※日々、きのうできたことがきょうできなくなる、はたからみたら、毎日同じことの繰り返しにすぎないのに。


2251:【ひとごと】
文芸とはべつの分野の話だが、業界やコミュニティを活性化させようとしてじぶんたちで過剰に盛りあがってみせ、それが裏目にでてしまい、却って新規参入を妨げ、下火になってしまった事例を目にする機会がある。コミュニティを盛りあげることと、じぶんたちが盛りあがることの区別はつけておいたほうが好ましいのではないか、と疑問に思うのだが、本人たちが楽しそうにしている分には、それを外野がとやかく言うのは野暮だろう。けっきょくのところ、なぜ業界やコミュニティを活性化させたいかと言えば、じぶんが楽しみたいからだ。結果として業界やコミュニティが瓦解しようが、そのあいだじぶんが楽しめていればそれでよいのだろう。裏から言えば、いくら業界やコミュニティが活性化しようとも、じぶんが楽しめなければそこに加わっている意味はないはずだ。何にせよ、死ぬまで楽しめればラッキーと言えそうだ。


2252:【言葉が詰まって、でてこない】
人間の知覚には時間差がある。外部情報を電子信号に変換し、脳が受け取り、処理するまでコンマ何秒とかかっている。また、視覚や聴覚など、五感ごとにそれぞれかかる時間もまた異なっている。視覚よりも聴覚のほうが速く情報が処理される。また、同じ触覚にしろ、脳に近い皮膚と四肢末端の皮膚とでは、距離が違う分、ロスが生じる。それでも我々人間は、それらロスを感じずに、知覚を統合して、合成した情報を外部世界として認識している。これはいわば、もっとも伝達速度の遅い知覚に合わせて、外部世界を合成していると考えても大きく矛盾はしないだろう。そもそも人間はすべての外部情報を処理しているわけではない。目で世界を見ているつもりでも、じっさいには眼球に到達している可視光線の二割も処理していないはずだ(そして可視光線ですら電磁波の極々一部でしかない)。いちいちその都度、目のまえの情報を処理していたのでは脳みそがすぐに疲弊してしまう。たとえば見慣れた道を歩くのと、初めて通る道を歩くのとでは、外部情報の処理量には大きな開きがあるはずだ。見慣れた道は、本を読みながらでも、なんとなく視界の端に移る景色だけを頼りにして目的地に辿り着ける。もちろん、視覚情報だけでなく、音や方向感覚など、ほかの知覚も使っているからこそできる業だろう。いわば、脳みそにインプットされた地図と、断片的な外部情報を照らし合わせているのだ。いちいち、目印となる建物や、曲がり角の数を確認せずとも、すでに脳内に構築された地図を参照すれば、外部情報を逐一膨大に処理する必要はない。この脳内の地図は、何も道だけに限らない。他人の顔や、仕草、家の間取りや、理屈や概念にも当てはまる。いちど構築された地図さえあれば、逐一すべての情報を処理しようとせずとも、支障なく外部世界を認識できる(地図からはみ出した情報だけを処理すればよい)。同時に、地図と外部世界の細かな違いは見過ごされてしまうこともあり、そうなると誤解や齟齬、見間違いや誤謬の原因ともなってしまう。そしておそらく、こうした地図(仮想)と現実を照らし合わせ、情報処理の節約に活かすシステムは、人間に限らず、社会や組織といった集合にも意図せず組みこまれているのではないか、と妄想している。冒頭でも述べたが、知覚にはセンサーごとに処理するまでの時間差がある。そしてもっとも情報処理速度の遅い知覚に合わせて、情報は合成される。そうして情報は判断可能な「事象」として認識されるわけだが、人類が何億年とかけて進化してきた時間に比べたら、社会や組織は、急ごしらえの造りであり、端的に言って、まだまだ合理化が進んでいない。情報処理の時間差が許容できないほど開いてしまっているケースもすくなくはないだろう。そうなると情報伝達を待っていられない。情報が欠けていても、まずは情報を合成してしまえ、となる。それで問題なく「事象」を認識できればよいが、おおむね、情報は足りず、穴空きのような地図しか構築できなくなる。本来ならば補助であるはずの地図が、思わぬ落とし穴を広げ、そこに落ちる確率をあげてしまうのだ。そして杜撰な地図を元に、ただでさえ足りない情報を、さらに「地図があるからだいじょうぶだろう」と外部情報を制限してしまえば、あとはもう、目と耳をふさぎ、崖のうえを歩くようなもので、無事に目的地までたどり着け、というほうが土台無茶だろう。