身を否定する要素とはなり得ない)。自己肯定感が低くとも、それはあなたの存在そのものを損なう要素とはならない。劣ってなどいない。いいや、ある一面では劣っているのかもしれない。それはしかし、自己肯定感が高い人物にも同様にしてある側面だ。誰もがある一面では劣っており、ある一面では秀でている。誰と比べるかによって異なるし、何を比べるかによっても違ってくる。いつ、どこで、どのように比べるかによっても優劣はいともたやすく変動する。世のなかの「こういうやつはこうだ」「こういうやつはダメだ」みたいな偏見を真に受ける道理があなたにはない。自己肯定感が低いのが嫌なら高めればいい。ただ、自己肯定感が低いことをそれほど嫌だと思っていないのであれば、無理に変える必要はないはずだ。なぜ苦しいのかをときおり掘り下げて考えてみるのも一興だ。多くの者が言うように、「自己肯定感が低いから」苦しい思いをしているのか、それとも「自己肯定感が低いことがよくないことだ」といった大勢からの負の評価が苦しいのか。似ているようでこの二つはまったく違う。根本の要因を見誤っていれば、対処法も間違うのが道理である。なぜ苦しいのか、いちど周囲の雑音を遮断して、じぶんと対話をする時間をつくるのもそうわるくはないはずだ(周囲からの意見に耳を傾けるな、という意味ではなく)。


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参照:いくひ誌。【161~170】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881697636

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