まとめよう。「現実」をより正確に認識するためには、外部情報をたくさん集めればよいというわけではない。それら外部情報を繋ぎあわせ、つぎからもっと楽に「現実」を把握できるような『地図』を構築していくことが欠かせない。そしてその『地図』を構築する情報は、同時に集まるわけではなく、時間差があり、その伝達速度をいかに縮めるか、そしていかに待つことができるかが、「現実」をより正確に認識するために役に立つと言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。どんな情報を削ぎ落とし、何を『地図』で補っているのかを把握しておくこと。どんな情報が遅れてやってきて、それが『地図』に対してどの程度、「現実」を補完するのかを推し量っておくこと。我々はつねに「世界」そのものを認識することはできていない事実をまずは前提として、物を考える癖をつけておくと、思わぬ落とし穴にはまらずに済むのではないだろうか。いつになくまとまりのない文章になったが、どんな文章であれ、ここに並ぶのはいくひしさんの妄想であるので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2253:【ボヤくだけならラク】
まったく関わり合いのない外部の人間なので、文芸業界についてとやかく並べ立てたくはないのだが、それはそれとして、出版社も作家側も、もっとお互いに、いま何が苦しいのか、今後どれくらいきつくなっていくのか、ではどうしたらよいのか、を外野からも見える範囲で話し合ったほうがよいのではないか。誤解やデマを信じるな、と言われても、では何が正しいのか、正確な情報を発信してくれているのだろうか。情報をださないようにしておいて、あれは誤解ですよとか、あんな話を信じるな、というのはさすがに虫がよすぎるだろう。作家(や編集者)の待遇が以前と比べてどの程度改善されているのか、くらいは発表したらどうなのか。独占禁止法や下請法を順守しているのなら、みなさんの不安は杞憂ですよ、出版業界は健全ですよ、と大々的に発表すればよい(出版物は汎用性があるので、独占禁止法や下請法の範疇外ですよ、との理屈はナンセンスだ)。それができないようでは、出版業界のわるい噂は真実味を帯びたまま世間(という名のインターネット内)を漂いつづけるだろう。出版業界がキツいのは誰がみても明らかだ(ライツ事業の収益は増しているが、それゆえに出版物を商品として扱う事業は縮小されていくことが予想される)。出版社勤務の従業員がわるい、だなんて本気で信じている者のほうがすくないはずだ(大半の者は出版社の従業員が真摯に本をつくっていると信じている、ということです)。同時に、作家の待遇のわるさも同じくらい信じられているはずだ。誰がわるいではないからこそ、まずは仕組みを、現代社会一般の「ビジネスの土台」に乗せるよりないのではないか。出版業界は独自の風習がありますから、ではもはやとおらない時代なのではありませんか。編集者だって、じぶんが惚れた作家が筆を折る姿はつらいはずだ。だが現実問題として、新人作家はつぎつぎに生まれ、そして度重なる企画や原稿のボツに(或いは、出版部数や印税の少なさに)心身を病み、文芸業界そのものから去ってはいないだろうか。これもまた外野であるいくひしさんの勘違いかもしれない。じっさいは、新人作家の多くは出版社と関わってよい思いをし、もっと創作が好きになっているのかもしれない。そうした作家だっていないわけではないだろう。だが、割合としてすくなすぎるのではないか。才能がものを言う業界とはいえ、あまりにいっぽうてきに作家側が割を食ってはいないだろうか。出版社も出版社でたいへんなのは理解できるが、じぶんたちがこれだけ苦労しているのだから、と作家側に理不尽に当たり散らす真似がまかりとおってはいやしませんか、と偏った懸念を示し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(作家も作家で、じぶんは耐えられるからと、理不尽な真似に耐えないようにしたほうが、のちのちつぎにでてくる新人のためになるのではないでしょうか。無茶な前例をつくりすぎないほうが好ましく思います。じぶんさえよければそれでいい、という考えなら、それはそれでよろしいと思いますけれど)


2254:【繰り返しておきますが】
下請法において、出版物(とくに小説やマンガ)など、「一つの出版社以外にも掲載可能な成果物」は一般的には、下請法適用外である。ただし、度重なる修正や、そもそもその出版社レーベル以外での掲載が見込めないような内容および、依頼であった場合は、下請法の適用内である可能性が残る(現にほかの出版社から出版できないようなら、事実上、汎用性はないと判断できる。仮に電子書籍として個人出版したとして、数年にわたって売上がゼロだった場合も、汎用性がなかったと判断できよう)。たとえばそこの出版社のレーベルでなければ出版できず、修正の指示を重ねられ、さらにそのレーベルが「このレーベルでなければ出版できないような作品を求めています」と公に謳っていた場合、これは下請法の適用内となる可能性がそう低くない確率であり得る――と、いくひしさんは考えております。また、独占禁止法の優越的地位の濫用や私的独占は適用内のはずです。不当に作家を排除していれば公正取引委員会の調査対象となり得ます。もちろんそんな出版社も、作家もいないでしょうが。言い忘れておりましたが、いつものようなこれはいくひしさんの単なる妄想ですので、真に受けないでください。


2255:【勘違いおばけ】
真に受けないでください、といくひしさんはたびたび記事の最後に補足している。これは本当に真に受けてほしくないからわざわざ注釈を差している。いくひしさんはしょっちゅう勘違いをする。つねにしていると言ってもいいかもしれない(したがって、何か行動に起こすにしても、基本、じぶんの考えが間違っていることを前提に事をすすめる。失敗してもいい、失敗する価値がある、と思ったことしか行動に起こさない、とも言える)。あまりに息をするように間違えるものだから、じぶんで、じぶんを信じられないのである。きょうだけでも三つ間違ったことを言った。自覚できているのだけで三つという意味だ。本当はもっと多いはずだ。たとえば、イギリスの三枚舌外交のことを二枚舌外交だと言ったり、長年顔馴染みでありながらいくひしさんだけ相手の名前を知らずに、目のまえにそのひとがいるのに、「××さんって誰ですか?」と訊ねてしまったり(このときは複数人でしゃべっていた)。と思っていたら、「目のまえのひとが××さんなのか」と合点したこと自体が間違えであり、目のまえのひとは「××さん」ではなく、頭のなかで、「なるほどあっちのひとが〇〇さんなのですね」と思い浮かべた「〇〇さん」が目のまえのひとの名前だった。まどろっこしいだろうか。言い換えれば、他人の名前を憶えておらず、人と会話をするたびに、「そのひとは誰ですか?」となってしまう。顔や仕草は憶えているのだ。身体のシルエットや動き方では憶えている。ただ、名前とそれら人物像が一致しない(物書きには似た性質を持った方が多い傾向にある気がします)。それに比べて、他人からは顔や名前をいっぽうてきに憶えられていることがすくなくなく(というよりも、多くのひとは一度会っただけでも相手の顔と名前を憶えられるのだ)、申しわけない思いをすることが比較的、頻繁にある。だからでもないが、誰かと会話をするときは、なるべく他人の話をしないように注意している。目のまえの人物とだけ会話をする分には、相手の名前を呼ぶ必要はないからだ(さいあく、しょうじきに相手に名前を訊ねればいい。これがこの場にいない人物となると、名前だけを知っても意味がない)。そういう意味では、名札の着用が義務付けられているような職場であるととても助かる。(他人の話をしそうなときは、前以って下調べをしておく。いくひしさんのストーカーじみた性質はこうして培われた、と言えそうだ)


2256:【悪、差別、無自覚】
人類の祖先は生き残る確率をあげるために敵と味方を直感で見分ける必要があった。そのため本能的に、じぶんの属する側か、そうでないか、を区別しようとする。これはもう、人間はそういう生き物だ、と前提とするよりない。差別はよくない、とは言うが、そもそも人間は差別をしやすいようにつくられている。人間が人間として生きている以上、差別はしてしまうのだ。だからといって差別を肯定しよう、と言いたいわけではない。無意識から差別をしてしまうことがあると知っておかなければ、意識的な差別を制御することすらできないだろう。なぜ差別が問題になるかと言えば、たいがいの差別は意識されずに実行されるからだ。まずは無意識からの差別を、意識的な差別にまでじぶんのなかで引き上げなければならない。自覚の有効性はここにこそある。自覚しないことには制御できないのである(自覚できたからといって制御できるとは限らないが)。身内をだいじにすることと、赤の他人を排他してしまうことはイコールではない。しかし現実には、ほとんどこれはイコールになってしまう。それは人間が合理的に物事を判断しているのではなく、本能的に、敵と味方を分けて物事を捉えるように、進化してきたためである(合理的に考えることができない、と言っているわけではない)。味方でないことは敵であることとイコールではない。しかし、人間は無意識のレベルでは、味方ではない者を敵と見做してしまうのである。まずは、そうした傾向がじぶんにないかをつど、じぶんの内側に目を向ける習慣をつくってみるとよいのではないか。誰かと接点を持ったとき、じぶんはそのひとをどのようなカテゴリーにくくっているだろう。或いは、くくらないでいるのだろう。そのことにより、その相手への態度や行動は、ほかの者たちへの態度や行動と比べ、どのように変化しているのか。比較をする時点ですでに無意識の差別が働いているなによりの傍証である。しかし、まずはそうして差別を自覚するよりないのではないか。すこしずつ、内なる悪との付き合い方を学んでいきたいものである。悪は、絶対悪ではない。悪もまた付き合い方しだいである。


2257:【引退】
もう若くはないので、そろそろ引退を意識しているのだが、引退とは何かがよくわからない。とくに目立った地位にいるわけでもないし、役職に就いているわけでもない。ひとから必要とされているわけではないし、退くべき土俵もない。とかく、引退とは、業界やコミュニティといった組織に穴を開ける作業なのだろう。開いた穴を埋めるべく、ほかの要素が目まぐるしく動く。どうにか以前のような循環を絶やさぬようにと、個々の連携、力関係が変化する。穏やかな水面に石を放り入れるような作業が引退なのかもしれない。影響力を帯びた者がたてることのできる最後の波紋だ。裏から言えば、他者やコミュニティに影響を与えない者には、そもそも引退などできないのだ。影響力のない者は引退をせずに済む。好きなだけ楽しみ、日々を過ごしていけばよい。同時に、現役でありつづけることに特別な価値はない。好きなことや、やりたいことがコロコロ変わったって構わない。ただ、年齢や見た目を気にして、わざわざじぶんから、できもしない「引退」をした気にならずともよいはずだ。いずれ人は死ぬ。やがて誰もが何もできなくなる。それまで、できるかぎり、自我を忘却できるくらいに好きなことをより好きに、したいことをのべつまくなしに生みだしつづけていきたいものである。


2258:【管理者はたいへんそう】
どんな組織であってもそれを構成するのは個々の人間だ。組織自体の寿命が長くとも、それをかたちづくる内部の人間はどんどん入れ替わる。人間の身体と同じだ。細胞は日々、目まぐるしく死滅と再生を繰りかえしている。同様に、長年同じ――組織、コミュニティ、業界、分野に身を置いていると、一年、三年、五年、十年単位で周期的に人が入れ替わることに気づく。同じ組織、コミュニティ、業界、分野に思えても、中身は別物となっていることはそう珍しくはない。長く身を置けば置くほど、周囲の人間と濃厚な関係を築く意味合いが薄れていく。いずれ彼ら彼女らもいなくなると、経験的に知ることとなるからだ。組織やコミュニティそのものを守りたいと欲する者は、その分野から立ち去った者とも、その後に到ってまで関係が途切れないようにとあれやこれやと世話を焼く。組織やコミュニティの発展ではなく、じぶんが重鎮となることに意味を見出している者はあべこべに、外に出ていった者にはなんらかのペナルティを与える。何をだいじにしているのかによって、同じ立場であっても、いろいろと選択の幅に偏りが表れる。どちらがその組織やコミュニティにとって優位に働くかは、さらに周囲の環境や時代によるだろう。いちがいにどちらが合理的かは判断つかない。肌感覚としては、どんな相手とも友好的な関係を結んでいたほうが、長期的には生存に有利なはずだ。これは組織も個人も変わらない。敵対する異物が多ければそれだけ破滅する確率があがるからだ。いっぽうで、進化はそうしたバグや淘汰によって促される背景もあり、これもまたいちがいに、一枚岩の組織であると好ましい、とは言えそうにない。敵のいない環境は理想的だが、そもそも環境には害が存在する。一時的に理想的な環境は築けるが、いつかは亀裂が入る。そこから侵入した害への対抗策を有していなければ、あっという間に滅んでしまう可能性が残る。死滅してしまわない程度の害は、敢えて許容する姿勢が、進化や生存には有利だと言えそうだ。ただ、どんな場合であっても、脅威となる害とそうでない害との区別はむつかしい。対処可能かを試してみないことには、許容できるか否かは判断つかない。言い換えれば、許容しない姿勢をいちど示さないことには、許容可能な害か否かは解からない矛盾があり、やはりむつかしい問題であると言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。害を許容しても平気でいられるくらいの仕組みを構築することが生存戦略としてもっとも合理的である、と。


2259:【虚構の効用】
我々はじぶんで思っているよりも、じぶんのことを理解してはいない。本人であればあるほど本心の言語化はむつかしいものだ。人間の脳は、行動のきっかけ(動機)を後付けでする。何かをしたいからした、と思いこんでいるだけでじっさいには、いくつかの欲や感情、過去の記憶との照合によって半ば偶発的に選択を重ねている。行動したあとで、本来の選択因子ではない動機を見繕い、意識そのものをねつ造するなんて顛末は珍しくはない。むしろ意識とは、ねつ造されたもの、或いはねつ造するためのもの、と言ってもさほど大きな齟齬は生じないだろう。我々はじぶんで思っているほどには、じぶんのことを理解してはいない。だからこそ、模倣する基盤、世界を解釈するための地図、よりらしくねつ造するための意識の金型を必要とする。すなわちそれが、物語である。


2260:【退化は進化】
退化も進化のうちの一つだ。疑問なのは、自然淘汰によってどうして退化が促されるのか、だ。たとえばコウモリやモグラは視覚機能が退化している。その代わりに、可視光線を利用せずに外界を認識する術を獲得している。たほうで、ヘビもまたピット器官によって、視覚機能を用いずに外界を認識している。暗がりで暮らすと目が退化することが知られているが、なぜ使わない機能であってもヘビの場合は目が残るのか。これはすなわち、目に頼らず外界を認識できたとしても光を感知することそのものがその個体にとっては重要な意味を持つ、と言えそうだ。また、DNAにはその種の身体構造を構築するためのゲノムが組みこまれている。退化するにはおおまかに三つの筋道があると想像できる。一つは、ゲノムが細胞を合成する際に行なわれる「必要なゲノムとそうでないゲノムのON/OFFの切り替え」が、恒常的にOFFになっている場合だ。爪の細胞は爪に、心臓の細胞は心臓になるが、どれも同じDNAのコピーから合成されている。しかしすっかり同じではない。機能してほしいデータとそうでないデータを、DNAは細胞ごとに応じて編集をしている。退化するというのは、すなわちこのON/OFFの編集がつねにOFFになっている状態を言うのかもしれない。この場合、コウモリやモグラであってもOFFになったデータをONにし直せば目が復活すると考えられる。つまり、退化した部分のデータはDNA上には残っている、ということだ。反面、DNA上からすっかりデータが失われる場合も考えられる。これが二つ目である。目の獲得には、ミトコンドリアなどに代表される細胞内共生など、ほかの種のDNAがほかの種のDNAと交わってできた、とする説がある(ミトコンドリアの場合は細胞内共生を経ても独自のDNAを保持したままだが)。DNAそのものが大きく変質し、いらないデータとそうでないデータが選択されていくこともないとは言い切れない。この場合、退化とはDNAから任意のデータが抜け落ちた状態を示すと考えられる。或いは、退化しているようでじつは発展系としてデータが引き継がれている場合も想像できる。これが三つ目である。退化も進化のうち、というよりも、どんな退化であれ、それは進化なのだ、とする考え方だ。目が失われたように見えるコウモリやモグラであっても、じつは我々人類には知覚不能なほかの何かを知覚するための器官として変質しているのかもしれない。脳は、損傷を受けても、ほかの部位がそこを補完するようなカタチで発達することがある。また、損傷を受けた部位を侵食し、ほかの部位の機能が向上することもある。似たような仕組みがDNAのゲノム情報にも起こり得るのかもしれない。退化をしているようで、それは新たな機能の発達や進歩に貢献しているのかもしれない。定かではない。三つの仮説すべてが関わっていてもふしぎではないし、どれも間違っている可能性だってある。いずれにせよ、自然淘汰の原理に忠実であるとすれば、退化するには、「それがある」よりも「ない」ほうが生存に有利だったと考えるよりない。モグラやコウモリは、目があるよりもないほうが生存に有利だったのだ。なぜだろう? 暗がりとはいえど、いくら使わないとはいえど、すこしの光でも捉えられたほうが生存に有利な気がする。しかし、暗がりのなかで生息するほかの生物の多くは光をおのずから発したりはしない。餌をとるには、目以外の感覚器官を発達させたほうが有利だった、むしろ光に気をとられるほうが生存に不利だった、と想像できる。使わないから退化するのではない。「ないこと」が有利だったからそのようなカタチに進化したのだ。退化もまた進化のうちの一つ、ではなく、明らかに退化もまた進化なのである。(本日のいくひしさんのこれは妄想ですので、真に受けないでください)


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参照:いくひ誌。【1461~1470】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886462102